転生エルフののんびり異世界生活   作:光合成で生きたい人

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第5話 従業員、ゲットだぜ

 春の嵐が過ぎ去ってから、数日の時間が流れた。

 その間、店の営業時間は朝と昼の短時間だけにし、二階の客間で眠るクロエの看病に専念した。

 

 彼女には、睡眠と食事以外のいかなる活動も許可しなかった。

 俺が仕込んだ、消化に優れ滋養に満ちた特製のスープや、精霊の火で焼き上げた柔らかいパン。そして世界樹の森で採れた薬草を調合した茶。それらを規則正しく摂取し、ただひたすらに泥のような眠りを貪る日々。

 極限まで抑圧され、飢餓状態にあった彼女の肉体は、与えられた栄養を乾いた砂が水を吸い込むように吸収していった。三日が経過する頃には、死人のように青白かった頬にうっすらと血色が戻り、落ち窪んでいた目元にも本来の瑞々しさが宿り始めていた。

 

 やっぱりこうして見ると、人間の肉体というものは、精神と密接に結びついているんだなぁと思い知らされる。

 温かい食事を摂り、清潔で安全な寝床で眠るという『平和な日常』こそが、彼女の深く傷ついた心を少しずつ修復するための最も効果的な治療となったのだ。

 

 そして四日目の朝。

 俺が一階の店舗で開店に向けた焙煎の作業をしていると、階段を降りてくる控えめな足音が聞こえた。

 

「……おはようございます」

 

 階段の下に立っていたのは、見違えるほどに生命力を取り戻したクロエだった。

 銀色の美しい髪は俺が用意した水霊の恩恵を受けた櫛で丁寧に梳かれ、背中まで滑らかな滝のように流れている。身に纏っているのは、あれから俺が王都の仕立て屋から買い求めてきた、深緑色を基調とした簡素なワンピースだ。

 貴族の令嬢が着るような豪奢な装飾や、身体を締め付ける窮屈なコルセットは一切ない。しかし、その素朴な衣服が、かえって彼女の持つ本来の端正な顔立ちと、雪のような肌の白さを際立たせていた。

 

「おはようございます、クロエさん。顔色もすっかり良くなりましたね」

「はい。……マスターが、毎日温かい食事を作ってくださったおかげです」

 

 彼女は背筋を伸ばし、深く、そして美しい所作で一礼をした。

 俺は焙煎の作業を止め、布巾で手を拭うと、カウンターの奥から畳まれた白い布を取り出した。

 

「それは何よりです。今日から、働いてみますか?」

「……はいっ!」

 

 クロエの銀色の瞳に、強い決意の光が宿る。

 俺は彼女の前に歩み寄り、手に持っていた白い布を広げてみせた。それは、厚手で丈夫な綿生地で作られた、純白のサロンエプロンだった。

 

「これが、あなたの新しい制服です」

 

 受け取ったエプロンを、クロエはひどく大切な宝物でも扱うかのように、両手でそっと胸に抱いた。

 彼女はワンピースの上から純白のエプロンを当て、腰の後ろで紐を蝶結びにする。長年の貴族教育で培われた身のこなしは、エプロンを身に着けるという日常的な動作すらも優雅なものにしていた。こういう小さな所から、彼女の生まれの高貴さ、ひいては身に付けた教養を感じるのだ。

 

「……いかがでしょうか。おかしなところは、ありませんか」

 

 エプロン姿になったクロエが、少しだけ不安そうに視線を彷徨わせる。

 深緑のワンピースに、清潔な純白のエプロン。それは俺がこの店を立ち上げた時に思い描いていた『あの森の木漏れ日』という店の名前にふさわしい、見事な調和を見せていた。

 

「ええ、とてもよく似合っています。この店の雰囲気にぴったりだ」

 

 俺の偽りない評価に、クロエの肩から僅かに緊張が抜け落ちた。

 

「では、開店の前に、あなたに任せる業務についての説明を行います」

 

 俺がそう告げると、クロエは再び背筋を張り詰めさせ、真剣な眼差しを俺に向けた。そんなに気張らなくても、割とのんびりとした店だから大丈夫なんだけどな。というか、どんなに忙しくても無茶苦茶に扱き使うのは絶対に嫌だ。

 

「まず大前提として、休憩は規定通りに取り、少しでも体調に異変を感じたら即座に報告すること。これは店主としての絶対の命令です」

「……え?」

 

 クロエは目を瞬かせた。完全に予想外、という反応である。寝る間も惜しんで働けと言われるとでも思っていたのだろうか。だとしたら割とショックである。

 俺ってそんな怖いかな……? 

 

「具体的な業務は、客席への案内、注文の受け付け、そして配膳とテーブルの清掃です。調理や飲み物はすべて私が担当しますので」

「承知いたしました。……あの、接客の際の、表情についてですが」

 

 クロエが、自身の最も深い傷跡に触れるように、恐る恐る口を開いた。

 

「私の無表情が長所になると言ってくださいました。ですが、本当に、無理にでも笑わなくてよろしいのでしょうか。お客様を、不愉快にさせてしまわないでしょうか」

「気にする必要はありません」

 

 俺は即座に、そして断固として否定した。

 

「クロエさん、少し歩いてみてください。そして、そのテーブルの上の空のカップを、トレイに乗せて私のところへ運んでみてください」

 

 言われた通り、クロエはカウンターに置かれていた木製のトレイを手に取り、客席へと歩き出した。

 足音は全くと言っていいほど鳴らない。背筋は真っ直ぐに伸び、重心の移動には一切の無駄がない。彼女はテーブルの上の陶器のカップを、微かな摩擦音すら立てずに滑らかにトレイへ移し、再び俺の元へと戻ってきた。

 一連の動作の美しさに、俺は思わず感嘆の息を漏らした。

 

「見事な所作です。カップの中身が満たされていたとしても、一滴すら零すことはないでしょう」

「これは……幼い頃から、歩き方や物の扱い方について、厳しく指導されてきた結果です。感情を出さないことと同じように、少しでも無駄な音を立てれば、罰を与えられていましたから」

 

 過去の痛みを思い出したのか、クロエの視線が伏せられる。だが、俺は彼女の過去の苦痛を、明確な価値として上書きするために言葉を続けた。

 

「その洗練された身のこなしこそが、最高の接客技術です」

 

 俺の言葉に、クロエが弾かれたように顔を上げた。

 

「当店の常連客は、普段の喧騒から逃れ、静かな安らぎの時間を求めて来る人がほとんどです。彼らにとって最もありがたいのは、気安く話しかけてくる愛想の良い給仕ではなく、『自分の存在を邪魔しない、空気のように静かで確実な給仕』なのです」

 

 もちろんどちらが良い悪いの話ではない。

 あの酒場の雰囲気も大好きだし、店主や給仕と交わす気安いやり取りは楽しい。

 しかし、やはり中世ベースのファンタジー世界だけあってそういう店が大半を占めており、静かに落ち着ける店は格式高く庶民ではおいそれと通う事はできないのだ。

 

 だから俺は、知る人ぞ知る店としてそういう場をリーズナブルに提供しようというコンセプトの喫茶店を営んでいるのだ。

 

「ええ。他者があなたの価値をどう決めつけたかは知りません。ですが、少なくともこの『カフェ・コモレビ』において、あなたのその性質はとてもよく合っている。適材適所というやつですね」

 

 クロエは、トレイを持つ指先に少しだけ力を込めた。

 長年、彼女を縛り付け、苦しめ、最終的には「気味が悪い」という言葉と共に彼女のすべてを奪い去った呪いの鎖。それが今、この小さな喫茶店の中で、他者に安らぎを提供する美しい技術へと反転したのだ。

 銀色の瞳の奥で、静かな、しかし確かな自己肯定の光が灯るのを、俺ははっきりと見届けた。

 

「私、やります。いえ、やらせてください」

 

 表情そのものは大きく変わらない。だが、その声の張りには、見せかけではない彼女自身の確かな誇りが宿っていた。

 

「頼りにしていますよ、クロエさん。分からないことがあれば、何度でも聞いてください」

 

 俺がそう告げた直後。

 

 入り口のドアに取り付けられたアンティーク調の真鍮のベルが、澄んだ金属音を店内に響かせた。

 表の通りに向けていた木札は、先ほど俺がすでに『営業中』へと裏返してある。開店と同時の来店。いつもの窓際の席を好むあの老紳士だった。

 

 俺とクロエは視線を交わした。

 俺はゆっくりと頷き、カウンターの奥の定位置へと足を踏み入れる。

 クロエは小さく一つだけ深呼吸をすると、両手で前掛けの皺を伸ばし、新しく生まれ変わった自分自身の足で、入り口の扉へと向かって真っ直ぐに歩き出した。

 

「いらっしゃいませ。カフェ・コモレビ……へぇぁっ!?」

 

 透き通るような、それでいて静寂を一切乱さない彼女の静謐な声。初めての接客は、しかし老紳士を見た瞬間に素っ頓狂な声をあげてしまい早速大コケである。

 なんというか、そんな声出せたんだね、君。

 

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