転生エルフののんびり異世界生活   作:光合成で生きたい人

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第6話 常連の老紳士 もしかして:王族

「ぜんっ、ぜんぜんぜぜぜぜぜ」

 

 わァ……クロエが完全に壊れちゃった……ァ……。

 

 小刻みに震える彼女の唇からは、言語と呼ぶにはあまりにも原型を留めていない奇妙な音が漏れ出ている。普段の凛とした、氷の彫刻のように冷たくも美しい彼女の面影はどこにもない。

 俺が助け舟を出すつもりで「お知り合いですか?」と極めて呑気に問いかけた直後のことだった。彼女は正気とは思えないような、それこそ神話の怪物にでも遭遇したかのような、畏れ多くて直視できないとでも言いたげな悲痛な視線を俺に向けた。

 頼むから、そんな「この人、今の状況で何言ってんだコイツ、命知らずにも程があるだろ」とでも言うような、哀れみと驚愕が入り交じった目で俺を見ないでほしい。俺だって内心、冷や汗を滝のように流しているのだから。

 

 そうして、彼女が震える声で目の前に立つ穏やかな老紳士の素性をどうにか説明しようと口を開きかけた瞬間、老紳士がやんわりと、しかし有無を言わせぬ絶対的な優雅さで手を上げてそれを制した。

 

「いやなに、昔に少し会ったことがあってね。ただの知人だよ」

「は、はぁ……」

 

 誰がどう聞いても不自然な、あまりにも強引すぎる誤魔化しだ。だが、あえてそれに触れられたくない、あるいは今の段階では絶対に触れてはならない事情があるのだろう。その声のトーンはどこまでも穏やかだが、確固たる拒絶の意志が込められていた。

 少なくとも、由緒正しき高位貴族である伯爵家に生まれ、幼い頃から厳しい教育を受けてきたクロエ。そんな彼女が平伏しかける相手なのだ。彼女と明確な面識があるということは、この一見すると質の良いだけの平服を着た飾り気のない老紳士も、それなりの……いや、下手な上位貴族すらもひれ伏すほどの、途方もない特権階級にあるということだ。

 

 俺の背筋を、ツーッと微かな冷や汗が伝い落ちる。

 

 気のいい、ふらりとやってくるただの常連客だと思い込み、俺は彼に対してこれまでに数々の「フレンドリーな」接客をしてきた。特に記憶に新しいのは、過去に新作の激辛料理──名付けて『紅蓮の地獄風スープカレー』──の試食という名の道連れにし、二人してカウンターの中で「水! 水ゥ!」と悶絶しながら転げまわった記憶だ。あれが鮮明に、かつ残酷な解像度で脳裏に蘇ってきたのだ。

 

 もし彼が王家やそれに連なる大貴族、あるいは国家の重鎮だった場合、俺は不敬罪のオンパレードで首が十回飛んでもおかしくないのではないか。

 いくら俺がエルダーエルフとして転生した身であり、物理的にも魔法的にも死ぬことはないだろうとはいえ、この穏やかで愛すべき喫茶店でのスローライフは確実に終わりを迎える。最悪、指名手配犯として深い森に引き籠る羽目になる。

 

 しかし、お客様が抱える事情や素性に無理に深入りするのは、この店を営む上での俺の確固たる主義に反する。喫茶店とは、日常のしがらみから切り離された、誰にでも平等な安らぎの空間であるべきなのだから。

 気にはなりつつも、ここは彼の言葉通り「ただの知人」ということで納得しておくのが賢明だろう。これ以上の詮索は、俺の平穏な生活にとっても、クロエの精神衛生上にとっても毒でしかない。

 

「君の所にいるのであれば安心だよ、マスター。彼女のことを、しっかり守ってあげてくれたまえよ」

「……もちろんです」

 

 いつも穏やかに好々爺のように微笑んでいる老紳士の顔から、ふっと表情が消えた。そして、彼が俺を真っ直ぐに見据えた瞬間。

 俺は、この異世界に転生して初めて、他者の『視線』によって物理的な重圧を受けるという特異な経験をした。空気が唐突に鉛のように重くなり、肌が粟立つ感覚。

 神話クラスの魔力を持つエルダーエルフとして覚醒して以降、森の奥深くで山のように巨大で狂暴な魔物と対峙した時も、治安の悪い路地裏でチンピラに鋭利な刃物を向けられた時でさえ、俺の感情の波が立つことなどそんなになかったというのに、だ。

 彼は俺に対して声を荒らげて怒鳴っているわけでも、露骨な殺気を放って凄んでいるわけでもない。ただ、長い年月をかけて培われた絶対的な『上に立つ者』としての覇気と、純粋な真剣さが、この小さな喫茶店の空間の密度を根本から変えていたのだ。息が、少しだけ詰まる。

 

「ラングレー……いや、クロエ君も元気そうで何よりだよ」

「ありがとうございます……。マスターに拾っていただかなければ、きっと私は、今頃……路傍の石として果てていたか、あるいは……」

「良い出会いだったね。マスターと共にいれば、君の身は安全だ。彼ほどの腕の立つ……いや、彼ほどの心優しい店主はそうはいないからね」

「はっ、はい!」

「それと、数日は不自由な思いをかけるかもしれないが、絶対に悪いようにはしないからね。だから安心しておくれ」

 

 その温かくも力強い言葉には、未来を確約するだけの絶対的な権力と、それを実行に移すだけの揺るぎない自信が内包されていた。深く、肩を震わせながら頭を下げるクロエに対し、老紳士は再びいつもの温和な微笑みを向ける。そして定位置となりつつある窓際の特等席へとゆっくり歩を進め、ギィと静かに椅子を引いて腰を下ろした。

 

 俺はカウンターの中で、悟られないように微かに、しかし深い安堵の息を吐き出す。

 どうやら、俺の与り知らぬところでクロエをがんじがらめに縛っている理不尽な問題が、この謎多き老紳士の手によって根本から解決されそうな気配だ。

 先日の襲撃の早さを考えれば、彼女に向けられている悪意の根は深く、再び強力な武力を行使してくる可能性は高かった。いざとなれば俺が夜の闇に紛れて隠密魔法を展開し、関係者の生首を物理的にコレクションして回る羽目になるかもしれないと、密かに物騒な覚悟を決めていたところだったので、これはまさに渡りに船というやつだ。血生臭い展開はコーヒーの香りには似合わない。

 あと再確認するまでもないが、この人絶対王族とかその辺の超大物だよ。どうすんのこれ。激辛カレー食わせて悶絶させた過去は一生消せないぞ。胃薬とか送ったほうがいいのかな。

 

「……クロエさん。大丈夫ですか」

 

 俺が小さく、彼女を現実に引き戻すように声をかけると、クロエは弾かれたようにバッと顔を上げ、何度も瞬きを繰り返した。

 

「ま、マスター……っ。あ、あの方は……! あの方だけは、こんな市井の店にいて良いようなお方では……!」

「しっ」

 

 俺は彼女の震える唇に人差し指を当て、その先の言葉を遮った。

 

「彼が『ただの知人』だと言うのなら、この店の中ではそういうことにしておきましょう。それが、彼に対する最も誠実な接客というものです」

 

 触らぬ神に祟りなし。ぼくなにもしらないもん。ただのマスターだもん。

 聞いたら逃げられなくなるでしょ! 何からかは知らんけど!! 

 

「……っ。はい、申し訳ありません。私としたことが、ひどく取り乱してしまいました」

 

 クロエは深く深呼吸を一つして肺に空気を満たし、自身の中に渦巻く動揺と恐怖に近い畏敬の念を、強引に押さえ込んだ。

 かつての彼女のように、心を閉ざして感情を完全に殺すのとは違う。それは、この店で働く『給仕』としての誇りと理性を保つための心構えというやつか。そりゃまぁ、いきなりこんな人の接客しなきゃならんとは思わんよね。ドンマイ。

 

 俺は静かに頷き返し、サイフォンに火を点ける。アルコールランプの青い炎が揺らめき、フラスコ内の湯がポコポコと音を立てて沸き上がり始める。いつもの『コモレビ・ブレンド』の抽出作業だ。自家焙煎の豆が湯と混ざり合い、店内に芳醇で香ばしい、深い安らぎを与える香りが広がり始めた。

 

「クロエさん。いつものコーヒーと、本日のパウンドケーキの用意ができます。あなたにとっての、ここでの最初の仕事です。改めて、粗相のないように、確実にお届けしてください」

「しょ、承知いたしました。命に代えましても」

「いや命はかけなくていいから。もっと肩の力を抜いて、リラックスして」

 

 俺が真っ白なソーサーに乗せたアンティークのカップと、粉砂糖をまぶした木の実のパウンドケーキが乗った小皿を、丁寧に磨き上げられた木製のトレイに配置する。クロエはそれを、両手で壊れ物を扱うかのように丁寧に持ち上げた。

 極度の緊張状態にあるはずだというのに、彼女の指先は一切震えていない。深緑のクラシカルなワンピースに、糊の効いた純白のエプロンを纏った彼女は、足音を完全に殺し、食器の触れ合う音すらも立てずに、滑るような優雅な足取りで老紳士の待つテーブルへと歩みを進めた。

 

「お待たせいたしました。『コモレビ・ブレンド』と、木の実のパウンドケーキでございます」

 

 透き通るような、鈴の音のように静謐な声。一切の無駄を削ぎ落とした、かつての貴族としての素養がいかんなく発揮された完璧な配膳の所作。

 テーブルの上に、音もなく静かにカップと皿が置かれるのを見て、窓の外の風景を眺めていた老紳士がゆっくりと振り返り、嬉しそうに目を細めた。

 

「ありがとう。実に美味しそうだ」

「ごゆっくり、おくつろぎくださいませ」

 

 クロエは深々と、美しい角度で一礼し、再び無音のままカウンターへと戻ってきた。

 俺の隣に並んで立ち、前で手を組んだ彼女の横顔には、己の持つ最大の恐怖に打ち勝ち大役を果たし終えた安堵と、自身の給仕としての技術が正当に評価されたことによる、微かな誇りの色が宿っているように見えた。

 

「立派な接客でしたよ、クロエさん。完璧でした」

「……ありがとうございます、マスター。おかげさまで、なんとか」

 

 窓際の席では、老紳士が立ち昇る湯気ごと香りを楽しみ、一口コーヒーを啜って、至福の表情を浮かべている。その顔は純粋に美味しい一杯のコーヒーを楽しむ、一人の老人の顔だった。

 ふと窓の外に目を向ければ、表の通りでは、朝の市場へ向かう町民たちが活気ある声を交わしながら行き交い、荷馬車がゴトゴトと石畳を鳴らして通り過ぎていく。平和で、平凡な王都の日常が今日も変わらず流れていた。

 

 世界樹の化身たる、規格外の力を持つエルダーエルフである俺。

 陰謀によって全てを失い、心に傷を負った人間の元貴族の少女。

 そして、身分を隠して一時の安らぎを求めにくる、推定超大物の権力者。

 

 どう考えてもアンバランスで、なかなか奇妙な顔ぶれだ。本来であれば一生涯交わるはずのなかった三つの全く異なる人生が、この小さな喫茶店『コモレビ』の中で、芳醇なコーヒーの香りとともに静かに、そして穏やかに交差している。

 

 俺はカウンターの奥で、こだわりのクリスタルグラスを清潔な布巾でキュッキュと磨きながら、店内に流れる静かな時間に身を委ねた。

 色々あるが、悪くない。いや、むしろ最高の職場だろう。

 俺は、この愛おしくも不思議な日常が、明日も明後日も、一日でも長く続くことを密かに、しかし強く願った。

 

 

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