生簀の祭宮 作:ももはね
二月二十九日。四年に一度の閏年にしか存在しない特別な一日。
だからと言って何があるという訳でもないのだが、特別は特別。何か良いことでもあったら嬉しいな……なんて、寝起きすぐまでは呑気に考えて居た何処にでも居そうなありふれた男は一人でぼやく。
「疲れた……なんで俺が引っ越しの手伝いなんてしなくちゃいけねぇんだよ……」
よく晴れた春、日が沈みかけて茜色に染まった空の下。何処か歴史の匂いを漂わせる閑静な住宅街を歩いているのはジャージを着た一人の男。取り立てて特徴はなく、やはりありふれた外見の男であった。
担いでいたのは大きな肩掛けの鞄。海外旅行にでも十分に通用しそうな容量を誇るそれは現在、役目を終えて空気を輸送している最中であった。
と、いうのも彼は今日、言葉の通りに姉の引っ越しの手伝いとして荷物運びをさせられていたのだ。加えて、本当なら心安らぐ休日であったはずなのだが、母から『暇だろうから行って来なさい』と言われてしまえば実家住まいの大学生としては断固として断るのは難しい。とはいえ、それだけが理由であれば彼としてもここまで嫌々となることはない。仲が悪いことはなく、むしろ良い方であるし。そんな姉の嫁入りなのだから喜んで手伝いをするだろう。
「仕事でいきなり明日必要だからって……事前に言ってくれればもっと旅行の準備とか……はぁ……」
そんな理由で、電車を使ってここまで運んで来たのである。重いし遠いし。彼がぼやくのも必然であった。せっかく京都に来たというのに準備をする時間がなく、ほぼ着の身着のままに財布やスマホやらと最低限にパソコンだけを持って来たのだから。この後は再び電車に戻って蜻蛉返りするか、安いホテルにでも行くしかない。一泊したとて、お金の持ち合わせが少ないので観光は難しく、やはりすぐに帰ることになるだろう。
役目を終え、身軽になった彼はせめて有名なお寺や神社にでも行こうかとふらふらしていると、ふと何処からか妙な気配を感じた。
「……?」
きょろきょろと見回すが、何もいない。人も、犬も、猫も、鳥も。虫すらも見えない。しかし、何かを感じる。
彼はそんな好奇に導かれ、ぼんやりとした足取りで住宅街を進む。
「っうお!」
ぼんやりと歩いて居たせいか、彼は自分の頭の位置ほどにあった木の枝にぶつかり目を眩ませた。慌てて目を開き、枝を右手で除けながら小さな路地へと足を進めた。
路地、薄暗く妙な臭いがする路地だ。室外機やゴミ、吸い殻もある。時間が時間ならば、不良の溜まり場にでもなっていそうな雰囲気であった。
そこを抜けると、僅かに道幅の広い住宅地へと入り込んだ。ここもまた非常に静かで、静寂が不安を湧き起こす。僅かな恐怖心が滲み出した頃、ふと脇道に古さびた神社があるのに気がついた。鳥居は色褪せ薄汚れていて、石畳は一部が割れていて、人の手が暫く入っていないのが一目でわかる。紛うことなき廃神社。
「京都にもこんなのあるんだな」
そんなことを呟きながら男はそこへと足を踏み入れた。鳥居の直前では一応と頭を下げ、非日常感に頬を緩めながら進む。
流れが止まり濁った水の手水舎。罅割れた灯籠。申し訳程度に植えれられた木も春だと言うのに葉の一つも生やしていない草臥れ具合。
酷い有様に、しかし彼は笑みを深める。京都という土地、しかも廃神社という探そうとしなければ滅多にお目にかかれない珍しい堕ちた神域。未知の冒険をしている興奮が、疲れていた彼の心に火を点けたのだ。
賽銭箱へと近づく。鞄から財布と、それから十円玉を……しかし、それがないので躊躇いながらも百円玉を取り出し、投下。
小汚い鈴緒に一度手を止めながらも、指先で摘むように揺らす。からんこりん、と壊れていそうで心配になる音が響く中、ニ礼二拝一礼をする。
「……まあ、お願いとかはねぇんだけどな。好奇心で入っただけだし」
不敬な発言をしつつも、ついでに一礼。
周囲に誰の目もないことを確認すると、軽く辺りを散策した。何処にも全く人の気配を感じず、人工物であるというのに未開の森林に迷い込んだ気分を味わい十分に楽しんだ彼はついに神社を出た。鳥居での礼も欠かさずに。
それから、これまで来た道を彼は辿るように歩みを進めた。
京都と言えど、何処もかしこも寺社仏閣に平屋敷のような歴史物しか建って居ない訳ではない。コンクリートのビルやアパート、マンションだって存在している。
存在していた。
だのに、気が付けば彼の周りには木造で大きくて何処か古い雰囲気の家々ばかり並んでいた。
踏みしめて居たアスファルトは石畳に。横に居た電信柱は木々に、遠くには竹林が。遠くから聞こえて居た車の音は消え去り、名も知らぬ鳥虫の小さな声だけが僅かに届く。鼻腔を木と草の匂いが埋め尽くし、肌を不気味な空気が撫でる。
「……い、いやいや、俺……来た道辿ってた……よな。何処だ、ここ……?」
見覚えのない風景に首を傾げつつ、これは困ったとスマホを取り出した。現代人の必需品であるそれには頼りになる地図アプリだって搭載されているのだ。充電だって十分にあるし、何の問題もないはずだ。
「圏外……だと……?!」
無論、電波があればの話ではあるが。それがなければ、メモや写真などが使えるちょっと便利な金属板にしかならない。
これは不味いぞと彼は慌て始める。
迷いました、なんて声を上げるのは恥ずかしい。それに、周囲には人影がないどころか、近隣の民家からも物音が一切せず、まるで世界には自分しか人間が居ないのではないかと錯覚するほど。ただ虫や鳥などの環境の音しか聞こえない。声を上げたとて、誰かが来てくれるとは思えなかった。
「──町内マップ!」
人通りの多い所から少ない所まで、公共施設の前から住宅街にまで、よくわからない所にも稀によく建てられている。そんな町内の有名から無名な施設までもが記されている案内板。この周辺にだって一つくらいは存在していてもおかしくない。
そう思い至った彼は石畳を早足で進み始めた
道中で人が居たり、バス停なんかがあればそれを頼るのも良い。とりあえず移動はしなければ話は進まないと急足で歩く。
夕焼けが頬を照らす。段々と暗くなる。
周囲の建物に灯りは点いておらず、道路にも街灯は見つからない。もしも帰路が間に合わず、この迷宮のような住宅街に取り残されてしまうと頼れる灯りはスマホだけになってしまう。
焦りが足を早め、視界を狭め、鼓動を強くする。
ぴー、ひょろろ。
そんな間抜けたような鳴き声が響く。何の生き物だろうか、なんて考える余裕もなかった彼がとある大きな木製の門の前を素通りした直後、その戸が静かに開かれた。
跳ねるように彼は振り返り、そちらへと体を寄せる。
「……誰も、いない?」
自動ドアだろうか。しかし、電動というにはあまりにも木製過ぎる。モーターの音もしなかった。
焦る気持ちを宥めるように、彼は深呼吸をして門を観察した。
古い木の大きな門だ。だが、手入れはされているのか目立った汚れはない。それよりも目を引くのが、門及びそれから伸びる背の高い木壁には等間隔にお札が貼られていたのだ。書いてある内容はわからないが、細々とした字でびっしりと埋まっており、とてもではないが良い印象は受けない不気味さを感じる。
彼は後ずさる。一歩、二歩、三歩、と。
そうして建物全体を見てみると、大きな神社らしく見えた。
高い門と壁の奥、瓦屋根と古い歴史が沈着したような茶色の社が見える。各所には目立たず、しかし地味にはならない程度には金の装飾が施され、何より大きな注連縄が目を引いた。石畳の横には荒れた断面の石の灯篭が並び、少しそれると清水を垂らす手水舎が見えた。
神社である。先ほど見た廃神社ではなく、生きた神社であった。ここならば神職の方が一人くらいは居るのではないか、そう思った彼は唾を一つ飲み込むと境内へと足を踏み入れた。
「……っ」
ぞわぞわ、と。全身を何かが包み込んだような気がして、目を瞬かせる。自然と右手が鞄の帯を握り締め、左手の指は忙しなく蠢く。
緊張か、恐怖か。好奇か、興奮か。警戒しているのか人を探しているのか、当人すらわからないけれど、周囲をきょろきょろとしながら、怯えた足取りで石畳を歩く。
カァ──! カァ──!
「っうお?! か、烏かよ……」
いつの間にやら、近くには烏が十羽近く集まっていた。不吉だ。冷や汗を感じながらも、彼は社へと更に近づく……ことはせず、手水屋へと近づいた。
「なんだよここ……めっちゃ怖いんだけど……誰も居ないし……」
弱音を吐きながら手水屋の杓を手に取りそれを掌に注ぎ、軽く濯いで吐き出す。緊張で乾き切っていた口内が少しばかり潤って、気持ちを一新できた彼の心にも僅かな余裕が生まれた。
そうして杓を戻そうとした時────。
「……金属?」
水の奥底で何かがきらりと光る。
思わず伸ばした手を留め、杓でなんとかそれを引き寄せ、引っ掛け、取り出そうとする。
「と、取れない……」
暫く苦闘して、漸く『こつん』と杓の中に上手いこと入った感触が伝わったので、彼はそれを引き上げた。早速と、彼はそれ自分の左掌へと落とすと杓を元に戻してから観察を始めた。
「石……緑色に光る……石?」
小さ過ぎず大き過ぎず、握るのに丁度良い大きさ。野球ボールより一回り余り小さいくらいか。不思議なことに、全体が仄かに緑色に発光している。蛍光色とかの目に痛い色ではなく、蛍の光ほどの優しく穏やかな光である。
軽く握り締めても変形はしないようで、少なくとも路傍の石程度には硬度があるらしい。
「変な化学物質じゃないよな……?」
風の噂では、偶々道で拾った物がとんでもない量の放射線を放つ劇物であったことから、致死量被曝をしてしまい間もなく死に至った青年が居たと聞く。
彼はその話を思い出し、珍妙な光を放つ石を半目で睨む。でも、手放す気は不思議と起きなかったので軽く握りながら石畳の参道へと舞い戻る。神社の関係者が居れば落とし物として届けるべきであろう、なんて考えもあった。
周囲の烏に怖気ながらもついに最奥、社の目前へと到着した彼はここに来て漸くそこには賽銭箱も鈴緒もないことに気がついた。これではジャラジャラ鳴らしたら誰か来てくれるかも、なんて期待もできない。
肩を落としながらも社を見ていると、そこにある木の戸には、先ほど見た門と同じお札が何枚も貼られていることに気づいた。
何が書いてあるのだろうか。
そんな好奇心から彼は左手をその札へと伸ばした。
刹那──ジュワァ、と札が焼け落ちる。
「っ……!」
声にならぬ驚き。思わず彼が硬直していると、まるで栓が抜けたかのように戸がゆっくりと開かれた。
「あ、え……は?」
中が見える。
部屋の中を盃に盛られた仄かな緑の光を放つ石が薄暗く照らしている。
壁には幾つか絵が掛けられていた。右から順に、『彼岸花』『赤黒い河川』『石の洞窟』『白糸の蜘蛛の巣』『腐りかけの女』『血を流す女』『鬼の集団』『燃える小屋』『神社』を描いているように彼には感じられた。具体的な名前はあるのだろうが、ぱっと見では添えられている様子もなく、知る術は見つからない。
そして何より目を引いたのは机の上に置かれた一つの鍵。透き通った緑色の石で作られた鍵。綺麗で、汚れも傷も一つない宝石のような鍵。装飾なんて一つもないのに一目で特別だと感じられるそれは得体の知れない力強さを感じさせた。
呼吸も忘れ、見惚れた彼は鍵へと手を伸ばしていた。
そしてついに、右手の指先がそれに触れた瞬間────
パリンッ
「────は?」
一面に広がるのは赤い花。断頭された首から吹き出した血潮のように咲くそれは、彼岸花。
彼岸花が数え切れないほど、阿呆らしくなるほどに生えている。咲いている。遠く遠く、見通せないほどに遠くまで咲き誇る血潮の花園。
空は曇り。日差し一つ見えない薄暗い景色。それでも真っ暗闇でないことは数少ない救いか。
どんよりとした雰囲気。そんな重い空気の中に妙な嫌悪を感じさせる臭いが混ざっている。腐臭、血。それらに似た嫌な感じだった。
突如として、世界が変わった。いや、違う。別の世界へと足を踏み入れてしまった──そう直感した。
彼は呼吸も忘れて、暫く周囲を見回した。
驚き、慌てもしない。理解不可能余りある意味不明な状況に心身が未だ受け入れ切れていないのだ。
背後、横、正面、全ては彼岸花で埋め尽くされている。一輪だけを見れば美しいけれど、いっそここまで来ると悍ましさすら感じる集合体。彼はそんな花園の、まるで中心に居るみたいに囲まれている。
ただし、彼のすぐ周りには花がない。それから正面へと続くようにも開けている。まるで畦道のようだと彼は感じた。丁寧にここを通れと言わんばかりに、人が通りやすい幅で空いている。それがむしろ不気味でもあるが。
「……なんだよ、ここ」
ようやく溢れ出した言葉。息が荒れ、眼球はぐるぐると動き回って少しでも状況を把握しようと走り出す。
暫くして、深呼吸をして、彼はやっと気持ちを落ち着けようと勤めた。
靴裏で地面を軽く擦ると、じゃりじゃりと音がする。
深呼吸すると体が一段と重くなる。でも、気分はそこまで悪くならない。
鞄の中身は財布やスマホくらいで、服装もジャージ。
運動するのにはかなり適した状態だ。
彼は左手に握り締めていた緑に光る石を見つめた。
「何か関係あるのか?」
それを鞄へと仕舞う。
何もわからない。彼には何もわからないのだ。ここが何処か。ここが何か。何故自分が此処にいるのか。それでも、動かなければ何も始まらない。鬼が出るか蛇が出るか。何が出てきても、余り良い予感はしないけれど。
彼は前へ、彼岸花の花園へと足を進めた。
────徘徊者:迷い込んだ男────
──誰そ彼の町──終了。
──彼岸の花園──開始────