生簀の祭宮 作:ももはね
彼岸花の花園、その畦道を歩み始めた男は一つ気づきを得た。
「虫とか……いないのか?」
花畑であれば一匹や二匹は居そうな羽虫が一匹もいないのである。彼岸花に毒がある、ということくらいは知っているけれど、それでも野外にて全く虫含め生命の気配がしないというのは初めての経験であった。
ざくざく、じゃりじゃり、と。
歩みを進めるが、人影は見当たらない。虫も、鳥も、見当たらない。
溜息を溢しながら歩いていると、少しばかりここの構造がわかってくる。
一言で言えば、迷路。
ゴールもスタートもよくわからないけれど、畦道は真っ直ぐだったり曲がっていたり、道と道が交わっていたり、大きな広間のような空間があったり。行き止まりもあった。所々に人よりも大きな岩が生えるように設置してあって、岩の所々には彼岸花が咲いているのが印象的だった。
そうして、見つけた。行き止まりにて彼は足を止め、
「箱……お札の付いた、箱……だよな?」
見覚えのある詳細不明のお札が貼られた大きな木の箱。あまり良い思い出はないけれど、他にできそうなこともないと思った彼は恐る恐るそれへと手を伸ばした。
「……頼むから、自爆とかはやめてくれよ」
目を細め、片手で顔を庇うようにして……開帳。
特に何も起きることはなく、箱は彼に中身を晒して見せた。
棒状の持ち手、それから生えるように伸びる白くて丸っぽい形状。
「……提灯?」
提灯であった。
彼は「提灯……なんで?」と首を傾げながらそれをじっくり観察していると、その中身がおかしなことになっていることに気がついた。
通常、提灯は中に火を灯し紙から外に明かりを漏らして周囲を照らす。上部には空気や煙をやりとりする穴が空いている。だが、この提灯は中に筒状の鏡のような物が入っているのだ。
提灯、つまりは照明、光。それと鏡。それらが頭の中で交錯し、ふと思いついた彼は鞄から緑色に光る石を取り出し、提灯の中へと入れた。すると、鏡が光を乱反射し始め周囲を仄かに明るく照らして見せた。
「おお……いや別に元からあんまり視界は悪くなかったけど」
元より、真っ暗闇ではなかったので有り難みはかなり薄い。しかし、見知らぬ土地で薄暗い中を彷徨うよりかは少しでも明るい方が気持ち的には楽であるし、言葉とは裏腹に手に握る提灯に彼は頼もしさを感じていた。
こうして明かりを手に入れた彼は、改めて彼岸花を観察することにしてみた。ジロジロと、上から下まで見つめ、何の変哲もない花であることしかわからない。上から見晴らせば赤い海のようで、下から見回すと地に根を張る集合体と、どちらも非常に気持ち悪い。
見ても特に新しい情報は得られない。と、なれば次になるのは自然な流れだったのだろう。
「……触ってみるか」
彼の左手が彼岸花へと伸びる。
そして、指先が花弁の一つに触れた──直後。
「──っがぁ?!」
激痛と吐き気が彼を襲った。
爪の隙間に針を捩じ込まれるような痛み。指先から蛆虫が喰い這入るような嫌悪感。頭から一切の血が引き抜かれたような脱力と嘔吐感。
あまりにも酷い状況に、彼は提灯を落として膝を付く。その際に、頭が彼岸花に触れそうになって慌てて仰け反ったことで彼は仰向けに転がってしまった。
「ごほっけほっ……おえぇ……んだ、これ……気持ちわりぃ……」
数秒ほど寝転がって、少しだけ気分がマシになった彼は触れた指を見た。そこは腫れや痣とも異なり、赤黒く染まっていた。
「なぁ?!」
咄嗟に地面に擦り付けるけれど染みついたように赤は消えない。ジャージの裾で何度も擦るがやはり消えない。恐る恐る、右手でそれを触れる。だが、何もない。左指では普通に感覚があるし、右手に感染ったりもしない。
「なんだこれなんだこれ……何なんだよ……?!」
不条理さに嘆く。彼には何もわからないのだから、こうしてただ運命に呪いを吐くことしかできない。
泣きそうになりながらも、彼は立ち上がった。『帰りたい』──ただその一心で。
彼岸花には触れない。絶対に触ってはいけない。彼はそう決意する。
改めて、彼は彼岸花の花園を眺める。
先ほどまではただただ不気味だと思っていたこれは、今はもう全てが毒に見えた。それも、少し触れただけでのたうち回り不気味な変色を引き起こす毒だ。
もしも、目や口に入ってしまったのならどうなることか。
もしも、転んで全身で飛び込んでしまったのなら……死んでしまうかもしれない。
恐怖がある。まだちょっと痛いし、気分が悪い。すごくとても泣きそうだ。おしっこを漏らしてしまいそうだ。でも、帰りたい。いや、だからこそ帰りたい。ロッカーでもあれば引きこもってしまうかもしれないほどに怖いけれど、幸か不幸か見当たらない。なので、歩いて行くしかない。あるかもわからぬゴール──帰り道へと。
とぼとぼと歩き続けること二分ほどで、彼は次の箱を見つけることができた。
腰が引けながらも開いて見ると、中にあったのは一枚のお札。緑色で何かしらの文字列が書かれていた。当然、彼には読み解けない。
「札か……でも……箱の奴とは……描かれてる内容が違う、よな」
読み解くことはできなくても間違い探しくらいならできるので、なんとなくだが書いてあることが違うことくらいは彼でもわかった。
「まあ、だから何だって話なんだけど……」
とりあえず札を鞄へと押し込んだ彼は再び歩き始める。時折、左指が疼くのでそれを摩りながら。疼く度に花に触れた時の苦しみが脳裏を過り吐きそうになるのを我慢しながら歩いて、今度はそう時間が掛かることなく次の箱を見つけることができた。
「なんとなく……箱は行き止まりと広間にある感じか」
呟きながら箱を開く。そこにあったのは見覚えのある緑色に光る石であった。
現状を打破できるような物には見えず、肩を落とす。けれど、提灯の燃料になるということを考えれば多少の慰めにはなるか、と彼が鞄にそれを仕舞い込もうとした時──ふと、思いついた。
地面に腰を降ろし、札を取り出し、石と横に並べた。
「文字の緑、石の緑……同じ色じゃないか?」
思い出すのはラピスラズリ。または、青金石か藍方石か。鉱石の中には打ち砕き、擦り潰し、粉末状にすることで塗料として扱える物が存在している。
この二つも何か関係があるのではないか、と。彼は思ったのだ。
自発的に発光を続けている石というだけでもかなり怪しいし、そもそも石の緑色はこの未知の世界へと飛ばされた原因であろうあの『緑の鍵』とも酷似した色をしているのだとも感じる。
並べ見比べ、彼が札の上に石を置いた直後のこと。
彼は左掌の上に札を持ち、右手で石を摘んでいた。その石を、札の上に置いたのである。すると、石と札が淡い光となって霧散して行くと同時に、その光の粒の一部が彼の左指先へと集って行く。
その幻想的な光景に彼が見惚れていると、信じられないことが起きた。彼の赤黒く染まった指先が、元の健康的な色合いを取り戻していたのである。それと同時に、先ほどから感じていた頭痛などの不調も消え去ったのがわかった。
「っ治った?! なん……いや、石と札のお陰か。いや、でも……助かったぁ……」
ここに来てから怖いことばかりで、提灯くらいしか救いのなかった現状。そこに、救済が一つでもあったことは彼の心を大きく前へ向かせた。
マッチポンプのような気がしないでもないが、薄らと感じつつもそれからは目を逸らして。
とにかく、悪いことがあっても何とかなる可能性があるということが判明しただけでも精神的には大きな助けなのだ。
「よし」
鞄を担ぎ、提灯を片手に、彼は再び進み始め──
「……あ?」
女であろうか。長い髪に、巫女に似た紅白色の服。
黒く長い髪。埃や花弁など汚れが大量にまとわりつき、非常に汚らしい。
全身を包む赤い和装。所々に解れ、裂け、汚れが付着している。非常に見窄らしい。
そして、何故か頭部には鬼の面を付けていた。般若の面である。それもまた、端の一部が割れて欠けていた。
人が居る。そう思った彼は咄嗟に声を出そうとして、しかし本能がそれを上回る咄嗟で静止させた。
ふらふらと揺れる頭。垂れた髪も尾花のようにふらふらしている。
足取りもまた不気味だ。酔っ払いのように千鳥足で、前を見ているのかいないのか。前へ進んだかと思えば立ち止まり、振り返っては横へ歩き。目的地があるとは思えない進み方。
立ち振る舞いが格好と相まって、まるで幽霊のようだった。
男はもう身を以てここの異常を味わってる。
原理不明の瞬間移動による誘拐に、謎の毒を持つ彼岸花。
尋常ならざる魔境が故に、その住民もまた疑って然るべきであろう。少なくとも、あんなボロボロの服に鬼面を着けているような人が普通の感性をしているとも考え難い。最低でもジャージ程度にはしっかりした格好でなくては駄目だ。
身を隠そうと彼が身を屈めた──遅かった。
「っ……!」
目が合った。そう直感した直後、鬼面の女が動きを止めて男を見つめ、そして。
「アアアアアアッッッ──!!!」
「やばっ」
女は大絶叫を上げる。
どう考えても好意的ではない──男は駆け出した。
咄嗟に走り出した男であったがそれは正解だろう。その後方からは叫びを止めながらもドサドサと大きな足音を立てながら近づく鬼面の姿があるのだから。
男はちらちらと振り返るがその距離は中々変わらない。僅かに男の方が足は早いようだが問題は体力か。男はこれまで散々歩き回った上に先ほどの激痛で心身共に大きく消耗している。それに対し、化け物染みた鬼面の女に体力というのはあるのか疑問であろう。と、なれば自ずと男は一分もあれば追いつかれることになるだろう。
「そのっ前にっ……どっか……隠れるとこを……!」
男は少し迷ったのち「ええい!」と提灯を後方へ投げ捨てるが鬼面の女は意に介することもなく胸で弾き飛ばしながら真っ直ぐ男を追いかけてくる。それには思わず男も面食らう。
「避けろよ! 人として!」
走る。走る。走る。息が途絶え途絶えとなり男は肺が引き攣るような感覚を味わいながらも必死に走り思考もまた走らせる。
身を隠し鬼面から逃げ切るのが勝利条件。
彼岸花に飛び込むのは?
論外。鬼面関係なく激痛によって精神が死ぬだろう。もしかすれば肉体も。
いっそのこと殴りかかるのは?
万全な状態なら可能性が一厘ほどはあるかもしれないが現状の消耗した状態であの化け物に飛び込む勇気も自信もない。もしかすればあの鬼面は人ではないのかもしれない。
それならば……。武器も防具も使えそうな道具なんて一つもない。
周囲を見回すが壁などの遮蔽物がないのだから視線を切るというのも難しいだろう。それを強いて挙げるとすれば、所々に設置されている岩くらいな物だ。
「くそ!」
吐き捨てながら目に付いた岩へと彼は近づく。現状、これくらいしか見つからないのだから何かあってくれと願望混じりの逃避行である。箱の一つでもあればよかったのだが、見つからないし第一漁る余裕なんてないかもしれない。
「登るか? いや
とりあえず、と。男は岩を回り込んで鬼面の女からの視線を遮断する。だが、これではまだ相手からあっという間に見つかってしまう。そんな女の足音は段々と近づいて来ており、もう十秒もあれば手が触れ合ってしまうだろう。
「っこれは」
血走った男の目が岩の違和感を見逃さなかった。
岩の一部に草むらがあり、その隙間から暗い闇が見えたのだ。それは岩の中に空洞があることを示していた。その広さはわからない。虫一匹程度かもしれないし、犬猫の巣くらいかもしれない。だが、もしも人間が隠れられる空間であれば現状を凌げる手段となろう。藁にも縋る勢いで男は草へと飛び込む。
「っがぁ……くっそぉ……!」」
考えてみれば彼岸花という植物に危険があるこの世界にて、花のない草むらと言えど何もないというのは余りにも安易が過ぎる愚かであった。それに触れると同時に全身に激痛が奔り、視界が揺らぎ、血が抜け落ちたような脱力感が襲う。
だが、耐えられる。彼岸花に触れた時と比べると、その半分以下程度の苦痛であった。花という謂わば本体的な存在を欠いた物であったからだろう。
そうして何とか入り込んだ草、そして岩の中。
そこは不格好ながらも人工的にくり抜かれたような人が入れる空間があったのだ。
何者かの作為を感じる設計に、一瞬は後悔した。だが、外に出ても鬼面という危険によって死ぬかもしれないのだから、もはや罠だとしても諦める他ない。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
男は空気が重く感じていた。草に触れたことによるものでも、走ったことによる消耗ではない。それらもあるけれど、そうではない。この岩の中の空気が凄く重いのだ。それを鼻腔で、肺で、肌で彼は感じ取っていた。
「花は……ヤバい。草も、よくねぇ……なら、表面に彼岸花が生えてて、草に囲まれたこの岩も……そりゃあ、不味いよな……」
幸いなのは、岩の中には花も草もないことか。それでも空気がまるで汚染されたような状態なことに変わりはなく、長居すればそのまま永遠の住処となりかねなかった。無論、住むのは骸としてだ。
「鬼面は……足音が……小さくなった?」
先ほどまで聞こえていた慌てた足音はなりを潜め、すっかり落ち着いた千鳥足に戻っている。それに気づいた彼は大きく息を漏らし、岩肌に背を預けた。
「逃げ切った……ってことだよな」
安心はできないが、一安心ではある。このまま岩という安全地帯に居続けたい気持ちはあるが、そうすれば遠からず死ぬだろう。ならば、鬼面という脅威を知れたこと、逃げ切れたこと、逃げ場所を見つけることができたこと……それらを成果として呑み込み、脱出の手がかりを獲る為に再び出て歩くしかない。
どれだけこのまま居ただろうか。おそらく、五分程か。
気分は非常に悪いし、休んだはずなのにまるで体力が回復した気がしない。それでも、心は落ち着いた。足音も聞こえない。
「…………行く、しかないよな」
男は岩を出た。草むらに触れた時、再び襲ってくる苦痛に顔を顰め、節々を震わせながらも這い出る。そうして歩き出したのだ。
その足取りは重く、目も虚ろだ。
本人は気づいて居ないが、その額や頬、手足の一部は赤黒く染まっている。目は血走っているのに顔は青白く、染まった異常と相まって彼の姿もまた化け物のようになっていた。何も知らぬ者が見れば、彼もまた鬼面と同じく不気味な存在と同類であろう。
歩き、歩いて。箱を見つける。それを開くともう見慣れた緑色の石が出てくる。しかも、四つもだ。
「……またお前かよ」
悪態を吐きながらも、その頬は僅かに喜びで緩んでいた。先ほどとは異なり今は緑色のお札を持っていない。だが、あれさえあれば彼岸花の毒を解消できることはわかっているのだ。必要な二つのパーツの片割れを手に入れた。しかも、複数個。その嬉しさは筆舌に尽くし難い。震える手でそれを摘み取った彼は鞄へと大切に仕舞う。
再び、歩き始める。
もしも再び怪物に見つかれば、もう逃げ切ることはできない。見つからなくても、このままでは三十分と保たないだろう。
死までの時間が刻一刻と迫っている。
彼には、自分の足音すら死神の足音のように聞こえていた。聞こえなくなった時、それは即ち追いつかれた時だ。一度でも己の足を止めればもう再び歩み出す元気はない。このまま進み続けたとて直に追いつかれる。
「……なんで、こんなことに」
こんなことなら、姉のことなんて嫌悪していればよかった。母の言うことなんて無視していれば良かった。ただただ家に引き篭ってさえ居れば防げた事態だったはずだ。
「…………いや」
好奇心だ。自分をこんな地獄へ突き進めたのは、『なんか気になるな!』なんて馬鹿げた好奇である。愚かな好奇に身を躍らせ、無様にも地獄へ滑り落ちて行ったのだから道化としては素晴らしい無様さだ。運命の神が存在するのならば、彼を見て嘲笑っていることだろう。
好奇に惑わされた自分が悪い。それはわかっている。それでも、彼は姉や母に呪詛を祈らずには居られなかった。そうでもして気を逸らさねば気が狂ってしまいそうだった。
ぶつぶつと呪いを呟きながら歩いて、そうしてまた一つの箱を見つけた。
どうか、そこには現状を打開できる救世主が眠っていますように──祈りと共に開かれた中身を見て、彼は思わず「え?」と声を溢した。
大きさは彼の拳より僅かに大きい。丸っこくて、でも先端は少しだけツンとして、可愛らしい姿だ。何よりの特徴として、箱を開いた瞬間から甘い匂いを漂わせていた。その桃色の物体は──いや、桃その物であった。
桃だ。桃である。この地獄のような世界の箱に、ころん、と桃が封入されていたのだ。
「……いつからだよ。しかも常温だよな。腐ってない……のか?」
いつ、誰が、何の為に。
彼は思わず苦痛をも忘れて桃に夢中になってしまう。あまりにも世界観に見合わない物が、シュールにも箱の中で転がっていたのだから首を傾げに傾げる。
この世界に来てからというもの、植物に対して悪い経験ばかりだったので躊躇ったものの彼は桃を手に取った。
「何にも無い……な」
触るのは問題ない。
鼻を近づけ、嗅ぐ。問題はない。
少なくとも、彼岸花や草むらほどの毒はないことがわかった。
それじゃあ食べるか、と思いつつも。
「い、いやいや……流石に、食べるのは……」
危険が過ぎる。高くて高くて空気が薄く感じそうなほど危険だ。植物の危険性はついさっき頭を過ったばかりだし、第一に好奇心には現在進行形で苦しめられている最中なのだから、よくわからない物を食べるのは良くないことである。拾い物を口にしてはいけない、なんて幼児だってキツく教えられる常識である。
「はぁ……はぁ……」
危険なのは承知だ。でも、彼は無性に喉が渇いていた。お腹も空いていた。きっと、ずっとそうだったのがこうやって食物を目の前にして自覚したのだ。してしまったのだ。脳が、本能が、この瑞々しい果実を食べろと叫んでいた。
それもそうだろう。
彼が荷物の運搬を終え、黄昏の町を彷徨って、彼岸花の花園で徘徊を始めてから、どれほどの時間が経過した? どれだけ歩いた? どれだけの心労を重ねた?
歩いたし、走ったし、悶えた。空腹以上に、喉の乾きが酷かった。気づけば、口内には涎の一滴も感じられない。だからこそ、手の上にある瑞々しい果実が食べたくて、果汁を飲みたくって仕方がないのだ。
「……いや、いやいや、でも……怪し過ぎだろ」
震える手で、血走った目で睨むように見つめ続けながら、何とか彼は鞄へと桃を仕舞うことに成功した。理性が本能を上回ったのだ。
「いや……やっぱり……やめろ! 食うな!」
食べるのは死に掛けて動けなくなった時だけだ──彼は決めた。
ふらふらと、ふらふらと、歩いて歩いて、箱。見つけるのが上手くなった気がする、と仄かな喜びを感じつつ、それを開く。
「
彼は反射的に手を伸ばし、しかし直前で止まる。
札であったが、文字が緑色ではないのだ。それは
この良く分からないお札に、未だ四つしか持ってない『緑の石』を使うべきだろうか。そもそも、使ってもいいのだろうか。使うことが不利益となる道具もあるのではないか。
迷い、悩み、頭を振った。
「だ、駄目だ……」
試してみなければわからないけれど、失敗した時に何が起きるのかが余りにも不明。こんなヘトヘトな状態で、更に状況が悪化すればどうしようもなくなってしまう。
だからと言って、このままで居てもあと数分で限界が来るのもわかっている。だからこそ、余計に悩ましいのだが。それでも、と。
彼は、札を使うのは死の間際に桃を食べた後だ、と決めて、敵地から忍び帰る敗残兵の如き足取りで歩き始める。
それから、僅か三十秒ほどでの出来事である。
彼は人影を見つけた。
「……!」
咄嗟に近くにあった岩陰に身を潜める。
彼が暫く歩いて気がついたことであるが。こう言った大きな岩には必ずと言って良いほど草むらがあり、草むらの先には暗い闇が見えた。おそらく、身を隠せる空間も同時に存在しているのだ。この地獄で唯一身を隠せる安全地帯。身を蝕む毒を取り込むことと引き換えではあるが、確実であろう死を免れる手段としては選ばない選択肢は無かった。
こうして身を潜めながら、草むらには触れないよう慎重に岩肌を覗き込み、やはり闇があることを確認する。いざという時には飛び込んで隠れるのだ。
「くそ……」
もっとも、今の状態でそんなことをしてしまえば、死から逃げる為に隠れた場所で毒によって死ぬことになりかねないので、意味があるのかと言えば怪しいけれど。怪物に惨殺されるよりかは、毒で静かに死ぬ方がマシだと思ったのだ。
五秒、十秒、二十秒。それくらいは経過した。だが、人影は全く動かない。
「……?」
慎重に身を乗り出し、人影を覗き込む。
「え……?」
そこに居たのは──否、
少し迷いながらも、ここにずっと居ても仕方がない、と考え直して彼は慎重に近づいた。それからよぉく観察して「やっぱり案山子だよな」と独り言ちる。
まず、下半身は木の棒だ。上半身はボロボロの衣服を纏っており、手の先には手袋が被せられている。頭にはこれまたボロボロの麦藁帽子。よく人々が想像するような典型的な
しかし、一点。一つだけ、不思議なところというか、おかしなところというか、滑稽と言うべきかもしれないことがある。
顔だ。布に包まれたその顔には、文字が書いてあるのだ。それも、男にも読める普通の文字で。崩れては居るので読み辛いし、おそらくは古語に近い形体であろうか。だがそれよりも、その内容に、彼は何とも言えない顔になる。
「……や、山田?」
山田だ。案山子は顔面に『山田』と書かれているのだ。案山子、改め『山田』と述するべきなのだろうか。
男は山田に近づいて、全体をグルグルと眺め、ただの案山子であることしかわからなかった。怖いので触れてはいないが。
それから机を見てみると、そこにも文字がある。親切にも男にも読める字であった。
『知恵者』
山田は知恵者である、らしい。
「…………?」
よくわからないことに、よくわからないな……と。そんな顔をしながら、男は机に引き出しがないこと、その裏や横を確認する。何もない。
結局、何も無いのだから何も分からず、何だったのだろうか……と。彼は机に両手を付いて項垂れた。別に期待していた訳では無いが、限界目前にして辿り着いたのは山田なる案山子だったのだから。
最期に目にするのがこれか、と絶望していると、ふと違和感を覚えた。掌がムズムズするのだ。もっと具体的には、手で触れた机が蠢いているような──
「っうお……気持ち悪……」
『知恵者』そう書かれた居たはずの文字が動き出し、別の文を構成し始めたのだ。動く気力もなかったのでそれを見ていると、ついにそれは完成した。
〈霊石を差し出せ。さすれば、知識を与えん〉
「……れい、せき? それより、知識って……」
『霊石』という単語に身に覚えはないが、それっぽい『石』は所持している。鞄を開き、『緑色に光る石』を取り出し、彼はそれを机の上に置いた。
すると──。
〈 『霊石』
霊力を宿した石。主に、翡翠の物が多い。
『異界に生まれた純粋な霊力を宿した石』 〉
まるで説明でもするかのような文章が浮かび上がる。と、同時に、机の上に置かれた『緑色に光る石』もとい『霊石』は霧散してしまう。
「……色々と、教えてくれんのか。石が必要だけど」
残る石の数は三個。手持ちの他の道具は、桃と青札の二つ。僅かな逡巡、しかし決めた。
「……桃から行くか」
桃と、そして『霊石』を設置。数秒ほどで、『霊石』の消滅と共に説明文は姿を変えた。桃は消えずに残ったようだ。
< 『聖なる桃』
綺麗で神聖な桃。食べれば傷を癒やし、呪いを払う。穢れある者へぶつければ退かせる。
『聖なる力の宿った桃。癒し、魔を退ける』 >
「なっ……」
目を見開く。何処となく説明文が俗っぽい気もするが、そんなことはすぐに彼の頭からは消え去った。
『傷を癒やし、呪いを払う』
彼岸花や草むらに触れた時の苦痛、あれがそうなのか、と。呪い、確かにそう言われればそれらしい症状だと彼は独り納得する。
この山田をどれだけ信じるか、それも問題ではある。だが、もう余裕がないのだ。彼は桃を両手で大切に包み込むと、皮を剥くこともなく頬張った。
瞬間──口内に広がる甘い果肉と果汁。
美味しくって美味しくって、こんなに素晴らしい物は初めての経験。口の中で天地開闢が起きているほどの衝撃だった。
涙が溢れ、目が回る。
くらくらとして、思わず机に体を預けてしまって……一秒か二秒か。
気づけば、体の不調は全てが消え去っていた。それどころか、この世界に迷い込む以前よりも調子が良いような気さえした。
体が軽い。思考がよく回る。今まで鎖に縛られていたような心地だった心肺が解き放たれ、羽ばたいて行くような感覚。
謂わば、超最高ハッピーな健康体。
「こ、ここまで元気になると、流石に怖くなってくるな……麻薬とか入ってないよね……?」
軽く跳躍し、柔軟体操して、ぶるんぶるんと頭を振ってみた。だが、なーんにも問題はなく、余裕のよっちゃんであった。ビバ健康!
だからこそ、逆に怖い気持ちも彼は感じているが。
兎にも角にも、元気になったのであれば、それはつまり再び歩み続けることができるということである。この地獄の世界から逃げ出し、平穏の現世へ目指す為に。
彼は鞄から『霊石』と『青い札』を取り出して、少しだけ悩んでから机に置いた。
「せっかくだし、聞いておくか……お願いします」
< 『治癒札』
生者に貼ると傷を治せる。青色。優しい色。発動には霊力を必要とする。
『青い霊力が宿った札。遥か昔、人々はこの癒やしに救いを見た』 >
「っ回復アイテム! でも、霊石消費すんのかよ……」
道具の詳細を知る為に消費を続け、残りは一個のみ。無駄遣いはできない。
もっと石を始め他の道具も手にいれる為に歩き出そうとして、やっぱり足を止めた。
「いや、待て……」
もしかして──
「道具だけじゃない。地図とか、化け物の情報とか……教えてくれんの……か?」
机の説明文が変わる。否、元に戻ったというべきか。
『知恵者』
男はジッと見つめる。しかし、賢者は何も語らない。
霊石を一つ、最後のそれを、机に置いた。
「………………ふぅ」
何を聞くか。そもそも聞くべきか。答えてくれるのか。
生き残る手段? 安全な場所? 他の道具の所在?
どれもこれも重要なことだし、生存率に直結するだろう質問。だが、男にとって最も大切なのは──
「……どうすればここから出られる。俺は、どうやったら家に帰れるのか……教えてくれ!」
文字が暴れる。
案山子、山田、または知恵者。
異界に根を張る大いなる知識を宿す不具者は考え始めた。知識はある。知恵もある。故に、悩み、逡巡し──愚かな徘徊者にもわかるような言葉で紡ぎ始めた。
<この異界の何処かにある『門の神の鍵』の贋作を見つけ、祭壇へ捧げよ。さすれば、次の異界へと導かれよう。次の異界でもまた鍵を探せ。その次の異界でもまた。それを繰り返せば、いづれ『門の神』が姿を顕すだろう。その者に懇願すれば、可能性は得られるだろう>
「だろうだろうって……もっと確実な手段はねぇのかよ?!」
<今、この異界にはお前を除いて四人の少女が存在している。その者らが『生簀』となった後、その者に懇願すれば、また望みが果たされるやもしれぬ>
「っまた曖昧じゃん! つーか生簀って何だよ。魚とか居んの? 遠くでは水っぽい音してっけど……花しかねぇだろこの辺」
男は負の感情を撒き散らすように頭を掻き回す。暫く唸っていたが、改めて浮かべた
「何もかも全っ然わかんねぇけど……」
異界、鍵、祭壇。
「帰る方法ってのは、わかった。あとは、そうするだけだ」
山田から背を向け、未だ行ったことのない方向へと歩き始めようと──
「アアアアアアッッッ──!!!」
「うっそ……!」
駆け出して行った。
当然、その背後からは鬼面の女も駆け出していた。
彼は運良く近くにあった岩草へと飛び込むと、中で独り涙目になるのだった。
ーーーーーーーーーーー
徘徊者:迷い込んだ男
所持道具:青い札(回復)