ブラボ×ヒロアカ 作:ブラボクロス増えろ
夜はいつも、つまらない羽虫どもが騒ぎ立てる不快な雑音に満ちている。
現代のヒーロー社会。
誰もが個性と呼ばれる安っぽい異能を誇り、それによって得た序列に一喜一憂している。
だが、そのどれもが彼女――フローレンスにとっては、吐き気を催すほどに矮小で、滑稽な営みでしかなかった。
深夜、ネオンの光すら届かない寂れた路地裏を、一匹の獣が這いずり回っていた。
男の名は誰も知らない。だが、彼は自らを特別な存在であると信じ込んでいた。
己の指先から分泌される、触れた肉を瞬時に壊死させる黒い猛毒。その個性を使い、彼はすでに数人の罪なき市民をいたぶり、殺害していた。
返り血を全身に浴び、興奮状態で呼吸を荒げる男。
彼は陶酔していた。己の持つ強大な異能に、そして他者の命を奪う支配感に。
「ハッ、ハハッ……! 俺は選ばれたんだ! あんなヒーローどもが何だ! 法律が何だ! 俺の力の前には、誰もがひれ伏すしかないんだよォ!」
狂ったような笑い声を路地の壁に反響させながら、男は闇の奥へと逃走を続けていた。
だが、その足が不自然に止まる。
冷気が、背筋を凍らせるような悍ましい冷気が、路地裏の空気を支配したからだ。
暗闇の向こうから、一人の少女が静かに歩いてくる。
その姿を目にした者は、例外なく息を呑むだろう。
腰まで届く、月光を糸にして織り上げたかのような美しい白金髪。
夜道でも仄かに輝くその髪は、一歩進むたびにシルクのような音を立てて揺れる。
透き通るような白い肌には染み一つなく、冷たい陶器で作られた人形を思わせた。
そして何より特徴的なのは、その双眸。
冷徹極まりない、しかし吸い込まれるような深みを持った銀色の瞳。
この世の最高傑作。美の極地。
彼女こそがフローレンスであり、表の顔をヒーロービルボードTOP20の月狩とする、公安の秘匿兵器であった。
彼女は自分自身が何よりも優れていることを知っている。
この矮小な世界に生きる有象無象とは、生物としての格が違うのだと、言葉を交わすまでもなく理解していた。
だからこそ、彼女の瞳には目の前の殺人鬼など映っていない。
ただの、処理すべき害獣がそこに転がっている。それだけの認識だった。
「……あァ? なんだてめえは。ガキが、こんなところで何してやがる。ヒーローの真似事か?」
男は下卑た笑みを浮かべ、指先から黒い毒液を滴らせる。
だが、フローレンスは何も答えない。
その可憐な唇は固く結ばれたままであり、ただ、彼女の背後に青白い月光の歪みのような、未知の神秘が漂い始める。
それは個性によるエネルギーの放出ではない。
この世界の誰もが感知し得ない、次元の異なるプレッシャー。
世界そのものが彼女の存在を恐れ、歪んでいるかのような、圧倒的な威圧感だった。
「黙ってんじゃねえよッ!」
恐怖をかき消すように、男が叫んだ。
男の身体から、爆発的な勢いで黒い毒の霧が噴出される。
路地のコンクリートが、その毒に触れただけでドロドロと溶け、異臭を放つ。
一瞬で周囲を埋め尽くす死の領域。逃げ場などどこにもない。
だが、フローレンスは防御の姿勢すら取らなかった。
ただ一歩。
予兆も、予備動作すらもない。
彼女の身体が、月明かりの中にほどけたかのように滑らかに、そして異様な速さで移動する。
「なっ――!?」
男が目を見開いた時には、既に眼前に迫っていたはずの白銀の少女は消えていた。
大火力の毒霧が虚しく空を切り、路地の奥を溶かすだけ。
いつの間にか、フローレンスは男の背後に立っていた。
まるで最初からそこにいたかのように、風さえ起こさず。
彼女の手には、いつの間にか一本の細い刃が握られている。
「……消え、た……? テレポートの個性か!?」
「個性のわけがないだろう。下劣な羽虫め。私と貴様とでは、見えている世界が違うのだ」
フローレンスは、初めてその口を開いた。
鈴を転がすような美しく冷酷な声。
その声が鼓膜に届いた瞬間、男の首筋から鮮血が噴き出した。
いつ斬られたのかすら、男には理解できなかった。ただ、冷たい金属の感触だけが、遅れて痛みを運んでくる。
「ギャッ……! ああ、あああ!」
男は首を押さえ、必死に後ろへ飛び退く。
しかし、その動きすらもフローレンスにとっては止まっているに等しい。
その光景を、遥か遠方のビルの屋上から、特殊な光学望遠鏡で観測している者がいた。
公安の特務監視員である。
彼は冷や汗を流しながら、手元の端末にデータを記録していく。
「戦闘開始から3秒。対象、個性の発動を確認できず。いや、必要としていない。
彼女の動きは……物理法則を無視しているわけではない。だが、人間の反射速度を遥かに凌駕している。
『月狩』としての公表されている個性『月光適応』は、やはり偽装だ。彼女の力は、我々の知る『個性』の範疇にない」
監視員は恐怖に震えていた。
公安が擁する最強の駒。だが、その実態は制御不能な駆除兵器である。
彼女は正義のために戦っているのではない。
ただ、彼女自身の内なる衝動、あるいは義務に従って、目の前の命を刈り取っているだけなのだ。
路地裏では、すでに決着がつこうとしていた。
「待て、待ってくれ! 俺が悪かった! 金ならある、何でもする! だから助けて――」
命乞い。
それは敗者が最後に行う、最も見苦しく、価値のない音の羅列。
フローレンスの心には、同情も、怒りも、憐れみすらも湧かない。
ただ、目の前の汚物がうるさく鳴いている。それだけの事象。
「見苦しいな。獣らしく、静かに屠られるがいい」
フローレンスは、無造作に右手を伸ばした。
その白く細い指先が、男の胸元へと突き刺さる。
胸骨の奥にある命の軸へ、何の迷いもなく手を差し込むかのような、神秘的でおぞましい仕草。
ゴボリ、と男の口から血が溢れ出た。
彼の心臓は、彼女の目に見えない手によって直接引きちぎられていた。
男の瞳から急速に光が失われ、その巨躯が泥人形のように地面へ崩れ落ちる。
静寂が、再び路地裏を支配した。
フローレンスは血のついた手を、懐から取り出した純白のハンカチで丁寧に拭う。
その動作すらも、非の打ち所がないほどに優雅であった。
ふと、彼女は顔を上げ、夜空を見上げた。
雲に隠れた満月。
だが、彼女の銀眼に映っているのは、ただの月ではない。
常人には決して見えない、夜空の深淵で蠢く、おぞましい巨大な影。
それが本当にこの世界の裏側に潜むものなのか、それとも彼女の啓蒙だけが拾い上げた悪夢の残り香なのか、誰にも断じることはできない。
「……まだ、足りないな」
少女は小さく呟いた。
その声は夜風に溶け、誰に届くこともなく消えていった。