女狩人がヒロアカ世界の公安に所属して獣を狩る話 作:ブラボクロス増えろ
沈黙を破ったのは、上空から響くヘリコプターのローター音だった。
サーチライトが崩落した天井から室内へ差し込み、血に濡れた床、瓦礫、オールマイトの背、そして白い少女の横顔を冷たく照らす。別荘の周囲には、黒い特殊戦闘服をまとった者たちが次々と降下していた。公安委員会直属の特殊制圧部隊である。
「そこまでだ、オールマイト」
ヘリから降りてきた隊長が歩み寄り、公安の最高機密印が押された電子令状を提示した。声は事務的で目の前の血の海にも、床で震える神楽木にも、黒衣の影を浅く払った月狩にも大きな感情を示さない。こういう場面に感情を持ち込まないよう訓練された者だった。
「ここからの事後処理は、我々公安委員会が引き継ぐ。標的である神楽木の身柄、および月狩の身元に関する一切の事項は、国家の安全保障上の超法規的措置として、非公開とされる」
「超法規的措置だと……!?」
オールマイトの拳が、みしりと音を立てて握りしめられた。
「彼女、月狩が行ったのは、明白な殺人だ! いくら公安の命令であれ、これを司法の場に出さずに闇に葬るというのか! そんな欺瞞が人々に知れ渡れば、ヒーロー社会の信頼は完全に失墜する!」
「オールマイト、君は理想がすぎる」
隊長の声は硬かった。彼自身がその言葉を信じているのか、それとも上から与えられた理屈を読み上げているだけなのかは分からない。ただ、公安という組織の声としては十分だった。
「この神楽木という男が、これまで父親の権力を背景に、どれほどの罪を犯し、それを揉み消してきたか、君も知っているはずだ。法で裁けない悪が、現実に存在する。それを処理するために、我々のような影が必要なのだ。これは、国家の平穏を保つための必要悪だ」
「違う!」
オールマイトの叫びが、夜の森へ広がった。
「必要悪などという安易な言葉に逃げてはならない! 法に不備があるのなら、それを正すのが我々の役目だ! ヒーローが国家の都合で暗殺を行う道具に成り下がれば、それはヴィランと何が違うというんだ!」
その言葉は、彼がこれまでの人生で築き上げてきた正義そのものだった。どんなに醜悪な悪人であっても、適正な手続きを経て裁かれねばならない。そうでなければ、誰もが自分の正義を免罪符にして殺戮を始める。力を持つ者がこれは必要だったと言えば命を奪える社会など、彼が守ろうとしてきた世界ではない。
公安隊長は沈黙した。
彼にも理屈はあった。手続きの穴を知り尽くした権力者は、証拠を消し、被害者を黙らせ、裁判にたどり着く前に正義を腐らせる。その現実を見てきた者ほど、オールマイトの理想を眩しすぎると感じる。だが、眩しすぎるからといって、それが偽りになるわけではない。少なくとも、この場で彼の背後にいる神楽木を秘密裏に消せば、公安の影は二度と光の側へ戻れなくなる。
特殊部隊の隊員たちも、銃を構えたまま呼吸を浅くしていた。命令があれば撃つ訓練は受けている。だが、引き金の先にいるのは平和の象徴だ。子供の頃に彼の活躍を見てヒーローに憧れた者もいる。家族を救われた者もいる。公安の黒い制服を着た今でさえ、その記憶は消えない。命令と信仰が、彼らの指先で軋んでいた。
フローレンスは、その二人の激しい口論を退屈そうに見つめていた。
「獣を檻に入れたところで、牙が抜けるわけではないのに。人間とは本当に無駄な手続きを好む生き物だ」
呟きは小さく、誰の耳にも届かなかった。だが、その言葉には人間社会の仕組み全体に対する底知れぬ侮蔑が込められていた。彼女にとって法は、獣を処理できなかった者たちが、自分たちはまだ秩序を保っていると思い込むための飾りである。美しくもない。効率的でもない。何より、獣に食われた者を戻すことができない。
現場の緊張感は、極限に達していた。
オールマイトの放つ圧力に対し、公安特殊部隊も一斉に武器を構える。銃口は彼へ向いているようで、実際には誰も撃てない。もしここで平和の象徴と公安が武力衝突すれば、神楽木事件どころではない。国家の治安維持機関そのものが、民衆の信頼を失う。
そして、オールマイトには民衆の支持がある。
それは銃より厄介で、令状より重い力だった。どれほど公安が権限を振りかざしても、彼がこれは間違っていると公に言えば、隠された扉は必ず開く。隊長はそれを理解していた。
「……分かった、オールマイト」
隊長は苦渋の表情で部下に武器を下げさせた。
「今回の件は君の主張通り、通常のルートを通じて、神楽木の身柄を検挙することとする。ただし、彼女、月狩に関する一切の情報は我々が完全に回収する。これ以上の介入は、我々も容認しない」
「……承知した」
オールマイトは短く答えた。
納得したわけではない。だが、今この場で公安と全面衝突すれば、被害者の保護も、神楽木の身柄確保も、月狩という異常な存在の追及も、すべてが混乱へ沈む。まずは神楽木を法の前へ引きずり出す。それが、この場で彼が守れる最低限の線だった。
神楽木はオールマイトに拘束されながらも、命が助かったという安堵からフローレンスへ歪んだ笑みを向けた。
その笑みは、自分が勝ったと信じた者の顔だった。父の権力、手続きの不備、証拠の扱い、政治家たちの沈黙。そうしたものがまだ自分を守ると考えているのだろう。フローレンスは、その背中を静かに見送った。今すぐ刃を伸ばせば届くかもしれない。だが、今は命令が止めている。狩りは終わっていない。ただ、獲物が檻の中へ移されただけだ。
その檻がどれほど脆いものか、彼女は知っている。法は獣を閉じ込めるための鉄ではなく、人間が自分たちは正しいと信じるための薄い紙に過ぎない。紙は燃える。破れる。書き換えられる。だから、神楽木が再び外へ出てくるなら、その時こそ余計な光も手続きもなく終わらせればよい。フローレンスの中で、その判断は静かに保存された。
オールマイトは去り際に一度だけ振り返った。
「君のその力と精神は、いつか君自身を滅ぼすだろう。君がその闇から抜け出せることを、私は切に願う」
フローレンスは答えなかった。
救われたいなどと思っていない者に、救いの言葉は届かない。彼女はただ、夜空に浮かぶ冷淡な月を見上げた。月は何も語らず、彼女の影だけが、瓦礫と血の上に細く伸びていた。
オールマイトの言葉は人間に向けるには立派だった。だが、フローレンスは自分をその対象だと思っていない。滅びるというなら、それは弱い者が強い者へ向けて投げる慰めの予言に過ぎない。彼女は月を見上げ、そこにかつての夢の残滓とも、悪夢の名残ともつかない薄い気配を感じながら、何も言わずに目を細めた。獣の夜はまだ終わっていない。