女狩人がヒロアカ世界の公安に所属して獣を狩る話 作:ブラボクロス増えろ
都内の警察署、その奥にある取調室は清潔で、狭く、そしてひどく無力だった。
壁は白く、机は金属製で監視カメラは正しい角度から室内を見下ろしている。マジックミラーの向こうには数人の捜査員が立ち、書類は整えられ、録音機材も動いていた。これ以上ないほど正しい場所だ。罪を犯した者が座り、問われ、答え、法によって裁かれるための部屋である。
その椅子に座っている神楽木は頬の擦り傷と打撲の痕があった。恐怖の余韻も残っている。だが彼の態度は不遜そのもので、目の前の刑事達を眺める視線には、人をバカにするような蔑んだ色が合った。
「おい、いつまでこんな無駄な時間を過ごさせるんだ? 俺の弁護士が来るまで、俺は一言も喋らないぞ。それとも何か? 親父の名前をもう一度教えてやろうか?」
若い刑事が机を叩いた。寝不足で赤くなった目には怒りが燃えている。別荘の地下で保護された被害者達の顔を見た者なら、当然の怒りだった。泣き声、震える手、名前を呼んでも返ってこない者の数。それらを見てなお冷静でいられるほど、この刑事はまだ老いていない。
「神楽木……! お前がやったことは分かっているんだ! あの別荘で見つかった証拠、雇っていた連中の証言、被害者の傷……言い逃れはできない!」
神楽木は笑った。
「証拠? 証言? あはは、そんなものがこの世に存在するのか? よく確認してみろよ、間抜けなマッポ共」
その言葉の意味は、数時間もしないうちに警察署全体へ染み込んでいった。
最初に鳴り始めたのは電話だった。署長室の直通回線、捜査本部の固定電話、検察との連絡用端末。どれも礼儀正しく、どれも事務的で、どれも逆らえば人生が壊れることだけは明確に伝えてくる声だった。怒鳴りつける必要などない。権力とは本来、声を荒らげなくても人を黙らせるものなのだ。
神楽木議員の秘書は搬送時の身体検査に立会人がいなかった点を突いた。弁護団は、別荘突入の情報源が公安の秘匿案件に触れるため開示できないことを利用し、証拠の連続性が担保されていないと主張した。検察上層部は公判維持の困難を口にし、警察上層部は現場判断の軽率さを責めた。誰も神楽木が無実だとは言わない。ただ、裁けない形にしていく。
その過程はあまりにも静かだった。昨日まで罪の重さを示していたものが、一枚ずつ、これは使えない、これは危うい、これは後に問題になると分類されていく。現場の刑事達が掴んだ真実は、上層部の机の上で扱いにくい荷物のように横へ押しやられ、神楽木の笑みだけが、取調室の薄い壁を越えて署内全体へ広がっていくようだった。
実に見事な手際である。
悪意が拳を振り上げてくるなら、オールマイトは止められた。銃口が向けられるなら、彼は身を挺して守れた。だが、書類の余白、令状の時刻、証言者の保護手続き、公安情報の非開示。そうした細い糸を絡めて作られた網はどれほど力があろうと殴り破ることができない。
取調室の扉が開く。
入ってきた署長の顔色は、先ほどよりもさらに悪くなっていた。
「神楽木の取り調べはここまでだ。別室へ移せ」
「署長! 何を言っているんですか!」
「上の命令だ!」
その一喝は怒りではなく悲鳴に近かった。署長も理解しているのだ。己が何を言わされているのか。何を踏みにじっているのか。だが理解しているからといって、逆らえるわけではない。
「弁護団から正式な抗議があった。現場で行われた捜査には重大な令状の不備があり、押収物は違法収集証拠として証拠能力を否定される見込みだ。目撃証言も、信憑性に疑義があるとして撤回の手続きが進んでいる」
若い刑事の顔から血の気が引いた。
証拠品保管室には、地下室から回収された凶器、被害者の衣服、壁から採取された血液片が残っている。事実はそこにある。被害者もいる。傷も涙も消えていない。それでも手続きの線から一歩でも外れた瞬間、それらは裁判で語る資格を奪われる。
法とは、弱者を守るための光であるはずだった。
だが今、その光は角度を変え、悪人の背後に影を作っていた。
署長室の前のベンチで、オールマイトは無言で床を見つめていた。彼の巨体はいつもと同じはずなのに、その背中はひどく疲れて見える。平和の象徴と呼ばれ、どんな絶望の中にも笑顔で現れてきた男が、今だけは笑えなかった。
「オールマイト……申し訳ありません……」
若い刑事が頭を下げた。涙が床に落ちる。
「俺たちが無力なせいで……あなたが止めてくれた奴を、俺たちの法律が、俺たちの組織が、みすみす逃がそうとしている。こんなの、正義なんかじゃない……!」
オールマイトはすぐに答えられなかった。
大丈夫だと言えば嘘になる。諦めるなと言えば、この刑事の誠実さをさらに傷つける。彼らは怠けたのではない。逃げたのでもない。正しい手順を守ろうとした者達が、より大きな力によって押し潰されている。それが今、目の前で起きている現実だった。
拳を握る。骨が軋む。
ここで力を使えば止められるのか。署長室の扉を壊し、神楽木を引きずり戻し、もう一度罪を突きつければよいのか。否。そんなことをすれば、彼は法の外側から気に入らぬ者を裁く暴力になる。彼が生涯をかけて否定してきたものに、自分自身が堕ちることになる。
同じ頃、公安委員会の地下にある監視室では、別の沈黙が満ちていた。
壁一面のモニターには、警察署の廊下、証拠品保管室、署長室前のベンチが分割されて映っている。床に視線を落としたオールマイトの背中も、その一つに収まっていた。音声はない。だが、何が起きているのかを理解するには十分だった。
公安長官は、その映像を眺めながら、低く笑った。
「これが、君の守ろうとした社会の形だよ、オールマイト。実に美しい法治ではないかね」
その声は誰へ届けるためのものでもなかった。隣に控える職員達も、返事を求められていないことを知っている。長官はただ、画面の向こうにいる平和の象徴へ、届くはずのない言葉を投げていた。
「君がどれだけ綺麗事を叫ぼうとも、現実のルールを動かしているのは我々のような人間だ。君の正義は脆い。美しいが、脆すぎる。さて、これでも君は、我々のやり方を否定するのかね?」
もちろん、オールマイトには聞こえない。
それでも長官は満足げに目を細めた。
警察署の廊下では、床に落ちた刑事の涙も、押収品に貼られた無効の札も、取調室で笑う神楽木の顔も、消えないままそこにあった。
オールマイトの瞳から、光が失われたわけではなかった。だからこそ痛むのだ。折れていない信念ほど、折れそうな時には重く軋む。