女狩人がヒロアカ世界の公安に所属して獣を狩る話 作:ブラボクロス増えろ
釈放されてからの神楽木は、人間の形をしたまま、人間の側から一歩ずつ外れていった。
父である神楽木議員は、息子を海外へ逃がすつもりだった。秘書に航空券を手配させ、医師には精神衰弱の診断書を書かせ、記者会見用の謝罪文まで用意させている。すべては家の存続と派閥の票を守るためであり、息子を愛しているからですらない。だがその計算高さは、神楽木には届かなかった。
逃げろという言葉を聞いた時、神楽木は笑った。自分が逃げる。あの白い女に背を向けて。そんな屈辱を受け入れるくらいなら、都市の真ん中で血を撒き散らてやり、彼女の方から自分の前へ現れさせる方がまだ美しいと、本気で信じていた。
都心の片隅、取り壊しを待つ廃ビルの地下室。
地上には再開発計画を知らせる白い看板があり、夜風に軋んでいる。昼間なら作業員や不動産業者が出入りする場所も、夜になれば都市の死角へ変わる。防犯カメラは壊され、街灯は消され、地下へ続く階段には湿った鉄と埃の臭いが沈んでいた。
その奥で、数人の男女が拘束されている。
彼らは神楽木の私兵であり、世話係であり、あるいはその家族だった。公安へ情報を流した裏切り者を探すため、などという名目はあった。だが根拠など最初から存在しない。誰が喋ったのか、そもそも本当に誰かが喋ったのか、神楽木にはどうでもよかった。ただ、自分が逃げ帰った夜を知る者がいる。それだけが許せなかった。
彼にとって他人とは、役に立つ間だけ形を許される道具である。口を開けば命令を聞く。黙っていれば秘密を守る。壊れれば捨てる。そうやって生きてきた男に、部下の恐怖や家族の涙を想像する能力など育つはずがなかった。むしろ彼は、怯えた目を向けられるほど、自分が再び大きくなったような錯覚を覚えていた。
「あ、あはははは! おい、もっと泣けよ! お前たちの命なんて、俺の一言でどうにでもなるんだよ!」
血に濡れたナイフを持つ手は震えていた。恐怖で震えているのではない、と神楽木は自分に言い聞かせる。これは興奮だ。支配だ。自分がまだ奪う側で、命令する側で、他人を床に這わせる側にいるという証明なのだ。
拘束された男が泣きながら頭を下げた。
「神楽木様……! 私は何も喋っていません! 娘だけは、娘だけは助けてください!」
「うるさいんだよ、犬めが!」
ナイフが振るわれ、悲鳴が地下室に反響した。
だが、神楽木は満たされない。以前ならば、人が泣く顔を見れば愉悦があった。命乞いを聞けば、胸の奥が熱くなった。なのに今は足りない。弱い者を傷つけても、あの銀の目が消えない。フローレンスに見下ろされた記憶が、彼の内側を冷たく抉り続けている。
つまり彼が本当に求めているのは、恐怖そのものだった。
自分の生存を脅かすほどの死の気配。それをねじ伏せ、踏みにじり、相手の顔を絶望で歪める瞬間。あの白金髪の少女に対する渇きが、彼の理性を内側から食い破っていた。
「物足りない……! こんな羊どもの血じゃ足りないんだよ! あの女を連れてこい! あの冷たい顔を、俺の前でぐちゃぐちゃにしてやる!」
個性が不安定に揺れ、地下室の空気が濁る。拘束された者達は、彼の視線が向くたびに息を殺した。泣けば笑われる。黙れば怒られる。そこには支配のための合理性すらない。神楽木は、相手を従わせたいのではない。自分がまだ恐れられる存在だと確認したいだけだった。
恐怖を与えれば、自分の恐怖が薄まる。誰かを床に這わせれば、自分があの地下で這わされた記憶を踏み潰せる。そんな幼稚な錯覚に縋りつき、彼はさらに刃を振るった。人の形をしていることだけが、彼を人間の側へ繋ぎ止めている最後の薄皮だった。
その匂いを、遠く離れた空で捉える者がいた。
公安のヘリの中、フローレンスは目を閉じていた。機体の振動、通信の雑音、隊員達の緊張した呼吸。そうしたものの奥に、腐った血のような気配がある。匂いであり、音であり、皮膚の裏を撫でる粘ついた震えでもあった。ヤーナムの夜を知る者だけが理解できる、病が人の形を押し破る前兆だ。
美しくない。
フローレンスはそう評価した。洗練も誇りもない。己の醜さにすら責任を持てぬ、ただ飢えただけの獣。だからこそ狩る価値がある。美しい庭に入り込んだ病葉を摘むように、彼女はそれを取り除くべき汚点として認めた。
隣に座る公安隊員は、その横顔を直視できなかった。少女の姿をしている。細い首も、白い指も、月光を受けた睫毛も、守られる側のものに見える。だがその内側にあるものは、人間が扱える兵器ではない。彼らは月狩を輸送しているのではなく、狩場まで供物を運んでいるのだと、誰も口には出さず理解していた。
「……始まったわね」
銀の目が開く。
通信回線に長官の声が入った。
『神楽木が再び犯行に及んだ。都心の廃ビルに潜伏し、部下とその家族を人質に取っている。通常部隊では間に合わん。警察に回せばまた政治の網に引っかかる。オールマイトに知られれば、再び面倒なことになる』
長官の声には、もはや妥協の余地がなかった。
『月狩、命令だ。今度こそ、その害獣を即座に処刑しろ。オールマイトが介入する前に、完全に消去するんだ』
フローレンスは笑った。
「言われなくとも、そのつもりよ」
ヘリのハッチが開く。夜風が黒い狩装束を叩き、都市の灯りが足下へ流れていく。落下の恐怖など、彼女にはない。人間が空を渡るために機械を必要とするなら、彼女は獲物へ届くために狩りの勘だけを信じればよい。
月光の筋へ身を傾ける。
都市の風が頬を打つ。下方には眠らない街が広がり、窓の一つ一つに誰かの生活が灯っていた。フローレンスはその全てを守るために飛ぶのではない。彼女は英雄ではなく狩人だ。ただ、己の夜に紛れ込んだ汚い獣を見つけたから、そこへ向かう。それだけのことだった。
廃ビルの地下室では、神楽木が泣き叫ぶ少女の首元へナイフを当てていた。
その瞬間、鉄扉が音も立てず静かに開く。
埃と闇の向こうから、月光を反射する銀の刃が、滑るように室内へ入ってくる。