女狩人がヒロアカ世界の公安に所属して獣を狩る話 作:ブラボクロス増えろ
対峙する両者の間には、瓦礫の粉塵と血の臭いと、互いに決して混ざり合わない価値観だけが漂っていた。
片や、世界の誰もがその名を知る最強にして最上の平和の象徴。人々が空を見上げ、そこに彼の姿を見つけるだけで救われたと感じる、現代ヒーロー社会の柱。
片や、存在そのものが闇に秘匿され、ただ清掃のために刃を振るう月光の狩人。誰かを安心させるために笑うことも、守られる側の涙へ優しい言葉を投げることもない、血と悪夢の向こうから来た白い少女。
「もう一度言おう、若きヒーロー。武器を捨てなさい」
オールマイトの声には、怒りだけでなく深い憂慮が含まれていた。彼はフローレンスを単なるヴィランとは見ていない。これほどの戦闘技術を持ち、これほど冷静で、それでいて人を守るという方向へ一切傾いていない少女を前にして、彼の胸には理解不能の痛みが生まれていた。
彼女の瞳には、ヒーローとしての志も、ヴィランへの義憤もない。ただ凍った湖面のような静寂だけがある。殺したことへの興奮すら薄く、助けたことへの誇りなど欠片もない。そこにあるのは、獣を処理したという揺るぎない事実認識だけだった。
フローレンスは答えなかった。
言葉で相手を説得する時間など、狩りの場には不要である。相手がどのような理想を背負っていようと、獲物への線を塞ぐなら、まずその線をどう抜くかを考えればよい。彼女の体が、前へ滑り出した。
それは走るという動作ではなかった。
予備動作がない。膝を沈める気配も、肩が動く前触れも、踏み込みの音もない。ただ一瞬、彼女の輪郭が月明かりの中でほどけ、次の瞬間にはオールマイトの懐へ肉薄していた。
「速い……!」
オールマイトは目を見張ったが、その超人的な動体視力と反射神経は接近を捉えていた。彼が放った左の拳は、周囲の壁を風圧だけで軋ませるほどの一撃であり、普通の相手なら触れる前に吹き飛ばされる。
だが、フローレンスは防御しなかった。
むしろ彼女は、拳の軌道へ頭部を差し出すように進んだ。オールマイトが一瞬だけ息を呑む。その危うさは無謀ではない。彼女は拳そのものを見ていなかった。肩でもない。肩が動く前の背中、呼吸、足裏が床を押す前の圧、そして守る者が攻撃へ移る刹那の迷い。その線を見ていた。
拳は白金の髪を激しく揺らし、頬の横を通過した。
数ミリの差。だが、その数ミリは偶然ではない。啓蒙によって世界の見え方が変質した者だけが拾える、死と生の薄い隙間だった。フローレンスは拳の風圧を纏うようにして回り込み、オールマイトの右脇腹へ仕込み杖の刺突を入れる。
キィィィン!
再び、硬質な音が弾けた。
オールマイトは筋肉を締め、刺突を受け切った。皮膚に傷はない。だが、彼の表情には明らかな驚愕が浮かんでいた。速さだけなら、彼は多くの俊敏な敵を知っている。殺意だけなら、もっと粗暴なヴィランも見てきた。けれど、この少女の動きは違う。力を誇示する個性ではなく、無数の死線を越え、相手が最も強く踏み込んだ瞬間を最も脆い瞬間として見抜く、血生臭い技術そのものだった。
「君の力は異質だ。だが、その刃は私には届かない!」
オールマイトの巨体が躍動する。
彼の一挙手一投足は、別荘の頑丈な壁を易々と粉砕した。拳が空を裂けば風圧が絨毯を捲り、踏み込めば床が沈む。だが、フローレンスはその破壊の渦中を、煙のようにすり抜ける。爆風も破片も、彼女にとってはただの軌道であり、読めるものだった。未来を知っているのではない。攻撃が成立する手前、世界がわずかに傾く瞬間を、彼女は他者より深く見ているだけだ。
オールマイトはそこで初めて、背筋に冷たいものを感じた。
彼女は守られていない。けれど、恐れてもいない。傷つく可能性を恐怖として処理せず、前へ出るための距離として扱っている。人間は痛みを避ける。ヒーローは痛みを耐える。だが、狩人は痛みを合図にして踏み込む。そこに、彼が知るどの戦闘理論とも違う不気味さがあった。
それでも、オールマイトの壁は厚い。
フローレンスはそれを理解していた。どれほど精密に刃を打ち込んでも、あの圧倒的な質量と力は簡単には割れない。ならば、標的を変えればよい。彼女にとって戦闘とは競技ではない。目の前の男と勝敗を決める必要などない。獲物へ届けばそれで終わる。
その判断の速さに、オールマイトは戦慄した。普通の戦闘者なら、最強の男に刃を弾かれた瞬間、恐怖か闘志か、いずれにせよ自分と相手の勝敗へ意識を奪われる。だが、フローレンスは違った。彼女の中にある優先順位は、どこまでも冷たい。障害物は障害物でしかなく、神楽木という獲物の価値を一度決めた以上、その間に立つ者が誰であろうと、ただ抜け道を探すだけなのだ。
銀の瞳が、オールマイトの背後で震える神楽木を捉えた。
フローレンスの体が跳ねた。オールマイトの肩を越えるように宙を舞い、仕込み杖の刃が神楽木の首元へまっすぐ伸びる。神楽木の喉が、恐怖で潰れたような音を立てた。
「させんと言っている!」
オールマイトの手が、空中で刃の軌道を遮った。
金属音と火花。フローレンスの体は弾かれ、崩れた柱の上へ降り立つ。だが、その表情には焦りがない。彼女はオールマイトを見た。次に神楽木を見た。そして、面倒な地形を前にした狩人のように、小さく息を吐いた。
オールマイトもまた、拳を構え直した。
彼は理解した。目の前の少女は、自分を倒すことに執着していない。自分の背後にいる罪人を殺すためなら、どれだけでも軌道を変える。説得の言葉は、刃の間合いに入るための空気ほどの意味しか持たない。だからこそ、彼は一瞬たりとも背後を空けられなかった。
その膠着は、ただの戦闘停止ではない。法の番人と狩人が、同じ獣を前にしながら、まったく違う終わらせ方を選んだ結果だった。
神楽木はその背後で息を殺していた。彼には二人の思想など分からない。分かるのは、オールマイトの背中の後ろにいる間だけ自分は生きていられるという、あまりにも下品で切実な事実だけである。フローレンスはそれを見て、ますますこの獣を生かしておく価値はないと判断した。反省も矜持もなく、ただ強い光の影へ逃げ込む。その姿は、かつて彼が踏みにじった者たちの恐怖を侮辱しているようにすら見えた。
オールマイトはその視線の意味を読み取り、さらに足を半歩ずらした。神楽木の体が完全に自分の影へ隠れる位置である。彼にとってそれは屈辱的な配置だった。守りたい相手ではない。むしろ、怒りを抑えなければならない相手だ。それでも、法の外で殺されてよい人間などいない。その原則を曲げれば、彼自身が掲げてきた光が揺らぐ。彼はその重さを、拳よりも重く背負っていた。