女狩人がヒロアカ世界の公安に所属して獣を狩る話 作:ブラボクロス増えろ
弾かれた刃が壁のコンクリートを抉り、不快な摩擦音を立てて止まった。
フローレンスは、すでに床へ降りている。呼吸は乱れていない。あれほどの近接戦闘を交わした後だというのに、胸元の上下は穏やかで、血に濡れた部屋の中に立つ姿だけを切り取れば、夜の庭を散歩していた令嬢が足を止めたようにさえ見えた。
対するオールマイトは、神楽木を背後に隠したまま完璧な位置取りを崩さない。彼の立つ場所は一枚の鉄壁だった。彼を倒すか、力ずくで退かすか、あるいは彼の守りを出し抜くか。どれを選んでも、静かな処理からは遠ざかる。
効率が悪い。
フローレンスは冷徹にそう判断した。目の前の金色の男は極めて強固であり、通常の刃では抜けない。自分がさらに深い神秘へ手を伸ばせば、別の手段はあるかもしれない。だが、この場所で世界の奥側を強く引きずり出せば、神楽木一人を駆除するという目的に対して、あまりにも余計な痕跡が残る。血の臭いが薄れ、月光の色が変わり、目の弱い人間どもが見てはいけないものを見てしまう。そうなれば、公安が望む静かな清掃という前提は崩れる。
戦闘は自己表現ではない。
少なくともフローレンスにとってはそうだった。獣を屠ることは目的であり、強敵と競い合って名誉を得るような下等な遊戯ではない。彼女はオールマイトの出方を見ながら、右耳に装着した微細なインカムを起動した。
それでも、刃を収める判断にはわずかな不快が伴った。神楽木はまだ生きている。床に転がる私兵たちより醜く、被害者の少女より遥かに多くの言葉を持ちながら、その言葉を責任から逃げるためだけに使う獣が、まだ呼吸している。その事実は、狩人としての彼女にとって明らかな未処理だった。だが、未処理を嫌うからといって、余計な痕跡を撒き散らすほど彼女は愚かではない。
「こちら月狩」
発声は小さく、骨伝導に近い振動で回線へ流れる。オールマイトには音として拾えなかったが、それでも彼は違和感を察した。目の前の少女が戦いながらなお別の誰かと繋がっている。その冷静さが、彼には不気味だった。
「標的の前に、平和の象徴が立ちふさがっている。標的の即時処分、および現場からの強行離脱は困難。指示を乞う」
報告は淡々としていた。失敗の焦りも、戦闘への興奮もない。獲物へ届く道が塞がれたため、別の手順を確認する。それだけの声だった。
その頃、公安委員会の長官室では、長官が手にしていた万年筆を机に叩きつけていた。
「オールマイトだと……!? なぜ奴がそこにいる! 神楽木の件は、警察にも一切情報を流さず、完全にこちらで握りつぶしていたはずだぞ!」
いつも崩さない微笑は消え、顔には怒りと焦りが浮かんでいる。神楽木の処理そのものは、長官にとって予定された汚れ仕事に過ぎなかった。問題はそこにオールマイトが現れたことだ。平和の象徴は、ただ強いだけのヒーローではない。彼が見たものは、やがて社会の倫理そのものを揺らす証言になり得る。どれほど公安が書類を閉じ、映像を消し、関係者へ箝口令を敷いたところで、あの男の存在は光として残る。
長官はすぐに複数の端末を呼び出した。現場周辺の通信遮断、近隣住民への避難名目の隔離、警察回線への遅延工作、神楽木家側の秘書連中への偽情報。いずれも手慣れた処理であり、本来ならば数分で夜の出来事を別の事件へ塗り替えられる。だが、オールマイトだけは違う。彼の一言は記録より強く、彼の沈黙は沈黙のまま世論の重しになる。公安が最も扱いづらいのは、暴力ではなく、民衆から疑われない善意だった。
オールマイトの前では、隠蔽は難しい。
彼は法を信じている。人々を信じている。だからこそ、国家の影が正義の名で暗殺を行っていたなどという事実を、簡単に飲み込むはずがない。ここで月狩と衝突させれば、事件は神楽木一人の犯罪から、公安の秘匿運用そのものへ拡大する。現政権を揺るがすだけでは済まない。ヒーロー社会が、人々に見せてきた表の顔を失う。
「……戦闘を停止しろ、月狩」
長官は、苦渋の決断を下した。
「これ以上の交戦は、我が方にとって不利益が大きすぎる。黒衣のまま身分を示し、公安の正規プロヒーローとして交渉の場に立て。事後処理はこちらで行う」
「了解した」
フローレンスは短く答えた。
長官の政治的な思惑など、彼女にはどうでもよかった。ただ、戦闘停止という指示が、現時点で最も効率的であるという自分の判断と一致したに過ぎない。獲物を逃がすことへの不快はある。だが、今ここでオールマイトを排除する手間と痕跡を考えれば、一度刃を収める方が合理的だった。
ガシャリ。
仕込み杖の刃が、無機質な金属音と共に元の形へ戻る。フローレンスはそれを腰のホルダーへ収め、両手を軽く上げた。降伏ではない。戦闘継続の意思がないことを示すだけの動作であり、その態度には敗者の卑屈さなど欠片もない。
「……闘いを、やめる気になったか」
オールマイトは警戒を解かなかった。彼の背後では神楽木が荒い息を吐き、救われたと思い込みたい目で二人を交互に見ている。フローレンスはその視線を無視し、黒い帽子の鍔へ指をかけた。
黒衣の狩装束。
夜の闇をそのまま仕立てたような外套と、高く立った襟、首元へ巻かれた黒布。広い帽子の影は顔の上半分を深く覆い、血と瓦礫に満ちた室内でなお、その装いだけが別の時代の夜から抜け出してきたように見えた。素顔を隠すために必要なのは、わざとらしい金属の面ではない。狩人は最初から、夜と黒衣の中に立つものなのだ。
彼女はその鍔をわずかに上げ、首元の黒布を指先で浅く下げた。
部屋の空気がわずかに変わった。血と瓦礫と焦げた配線の臭いの中に、普通の人間なら言葉にできない、血でも獣でもない奇妙な気配が混じる。月が近づいたのではない。影の奥で隠されていた輪郭が、ただ月明かりの届く場所へ少しだけ進んだだけだった。
オールマイトはそこで初めて相手の年齢を意識した。少女だ。少なくとも外見だけなら、守られる側に置かれてもおかしくない年頃の少女である。だが、その目は違った。被害者の少女が見せる怯えとも、神楽木が見せる卑屈な恐怖とも違う。人間の社会を外から見下ろし、その矛盾を当然のように切り捨てる目だった。彼はその美しさに驚いたのではない。その美しさが、血の中でまったく揺らがないことに戦慄した。
公安長官の指示は、彼女を交渉の席へ立たせるためのものだった。だが、フローレンス自身に交渉する気などない。彼女はただ、黒衣のまま身分を示せと言われたから、顔を隠す影を少し払っただけである。人間どもがそこから何を理解し、何を誤解し、何を恐れるか。その一切は彼女にとって、狩りの後に残る埃ほどの重みしかなかった。