華には修羅がある~修羅道より回帰した令嬢は運命を覆す~ 作:華洛
枕元の台に置かれたスマートフォンを手に取る。
画面を点灯させると、白い数字が浮かび上がった。
【20xx.03.06】
その数字を見て、私は小さく息を吐いた。
(……なるほど)
十二歳。
思っていたより、ずいぶん前まで戻ってきたらしい。
父さまは、もういない。
十歳のとき、酒呑童子率いる万妖暴走で殿を務めて死んだ。
だから、何も失っていない頃ではない。
けれど、まだ全部が壊れたわけでもない。
風臥兄さんは生きている。
【万華鏡雅叙苑】の一件も、まだ先だ。
悪くない。
むしろ、かなりいい。
指先がわずかに脈打つ。
さっき弾け飛んだばかりの痛みが、まだ熱を残していた。
(それにしても、やっぱり不便だね。この身体)
《現時点では、霊力制御の再調整が必須です》
(うん。でも、面白いよ。積み上げたものを持ったまま、最初からやり直せるなんて)
修羅道無限回廊では、死ねばほとんどすべてを失った。
強さも、成果も、拾ったものも消えて、残るのは経験だけ。
だからこそ、今の状況は新鮮だった。
最強の中身に、最弱に近い器。
なるほど、これはこれでやりがいがある。
《神奈さまは本当に前向きですね》
(前向きっていうか、せっかくなら楽しんだほうが得でしょう?)
そう返したところで、
コン、コン。
扉がノックされた。
「神奈さま、起きていらっしゃいますか?」
その声に、思考が止まった。
(……あ)
閂だ。
知っている声だった。
毎日のように聞いていた声。
少し低めで、落ち着いていて、でも私を呼ぶときだけほんの少し柔らかくなる声。
その声を認識した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
封じられていた箱が、内側からこじ開けられるみたいに、扉間閂に関する記憶が一気に浮かび上がってくる。
――なんで、今まで思い出さなかったんだろう。
いや、違う。
思い出せなかったんだ。
風臥兄さんを喪ってから、私に残された最後の家族みたいな人だった。
それなのに、その人のことを、私はずっと思い出せずにいた。
《神奈さま。大丈夫ですか? 霊力が激しく乱れています》
(……うん。大丈夫)
そう返したけれど、少しだけ喉が詰まった。
前の人生で、私は閂を失った。
――私が、殺した。殺してしまった。
あれは、【万華鏡雅叙苑】の一週間ほど前だった。
伊邪那美によって力を与えられた最強四大妖怪――四死妖。
酒呑童子、玉藻前、鞍馬天狗、禰々子河童。
その一角である禰々子河童に、閂は攫われた。
『神殺しの御子へ。大切な人から尻子玉を抜かれて失いたくなければ、深淵・穢界まで来なさい。もちろん一人でね』
古風にも、新聞の文字を切り抜いて作られた脅迫文だった。
封筒の中には、閂がいつも着物の内側に仕舞っていた短刀が同封されていた。
尻子玉は、霊力や生きる意思を凝縮したものだ。
それを抜かれた人間は、廃人同然になる。
明らかな罠だった。
家の者たちにも、素戔嗚家当主代行として軽率に動くべきではないと窘められた。
蒼天さまからも、『素戔嗚家の唯一の継承者であるお前が助けに行く必要はない』と言われた。
分かっていた。
家の者たちも、蒼天さまも、間違っていない。
私は伊邪那岐さまが遺した御三家の一角、素戔嗚の末。
伊邪那美を殺す――神殺しの役割を負った、最後の一人だ。
使用人と私とでは、命の価値が違う。
それでも、行った。
理屈ではなく、行くしかなかった。
あの頃の私は、父さまも、風臥兄さんも喪っていた。
家族と呼べる支えは、もう閂しかいなかった。
私は周囲の制止を振り切って、深淵・穢界へ向かった。
そこで、閂を攫った禰々子河童と戦った。
苦戦しながらも、愛染明王で一閃。
その身体を斬り伏せて、私は勝った――はずだった。
でも、おかしいと気づくべきだった。
四死妖の一角である禰々子河童が、あの程度の苦戦で斃せるはずがない。
斃した禰々子河童の姿は、閂へと変わった。
人形分身の術。
【万華鏡雅叙苑】で厄災鬼に使用されたものと同じ術。
閂はそれによって、禰々子河童の姿に変えられていたのだ。
『……神奈……さま……私の……ことは……忘れてくだ……さい』
できるわけがなかった。
母さまのいない私にとって、閂はただの使用人じゃない。
母親で、姉で、家族だった。
そんな人を忘れられるはずがない。
『……神奈……さま……私に……記憶を……閉じ………』
血塗れの手が、私の額に触れた。
その瞬間、閂に関する記憶が、何かに蓋をされるみたいに閉じていく感覚があった。
そして、誰かがいた。
誰だったのかは分からない。
でも、閂を殺して壊れかけていた私に、誰かがさらに術を施したのだと思う。
次にはっきり意識が繋がったとき、私はもう【万華鏡雅叙苑】で厄災鬼を口寄せしていた。
――つまり。
私は閂を失っただけじゃない。
失ったことすら、奪われていた。
だから今、扉の向こうから聞こえた声が、こんなにも胸を抉る。
《神奈さま》
(……うん)
短く息を吐く。
大丈夫。
少なくとも、今はまだ大丈夫だ。
扉の向こうにいるのは、死体じゃない。
幻でもない。
まだ失う前の、扉間閂だ。
「……入って」
そう告げる声は、思ったよりも普通だった。
扉が静かに開く。
「おはようございます、神奈さま。お加減は――」
姿を見た瞬間、私は少しだけ目を見開いた。
いる。
当たり前みたいに立っている。
当たり前みたいに息をしている。
当たり前みたいに、私を見ている。
割烹着の白。
整えられた髪。
胸元に隠した小刀の気配。
少しだけ目を細める癖。
全部そのままだ。
ああ、本当にいるんだ、と思った。
(……太公望)
《はい》
(これは、思ったより効くね)
《そうでしょうね》
他人事みたいな返しなのに、妙に優しかった。
私はベッドから降りると、そのまま閂のほうへ歩いていった。
走るほどではない。
でも、止まる理由もなかった。
「……閂」
「はい、神奈さま――わっ」
そのまま抱きつく。
細い。
でもちゃんと温かい。
生きている人の体温だった。
腕に少しだけ力を込める。
逃がさないためというより、確かめるために。
ああ。
いる。
ここにいる。
「……よかった」
自分でも驚くくらい、素直な声が出た。
「本当に、よかった」
「神奈さま……?」
閂は戸惑っていた。
当然だと思う。
朝一番で、主がいきなり抱きついてきたのだから。
それでも振りほどかず、そっと私の頭を撫でてくれる。
その手つきが、記憶の中とまったく同じで、少し困った。
これは、効く。
かなり効く。
(……太公望。泣いたら変かな)
《少し驚かれるでしょうが、不自然ではありません》
(そっか)
でも、泣くほどではなかった。
たぶん私は、泣くより先に満たされてしまったのだと思う。
失ったものが、ここにある。
それだけで、胸の奥のひび割れた場所に、少しずつ何かが満ちていく。
もう一度だけ、腕に力を込める。
「神奈さま。どうなさったのですか?」
「……ううん。ただ、閂が生きててよかったなって」
「はい?」
さすがに意味が分からない、という顔をされた。
もっともである。
説明しようにも、
「前の人生であなたを自分の手で斬りました」
などと言えるはずもない。
なので、私は誤魔化すことにした。
「ちょっと、嫌な夢を見ただけ」
「悪夢、ですか?」
「うん。かなり趣味の悪いの」
嘘ではない。
事実をだいぶ丸めただけだ。
閂はなおも不思議そうにしていたが、やがて小さく息をついた。
「……それで、甘えたくなったのですか?」
「そういうことにしておいて」
「まったく、神奈さまは……」
呆れたような声。
でも、少しだけ安堵も混じっていた。
そのときだった。
閂の手が、ぴたりと止まる。
「……神奈さま」
「ん?」
「血の匂いがします」
あ、と思った。
しまった。
感動に気を取られて忘れていた。
閂がにこりと笑う。
とても綺麗な笑顔だった。
綺麗すぎて、逆に怖い。
「神奈さま。何をなさったのですか?」
(太公望、助けて)
《今回は難しいですね》
(見捨てるの早くない?)
私はそっと閂から離れ、できるだけ自然な顔を作った。
「ええと……今日は、あの、そう! 月のもの!」
誤魔化せる……かな。
でも、馬鹿正直に言ったら絶対に怒られる。
「神奈さま」
閂は私の肩を掴み、くるりとベッドのほうへ向ける。
視線の先には、見事に飛び散った血痕と、破裂した指先の痕跡。
うん。
これはひどい。
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
気まずい。
実に気まずい。
「……ごめんなさい」
「詳しく」
「霊力をちょっと込めたら、ちょっと弾けた」
「ちょっと、ではありません」
「そうだね」
素直に頷くと、閂は深々とため息をついた。
怒っている。
でも、半分くらいは呆れだろう。
「神奈さま。ご自分の身体を何だと思っているのですか」
「鍛えがいのある器?」
「怒りますよ?」
「もう怒ってるよね?」
「もっと怒ります」
それは困る。
(太公望)
《ご愁傷さまです》
(冷たくない?)
《事実を述べただけです》
閂はもう一度、小さく息を吐いた。
それから私の手を取る。
「こちらへ」
「……はい」
大人しくベッドの端に腰掛けると、閂は私の前に膝をついた。
その仕草があまりにも自然で、たぶん前の私はこうして何度も手当てされていたのだろうと思う。
閂は傷ついた指先をそっと持ち上げ、眉を寄せた。
「これは……また派手にやりましたね」
「ちょっと加減を間違えただけだよ」
「“ちょっと”で指先を破裂させる方は、そう多くありません」
「それは、まあ……そうかも」
否定できない。
閂は私の手を支えたまま、もう片方の手で静かに印を結ぶ。
指先の動きは流れるようで、無駄がない。
淡い光が、閂の指先から滲むように溢れた。
白に近い、やわらかな霊光。
それが私の傷口を包み込む。
じん、と熱が走る。
痛みとは少し違う。
裂けた肉と砕けた骨が、内側からゆっくり噛み合っていくような、不思議な感覚だった。
「……沁みる?」
「少しだけ」
「我慢してください」
「容赦ないね」
「神奈さまが容赦なくご自分を壊した結果です」
「正論は心に刺さるからやめて」
「刺さってください」
ぴしゃりと言い切られた。
今日は閂が強い。
(太公望)
《当然の報いかと》
(味方がいない)
《私は神奈さまの味方ですが、今回ばかりは閂さまが正しいです》
ひどい。
でも反論はできない。
閂の霊力が傷口へ丁寧に染み込んでいく。
飛び散っていた血はそのままでも、裂けた皮膚は少しずつ閉じ、砕けた指先の形が元へ戻っていく。
見事なものだった。
戦場で使う荒い治癒ではなく、日常の怪我を何度も治してきた者の手つきだ。
なるほど。
これは確かに、昔の私は相当やんちゃだったのだろう。
「……閂、慣れてるね」
「誰のせいだと思っているのですか」
「私だね」
「はい」
即答だった。
少しだけ可笑しくなって、私は小さく笑った。
閂はそんな私を一瞥して、ほんのわずかに表情を和らげる。
「まったく……朝から肝を冷やしました」
「ごめん」
「本当にそう思っていらっしゃいますか?」
「思ってるよ。一応」
「“一応”が余計です」
治癒の光が、ふっと弱まる。
閂が最後に指先をなぞるように霊力を流すと、傷はほとんど元通りになっていた。
赤みはわずかに残っているが、さっきまでの惨状が嘘みたいだ。
閂は私の手を裏返したり表に向けたりして、治り具合を確かめる。
その仕草が丁寧で、少しだけくすぐったい。
「……もう動かしても?」
「今日はあまり無茶をなさらないと約束してくださるなら」
「善処する」
「確約を」
「……します」
「よろしいです」
ようやく閂が手を離した。
治った指先を軽く動かしてみる。
ちゃんと動く。
痛みも、ほとんど残っていない。
怒ってくれる。
呆れてくれる。
治してくれる。
ここにいてくれる。
まるで本当の家族のように、私の傍にいてくれる。
それだけで十分だった。