華には修羅がある~修羅道より回帰した令嬢は運命を覆す~ 作:華洛
けれど、閂はまだ納得していない顔だった。
私の指先を見つめたまま、わずかに眉を寄せる。
「神奈さま。今日は何の日か、きちんと覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん。朝から閂に怒られる日」
「違います」
即答だった。
「今日は、武士見習いを終えるための試験の日です」
「ああ、うん。それもあったね」
「“それも”ではありません」
ぴしゃりと返される。
閂の声音には、呆れと心配が半分ずつ混じっていた。
「今日の試験を終えれば、神奈さまは正式に武士見習いを卒業なさいます。そうなれば、黄泉比良坂の中層――幽世路より下への潜行資格も与えられるのですよ」
「うん」
「うん、ではありません」
閂は私の手をそっと下ろし、まっすぐこちらを見た。
「これまでは見習いとして、行ける場所にも制限がありました。ですが今日を境に、その制限が一つ外れます。神奈さまが本格的に黄泉へ近づいていく日でもあるのです」
その言葉に、私は少しだけ目を細めた。
黄泉比良坂。
上層・現世境のさらに下。
中層・幽世路より下は、見習いの立ち入れる領域ではない。
空間が歪み、方角が狂い、時間感覚すら曖昧になる神隠しの道。
そして、そのさらに先へ続く根国、黄泉戸、穢界――。
前の人生では、嫌というほど潜った。
潜って、斬って、壊して、失って。
それでもなお足りず、最後には地獄にまで落ちた。
けれど今の私は、まだ十二歳の武士見習いだ。
制度の上では、ようやく入口に立つ段階にすぎない。
問題は、今の私の身体だった。
修羅道無限回廊で積み上げた霊力は、この幼い器には過剰すぎる。
ほんの僅かに放出しただけで、指が弾け飛ぶほどに。
試験には実技がある。霊力を使わずに切り抜けられるとは思っていない。
どこまで抑えれば壊れないか、その加減がまだ掴めていなかった。
それが、正直なところだった。
「だからこそ、試験前からご自分の指を破裂させるなど、もってのほかです」
「そこに繋がるんだ」
「繋がります」
閂は一歩も引かなかった。
「訓練するにしても、やり過ぎです。神奈さまが昔からそういう方なのは知っていますが、それでも限度があります」
「……昔から?」
「はい。思いついたらすぐ試す。限界までやる。壊れてから止まる。昔からずっとそうです」
「ひどい言われようだ」
「事実です」
反論できない。
たぶん本当にそうだったのだろう。
(太公望、どう思う?)
《概ね事実かと》
(ひどくない?)
《修羅道無限回廊でも似たようなものでした》
味方がいない。
でも、少しだけ可笑しかった。
前の人生でも、その前の地獄でも、私は結局ずっとこんな感じだったらしい。
閂は小さく息をつく。
「今日の試験は、ただ形だけのものではありません。武士見習いを終えるということは、神奈さまがこれまでより深い黄泉へ足を踏み入れる資格を得るということです」
「……うん」
「ですから、せめて試験の日くらいは、ご自分の身体を大事になさってください」
その言い方は、叱責というより願いに近かった。
閂が心配しているのは、体面だけじゃない。
今の私が霊力の加減を誤れば、試験の場で自壊する可能性がある。
それを、閂はちゃんと分かっている。言葉にはしないけれど、その目がそう言っていた。
私は少しだけ視線を落とし、治ったばかりの指先を見た。
さっきまで裂けていたそこは、もう綺麗に塞がっている。
そして、ふと思いついた。
「ねえ、閂」
「はい」
「今回の試験、一般枠で受けたい」
数秒、沈黙が落ちた。
閂は瞬きひとつせず、私を見ている。
その無言が、だいたいの感情を物語っていた。
「……は?」
珍しく、間の抜けた声だった。
「一般枠ですか?」
「うん」
「華族枠ではなく?」
「そう」
「なぜ、そのようなことを急に仰るのですか」
もっともな反応だと思う。
素戔嗚家は勲功華族の侯爵家だ。
その娘である私が、わざわざ一般枠で受ける理由など、本来ならない。
でも、今回はある。
武士見習修了試験には、一般枠と華族枠がある。
一般枠は筆記と実技。
華族枠は筆記免除で実技のみ。
名目上は、幼少期から家学や私塾で教育を受けている華族子弟への配慮ということになっている。
けれど、華族枠にはどうしても家名への遠慮が混じる。
露骨な贔屓とまではいかなくても、判定が甘くなることはある。
少なくとも、前の人生の私はそう感じていた。
それに、今回は前の人生と同じように進めるつもりはない。
最初の一歩から、自分で選びたい。
「忖度されて受かっても、面白くないから」
「面白いかどうかで決めることではありません」
「でも、実力があるなら一般枠でも受かるでしょう?」
「それはそうですが……そういう問題ではありません」
閂の眉間の皺が深くなる。
「神奈さまは素戔嗚家の方です。勲功華族がわざわざ一般枠に紛れるなど、聞いたことがありません」
「じゃあ、初めてってことだね」
「そういう話ではありません」
ぴしゃりと返される。
でも、完全に否定しきれないあたり、閂も困っているのだろう。
私は肩をすくめた。
「華族枠で受けたら、素戔嗚家の娘ってだけで周りも試験官も気を遣うよ。だったら最初から一般枠で受けて、黙らせたほうが早い」
「その“黙らせる”という発想が、すでに穏当ではありません」
「穏当じゃないかな」
「穏当ではありません」
即答だった。
しばらく閂は黙っていた。
たぶん、素戔嗚家としての体面と、私の言い出したことをどう現実に落とし込むかを、同時に考えているのだろう。
こういうときの閂は早い。
感情で止めるだけではなく、止められないと判断した瞬間に、実行可能な形へ整え始める。
それは前の人生でも変わらなかったし、今もそうだ。
「……方法がないわけではありません」
「あるんだ」
「神奈さまがこういう無茶を仰るのは、今に始まったことではありませんから」
少しだけ呆れた声だった。
でも、その呆れの奥に諦めと慣れがある。
「勲功華族は黄泉比良坂へ潜る関係で、穢れを纏いやすい家系です。そのため一般人からは、あまり好意的に見られないこともあります」
「うん」
「ですから、外で余計な騒ぎを起こさぬよう、身分を伏せるための偽装身分が用意されております。名や戸籍、所属を一時的に偽るためのものです」
なるほど。
前の人生では使う機会がなかったから、知らなかった。
勲功華族は国を守るために黄泉へ潜る。
でもその結果、穢れを纏う。
人々を守る側でありながら、同時に忌避もされる。
なんとも面倒な立場だ。
「それ、使えるの?」
「本来は、視察や潜入、あるいは私的行動の際に用いるものです。試験に使うのは褒められた話ではありませんが……神奈さまが本気で一般枠を受けると仰るなら、表向きは勲功華族の関係者ではない形に整えることは可能です」
「さすが閂」
それは本心だった。
私が無茶を言っても、閂はただ怒るだけじゃない。
怒ったうえで、実現可能な形にまで落としてくれる。
前の人生でも、地獄を越えた今でも、それは変わらない。
「褒めても何も出ません」
「分かってる。でも、本当にそう思ってるよ」
閂は小さく息を吐いた。
それ以上は言わなかった。受け取ってくれたのだろう、と思った。
「ただし」
閂の声が少し低くなる。
「素戔嗚家としては、あまり褒められた振る舞いではありません。神奈さまが一般枠で受けるとなれば、万一にも正体が露見した際、余計な詮索を招きます」
「うん」
「それでも、なさるのですか?」
私は少しだけ笑った。
「うん。やる」
迷いはなかった。
前の人生では、与えられた枠の中で動いていた。
でも今回は違う。
最初の一歩から、自分で選ぶ。
たとえ小さな分岐でも、それは確かに前とは違う道だ。
閂は私を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……承知しました。では、一般人に偽装するためのものを用意いたします」
「ありがとう」
「ただし、試験が終わるまでは絶対に無茶をなさらないでください」
「善処する」
「確約を」
「……します」
「本当でしょうね?」
「たぶん」
「神奈さま」
「はい。します」
即座に訂正すると、閂はようやく少しだけ表情を和らげた。
でも、その目の奥にはまだ心配が残っている。
当然だと思う。
私は転生した初日の朝から指を破裂させ、そのうえ今度は一般枠で受けると言い出したのだ。
閂からすれば、頭痛の種が増えただけだろう。
それでも、嫌な顔ひとつせずに段取りを組んでくれる。
そのことが、少しだけ胸に沁みた。
転生した最初の朝は、閂に怒られ、太公望にあっさり切り捨てられ、それでも思っていたより、ずっと穏やかなものになった。
でも、悪くない。
むしろ、かなりいい。
私が十二歳の頃には父さまはもういない。
だから失ったものが消えるわけじゃない。
けれど、まだ守れるものがある。
まだ間に合うものがある。
風臥兄さんも。
閂も。
そしてたぶん、前の人生で取りこぼしたいくつものものも。
今日、武士見習いを終える。
今日から私は、また黄泉へ近づいていく。
しかも今度は、ただ与えられた道を進むんじゃない。
自分で選んだ形で、自分の足で進む。
なら、やることは決まっている。
今度こそ、全部拾う。
拾って、守って、必要なら叩き潰す。
そう静かに決めながら、私は治ったばかりの指先を見つめた。
痛みはもうほとんどない。
けれど、さっきまでそこにあった熱だけは、まだ微かに残っている。
生きている。
やり直せる。
そして何より――もう一度、ここから始められる。
その始まりの日としては、悪くない。
私は小さく息を吐き、ほんの少しだけ笑った。