七年前――。
その日は突然の痛みとともに始まった。
「どぉん!」
「ぐぇぁ」
寝ぼけ眼でわずかに目を開くと、ラピスの顔が映り込んできた。
視線を自分の腹のほうへ動かすと、どうやら、ラピスが乗りかかってきたようだ。
ラピスはいたずらっぽく笑うと、口を開いた。
「ぐぇ~、だって。ほら、お兄ちゃん! 朝だよ! 朝! 起きて!」
ラピスはニクスの腹の上で跳ねる。
「ちょ。重い。重いってば!」
「あ~、女の子に重いって言ったらダメなんだよ~」
「ぐっ……とりあえず、起きるから、早く降りてくれ!」
「もう仕方ないな」
そう言って、ラピスは跳ねるようにニクスの上から飛び退いた。
「今日から出かけるんだし、早く起きないとってお母さんが言ってたよ」
……そういえばそうだった。
「分かったよ。すぐ降りる」
ラピスは満足そうにうなずくと、部屋を出て行った。
ニクスが一階へ降りると、母――アーシャが朝食を用意しているところだった。
長めの青い髪に穏やかな目元が印象的な女性。その顔立ちにはラピスの面影がある。
アーシャはこちらに気づくと、柔和な微笑みをたたえた。
「おはよう、ニクス」
「おはよう、母さん」
ニクスはあたりを見回す。
「……って、ラピスいないじゃん。人にはさっさとしろとか言ってたくせに」
「あー、ラピスならお父さんを起こしに行ってくれたわよ。あと、そんな悪態つかないの」
「いや、いきなり腹に乗って起こされたんだから、言いたくもなるよ」
ニクスの後ろからラピスの声が聞こえてきた。
「え~、だって、お兄ちゃん、つんつんしても起きないんだもん」
振り返ると、ラピスと父――アルノが入ってきたところだった。
がっしりとした体格に、青灰色の髪。鋭い目が特徴的だ。今は顔をわずかに下へ向け、げんなりしたように肩を落としていた。
「だからって、人の上に乗るなよ……。もしかして、父さんも乱暴に起こしたのか?」
「らんぼう?」
ラピスはきょとんと首をかしげていた。
アルノは苦笑しながら、アーシャに視線を送る。
「母さん、さすがに乗りかかるのは、危ないから注意したほうがいいと思うぞ……」
「ん~……、そうね。ラピス、めっ!」
本当に注意する気があるのだろうか。
当のラピスはきゃっきゃしながら、笑みを浮かべていた。
ニクスは軽くため息をつくと、食卓に着き、家族で朝食を食べ始めた。
四人が朝食を終えると、アルノが切り出した。
「母さん、今日ってどこ行くんだっけか」
「ええ、ちょっと待ってね」
アーシャはテーブルに地図を広げた。各々が地図を覗き込むと、アーシャは一か所を指し示した。その場所は、レリア公国南東。
「ここに保養地があるらしいの。公国まで列車で行って、そこからは馬車に乗って移動かしらね」
「有名なところなのか?」
「マウテさん曰くだけど、最近広まってきたらしいわ。街道が整備された影響みたい」
「となると、人が多いかもしれないなぁ。馬車も取れるか?」
「どうかしら。行ってみれば何とかなるんじゃない?」
そこはあらかじめ確認しておいた方がいいのでは……。
こういうところ、母さんは抜けてる気がする。
「馬車と言えば、今回護衛付きにしないで問題ないわよね。お金もかかるし」
「ああ、そうだな。ただ、汎用の
「あなたのは持っていかないのね」
「まあ、休みぐらいはな。できれば、仕事のことはあんまり考えたくない」
「それはそうよね。となると、いくらかかるか聞かないといけないわね」
「そうだな。よし、それなら、準備して出発するか!」
アルノの言葉に三人はそろってうなずいた。
それから、各々が準備に取り掛かり、四人は家をあとにした。
魔導列車に乗り込み、レリア公国へ。公国で問題なく馬車も調達でき、そのまま保養地への街道を進む。整備されたと聞いていた通り、街道の脇には等間隔に魔素調整機が設置されていた。
ニクスは馬車に揺られながら、窓の外へ目を向ける。街道の先になだらかな山々が見え、その麓にはいくつかの建物が並んでいた。
ほどなくして、保養地の看板が見え、一行は足を踏み入れた。
ラピスが目を輝かせながら、辺りを見回している。
「おお~!」
ニクスも同じく、視線を向けた。所々に露店が並んでおり、旅行者と思われる人々が行き交っていた。それだけでなく、客寄せの声も盛んに聞こえ、遠目に白い湯気が立ち昇っているのも見える。
混んでいるというほどではないが、人はそれなりに多いようだ。
ラピスははしゃいだように声を上げた。
「ねぇ、お父さん! あっち行ってみたい!」
ラピスが露店を指さした。
「おう、いいぞ~。今日はとことん回ろう!」
ラピスは嬉しそうに笑みを浮かべ、アルノとともに露店へ歩みを進めた。
初日からそんなにはしゃいで疲れないのだろうか。
そう思いながらも、ニクスの足取りは軽くなっていた。そのまま、ニクスとアーシャも二人のあとをついていった。
それから、四人は名物の食べ物や景色を堪能しながら、保養地を見て回った。
そうこうしているうちに日も傾き始め、宿へ向かうことにした。
宿は古めの木造の建物。中で受付を済ませると、従業員に案内され、部屋へと通された。
荷物を置いて、一息ついたところで、アルノが口を開いた。
「さて、さっそく、ひと風呂浴びるかぁ」
「そうね。私たちも行きましょうか。ラピス」
「うん!」
ラピスは元気よく返事すると、アーシャに駆け寄った。
ニクスもアルノとともに浴場へ向かった。
脱衣所で服を脱ぎ、浴場へ足を踏み入れる。目の前には石造りの大きな湯船が広がっていた。周囲は木柵で囲まれ、その向こうには夜の山並みが見える。そして、かすかに月の光が湯船を照らし、辺りには静かな空気が漂っていた。
二人は体を洗うと、湯船に身を沈める。アルノは軽く息を吐いた。
「……いい湯だなぁ。そう思わないか?」
「確かに、そうだね」
こうやって父さんと一緒に入るのも、久々かもしれない。
「ゆっくりするのも久々だなぁ。母さんに感謝しないとな」
「ここのことを教えてくれたの、マウテさんらしいけどね」
ニクスはふとアルノの背中を眺める。その背中には所々傷跡がついていた。
魔物と戦ってきたせいだろうか。
「ねぇ、父さん」
「ん?」
「仕事って大変?」
「いきなり、どうした? そんなこと言いだして」
「別に。ただ気になっただけだよ」
「もしかして、魔装士にでもなりたいのか? 少し聞いたけど、魔装器の資料を見てるんだってな」
ニクスは軽く眉間のしわを寄せた。
「それ、誰から……」
「そりゃあ、一人しかいないだろ」
母さんか。本当におしゃべりだな……。
ニクスはため息をついた。
「そうやって、あんまりため息つくもんじゃないぞ? 幸せが逃げるなんて話もあるしな」
「そんなわけないと思うんだけど……。ってか、父さんが触らせてくれないからなんだけど」
「そりゃあ、触らせるわけないだろ。危ないんだから」
ニクスはじっとアルノをみつめた。
「さっきの質問、答えてくれてないよ」
「あー、そうだな。そりゃあ、大変だぞ。なにせ、命をかけてるからな」
「……でも、やめないんだね」
「理由があるからな」
ニクスは首をかしげる。月を見上げながら、アルノは言った。
「なんてことはない。守るために戦っているだけさ」
「守るため……?」
「ああ、魔物と戦うことは、巡り巡ってお前たちを守ることにもつながるからな」
アルノはニクスの頭を強引に撫でた。ニクスは煩わしそうに、その手を払いのける。
「総局にはな。一つの理念があんだよ」
「理念?」
「望まないものに武器を持たせない世の中にする」
「平和にするとか、そういうことじゃないんだ」
アルノは湯船の縁に腕を預けた。
「……まぁな。簡単に実現できないからな」
「ってか、結局武器を取るなら同じじゃ……」
「全然違うだろぉ。己の
「平和を掲げるほうがよほどいいと思うけど」
「理念なんて、変えてもいいんだよ。最終的に目指す場所が平和だとしても、一つ一つ踏み越えていかないとな。その先に安寧が待ってるかもしれねぇ」
言いたいことはなんとなくわかる。
でも、どうしても武器を取らないといけないときだって、あるんじゃないだろうか。
ニクスは夜空を見上げながら、口を開いた。
「……難しいことよくわかんない」
「今、急に子供ぶったな……」
アルノは軽く苦笑し、同じく夜空を見上げた。
しばらく無言で眺めていると、アルノが立ち上がった。
「……さて、あんまり長湯してると、体に悪いからな。そろそろ出るぞ」
「うん、わかった」
ニクスも湯船から上がり、アルノのあとに続く。
出口へ向かおうとしたところで――。
アルノがふと足を止め、ニクスのほうへ振り返った。
「父さん、どうしたの?」
ニクスは首をかしげながら、アルノを見る。その表情は真剣そのもの。彼の視線につられて、ニクスも柵の向こうを見た。
「……ニクス、今何か聞こえなかったか?」
「え……別に何も――」
ニクスが話し終える前にけたたましい鐘の音が響き渡った。ニクスはびくりと体をすくませた。
「な、なんだ!?」
「ニクス、出るぞ……!」
「え、あ、うん!」
そのまま、二人は急いで出入口へと向かった。