この不思議溢れる世界の神主さん   作:雀っていいよね

1 / 3
見える子ちゃんの場合

 

 

 

 ずっと、いる。

 

 女子高校生の四谷みこは、スマートフォンの画面を見つめたまま、ただ一定の速度で歩き続けていた。

 画面はとっくにロックがかかって暗転している。その黒い硝子の上に、自分の顔と一緒に、それは映り込んでいた。

 

 みこのすぐ後ろ。肩のあたりから、ぐにゃりと歪んだ頭部が覗いている。

 それは肌色をした泥のような質感で、顔の真ん中に、縦に裂けた大きな口だけがあった。歯はなく、ただ真っ黒な空洞が、みこの歩調に合わせて細かく上下に揺れている。

 

 いつからついてきているのかは分からない。

 いつも通りの通学路、いつも通りの駅。気づけばそいつは、人混みの隙間、電車の窓、自販機の裏、あらゆる場所に、毎回同じ距離を保って立っていた。

 

 走らない。逃げない。

 みこはただの女子高生として、夕暮れの商店街を平然と歩き続ける。

 店先のお惣菜を少しだけ眺め、興味がなさそうに通り過ぎる。すれ違う主婦の買い物カゴに視線をやり、それからまたスマホに目を落とす。

 

 ――無視、無視、無視。私は何も見てない。何も知らない。

 

 心の中で狂ったように念じながら、暗い画面を見る。

 画面の中のそいつの口が、さっきより少しだけ、横に広がった気がした。

 

 

 自宅の方向へ引っ張るわけにはいかなかった。現実的な灯り、現実的な人の声がある場所を求めて、みこは無意識に商店街の奥へと足を向けていた。

 

 ふと、脇道に目が留まる。

 八百屋と衣料品店の間に、大人が一人やっと通れるほどの細い路地があった。

 毎日使っている商店街だ。こんな道、今まであっただろうか。古いレンガの壁の奥、突き当たりに、小さな石の鳥居が見える。

 

 みこは歩調を変えなかった。ただ、いま思いついたかのように、自然な動作でスマホを制服のポケットに収める。

 そして、道を間違えてたまたま入り込んでしまった、という風を装って、その細い路地へと足を踏み入れた。

 

 ずり、と後ろの泥が、壁に擦れる音がした。

 ついてきている。演技はまだ破綻していない。みこはそのまま、ただの参拝客のような顔で、古い鳥居をくぐった。

 

 

 鳥居の奥は、思いのほか普通の境内だった。

 石畳は綺麗に掃き清められており、低い灯籠がいくつか並んでいる。ただ、商店街のすぐ裏にあるにしては、妙に静かだった。

 

 みこが境内の真ん中まで進んだ時。

 

 チリン――。

 

 どこか奥の方から、低く澄んだ鈴の音が一つだけ響いた。

 

 

 同時に、拝殿の脇から、一人の男が歩いて出てきた。

 

 白衣に浅葱の袴。どこにでもある神主の装束を纏った青年だった。

 背がやたらと高く、すらりとした体躯。その右手には、底に振り子のない、中身が空っぽの古い鈴が握られていた。鳴るはずのないそれを、男は無造作に懐へ仕舞う。

 

 みこは咄嗟に、拝殿の前へと進んだ。

 財布から五円玉を取り出し、賽銭箱へと落とす。カランと軽い音が響く。

 二礼、二拍手。手を合わせ、目を閉じる。

 

 ――私はただの参拝客です。何も変なものは見えていません。

 

 神主は、そんなみこの様子をじっと見ていた。

 やがてみこが手を下ろし、何でもない風を装って振り返ったとき、神主はまっすぐに彼女の後ろを見ていた。

 

 みこの肩越し、すぐ後ろにいる、縦に裂けた口。

 神主の視線は、明確にその暗黒の空洞を捉えていた。驚く風でもなく、眉をひそめるでもなく、ただ、そこに落ちているゴミを見るかのような、ひどく日常的な視線だった。

 

 この人には、見えている。

 みこは心臓が止まるかと思った。けれど、神主は大声を出すことも、怯えることもなかった。

 

「参拝か」

 

 ただ一言、神主はそう言った。

 それから、顎で社務所の方を指す。

 

「茶でも飲んでいきなさい」

 

 

 社務所の畳は、新しくはないが綺麗だった。

 みこは座布団の上に静かに座り、出された温かい緑茶に口をつけた。

 

 外の商店街の音は、なぜかここまでは全く届かない。まるで世界から切り離されたかのように、ただお茶をすする音だけが小さく響く。

 神主はみこの向かい側に座り、自分の湯呑みを眺めていた。

 

「どこから来た」

「……二つ前の、停留所の近くです」

「そうか」

 

 それだけの会話。

 神主は、みこの後ろに何かがいることについて、一切触れようとしなかった。「何が見えるのか」とも聞かないし、「怖かっただろう」とも言わない。

 ただ、普通に茶を出し、普通にそこに座っている。

 

 みこもまた、何も言わなかった。ここで何かを口にしてしまえば、自分の負けだという気がしていた。

 

 その時、社務所の入り口、障子の隙間から、どろりとした肌色の泥が染み込んできた。

 あの縦に裂けた口が、ずるりと隙間を押し広げ、中へ入ろうとしていた。

 みこの身体が、恐怖でカチリと硬直する。湯呑みを持つ指先が、微かに震えた。

 

 神主は、ふぅ、と小さく息を吐いて立ち上がった。

 

「少し、外の空気を入れ替える」

 

 そう言って、神主はそのまま、すたすたと外へ出て行った。身のこなしには一切の力みがなく、ただ庭の掃除にでも行くかのような、静かな足運びだった。

 

 

 みこは、社務所の中から開いた障子の隙間を通して、外の境内を見つめていた。

 

 神主は、鳥居の手前まで這い出ていた怪異の前に、ふらりと立った。

 怪異は神主を見上げ、その裂けた口をさらに大きく広げる。

 

 神主の袖が、微かに揺れた。

 パシィン、と乾いた柏手の音が、境内に一つだけ響く。

 

 みこが、思わず瞬きをした。

 その、ほんの一瞬の、皮膚が擦れるほどの時間。

 

 気づけば、怪異の姿はどこにもなかった。

 叫び声も、煙も、光もない。さっきまでそこにいたはずの肌色の泥は、文字通り、最初から存在しなかったかのように消え去っていた。ただ、神主が手にした御幣が、夕暮れの風に小さく揺れているだけだった。

 

 何が起きたのか、みこには分からなかった。

 ただ、分かったことが一つだけある。この人は、あれを見ていた。見たうえで、何事もなかったみたいに片付けた。

 

 

 神主は何事もなかったかのように社務所に戻ってくると、みこの前に座り直した。

 彼女の湯呑みを一瞥し、冷めかけた茶を新しいものに替える。

 

「……あの」

 

 みこは、小さく声を絞り出した。

 

「なんだ」

 

 神主はいつも通り、淡々とした声で返す。

 

「……いえ。なんでもないです。お茶、ごちそうさまでした」

 

 見えている、とは最後まで言わなかった。

 神主もまた、何も言わなかった。ただ、机の引き出しから、何も書かれていない、ごくシンプルな白い布製の御守りを一つ取り出し、みこの前に無造作に置いた。

 

「これ、持っておけ」

「え……」

「気休めにはなる。なくすなよ」

 

 それ以上の説明はなかった。

 

 

 神社を出て、細い路地を歩く。

 

 商店街の明るい光の中へと戻り、みこはハッと我に返って後ろを振り返った。

 八百屋と衣料品店の隙間。そこには確かに薄暗い空間があった。鳥居は見えない。けれど、よく見れば、奥の暗がりに小さな灯りがあるような気がした。

 

 街を見渡せば、相変わらず電柱の影や、ビルの隙間には、別の悍ましい形をした異形たちが蠢いている。みこの見える体質が治ったわけではなかった。明日からもまた、この地獄のような無視を続けなければならない。

 

 けれど、少なくとも、今だけは。

 制服のポケットの中の御守りを握っている間だけは、少しだけ息がしやすかった。

 

 

 誰もいなくなった小鳥依神社の境内。

 

 社務所の机の上には、中身のない鈴が、元の場所に静かに置かれている。

 神主はいつものように、使った湯呑みを洗い、静かに片付けを続けていた。

 

 境内には、神様の姿も、怪異の残滓もない。

 ただ、夕闇が深まる木々の梢で、小さな雀がちちっ、と一度だけ、気まぐれに鳴いた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。