この不思議溢れる世界の神主さん 作:雀っていいよね
ずっと、いる。
女子高校生の四谷みこは、スマートフォンの画面を見つめたまま、ただ一定の速度で歩き続けていた。
画面はとっくにロックがかかって暗転している。その黒い硝子の上に、自分の顔と一緒に、それは映り込んでいた。
みこのすぐ後ろ。肩のあたりから、ぐにゃりと歪んだ頭部が覗いている。
それは肌色をした泥のような質感で、顔の真ん中に、縦に裂けた大きな口だけがあった。歯はなく、ただ真っ黒な空洞が、みこの歩調に合わせて細かく上下に揺れている。
いつからついてきているのかは分からない。
いつも通りの通学路、いつも通りの駅。気づけばそいつは、人混みの隙間、電車の窓、自販機の裏、あらゆる場所に、毎回同じ距離を保って立っていた。
走らない。逃げない。
みこはただの女子高生として、夕暮れの商店街を平然と歩き続ける。
店先のお惣菜を少しだけ眺め、興味がなさそうに通り過ぎる。すれ違う主婦の買い物カゴに視線をやり、それからまたスマホに目を落とす。
――無視、無視、無視。私は何も見てない。何も知らない。
心の中で狂ったように念じながら、暗い画面を見る。
画面の中のそいつの口が、さっきより少しだけ、横に広がった気がした。
自宅の方向へ引っ張るわけにはいかなかった。現実的な灯り、現実的な人の声がある場所を求めて、みこは無意識に商店街の奥へと足を向けていた。
ふと、脇道に目が留まる。
八百屋と衣料品店の間に、大人が一人やっと通れるほどの細い路地があった。
毎日使っている商店街だ。こんな道、今まであっただろうか。古いレンガの壁の奥、突き当たりに、小さな石の鳥居が見える。
みこは歩調を変えなかった。ただ、いま思いついたかのように、自然な動作でスマホを制服のポケットに収める。
そして、道を間違えてたまたま入り込んでしまった、という風を装って、その細い路地へと足を踏み入れた。
ずり、と後ろの泥が、壁に擦れる音がした。
ついてきている。演技はまだ破綻していない。みこはそのまま、ただの参拝客のような顔で、古い鳥居をくぐった。
鳥居の奥は、思いのほか普通の境内だった。
石畳は綺麗に掃き清められており、低い灯籠がいくつか並んでいる。ただ、商店街のすぐ裏にあるにしては、妙に静かだった。
みこが境内の真ん中まで進んだ時。
チリン――。
どこか奥の方から、低く澄んだ鈴の音が一つだけ響いた。
同時に、拝殿の脇から、一人の男が歩いて出てきた。
白衣に浅葱の袴。どこにでもある神主の装束を纏った青年だった。
背がやたらと高く、すらりとした体躯。その右手には、底に振り子のない、中身が空っぽの古い鈴が握られていた。鳴るはずのないそれを、男は無造作に懐へ仕舞う。
みこは咄嗟に、拝殿の前へと進んだ。
財布から五円玉を取り出し、賽銭箱へと落とす。カランと軽い音が響く。
二礼、二拍手。手を合わせ、目を閉じる。
――私はただの参拝客です。何も変なものは見えていません。
神主は、そんなみこの様子をじっと見ていた。
やがてみこが手を下ろし、何でもない風を装って振り返ったとき、神主はまっすぐに彼女の後ろを見ていた。
みこの肩越し、すぐ後ろにいる、縦に裂けた口。
神主の視線は、明確にその暗黒の空洞を捉えていた。驚く風でもなく、眉をひそめるでもなく、ただ、そこに落ちているゴミを見るかのような、ひどく日常的な視線だった。
この人には、見えている。
みこは心臓が止まるかと思った。けれど、神主は大声を出すことも、怯えることもなかった。
「参拝か」
ただ一言、神主はそう言った。
それから、顎で社務所の方を指す。
「茶でも飲んでいきなさい」
社務所の畳は、新しくはないが綺麗だった。
みこは座布団の上に静かに座り、出された温かい緑茶に口をつけた。
外の商店街の音は、なぜかここまでは全く届かない。まるで世界から切り離されたかのように、ただお茶をすする音だけが小さく響く。
神主はみこの向かい側に座り、自分の湯呑みを眺めていた。
「どこから来た」
「……二つ前の、停留所の近くです」
「そうか」
それだけの会話。
神主は、みこの後ろに何かがいることについて、一切触れようとしなかった。「何が見えるのか」とも聞かないし、「怖かっただろう」とも言わない。
ただ、普通に茶を出し、普通にそこに座っている。
みこもまた、何も言わなかった。ここで何かを口にしてしまえば、自分の負けだという気がしていた。
その時、社務所の入り口、障子の隙間から、どろりとした肌色の泥が染み込んできた。
あの縦に裂けた口が、ずるりと隙間を押し広げ、中へ入ろうとしていた。
みこの身体が、恐怖でカチリと硬直する。湯呑みを持つ指先が、微かに震えた。
神主は、ふぅ、と小さく息を吐いて立ち上がった。
「少し、外の空気を入れ替える」
そう言って、神主はそのまま、すたすたと外へ出て行った。身のこなしには一切の力みがなく、ただ庭の掃除にでも行くかのような、静かな足運びだった。
みこは、社務所の中から開いた障子の隙間を通して、外の境内を見つめていた。
神主は、鳥居の手前まで這い出ていた怪異の前に、ふらりと立った。
怪異は神主を見上げ、その裂けた口をさらに大きく広げる。
神主の袖が、微かに揺れた。
パシィン、と乾いた柏手の音が、境内に一つだけ響く。
みこが、思わず瞬きをした。
その、ほんの一瞬の、皮膚が擦れるほどの時間。
気づけば、怪異の姿はどこにもなかった。
叫び声も、煙も、光もない。さっきまでそこにいたはずの肌色の泥は、文字通り、最初から存在しなかったかのように消え去っていた。ただ、神主が手にした御幣が、夕暮れの風に小さく揺れているだけだった。
何が起きたのか、みこには分からなかった。
ただ、分かったことが一つだけある。この人は、あれを見ていた。見たうえで、何事もなかったみたいに片付けた。
神主は何事もなかったかのように社務所に戻ってくると、みこの前に座り直した。
彼女の湯呑みを一瞥し、冷めかけた茶を新しいものに替える。
「……あの」
みこは、小さく声を絞り出した。
「なんだ」
神主はいつも通り、淡々とした声で返す。
「……いえ。なんでもないです。お茶、ごちそうさまでした」
見えている、とは最後まで言わなかった。
神主もまた、何も言わなかった。ただ、机の引き出しから、何も書かれていない、ごくシンプルな白い布製の御守りを一つ取り出し、みこの前に無造作に置いた。
「これ、持っておけ」
「え……」
「気休めにはなる。なくすなよ」
それ以上の説明はなかった。
神社を出て、細い路地を歩く。
商店街の明るい光の中へと戻り、みこはハッと我に返って後ろを振り返った。
八百屋と衣料品店の隙間。そこには確かに薄暗い空間があった。鳥居は見えない。けれど、よく見れば、奥の暗がりに小さな灯りがあるような気がした。
街を見渡せば、相変わらず電柱の影や、ビルの隙間には、別の悍ましい形をした異形たちが蠢いている。みこの見える体質が治ったわけではなかった。明日からもまた、この地獄のような無視を続けなければならない。
けれど、少なくとも、今だけは。
制服のポケットの中の御守りを握っている間だけは、少しだけ息がしやすかった。
誰もいなくなった小鳥依神社の境内。
社務所の机の上には、中身のない鈴が、元の場所に静かに置かれている。
神主はいつものように、使った湯呑みを洗い、静かに片付けを続けていた。
境内には、神様の姿も、怪異の残滓もない。
ただ、夕闇が深まる木々の梢で、小さな雀がちちっ、と一度だけ、気まぐれに鳴いた。