この不思議溢れる世界の神主さん 作:雀っていいよね
ケータの住む町、さくらニュータウンは、今日も今日とて平和だった。
妖怪不祥事案件のせいであちこちで小さな騒動は起きているものの、それはもう日常の一部のようなものだ。ケータの腕にある妖怪ウォッチが光れば、そこには必ずヘンテコな妖怪の姿があり、友達になった妖怪メダルをセットすれば、大抵のトラブルはドタバタしながらも解決する。
そんな、いつもの愉快な日々。
のはずだったのだが、ここ数日、ケータはどうも妙な違和感を覚えていた。
町が、静かなのだ。
いや、車は走っているし、人は歩いている。物理的な騒音はいつも通りだ。静かなのは、妖怪たちの気配だった。
普段なら、しょうもない理由で電柱の陰で言い争っているような小さな妖怪たちが、ぱったりと姿を見せなくなっていた。
人間に大きな悪さをするわけでもない、道端の石の下や、店先の看板の裏にいるような、取るに足らない妖怪たち。彼らが、特定の路地や商店街の奥から、まるで潮が引くようにいなくなっている。
ケータは手首の妖怪ウォッチのサーチライトを灯し、いつも妖怪がたむろしている空き地を照らしてみた。
しかし、反応はない。レンズの向こうには、ただの土管と雑草が映っているだけだった。
「ねえ、ウィスパー。最近、その辺の妖怪少なくない?」
「はて。気のせいじゃないですかねぇ。最近の若手妖怪は根性がありませんから、少し暑いくらいで日陰に引きこもっているんですよ、きっと」
ウィスパーは宙に浮きながら、いつものように適当なことを言っている。
しかし、足元でチョコボーをかじっていたジバニャンは、どこか落ち着かない様子で尻尾を揺らしていた。
「……なんか、嫌な感じがするニャン。うまく言えないけど、あっちの道には絶対行きたくないニャン」
ジバニャンが指差したのは、駅前へと続く商店街の方向だった。
あのジバニャンが、大好きなアイドルのポスターが貼ってあるCDショップの方向を避けるなんて、明らかにおかしい。
ケータは首を傾げた。
妖怪メダルに登録されている妖怪なら、近くにいれば何かしらの気配を感じるはずだ。だが、ある地点から先で、まるで電波が途切れるようにぷつりと反応が消えている。
その日の夕方。
母親に頼まれたおつかいのため、ケータたちは夕暮れの商店街を歩いていた。
シャッターが閉まり始めた店が多くなり、買い物客の姿もまばらになっている。オレンジ色の夕日が、長く不気味な影を地面に落としていた。
ふと、ジバニャンがぴたりと足を止めた。
全身の毛が、文字通り逆立っている。
「ジバニャン? どうしたの?」
「あ……あそこ……ニャン……」
ジバニャンが震える肉球で指差したのは、精肉店と薬局の間にある、薄暗い路地裏だった。
ケータは妖怪ウォッチのカバーを開け、レンズをその暗がりへと向けた。
ライトの光の先に、見覚えのある赤い猫のシルエットが浮かび上がった。
「なんだ、ジバニャンじゃん。って、あれ? ジバニャンはここにいるし……」
「わ、わ、わたくしの妖怪パッドには、そっくりさん妖怪のデータなんてありませんよ!?」
ケータとウィスパーが目を凝らす。
そこにいたのは、確かにジバニャンの姿をしていた。だが、決定的に何かがおかしかった。
まず、首の角度だ。真横に九十度近くへし折れたような角度で、こちらをじっと見つめている。
そして、二本あるはずの尻尾の先端。そこに、あの特徴的な青い人魂の火が燃えていない。ただの肉の塊のように垂れ下がっている。
「ジバ……ニャン……」
声が聞こえた。
いや、聞こえたような気がしただけかもしれない。口の動きと、聞こえてくる声のタイミングが、ひどくズレているのだ。まるで、出来の悪い腹話術を見せられているようだった。
ケータの腕で、妖怪ウォッチがガリガリと不快な電子音を鳴らした。
文字盤が激しく明滅している。妖怪なら一瞬で表示されるはずの種族マークが出ない。名前も出ない。顔アイコンの部分には、ただ砂嵐のようなノイズが走っているだけだった。
「ニャ、ニャアアアアアッ!?」
ジバニャンが、かつてないほどの悲鳴を上げてケータの背後に隠れた。
トラックに撥ねられることすら恐れない地縛霊が、本能から来る純粋な恐怖にガタガタと震えている。
「ケ、ケータくん! あれは妖怪じゃありません! 妖怪のふりをした何かです!」
ウィスパーの叫び声と同時に、その赤い猫の形をした何かが、ずり、と不自然な動きでこちらへ一歩を踏み出した。
影がない。夕日を背にしているはずなのに、そいつの足元には影が落ちていなかった。
「逃げるよ!」
ケータは迷わず叫び、踵を返して走り出した。
いつもの妖怪トラブルなら、ともだち妖怪を召喚してバトルになるところだ。しかし、直感が警鐘を鳴らしていた。あれは、ウォッチでどうにかできる相手ではない。
背後から、ペタ、ペタ、と奇妙な足音が追ってくる。
振り向かなくても、距離が詰まっているのが分かった。妖怪ウォッチは未だにエラー音を吐き出し続け、全く役に立たない。
「こっちニャン!」
パニックになりながらも、ジバニャンが商店街のさらに奥へと向かって走り出した。
ケータとウィスパーも必死についていく。
そこは、ケータの記憶にはない場所だった。
古びたアーケードの切れ目。普段ならただの壁になっているはずの場所に、大人が一人やっと通れる程度の、薄暗い細道がぽっかりと口を開けていた。
「えっ、こんな道あったっけ!?」
「知りませんよ! わたくしのナビにも載ってません!」
それでも、ジバニャンは迷わずにその細道へと飛び込んだ。
妖怪の直感のようなものが働いたのだろうか。そこが普通の場所ではないことは分かったが、後ろから追ってくる正体不明の何かよりは、よほどマシな空気が流れていた。
細道を駆け抜けると、突然、視界がふっと開けた。
商店街の喧騒から完全に切り離されたような、奇妙なほど静かな空間。
そこには、石畳の参道と、古びた石の鳥居があった。
ケータたちが勢いよく鳥居をくぐり抜けた瞬間。
チリン――。
静かな境内に、澄んだ鈴の音が一つ、高く響き渡った。
ケータが立ち止まり、息を整えながら前を見る。
拝殿へと続く参道の真ん中に、一人の男が立っていた。
白衣に浅葱色の袴。長身で、すらりとした姿勢の神主だった。
手には、先ほど鳴ったであろう古い鈴を持っている。しかし、よく見るとその鈴の中には、音を鳴らすための振り子が入っていなかった。中身が空っぽの鈴を、神主は静かに懐へと収める。
神主は、ケータを見ると、少しだけ目を丸くした。
それから、ケータの足元で震えているジバニャンと、宙に浮いてオロオロしているウィスパーへと視線を移す。
「珍しい客だな」
神主は落ち着いた声でそう言った。
「えっ? お兄さん、ジバニャンたちが見えてるの!?」
ケータは思わず声を上げた。妖怪ウォッチを持っていない普通の大人には、妖怪の姿は見えないはずだ。
しかし神主は、驚くわけでもなく、かといって過剰に興味を持つわけでもなく、ただの日常の風景の一部として彼らを見ていた。
「見えている。厄介なものを連れてきたな」
神主の視線は、鳥居の外へと向けられていた。
ケータが振り返ると、あの細道の暗がりから、先ほどの怪異が姿を現そうとしていた。
しかし、鳥居の境界線を越えられないのか、目に見えない壁に阻まれたようにその場で蠢いている。
「中へ入れ。茶を出そう」
神主はそう言って、ケータたちを境内の奥にある社務所へと促した。
社務所の中は、古い木の香りがして、不思議と心が落ち着く空間だった。
神主は座布団を三つ並べると、ケータの前に温かいほうじ茶の入った湯呑みを置いた。
続いて、ジバニャンの前には、どこから出してきたのか、小皿に乗せた煮干しを少し。
最後に、ウィスパーの前には、茶托だけをことん、と置いた。
「わたくしへの扱いだけ、少し雑じゃありませんかね!?」
「腹は減らないだろ」
ウィスパーの抗議を、神主はあっさりと流した。
妖怪を前にしても、特別な儀式をするわけでもなく、退治しようと身構えるわけでもない。ただの迷い込んできた客として、極めてフラットに扱っている。
「あ、あの、お兄さん。外にいるあれ、何なんですか? 妖怪ウォッチにも反応しないし……」
ケータがほうじ茶で少し落ち着きを取り戻してから尋ねた。
ジバニャンは煮干しをかじりながらも、まだ耳を伏せて震えている。
「妖怪じゃない。形を真似て縁を食うだけの、空っぽの泥だ」
神主は、自分の湯呑みを手に取りながら淡々と答えた。
「町から小さな気配が減っていただろう。あれが弱い奴らの形を盗み、自分の輪郭を作っていた。そこの猫を狙ったのも、手頃な強さだったからだ」
「じゃあ、いなくなった妖怪たちは……食べられちゃったニャン!?」
ジバニャンが涙目で叫ぶ。
「食われてはない。形と縁を丸めて、無理やり突っ込んでいるだけだ。剥がせば戻る」
神主がそう言い切った時だった。
社務所の外、境内の空気がビリッと震えるような感覚があった。
鳥居の外で足踏みしていた怪異が、ついに強引に結界を破ろうと暴れ始めたのだ。
ケータたちが障子の隙間から外を覗くと、その姿は先ほどよりもさらに悍ましいものに変化していた。
赤い猫のシルエットをベースにしながらも、片手は水かきのついた河童の手に。頭には不揃いな小鬼の角が生え、顔の半分は名前も知らない一つ目妖怪の顔が張り付いている。
いなくなった町の妖怪たちのパーツを、無秩序に繋ぎ合わせたようなキメラ状の化け物。
ケータの妖怪ウォッチが再びバチバチと火花のようなノイズを散らし、完全に沈黙した。
「ケータくん、あれは無理です! どんなともだち妖怪を呼んでも、触れられたら形を盗まれてしまいます!」
ウィスパーが叫ぶ。ケータもそれは直感で理解していた。
しかし、神主は小さくため息をつくと、静かに立ち上がった。
「妖怪なら堂々と来い。客として鳥居をくぐるなら、茶くらいは出してやる」
神主は社務所の扉を開け、ゆっくりと境内へ歩み出た。
「だが、形を盗んで縁を食い散らかす泥棒は、うちの客じゃない」
その声の温度が、先ほどまでの穏やかなものから一変し、氷のように冷たく張り詰めていた。
神主は、鳥居の手前で蠢くキメラの怪異を前にして、ふらりと立ち止まった。
怪異は意味を成さない声を上げながら、河童の手を伸ばして神主に掴みかかろうとする。
神主の右手が動いた。
懐から、先ほどの空っぽの鈴を取り出す。
チリン――。
一振り。澄んだ音が境内に波紋のように広がった。
その音を浴びた瞬間、怪異の動きがピタリと止まる。まるで、強烈な不協和音を耳元で鳴らされたかのように、貼り合わされた様々な妖怪のパーツがブルブルと痙攣し始めた。
神主はさらに一歩踏み込み、左手に持っていた一枚の白い札を、怪異の顔面めがけてピタリと貼り付けた。
「盗んだ縁、置いていけ」
静かな、だが絶対的な命令。
次の瞬間、怪異の身体から、ボゴォッという鈍い音とともに、小さな光の玉がいくつも弾け飛んだ。
光の玉は境内のあちこちに散らばり、やがて薄っすらとした小さな妖怪たちの姿へと変わっていく。
形を構成するパーツを剥がされた怪異は、あっという間に真っ黒な泥のような元の姿へと縮んだ。
神主は手にした御幣を軽く振り上げ、そのまま無造作に、ゴミでも払うかのように横に薙ぎ払った。
パシィン!
空気が破裂するような音が響く。
黒い泥の怪異は、声にならない悲鳴を上げながら鳥居の外へと吹き飛ばされ、そのまま夜の闇の中へ霧散するように消え去っていった。
静寂が戻った境内。
社務所から見ていたケータたちは、あまりの呆気なさにポカンと口を開けていた。
いつもなら、妖怪を呼び出して、必殺技を叫んで、ドタバタの末にようやく解決する。
そんなプロセスを完全に無視して、神主はほんの数秒で、あの恐ろしい化け物を処理してしまったのだ。
「……す、すごいニャン。オレっちの百裂肉球より早かったニャン……」
「わ、わたくし、あのような退魔の術は見たことがありませんよ」
神主は何事もなかったかのように社務所へ戻ってくると、境内に散らばった薄い姿の妖怪たちを一瞥した。
「形と縁は戻した。姿が薄いが、しばらくすれば元に戻る」
神主はそう言いながら、ケータの冷めかけたほうじ茶を新しいものに替えてくれた。
ケータは湯呑みを受け取りながら、目の前の神主をまじまじと見つめた。妖怪が見える人間。しかも、妖怪でも手に負えないような怪異を、あっさりと祓ってしまう人。
「あの、お兄さん。ここは……」
「小鳥依神社だ。縁があれば、また着く」
「ことりよりじんじゃ?」
「ああ」
神主はそれ以上、何も語らなかった。
神社を出て、細い路地を歩く。
商店街の明るい光の中へと戻り、ケータが振り返ると、さっきまで通ってきたはずの細道は、ただのビルの隙間のように分かりにくくなっていた。
「結局、あの神社の人、何者だったんでしょうねぇ」
ウィスパーが妖怪パッドを猛スピードでスワイプしている。
「検索しても、小鳥依神社なんてデータはどこにも出てきません。完全に圏外です」
「オレっちはもう、あんな怖い思いをするのはごめんニャン。当分は商店街には近づかないニャン」
ジバニャンはそう強がりを言いながらも、チラチラとビルの隙間を気にしている。たぶん、またどうしても困ったことがあれば、あの場所を探すのだろう。
ケータは手首の妖怪ウォッチを見た。
先ほどまでノイズだらけだった画面は元に戻っている。しかし、ほんの一瞬だけ、液晶の隅に「コトリヨリ」という文字がノイズ混じりに浮かび上がり、すぐに消えたような気がした。
町には、また少しずつ、小さな妖怪たちの気配が戻り始めている。
完全に平和な日常に戻るには、もう少しだけ時間がかかりそうだった。
誰もいなくなった小鳥依神社の境内。
社務所の机の上には、中身のない鈴が、元の場所に静かに置かれている。
神主はいつものように、使った湯呑みと小皿を洗い、静かに片付けを続けていた。
境内には、神様の姿も、怪異の残滓もない。
ただ、月明かりに照らされた境内の木々の中で、小さな雀が一羽、ちちっ、と静かに鳴いた。