この不思議溢れる世界の神主さん 作:雀っていいよね
重い扉のような空間を押し開け、むわっとした夏の湿気の中に放り出された。
アスファルトの照り返し。遠くを走る車のエンジン音。肌にまとわりつく空気は、間違いなく日本の夏のものだった。
しかし、表世界に帰還したと安心しかけたのは、ほんの一瞬のことだった。
紙越空魚は、隣を歩く仁科鳥子の袖を、無言で強く引っ張った。
「……空魚?」
「鳥子。ここ、本当に表世界だと思う?」
空魚の左目には、ごく普通の駅前の風景が映っている。しかし、青い右目には、まったく違うものが重なって見えていた。
交差点の向こうにあるコンビニの看板。その見慣れたチェーン店のロゴが、意味不明な記号の羅列にすり替わっている。すれ違う通行人の影が、アスファルトの上で不自然にちぎれ、あさっての方向へ伸びていた。
鳥子は空魚のただならぬ様子に、即座に警戒の顔つきになった。彼女はスッと手を伸ばし、そばにあったガードレールに透明な左手で触れた。
「……違う」
鳥子が短く呟く。
「見た目は普通の鉄なのに、触った瞬間に違うって分かる。何なのかうまく説明できないけど……絶対に、表世界のモノじゃない」
二人は裏世界での探索に慣れている。だからこそ、異常への嗅覚はひどく鋭かった。
自分たちが立っているこの場所は、一見すると表世界だが、根本的な部分が裏世界に浸かったままだ。戻ったはずなのに、戻った場所が本当に表世界なのか分からない。
空魚はすぐにスマートフォンを取り出し、小桜の番号をタップした。
DS研への繋がりもあり、裏世界案件に詳しい彼女になら、現状を正しく伝えられる。電波のアンテナマークは立っていた。
コール音が二回鳴る。
『……プルルル……ザ、ザァッ……』
三回目のコールの途中で、耳障りなノイズが走った。
電子音が消え、代わりに背の高い草をかき分けるような音が聞こえ始める。水が跳ねる音。そして、人間の喉からは絶対に発せられない、くぐもった笑い声のようなものが、電話の奥から響いてきた。
空魚は心臓をわしづかみにされたような悪寒を覚え、咄嗟に終話ボタンを叩き切った。
「駄目。小桜さんじゃない。どこか、まったく別の変な場所に繋がりかけた」
「うわぁ……。帰ってきて早々、それは笑えないね」
鳥子はいつものように軽口を叩いたが、その声には明らかな焦りが混じっていた。
表世界側への確実な連絡手段が、あちら側にハッキングされている。電話越しに何かが這い出してきそうな気配すらあった。
「とにかく、人の多いところに行こう。表世界の気配が濃い場所にいれば、このズレも戻るかもしれない」
空魚と鳥子は、足早に駅前の大通りを抜け、商店街を目指して歩き出した。
しかし、行き着いた先は、どうにも奇妙な商店街だった。
一見すると普通の商店街だ。店はあるし、閉まったシャッターもあるし、看板も出ている。
だが、右目で見ると看板の文字がどう見ても読めない。店内に人影らしきものは蠢いているのに、客の声も店員の声も一切聞こえない。やけに生々しい自販機の明かりだけが、異様に長いアーケードの奥まで点々と続いている。
二人は、自分たちが中間領域に引っかかっているのだと理解した。
裏世界そのものではない。しかし、表世界でもない。表世界へ戻る途中の、狭間の空間。
歩を進めるうち、鳥子がふと脇道を指差した。
「ねえ空魚。あそこ」
八百屋と衣料品店の隙間のような場所に、細い路地があった。
空魚の右目には、その路地の奥から何本もの古い糸のようなものが、手招きするように伸びているのが見えた。
それは裏世界の狂った構造体でもなく、実話怪談の怪異の気配とも違う。
もっと古く、この土地そのものに馴染んでいるような何か。人を呼ぶというよりは、ただ道に迷ったものを拾うような、奇妙な静けさがあった。
路地の突き当たりには、小さな石の鳥居が建っている。
「……どうする? 入ってみる?」
「待って。安全地帯かもしれないけど、新しい接続点とか罠の可能性もある」
空魚は強く警戒した。鳥子もまた、空魚の反応を見て立ち止まり、いつでも動けるように身構える。
しかし、迷っている猶予はなかった。背後の商店街の奥が、どろりとした裏世界の色合いを帯びて、さらに深く歪み始めていたからだ。
選択肢は一つしかなかった。二人は背後からの圧に押し出されるようにして、その鳥居をくぐった。
同じ頃、小鳥依神社の社務所。
チリン――。
机の端に置かれた中身のない鈴が、静かに鳴った。
神主は手元の作業を止め、顔を上げる。
境内に現れたのは、若い人間の女性が二人。
だが、神主は彼女たちの顔立ちや服装よりも先に、真っ直ぐにそこを見た。
黒髪の女の青い右目。金髪の女の透明な左手。そして、彼女たちの背後にべったりと張り付いている、中間領域のズレ。
空魚は、社務所から出てきた見知らぬ男が、自分の右目をじっと凝視していることに気づいた。
鳥子もまた、自分の左手を見られていると察し、二人の警戒度が跳ね上がる。
「参拝か」
神主はいつもの調子で平坦に声をかけたが、空魚たちはすぐに社務所へ向かおうとはしなかった。
知らない相手に、自分たちの異常な部位を的確に見抜かれている。それが裏世界の怪異と同質の危険なのか、判断がつかなかった。
その警戒の最中、境内のズレが急激に悪化した。
空魚の右目を通して、足元の石畳の目地が、見渡す限りの枯れ草の草原へと変貌していく。手水舎の水面は、覗き込めば落ちてしまいそうな底なしの深淵に変わった。
鳥居の外の商店街の奥には、あちら側の不気味な空がはっきりと滲み出している。
鳥子の左手が、無意識にその空へ向かってスーッと伸びかけた。
空魚の右目も、見てはいけない裏世界の深淵を、限界まで凝視しようとピントを合わせ始める。
神主が動いた。
説明している暇はない。神主は空魚の前にスッと手を出し、彼女の右目の視界を物理的に遮った。
「ひっ」
空魚は短い悲鳴を上げ、反射的に後ろへ下がる。
同時に、神主は手にした御幣の柄で、伸びかけていた鳥子の左手をパシッと軽く叩いた。
「ちょっと、いきなりなにするの!」
「見すぎだ。掴むな。そっちに寄るぞ」
鳥子が食ってかかるより早く、神主は短く事実だけを告げた。
二人はそのぶっきらぼうな物言いに反発を覚えたが、同時に気がついた。自分たちは本当に、無意識のうちに向こう側へ深く引きずり込まれかけていたのだ。
神主は懐から中身のない鈴を取り出し、短く一度鳴らす。
続いて御幣で空気を払い、白い札を二人の足元の石畳に無造作に置いた。
派手な光や衝撃波はない。ただの地味な神事の真似事にしか見えない。
だが、その瞬間に裏世界の草原に見えていた足元が、ただの石畳に戻った。鳥子の影が足元に定着し、空魚の右目に見えていた商店街の歪みが薄れる。耳の奥で鳴っていた風の音も完全に止んだ。
神主の処置が効いた。二人はそれを肌で理解した。
「入れ。茶を出そう」
神主は背を向け、社務所へと歩き出す。二人は顔を見合わせ、ようやくその後を追った。
社務所に通され、温かい茶が出される。
客として扱われてはいるが、空魚と鳥子はまだ完全に警戒を解いてはいなかった。
「……私たち、変な場所から戻ってきたんです」
空魚が探るように話し始める。
「戻ったはずなのに、戻り切れてなくて。ネットロアの怪異とかがいるような場所で、接続点を通ったんですけど、まだ中間領域に引っかかってるみたいで」
神主は自分の湯呑みを持ちながら、必要な部分だけを静かに聞いている。
裏世界、表世界、DS研、小桜。会話の中でいくつかの専門的な用語が出たが、神主はそれを研究対象として深く掘り下げる様子はなかった。
彼にとって重要なのは、この二人がどこから来たかではなく、今どちら側に立っているかだけなのだ。
話している途中で、再び社務所の中にズレが再発し始めた。
足元の畳の目が草原に見え、卓の上の湯呑みの中身が、底なしの水たまりのように深く沈む。障子の向こうには、あるはずのない地平線が広がりかけている。
空魚の右目にはそれがはっきりと見え、鳥子の左手はそれに触れられそうな感覚を覚えていた。
今度は二人とも、自分たちが危ない状態だと自覚している。
鳥子が左手をギュッと握り込み、空魚は右目を逸らして手で覆おうとした。さっき神主に止められた意味が、ここで痛いほど理解できた。
神主は立ち上がった。
彼は、この二人の裏世界との関係を断ち切るつもりはなかった。空魚の右目も、鳥子の左手もそのまま。彼女たちが裏世界と持っている縁もそのままにしておく。またあちら側へ行く人間なのだと分かっていたからだ。
神主がやるのは、ただ二人を表世界側へ戻すことだけ。
鈴を鳴らす。
御幣で払う。
札を二人の足元に置く。
表世界でも裏世界でもない、中間領域のあわいに開いた小鳥依神社の社だからこそ、この立ち位置の調整が可能だった。
鳥居から社務所までの道が、はっきりと表世界側へ向けられ、固定される。
部屋の中の異様な景色が、スーッと引いていくように消え去り、元の古い社務所へと戻った。
「終わったぞ」
神主は何事もなかったように言い、机の引き出しから白い御守りを二つ取り出して二人に渡した。
「これ。目印だ」
「目印って、どこへの?」
鳥子が素直に尋ねる。
「こっちだ。帰る場所への」
神主はひどく短く返した。
空魚は、その説明が曖昧すぎることに内心で不満を抱いた。だが、実際に二度も助けられ、表世界に引き戻してもらった手前、それを突っぱねることはできなかった。
神主に促され、二人は神社を出て鳥居をくぐった。
その瞬間、景色が不自然に切り替わる。
二人が立っているのは、小鳥依神社の鳥居の前ではなかった。
商店街の路地裏。八百屋と衣料品店の隙間。ゴミ置き場と自販機の裏という、圧倒的に現実的な隙間だった。
慌てて振り返っても、そこにはただの薄暗い壁があるだけで、神社も鳥居も石畳も影も形もなかった。
ただ、手の中には神主から渡された白い御守りだけが残っている。
「……何だったの、あれ」
「わかんない。でも、助かったのは確かみたい」
空魚はもう一度スマートフォンを取り出し、小桜へ電話をかけた。
今度は嫌なノイズは一切なく、数回のコールの後に不機嫌そうな声が響いた。
『……もしもし。あんたら、また何か厄介なもの拾ってきたんじゃないだろうな』
「小桜さん、繋がった。あの、変な神社に寄ってて」
『変な神社? どこだ?』
空魚たちは小鳥依神社の話をしようとしたが、場所をまったく説明できなかった。
地図アプリを開いてもそんな神社はどこにも出ないし、商店街の奥と言っても要領を得ない。
『ちょっと、DS研の連中が食いつきそうなヤバいスポットなら、絶対にあたしを巻き込むなよ!? そういうのは全部自分たちで処理しろ!』
小桜のヒステリックな声を耳にしながら、空魚と鳥子は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
誰もいなくなった小鳥依神社の社務所。
神主はいつものように、空魚たちが使った湯呑みを片付け、静かに机の上を拭いていた。
中身のない鈴はもう鳴っていない。
あわいの境内には、神様の姿はどこにもなかった。
ただ、手水舎の屋根の上で、小さな雀が一羽、ちちっ、と一度だけ鳴いた。