この不思議溢れる世界の神主さん 作:雀っていいよね
深夜一時の商店街。シャッターが完全に下りきったアーケードは、控えめに言っても不気味のテーマパークだった。
等間隔に並んだ薄暗い外灯と、やけにハイテンションに発光している自動販売機だけが、辛うじて周囲を照らしている。
黒嶺ユメと白浜和美――通称ハマちゃんの二人は、指定されたルートを台車を押しながら歩いていた。
「ねえユメちゃん。このバイト、やっぱりなんかおかしくない?」
「……うん。なんだかすごく、クサイ」
ユメが眉をひそめて、鼻の頭を軽く押さえた。
この商店街に入った瞬間から、彼女の鼻の奥には強烈な異臭がまとわりついていた。生ゴミやヘドロのような物理的な悪臭ではない。本能が「ここは危ない」「このまま進めるとまずい」と全力で警鐘を鳴らす、純粋な危険の匂いだった。
「出たわねその言葉! ユメちゃんがクサイって言う時は本当にヤバいやつじゃない!」
ハマちゃんが台車を引く手を止めて、大げさに天を仰ぐ。
二人が受けているのは、いわゆる裏バイトだ。深夜の商店街を巡回し、各店舗の前に置かれた『供物』を回収して台車の上の木箱に入れる。ただそれだけで、一人数十万円という破格のギャラが約束されていた。
依頼主は商店街の管理組合を名乗っていたが、顔も見えず、連絡はすべてメッセージアプリのみ。おまけに、ご丁寧にいくつか禁止事項まで添えられていた。
『午前四時まで現場から出ないこと』
『供物の中身を確認しないこと』
『回収した供物を落とさないこと』
『商店街の奥にある細道へ入らないこと』
『鈴の音が聞こえても振り返らないこと』
「高額報酬には裏があるって分かってるけどさぁ。ユメちゃんのクサイ判定が出てるって、完全にハズレ案件じゃないのよ!」
「でも、やらないと報酬はもらえないし、逃げたらどうなるか分からないよ」
「ううっ……分かってるけどさぁ!」
命の危険と数十万のギャラ。天秤にかけるまでもなくギャラに未練タラタラなハマちゃんは、文句を垂れつつも台車を再び押し始めた。
店先には、紙袋や風呂敷包み、古い折箱のようなものがぽつんと置かれている。
二人はそれを手袋越しに持ち上げ、台車に乗せた木箱へと放り込んでいく。
しかし、木箱が半分ほど埋まった頃から、商店街が明確に狂い始めた。
「……ハマちゃん。ここ、さっきも通ったよ」
「え? そんなはずないわよ。ずっとまっすぐ歩いてるのに……って、嘘でしょ」
ハマちゃんが絶句する。目の前には、つい十分前に供物を回収したはずの古い時計店があった。しかも、ご丁寧にも店先には再び、見覚えのある古い折箱が置かれている。
振り返ると、アーケードの奥が物理的にあり得ないほど長く、どこまでも無限に続いているように見えた。
閉まったシャッターの奥から、ガサゴソと無数の人の気配がする。さっきまで『田中青果』だった看板が、見たこともない『肉野商店』に変わっている。
ここはただの商店街ではない。裏バイトの現場として、完全に怪異化している空間だった。
「ユメちゃん、これ、もう引き返した方が……」
「駄目。出口の方向の匂いが、さっきよりずっとクサくなってる。完全に囲まれてる」
仕事を続けるほど、現場に絡め取られていく。
表向きは供物回収だが、実際には商店街に残った怨念や未練のようなものを、夜ごと自分たちのような都合のいい労働者に運ばせているのだろう。
この現場が、人間を使い潰すための悪質なブラック職場であることだけは確かだった。
その時だった。
チリン――。
どこからか、微かに鈴の音が聞こえた。
二人はビクッと身体を強張らせて前だけを見つめる。禁止事項の一つ、『鈴の音が聞こえても振り返らないこと』が頭をよぎる。
前方、閉店した八百屋と衣料品店の間に、大人が一人やっと通れるほどの細い路地があった。
さっき通った時には、絶対に存在しなかった不自然な隙間だ。
『商店街の奥にある細道へ入らないこと』
当然、これも禁止事項に引っかかる。
ユメは、その細道の奥から漂ってくる匂いを、慎重にすんすんと嗅いでみた。
「……どう? ユメちゃん。あそこ行けそう?」
「……白い匂いがする」
「えっ」
「あっちから、かすかに白い匂いがするの。たぶん、この状況を解決できる」
ユメの言葉に、ハマちゃんの顔がパッと明るくなる。
この絶望的な状況下で、ユメの感じる「白い匂い」は、唯一にして絶対の安全への道標だった。
「白い匂い!? じゃあもう、行くしかないじゃない!」
迷っている間にも、商店街は完全に牙を剥き始めていた。
両脇のシャッターが、ガシャン、ガシャンと一斉に音を立てて半開きになる。
その暗い隙間から、青白い手首が何本も這い出してきた。店内に誰もいないはずなのに、「いらっしゃい」「こっちへおいで」という無数の呼び込みの声がアーケード内に響き渡る。
台車の上の木箱の中で、回収した供物たちがドロドロと蠢き始めた。
頭上の看板の文字が、『はやくあつめろ』『逃がさない』という血文字のような命令文に変わる。
「逃げるよ、ハマちゃん!」
「行くわよおらぁっ!」
ハマちゃんが猛然と台車を押し出す。
出口へ向かっても同じ店の前に戻されるなら、ルールの盲点を突くしかない。二人は追ってくる青白い手と呼び込みの声を背に、禁止事項である細い路地へと台車ごと突撃した。
細道を駆け抜けると、突如として視界が開けた。
そこは、石畳の参道と古びた鳥居がある、静かな境内だった。
チリン――。
社務所の奥から、中身のない鈴の音が響く。
同時に、一人の男がゆっくりと姿を現した。
白衣に浅葱色の袴。すらりとした長身の神主だった。
「あんた依頼主側の人間!? これ追加案件!? 別料金発生するやつ!?」
「待って、ハマちゃん」
即座に食ってかかろうとするハマちゃんを、ユメが腕を掴んで制止する。
異空間に逃げ込んだからといって、裏バイトの住人が見知らぬ人間をすぐに信用するわけがない。罠か、追加のデスゲームか。ハマちゃんは台車を盾にするようにして神主を睨みつけている。
ユメは鼻をすんすんと鳴らし、目の前の神主と神社から漂う匂いを確認した。
「……うん。やっぱり、ここから白い匂いがする。少なくとも、さっきの商店街みたいなクサイ匂いは全然ないよ」
「本当? ユメちゃんがそう言うなら、一応話くらいは聞くけど」
ユメの言葉に、ハマちゃんは少しだけ肩の力を抜いた。
神主はハマちゃんの剣幕にも動じず、ただ台車の上の木箱を静かに見つめていた。
「小鳥依神社だ。茶でも飲んでいくといい」
神主は何も説明せず、二人を社務所へと通した。
社務所の中で、ハマちゃんは出された温かい茶に口をつけながらも、警戒を解かずに早口でまくし立てた。
高額報酬、依頼主、仕事内容、禁止事項、そして逃亡禁止のルールについて。
神主は必要な部分だけを静かに聞いている。
この二人はただの迷子ではない。契約と仕事に絡め取られ、現場から逃げられなくなった労働者だ。単純に匿っても、契約が生きている限り、怪異は二人を追い続けるだろう。
言葉の通り、商店街の怪異はすでに神社へ干渉し始めていた。
ガシャンッ!
静かだった境内に、突然シャッターが閉まるような金属音が響く。
社務所の障子の向こうに、アーケードの薄暗い通路が滲み出していた。境内に置かれたままの台車の上の木箱から、ドロドロとした泥のようなものが溢れ出し、「戻れ」「仕事をしろ」という呼び込みの声が神社の空気を侵食していく。
強烈なクサイ匂いが、社務所の中にまで流れ込んできた。
ユメが思わず鼻をつまむ。怪異は二人を殺そうとしているのではない。途中で作業を放棄した労働者を、ただ現場へ引き戻そうとしているのだ。
「……嫌な客だ」
神主はふぅと息を吐き、立ち上がった。
商売や仕事の形をして、労働者を使い潰すだけのブラックな現場には、彼はひどく冷たかった。
神主は社務所を出て、境内で泥を溢れさせている木箱の前へ進み出た。
懐から中身のない鈴を取り出し、短く一度鳴らす。
チリン――。
その澄んだ音が響いた瞬間、境内に滲み出していた商店街の景色が、ピクリと動きを止めた。
続いて、神主は御幣で空気を力強く払う。
バサッという和紙の音が、空間に張り巡らされていた逃亡禁止のルールと、二人に絡みついていた裏バイトの仕事の縁を、物理的に叩き切る。
最後に、神主は白い札を木箱にピタリと貼り付けた。
ドロドロと溢れていた供物は、悲鳴のような音を立てて木箱の中へ吸い込まれ、完全に沈黙した。
「終わったぞ。帰れ」
神主は社務所に戻ることなく、鳥居の方を指差した。
ユメとハマちゃんは顔を見合わせ、促されるままに鳥居をくぐった。
その瞬間、景色が不自然に切り替わる。
二人が立っているのは、小鳥依神社の前ではなかった。
表世界の商店街。ゴミ置き場の横、閉店した薬局の裏手という、圧倒的に現実的な路地裏だった。
振り返っても、神社も鳥居も存在しない。ただの汚れた壁があるだけだ。木箱も台車も跡形もなく消えている。
「……なんだったの、もう」
ハマちゃんがへたり込みそうになりながら、スマートフォンを取り出す。
画面には、依頼主からのメッセージが一件だけ届いていた。
『業務完了。報酬振込済』
「え……?」
「嘘。振り込まれてるの?」
ユメが覗き込むと、そこには確かに約束通りの高額な報酬が口座に入金された通知があった。
逃亡禁止を破ったのに、仕事は完了扱いになっている。木箱を神社に置いてきたのに、報酬はバッチリ支払われていた。
「……意味分かんないわよ。何が正解だったの?」
「……さっきのクサイ匂いは、もうしない。でも、あの商店街がなくなったわけじゃないと思う」
ユメの言葉に、ハマちゃんは複雑なため息をついた。
助かった。報酬も入った。でも、あの神社が何だったのか、自分たちがどうやって助かったのか、まったく釈然としない。
それが、裏バイトというものだった。
誰もいなくなった小鳥依神社の境内。
神主は、札を貼って封じた木箱を、境内の隅へと引きずっていった。朝になる頃には、この仕事の証拠ごとどこかへ消え失せているだろう。
中身のない鈴はもう鳴っていない。
ふと見上げると、手水舎の屋根の上で、小さな雀が一羽、ちちっ、と気まぐれに鳴いた。
裏バイトは終わらない。あの二人はまた、別の危険な現場へと向かうだろう。
縁があれば、またこの神社に拾われるかもしれない。神主はそう思いながら、ゆっくりと社務所へ戻っていった。