太陽と月の食卓 作:AIすげーってなってる人
村の酒場というのは、たいていどこへ行っても似たような匂いがする。
焼いた肉の脂、木樽から漏れる発酵の酸味、それから人間の体温が混ざり合った、どこか懐かしいような息苦しいような空気。アポロはそういう場所が嫌いではなかった。むしろ好きだった。酒場には必ず、誰かの話がある。
「ねえ、おじさん」
カウンターの端に腰を落ち着けたアポロは、グラスを磨いていた白髪の店主に声をかけた。
「この村の近くに、でっかい森があるって聞いたんだけど」
「ああ、緑渦の森か」
店主は手を止めずに言った。
「旅の兄ちゃん、あそこには近づかんほうがいい。ヌシがいるからな」
「ヌシ!」
アポロの目が輝いた。小麦色の肌に短髪、細身だが鍛え上げられた体つきの青年は、こういう言葉に対して条件反射のように顔が明るくなる。腰には太いロープがぐるりと巻かれていて、旅慣れた雰囲気を漂わせていた。
隣に座っていたセレナが、静かにため息をついた。黒髪をゆるくまとめた落ち着いた雰囲気の女性で、アポロとは対照的に、その表情はいつも穏やかだ。
「その顔、また危ないところに行く気でしょう」
「違う違う、ヌシがいるってことは生態系が豊かってことじゃないか。そういう森にしかいない食材があるはずだ」
アポロはグラスを傾けながら店主に続ける。
「そういえば、灯火茸って知ってる?夜に光るキノコ」
店主の手が、ぴたりと止まった。
「……なんで、そいつを知ってる」
「数週間前に会った行商人から聞いた。緑渦の森にしか生えない幻のキノコだって。夜になると傘の裏が青白く光って、食べると体が芯から温まるって話だった」
しばらく沈黙があった。店主は磨き終えたグラスをゆっくりカウンターに置き、アポロをまっすぐ見た。
「……三十年前の話だ」
老人はぽつりと言った。
「俺がまだ若かった頃、父親が重い病気になった。薬も効かなくて、もうだめかと思ったとき、森の古老が灯火茸のスープを作ってくれた。一口飲んだら、父親が泣いたんだ。美味いって。ただそれだけで泣いた」
アポロは何も言わなかった。セレナも黙って、グラスに手を添えたまま老人の言葉を聞いていた。
「その古老はもう死んだ。森の奥に入れる人間も、今はほとんどいない。灯火茸がまだあるかどうかも分からん」
「案内してくれる人は?」
アポロが聞いた。
「……娘に聞いてみろ。リナといって、村一番の猟師だ。気が強くて面倒くさいやつだが」
老人は苦笑いを浮かべた。
「断られても知らんぞ」
翌朝。村の外れにある小屋の前で、アポロとセレナは一人の女性と向き合っていた。
リナは二十代半ばほどで、日に焼けた肌に短く切り揃えた黒髪、腰には大ぶりのナイフを二本下げていた。腕を組んで二人を値踏みするような目で見ている。
「緑渦の森の奥まで案内してほしい、か」
「お願いします」
セレナが丁寧に頭を下げた。
「美食屋と料理人が、なんでそんなとこまで行きたいんだ」
「灯火茸を料理したいんです」
セレナは顔を上げた。
「お父さんの話を聞きました。あのスープをもう一度、作れるかどうか試してみたくて」
リナの目が、かすかに揺れた。
「……父さんから聞いたのか」
「はい」
沈黙。風が草を揺らす音だけが続いた。
「一つ聞く」
リナはアポロに視線を移した。
「あんた、本当に強いか。森のヌシはタダじゃないぞ」
「強いよ」
アポロはにっと笑った。
「保証する」
「根拠のない自信ほど信用できないものはないな」
リナは鼻を鳴らしたが、その口元はわずかに緩んでいた。
「……まあいい。行くぞ。ただし、私の指示には従え。いいな」
「もちろん」
緑渦の森は、名前の通りだった。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。外の乾いた風とは全く異なる、湿った緑の息吹が肌にまとわりつく。頭上では巨木の枝が絡み合い、まるで生き物のように揺れていた。地面には苔が厚く積もり、踏みしめるたびにふかふかと沈む。
「でかい……!」
アポロが思わず声を上げた。
「この木、直径何メートルあるんだ」
「一番でかいのは五十メートルを超える」
リナが前を歩きながら答えた。
「この森は樹齢千年を超える木が何本もある。だから生態系が特殊なんだ」
セレナは無言で周囲を見渡していた。光が葉の隙間から差し込み、細い筋になって地面に落ちている。その光の中を、小さな虫が舞っていた。
「綺麗」
ぽつりとつぶやいたセレナの言葉に、アポロが振り返って微笑んだ。
「だろ」
三人は森の奥へと進んだ。リナの案内は的確だった。獣道すら見えないような場所でも、彼女は迷わず歩く。折れた枝の向き、苔の生え方、土の湿り気。そういったものを読みながら進んでいた。
二時間ほど歩いたとき、リナが突然立ち止まった。
「来る」
その声と同時に、地響きがした。
木々の間から現れたのは、巨大なイノシシ型の魔獣だった。体長は優に四メートルを超え、牙は曲刀のように湾曲している。額には角質化した突起が生え、踏み出すたびに地面が揺れた。
「ボアグランデ……!森のヌシの眷属だ」
リナが舌打ちした。
「下がれ!」
「いや」
アポロは一歩前へ出た。腰に巻いていたロープ、「旅蜘蛛」がするりと解けて手に収まる。
「俺がやるよ」
ボアグランデが突進した。地面を抉るような踏み込みで、真っすぐアポロへ向かってくる。
アポロは動じなかった。
右へ半歩ずれながら、旅蜘蛛を投げた。ロープは正確に魔獣の前足に絡みつき、アポロはそのまま体重を乗せて引いた。巨体がつんのめる。追撃するように跳び乗り、首の後ろを手刀で一撃。
ボアグランデはぐらりと揺れて、その場に崩れ落ちた。
「……気絶させただけか」
リナが目を丸くした。
「殺さないのか」
「なんで殺すんだ」
アポロは旅蜘蛛を回収しながら言った。
「この子だってここで生きてるんだから、俺たちが邪魔をしたのが悪い。眠ってる間に通り抜ければいい」
リナは何も言わなかった。ただしばらく、倒れた魔獣とアポロを交互に見ていた。
灯火茸を見つけたのは、それからさらに一時間ほど進んだ先だった。
森の最深部に近い場所に、樹齢を感じさせる巨大な切り株があった。直径十メートルはあろうかという大きさで、その表面と周囲の地面に、無数のキノコが群生していた。
日が陰り始めた夕暮れ時だったせいか、その傘の裏がほんのりと光っていた。青白い、静かな光。蛍よりも柔らかく、月明かりよりも近い。森の暗がりの中で、それはまるで誰かが小さな灯りを並べたように見えた。
「……本当にあった」
リナの声が、かすかに震えた。
「きれいだな」
アポロがつぶやいた。
セレナはしゃがみこんで、一本の灯火茸をそっと手に取った。傘をそっと裏返すと、光はさらに強くなる。手のひらに青白い光が映った。
「触ると温かい」
セレナが言った。
「不思議。冷たくない」
アポロが鼻を近づけた。
「香りは……土と、それから何だろう。甘いような」
「木の香りじゃないかな」
セレナは目を細めた。
「この切り株、すごく古い木のものでしょう。灯火茸はここの根から養分をもらって育ってるんだと思う。だとしたら、この森の時間が全部この子たちの中に詰まってる」
アポロはその言葉をしばらく噛み締めてから、にやりとした。
「じゃあ、料理したら森の味がするのか」
「してほしいな」
セレナは笑った。
その夜、三人は切り株の近くで野営をした。
セレナが調理を始めたのは、星が出る少し前だった。
まず、森の中で集めてきた食材を並べる。道中で摘んだ根菜、リナが仕留めた小型の鳥獣の骨、森の湧き水。そして灯火茸。
「スープにします」
セレナは静かに言った。
「灯火茸は最後に入れる。煮すぎると香りが飛ぶから」
「分かった」
アポロが焚き火の薪を整えた。
リナは少し離れたところに座り、腕を組んでセレナの手元を見ていた。
深めの鍋に水を張り、まず骨を入れてじっくり出汁を取る。灰色だった水が少しずつ乳白色に変わっていく。セレナはその間、根菜を一定の薄さに切り揃えた。包丁の音が、規則正しく森に響く。
「上手いな」
リナがぼそりと言った。
「無駄な動きがない」
「旅をしてると、手早くないと困ることが多くて」
セレナは手を止めずに答えた。
「それより、お父さんのこと、聞かせてもらえませんか。昔、この森に入ったことがあるんですか?」
リナは少し黙った。
「子供の頃、父さんに連れてきてもらったことがある。まだ森のヌシの眷属も少なくて、今より奥まで入れた。古老のじいさんがいて、いろんな食材のことを教えてくれた」
リナの声は静かだった。
「そのじいさんが作ってくれた灯火茸のスープ、俺も飲んだことがある。子供心にも、変な味だと思った」
「変な味?」
「美味いんだが……なんか、泣きたくなるような。理由もないのに、胸がぎゅってなるような味だった」
セレナは手を止めて、リナを見た。
「覚えてるんですね、ちゃんと」
「忘れられない味ってのがある」
リナは目を逸らした。
「それだけだ」
出汁が整ったところで、セレナは根菜を加えた。続いて、ひとつまみの塩。鍋の中でゆっくりと対流が生まれ、食材が踊るように動く。香りが立ち上り始めた。
アポロが深く息を吸い込んだ。
「いい匂いだ」
「まだだよ」
セレナは微笑んだ。
「本番はここから」
鍋の火を少し弱めてから、セレナは灯火茸を手に取った。一本ずつ、丁寧に。傘の部分を下向きにして、音もなく汁の中へ沈める。
その瞬間、鍋の中がほんのりと光った。
青白い光が汁に溶け出すように広がり、やがて落ち着いた琥珀色に変わっていく。香りが変わった。土と木の深い匂いの中に、甘さが滲み出してくる。森そのものの香り。
「すごいな……」
アポロが息を呑んだ。
リナは無言だった。ただ、体を少し前に傾けて鍋を見ていた。
セレナは最後に、森で摘んできた小さな葉を数枚、汁の上に浮かせた。それだけで、鍋の中の景色が完成したように見えた。
「できた」
三人は焚き火を囲んで、木の器でスープを受け取った。
アポロが最初に口をつけた。
一口飲んで、目を閉じた。
誰も何も言わなかった。風が止んでいた。遠くで夜の虫が鳴いている。焚き火がぱちりと爆ぜた。
「……森の味がする」
アポロがゆっくり目を開けた。
その声は、いつもの陽気さとは少し違う、静かな響きがあった。
「根っこの深いところ。雨が染み込んでいくところ。長い時間をかけて積もった、何かの重さ。そういうものが全部入ってる」
「うん」
セレナが頷いた。
「灯火茸は、この切り株から養分をもらって育ってるんだと思う。だから他の森のものと合わせると……その記憶が引き出されるのかも。単体では香りと温かさだけだけど、一緒に煮ることで、森が全部、出てくるのかもしれない」
「調和、か」
アポロがセレナを見た。
「そう」
リナは黙ってスープを飲んでいた。
一口、また一口。
やがてその目が、静かに潤んだ。泣いているわけではなかった。ただ、何かが胸の奥から染み出してくるような、そういう顔だった。
「……同じだ」
リナが言った。
「あのじいさんが作ったやつと、同じ味がする」
「本当に?」
セレナが少し心配そうに聞いた。
「あの頃と全く同じはずがないけど……」
「同じじゃなくていい」
リナは静かに言った。
「この森で、この食材で、誰かが心を込めて作ったスープの味が、きっと同じなんだ」
焚き火の光の中で、三人はしばらく無言でスープを飲み続けた。
森が静かに、彼らを包んでいた。
翌朝、村への帰り道。
リナは二人の前を歩きながら、ぼそりと言った。
「……礼を言う」
「こっちこそ」
アポロが言った。
「案内してくれなかったら辿り着けなかった」
「そうじゃなくて」
リナは歩みを止めずに続けた。
「父さんが大事にしてたものを、ちゃんと形にしてくれたことへの礼だ」
セレナは何も言わなかった。ただ少し、微笑んだ。
森の出口が見えてきた。木漏れ日が強くなり、外の明るい光が差し込んでくる。
アポロはその光に向かって歩きながら、隣のセレナを見た。
「美味かった」
「うん」
「次はどこへ行く?」
「あなたが決めて」
セレナは言った。
「私はどこでも料理するから」
アポロはにっと笑って、一歩大きく踏み出した。
太陽の光が、二人の影を森の奥へ長く伸ばした。