太陽と月の食卓 作:AIすげーってなってる人
海というのは、思っていたより広かった。
アポロは船の舳先に立ち、水平線を眺めていた。どこまで行っても海が続いている。空と海の境目が曖昧で、遠くに行けば行くほど青が溶け合っていく。風が強く、髪が激しくなびいた。
「落ちないでよ」
後ろからセレナの声がした。振り返ると、彼女は帆柱の根元に腰を落ち着けて、航海日誌らしき冊子を読んでいた。黒髪を一本に束ねて、潮風に揺らしている。
「落ちないよ」
「あなたは楽しくなると体が前のめりになるから」
アポロは苦笑いして、舳先から離れた。
乗っているのは中型の帆船だった。行き先が同じだということで、港で声をかけてきた船乗りたちに同乗させてもらっている。船長はガルドという五十がらみの大柄な男で、顔中に皺が刻まれ、右手の人差し指と中指がなかった。長年の漁で失ったのだという。
「兄ちゃんたち、美食屋と料理人だって言ったな」
ガルドが舵を握りながら声をかけてきた。アポロが頷く。
「だったら一つ聞いていいか。百景ヒラメって知ってるか」
アポロの目が光った。
「知ってる。この辺の海にいるって聞いた」
「いるよ」
ガルドは正面を向いたまま言った。
「俺も一度だけ見たことがある。三十年前の話だ」
夕方、船が錨を下ろして一時停泊したとき、ガルドは甲板に腰を下ろしてアポロとセレナに話した。
他の船乗りたちも自然と集まってきた。四人、歳も体格もばらばらだったが、全員が一様にガルドの話を聞く顔になった。何度も聞いた話なのだろうが、それでも聞く顔だった。
「三十年前、俺はまだ若い漁師でな。ある嵐の翌朝、海が異様に凪いでいた。鏡みたいにぴたりと止まって、空の雲がそのまま映り込んでいた。そういう海を、この辺では死に海って呼ぶ。生き物の気配がしない」
ガルドは海を見た。
「でも俺には見えた。海面に映った雲の中に、一か所だけ微妙にずれている場所があった。風もないのに、そこだけ波紋が広がっていた。何かいると思って網を打ったら、とんでもない重さがきた。引き上げたら、でかいヒラメだった。体が鏡みたいに光っていて、背中に海が映り込んでいた」
「捕まえたんですか」
セレナが静かに聞いた。
「逃した」
ガルドは苦く笑った。
「網が切れた。あいつの力じゃなくて、俺の網が古かっただけだ。情けない話だが」
しばらく沈黙があった。波の音だけが続いた。
「でも、それ以来ずっと気になってる。あいつは今もこの海のどこかにいるんだろうか、ってな」
アポロはガルドを見て、それから海を見た。
「明日の朝、探してみる」
「無理だぞ。熟練の漁師でも見つけられない。俺だって三十年で一度きりだ」
「でも見つけたんだろ?」
アポロは笑った。
「一度でも見えたなら、見える時があるってことだろ」
ガルドは少しの間アポロを眺めてから、低く笑った。
「……好きだよ、そういう考え方」
翌朝、夜明け前にアポロは甲板に出た。
空はまだ暗く、東の端だけが薄く白み始めていた。海は静かだった。昨日とは打って変わって風もなく、水面が滑らかに広がっている。
アポロは舳先に立ち、目を細めた。
百景ヒラメは背景に溶け込む。つまり、探すべきは「ずれ」だ。完璧に溶け込んでいるように見えて、完璧ではない部分。光の反射の微妙な違い、波の動きのわずかなずれ、水面の歪み。
朝の光が水平線から差し始めた。海面がオレンジに染まる。
アポロは動かなかった。ただ海を見ていた。
十分が過ぎた。二十分が過ぎた。
そのとき、見えた。
海面から五メートルほど先。オレンジに染まった水面の中に、一か所だけ光の角度が違う場所があった。ほんの少し、周囲と反射の向きがずれている。まるで鏡を少し傾けたような、わずかな違和感。
アポロは旅蜘蛛を静かに解いた。
音を立てずに投げた。ロープが弧を描き、水面すれすれを走って、そのずれの中心に吸い込まれた。
次の瞬間、海が割れた。
巨大なヒラメが跳び上がった。体長三メートルを超える。全身の鱗が朝日を受けて輝き、その背中に海が映り込んでいた。オレンジの空、白い雲、遠くの水平線。まるで一枚の絵のように、そのすべてがヒラメの体に映っていた。
美しかった。
アポロは旅蜘蛛を引いた。ロープがヒラメの胴体に巻きつく。暴れる力は強かったが、アポロは踏ん張った。引いて、緩めて、また引く。疲弊させながら、少しずつ船へ近づける。
ガルドが甲板に飛び出してきた。他の船乗りたちも続く。
「……見つけやがった」
ガルドが息を呑んだ。
アポロは答えなかった。全神経をロープに集中させていた。
五分後、百景ヒラメは甲板の上に横たわっていた。
体の鱗は朝の光の中でも輝き続けていた。背中に、甲板の木目と空の青が映り込んでいた。傍で見ると、その美しさはさらに際立った。まるで生きた絵画のようだった。
ガルドは長い間、黙って見ていた。
「……三十年越しだ」
その声は静かだった。
セレナが包丁を握ったのは、それから一時間後だった。
甲板の上に即席の調理台を作り、船乗りたちが少し離れたところから見ている。
まず丁寧に鱗を引いた。鱗が剥がれるたびに、その下から白く滑らかな皮が現れた。捌きながら、セレナは身の状態を確かめていた。弾力がある。色が白く澄んでいる。鮮度は申し分なかった。
「刺身にする」
セレナは言った。
「あとは潮汁を作る。アラと昆布で出汁を取って、塩だけで仕上げる」
「シンプルだな」アポロが言った。
「何十年も生きた魚に、余計なものはいらないよ」
包丁が入った。滑らかに、迷いなく。柵に取った身は透き通るような白で、光を受けてほんのり輝いていた。
切りつけると、身がしっかりと弾き返してきた。歯を押し返すような確かな弾力。セレナは薄造りにした。百景ヒラメの身は繊細で、厚く切るより薄く引いた方が食感が生きると踏んでいた。
皿に扇状に並べると、それだけで一枚の絵になった。白く透明な身が重なり合い、光を通して輝いている。
並行して潮汁も仕上げた。アラから取った出汁は澄んでいて、塩だけの味付けが海の香りをそのまま閉じ込めていた。
「できた」
船乗りたちを含めた七人が、甲板に輪になって座った。
アポロが最初に刺身を口に入れた。
まず食感が来た。薄く引かれた身が舌の上に乗った瞬間、しっかりとした弾力が返ってくる。噛むたびに、押し返してくるような力がある。それから旨味が広がった。淡白なようで、奥に深いコクがある。噛めば噛むほど、味が出てくる。
そして、見えた。
目を閉じていないのに、頭の中に景色が広がった。
青い海だった。今よりもっと澄んでいるような。遠くに見える島の形が、今とは少し違う。小さな漁村が見えた。木造の船が並んでいた。人々が網を手繰り寄せている。子供が浜辺を走っている。どこかの港町の、百年前の朝の景色。
アポロは目を開けた。
「……見えた」
「私も」
セレナが静かに言った。
「海の景色。昔の、どこかの港」
船乗りたちがざわめいた。一人が「俺も見えた」と言い、また一人が「船が木造だった」と言った。
ガルドは黙ったまま、もう一切れを口に入れた。
しばらくの沈黙。
「俺が生まれる前の景色かもな」
ガルドはゆっくり言った。
「でも、知ってる気がする。この海の昔の姿だ」
「何十年、もしかしたらそれ以上、この海を泳ぎ続けてきたんだと思う」
セレナが言った。
「この子が見てきた全部が、身の中にあったのかもしれない」
「食べると景色が見えるって話は聞いてたが」
ガルドは手の中の器を見た。
「本当だとは思わなかった」
「本当のことは、食べてみないと分からない」
アポロが言った。
潮汁を飲んだ。出汁の透明な旨味が喉を伝わる。海の香りが鼻に抜けた。シンプルなのに、深かった。何十年も海水を吸ってきた魚の、純粋な味がした。
波の音が続いていた。空は高く青く、雲がゆっくり流れていた。
七人は輪になったまま、しばらく無言で食べ続けた。
ガルドが最後に言った。
「三十年前に逃したあいつじゃないかもしれない。でも、同じ海で生きてきた仲間だろう」
「そうだと思う」
アポロが答えた。
「美味かった。それだけで十分だ」
ガルドは空になった器を置いて、立ち上がった。
「さあ、出航するぞ。風が出てきた」
帆が張られ、船が動き始めた。
アポロは舳先に戻り、水平線を眺めた。さっきまであの海のどこかに百景ヒラメがいた。今はもういない。でも、数十年分の景色は確かにそこにあった。
セレナが隣に立った。
「次はどこへ行くの」
「まだ分からない」
アポロは風を受けながら答えた。
「でもまだこの海に、見たことのないものがたくさんあるんだろうな」
「うん」
セレナは水平線を見た。
「私もそう思う」
風が強くなった。帆が大きく膨らみ、船が加速した。
大海原が、どこまでも続いていた。