太陽と月の食卓 作:AIすげーってなってる人
辺境の町というのは、どこか空気が重い。
人の往来が少なく、店の数も限られていて、通りを歩く人々の表情に余裕がない。アポロとセレナがその町に足を踏み入れたとき、最初にそう感じた。
「寂しい町だね」
セレナが小声で言った。
「辺境だからな」
アポロは周囲を見回しながら言った。
「でも人が住んでる。それだけで十分だろ」
宿を探して通りを歩いていると、広場の端に一人の老人がいた。
執事服を着た、白髪の老人だった。背筋が伸びて品のある立ち姿だが、その顔には深い疲労と憔悴が刻まれていた。広場の石畳を見つめたまま、微動だにしない。まるで時間が止まったような、そういう立ち方だった。
アポロは足を止めた。
「……どうしたんですか」
老人が顔を上げた。焦点の合っていなかった目が、ゆっくりアポロを捉えた。
「旅の方ですか」
老人の声は低く、しかし丁寧だった。
「少々、途方に暮れておりまして」
「よかったら話してください」
セレナが静かに言った。
老人はしばらくアポロとセレナを見た。それから、静かに口を開いた。
老人の名はバルトといった。とある名家の家に長年仕える執事だという。
「お嬢様が、倒れられたのです」
バルトは話した。十日ほど前から突然の高熱。医師を呼び薬を試し、できる限りの手を尽くしたが、一向に回復しない。むしろ日に日に悪化している。診た医師たちは口を揃えて言った。未知のウィルスだ、と。通常の治療では手が届かない、と。
「ならばと思い、万年息災大蒜を探しました」
バルトは続けた。
「ウィルス性の病に効くと言われる食材です。一度食べれば万年、病にかからないとまで言われる。一縷の望みをかけて、お嬢様をお連れしてここまで参りました」
「令嬢をここに?」
アポロが言った。
「馬車の中で休んでおります。動かすのも辛い状態ですが、食材が手に入ればすぐにでも食べていただけるよう、そうするほかありませんでした」
バルトの声が、わずかに揺れた。
「万年亀は見つけました。ここから半日ほどの場所にある幽玄沼に。しかし……」
「背中の猛獣が強かった」
アポロが続けた。
「はい」
バルトは目を伏せた。
「十人以上の美食家を雇いましたが、歯が立たなかった。皆に怪我をさせてしまいました。新たに腕のある美食家を探そうにも、ここは辺境。首都まで行って帰ってくるには、時間がかかりすぎる」
老人はそこで言葉を切った。
広場に風が吹いた。
「お嬢様は今、十歳になられたばかりです」
バルトは静かに言った。
「まだこれから先が、長いはずのお方です」
アポロはバルトを見た。それから、セレナを見た。
セレナは小さく頷いた。
「行きましょう」
アポロはバルトに向き直った。
「俺たちが取ってくる」
バルトが顔を上げた。
「あなた方は……」
「美食屋と料理人です」
アポロはにっと笑った。
「なんとかなりますよ」
幽玄沼は、名前の通りだった。
朝靄が立ち込め、水面は灰色に沈んでいた。大きな木々が水辺に傾き、その根が沼に浸かっている。音がなかった。鳥の声も、虫の声も聞こえない。ただ水が静かに揺れている。
そしてその沼の中央に、それはいた。
「……でかい」
アポロが息を呑んだ。
直径一千メートルを超える巨大な亀。その甲羅の上には木が生え、草が広がり、遠くに山のような隆起まで見えた。靄の中にそびえるその姿は、島というより、もはや一つの世界だった。
「本当に生き物なんだ」
セレナが静かに言った。
「動いてるのか分からないな」
アポロは目を細めた。
「呼吸してるのが、かろうじて分かるくらいだ」
万年亀の首が、ゆっくりと水面から持ち上がった。巨大な目がこちらを見た。敵意はなかった。ただ静かにこちらを確認するように見て、また沼の方へ向き直った。
「大人しいな」
アポロが言った。
「怒らせちゃだめだよ」
セレナが言った。
「分かってる」
旅蜘蛛を使い、岸から甲羅の端へとロープを渡した。アポロが先に渡り、セレナが続く。甲羅の上は土が積もり、草が生えていた。踏みしめるとふかふかとした感触がある。
「不思議な感じ」
セレナが足元を見た。
「亀の背中なのに、普通の地面みたいだ」
「何百年、何千年かけて積み上がってきたんだろうな」
アポロは周囲を見渡した。
「万年息災大蒜はどこかに……」
そのとき、草むらが揺れた。
一頭ではなかった。四方から、同時に気配が迫った。
最初に飛び出してきたのは、大型の猫科の魔獣だった。体長三メートル、筋肉が鎧のように盛り上がった体。続いて、翼を広げた鳥型の魔獣。そして地面を這う大蛇。さらにもう一頭、二頭。
アポロは旅蜘蛛を解いた。
「セレナ、大蒜を探してくれ。この辺に生えてるはずだ」
「分かった。気をつけて」
「任せろ」
猫科の魔獣が最初に飛びかかった。アポロは動じなかった。半歩ずれてその爪をかわし、すれ違いざまに首の後ろを打つ。一撃で地面に沈んだ。
次に鳥型が翼を広げて突進してきた。旅蜘蛛を翼に絡ませ、引き落とす。ほとんど同時に、大蛇が足元に巻きつこうとした。アポロは跳んで背中に乗り、頭に一発。それだけで力が抜けた。
四頭目が突進してくる。アポロは正面から一歩も引かず受け止め、そのまま押し返した。どしんと大きな音がして、魔獣が地面に転がった。
静寂が戻った。
アポロは軽く手を払った。息も乱れていない。
「アポロ」
セレナの声がした。
「あった」
振り返ると、セレナが草の中にしゃがみ込んでいた。その足元には大粒の大蒜が地面から飛び出していた。五センチほどの白い玉。普通の大蒜より一回り大きい。
「他にも何株かある」
セレナは丁寧に、根を傷つけないよう引き抜きながら言った。
「必要な分だけもらう」
アポロは近づいて、その大蒜を見た。特別派手な見た目ではない。ただ白く、丸く、ずっしりと重みがある。
「これが、あの子を救うのか」
「救えるといいね」
セレナは大蒜を布に包みながら言った。
「やれることはやった。あとは信じるだけ」
馬車に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。
バルトが駆け寄ってきた。アポロがセレナの持つ布包みを指さすと、老人の目に光が宿った。
「手に入りましたか」
「手に入った」
アポロは言った。
「あとはセレナに任せる」
馬車の中は薄暗かった。小さなベッドの上に、少女が横たわっていた。顔が青白く、額に汗が滲んでいる。呼吸が浅い。アポロはその顔を見て、一瞬だけ表情を引き締めた。
セレナは荷物から小鍋を取り出し、火を起こした。
まず大蒜を一粒、丁寧に薄皮を剥く。中から現れた身は白く、透明感があった。そのまま火にかけた小鍋に入れ、少量の水と一緒にゆっくり加熱する。
すぐに香りが立った。
普通の大蒜とは全く違う香りだった。刺激的なのに、どこか甘い。フルーツのような丸みがあって、馬車の中に広がるにつれて空気が変わるような感じがした。
「いい香り……ですね……」
バルトが小声で言った。
「柔らかくなったら潰して、スープにします」
セレナは手を止めずに言った。
「飲みやすい形にした方がいい。今の状態なら固形物は辛いと思うから」
大蒜が柔らかくなると、セレナは丁寧に潰した。そこに出汁を加え、塩でごく薄く味を整える。香りが一層強くなった。
少女の肩をバルトがそっと抱き起こした。セレナがスプーンで少しずつ、口元へ運ぶ。少女は目をうっすら開けたが、意識がはっきりしているかどうかは分からなかった。それでも、スプーンが唇に触れると、反射的に飲み込んだ。
もう一口。また一口。
セレナは焦らなかった。少しずつ、ゆっくりと。
五分ほどして、少女の顔色がわずかに変わった。
青白かった頬に、ほんの少し赤みが差した。呼吸が、深くなった。
バルトが息を呑んだ。
十分後、少女が目を開けた。今度はしっかりと。ぼんやりと天井を見て、それからバルトを見た。
「……バルト」
かすれた、小さな声だった。しかしはっきりした声だった。
「お嬢様」
バルトの声が震えた。
「お気づきになられましたか」
「お腹、空いた」
少女は言った。
アポロが吹き出した。笑いをこらえられなかった。セレナも口元を押さえた。
バルトは目を赤くしながら、深く頭を下げた。
夕方、少女の顔色はさらに良くなっていた。
起き上がれるまでにはもう少しかかるが、意識ははっきりしていて、声もしっかりしていた。医師が診て、峠は越えたと言った。
バルトがアポロとセレナのところへやってきた。
「本当にありがとうございました」
老人は深々と頭を下げた。
「報酬をお支払いしたい。いくらでも」
「いらないですよ」
アポロはあっさり言った。
「そういうわけには参りません。命がけの仕事でした」
「命がけだったけど、やりたくてやった事だからな」
アポロは頭をかいた。
「美食屋はいつだって命がけだ。それに、お金のためにやったわけじゃないし」
バルトは顔を上げた。その目が、アポロをじっと見た。
「それでも、何かさせてください」
アポロは少し考えてから、セレナを見た。セレナが小さく笑った。
「じゃあ」
アポロはバルトに向き直った。
「今日の晩御飯、奢ってもらえますか。二人分」
バルトは一瞬、目を丸くした。それから、深い皺の中に笑みが浮かんだ。
「……それだけでよろしいのですか」
「十分ですよ」
アポロは笑った。
「旅人には、温かい飯が一番のご馳走だから」
バルトはもう一度、深く頭を下げた。
「かしこまりました。最高のものをご用意いたします」
夜、馬車の傍に設えたテーブルで、アポロとセレナは食事をした。
バルトが用意したのは、この地方の料理だった。豪華ではないが、丁寧に作られた、温かい食事だった。
食事の途中、馬車の中から声がした。
「……あの」
少女が、馬車の入口から顔を覗かせていた。まだ顔色は完全ではないが、目に力があった。
「誰が助けてくれたの」
バルトが立ち上がろうとしたが、アポロが先に振り返った。
「俺たちだよ」
少女はアポロとセレナを見た。しばらく黙って、それから言った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
アポロは笑った。
「早く元気になりな。お腹空いてるんだろ」
少女は少しだけ笑った。まだ弱々しいが、確かな笑みだった。
バルトがそっと少女を馬車の中へ戻した。
アポロは食事に戻った。温かいスープを一口飲んだ。
「美味いな」
「うん」
セレナも器を持ちながら言った。
「温かいご飯がやっぱりいいね」
夜の辺境の町は静かだった。星が出ていた。遠くで馬が一頭、低く鳴いた。
アポロはスープをもう一口飲んで、空を見上げた。
「行こうか、明日も」
「どこへ」
「どこかへ」
セレナは小さく笑って、食事を続けた。
夜風が、テーブルの上のランプを揺らした。