太陽と月の食卓 作:AIすげーってなってる人
「セレナ、お酒って得意じゃないんだっけ」
唐突な問いだった。
宿の食堂で夕食を終えたところで、アポロがそんなことを言い出した。セレナはお茶を飲みながら、少し首を傾けた。
「得意じゃないね。すぐ眠くなるから」
「じゃあ、飲みやすいやつならいけるか?」
「……何を企んでるの」
「企んでない」
アポロは地図を広げた。
「ここから二日ほどの場所に、月光渓谷っていう場所がある。そこに月光酒っていう天然酒が湧き出る泉があるんだ」
セレナは地図を覗き込んだ。
「天然酒?」
「満月の夜だけ、泉の水が酒になる。冷たくて爽やかな果実酒みたいな味で、何杯飲んでも重くならないって。心が穏やかな人ほど甘く感じるらしい」
アポロはセレナを見た。
「セレナなら絶対甘いと思って」
セレナは少し黙った。
「……それは、どういう意味で言ってるの」
「そのままの意味だよ」
アポロは笑った。
「行ってみないか。ちょうど三日後が満月だ」
セレナはアポロを見た。その目が、少し柔らかくなった。
「行こうか」
月光渓谷への道は、思ったより険しかった。
山道を登り、沢を渡り、岩場を越えた。道中、何頭かの猛獣が現れたが、アポロが旅蜘蛛で手際よく退けた。セレナはその間、食材になりそうな草や実を摘んでいた。
二人の間では、それが自然な役割分担だった。
渓谷に入ると、空気が変わった。岩壁が両側に迫り、その白い岩肌から水が染み出している。川の音が反響して、辺り一面に響いていた。岩の表面に苔が生え、薄暗い渓谷の中でも緑が鮮やかだった。
「これが月光渓谷か」
アポロが見上げた。
「岩が白いんだな」
「月光を反射するためだって聞いたよ」
セレナも岩壁を見た。
「満月の夜、この白い岩が月光を泉に集めるの」
泉は渓谷の奥にあった。
岩壁の割れ目から水が湧き出し、小さな丸い池のようになっていた。今は透明な水が静かに満ちているだけで、ごく普通の湧き水に見えた。水面に手を触れると、ひんやりと冷たかった。
「夜まで待つか」
アポロは近くの岩に腰を下ろした。
「そうだね」
セレナも隣に座った。
渓谷の空は細長かった。
両側の岩壁の間から見える空が、少しずつ暗くなっていく。最初は橙で、次第に紫になり、やがて藍色になった。星が一つ、また一つと現れた。
二人はしばらく、無言で空を見ていた。
セレナが先に口を開いた。
「ねえ、アポロ」
「ん」
「二人で村を出たあの日から、随分経ったよね」
アポロは空を見上げたまま、少し間を置いてから
「そうだな」と言った。
「本当に色々あった」
セレナは続けた。
「最近だと、森で灯火茸を見つけた夜も、砂漠でサファイアスコーピオンを倒した翌朝も、海で百景ヒラメを釣り上げた朝も。レオに狩りを教えた日も、ご令嬢を助けた時も」
「チェリーッシュも」
アポロが言った。
「うん」
セレナは微笑んだ。
「チェリーッシュも」
少し沈黙があった。水の音だけが流れた。
「私ね」
セレナはゆっくり言った。
「アポロについてきて、本当に良かったと思ってる。あの村にいるだけじゃ、絶対に見られなかったものや、味わえなかったものが沢山あった」
アポロは何も言わなかった。
「あの時、一緒に連れて行ってくれて、本当にありがとう」
渓谷に風が吹いた。岩壁が低くうなった。
「俺だって」
アポロはゆっくり言った。
「セレナがいてくれて良かった」
セレナがアポロを見た。
「セレナがいてくれたから辿り着けた景色が、数えられないくらいある。セレナがいてくれたから味わえた味も。セレナが料理にしてくれるから、俺が見つけた食材は初めて本当の意味で生きる」
アポロは空を見ていた。
「正直、隣にセレナがいないなんて、俺には考えられない」
セレナは何も言わなかった。
「俺こそ、あの時ついてきてくれてありがとう」
しばらく、二人は黙っていた。水の音が続いていた。空の藍色が深くなり、星が増えていた。
それは、静かに始まった。
泉の水面がかすかに揺れた。光ではなく、揺れから始まった。水の中から何かが湧き上がってくるような、そういう動きだった。
次の瞬間、銀色が滲み出した。
水面の端から、じわりじわりと。まるで月光が水に溶けていくように。銀色は広がり、やがて泉全体が淡く輝いた。岩壁の白い面が月光を集め、その光が泉に注いでいる。水面が揺れるたびに、銀色の光が波紋のように広がった。
「……きれい」
セレナが息を呑んだ。
アポロも黙って見ていた。
しばらくして、アポロが立ち上がった。泉の縁にしゃがみ込み、両手で水を掬い上げた。手のひらの中で、水が銀色に光っていた。
「飲んでみよう」
口をつけた。
冷たかった。最初に来たのは、透き通るような冷たさだった。次に、果実のような爽やかな香りが鼻を抜けた。喉を通ると、ほんのりとした甘みが残る。アルコールの重さがない。飲んだ後も、水のように澄んでいた。
「美味い」
アポロは素直に言った。
セレナも掬って飲んだ。目を閉じた。しばらくして、目を開けた。
「甘い」
セレナは言った。
「本当に、甘い」
「だろ」
アポロが笑った。
「セレナなら甘いと思ってた」
「あなたはどうだった」
「俺も甘かったよ」
セレナはもう一口飲んだ。
そのとき、泉の水面が動いた。黒い体に星のような斑点を持つ小さな魚が、水面近くをゆらりと泳いでいた。
「あれ」
アポロが言った。
「星辰鮎だ」
「本当に泳いでる」
セレナは泉を覗き込んだ。
「警戒心がないって聞いてたけど、本当だね」
「おつまみにしようか」
アポロは言った。
「このお酒に、きっと合う」
「そうしよう」
アポロが手を伸ばすと、星辰鮎は逃げなかった。するりと手のひらに収まった。
セレナが刺身にした。
月光に照らされた渓谷の中で、セレナの包丁が動いた。黒い体を開くと、中は白く透き通った身だった。薄く引いて、岩の上に並べると、星の斑点が光を受けてかすかに輝いていた。
一切れ、口に入れた。
シャッキリとした歯応えが来た。噛んだ瞬間、スイカに似た爽やかな香りが広がった。それから、なめらかな甘い脂の味。淡白なようで、後からじわりと旨味が出てくる。
「美味しい」
セレナが言った。
「ああ」
アポロも頷いた。
「合わせてみよう」
月光酒を一口飲んだ。酒の冷たさと爽やかさが、鮎の脂をすっと洗い流す。残るのは、澄んだ甘みだけだった。
「……なんだこれ」
アポロが言った。
「うん」
セレナも同じ顔をしていた。
「すごいね」
「全部が合ってる。鮎の脂を、酒が流す。でも旨味だけ残る。こんなに綺麗に合う組み合わせは、初めて食べた」
「同じ場所で育ったから」
セレナはもう一切れ食べながら言った。
「この鮎は月光酒の泉の中で育ってる。だから最初から調和してるのかもしれない」
二人はしばらく無言で食べた。
月が渓谷の真上に来た。白い岩壁が明るく輝き、泉が一層強く銀色に光った。星辰鮎が水面近くを泳ぐたびに、その斑点が星のように瞬いた。
一通り食べ終えた後、二人はまた岩に並んで座った。
月光酒をもう一杯、それぞれ掬って飲んだ。何杯飲んでも重くならない、という話は本当だった。体が冷えるでも温まるでもなく、ただ、穏やかな気持ちが続いていた。
セレナが月を見上げた。渓谷の細長い空に、満月が真っすぐ浮かんでいた。
「アポロ」
「ん」
セレナはしばらく月を見ていた。それから、アポロを見た。
「大好きだよ」
静かな声だった。渓谷の水の音に、溶けそうなくらい静かな声だった。
アポロはセレナを見た。
「俺もだよ、セレナ」
泉で、ちゃぽんと音がした。
星辰鮎が一匹、水面を跳ねた。銀色の光の中で、一瞬だけ星の斑点が輝いた。それだけだった。
月が、渓谷を照らし続けていた。
こちらでこの作品のエピソードは最後となっております。
ここまでお付き合いいただいた皆様、読んでいただいてありがとうございました。