太陽と月の食卓   作:AIすげーってなってる人

8 / 8
月光酒と、二人の夜

「セレナ、お酒って得意じゃないんだっけ」

 

 唐突な問いだった。

 

 宿の食堂で夕食を終えたところで、アポロがそんなことを言い出した。セレナはお茶を飲みながら、少し首を傾けた。

 

「得意じゃないね。すぐ眠くなるから」

 

「じゃあ、飲みやすいやつならいけるか?」

 

「……何を企んでるの」

 

「企んでない」

 

アポロは地図を広げた。

 

「ここから二日ほどの場所に、月光渓谷っていう場所がある。そこに月光酒っていう天然酒が湧き出る泉があるんだ」

 

 セレナは地図を覗き込んだ。

 

「天然酒?」

 

「満月の夜だけ、泉の水が酒になる。冷たくて爽やかな果実酒みたいな味で、何杯飲んでも重くならないって。心が穏やかな人ほど甘く感じるらしい」

 

アポロはセレナを見た。

 

「セレナなら絶対甘いと思って」

 

 セレナは少し黙った。

 

「……それは、どういう意味で言ってるの」

 

「そのままの意味だよ」

 

アポロは笑った。

 

「行ってみないか。ちょうど三日後が満月だ」

 

 セレナはアポロを見た。その目が、少し柔らかくなった。

 

「行こうか」

 

 

 

 月光渓谷への道は、思ったより険しかった。

 

 山道を登り、沢を渡り、岩場を越えた。道中、何頭かの猛獣が現れたが、アポロが旅蜘蛛で手際よく退けた。セレナはその間、食材になりそうな草や実を摘んでいた。

 

 二人の間では、それが自然な役割分担だった。

 

 渓谷に入ると、空気が変わった。岩壁が両側に迫り、その白い岩肌から水が染み出している。川の音が反響して、辺り一面に響いていた。岩の表面に苔が生え、薄暗い渓谷の中でも緑が鮮やかだった。

 

「これが月光渓谷か」

 

アポロが見上げた。

 

「岩が白いんだな」

 

「月光を反射するためだって聞いたよ」

 

セレナも岩壁を見た。

 

「満月の夜、この白い岩が月光を泉に集めるの」

 

 泉は渓谷の奥にあった。

 

 岩壁の割れ目から水が湧き出し、小さな丸い池のようになっていた。今は透明な水が静かに満ちているだけで、ごく普通の湧き水に見えた。水面に手を触れると、ひんやりと冷たかった。

 

「夜まで待つか」

 

アポロは近くの岩に腰を下ろした。

 

「そうだね」

 

セレナも隣に座った。

 

 

 

 渓谷の空は細長かった。

 

 両側の岩壁の間から見える空が、少しずつ暗くなっていく。最初は橙で、次第に紫になり、やがて藍色になった。星が一つ、また一つと現れた。

 

 二人はしばらく、無言で空を見ていた。

 

 セレナが先に口を開いた。

 

「ねえ、アポロ」

 

「ん」

 

「二人で村を出たあの日から、随分経ったよね」

 

 アポロは空を見上げたまま、少し間を置いてから

 

「そうだな」と言った。

 

「本当に色々あった」

 

セレナは続けた。

 

「最近だと、森で灯火茸を見つけた夜も、砂漠でサファイアスコーピオンを倒した翌朝も、海で百景ヒラメを釣り上げた朝も。レオに狩りを教えた日も、ご令嬢を助けた時も」

 

「チェリーッシュも」

 

アポロが言った。

 

「うん」

 

セレナは微笑んだ。

 

「チェリーッシュも」

 

 少し沈黙があった。水の音だけが流れた。

 

「私ね」

 

セレナはゆっくり言った。

 

「アポロについてきて、本当に良かったと思ってる。あの村にいるだけじゃ、絶対に見られなかったものや、味わえなかったものが沢山あった」

 

 アポロは何も言わなかった。

 

「あの時、一緒に連れて行ってくれて、本当にありがとう」

 

 渓谷に風が吹いた。岩壁が低くうなった。

 

「俺だって」

 

アポロはゆっくり言った。

 

「セレナがいてくれて良かった」

 

 セレナがアポロを見た。

 

「セレナがいてくれたから辿り着けた景色が、数えられないくらいある。セレナがいてくれたから味わえた味も。セレナが料理にしてくれるから、俺が見つけた食材は初めて本当の意味で生きる」

 

アポロは空を見ていた。

 

「正直、隣にセレナがいないなんて、俺には考えられない」

 

 セレナは何も言わなかった。

 

「俺こそ、あの時ついてきてくれてありがとう」

 

 しばらく、二人は黙っていた。水の音が続いていた。空の藍色が深くなり、星が増えていた。

 

 

 

 それは、静かに始まった。

 

 泉の水面がかすかに揺れた。光ではなく、揺れから始まった。水の中から何かが湧き上がってくるような、そういう動きだった。

 

 次の瞬間、銀色が滲み出した。

 

 水面の端から、じわりじわりと。まるで月光が水に溶けていくように。銀色は広がり、やがて泉全体が淡く輝いた。岩壁の白い面が月光を集め、その光が泉に注いでいる。水面が揺れるたびに、銀色の光が波紋のように広がった。

 

「……きれい」

 

セレナが息を呑んだ。

 

 アポロも黙って見ていた。

 

 しばらくして、アポロが立ち上がった。泉の縁にしゃがみ込み、両手で水を掬い上げた。手のひらの中で、水が銀色に光っていた。

 

「飲んでみよう」

 

 口をつけた。

 

 冷たかった。最初に来たのは、透き通るような冷たさだった。次に、果実のような爽やかな香りが鼻を抜けた。喉を通ると、ほんのりとした甘みが残る。アルコールの重さがない。飲んだ後も、水のように澄んでいた。

 

「美味い」

 

アポロは素直に言った。

 

 セレナも掬って飲んだ。目を閉じた。しばらくして、目を開けた。

 

「甘い」

 

セレナは言った。

 

「本当に、甘い」

 

「だろ」

 

アポロが笑った。

 

「セレナなら甘いと思ってた」

 

「あなたはどうだった」

 

「俺も甘かったよ」

 

 セレナはもう一口飲んだ。

 

 そのとき、泉の水面が動いた。黒い体に星のような斑点を持つ小さな魚が、水面近くをゆらりと泳いでいた。

 

「あれ」

 

アポロが言った。

 

「星辰鮎だ」

 

「本当に泳いでる」

 

セレナは泉を覗き込んだ。

 

「警戒心がないって聞いてたけど、本当だね」

 

「おつまみにしようか」

 

アポロは言った。

 

「このお酒に、きっと合う」

 

「そうしよう」

 

 アポロが手を伸ばすと、星辰鮎は逃げなかった。するりと手のひらに収まった。

 

 

 

 セレナが刺身にした。

 

 月光に照らされた渓谷の中で、セレナの包丁が動いた。黒い体を開くと、中は白く透き通った身だった。薄く引いて、岩の上に並べると、星の斑点が光を受けてかすかに輝いていた。

 

 一切れ、口に入れた。

 

 シャッキリとした歯応えが来た。噛んだ瞬間、スイカに似た爽やかな香りが広がった。それから、なめらかな甘い脂の味。淡白なようで、後からじわりと旨味が出てくる。

 

「美味しい」

 

セレナが言った。

 

「ああ」

 

アポロも頷いた。

 

「合わせてみよう」

 

 月光酒を一口飲んだ。酒の冷たさと爽やかさが、鮎の脂をすっと洗い流す。残るのは、澄んだ甘みだけだった。

 

「……なんだこれ」

 

アポロが言った。

 

「うん」

 

セレナも同じ顔をしていた。

 

「すごいね」

 

「全部が合ってる。鮎の脂を、酒が流す。でも旨味だけ残る。こんなに綺麗に合う組み合わせは、初めて食べた」

 

「同じ場所で育ったから」

 

セレナはもう一切れ食べながら言った。

 

「この鮎は月光酒の泉の中で育ってる。だから最初から調和してるのかもしれない」

 

 二人はしばらく無言で食べた。

 

 月が渓谷の真上に来た。白い岩壁が明るく輝き、泉が一層強く銀色に光った。星辰鮎が水面近くを泳ぐたびに、その斑点が星のように瞬いた。

 

 

 

 一通り食べ終えた後、二人はまた岩に並んで座った。

 

 月光酒をもう一杯、それぞれ掬って飲んだ。何杯飲んでも重くならない、という話は本当だった。体が冷えるでも温まるでもなく、ただ、穏やかな気持ちが続いていた。

 

 セレナが月を見上げた。渓谷の細長い空に、満月が真っすぐ浮かんでいた。

 

「アポロ」

 

「ん」

 

 セレナはしばらく月を見ていた。それから、アポロを見た。

 

「大好きだよ」

 

 静かな声だった。渓谷の水の音に、溶けそうなくらい静かな声だった。

 

 アポロはセレナを見た。

 

「俺もだよ、セレナ」

 

 泉で、ちゃぽんと音がした。

 

 星辰鮎が一匹、水面を跳ねた。銀色の光の中で、一瞬だけ星の斑点が輝いた。それだけだった。

 

 月が、渓谷を照らし続けていた。




こちらでこの作品のエピソードは最後となっております。

ここまでお付き合いいただいた皆様、読んでいただいてありがとうございました。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。