『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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第1話(プロローグ):謎の異邦人、先生となる

一.生誕の地

 

ニューヨーク東七十一丁目四百十五番地。

 

秘密研究施設の冷たい蛍光灯が、無機質なコンクリートの廊下を白く焼き切るように照らし出していた。防音壁に挟まれた閉鎖空間。空調の唸りだけが低く這い、外界の音は一切届かない。白いワイシャツを着た無表情の職員に先導され、デイヴィッド・ウェッブは自らの足音を聞きながら進んでいく。

 

言語学者であり外交官でもあった彼の観察眼は、意識するより先に環境を分解していた。すれ違う職員の歩調は一分間に百八歩。肩の傾きから利き腕は右。両側に並ぶ鉄扉の厚みはおよそ五十ミリ、ヒンジは内開き。廊下の突き当たりまで二十二歩。監視カメラは四台、うち一台は死んでいる――否、死んでいるように見せかけてある。

 

それらの情報は彼にとって何の役にも立たない。ここは彼が自ら望んで足を踏み入れた場所なのだから。だが習慣は止まらない。刑務所の独房のような圧迫感が、わずかな金属の軋みさえも神経を逆撫でする。

 

やがて重いドアの前で足が止まる。

 

職員が鍵を回し内側へ押し開くと、消毒薬と冷気の混ざった時間が凝固したような空気が顔を叩いた。部屋の中央、スチール製の事務机の向こうに小太りの男が座っている。眼鏡の奥の目は底知れず計算高く輝き、その隣に据えられた三脚付きのビデオカメラが録画を示す赤いランプを規則的に点滅させていた。

 

そして――部屋の隅。

 

折りたたみ椅子に縛り付けられ、黒い布を頭から被せられた男が死体のように動かずにいた。その歪な輪郭がウェッブの視界の端を鋭く掠める。彼はプロとしての本能で即座にそれを意識の外へと排除した。

 

「おはよう、大尉。説明は受けているかね」

 

小太りの男が感情を削ぎ落とした声で静かに尋ねる。

 

ウェッブは何も答えなかった。ただ首から下げていた軍の認識票(ドッグタグ)を静かに外し、金属音を立てて机の上に置く。二枚のプレートが冷たいスチールの上でわずかに滑って止まった。

 

――それがこれまでの人生との、そしてデイヴィッド・ウェッブという一人の人間との決別だった。

 

彼は向かいの丸椅子に重い腰を下ろす。

 

「君のこれからの任務は、ただ一つ。アメリカ人の命を救うことだ」

 

男は一言一言の重みを確かめるように、慎重に言葉を選びながら続けた。

 

「この処置が済めば、君はもうデイヴィッド・ウェッブではなくなる」

 

ウェッブは揺るぎない冷徹な声で応じた。元来の生真面目さと大義への義務感が、彼の声を鋼のように硬くする。

 

「必要な存在になります」

 

部屋に鉛のような沈黙が落ちる。ビデオカメラの駆動音だけが耳障りに響き続ける。男は机の上の黒い塊――グロック・ピストルをゆっくりと滑らせてウェッブの前に差し出した。冷たいポリマーと金属の感触が掌に吸い付き、蛍光灯の光が銃身のセレーションに鈍く反射する。

 

「決心はついたかね」

 

ウェッブは隅で拘束されている黒布の男に視線を移した。荒い呼吸だけがその男がまだ生きていることを示している。

 

「彼は……何をしたんですか」

 

男は冷たい視線を返し、遮るように短く言い放った。

 

「聞かない約束だ」

 

「ですが……」

 

「君は自ら志願したはずだ!」

 

低い声が防音壁に反響して部屋を満たす。

 

「アメリカ人の命を救うために自分という存在のすべてを捨てる覚悟を、君は持っていたはずだ」

 

ウェッブの心臓が肋骨を叩き、呼吸が急速に浅くなる。手の中のグロックが信じられないほど重い。九百グラム足らずの道具が地球そのものの質量を持っているかのようだった。

 

――これは任務だ。祖国への、大義への誓いだ。

 

彼は脳内の葛藤を力ずくで圧殺し、衝動に突き動かされるように立ち上がると両手で銃をホールドした。前腕の筋が張り、照準線が黒布の頭部へ固定される。躊躇の隙間を埋めるように引き金を三度、正確に絞り込んだ。

 

銃声がタイルの壁に反響し、鼓膜を震わせる。一瞬遅れて生々しい硝煙と血の臭いが室内に広がった。

 

――そして夢は、そこで壊れる。

 

倒れた男の頭部を覆っていた黒布がゆっくりと滑り落ちる。現実の記憶には存在しなかった悪夢だけが与える追加の一秒。

 

布の下から現れた顔はデイヴィッド・ウェッブ自身のものだった。

 

小太りの男は満足げに深く頷き、ウェッブの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「デイヴィッド・ウェッブは死んだ」

 

その言葉は彼の魂に対する死刑宣告だった。

 

「今この瞬間から、君の名前はジェイソン・ボーンだ」

 

---

 

二.深夜二時十七分、シャーレ執務室

 

割れるような偏頭痛と共に、ウェッブは現実へと引きずり戻された。

 

反射的に肺が空気を求め、荒い呼吸が二度、三度。こめかみを押さえ、視界のピントを強引に合わせる。周囲を見回してもコンクリートの壁もタイルの床も、硝煙の生臭さもない。あるのは紙とトナーと、飲み残したコーヒーの匂いだ。

 

そこは学園都市キヴォトス、連邦捜査部シャーレの執務室だった。

 

ブラインドの隙間からはD・U地区の巨大なネオンサインが淡い光の帯となって室内に滲み込み、床に規則的な縞模様を落としている。壁の時計は二時十七分を指していた。仮眠を取るつもりで椅子に背を預け――そのまま二十分ほど落ちていたらしい。

 

ウェッブはふと自分の右手に気づいた。

 

デスクの上のスチール製ボールペンをいつでも人間の頸動脈を穿てる逆手(リバースグリップ)の形で、尋常ではない力で握り締めている。指の関節が白い。ゆっくりと一本ずつ指の力を抜いていく。ペンが乾いた音を立てて机に転がった。額から冷たい汗が一筋、顎まで伝い落ちる。

 

――道具はいつでも武器になる。人間もそうだ。

 

その思考を彼は意識的に脇へ押しやった。

 

つけっぱなしのモニターが青白い光を無言で放っている。画面には連邦生徒会の電子決裁システム。『未処理:一四七件』の赤い数字が点滅もせずにただそこにある。その脇には紙の山。各学園から送られてきた予算申請書、管区内のトラブル仲裁依頼、備品の破損報告、そして無限に続く始末書の数々。ゲヘナ風紀委員会が演習で吹き飛ばした街灯の弁償請求。トリニティのティーパーティーからの格式張った文体の招待状。ミレニアム・エンジニア部からの内容を理解するのに十分を要する研究費申請。

 

ウェッブは机の端に伏せてあったスマートフォンを裏返した。

 

画面が明るくなり、通知が滝のように流れ落ちる。深夜二時だというのにモモトークの未読は三十件を超えていた。

 

『先生、まだ起きてる? ……私も。眠れない。(既読つけなくていいよ)』――空崎ヒナ。

 

『先生! 明日の視察、〇九〇〇時ちょうどです! ちょうど、というのは〇八五九でも〇九〇一でもないという意味ですからね!?』――早瀬ユウカ。

 

『ふふ、ユウカが同じ文面を三回書き直していましたよ。私が見ていることは内緒です』――生塩ノア。

 

『ご主人様ー! 明日ミレニアム来るんだよね!? お散歩しよ! 私、ワンちゃんになるから!』――一之瀬アスナ。

 

『今日の先生の運勢は「大凶:水難の相」でした。……水難、ですって。おかしいですね、ふふ』――明星ヒマリ。

 

『先生、報告。深夜のD・U十七番街、パトロール異常なし。……以上。(三十秒で書きました。効率的でしょう)』――和泉元エイミ。

 

『こら、先生。またオフィスに泊まってるだろ。健康診断からいつまで逃げる気だ』――尾刃カンナ。

 

『先生ー!! 新作ゲームのデバッグ手伝って!! 明日でいいから!! 今すぐでもいいけど!!』――才羽モモイ。

 

ウェッブはそれらの文字列をしばらく無言で見つめた。

 

かつて彼の携帯電話に届く連絡といえば、暗号化された座標と標的の顔写真と実行期限だけだった。今この端末に流れ込んでくるのは、少女たちの眠れない夜と遅刻への警告と、犬の真似をするという不可解な提案だ。

 

――平和だ。

 

ここにはラングレーからの暗殺指令もない。処分すべき身元不明の死体もない。あるのは徹夜続きによるカフェインの過剰摂取と、頭上に奇妙な光輪(ヘイロー)を浮かべた少女たちのどこか浮世離れした悩みだけ。

 

彼は完全に冷めきったコーヒーのマグに手を伸ばし、口を付けた。酸化した苦味が舌の上で広がる。不味い。だがこの味は、彼が生きて椅子に座っているという物理的な証明だった。

 

コン、コン。

 

ノックは二回。硬質で無駄がなく、正確に一秒の間隔を空けている。

 

「入れ」

 

ドアが開く。廊下の照明を背にして立っていたのは、書類の束を胸に抱えた連邦生徒会長代行――七神リンだった。濃紺のロングヘアに眼鏡、白いコート。彼女の目の下にはウェッブと同種の隈が刻まれている。

 

「起きていましたか。ノックの前から貴方の心拍が上がっているような気配がしましたが」

 

「気のせいだ」

 

「そうですか」

 

彼女はそれ以上追及せず、抱えていた書類の束をウェッブのデスクの空いた一角――正確には空いていた最後の一角――に、静かに、しかし容赦なく置いた。

 

紙の塔がまた一段高くなる。

 

「未決裁分です。財務室、調停室、交通室、そして人材資源室からの回付。すべて先生の署名が必要なものだけを抜き出してきました」

 

「……抜き出して、この量か」

 

「抜き出して、この量です」

 

ウェッブは椅子に深く背を預け、天井を仰いだ。それから元外交官としての落ち着いた、しかしどこか一定の距離を置いた口調で言った。

 

「リン。一つ確認させてくれ」

 

「どうぞ」

 

「連邦捜査部シャーレの常勤の構成員は何名だ」

 

リンは眼鏡の位置を指で直し、一切の感情を排して答えた。

 

「一名です」

 

「その一名の名は」

 

「デイヴィッド・ウェッブ。シャーレ顧問」

 

「組織図上の部員数は」

 

「規約上、キヴォトスの全学園から無制限に加入可能です。理論上の上限は――数十万人でしょうか」

 

「理論上の上限が数十万人で実働が一人。ここまで大胆な組織設計は見たことがない」

 

ウェッブは山積みの書類のうちの一枚を摘み上げた。『備品損耗報告書(射撃場・標的紙・二千四百枚)』。第三葉に「顧問確認印」の欄がある。

 

「そしてこの一人の組織は標的紙が二千四百枚消費されたことを三枚綴りの複写式書類で申告し、それを別の一人が押印して確認し、さらにそれを電子システムに再入力し原本を七年間保管する」

 

「規則です」

 

「二千四百枚の紙を撃ち抜いた記録を残すために、九千枚の紙を消費するのか」

 

「……先生」

 

「効率という言葉はこの街の辞書に載っているのか? 俺は世界中の言語を扱えるが、キヴォトス語の『効率』だけは翻訳できそうにない」

 

リンはほんのわずかに――本当にわずかに眉を動かした。

 

「載っています。ただし『文書』という項目のさらに下位に。……そしてその皮肉を仰る資格が今の先生にあるとは思えません」

 

彼女は自らのタブレットを取り出し、指先で数回滑らせてグラフを一枚呼び出した。

 

そしてそれをウェッブの目の前に突きつけた。

 

「これが先生のこの四半期における『効率的な』資金運用の結果です」

 

画面には一本の折れ線グラフ。左端で這うように低かった線はある一点――ウェッブがシャーレ顧問に就任した月――から、垂直に近い角度で天へ向かって突き抜けていた。グラフの上限を突破し、注釈で「※スケール外」と表示されている。

 

「シャーレの特別予算枠。連邦生徒会長が失踪前に設定した使途の裁量が極めて広い、事実上の白紙小切手(ブランク・チェック)です。先生はこの四半期それを主に何に使いましたか?」

 

ウェッブは即答した。

 

「ヴァルキューレ警察学校の防弾装備の更新。SRT特殊学園の訓練用弾薬と模擬市街地の建設。ゲヘナ風紀委員会の通信機材。トリニティ正義実現委員会の暴徒鎮圧用非致死性装備。ミレニアムC&Cの暗視装備……」

 

「結構です。財務室の扇喜アオイ室長が先ほど私のデスクに鬼の形相で怒鳴り込んできました。彼女は財務のプロですから感情的にはなりません。ただ極めて論理的にこう述べました」

 

リンは記憶を再生するように抑揚を排した声で言った。

 

「『シャーレの予算執行グラフは垂直発射された弾道ミサイルの軌跡と統計的に区別がつきません。あの顧問はこの街で民間軍事会社(PMC)でも設立するつもりですか』と」

 

「……なるほど。優秀な部下だ」

 

「褒めていません」

 

リンはふうと細く息を吐いた。彼女が疲労を外に出すのは極めて珍しい。

 

「先生。私は数字の管理者です。感情ではなく貸借対照表で物を語る立場にあります。ですからこれは苦情です。この規模の支出は一自治組織の裁量を明らかに逸脱している」

 

「……」

 

「ですが」

 

彼女はそこで一度言葉を切った。タブレットの画面を切り替える。

 

新しいグラフが表示された。今度は右肩下がりの線だ。

 

「キヴォトス全域の重要事案発生件数。武力衝突、テロ、誘拐、大規模抗争。……先生の着任前と比較して六十八パーセントの減少です。ヴァルキューレの初動到着時間は平均四分十二秒短縮。学園間の武力衝突は直近二ヶ月でゼロ」

 

彼女は淡々と数字を読み上げた。

 

「データ上、キヴォトスの治安は統計を取り始めて以来過去最高の水準にあります」

 

ウェッブは黙っていた。

 

「そしてこれは私が個人的に――連邦生徒会長代行としてではなく七神リン個人として――記録に残しておきたいことですが」

 

リンはタブレットを閉じ、真っ直ぐにウェッブを見た。

 

「防衛室長、不知火カヤ。彼女がキヴォトス全域を『恐怖による秩序』で塗り替えようとしていたことを先生は着任からわずか三週間で看破しました。そして貴方は彼女を告発も逮捕もせず……何をしたのか私は今も知りませんが、ある夜を境に彼女は完全に別人のように職務へ復帰しました」

 

「教育(エデュケーション)だ」

 

「その『教育』の内容を私は永遠に聞かないことにしています」

 

リンは表情を変えなかった。

 

「結果としてカヤ室長は失脚せず、連邦生徒会は内部分裂を回避し彼女が私兵化しかけていたSRT特殊学園は廃校を免れて、今やキヴォトス最強の執行部隊として正しく機能している。……FOX小隊もRABBIT小隊も貴方の教導を受けた」

 

「彼女は自分が置かれた状況と真の上意下達を正しく理解しただけだ」

 

「そういうことにしておきましょう」

 

リンは眼鏡を押し上げた。レンズがモニターの青い光を反射する。

 

「そして――エデン条約」

 

その単語にウェッブは初めてわずかに視線を落とした。

 

「調印式典の当日、トリニティとゲヘナの生徒が一人も死なずに条約は締結された。エデン条約機構は今やキヴォトスの二大勢力を繋ぐ唯一の外交的支柱です」

 

「……」

 

「先生。私は貴方の予算執行に反対しています。財政はあと二四半期で確実に破綻する。それは事実です」

 

彼女は書類の束の上に静かに手を置いた。

 

「ですが貴方がこの街にもたらしたものが何であるかも、私は正しく理解しているつもりです。それは実績として認めます」

 

ウェッブはしばらく彼女の顔を見ていた。それから山の一番上の書類を引き寄せペンを取った。今度は逆手ではなく正しい持ち方で。

 

「明日の予定は」

 

「〇九〇〇時、ミレニアムサイエンススクール。晄輪大祭の会場予定地――中央スタジアムの警備体制の視察です」

 

リンは業務用の声に戻った。

 

「念のため確認しますが晄輪大祭について、先生の理解に不足はありませんね?」

 

「通称『晄輪大祭』、正式名称『キヴォトス大運動会』。連邦生徒会・行政委員会主導で二年に一度開催される、学園の垣根を越えた合同体育祭。参加校数は数百。動員される観客は最大で数十万」

 

ウェッブは書類にサインしながら、記憶(ライブラリ)から情報を引き出すように続けた。

 

「そしてキヴォトスにおける不文律。大祭の期間中はいかなる敵対関係にある学園同士も武器を置いて協力する。古くからこの街の平和維持機構として機能してきた」

 

「正確です。……あまりに正確なので少し不気味ですね」

 

「一つ質問がある」

 

ウェッブはペンを止めた。

 

「その不文律は何によって担保されている? 罰則規定は。違反時の強制執行力は。監視機構は」

 

リンは数秒沈黙した。

 

「……ありません。慣習です。誰もが守ってきたから守られている」

 

「なるほど」

 

ウェッブはサインを終え、次の書類を引き寄せた。声は静かだった。

 

「つまりそれは破ろうと決めた者にとっては何の障害にもならないということだ」

 

リンの表情が初めて硬くなった。

 

「……先生。晄輪大祭はこの街の善意で成り立っています。それを疑うのは――」

 

「疑ってはいない。だが数十万の人間が一箇所に集まり、警備の根拠が『みんなが守ってきたから』である催しを俺は職業上『イベント』とは呼ばない」

 

彼はペンを置き、リンを見た。

 

「『標的』と呼ぶ」

 

執務室に沈黙が落ちた。

 

ネオンの光がブラインド越しにゆっくりと明滅する。やがてリンは小さく息を吐いた。

 

「……だから貴方に視察を頼んでいるのです」

 

彼女は踵を返しドアへ向かう。取っ手に手をかけたところで一度だけ振り返った。

 

「早瀬ユウカ会計が先生の到着を今か今かと待ち構えています。『一秒でも遅れたら今月のシャーレの経費を全て差し押さえる』とのことでした」

 

「彼女の『計算』には移動中に発生する予期せぬ不確定要素(トラブル)が考慮されていないな」

 

「それは先生が毎回おかしな事案に自ら巻き込まれに行くからです」

 

リンはドアを開け、そして最後にこう付け加えた。

 

「……それと。地下の電波暗室に封印されている『シッテムの箱』ですが、いい加減開放してはいかがですか」

 

ウェッブの手がぴたりと止まった。

 

「あれは危険だ」

 

「ええ、あの子は元気なだけです」

 

「元気だと? あの端末は俺の一日のスケジュールと心拍数と昨晩の睡眠時間と朝食のカロリーを、俺が起きる前に把握していた」

 

「秘書ですから」

 

「……盗聴システムと秘書の区別がつく人間だけが俺に説教できる」

 

「では私が説教します」リンは眉一つ動かさずに言った。「失った健康は取り戻せません。決してご無理はなさらずに。……おやすみなさい、先生」

 

ドアが閉まる。

 

ウェッブは閉じたドアを数秒見つめ、それから再びペンを取った。

 

窓の外ではD・U地区のネオンが眠らない街を照らし続けていた。

 

---

 

三.〇五三〇時、仮眠室

 

目覚まし時計は使わない。

 

〇五三〇時。ウェッブの目は体内時計に従って正確に開いた。アラームが鳴る前に。この二十年一度も狂ったことのない習慣だ。

 

彼はリクライニングチェアではなく簡素なベッドの縁に腰を下ろした。三十秒、ただ座って呼吸を整える。夢を見た形跡が頭蓋の奥にざらついた残滓を残しているが、それは無視する。無視できるようになるまでに五年かかった。

 

立ち上がる。

 

まずベッドを整える。シーツの角を四十五度に折り込み、毛布を張り、皺を掌で伸ばす。ブーツキャンプで叩き込まれた意味のない――そして意味しかない――儀式。ベッドメイクはその日一日で最初に完了する任務だ。どんなに最悪の一日であっても、少なくとも一つは達成した任務がある。そういう思想だった。

 

腕立て伏せ。腹筋。懸垂は仮眠室の入り口の梁を使う。心拍を上げ、体温を上げ、昨夜のフラッシュバックが神経系に残した毒を汗と一緒に絞り出す。

 

冷水で顔を洗い、髭を剃る。鏡の中の男は三十代半ば。短髪。鋭い目つき。背中には鏡には映らない古い弾痕が三つ。

 

装備点検(ギア・チェック)。

 

これも儀式だ。だがこちらには実利がある。

 

グロック19

 

Gen5をホルスターから抜く。マガジンリリース、マガジン排出。スライドを引き、薬室(チャンバー)を目視と指先で二重に確認――空。分解し、バレル、リコイルスプリング、ブリーチフェイスを点検。カーボンの付着は許容範囲。ファイアリングピンの動作を確認し組み上げ、機能検査。空撃ち一回。乾いた健全な音。

 

マガジンを装填しスライドを引いてチャンバーに一発送り込む。マガジンを抜き、一発足して再装填。十六発。

 

予備マガジン二本。折りたたみナイフ。小型のライト。現金――三種類の通貨とキヴォトスのクレジット。小型のメモ帳とボールペン。腕時計は機械式。電池が切れることも電子的に追跡されることもない。

 

ジャケットを羽織り内側のホルスターにグロックを収める。腕を上下に振り、屈み、身体を捻る。銃の輪郭(プリント)が服の上に浮かばないか。抜き撃ち(ドロー)の軌道に干渉するものはないか。

 

ポケットの中身を検める。指紋の付いた領収書、行き先を示すメモ、個人を特定できる何か――ない。ポケットは常に「無菌(ステライル)」でなければならない。

 

最後に頭の中で建物の間取りを再生する。この階からの脱出経路は三本。階段が二本、外壁の配管が一本。地下駐車場までの最短ルートは四十四秒。

 

――誰も追ってこない。ここは学園都市で俺はただの顧問だ。

 

そう自分に言い聞かせながら、彼はそれでも二十年間欠かしたことのない一連の動作を今朝も完璧に終えていた。

 

抜けないのだ。この癖は。

 

米陸軍大尉として。デルタフォースの隊員として。そしてトレッドストーンの資産(アセット)として――生き残るために身体に刻まれた手順は、もはや彼という人間の一部だった。

 

ウェッブは仮眠室の照明を消し、廊下へ出た。

 

---

 

四.エンジェル24

 

シャーレのオフィスビル一階。

 

ガラス張りの店舗から漏れる二十四時間変わらない蛍光灯の光。自動ドアが開くと聞き慣れた電子音が鳴った。

 

「い、いらっしゃいませっ!」

 

裏返った声。カウンターの向こうで小柄な少女が背筋をぴんと伸ばして立っている。水色と白のエプロン、首から下げた名札、両手で握りしめられたバーコードリーダー。アルバイト店員のソラだ。

 

ウェッブは軽く頷き、店内に足を踏み入れる。

 

そして無意識のうちに走査(スキャン)を開始した。

 

――入り口から二番目の棚、上から三段目。エナジードリンクの陳列。昨日と同じ二十四本。ミレニアム産の新型が四本、右端。位置の変更なし。

 

――冷蔵ケース、サンドイッチの棚。ツナと卵。品出しの時刻はおそらく〇四三〇時。ラベルの日付、正常。

 

――床。昨日のモップ痕と同じ方向。清掃業者の変更なし。

 

――防犯カメラ三台。角度、変更なし。

 

――店内の客〇名。窓の外、通りに停まった車両二台。両方とも昨日から同じ位置。ナンバーは記憶と一致。

 

――そしてカウンターの少女。

 

ソラはいつも通りに緊張していた。いつも通りにウェッブが来店したというだけでバーコードリーダーを取り落としそうになっている。いつも通りに視線が定まらない。

 

――正常(ノーマル)。

 

異常なし。

 

ウェッブはこの確認作業を「習慣」だと自分に説明していた。だがそれが習慣ではなく「必要」だった時代を、彼の身体は正確に記憶している。行きつけの店がある朝店員だけ入れ替わっている。棚の商品が一列だけ違う。それが殺し屋が待ち構えているという唯一の兆候(サイン)だった時代を。

 

彼はサンドイッチを二つとブラックコーヒー、それにエナジーバーを三本手に取りカウンターに置いた。

 

「あ、あの……えっと……ご、合計で――」

 

ソラの指がレジのパネルの上で震えている。

 

「ゆっくりでいい」

 

ウェッブは静かに言った。低く落ち着いた、指示ではなく提示の声。彼が交渉の場で緊張した相手の呼吸を整えさせるために使う声だ。

 

「……っ、は、はい……」

 

ソラは深呼吸を一つして、それからきちんとバーコードを読み取った。ピッ、ピッ、と規則的な電子音。彼女は最後まで一度も打ち間違えなかった。

 

「あ、ありがとうございました……! ま、またのお越しをお待ちしております……っ!」

 

「ああ」

 

ウェッブは袋を受け取り自動ドアへ向かう。そして一歩踏み出したところで足を止めた。

 

「――ソラ」

 

「ひゃっ、は、はいっ!?」

 

「レジ、速くなったな」

 

少女は一瞬、何を言われたのか分からないという顔をした。それから耳まで真っ赤になって、バーコードリーダーを両手で胸に抱えた。

 

「…………れ、練習、したので……」

 

「そうか」

 

それだけ言ってウェッブは店を出た。

 

背後で自動ドアが閉まる音がした。

 

---

 

五.〇八四〇時、D・U環状線

 

地下駐車場から出したジープ・ラングラーのエンジン音が、朝の街に響く。

 

ウェッブはハンドルを握りながら、ルームミラーを三秒に一度確認していた。

 

黒のセダン。二台後方。三つ目の交差点まで同じ挙動。

 

――対監視走行(サーベイランス・ディテクション・ルート)。

 

彼は不要な右折を三度繰り返し、行き止まりの路地に一度入りUターンして出た。黒のセダンは二度目の右折で消えた。ただの通勤者だ。

 

それでも彼はすべての車のナンバープレートを無意識のうちに記憶していた。今この視界の中に六台の車がある。すべてのナンバーを今この瞬間に諳んじることができる。この能力は便利だと思ったことは一度もない。ただ消せないだけだ。

 

フロントガラスの向こう、D・U地区の摩天楼が朝日を反射して白く輝いている。その先にはサンクトゥムタワー。さらにその向こうにミレニアムサイエンススクールの自治区が幾何学的なシルエットを描いて広がっていた。

 

無線機からモノレールの運行アナウンスが漏れ聞こえる。

 

――『晄輪大祭、開催まであと〇日』。

 

街のあちこちに垂れ幕が下がっている。参加校の校章が並び色とりどりのバナーが風にはためく。歩道では体操服姿の生徒たちが朝から練習に励んでいる。ゲヘナの制服とトリニティの制服が並んで走っている。

 

――武器を置き、共に走る。

 

ウェッブはその光景をしばらく黙って見ていた。

 

そしてアクセルを踏んだ。

 

---

 

六.ミレニアムサイエンススクール、中央スタジアム

 

晄輪大祭の準備でごった返す会場予定地には、未来的な重機と無数のドローンが慌ただしく行き交っていた。半球状に組み上がりつつある巨大スタジアムの骨格が、朝日を浴びて銀色に光っている。

 

「――ですから! 構造体の安全係数は最低でも一・五です! 想定外の事象を『運』や『気合』で処理するつもりはありません! 全てを数値化して管理してください!」

 

計画性と規律を重んじる叱責の声が、建設現場に響き渡る。

 

早瀬ユウカはホログラムで表示されたスタジアムの構造図を鋭い指先で指し示しながら、冷や汗を流す現場監督のロボットを捲し立てていた。紺色のツインテールが彼女の身振りに合わせて激しく揺れる。

 

その背後ではミレニアムが誇る『エンジニア部』の面々が、何やら怪しげな巨大端末を囲んで議論を交わしていた。

 

「ウタハ先輩、こちらの『自動防衛タレット・雷ちゃん改』の光学迷彩信管ですが、先ほどスタジアム外縁でのテスト中に流体力学的な摩擦で予期せぬ早期点火を起こしまして! 詳細に申し上げますとレイノルズ数が想定値を三桁上回った結果、境界層剥離が――」

 

豊見コトリが眼鏡を光らせ、息継ぎも忘れる早口でまくしたてる。

 

「言葉より行動で。……うん、これ。新型の『即席失神鉄パイプ信管』。当たると少し痛い。というか気絶する」

 

猫塚ヒビキが朴訥とした表情のまま、不眠症に効く(と本人は主張する)狂気の爆発物を掲げた。獣耳がぴょこりと動く。

 

「二人とも落ち着きたまえ。不具合があるなら現場で叩き直すまでさ。技術の優位こそが完璧な安全を保証する。さあ雷ちゃん、もう一度出力を――」

 

部長・白石ウタハが理性的かつ堂々とした態度で自動砲台に指示を出した瞬間。

 

「ドガァァン!!」

 

スタジアムの裏手から激しい爆発音と黒い煙のキノコが立ち昇った。

 

「あの子たちまた現場で爆発物の実験をーーっ! 後で予算会議に強制連行ですからね!!」

 

ユウカの怒号が響き渡る中――

 

爆風で舞い上がった土煙の中から一人の男が音もなく歩み出てきた。

 

黒いジャケット。短く刈った髪。表情のない鋭い目。彼は爆煙をわずかに手で払っただけで歩調も呼吸も一切乱していなかった。

 

「あ、先生! 遅いです! 約束の時間から三分十二秒の遅刻ですよ!」

 

ウェッブの姿を認めるなりユウカは両手を腰に当てて勢いよく振り返った。

 

ウェッブは彼女の真面目で責任感の強い気質を一瞬で読み取り、無意識のうちに適応(ラポール構築)を行う。対等で論理的で落ち着いた「教授」としての口調を選ぶ。

 

「悪かった、ユウカ。エンジニア部の実験エリアを迂回せざるを得なくてね。安全確保(クリアリング)に時間を取られた」

 

「はぁ……。もう、先生が甘やかすからエンジニア部が調子に乗るんです」

 

ユウカは深いため息をついた。それから気を取り直したように端末を掲げる。

 

「……それは置いておいて、先生。これを見てください」

 

彼女が操作すると空間に青い透過図面が展開した。観客席の警備配置図だ。

 

「警備ロボットの配置密度と有事における避難経路の動線シミュレーションです。私の完璧な計算に基づいています。総座席数二十七万四千。全席満員からの完全避難所要時間、十四分三十秒。これならどんなトラブルが起きても九九・八パーセントの確率で完全に対処可能です」

 

ユウカは胸を張った。

 

「運がよかった? いいえ――計算通りです」

 

ウェッブは一歩前に進みその図面を覗き込んだ。

 

そしてその瞬間。

 

彼の眼が変わった。

 

思考を挟むことなく、プロの工作員としての視点(アイズ)が図面を秒単位で解剖していく。ユウカの計算は『数学的』には完璧だった。避難動線の総流量、ボトルネックの理論値、警備密度の最適配置。どれも文句のつけようがない。

 

だが『戦術的』には――致命的な欠陥が三つあった。

 

「……ユウカ。計算は綺麗だ。だが前提が甘い」

 

「えっ?」

 

「実戦の戦場は君の数式ほど従順じゃない」

 

ウェッブは図面の一点を指した。

 

「北側のゲートD。ここの動線は退場ピーク時に深刻なボトルネックになる。君の計算は『群衆が秩序を保って歩く』という前提に立っている。だがパニックに陥った群衆は歩かない。走る。そして倒れる。前の人間が倒れれば後ろは止まれない。ここで一度でも爆発音――あるいはそれに類する破裂音がすれば、この通路で凄惨な将棋倒し(クラッシュ)が発生する。死者はテロ本体よりもパニックのほうが多く出す」

 

「……っ」

 

「次に警備ドローンの巡回ルート。この経路には外周に三箇所の死角(ブラインドスポット)が周期的に発生する。周期は約九十秒。ここ、ここ、それとここだ」

 

彼の指が正確に三点を突いた。

 

「西の給水塔、南東の資材ヤードの屋根、そして北の立体駐車場の五階。この三点はいずれもスタジアムの本部席(VIP・ボックス)に対する狙撃線(ライン・オブ・サイト)が通っている。距離はそれぞれ七百、九百二十、千百メートル。……プロなら間違いなくここを使う」

 

「そんな……計算では監視カバー率は九十七パーセントで――」

 

「三パーセントの穴があれば人は死ぬ」

 

ウェッブは静かに言った。

 

「そして三つ目。君の避難計画は『観客が避難する』ことを前提にしている。だがこの街の観客は――生徒だ。全員が武装している」

 

ユウカの顔から血の気が引いた。

 

「……あ」

 

「二十七万人の観客の八割が実弾を装填した銃器を携行している。パニックが起きたとき彼らは逃げない。撃つ。何に向かって撃つかは彼ら自身にも分からない」

 

ウェッブはユウカの端末を断りもなく、しかし滑らかに奪い取った。

 

そして指が動き出す。

 

流れるような手つきで画面を操作し図面を書き換えていく。ドローンの巡回位相をずらし死角の周期を破壊する。ゲートDの手前に群衆の流速を落とすための「蛇行分流帯(サーペンタイン)」を挿入する。狙撃線が通る三点に非致死性のカウンター・スナイパー・チームの配置を打つ。避難経路を「一本の太い動線」から「複数の細い動線」へ分解する。

 

その修正はあまりに実戦的で血生臭い経験則に基づいていた。

 

十七秒で彼は端末を返した。

 

「ちょ、ちょっと先生!? そ、そんな配置にしたら――」

 

ユウカは画面に飛びついた。そして算盤を弾く指が猛烈な速度で動き始める。

 

「……警備ドローンの巡回効率が二十三パーセント低下。稼働時間の増加に伴いバッテリー交換人員が追加で四十名。カウンター・スナイパーの配置には人件費と資機材が別途……ざっと稼働コストが二・一倍! 二倍ですよ二倍! 晄輪大祭の全予算を警備だけで食いつぶす気ですか!?」

 

「備えあれば憂いなしと言いますよ。ユウカちゃん」

 

おっとりとした、しかしどこか底の知れない声とともに生塩ノアが二人の間に滑り込んできた。手元のメモ帳にサラサラと何かを書き込みながら楽しそうに微笑んでいる。

 

「ノア! あなたからも言ってやってよ! 先生ったらまるでここが本物の戦場か何かだと勘違いしてるみたいで……」

 

「ふふっ」

 

ノアはペンを止めずに答えた。

 

「でも先生のご指摘は過去にD・U地区で発生した三件の大規模暴動における群衆心理データ、および直近五年間の突発的テロの制圧記録と――完全に一致しています」

 

彼女の紫色の瞳が静かにウェッブを見た。完全記憶能力(パーフェクト・メモリー)を持つ少女の底の知れない視線。

 

「先生の『経験則』は私の記録(レコード)とも一切の矛盾がありません。むしろ私の記録より正確な部分があります。……ゲートDの将棋倒しについては二年前の大祭で実際に軽傷者が十一名出ています。報告書は混雑事故として処理されました。あの報告書を読んだ人間はキヴォトスに三人しかいないはずですが」

 

ウェッブは何も答えなかった。

 

ノアは微笑んだままメモ帳に一行書き加えた。

 

「……流石ですね、先生」

 

「うっ……。ノアがそこまで言うなら……」

 

ユウカは頭を抱え電卓を叩いて計算をやり直し始めた。

 

「でも予算が……これ以上はセミナーの枠じゃ出せませんよ……! 晄輪大祭の運営費は連邦生徒会からの拠出金と各校の分担金で構成されていて、警備費の増額はセミナーの一存では――」

 

ウェッブはその姿をしばらく見ていた。

 

そして身体に染み付いていた緊張がほんのわずかに緩んだ。

 

――ここでは狙撃手ではなく『予算不足』が最大の敵だ。

 

悪くない。

 

「……上と交渉してくる。バックアップを頼む」

 

ウェッブはそう言い残すとユウカとノアから距離を取り、自身の端末を取り出した。

 

相手は連邦生徒会財務室長、扇喜アオイ。

 

このキヴォトスにおいてある意味でカイザーの精鋭部隊よりも攻略困難な『鉄壁』として恐れられている女。

 

だが――かつて冷戦下の東欧で二重スパイを転向させたことがある。イスタンブールで麻薬カルテルの会計士に組織を裏切らせたこともある。ラングレーの尋問官をたった一つの質問で黙らせたこともある。

 

交渉事は本来彼の得意分野であるはずだった。

 

彼は深く息を吸い込み発信ボタンを押した。

 

ワンコール。ツーコール。

 

繋がった瞬間、ウェッブはプロの声音で口を開いた。

 

「アオイ。緊急の案件だ。シャーレの特別予算枠から――」

 

『却下します、先生』

 

間髪入れず氷点下の声が鼓膜を刺した。挨拶も用件の確認もない。ただ純粋な一ミリの隙もない拒絶。

 

だがウェッブは怯まない。彼は声のトーンを極限まで落とし、相手の理性に訴えかける『心理戦(サイ・オプス)』モードへと移行した。

 

「……アオイ、聞いてくれ。これはリスク管理(リスク・マネジメント)の話だ。晄輪大祭には二十七万の観衆が集まる。もしセキュリティの不備を突かれスタジアムで爆破テロ、あるいは大規模な暴動が発生してみろ。その際、連邦生徒会が被る被害総額――物的損害、賠償、行政不信、そして次の大祭の中止による経済損失。それは今回の追加予算の比じゃないぞ」

 

彼はあえて数秒の重い沈黙を作り、冷徹にかつ説得力のあるトーンで続ける。

 

「今の〝わずかな出費〟を惜しむことで将来的にその十倍の〝負債〟を抱えることになる。君ならこの数式が理解できるはずだ。これはただの消費じゃない。未来への保険であり確実な投資(インベストメント)なんだよ」

 

完璧な論理展開だった。

 

恐怖(フィアー)と利益(ベネフィット)を天秤にかけさせ、相手に『イエスと言わなければ損をする』と思わせる。かつてラングレーの冷徹な尋問官すら頷かせた話術だ。

 

数秒の沈黙。

 

――動揺している。

 

そう確信したウェッブが畳み掛けようと口を開きかけたその時。

 

『……極めて論理的ですね、先生』

 

アオイの声は全くブレていなかった。

 

『ですが確率的リスクを根拠にした感情論に追加予算は認められません。それから』

 

彼女は書類をめくる音をあえて聞かせた。

 

『昨日SRTの市街地演習で完全なスクラップになった重装甲車三両。その損害賠償請求書が今朝私のデスクに届いています。備考欄には「実戦的感覚の涵養のため」と書かれていました。……先生の筆跡で』

 

「あー……それは生徒の生存率を上げるために必要不可欠な経費で……」

 

『不許可です』

 

一刀両断だった。

 

『セキュリティホールがそれほど心配ならば、先生がそのお体で物理的に埋めてください。それが最も安価で最も効果的な補強材です。……業務に戻ります。以上』

 

プツッ。

 

ツーツーツー……。

 

無情な電子音がウェッブの耳元で虚しく響いた。

 

一方的な通信切断。世界最強の諜報機関ですら手を焼き三つの大陸で追跡網を振り切ってきた伝説の男との交渉を、彼女はたった四十七秒で『処理』したのだ。

 

「…………」

 

ウェッブはゆっくりと端末を耳から離した。

 

そして遠い虚空を見つめた。

 

背後でユウカの呆れたようなため息が聞こえる。ノアが手帳にサラサラと『一〇時〇六分、先生、財務室長に敗北。所要時間四十七秒』と楽しげに書き込む音が聞こえる。

 

「……先生? 『大人の交渉』の結果はどうでした?」

 

ユウカがジト目で一歩また一歩と詰め寄ってくる。

 

ウェッブは振り返り何事もなかったかのように完璧な真顔で答えた。

 

「……作戦(ネゴシエーション)は失敗だ。プランBに移行する」

 

「プランB?」

 

「ユウカ。君の最初の計算通りで進めてくれ。予算内で完璧に収めよう」

 

「やっぱり最初から無理だったんじゃないですかーーっ! おとなしく私の言うことを聞いてください!」

 

ユウカの怒声が晄輪大祭の会場予定地に青空高く響き渡った。

 

その隣でノアが口元を押さえて肩を震わせている。遠くのスタジアムではエンジニア部がまた何かを爆発させた。空には色とりどりのバナーがはためいている。

 

――平和だ。

 

ここには国家を揺るがす血生臭い陰謀はない。

 

しかし血も涙もない『財務官僚』という名の怪物は確かにこの世界にも存在していた。

 

そして。

 

ウェッブは笑わなかった。

 

彼はもう一度スタジアムを見上げた。

 

北のゲートD。西の給水塔。南東の資材ヤード。北の立体駐車場五階。

 

二十七万人の観客。数百の学園。武器を置くという何の強制力もない不文律。

 

彼の中の何かがずっと以前から静かに警報を鳴らし続けていた。

 

それが職業病なのか、それとも――

 

ウェッブはジャケットの内側の重みをそっと確かめた。

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