『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

1 / 11
第1話:謎の異邦人、先生となる

ニューヨーク東七十一丁目四百十五番地、秘密研究施設の冷たい蛍光灯の光が、無機質なコンクリートの廊下を白く焼き切るように照らし出していた。防音壁に挟まれた閉鎖空間。白いワイシャツを着た無表情の職員に先導され、デイヴィッド・ウェッブは足音を響かせ進んでいく。言語学者であり外交官でもあった彼の鋭い観察眼は、無意識のうちにすれ違う職員の歩調、肩の傾き、そして両側に並ぶ重厚な鉄扉の厚みを分析していた。それは刑務所の独房のように不気味な圧迫感を放ち、わずかな金属の軋みさえも神経を逆撫でするほどの緊張を煽った。

 

やがて、廊下の突き当たりにある重いドアの前で足が止まる。職員が鍵を回し、内側へ押し開くと、薬品と冷気の混ざった静まり返った空気が顔を叩いた。部屋の中央、スチール製の事務机の向こうに、小太りの男が座っていた。眼鏡の奥にある目は底知れず計算高く輝き、その隣に置かれた三脚付きのビデオカメラが、録画を示す赤いランプを規則的に点滅させている。そして――部屋の隅。折りたたみ椅子に縛り付けられ、黒い布を頭から被せられた男が、まるで死体のように動かずにいた。その歪な輪郭がウェッブの視界の端を鋭く掠めたが、彼はプロとしての本能で、すぐに意識からそれを排他した。

 

「おはよう、大尉。説明は受けているかね」

 

小太りの男が、感情を削ぎ落とした声で静かに尋ねる。ウェッブは何も答えず、首から下げていた軍の認識票(ドッグタグ)を静かに外すと、金属音を立てて机の上に置いた。それが、これまでの人生、そしてデイヴィッド・ウェッブという一人の人間との決別だった。彼は向かいの丸椅子に、重い腰を下ろす。

 

「君のこれからの任務は、ただ一つ。アメリカ人の命を救うことだ」

 

男は一言一言の重みを確かめるように、慎重に言葉を選びながら続けた。

 

「この処置が済めば、君はもうデイヴィッド・ウェッブではなくなる」

 

ウェッブは揺るぎない、冷徹な声で応じた。元来の生真面目さと、大義への義務感が、彼の声を鋼のように硬くする。

 

「必要な存在(兵器)になります」

 

部屋に、鉛のような沈黙が落ちる。ビデオカメラの駆動音だけが、耳障りに響き続ける。男は机の上に置かれた黒い塊――グロック・ピストルを、ゆっくりと滑らせてウェッブの前に差し出した。冷たいポリマーと金属の感触が掌に吸い付き、蛍光灯の光が銃身のセレーションに鈍く反射する。

 

「決心はついたかね」

 

ウェッブは、隅で拘束されている黒布の男に視線を移した。荒い呼吸だけが、その男がまだ生きていることを示している。

 

「彼は……何をしたんですか」

 

男は冷たい視線を返し、遮るように短く言い放った。

 

「聞かない約束だ」

 

「ですが……」

 

「君は自ら志願したはずだ!」男の低い声が部屋に響き渡る。「アメリカ人の命を救うために、自分という存在のすべてを捨てる覚悟を、君は持っていたはずだ」

 

ウェッブの心臓が激しく鐘を突き、呼吸が急速に浅くなる。手の中のグロックが、信じられないほど重く感じられた。――これは任務だ。祖国への、そして大義への誓いだ。彼は脳内の葛藤を力ずくで圧殺し、衝動に突き動かされるように立ち上がると、両手で銃をホールドした。照準線が黒布の頭部へ固定される。躊躇の隙間を埋めるように、引き金を三度、正確に絞り込んだ。

 

銃声がタイルの壁に反響し、鼓膜を震わせる。一瞬遅れて、生々しい硝煙と血の臭いが室内に広がった。小太りの男は満足げに深く頷き、ウェッブの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「デイヴィッド・ウェッブは死んだ」

 

その言葉は、彼の魂に対する確実な死刑宣告だった。

 

「今、この瞬間から、君の名前はジェイソン・ボーンだ」

 

---

 

割れるような偏頭痛(フラッシュバック)と共に、ウェッブは意識を現実へと引き戻した。激しい眩暈にこめかみを押さえ、荒い息を整えながら視界を確保する。周囲を見回しても、コンクリートの壁も、タイルの床も、硝煙の生臭さもない。

 

そこは学園都市キヴォトス、連邦捜査部シャーレの執務室だった。ブラインドの隙間からは、D・U地区の巨大なネオンサインが淡い光となって室内に滲み込んでいる。ウェッブはふと、自分がデスクの上のスチール製ボールペンを、いつでも人間の頸動脈を穿てる逆手(リバースグリップ)の形で、尋常ではない力で握り締めていることに気づいた。ゆっくりと指の力を抜く。額から冷たい汗が伝い落ちた。

 

目の前のデスクには、各学園から送られてきた山のような予算申請書、管区内のトラブル仲裁依頼、そして無限に続く始末書の数々。――平和だった。ここにはラングレーからの暗殺指令も、処分すべき身元不明の死体もない。あるのは、徹夜続きによるカフェインの過剰摂取と、頭上に奇妙な光輪(ヘイロー)を浮かべた少女たちの、どこか浮世離れした悩みだけだ。

 

デスクの上の暗号化端末が、不意に小刻みに震えた。ディスプレイに表示された『七神リン』の文字を確認し、彼は思考をビジネスモードに切り替えて通話ボタンを押した。

 

「……リン。こんな時間にか」

 

『ええ。誰かさんのおかげで、連邦生徒会は年中無休で寝不足です。カシャッ……(エナジードリンクのプルタブを開ける音)……それで先生、未処理の決済書類の進捗はどうなっていますか?』

 

七神リンの声は、相変わらず冷徹で、寸分の狂いもない。ウェッブは、元外交官としての落ち着いた、しかしどこか一定の距離を置いた丁寧な口調で応じる。

 

「確認中だ。もうすぐ終わる」

 

『……そのセリフ、今日だけで三回目ですが。まぁいいでしょう。この深夜に連絡してきたということは、単なる業務催促ではないと察しているはずです』

 

リンが手元のタブレットを操作する、硬質な電子音が通信越しに響く。

 

『明日のスケジュール変更についてです。午前は、ミレニアムサイエンススクールへの視察。晄輪大祭に向けた警備体制の最終チェックです。セミナーの早瀬ユウカ会計が、先生の到着を今か今かと待ち構えていますよ。「一秒でも遅れたら、今月のシャーレの経費を全て差し押さえる」とのことです』

 

「彼女の『計算』には、移動中に発生する予期せぬ不確定要素(トラブル)が考慮されていないな」

 

『それは先生が毎回、おかしな事案に自ら巻き込まれに行くからです。……臨機応変な対応ができるのは重々承知していますが、明日は遅れないでください。そして午後ですが、事前の通達通りSRT特殊学園への指導および演習が予定されています』

 

ウェッブはわずかに眉根を寄せた。工作員としての本能が、SRTという高い練度を持つ駒の扱いに警戒を促す。

 

「SRTか。FOX小隊もRABBIT小隊も、基本的な戦術教導(タクティカル・トレーニング)は一通り叩き込んだはずだ。これ以上、あの領域(ステージ)で俺が教えることはない」

 

『必要です。……特に、防衛室の不知火カヤ室長からの、半ば悲鳴に近い強い要望ですので』

 

不知火カヤ。その名を聞いて、ウェッブの脳裏に「教育(荒療治)」の記憶が微かに蘇る。かつて権力欲に溺れて独断専行を繰り返していた彼女の部屋に、深夜、音もなく侵入した。背後からその喉元に即席の武器――今しがたまで握っていたボールペンを突きつけ、いつでも命を奪えるという絶対的な現実を分からせたのだ。

 

『正直に申し上げますが、私は先生に感謝しているのです。あのカヤ室長が……ええ、まるで何かに取り憑かれたように、今では従順に職務に励んでいますから。以前囁かれていた黒い噂も完全に消え、今では防衛室の泊まり込み記録を更新する勢いです』

 

「……彼女も、自分が置かれた状況(ポジション)と、真の上意下達(チェーン・オブ・コマンド)を正しく理解しただけだ」

 

『ええ。「先生にだけは、二度と牙を剥いてはならない」と、青い顔で震えながら書類を処理している姿は、少々同情を誘いますが……。おかげで、SRTやヴァルキューレ警察学校の防衛・制圧練度は劇的に向上しました。キヴォトスの治安は、データ上、過去最高レベルに改善されています』

 

「それは重畳(Good news)。なら、俺の胃の負担も減る」

 

ウェッブが完全に冷めきったコーヒーに手を伸ばした、その時だった。リンの声色が、ふっと重く沈んだ。

 

『――ですが。治安の改善と綺麗に反比例して、現在、国家危機的状況に陥っているものがあります』

 

「……なんだ」

 

『連邦生徒会、および防衛室の「財政」です』

 

ウェッブの手が、ピタリと止まる。

 

『先生。現場への新型実戦装備の配備、ヴァルキューレへの重装甲車の導入、さらには日々の演習で使用される消耗品の数々……。これら全ての請求書を見た財務室の扇喜アオイ室長が、先ほど鬼の形相で私のデスクに怒鳴り込んできまして』

 

画面の向こうで、リンが深くため息をつきながらこめかみを指で押さえているのが見えた。

 

『「シャーレの予算グラフが垂直発射したロケットのようになっている。あの先生はここで民間の軍事会社(PMC)でも立ち上げるつもりか」と、一歩も引きませんでしたよ。先生? 平和にはコストがかかるとはいえ、これは国家予算規模の浪費です』

 

ウェッブは視線を、虚空の死角へと泳がせた。確かに、生徒たちの生存率を限界まで引き上げるために、世界の「本物」の実戦的装備を奢りすぎたかもしれない。だが、それは命を守るための確実な投資(インベストメント)だ。

 

「……リン。アオイにはこう伝えてくれ。『安全は金で買えないが、金で補強することはできる』と」

 

『伝えました。そうしたら、「その補強材の重量でサンクトゥムタワーが倒壊しそうです」と即答されましたよ』

 

ウェッブは口を閉ざした。論理(ロジック)で勝てない相手がいるとすれば、それはラングレーの尋問官ではなく、怒れる財務官僚だ。

 

『はぁ……。とにかく、明日の視察では、コスト削減についても現地で協議をお願いします。実弾ではなく、シミュレーターの使用比率を上げるなど、工夫してください』

 

「……善処する」

 

『期待はしていません。……それでは、おやすみなさい』

 

プツリと通話が切れる。ウェッブは黒い画面を見つめながら、小さく息を吐いた。CIAの追跡チームを撒くよりも、アオイの予算審査をかわすほうが、遥かに困難なミッションになるかもしれない。

 

---

 

翌日。ミレニアムサイエンススクール。晄輪大祭の準備でごった返すスタジアム予定地には、未来的な重機と無数のドローンが慌ただしく行き交っていた。

 

「――ですから! 構造体の安全係数は最低でも一・五です! 想定外の事象を『運』や『気合』で処理するつもりはありません! 全てを数値化して管理してください!」

 

周囲に響き渡る、計画性と規律を重んじるお叱りの声。早瀬ユウカは、ホログラムで表示されたスタジアムの構造図を鋭い指先で指し示しながら、冷や汗を流す現場監督のロボットを捲し立てていた。

 

その背後では、ミレニアムが誇る「エンジニア部」の面々が、何やら怪しげな巨大端末を囲んで議論を交わしている。

 

> 「ウタハ先輩、こちらの『自動防衛ターレット・雷ちゃん改』の光学迷彩信管ですが、先ほどスタジアム外縁でのテスト中に、流体力学的な摩擦で予期せぬ早期点火を起こしまして!」豊見コトリがメガネを光らせ、息継ぎも忘れるほどの早口でまくしたてる。「言葉より行動で……。うん、これ。新型の『即席失神鉄パイプ信管』。当たると、少し痛い、というか気絶する」猫塚ヒビキが朴訥とした表情のまま、不眠症に効く(と主張する)狂気の爆発物を掲げた。「二人とも落ち着きなさい。不具合があるなら現場で叩き直すまでだ。技術の優位こそが、完璧な安全を保証する。さあ、雷ちゃん、もう一度出力を――」部長の白石ウタハが理性的かつ堂々とした態度で指示を出した瞬間、スタジアムの裏手から**「ドガァァン!!」**と激しい爆発音が鳴り響いた。

>

>

 

「あの子たちはまた現場で即席爆発物(IED)の実験をーーっ! 後で予算会議に強制連行ですからね!!」

 

ユウカの怒号が響き渡る中、ウェッブは爆風の煙を避けながら、音もなく彼女たちの前に現れた。

 

「あ、先生! 遅いです! 約束の時間から三分十二秒の遅刻ですよ!」

 

ウェッブの姿を認めるなり、ユウカは両手を腰に当てて勢いよく振り返った。ウェッブは彼女の真面目で責任感の強い気質を見抜き、無意識のうちに生存スキルとしての適応(ラポール構築)を行う。対等で、論理的かつ落ち着いた「教授」としての口調を選ぶ。

 

「悪かった、ユウカ。今しがたエンジニア部の実験エリアを迂回せざるを得なくてね。安全確保(クリアリング)に時間を取られた」

 

「はぁ……。もう、先生が甘やかすからエンジニア部が調子に乗るんです。……それは置いておいて、先生。これを見てください」

 

ユウカが手元の端末を操作し、空間に展開したのは観客席の警備配置図だった。

 

「警備ロボットの配置密度と、有事における避難経路の動線シミュレーションです。私の完璧な計算に基づいています。これなら、どんなトラブルが起きても九九・八%の確率で完全に対処可能です」

 

ウェッブは一歩前に進み、その青い透過図面を覗き込んだ。その瞬間、プロの工作員としての視点(アイズ)が、思考を挟むことなく図面を秒単位で解剖していく。ユウカの計算は「数学的」には完璧だ。だが、「戦術的」には致命的な欠陥が散見された。

 

「……ユウカ、計算は綺麗だが、前提が甘い。実戦の戦場は君の数式ほど従順ではない」

 

「えっ? どういうことですか、私の計算に間違いがあるとでも?」

 

「北側のゲートDだ。ここの動線は混雑時に深刻なボトルネックになる。もしここで爆発音、あるいはそれに類する破裂音が一度でもすれば、パニックになった群衆で凄惨な将棋倒しが発生する。それに、この警備ドローンの巡回ルートでは、外周に三箇所の死角(ブラインドスポット)ができる。プロの狙撃手なら、間違いなくここを突いて狙撃ライン(ライン・オブ・サイト)を確保するぞ」

 

ウェッブはユウカの端末を滑らかに奪うと、流れるような手つきで画面を操作し、図面を修正していった。配置されたドローンの位置が変わり、防護壁の角度が書き換えられる。その修正は、あまりに実戦的で、血生臭い経験則に基づいたものだった。

 

「ちょ、ちょっと先生!? そんな配置にしたら、警備ドローンの巡回効率が落ちて、稼働コストが倍になります! 晄輪大祭の全予算を警備だけで食いつぶす気ですか!?」

 

「備えあれば憂いなし、と言いますよ。ユウカちゃん」

 

おっとりとした、しかしどこか底の知れない声と共に、生塩ノアが二人の間に滑り込んできた。彼女は手元のメモ帳にサラサラと何かを書き込みながら、楽しそうに微笑んでいる。

 

「ノア! あなたからも言ってやってよ! 先生ったら、まるでここが本物の戦場か何かだと勘違いしてるみたいで……」

 

「ふふっ。でも、先生のご指摘は、過去にD・U地区で発生した暴動時の群衆心理データ、および突発的テロの制圧記録と完全に一致しています。先生の『経験則』は、私の記録(レコード)とも一切の矛盾がありません。流石ですね、先生」

 

「うっ……ノアがそこまで言うなら……。でも、予算が……これ以上はセミナーの枠じゃ出せませんよ……!」

 

頭を抱え、電卓を叩いて計算をやり直し始めるユウカ。その姿を見て、ウェッブの身体に染み付いていた緊張が少しだけ緩んだ。ここでは、狙撃手ではなく「予算不足」こそが最大の敵なのだ。

 

「……上と交渉してくる。バックアップを頼む」

 

ウェッブはそう言い残すと、ユウカとノアから距離を取り、自身の端末を取り出した。相手は連邦生徒会財務室長、扇喜アオイ。彼女はこのキヴォトスにおいて、ある意味でカイザーの精鋭部隊よりも攻略困難な「鉄壁」として恐れられている。だが、かつて冷戦下の東欧で二重スパイを転向させた経験のあるウェッブにとって、交渉事など本来は得意分野であるはずだった。

 

彼は深く息を吸い込み、発信ボタンを押した。ワンコール。ツーコール。

 

繋がった瞬間、ウェッブはプロの声音で口を開いた。

 

「アオイ。緊急の案件だ。シャーレの特別予算枠から――」

 

『却下します、先生』

 

間髪入れず、氷点下の声が鼓膜を刺した。挨拶も、用件の確認もない。ただ純粋な、一ミリの隙もない拒絶。だが、ウェッブは怯まない。彼は声のトーンを極限まで落とし、相手の理性に訴えかける「心理戦(サイ・オプス)」モードへと移行した。

 

「……アオイ、聞いてくれ。これはリスク管理(リスク・マネジメント)の話だ。晄輪大祭には数万の観衆が集まる。もしセキュリティの不備を突かれ、スタジアムで爆破テロ……あるいは大規模な暴動が発生してみろ。その際、連邦生徒会が被る被害総額は今回の追加予算の比じゃないぞ」

 

彼はあえて数秒の重い沈黙を作り、冷徹に、かつ説得力のあるトーンで言葉を続ける。

 

「今の〝わずかな出費〟を惜しむことで、将来的にその十倍の〝負債〟を抱えることになる。君ならこの数式が理解できるはずだ。これはただの消費じゃない。未来への保険、確実な投資なんだよ」

 

完璧な論理展開。恐怖(フィアー)と利益(ベネフィット)を天秤にかけさせ、相手に「イエスと言わなければ損をする」と思わせる冷酷な交渉術。かつてラングレーの冷徹な尋問官すら頷かせた話術だ。

 

数秒の沈黙。アオイが動揺している――そう確信したウェッブが、畳み掛けようと口を開きかけた時。

 

『……極めて論理的ですが、感情論をベースにした追加予算は認められません、先生。それから』

 

アオイの声は、全くブレていなかった。

 

『昨日、SRTの市街地演習で完全なスクラップになった重装甲車三両の損害賠償請求書が、今朝私のデスクに届いています。これ以上の予算超過は、一ペニーたりとも、絶対に不許可です』

 

「あー……それは、実戦的感覚を養うために必要不可欠な経費で……」

 

『不許可です。セキュリティホールがそれほど心配ならば、先生がそのお体で物理的に埋めてください。業務に戻ります。以上です』

 

プツッ。ツーツーツー……。

 

無情な電子音が、ウェッブの耳元で虚しく響いた。一方的な通信切断。世界最強の諜報機関ですら手を焼いた伝説の男との交渉を、彼女はたった数十秒で「処理」したのだ。

 

「…………」

 

ウェッブはゆっくりと端末を耳から離し、遠い虚空を見つめた。背後で、ユウカの呆れたようなため息と、ノアが手帳にサラサラと「先生、財務室長に敗北」と楽しげに書き込む音が聞こえる。

 

「……先生? 『大人の交渉』の結果はどうでした?」

 

ユウカがジト目で一歩一歩詰め寄ってくる。ウェッブは振り返り、何事もなかったかのように完璧な真顔で答えた。

 

「……作戦(ネゴシエーション)は失敗だ。プランBに移行する」

 

「プランB?」

 

「ユウカ、君の最初の計算通りで進めてくれ。予算内で完璧に収めよう」

 

「やっぱり最初から無理だったんじゃないですかーーっ! おとなしく私の言うことを聞いてください!」

 

ユウカの怒声が、晄輪大祭の会場予定地に青空高く響き渡った。

 

平和だ。ここには国家を揺るがすような血生臭い陰謀はない。しかし、血も涙もない「財務官僚」という名の怪物は、確かにこの世界にも存在していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。