『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
一.塞がれた口
四十六日目 〇六三〇時。
砂狼シロコが帰ってきたのは予定より二時間遅かった。
彼女は自転車を昇降口の壁に立てかけ、ゴーグルを額に上げ、何も言言わずに対策委員会室へ入ってきた。
長机の上に一枚の写真を置いた。
「――塞がってた」
デイヴィッド・ウェッブはマグカップを置いた。
「東の口か」
「ん」
「いつだ」
「新しい。……砂じゃない」
シロコは指で写真の一点を叩いた。
灰色の平面が写っていた。
そこに三日前まであったはずの岩の割れ目に開いた黒い穴はどこにもなかった。
「コンクリだ」
彼女は言った。
「その上に袋。四角いの。並んでる」
「――何色だ」
「黒。ゴム」
ウェッブは写真を持ち上げ、二秒だけ見た。
そして言った。
「燃料だ」
「え」
黒見セリカが顔を上げた。
「ふ、袋が燃料?」
「軟質タンクだ。……地面に敷いてそこへ入れる。基地の外に燃料集積所を作るときの、一番早いやり方だ」
彼はマーカーを取った。
「そして燃料集積所は必ず舗装の上に作る。土だと吸うからだ。……だから先に平面を作る。急いでいれば既にある穴を潰して埋め立てるのが一番早い」
「じゃあ、あいつら坑道に気づいたわけじゃなくて」
「気づいていない」
ウェッブは言った。
「気づいていたら口を塞いでから中を確認する。……そんな余裕はどこにもない」
彼は写真を長机の中央に置いた。
「――穴の上にたまたま燃料を置いただけだ」
対策委員会室が静かになった。
奥空アヤネが記録板を胸に抱えたまま、非常に小さな声で言った。
「……あの。じゃあ進入路が」
「なくなった」
「……」
「四日前に決めて九人で確認して三回歩き直した進入路が、たまたま燃料を置かれてなくなった」
ウェッブは言った。
「戦場ではこれが一番よく起こる」
長机の右半分――便利屋68の四人はその日朝から一言も喋っていなかった。
浅黄ムツキが頬杖をついたまま言った。
「……ねえ、おじさん」
「なんだ」
「これ、詰んでない?」
「詰んでいない」
「なんで」
「まだ二日ある」
彼はホワイトボードの前に立った。
そしてこの四十六日間で最も短い一行を書いた。
『進入路:再検討。』
その下に時刻を書いた。
『〇六三二時。』
「――一時間で出す」
彼は言った。
「出なかったら中止だ。中止は失敗ではない」
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二.正面から入る
四十六日目 〇七四〇時。
一時間八分後、ホワイトボードには線が一本引かれていた。
砂漠を貫く一本道だった。
「――正面から入る」
長机が完全に静止した。
「……はぁ?」
陸八魔アルが最初に声を出した。
「正面ってあの門でしょ。読取機のあるほうでしょ」
「そうだ」
「機関銃座があるほうでしょ」
「そうだ」
「監視塔もあるほうでしょ」
「そうだ」
「――バカなの!?」
「クフフ! 社長が正論言ってる!」
「うるさいわよムツキ!」
ウェッブはマーカーで一本道の起点を叩いた。
「この基地に入る方法は三つあった」
彼は言った。
「一つ、穴から入る。……なくなった。二つ、壁を越える。……外周に対人地雷が敷設された。三つ――」
彼は道の上に指を置いた。
「歩いて入る」
「……」
「三つのうち二つが消えた。残るのは一つだ」
黒見セリカが立ち上がった。
「む、無理よ! ぜったい捕まる!」
「捕まる条件を言え」
「え」
「捕まるのはどういうときだ。……三つ挙げろ」
セリカは口を開け、閉じ、それから指を折った。
「……その、顔がバレる?」
「一つ目。正しい」
「あと、その、機械に引っかかる」
「二つ目。正しい」
「あと……荷物」
「三つ目。正しい」
ウェッブはマーカーで三つ書いた。
『一.顔
二.機械
三.荷物』
そして一つ目に横線を引いた。
「顔は最初から見えない」
彼は言った。
「あの基地の作業員は全員が密閉服を着る。……フードとフェイスシールドと呼吸器で顔は完全に隠れる。名前ではなく腕の番号で管理されている」
「で、でも、声は」
「呼吸器越しの声は誰の声でもなくなる」
彼は二つ目に横線を引いた。
「機械については二十六日目に鬼方カヨコが四十分で三回見ている。……機械が読めないとき人間が通す」
「……」
「そして今回機械は読める。奥空アヤネが読ませる」
彼は三つ目を見た。
そこには横線を引かなかった。
「――荷物だけが残る」
彼はマーカーのキャップを閉めた。
「浅黄ムツキ」
「はぁい」
「装薬を工具に見えるように作れるか」
浅黄ムツキはそこでこの日初めて椅子から背中を離した。
「……見えるようにってどのくらい?」
「開けられる」
ウェッブは言った。
「蓋を開けて中まで見られる。手で持ち上げられる。……そこまでやられて工具に見える必要がある」
「振られたら?」
「振られる」
「……重さは」
「工具の重さでなければならない」
浅黄ムツキはゆっくりといつもとは違う笑い方をした。
「――クフフ」
彼女は言った。
「面白いね、それ」
「できるか」
「できるよ」
彼女は言った。
「私、そういうの好きだもん」
〇八一〇時。
奥空アヤネが端末を長机の中央に置いた。
「あの、先生。……密閉服のことなんですけど」
「言え」
「あの基地で使ってるの、カイザーインダストリー製の『KIS-B4』です。搬送計画の消耗品欄に載ってます。……黄色いやつです」
「調達できるか」
「できます」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「ドラッグストアで売ってます」
「……は?」
セリカが言った。
「な、なんで売ってんのよそんなもん!」
「農薬用です」
アヤネは言った。
「防護等級が同じなのでそのまま産業用にも出てます。……メーカーが一緒なので型番も色も同じです」
長机の九人がしばらく黙った。
そして鬼方カヨコが平坦な声で言った。
「……あの会社、自分の商品で殺されるの二回目じゃない」
「三回目だ」
ウェッブが言った。
「カプセルと複合機とこれで三つだ」
〇九〇〇時。校庭。
灰色の袋の隣に黄色い包みが九つ並んだ。
「――今日から面体じゃない」
ウェッブは言った。
「全身を着る。手袋は三重。テープで手首と足首を巻く。呼吸は背中のボンベだ」
彼は一つを持ち上げた。
「重量、装備込みで十六キロ」
「じゅ、十六!?」
「そうだ」
「無理よ! 私、体重の三分の一じゃない!」
「無理じゃない」
彼は言った。
「これは筋力の問題じゃない。呼吸の問題だ。……走ると空気を食う」
彼は背面の弁を指した。
「公称四十五分。実測は三十二分だ」
長机――ではなく、この日は砂の上に並んだ九人がその数字を聞いて静かになった。
奥空アヤネが手を挙げた。
「あの……設置は一時間の予定です」
「そうだ」
「三十二分だと届きません」
「届かない」
ウェッブは言った。
「だから途中で替える」
「か、替えるって、あの、空気を!?」
「格納庫の東壁に交換架がある。あの規模の作業をする以上必ずある」
彼は言った。
「六人全員が作業の途中で一度だけそこへ歩いていって、背中のボンベを外して新しいものを付ける。……監督の目の前でだ」
伊草ハルカが両手でスカートの裾を握った。
「あ、あの……もし、そのとき」
「そのときに何が起こるかをこれから六十四回練習する」
彼は時計を見た。
「――始める」
一〇二〇時。
三十一回目。
伊草ハルカが四回目にボンベの接続部を落とし、砂まみれにして、泣きそうな顔で拾い上げた。
「す、すみません、私、また」
「伊草ハルカ」
「はい……」
「落としたな」
「……はい」
「拾ったな」
「……はい」
「それでいい」
ウェッブは言った。
「落とさない人間はいない。……拾わない人間がいるだけだ」
その隣で陸八魔アルが自分の黄色いフードの中で誰にも聞こえない声で「……ふふん」と言った。
一四三〇時。
呼出符号が配られた。
『ABYDOS:アルファ・ワン(小鳥遊)/デルタ・ワン(砂狼)/チャーリー・ワン(黒見)
SOLVER:ソルバー・ワン(鬼方)/ソルバー・ツー(浅黄)/ソルバー・スリー(伊草)
HIGHGROUND:シックス(ウェッブ)/ハイグラウンド・ツー(陸八魔)
HORUS 1-1:HORUS 1-1(奥空)/HORUS 1-1(十六夜)』
「――ちょっと待ちなさい」
陸八魔アルが紙を指した。
「なによ『ハイグラウンド・ツー』って」
「君の符号だ」
「二番よ!? 私、社長よ!?」
「今回の君は狙撃手だ」
「せめてもっとこうあるでしょ。……『ダークネス』とか」
「却下」
「まだ何も言ってない!」
「言う前に却下した」
「クフフ! 先読み却下!」
「うるさいムツキ!」
その横で鬼方カヨコが自分の符号を三秒見て、小さく言った。
「……ソルバー・ワン」
「なによ、文句あるの」
「ない」
彼女は言った。
「悪くない」
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三.風
四十七日目 一八〇〇時。
屋上。
奥空アヤネが風速計のダイヤルを読み、記録板に数字を書き込んだ。
その手が今日は震えていた。
「――方位」
ウェッブが言った。
「……二〇二度」
「風速」
「毎秒四・一」
「安定は」
「一時間変わってません。……九回測って九回とも南南西です」
彼女は顔を上げた。
「基地から北北東へ抜けます」
「その先に何がある」
「……何もありません」
アヤネは地図を広げた。
「北北東四十キロまで無人域です。四十三キロ地点に廃坑がありますけど、二十年前に閉山してます。……その先は岩山です」
デイヴィッド・ウェッブは長いこと北の空を見ていた。
砂漠の夕暮れはこの街のどこよりも赤かった。
そして彼は言った。
「――条件一、充足」
屋上の九人がその言葉を聞いた。
小鳥遊ホシノが給水塔の陰から立ち上がった。
「うへ〜」
彼女は言った。
「行くんだ、今日」
「そうだ」
「新月だしねえ」
ホシノは空を見上げた。
まだ月は出ていなかった。今夜も出ないはずだった。
「……ねえ先生」
「なんだ」
「うちの学校さ」
彼女は言った。
「二年間、風のこと呪ってたんだよね。毎日毎日砂運んできて、窓ガラス割って、井戸埋めて」
「……」
「今日、初めて味方じゃん」
小鳥遊ホシノは笑った。
いつものけだるい笑い方だった。
だが目が笑っていなかった。
「――ちゃんと味方でいてね」
風はまだ南南西から吹いていた。
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四.十二分
四十七日目 二〇〇〇時。
対策委員会室。窓は毛布で塞がれていた。
奥空アヤネが端末の前に座っていた。
その隣に鬼方カヨコが立っていた。
「……接続、確立しました」
アヤネが言った。
「三時間ごとの十二分。……最後の十二分です」
画面の右上で数字が減り始めた。
一一:五九。
「――手順を言え」
ウェッブが言った。
「はい」
彼女は唇を舐めた。
「一、社員データベースの日雇い名簿に六件を追加します。番号は既に私たちのカプセルに書き込んであります」
「二」
「二、当該六件の所属を『カタカタヘルメット団/第三班』にします。……先月から今月にかけて四十一件が同じ経路で追加されてるので、六件増えても目立ちません」
「三」
「三、名簿の同期を待ちます」
彼女は言った。
「本社のデータベースから現地の端末へ落ちるのが六時間おきです。直近の同期は二一〇〇時。……そこに乗せないと門の機械は緑を出しません」
「乗らなかったら」
「中止です」
奥空アヤネは即答した。
「乗ったかどうかはこちらからは確認できません。……確認する手段がこの十二分より後には存在しないので」
「そうだ」
ウェッブは言った。
「――だから、確認する人間を送る」
長机の端で砂狼シロコが顔を上げた。
「私?」
「そうだ」
「ん」
「二一三〇時、君は一人でバイクに乗る。第二検問所の手前二キロで止まる。……そこから見えるのは門の白い箱の上のランプだけだ」
彼は言った。
「トラックが来る。作業員が降りる。手をかざす。緑が点く。……それが六時間ごとに更新された名簿で動いている機械だという証明になる」
「緑が点かなかったら?」
「点かない人間が三人続いたら名簿が壊れている」
ウェッブは言った。
「そのときは無線で一言だけ言え。『赤』とだけ」
「……ん」
シロコは頷いた。
「言う」
〇八:一二。
奥空アヤネの指が動き続けていた。
〇四:三〇。
「――入れました」
彼女は言った。
「六件。……番号、〇三三一から〇三三六です」
「読み上げろ」
「〇三三一、小鳥遊。〇三三二、砂狼。〇三三三、黒見。〇三三四、鬼方。〇三三五、浅黄。〇三三六、伊草」
彼女は言った。
「所属欄は全員『第三班』。……日給、八千二百円です」
「安いわね」
アルが言った。
「そうだ」
ウェッブは言った。
「五十八人がその額で働いている」
〇一:〇二。
奥空アヤネの指が止まった。
画面の隅に小さな一行があった。
『接続維持中/機器:12F-MFP-03』
十二階の複合機。八百メートル先。三十六日間この部屋に情報を送り続けてきた黒い箱。
「……先生」
「なんだ」
「切ります」
「そうだ」
「一回切ったらもう繋がりません」
「そうだ」
奥空アヤネは両手を膝の上に置いた。
そして三秒だけ画面を見ていた。
「……ありがとうございました」
彼女は誰にともなく言ってキーを叩いた。
〇〇:〇〇。
画面が黒くなった。
対策委員会室が静かになった。
鬼方カヨコが缶コーヒーを一本机の上に置いた。
微糖だった。
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五.一本道
四十七日目 二二一〇時。
アビドス自治区東縁、旧国道の分岐点。
一台のピックアップトラックがエンジンをかけたまま止まっていた。
車体はカイザー・コンストラクションの砂色。荷台の柵は歪み、右のドアだけ塗り直されている。二週間前にヘルメット団の隊長から「借りた」ものだった。
運転席に砂狼シロコが座っていた。
助手席に小鳥遊ホシノが座っていた。
荷台に四人が分乗していた。
全員が黄色かった。
「――〇三三二、確認した」
シロコが無線に言った。
「緑、点いた。私の前に十一人。全部緑」
『よし』
『十一人全部か』
「ん。……十一人全部」
『――シックス、了解。作戦カタヤキ実施する』
砂狼シロコはヘッドセットを外し、フードを被り、フェイスシールドを下ろした。
呼吸器の弁が一度だけ鳴った。
その音が車内の全員に聞こえた。
「――ねえ、シロコちゃん」
助手席のホシノがくぐもった声で言った。
「なに」
「免許持ってたっけ」
「持ってない」
「うへ〜」
「委員長も持ってない」
「そうだねえ」
小鳥遊ホシノは黄色いフードの中で脚を組み替えた。
「……じゃあ、しょうがないねえ」
荷台の上で伊草ハルカが黄色い塊のまま丸くなっていた。
その隣で浅黄ムツキが、六つのボストンバッグの一つを膝に乗せて指で軽く叩いていた。
「ソルバー・スリー」
鬼方カヨコが言った。
「は、はい!」
「呼吸、速い」
「す、すみません!」
「謝らなくていい。……速い。それだけ」
カヨコは言った。
「三十二分が二十二分になる」
「ひっ」
「四秒吸って、四秒止めて、四秒吐く」
彼女は言った。
「あの子が言ってた」
「……あの子?」
「眼鏡の」
黒見セリカが荷台の縁を掴んで前を見ていた。
一本道がまっすぐ砂漠の中へ伸びていた。
街灯は一つもない。月もない。
前方十二キロの地平線に白い光の帯が浮かんでいた。
「……あれ」
彼女は言った。
「街みたい」
「街じゃない」
シロコが言った。
「ん」
「行く」
トラックが動き出した。
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六.緑
四十七日目 二三〇二時。
第一検問所。
ヘッドライトの中にドラム缶とコンクリートブロックで作られた蛇行路が現れた。
その両脇に土嚢を積んだ機関銃陣地が二つ。
右手の監視塔の上でサーチライトがゆっくりと動いていた。
そして道の真ん中に二体の人型が立っていた。
黒い。関節が細い。頭部に一本の光の筋がある。
歩き方だけが決定的に人間ではなかった。
――膝が疲れない歩き方だ。
荷台の中でホシノがそう思った。
『……前へ』
音が出た。
人の声ではなかった。合成された声でもなかった。録音された声を必要な部分だけ切り貼りしたような音だった。
シロコがトラックを停め、窓を開けた。
一体が近づいてきた。
手に細長い黒い機械を持っていた。
先端から赤い線が出ている。バーコードリーダーによく似ていた。
『――左手』
シロコが左手を出した。
黄色い手袋の上から手首の少し上に赤い線が当てられた。
一秒。
二秒。
――
『〇三三二。第三班。通行』
シロコは手を引っ込めた。
そして何も言わずにアクセルに足を戻そうとして止めた。
『次』
「……」
『次』
助手席の小鳥遊ホシノが左手を出した。
一秒。
『〇三三一。第三班。通行』
荷台へ回った。
黒見セリカ。
『〇三三三。第三班。通行』
鬼方カヨコ。
『〇三三四。第三班。通行』
浅黄ムツキ。
『〇三三五。第三班。通行』
そして最後に伊草ハルカだった。
彼女は左手を出した。
赤い線が当たった。
一秒。
二秒。
三秒。
――何も言わなかった。
荷台の空気が完全に止まった。
浅黄ムツキの右手が膝の上のバッグからほんの少しだけ動いた。
その手首を鬼方カヨコの手が上から押さえた。
強くはなかった。ただ置かれていた。
四秒。
五秒。
『――再走査』
赤い線がもう一度当たった。
一秒。
『〇三三六。第三班。通行』
『通行』
蛇行路の向こうで鉄のバーが上がった。
シロコがトラックを出した。
検問所が後ろへ流れていった。
四百メートル走ってから荷台の中で伊草ハルカが小さく息を吐いた。
そしてその次の瞬間に猛烈に咳き込んだ。
「はっ、はっ、す、すみません、私、私、いま、あの」
「ソルバー・スリー」
カヨコが言った。
「四秒」
「し、しびょ」
「四秒吸って」
「……はい」
「四秒止めて」
「……はい」
「四秒吐いて」
伊草ハルカはそれを三回やった。
三回目の終わりに彼女は言った。
「……あの」
「なに」
「私、いま、押さえてもらいましたよね」
「押さえてない」
鬼方カヨコは言った。
「置いただけ」
浅黄ムツキがフェイスシールドの中でくつくつと笑った。
「クフフ。……カヨコ先輩、それ嘘だよ」
「うるさい」
無線が入った。
『――こちらシックス。第一、通過を確認』
『ハイグラウンド・ツーも見てるわよ。……あんたたち、右のタイヤの空気が足りてないわね』
『陸八魔』
『なによ』
『よく見た』
『……ふ、ふふん。当然でしょ』
千二百メートル南の稜線の上で陸八魔アルは腹這いのまま少しだけ顎を上げた。
その隣でデイヴィッド・ウェッブは望遠鏡から目を離さずに言った。
「――第二検問まで六分だ」
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七.手荷物
四十七日目 二三三八時。
第三検問所。
そこから先はもう「道」ではなかった。
砂の上に鉄条網が三重に張られていた。その内側に赤い三角の標識が等間隔に刺さっている。
地雷原だった。
そして地雷原の向こうにそれがあった。
ヘスコ防壁。
金網と布で作られた巨大な四角い箱に砂を詰めたものが三段に積み上げられ、地平線に沿って延々と続いていた。高さは八メートルを超えていた。
その手前に鋼鉄の門があった。
門の上に監視塔が四つ。
サーチライトが四本、一斉にピックアップトラックに集まった。
車内が真っ白になった。
「……うわぁ」
セリカが小さく言った。
『――停車。全員降車』
シロコがエンジンを切った。
六人が降りた。
黄色い密閉服が六つ、白い光の中に立った。
『荷台の物品を地面に下ろせ』
黒いボストンバッグが六つ、砂の上に並べられた。
警備アンドロイドが四体近づいてきた。
一体目が一番手前のバッグの前にしゃがんだ。
そしてファスナーを開けた。
――中には工具が入っていた。
インパクトレンチ、トルクレンチ、ソケットのセット、ケーブルタイの束、潤滑スプレーの缶、そして黄色いプラスチックのケースに入った電動工具のバッテリーが六本。
アンドロイドの手がそのバッテリーケースの一つを持ち上げた。
――一・二キロ。
浅黄ムツキはフェイスシールドの中でその重さを数えていた。
――本物と同じ。あと蓋のネジは六本、プラス。中に緩衝材。緩衝材の下に基板。基板は本物、動く。
アンドロイドがケースの蓋を開けた。
黒い基板と樹脂で固められた円筒が見えた。
――そこまでは本物。
――その下に八百三十グラム。
『――工具。通行』
蓋が閉じられた。
二体目が二つ目のバッグを開けた。
三体目が三つ目を開けた。
四体目が四つ目を開けた。
五つ目のバッグの前で一体が止まった。
そしてバッグを持ち上げ、二度上下に振った。
中で金属が鳴った。
――カラン、カラン。
『……』
アンドロイドはもう一度振った。
――カラン、カラン、カラン。
『工具。通行』
六つのバッグが荷台に戻された。
『第三班、〇三三一から〇三三六。第七格納庫へ。作業長へ出頭せよ』
門が開いた。
砂狼シロコがトラックに乗りエンジンをかけた。
黄色い密閉服の中で彼女は非常に小さな声で言った。
「……振った」
『ソルバー・ツー』
無線でカヨコが言った。
『三つ目、なに入れた』
『ワッシャー』
浅黄ムツキが言った。
『十六枚。……振ると鳴るように隙間空けてある』
『なんで』
『振らないバッグって変じゃない?』
長い沈黙があった。
そして無線の向こうでデイヴィッド・ウェッブが言った。
『――浅黄ムツキ』
『はぁい』
『それは俺が教えていない』
『うん』
『どこで覚えた』
浅黄ムツキはフェイスシールドの中で笑った。
『中学のとき、教科書に石入れてたの。……先生が持つと重いでしょ。だから怒られないの』
『……』
『バレなかったよ』
『そうか』
ウェッブは言った。
『――今日はそれで六人が生きた』
ピックアップトラックがヘスコ防壁の中へ入っていった。
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八.内側
四十七日目 二三五一時。
内側は街だった。
砂利を敷き詰めた広大な平面が照明灯によって昼のように照らされていた。
そのの上に鋼鉄が並んでいた。
まず車輌だった。
装輪装甲車が二十二両、砲塔を同じ方向に向けて等間隔に並んでいた。
多連装ロケット発射機が六両。発射筒の蓋は閉じられ、その脇に再装填車が寄り添っている。
自走榴弾砲が八両。砲身に覆いがかかっていた。
そしてその奥に。
――四本足がいた。
砂利の上に腹を下ろすようにして三両が並んでいた。
胴体は平たく、幅は装甲車の倍以上あった。そこから四本の脚が伸び、それぞれが独立した機構で折り畳まれている。
胴体の上面に砲塔があった。
長い砲身が一本。その脇に短い砲身が一本。
『――一二〇ミリ滑腔砲と三〇ミリのチェーンガン』
無線でウェッブの声がした。
『カタログどおりだ』
荷台の上で黒見セリカが息を止めた。
「……先生」
『なんだ』
「あれ、寝てるの」
『寝ていない』
「え」
『機械は寝ない』
セリカはそれきり喋らなかった。
さらに奥にヘリポートがあった。
武装ヘリコプターが七機、ローターを畳み機首を同じ方向に揃えて駐機している。ロケット弾ポッドが装着されたままだった。
そして基地の中央にそれらすべてを見下ろす管制塔が立っていた。
高さ三十メートル。上部の四面がガラス張りで、その中で赤と緑の点が明滅していた。
塔の周囲に巨大な格納庫が六棟。
第七格納庫はその一番奥にあった。
「――アルファ・ワン」
シロコがハンドルを握ったまま言った。
「なぁに」
「人、多い」
「そうだねえ」
小鳥遊ホシノはフェイスシールドの向こうを見ていた。
黄色い密閉服があちこちにいた。
台車を押している者、ケーブルを引いている者、壁際に座って背中のボンベを架台に載せている者。
そのすべてが顔を持っていなかった。
そしてそのすべてが生徒だった。
腕の白いワッペンに番号が書かれていた。
〇二八四。〇一一九。〇三〇七。
「……ねえ、シロコちゃん」
「なに」
「何人いると思う」
砂狼シロコは二秒だけ黙った。
「――百七十」
「そんなに?」
「格納庫の外だけで百七十」
彼女は言った。
「中はまだ見てない」
小鳥遊ホシノはフードの中で長いこと息を吐いた。
そして言った。
「……先生」
『なんだ』
「警報、鳴らそうね」
『鳴らす』
「ちゃんとだよ」
『ちゃんと鳴らす』
無線の向こうでデイヴィッド・ウェッブが言った。
『――退避は作戦の一部じゃない』
『作戦の目的の一部だ』
第七格納庫の巨大な扉が開いていた。
その中から白い光が漏れていた。
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九.所属を言いたまえ
四十八日目 〇〇〇六時。
第七格納庫の中は明るかった。
天井高二十八メートル、長さ百四十メートル。
その中央にそれが並んでいた。
架台に横たえられた白い円筒。
一本の長さが十二メートルほどあった。
胴体の後半は既に組み上がり、継ぎ目に沿ってテープが貼られている。
そして先端――弾頭部だけが剥き出しだった。
フェアリングがまだ装着されていなかった。
灰色の金属の塊が支持架の上に載せられ、その周囲を作業員が取り囲んでいる。
奥空アヤネが撮影した写真の中ではこれは点でしかなかった。
今、目の前にあった。
四十八本。
「……アルファ・ワン」
無線でカヨコが言った。
「なぁに」
「組み立て、始まってる」
「うん」
「……二つが同じ建物に入ってる」
小鳥遊ホシノは答えなかった。
『――こちらシックス』
無線が入った。
いつもと同じ平坦な声だった。
だがその平坦さがいつもより一段深かった。
『予定が繰り上がっている。……これは想定していた。中止条件には該当しない』
『でも先生』
セリカが言った。
『混ざってるってことは、その』
『混ざっていない。壁一枚を挟んで隣り合っているだけだ』
ウェッブは言った。
『そしてこちらの手段は温度だ。温度は混ざっていても混ざっていなくても同じ仕事をする』
『……』
『変わったのは一つだけだ』
彼は言った。
『――四十八基がひとつの建物の中にある』
長い沈黙があった。
『それはこちらに有利か』
『……有利です』
奥空アヤネの声が答えた。
『一回で済みます』
『そうだ』
ウェッブは言った。
『そして一回しかない』
そのときだった。
「――諸君」
声がした。
合成音ではなかった。
作られた重厚さを持った演説のための声だった。
六人が振り返った。
作業員の列の向こうからそれが歩いてきた。
背が高かった。
軍服を模した黒い外装。肩に金の飾緒。頭部に軍帽。
胸には実在しない戦役の勲章が七つ並んでいた。
カイザー・ジェネラルだった。
「遅かったじゃないか」
彼は言った。
「〇〇〇〇時の交代に六名が入っていない。……私はこういう数字が合わないのが嫌いでね」
六人は動かなかった。
小鳥遊ホシノの右手が腰の位置でほんの二センチだけ動いた。
その手首の前に鬼方カヨコの肘が入った。
そして鬼方カヨコが一歩前に出た。
「――所属を言いたまえ」
「第三班」
彼女は言った。
呼吸器越しの誰の声でもない声だった。
「カタカタヘルメット団です」
ジェネラルの頭部の一筋の光が動いた。
そして左右に振れた。
「ヘルメット団か」
「はい」
「番号は」
「〇三三一から〇三三六」
「……ふむ」
彼は手元の板を見た。
指の代わりに細い棒状の突起が動いた。
「――〇三三一。〇三三二。〇三三三。〇三三四。〇三三五。〇三三六」
彼は読み上げた。
「第三班。日給八千二百円。……ある」
鬼方カヨコは何も言わなかった。
「クックックッ」
ジェネラルが笑った。
「よろしい。……諸君、我が社は数字を信じる会社でね。名前を覚えるのは非効率だ。番号があればそれでいい」
「はい」
「遅刻の理由は」
「トラックの右前輪の空気が抜けていました」
カヨコは言った。
「第一検問の手前で一度止めて入れました」
ジェネラルの光が二秒止まった。
そして彼は満足そうに頷いた。
「――ふむ。実務的だ」
彼は板を閉じた。
「私はな、諸君。理由を訊いたときに『すみません』としか言わん者が嫌いなのだ。……それは理由ではない。感情だ。私はつまらん感情に振り回されて計画を台無しにするバカじゃあない」
「……」
「君は良い。番号を覚えておこう」
「恐縮です」
「〇三三四。作業長は東側だ。第七から第十二支持架を割り当てる。……工程は〇一〇〇時までに終わらせたまえ」
「はい」
「よろしい」
カイザー・ジェネラルは背を向けた。
そして三歩歩いてから思い出したように言った。
「――ああ、それと諸君」
六人が止まった。
「弾頭部には触れるな。触れる作業は明日本社の技術者が来て行う。……諸君らの仕事は支持架の調整だ。そこまでだ」
「はい」
「では、励みたまえ」
軍靴の音が遠ざかっていった。
六人はしばらく動かなかった。
やがて浅黄ムツキがフェイスシールドの中で囁くように言った。
「……ねえカヨコ先輩」
「なに」
「今めちゃくちゃ怖かったんだけど」
「私も」
鬼方カヨコは言った。
「手、震えてる」
「クフフ。……見えないね」
「見えないようにしてる」
彼女はバッグを持ち上げた。
「――第七から第十二」
彼女は言った。
「行こう。警戒を緩めないで」
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十.六十一分
四十八日目 〇〇一二時。
作業が始まった。
支持架の下に潜り込み、工具を出し、ボルトを緩め、締め直す。
――本当に締め直した。
それが浅黄ムツキの指示だった。
「本物の仕事を本物の速さでやること」
彼女は事前にそう言っていた。
「嘘の仕事をしてる人は動きが速すぎるか遅すぎるかのどっちかだから」
だから六人はまず七分間ただの作業員として支持架を調整した。
七分後。
黒見セリカが支持架の陰から周囲を見た。
「――上、二」
彼女が言った。
「東の壁の高いとこ。ガラス張りの部屋。中に二体」
『監視室だ』
無線でウェッブが言った。
『見ているのは全体か、手元か』
「……全体」
「なんで分かる」
「首がずっと同じ速さで動いてるから」
黒見セリカは言った。
「手元見てる人は止破でしょ」
『――チャーリー・ワン』
『なによ』
『よく見た』
『べ、別に当たり前のこと言っただけだし!』
〇〇二〇時。
一本目。
浅黄ムツキがバッテリーケースを開けた。
樹脂で固められた円筒を外し、その下から薄い灰色の板を取り出した。
厚さ十二ミリ、長さ二百四十ミリ、重量八百三十グラム。
彼女はそれを弾頭部と胴体部の接合部――支持架の影になって上からも横からも見えない位置に押し当てた。
粘着面の紙を剥がす音が呼吸器の音に紛れた。
「――一本目」
彼女は言った。
「起爆器、まだ挿さない。全部置いてから最後にまとめて挿す」
『理由を言え』
「置いてる途中で見つかったら起爆器が挿さってるかどうかで罪の重さが変わるから」
浅黄ムツキは言った。
「挿さってなかったらただの変な板でしょ」
無線が三秒黙った。
『……よし』
『そのまま続けろ』
〇〇三四時。
十四本目。
伊草ハルカの手が支持架の脚に当たった。
金属が鳴った。
――カン。
三メートル先で密閉服を着た作業員が振り返った。
黄色いフード。フェイスシールド。腕の番号は〇二八四。
伊草ハルカが凍りついた。
その作業員が近づいてきた。
そして伊草ハルカの前で止まった。
『……』
『……』
作業員が手を出した。
伊草ハルカの手からレンチが落ちていた。
作業員はそれを拾い上げ、伊草ハルカに差し出した。
『落ちてた』
くぐもった声だった。
『……あ』
『気ぃつけろよ。ここ拾いに行くの面倒だから』
『……は、はい』
『新入り?』
『……はい』
『そっか』
作業員はレンチを渡した。
そして少しだけ肩を落とした立ち方で言った。
『――〇一〇〇までな。それ過ぎたらあいつら何も言わなくなるから。楽だぞ』
『……はい』
作業員は戻していった。
伊草ハルカはレンチを両手で握ったまま十秒動かなかった。
『……ソルバー・スリー』
『は、はい』
『大丈夫』
『……はい』
『泣いてる?』
『……はい』
『そう』
鬼方カヨコは言った。
『じゃあ泣きながらやって』
〇〇四七時。
二十二本目。
呼吸器の音が変わった。
小鳥遊ホシノのフェイスシールドの内側で警告の音が三回鳴った。
「――アルファ・ワン、残圧」
「うへ〜」
彼女は言った。
「五分ないねえ」
『交換架へ行け』
『……一人ずつだ。二人同時に立つな』
小鳥遊ホシノは工具を置き、立ち上がり、東の壁へ歩いた。
交換架は壁に沿って十二個並んでいた。
その脇に監督の端末があった。
その前に警備アンドロイドが一体立っていた。
ホシノが交換架の前に立った。
背中のバンドを外す。ボンベを架台に載せる。バルブを閉じる。
――ここから四十秒間彼女は空気を吸えない。
新しいボンベを外す。接続部を合わせる。回す。
四分の一。
二分の一。
四分の三。
――止まった。
ネジが噛んでいた。
『……』
小鳥遊ホシノの視界が白く狭くなり始めた。
――ああ。
――これ、まずいやつだ。
背後で警備アンドロイドが一歩動いた。
『――第三班〇三三一。作業を』
そのとき横から手が伸びた。
黄色い手袋が接続部を掴んだ。
そして半回転だけ逆に回した。
――カチ。
噛んでいたネジが外れた。
そのまま正方向へ一気に回った。
空気が入った。
小鳥遊ホシノが深く息を吸った。
隣に黄色い密閉服が立っていた。
腕の番号は〇一一九だった。
『……逆ネジだ、これ』
くぐもった声が言った。
『赤いテープ巻いてあるやつだけ逆。……誰も教えてくれねぇんだよな、そういうの』
『……』
『大丈夫か』
小鳥遊ホシノはフェイスシールドの内側で二秒だけ目を閉じた。
そして言った。
『――ありがと』
『おう』
〇一〇九時。
四十八本目。
浅黄ムツキが最後の板を押し当てた。
そして六人が同時に起爆器を挿した。
四十八本の細い金属棒が灰色の板に刺さっていった。
『――ソルバー・ワンより全局』
鬼方カヨコが言った。
『装薬四十八、設置完了。起爆器、挿入完了』
『所要、六十一分』
『――シックス、了解』
無線の向こうでデイヴィッド・ウェッブが言った。
『よくやった』
そして彼は言った。
『――鳴らせ』
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十一.先に鳴らす
四十八日目 〇一〇九時。
第七格納庫、北西の壁。
赤い箱があった。
ガラスの蓋の下に黄色いレバーが一本。
その上に三行の表示があった。
『化学剤検知警報
本装置を作動させた場合、区画内の全人員は直ちに退避すること
誤作動報告は総務部へ』
鬼方カヨコがその前に立った。
「――ソルバー・ワン。準備できた」
『待て』
無線でウェッブが言った。
『十六夜』
『はぁい』
千三百メートル南の稜線の上、MH-60Mの機外――ではなくその手前の岩陰で十六夜ノノミは熱線映像装置を構えていた。
出撃前の三十分間、彼女はここでこれを覗く役目を負っていた。
『格納庫、見えてます』
彼女は言った。
『扉は東と西。……今、東に十四人、西に六人。中にたくさん』
『数えられるか』
『数えます』
『――カヨコ』
ウェッブが言った。
『鳴らせ』
鬼方カヨコがガラスを叩き割った。
そしてレバーを引いた。
音が鳴った。
サイレンではなかった。
もっと低く、もっと汚い音だった。二つの周波数がわずかにずれて重なり、耳の奥を直接掻き回すような音だった。
天井の照明が一斉に消え、代わりに壁沿いの赤い灯が回転を始めた。
第七格納庫の内部が赤くなった。
――そして〇・八秒後に全員が走り出した。
誰も何も言わなかった。
誰も何も訊かなかった。
工具が落ちた。台車が倒れた。ケーブルが引きずられた。
百七十人が一斉に扉へ向かった。
「――逆走するな!」
小鳥遊ホシノが叫んだ。
呼吸器越しの誰の声でもない声で。
「東は東へ! 西は西へ! 戻るな! 荷物置け!」
その声に何人かが反応した。
台車を捨てた者がいた。
腕を引かれて向きを変えた者がいた。
『――こちらHORUS 1-1』
無線に十六夜ノノミの声が入った。
いつもの穏やかな声だった。
だが速かった。
『東扉、二十二。二十九。三十四。……四十一』
『続けろ』
『西扉、八。十三。十九』
『倒れた者は』
『三人。……二人は起きました。一人は引きずられて出ました』
〇一一四時。
『東、六十八。西、三十一』
〇一一六時。
『東、八十四。西、四十四』
『――内部、残り』
ノノミが言った。
『熱源、まだ多いです。……数えられません。動いてるので』
『動いているならいい』
ウェッブは言った。
『止まっているものを探せ』
〇一一八時。
格納庫の中央近く、第三十一支持架の脇で黄色い塊が一つ倒れていた。
その脇を人が流れていった。
誰も止まらなかった。
止まる余裕がなかった。
小鳥遊ホシノが逆へ走った。
「――アルファ・ワン!」
「三十秒!」
彼女は倒れている者の脇に膝をついた。
密閉服のフードが半分ずれ、フェイスシールドが外れかけていた。
その下に顔があった。
黒い髪。額に汗。目は開いていた。
呼吸が速すぎた。
過呼吸だった。
――知ってる顔だった。
小鳥遊ホシノの手が一瞬だけ止まった。
そして彼女はその少女の腕を掴んで引き起こした。
「立って」
「……ぁ、あ」
「立って」
「や、やだ、うち、うち、まだ死にたくな」
「死なないよ」
小鳥遊ホシノは言った。
呼吸器越しの誰の声でもない声で。
「死なないから走って」
そして彼女は少女を東扉へ向けて押した。
少女はよろけて、二歩、三歩、それから走り出した。
十メートル走ってから一度だけ振り返った。
そこにあったのは黄色い密閉服だった。
腕の番号は赤い非常灯の下で読めなかった。
〇一二一時。
『――東扉、百二十。西扉、五十三』
十六夜ノノミが言った。
『内部、静止熱源――』
彼女は三秒黙った。
『――ゼロです』
『もう一度』
『ゼロです』
『三十秒待て』
三十秒が経った。
『……変わりません。ゼロです』
『――シックス、了解』
デイヴィッド・ウェッブは言った。
『非戦闘員の退避、完了と宣告する』
『総数、百七十三』
『負傷、不明。死者、確認せず』
そして彼は言った。
『――全員、出ろ』
六人が東扉から出た。
赤い光を背にして砂利の上を走った。
百メートル走ってから鬼方カヨコが振り返った。
第七格納庫はまだ赤かった。
そして静かだった。
---
十二.千度
四十八日目 〇一二六時。
基地の東縁、資材置場のコンテナの陰。
六人がそこにいた。
浅黄ムツキが腰のポーチから小さな箱を出した。
黒い樹脂の箱に赤い蓋がついていた。
蓋を上げると下に銀色のスイッチが一つあった。
彼女はそれを隣に差し出した。
「――はい」
伊草ハルカがそれを見た。
「……え」
「押して」
「え、え、あの、私、いや、あの、ムツキ先輩が」
「私は組んだ人」
浅黄ムツキは言った。
「押すのは我慢した人がやるんだよ」
「……」
「六十一分、一発も撃たなかったでしょ」
伊草ハルカは両手でその箱を受け取った。
震えていた。
『――ソルバー・スリー』
無線が入った。
『は、はい』
『伊草ハルカ』
『……はい』
『七日前、俺は君に撃つなと言った』
デイヴィッド・ウェッブの声だった。
『はい』
『君は撃たなかった』
『……はい』
『――今から君が撃つ』
伊草ハルカの手の震えが止まった。
『……はい』
『三、二、一』
『――発火』
彼女は押した。
音はしなかった。
正確には音が届く前に光が来た。
第七格納庫の窓という窓が内側から白くなった。
一秒。
二秒。
三秒。
――そして扉から白い光が溢れ出した。
炎ではなかった。
炎はもっと遅く、もっと赤く、もっと形がある。
これは形を持っていなかった。
ただ白かった。
鋼鉄の骨組みがまず色を失った。
次にたわんだ。
二十八メートルの高さにあった梁がゆっくりと粘土のように垂れ下がった。
外壁の鋼板が内側へ吸い込まれるように歪み、そして落ちた。
音はそのあとから来た。
腹の底を殴るような低い長い音だった。
砂利が跳ねた。
コンテナが鳴った。
六人は伏せた。
『――シックス、こちらHORUS 1-1』
十六夜ノノミの声が言った。
『……熱線、振り切れました』
『測れるか』
『測れません。……この装置、上限が千二百度なので』
『そうか』
ウェッブは言った。
『足りている』
〇一二九時。
黒見セリカが腰のポーチから細長い装置を出した。
液晶に数字が並んでいた。
「――検知器、出した」
彼女は言った。
「風下に立って。……先生、私、風下でいいのよね」
『そうだ。風下で測れ』
「なんで風下なの」
『そこにしか来ないからだ』
黒見セリカは風下に立った。
そして装置を掲げた。
数字が動いた。
〇・〇〇。
〇・〇〇。
〇・〇一。
〇・〇〇。
「……セリカちゃん」
「待って」
彼女は言った。
「三分測るって言われたの。……三分」
砂漠の風が彼女の黄色い密閉服を叩いていた。
一分。
二分。
三分。
「――〇・〇一が最大」
黒見セリカは言った。
「平常時と同じ」
そして彼女は装置を持ったままその場にしゃがみ込んだ。
「……よかった」
『チャーリー・ワン』
「なによ」
『よくやった』
「べ、別に当たり前のことしただけだし……!」
〇一三三時。
六人が密閉服を脱いだ。
フードを剥ぎ、フェイスシールドを外し、テープを引き裂き、ボンベを砂利の上に落とした。
夜の空気が顔に当たった。
砂と、煙と、焼けた鋼鉄の匂いがした。
「――うへ〜」
小鳥遊ホシノが髪をかき上げた。
「臭い」
「臭いわよこれ! もー!」
「クフフ。私、汗すごい」
「あ、あの、私、その、髪が」
「はぁ」
鬼方カヨコがため息をついた。
そして六人は燃え落ちる格納庫を見上げた。
四十八本の白い円筒はもうどこにもなかった。
『――全局へ。シックス』
無線が入った。
『第一段階、終了』
『これより第二段階に移る』
デイヴィッド・ウェッブは言った。
『――ここからは俺の仕事だ』
---
十三.弾薬庫
四十八日目 〇一三八時。
基地は混乱していた。
サイレンが鳴り続け、赤い灯が回り、消火車が二台、第七格納庫の方向へ走っていった。
警備アンドロイドが格納庫の周囲に集まりつつあった。
そして誰も基地の南西を見ていなかった。
そこに弾薬庫があった。
半地下のコンクリートの箱が三棟。土手に囲まれ、扉は鋼鉄製で、その前に警備が二体立っていた。
「――デルタ・ワン」
「ん」
砂狼シロコが土手の陰から出た。
彼女は武器を持っていなかった。
代わりに砂利を一つ持っていた。
それを十五メートル先の空のドラム缶へ投げた。
音が鳴った。
警備アンドロイド二体の頭部が同時にそちらを向いた。
〇・八秒。
その〇・八秒の間に小鳥遊ホシノが後ろから一体の首の後ろを掴み、地面へ叩きつけていた。
――アビドス最強の盾と呼ばれた少女が盾を持たずにやったことだった。
もう一体が振り向きかけた。
その膝の関節に砂狼シロコの踵が入った。
金属が折れる音がした。
「――静かにして」
彼女は言った。
「まだ気づかれたくないから」
〇一四一時。
弾薬庫の扉が開いた。
中は棚だった。
天井まである鋼鉄の棚が通路を挟んで両側に奥まで続いていた。
その棚に木箱と樹脂ケースが詰まっていた。
「……うわ」
黒見セリカが言った。
「うわうわうわ」
「セリカ、口閉じて」
「だ、だって!」
「――六分」
鬼方カヨコが空のボストンバッグを床に叩きつけて開いた。
「六分で出る。取るものは決めてある」
彼女は棚の番号を読んだ。
「小銃、A-4。弾倉、A-7。手榴弾、B-2。無反動砲、C-1。誘導弾、C-3。重機関銃、D-1。……ムツキ、爆薬はE区画」
「はぁい」
「ハルカ、散弾。B-9」
「は、はいっ」
浅黄ムツキがE区画の前で立ち止まった。
そして両手を口に当てた。
「……うっそ」
「なに」
「カヨコ先輩。ここ、天国だ」
「六分」
「六分じゃ持てないよ!」
「持てるだけでいい」
〇一四四時。
小鳥遊ホシノが一挺の小銃を棚から取り、遊底を引き、薬室を確認し、肩に当てた。
三秒でその銃の癖を測り終えていた。
「――シロコちゃん」
「ん」
「これ、あんたのと同じやつだねえ」
「色が違う」
砂狼シロコが言った。
「黒いのはヘルメット団の」
彼女は自分の分を一挺取り、弾倉を六本、腰の袋に押し込んだ。
そして非常に短く言った。
「……返す」
「え?」
「これ、あの子たちの給料で買ってない」
砂狼シロコは言った。
「だから使ったら返す」
〇一四六時。
黒見セリカが重機関銃の脚を担ごうとして、その場で尻餅をついた。
「お、重ぉ! なにこれ! 何キロ!?」
「三十八」
「無理よ!」
「セリカ」
小鳥遊ホシノが片手でそれを持ち上げた。
「持つよ」
「……せ、先輩」
「うへ〜。腰にくるなあ」
〇一四七時。
外で金属音がした。
一つではなかった。
十を超えていた。
『――シックス、こちらハイグラウンド・ツー』
無線に陸八魔アルの声が入った。
いつもの傲慢な声だった。
そしていつもより速かった。
『南西の広場に集まってるわよ。……黒いの。数えるの面倒だから言うけど、四十以上』
『こっちに向かってる』
『――全局へ』
デイヴィッド・ウェッブが言った。
『接触』
『ABYDOS、SOLVER。作戦は第二段階だ』
『指揮は――』
彼はそこで一度だけ言葉を切った。
『――アルファ・ワンに移す』
無線が〇・五秒沈黙した。
『……え』
『先生が指揮するんじゃないの?』
『俺は今から数える係だ』
ウェッブは言った。
『基地の中は君たちのほうがよく見えている。……そして、君は二十日目の夜、先頭に出なかった』
『……』
『小鳥遊ホシノ』
『なぁに』
『――君の基地だ。指揮しろ』
弾薬庫の入口で小鳥遊ホシノが重機関銃を肩に担ぎ直した。
そして一年生だった頃の顔で笑った。
「――アルファ・ワン、了解」
「ウィルコ」
---
十四.アルファ・ワン
四十八日目 〇一五二時。
「――全員聞いて」
小鳥遊ホシノの声が無線に流れた。
けだるさはどこにもなかった。
「一つ目。ここは弾薬庫。ここで戦ったら私たちが死ぬ。……だから出る」
「二つ目。目標は三つ。管制塔。レーダー。ヘリポート」
「三つ目。その三つを潰したら空が来る。それまで誰も死なない」
「――以上。復唱いらない。走って」
黒見セリカが後で言うことになる。
「あのとき先輩、私の名前呼ばなかったのよ。誰の名前も呼ばなかったの。……でも全員自分のことだって分かったの。なんでかしらね」
〇一五六時。
第四格納庫。
コンクリートの掩体壕。
トーチカ。
小鳥遊ホシノが選んだのはその三つだった。
「入って撃って出る」
彼女は言った。
「三十秒以上同じところにいない。……ここ全部あいつらが作ったんだから、あいつらが一番よく知ってる」
「じゃあなんで入るの」
セリカが言った。
「入り口が一つだから」
ホシノは言った。
「一つなら四十人でも一人ずつ来る」
第四格納庫の入口で彼女は重機関銃を伏せた。
そして七秒後に最初の一連射を撃った。
――一つずつ来た。
〇二〇二時。
千二百メートル南の稜線。
陸八魔アルは腹這いのまま頬付けを直した。
『――ハイグラウンド・ツー』
「なによ」
『第二監視塔。上に二体。距離一一四〇』
「見えてるわよ」
『風は左から二。……補正はいらない』
「知ってるわ」
『では』
「言われなくても撃つのよ、私は」
ワインレッド・アドマイアの銃身が〇・二度だけ動いた。
商いもなく止まった。
音がした。
千百四十メートル先で監視塔の上の光の筋が一つ消えた。
一・八秒後、もう一つ消えた。
『――二』
ウェッブが言った。
「当たり前でしょ」
『第四監視塔。距離一二八〇』
「……ちょっと待ちなさい」
「なによ」
『どうした』
「あんた、私が撃つたびに数えてるの?」
『数えている』
「……なんで」
『後で君に言うためだ』
陸八魔アルはスコープから目を離さずにコートの襟を直そうとして、腹這いなので直せなかった。
そして小さく「……ふふん」と言った。
〇二〇八時。
『――アルファ・ワン、こちらソルバー・ワン。レーダー正面に見えた』
鬼方カヨコの声だった。
『四両。……板が立ってる。二つは回ってる』
『回ってるのから』
『無反動砲、ムツキが持ってる』
『クフフ、はぁい』
『撃ったら位置バレるからね。一発ずつ場所変えて』
『分かってるよ〜』
浅黄ムツキがコンテナの隙間から筒を出した。
そして〇・三秒だけ狙って撃った。
七十メートル先で捜索レーダーの板が根本から折れた。
彼女は筒を捨てて走り、次の筒を拾った。
四十秒後。
追跡レーダーが二両目の板を失った。
九十秒後。
三両目。
〇二一〇時。
管制塔。
高さ三十メートル。ガラス張りの頂部。
伊草ハルカがその根元にいた。
彼女は誘導弾の発射機を担いでいた。
一年生の一番小さい肩に、一番重いものが載っていた。
「……あ、あの、私これ初めてで」
『伊草ハルカ』
「は、はい!」
『引き金の前に五秒だけ考えろ』
ウェッブが言った。
『あの塔に人はいるか』
伊草ハルカはフェイスシールドのない顔で上を見上げた。
ガラスの向こうに赤と緑の点が明滅していた。
動くものはなかった。
「……いません」
『なぜそう言える』
「……ひ、人は警報が鳴ったら逃げるからです」
彼女は言った。
「みんな逃げました。……私、見ました」
『そうだ』
デイヴィッド・ウェッブは言った。
『――撃て』
伊草ハルカが撃った。
管制塔の頂部が内側から膨らみ、そして外へ開いた。
ガラスが夜の中を落ちていった。
〇二一二時。
ヘリポート。
七機の武装ヘリコプターはローターを畳んだまま並んでいた。
その中の二機で始動機が回り始めていた。
「――遅い」
砂狼シロコが言った。
彼女はそのまま走った。
砂利の上を百二十メートル。
一機目のテールブームの付け根に爆薬を貼った。
二機目のエンジン吸気口に爆薬を放り込んだ。
三機目。四機目。五機目。
「デルタ・ワン、六機目!」
「見えてる」
六機目。
七機目のローターが回り始めた。
「――シロコちゃん、離れて!」
「まだ」
「シロコちゃん!」
砂狼シロコは七機目の脚に最後の一つを貼りつけた。
そして走った。
十六歩走って伏せた。
七つの音が〇・四秒ずつずれて鳴った。
――ヘリコプターは地上で殺すのが一番安い。
彼女は三十六日目にウェッブがそう言うのを聞いていた。
そして覚えていた。
〇二一三時。
『――こちらシックス。全局へ』
『捜索レーダー沈黙。追跡レーダー沈黙。管制塔沈黙。回転翼七機、地上撃破』
デイヴィッド・ウェッブは言った。
『――HORUS 1-1』
『はい!』
『こちらシックス。仕事だ』
『――HORUS 1-1、ウィルコ!』
---
十五.四本足
四十八日目 〇二一四時。
それは立ち上がった。
三両のうち一両は第七格納庫の倒壊に巻き込まれて左の前脚を失っていた。
残りの二両が砂利の上で腹を上げた。
四本の脚が伸びた。
胴体が装輪装甲車の車高を越え、さらに上がった。
そして歩き始めた。
――足音がしなかった。
その質量に対してあまりにも静かだった。四本の脚が地面を掴み、体重を移し、次の脚を出す。その一連の動作の間、機体の上面はほとんど揺れなかった。
砲塔の上に載った砲身が水平を保ったままゆっくりと旋回した。
「……なにあれ」
黒見セリカが言った。
「あれ、生きてるみたいに歩くんだけど」
『生きていない』
無線でウェッブが言った。
『――全局へ。四脚二両。距離こちらから八百。第四格納庫の南を回る』
『アルファ・ワン、離れろ。小銃と機関銃では止まらない』
「うへ〜」
小鳥遊ホシノが言った。
「先生それ、どのくらい効かないの」
『一〇〇パーセントだ』
「うへぇ〜」
『下がれ。北の掩体壕へ。……そこなら砲弾が当たっても跳ねる』
『ソルバー、追随』
『ソルバー・ワン、ウィルコ』
〇二一六時。
千二百メートル南の稜線。
デイヴィッド・ウェッブはレーザー目標指示装置の脚を砂の上に据えた。
三十センチ四方の灰色の箱だった。
前面にレンズが二つ。上面に小さな表示窓。
「――HORUS 1-1、こちらシックス」
彼は言った。
「タイプ・ワン統制。九項送る」
『HORUS 1-1、送れ』
「IP、南の岩山。方位〇一〇。距離四・二。目標標高一八〇」
「目標――四脚無人戦車二両。基地中央部、第四格納庫の南」
「目標位置レーザー。コード一六八八」
「味方、目標より南一二〇〇および目標より北東三〇〇。……北東は俺の生徒だ」
「離脱東」
彼は言った。
「制限――北東三〇〇の味方に絶対に何も落とすな」
『……HORUS 1-1、復唱します』
奥空アヤネの声が震えていた。
そして震えたまま正確だった。
『目標標高一八〇。目標位置レーザー、コード一六八八。制限、北東三〇〇に味方。何も落とさない』
「よし」
『先生』
「なんだ」
『……手、震えてます』
「そうだ」
ウェッブは言った。
「俺もだ」
『え』
「――攻撃を許可する」
〇二一八時。
MH-60Mが地平線の裏から上がった。
南の岩山を回り込み、機首を下げて基地へ向けた。
主翼状の外部装着架――ESSSの四つのハードポイントに細長い筒が四本ずつ。
奥空アヤネの右手の親指が赤いカバーを上げた。
『――HORUS 1-1、ライフル!』
一発目のAGM-114Kがレールを離れた。
ロケットモーターが点火し、白い線が夜の中に伸びた。
デイヴィッド・ウェッブはレーザー目標指示装置の照準環の中央に四脚戦車の一両を入れていた。
外さなかった。
十九秒。
十七秒。
十五秒。
――そのとき、四脚戦車の胴体上面で何かが動いた。
砲塔の左右に載っていた小さな箱が〇・二秒で外側へ倒れた。
そして上へ向いた。
「――伏せろ」
ウェッブが言った。
「え?」
「伏せろ!」
四本の閃光が四脚戦車の周囲で同時に走った。
音は遅れて来た。
夜空の一点で白い線が途切れた。
そしてその先に何もなくなった。
「――撃ち落とされた」
陸八魔アルが言った。
彼女はスコープから目を離していた。
「ねえ。……今の撃ち落とされたわよね」
「そうだ」
「あんな高いミサイルを」
「そうだ」
「なんで!?」
「アクティブ防護システムだ」
ウェッブは言った。
「飛んでくるものを探知して迎撃弾を撃つ。……戦車がミサイルを撃ち落とす仕組みだ」
「聞いてないわよそんなの!」
「俺も聞いていない」
彼は言った。
「カタログに書いてなかった」
「――は?」
「株主向けの資料には書いてなかった」
デイヴィッド・ウェッブはその言葉を口にしながら、既に別のことを考えていた。
――書いてなかった。
――だが写真は載っていた。
〇二二〇時。
四脚戦車の砲塔が南を向いた。
そして止まった。
「……ちょっと」
陸八魔アルの声が掠れた。
「ねえ。……こっち向いてない?」
「向いている」
「なんで! 私たち千二百メートル先よ!」
「レーザーだ」
ウェッブは言った。
「照射した瞬間に方向が分かる」
「先に言いなさいよ!」
「言ったら君は撃つのをやめる」
「やめるわよ!!」
一二〇ミリ滑腔砲が火を噴いた。
音より先に稜線が消えた。
正確には二人がいた場所から十四メートル東の岩が消えた。
砂と岩の破片が上から降ってきた。
デイヴィッド・ウェッブは陸八魔アルの襟を掴んで二メートル引きずっていた。
「――走れ」
「わ、私の銃!」
「持っている」
彼はワインレッド・アドマイアを左手に抱えていた。
二発目が来た。
一発目より十メートル近かった。
三発目。
さらに近かった。
「あ、あいつ、修正してくるんだけど!」
「三発で挟んでいる」
ウェッブは言った。
「四発目で当たる」
「なんで冷静なのよ!!」
〇二二一時。
岩の裏。
二人は伏せていた。
三十メートル先で砂が噴き上がっていた。
「――先生」
無線に奥空アヤネの声が入った。
『残り十五発です。……でも、また撃たれます』
『どうしますか』
デイヴィッド・ウェッブは答えなかった。
彼は頭の中で一枚の紙を開いていた。
四十二日目の朝、長机の上を滑ってきた光沢のある冊子。
見開きの写真。砂漠を背景に斜めに立った四脚の車両。
その胴体上面、砲塔の前方に小さな塔のような突起があった。
その下に丸みを帯びた書体で一行。
『――もう、人が判断する必要はありません。』
「……アヤネ」
彼は言った。
「はい」
「あのカタログの見開き。……砲塔の前に四角い塔が立っていた」
『……はい。ありました』
「あれの説明を覚えているか」
奥空アヤネは〇・五秒で答えた。
『「複合センサー塔。昼夜間光学、レーザー測距、および周辺監視を単一の筐体に集約し、整備工数を四〇パーセント削減」』
『……そう書いてありました』
デイヴィッド・ウェッブは目を閉じた。
そして開いた。
「――集約している」
「え?」
「見るための目と狙うための目と飛んでくるものを探す目が、全部同じ箱に入っている」
彼は言った。
「安いからだ」
隣で陸八魔アルが顔を上げた。
「……ちょっと待って」
「なんだ」
「それって」
彼女は言った。
「……その箱壊したら、あいつ何も見えなくなるってこと?」
「そうだ」
「――ふふん」
陸八魔アルは砂まみれの顔で笑った。
「私、それ得意よ」
---
十六.千メートル
四十八日目 〇二二三時。
「――距離は」
「千二百」
ウェッブは言った。
「君は千メートル以上でしか撃たない。近いと外す。……そう聞いている」
「ええ。当然でしょ」
「その塔は幅四十センチだ」
「……」
「そしてその中で壊さなければならないのは、上から三段目のレンズだけだ」
「……直径は」
「十センチだ」
陸八魔アルは二秒黙った。
そして言った。
「千二百じゃ無理よ……千ならいけるわ」
「でも……二百メートル近づかなきゃいけないのね」
「そうだ」
「あいつ、こっち見てるのよね」
「そうだ」
「――だったら」
陸八魔アルはコートの襟を直した。
腹這いでも今度は直せた。
「私が走るわ」
「……」
「岩の陰から出て走るの。あいつはこっちを見てるから私を撃つ。……撃ってる間、あんたは撃たれない」
彼女は言った。
「あんたはその箱を持って坂を下りて、私の後ろについてくればいい。……で、千メートルまで来たら私が撃つ」
デイヴィッド・ウェッブは彼女を見た。
三秒。
その三秒間で彼は五つのことを計算した。
――斜面の勾配。
――砲の俯角限界。
――三〇ミリ機関砲の発射速度と弾道。
――四脚の歩行速度と、こちらの走行速度の差。
――そして、この少女の脚。
「――二つ条件がある」
彼は言った。
「なによ」
「一つ。走るのは君だけじゃない。俺も走る。……二人が別々に走れば、あれは選ばなければならなくなる」
「機械が迷うの?」
「迷わない。だが必ずどちらかを選ぶ。選んだ瞬間、選ばれなかったほうが自由になる」
「……二つ目は」
「止まるな」
ウェッブは言った。
「伏せるな。転ぶな。振り返るな。……三〇ミリは止まっているものに当たる」
陸八魔アルはワインレッド・アドマイアを受け取った。
そして自分の頬を一度だけ叩いた。
「――行くわよ」
「よし」
「ねえ」
「なんだ」
「後でちゃんと褒めなさいよ」
デイヴィッド・ウェッブはレーザー目標指示装置を抱え上げた。
商いもなく言った。
「――約束はしない」
「なによそれ!」
〇二二四時。
二人が岩陰から出た。
四脚戦車の砲塔が〇・三秒で動いた。
そして三〇ミリチェーンガンが火を吐いた。
砂の斜面に点線が刻まれた。
その点線は陸八魔アルの三歩後ろを追いかけた。
――速い。
――でも私のほうが速い。
彼女はそう思った。
実際には速くなかった。
だが彼女は方向を変え続けていた。三歩ごとに右へ、左へ、また右へ。加速も減速もせず、ただ角度だけを変えて走った。
『――ハイグラウンド・ツー』
無線でウェッブの声がした。
彼も走っていた。
四十メートル離れた斜面を、灰色の箱を抱えて走っていた。
『いい走り方だ』
「知ってるわよ!」
『どこで覚えた』
「風紀委員会よ!」
彼女は叫んだ。
「あいつら毎週追いかけてくるんだから!」
『……そうか』
『役に立ったな』
「うるさい!」
もう一両の四脚戦車が一二〇ミリを撃った。
デイヴィッド・ウェッブがいた場所の六メートル手前に着弾した。
彼はそこにいなかった。
〇二二六時。
千メートル。
浅い窪みがあった。
砂が固い。前方に遮蔽がない。射線が二両とも通る。
陸八魔アルはそこへ滑り込んだ。
そして〇・八秒で伏射姿勢を作った。
デイヴィッド・ウェッブがその左横一・五メートルに伏せた。
彼はスポッタースコープを出さなかった。
出す時間がなかった。
代わりに、彼は目で見た。
「――風」
彼は言った。
「左後方。中間で毎秒三、目標付近で毎秒五。……砂の飛び方が途中で変わっている」
「距離」
「一〇〇二」
「気温」
「二十一度。気圧は補正不要」
「――目標」
「左の一両。砲塔前方の塔。……上から三段目。今こちらを向いている。正対だ」
「移動は」
「毎秒〇・四で右へ」
ウェッブは言った。
「〇・四だ。……アル、これは撃たなくていい。二秒待てば止まる」
「なんで止まるの」
「撃つときに止まるからだ」
「――知ってるわよそんなの」
陸八魔アルは言った。
「私だって撃つときは止まるもの」
二秒。
四脚戦車が止まった。
一二〇ミリ滑腔砲の閉鎖機が動いた。
「――今」
音がした。
千二メートル先で複合センサー塔の三段目のレンズが砕けた。
四脚戦車の砲身が〇・五秒後に発砲した。
その砲弾は二人から百四十メートル南の何もない砂の上に落ちた。
「……当たった」
陸八魔アルが言った。
「当たった!」
「二両目」
「え」
「二両目だ、アル」
「――ああもう、分かってるわよ!」
彼女はボルトを起こし、引き、押し、閉じた。
「二両目、方位」
「右三度。距離一〇一四」
「風」
「同じ」
「……ちょっと遠いわね」
「そうだ」
「……ふふん」
陸八魔アルは頬付けを直した。
「――だからいいのよ」
音がした。
千十四メートル先で二つ目のレンズが砕けた。
砂漠が静かになった。
二両の四脚戦車が砲塔を旋回させた。
右へ。左へ。
そしてまた右へ。
何も見ていなかった。
『――こちらシックス。全局へ』
デイヴィッド・ウェッブが言った。
『四脚二両、センサー破壊を確認』
『――HORUS 1-1』
『はい!』
『レーザー照射開始する』
『目標、左の一両から。……三十秒間隔で順番に落とせ』
『十五発ある。数え間違えるな』
『――HORUS 1-1、ウィルコ!』
---
十七.三十秒
四十八日目 〇二三一時。
一発目が来た。
四脚戦車の胴体上面――先ほどまで箱を跳ね上げていた場所にはもう何も残っていなかった。
APSは作動しなかった。
作動できなかった。
飛んでくるものを探せなかったからだ。
弾頭が装甲を抜き、内部で膨張した。
四本の脚が同時に力を失った。
十二トンの機体がそのまま砂利の上に落ちた。
三十秒。
二発目。
二両目が同じ形で崩れた。
三十秒。
三発目――多連装ロケット発射機の一両目。
発射筒の蓋が内側から吹き飛び、中のロケット弾が誘爆した。
赤い線が四十本、夜空へ向かって不規則に飛び上がっていった。
三十秒。
四発目。
五発目。
六発目。
「――先生」
奥空アヤネの声が無線に入った。
「はい」
「間隔、正確です」
「はい」
「なぜ三十秒だと思う」
「……確認するためです」
彼女は言った。
「一発落とすたびに味方が動いてないか確かめる時間がいるから」
「そうだ」
デイヴィッド・ウェッブは言った。
「速く落とすのは誰でもできる」
七発目。
八発目。
九発目。
自走榴弾砲の列が順に燃え始めた。
十発目。十一発目。十二発目。
装輪装甲車の掩体が一つずつ消えていった。
MH-60Mはその間、一定の高度を保ち一定の速度で同じ楕円を描き続けていた。
十六夜ノノミが側面ドアの機関銃架に手をかけていた。
「――アヤネちゃん」
「はい!」
「あなた、上手」
「そ、そんなことないです!」
「上手ですよ」
十六夜ノノミは言った。
「一回も跳ねてません」
「まだ着陸してません!」
「あら」
〇二四三時。
十三発目。
〇二四四時。
十四発目。
〇二四五時。
『――残り一発』
『HORUS 1-1、こちらシックス。最後の一発は撃つな』
『え』
『持って帰れ』
ウェッブは言った。
『使わなかった弾は明日使える。……そして今日、もう目標がない』
奥空アヤネはコクピットの中で燃える基地を見下ろした。
管制塔がなかった。
レーダーがなかった。
ヘリポートがなかった。
多連装ロケットも自走砲も装輪装甲車も四脚もなかった。
第七格納庫があった場所には白く焼けた四角い跡だけが残っていた。
「……先生」
『なんだ』
「終わりましたか」
『まだだ』
彼は言った。
『――八人、拾いに来い』
---
十八.二回跳ねた
四十八日目 〇二四八時。
基地の東縁。
小鳥遊ホシノたち六人は掩体壕を出たところで警備アンドロイドの列に行く手を塞がれていた。
三十体を超えていた。
弾薬は残り少なかった。
「――アルファ・ワン」
鬼方カヨコが言った。
「弾倉、あと二本」
「私、一本」
「あ、あの、私、ゼロです……」
「クフフ。私も」
「セリカは」
「五発! 五発しかない!」
小鳥遊ホシノは重機関銃の給弾ベルトを見た。
十一発残っていた。
「……うへ〜」
彼女は言った。
「困っちゃうなあ」
そのとき上から音が来た。
回転翼の音だった。
低かった。
そして近かった。
『――こちらHORUS 1-1』
十六夜ノノミの声が無線に入った。
『みなさん、伏せてくださいね』
『三秒、頭の上を通ります』
六人が砂利に伏せた。
MH-60Mが高度二十メートルで真上を通過した。
側面のドアが開いていた。
そこに六本の銃身を束ねた塊がマウントされていた。
十六夜ノノミが握把を握っていた。
「――失礼しますね」
M134が回った。
音は銃声ではなかった。
布を裂くような一続きの途切れない音だった。
〇・八秒間で三百発近くが砂利の上へ降り注いだ。
アンドロイドの列がそのまま前へ倒れた。
MH-60Mが機首を上げ、旋回し、もう一度通過した。
二度目の音は〇・五秒だった。
『――HORUS 1-1、掃射終わり』
十六夜ノノミが言った。
『お怪我はありませんか』
「……ノノミ」
セリカが砂に伏せたまま言った。
「あんた、その、なんか」
「はぁい」
「……こわい」
『あら』
十六夜ノノミはいつもの声で言った。
『ごめんなさいね』
〇二五四時。
小鳥遊ホシノが立ち上がった。
そして五十メートル先に停まっていたピックアップトラックを指した。
カイザーの砂色。無傷。鍵は挿さったままだった。
「――あれ、もらお」
「え、いいの?」
「いいよ」
彼女は言った。
「うちら、あいつらの弾薬庫まで空にしたんだから。今さらでしょ」
「先輩それ悪党の理屈じゃない!」
「うへ〜、そうかも」
砂狼シロコが運転席に座った。
「委員長」
「なぁに」
「私、免許持ってない」
「知ってるよ」
「二回目」
「そうだねえ」
〇三一二時。
基地南東四・二キロ。
リカバリーポイント。
砂の窪地に六人が到着した。
その七十メートル手前で二つの人影が斜面を下りてきた。
一人は灰色の箱を担いでいた。
もう一人はコートの裾を砂だらけにして片手にスナイパーライフルを提げていた。
「――シックス、着いた」
「ハイグラウンド・ツーも!」
「……ハイグラウンド・ツーも着いたわよ」
〇三一四時。
MH-60Mが降りてきた。
奥空アヤネは無灯火で砂を巻き上げながら、機体を窪地の底へ下ろした。
――一回。
跳ねた。
――二回。
跳ねた。
そして止まった。
『……HORUS 1-1、着陸』
彼女は言った。
『――二回でした』
無線の向こうでデイヴィッド・ウェッブが言った。
『そうだ』
『言われたとおりです!』
『そうだ』
『褒めてください!』
『――上出来だ』
奥空アヤネは操縦桿を握ったまま三秒だけ動かなかった。
そして「泣いてません」と言った。
「まだ何も言っていない」
「泣いてませんっ!!」
〇三一六時。
八人が機内へ乗り込んだ。
砂と煤にまみれていた。
黒見セリカは座席に座った瞬間に「もぉぉぉ〜」と長く呻いた。
浅黄ムツキは床に転がった。
伊草ハルカは膝を抱えて震えていた。
鬼方カヨコは目を閉じた。
小鳥遊ホシノは天井を見上げて「うへ〜」と言った。
砂狼シロコは窓の外を見ていた。
そして陸八魔アルは。
――座席にもたれ、脚を組み、腕を組んで顎を上げていた。
「――ふふん」
彼女は言った。
「まあこんなものね。……大したことなかったわ」
その前にデイヴィッド・ウェッブが立った。
「陸八魔アル」
「なによ」
「立て」
「え」
「立て」
陸八魔アルは渋々立ち上がった。
ウェッブは彼女の左腕を取った。
袖をまくった。
肘の外側に擦過傷が三本あった。砂が入っていた。
次に右の脇腹を見た。
コートの布が裂けていた。その下の制服にも五センチほどの裂け目があった。
血はほとんど出ていなかった。
「……なによ。かすり傷でしょ」
「三〇ミリの破片だ」
彼は言った。
「五センチずれていたら君は肋骨を三本失っている」
「……」
「十五センチずれていたらここにいない」
機内が静かになった。
デイヴィッド・ウェッブは救急包を開けながら言った。
「陸八魔アル」
「……なによ」
「二度とやるな」
「――は?」
「二度と囮に出るな」
彼は言った。
「今日は成功した。だから俺は君に礼を言う。……そして同時に、二度とやるなと言う」
「なによそれ! 矛盾してるじゃない!」
「していない」
彼は言った。
「成功したことと正しかったことは違う」
「……」
「今日君が走ったのは、俺が四十二日かけて防空を潰す順番を組み立てて、それでもあの箱の中身を知らなかったからだ。……穴を空けたのは俺だ。走って塞いだのは君だ」
彼はガーゼを当てた。
「穴を空けた人間が塞いだ人間に礼を言うのは当然だ」
「……」
「そして、二度と塞がせないと言うのも当然だ」
陸八魔アルは長いこと黙っていた。
それから非常に小さな声で言った。
「……あんた、褒めるの下手ね」
「そうだ」
「約束はしないって言ったくせに」
「言った」
デイヴィッド・ウェッブは包帯を巻き終えた。
そして言った。
「――千二メートルと千十四メートルだ」
「え」
「一〇〇ミリの的を二発。……あの距離であれをやる人間を俺は二十年で三人しか見ていない」
彼は言った。
「三人目が今日ここにいる」
陸八魔アルの顔がゆっくりと赤くなった。
「……ふ、ふふん」
彼女は座席に沈み込み、コートの襟で口元を隠した。
「と、当然でしょ。……当然よ」
「クフフ」
床の上から浅黄ムツキの声がした。
「アルちゃん、耳まで真っ赤」
「うるさい!!」
MH-60Mが砂を巻き上げて浮いた。
窓の外で四・二キロ先の地平線が赤かった。
〇三二〇時。
弾薬庫が誘爆した。
火柱は五百メートルの高さまで上がった。
---
十九.地平線の火
四十八日目 〇三二二時。
アビドス自治区外縁、屋台『柴関らーめん』。
犬の大将は寸胴の火を落としたところだった。
そして丼を拭く手を止めた。
北の地平線が明るくなっていた。
朝ではなかった。
朝は東から来る。
「……なんだ、ありゃ」
彼は暖簾の外へ出た。
四十キロ以上離れているはずだった。
それなのに光は地平線の四分の一を占めていた。
赤ではなかった。橙でもなかった。
白かった。
そして白の中に時折、別の色が跳ねた。
やがて音が来た。
二分近く遅れて腹に響く低い震動が届いた。
屋台の暖簾が揺れた。
丼が二つ鳴った。
犬の大将はしばらくそれを見ていた。
そして店の中へ戻り、火を入れ直した。
寸胴に水を足した。
そして麺箱を開けて四玉出した。
四玉のうち二玉を硬めの茹で時間で、一玉を柔らかめで、一玉を真ん中で。
それから少し考えて、もう一玉出した。
――五玉目は硬めだった。
〇三四〇時。
アビドス自治区南、旧採石場。
カタカタヘルメット団の拠点。
コンテナと廃バスとブルーシートでできた、家とも呼べない集まり。
その屋根の上に十人ほどが座っていた。
全員が北を見ていた。
「……あれ、うちらの現場だよな」
「そうだろ」
「今日、非番でよかったな」
「よくねーよ。日給飛んだんだぞ」
「命があるだろ」
「命じゃ飯食えねーんだよ」
そんな会話が途切れ途切れに続いていた。
その端に一人だけヘルメットを膝に抱えて座っている少女がいた。
黒い制服。足首に汚れて伸びきった包帯の跡。
彼女はさっきトラックで運ばれて帰ってきたところだった。
第七格納庫の東扉から押し出されて。
「……おい」
隣の団員が言った。
「お前、現場いたんだろ。何があったんだよ」
「……知らね」
「知らねってお前」
「警報が鳴った」
彼女は言った。
「で、みんな走った。……それだけ」
「怪我は」
「してねーよ」
「そっか」
彼女は膝の上のヘルメットの縁を指で弾いた。
「――なあ」
「あ?」
「……あそこ、なんか変だったんだよ」
「変って」
「誰も死んでねーの」
彼女は言った。
「二百人近くいたんだぞ。あんな爆発して誰も死んでねーの。……今、点呼やってんだろ。全員いるってさ」
「……」
「あんなことある?」
隣の団員は答えなかった。
少女はしばらく北の火を見ていた。
そして汚れた作業着のポケットから五百ミリリットルのペットボトルを一本出した。
未開封だった。
ラベルが日焼けして白くなっていた。
彼女はそれを両手で持った。
そしてキャップを回した。
音がした。
「……ふん」
彼女は一口飲んだ。
そして誰にも聞こえない声で言った。
「――遅えんだよ、おっさん」
---
二十.契約
四十八日目 一〇三〇時。
第四掘削現場。かつて前線作戦基地と呼ばれていた場所。
管制塔の残骸の下から二時間前に二つの機体が掘り出された。
一つは軍帽を失っていた。
もう一つは丸い頭部の頂点に立っていたアンテナが根元から折れ、右腕の外装が肘から下だけなくなっていた。
その二つが瓦礫の上に据えられた折り畳み机の前に並んで立っていた。
机の上にノートパソコンが一台開かれていた。
回線はこの基地で唯一生き残っていた衛星端末だった。
画面に男が映っていた。
背景は白い壁だった。それ以外は何も映っていなかった。窓もない。時計もない。物もない。
黒いジャケット。短く刈った髪。
眠っていない目をしていた。
そして、その目がまったく揺れていなかった。
『――カイザー・ジェネラル。カイザー理事』
男は言った。
『デイヴィッド・ウェッブだ。連邦捜査部シャーレ顧問』
「――貴様か」
ジェネラルの声が割れていた。
音声出力の一部が損傷していた。
「貴様が我が社の資産を」
『四十二分ある』
ウェッブは言った。
『あんたたちの衛星端末の予備電源が四十二分で切れる。……先に話す』
「話すことなどない! 我々は合法的な手続きに」
『カイザー理事』
「……」
『あんたは黙っていろ』
理事の一筋の光が一度だけ明滅した。
そして黙った。
『――これから四つのものを見せる』
ウェッブは言った。
『一つ目』
画面が切り替わった。
文書だった。
『附属書B:区域確保計画』
『二つ目』
『附属書C:現況調査(第九次)別冊』
『三つ目』
『搬送計画 第一便〜第九十六便/積載区分G・V』
そして四つ目。
画面に二文字のフォルダ名が映った。
『本船』
瓦礫の上でカイザー理事の一筋の光が消えた。
そして点いた。
「……なぜ」
理事が言った。
その声から傲慢さが抜け落ちていた。
「なぜそれを」
『十二階の複合機だ』
ウェッブは言った。
『先月十四日、紙詰まりを直しに三人が入った。男が一人と女の子が二人。……あんたたちは受付簿に名前を書かせなかった』
「……」
『そこから三十六日間、こちらは三時間ごとに十二分ずつ読んでいた』
『昨夜切った』
彼は言った。
『――探してももう無い』
長い沈黙があった。
ジェネラルが割れた声で言った。
「――脅迫か」
『交渉だ』
「同じことだろう!」
『違う』
ウェッブは言った。
『脅迫はこちらが何かを要求する。……交渉はこちらが何を要求しないかを決めることだ』
彼は画面の外から一枚の紙を出した。
『――今から俺が要求しないものを言う』
『あんたたちの逮捕を要求しない。あんたたちの会社の解体を要求しない。株価を要求しない。プレジデントの名前も要求しない』
『それらはこの資料を公開すれば、俺が何もしなくても起こる』
彼は言った。
『俺はそれを起こさない側で話をしている』
瓦礫の上の二体は動かなかった。
『――要求は三つだ』
『一つ』
ウェッブは紙を読み上げた。
『アビドス高等学校に対する債権の適正化。……カイザーローンが同校に対して有する債権について約定利率を法定上限まで引き下げ、過去に受領した超過利息の全額を元本に充当し、返済期間を再設定する』
「――ふざけるな! それは我が社の正当な」
『九億六千二百三十五万円』
ウェッブは言った。
『現在のペースで完済まで三百年だ。……三百年後にあの学校の生徒は誰も生きていない。返済を前提にしていない債権は債権ではない』
『それは担保を取り上げるための道具だ』
彼は言った。
『そう書いてある。あんたたちの文書に』
「……」
『二つ』
『アビドス高等学校、その敷地、その生徒、その関係者に対する一切の武力行使の禁止。……直接、間接、下請け、委託、日雇い、いかなる形式も問わない』
『カイザーPMC、カイザーコンストラクション、カイザーインダストリー、およびそれらが契約する全ての外部委託先を含む』
『三つ』
彼は言った。
『アビドス自治区における掘削及び開発計画の永久凍結』
「――待ちたまえ」
ジェネラルが言った。
「三つ目は私の権限を超える。あれはプレジデント直轄の」
『知っている』
ウェッブは言った。
『だからあんたたちが署名する』
「……なに?」
『あんたたちにはその権限がない。……そして俺は権限のない人間の署名を求めている』
彼は言った。
『あんたたちが署名した書類が四十八基の弾頭の写真と一緒に世界へ出たとき、あんたたちの会社が最初にすることは何だ』
瓦礫の上で二体が動かなかった。
『――切り離しだ』
ウェッブは言った。
『「現場の独断だった」と発表する。あんたたちを解任する。……そしてその瞬間に、この件は会社の方針ではなくあんたたち二人の犯罪になる』
『署名はあんたたちの首に巻く縄だ』
彼は言った。
『だからあんたたちは絶対に守る』
長い長い沈黙があった。
風が瓦礫の上を通っていった。
やがてカイザー理事が言った。
「……もし我々が拒否したら」
『拒否できる』
ウェッブは言った。
『そのときは俺は何もしない』
「……何も?」
『何もしない』
彼は言った。
『資料は既に十一箇所に置いてある。国内が四、国外が七だ。……三日おきにこちらから「止めろ」という信号を送っている』
『信号が届かなくなると全部出る』
「……」
『俺が死んでも出る。俺が捕まっても出る。俺が気を変えても出ないということはない』
彼は言った。
『――俺は既にこの件から降りている』
「……」
『残っているのは俺が三日ごとにボタンを押すかどうかだけだ』
カイザー理事の一筋の光が細かく震え始めた。
「……き、貴様、それは、そんなものはまともな大人のやることでは」
『そうだ』
デイヴィッド・ウェッブは言った。
『まともじゃない』
彼は言った。
『あんたたちが四年かけて作った状況がまともじゃなかったからだ』
一〇五八時。
署名は七分で終わった。
電子的な処理だった。
ジェネラルが最初に、理事が次にそれぞれの認証を入力した。
『――受領した』
ウェッブは言った。
『あと二つ、事務的な話がある』
「……まだあるのか」
『一つ』
彼は言った。
『カタカタヘルメット団の五十八名に対する未払賃金。……第一次から第四次まで四期分ある。判子の色が四段階だ』
「そのようなものは外部委託先の労務管理の問題であって」
『七日以内に払え』
『それと遅延分だ』
「……」
『二つ』
ウェッブは言った。
『カイザーコンストラクションが便利屋68に対して負っている未払委託料、三千万円』
「あれは契約不履行だ! あの者たちは我が社の指示に従わ――」
『着手金が入っていない』
ウェッブは言った。
『契約書の第四条に着手金は契約締結後三営業日以内に支払うと書いてある。……あんたたちが先に破っている』
「……」
『三千万に遅延損害金を足す』
彼は言った。
『利率はそちらの約定利率を使う』
瓦礫の上でカイザー理事の光が止まった。
「……あ、あれは、その、あの利率はアビドス向けの特別な」
『あんたたちが決めた利率だ』
デイヴィッド・ウェッブは言った。
『自分で決めた利率で自分が払う。……何か問題があるか』
理事は答えなかった。
『請求はシャーレが立てる。……振込先は追って通知する』
『以上だ』
彼は言った。
そして最後にこう言った。
『――カイザー・ジェネラル』
「……なんだ」
『昨夜、俺の生徒が六人あんたの目の前に立っていた』
瓦礫の上で軍帽を失った機体が〇・五秒動かなかった。
『あんたは番号を読んだ。……六つともあった』
『名前は一つも読まなかった』
デイヴィッド・ウェッブは言った。
『――二度とあの学校を探すな』
『探したら全部出す』
画面が切れた。
同時刻。アビドス高等学校、対策委員会室。
長机の上に端末が一つ置かれていた。
その画面にたった今まで同じ通信が映っていた。
部屋の中の七人は誰も動かなかった。
「……」
「……」
「……あの」
奥空アヤネが最初に声を出した。
「先生って、あの」
「うん」
「……こわいですね」
「うん」
小鳥遊ホシノがソファの背にもたれたまま言った。
「おじさん、あれさ」
「はい」
「三日おきにボタン押すって言ってたじゃん」
「はい」
「あれ、たぶん嘘だよ」
「……え」
「あの人、そんなの絶対忘れるもん」
ホシノは言った。
「たぶん押さなくても出ないようにしてある。……で、向こうにだけ押さないと出るって言ってるの」
対策委員会室が静まり返った。
黒見セリカが両手で顔を覆った。
「……こわいこわいこわい」
「あ、あの、私、ちょっとお茶入れてきます」
伊草ハルカが立ち上がった。
「あら。私も手伝いますね」
「クフフ。……ねえ、あのおじさんうちに欲しくない?」
「いらない」
鬼方カヨコが即答した。
「うちの経営が終わる」
その中で一人だけ、まったく違う顔をしている者がいた。
砂狼シロコだった。
彼女は端末の前に立ち、黒くなった画面を見ていた。
目が光っていた。
「……ねえ」
「なぁに、シロコちゃん」
「今の」
彼女は言った。
「銀行強盗よりいい」
「よくないよ」
「なんで」
「うへ〜」
小鳥遊ホシノは天井を見上げた。
「……なんでだろうね」
砂狼シロコはしばらく画面を見ていた。
そして非常に真面目な顔で言った。
「――一発も撃たないで九億六千二百三十五万円取り返した」
「うん」
「あれ、覚える」
「覚えなくていいよ」
「覚える」
「覚えなくていいって」
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二十一.真のアウトロー
四十八日目 一七四〇時。
ゲヘナ学園郊外、雑居ビルの三階。
看板はない。ドアに手書きの表札が一枚だけ貼ってある。
『便利屋68』
事務所の中は砂だらけだった。
四人が持ち帰った砂と煤が床にも机にも、三年育てている観葉植物の葉の上にも積もっていた。
浅黄ムツキはソファの上で仰向けになって寝ていた。口を開けていた。
伊草ハルカは給湯室で洗い物をしていた。三度目の洗い直しだった。手が震えて二回落としたからだった。
鬼方カヨコは自分の机で書類を見ていた。
そして社長机に陸八魔アルが座っていた。
背もたれに深くもたれ、脚を組み、コートを肩に羽織り、片手にコーヒーカップを持っていた。
――中身は入っていなかった。
彼女は三十分前に飲み干していた。
だが立ち上がって淹れ直すという行為が、今の彼女には物理的に不可能だった。
全身が痛かった。
腕が上がらなかった。右の脇腹は息を吸うたびに刺すように痛んだ。
膝から下の感覚がまだ半分しかなかった。
そして彼女はそれを一切顔に出していなかった。
――ハードボイルドな悪党は疲れた顔をしない。
――あの男は四十八時間寝ないであの顔をしていた。
陸八魔アルは空のカップを優雅に傾けた。
そして飲む真似をした。
「……ふふん」
彼女は言った。
誰も聞いていなかった。
――でもいいのよ。
――昨日の夜、私はキヴォトス最大の企業の前線基地を灰にしたんだから。
――千二メートルと千十四メートルよ。二十年で三人ですって。
――ふふん。
――ふふふん。
彼女は頭の中でその台詞をもう十四回再生していた。
一七四六時。
机の上の端末が鳴った。
入金通知だった。
「……あら」
陸八魔アルは優雅にゆっくりと端末を引き寄せた。
――どうせ二百万よ。
――前払いで貰ってるんだから追加なんて雀の涙。
――まあいいわ。悪党は金額で騒がないのよ。
彼女は画面を見た。
そして動かなくなった。
「……カヨコ」
「なに」
「これ、桁が」
「うん」
「……桁がおかしいんだけど」
鬼方カヨコは自分の机の上の書類を持ち上げた。
十一枚あった。
「請求内訳。シャーレから送られてきた」
彼女は読み上げた。
「一、委託業務未払金。カイザーコンストラクションから便利屋68へ、三千万円」
「……三千万」
「二、右に対する遅延損害金。カイザーローンの約定利率を適用」
「……」
「三、危険作業手当。六名分」
「……」
「四、器材損耗補償。……ムツキが使い切った分ぜんぶ」
「……」
「五、化学兵器処理役務の対価。四十八基分」
鬼方カヨコは書類を置いた。
「そのうち、うちの取り分」
「……」
「これ」
陸八魔アルは画面の数字を見た。
そして指で数え始めた。
「……一、十、百、千、万」
「……十万、百万、千万」
「……」
「――おく」
事務所が静かになった。
「おく!?」
給湯室から皿の割れる音がした。
「あ、あ、す、すみません! 私、いま、その、社長がおくって」
「億よ! 億! カヨコ! 億って書いてあるわよこれ!」
「そう」
「そうって! あんた反応薄すぎない!?」
「二回読んだからもう驚き終わった」
ソファの上で浅黄ムツキが片目を開けた。
「……ん〜。なに〜?」
「ムツキ! 起きなさい! 億よ!」
「ふーん」
「ふーんじゃないでしょ!」
陸八魔アルは立ち上がった。
立ち上がれた。
アドレナリンというものはそういうときに出るのだった。
彼女は机の上に片足を乗せた。
コートの裾が翻った。
そして砂と煤にまみれた顔で事務所の天井に向かって叫んだ。
「――見なさい!」
「巨大企業を嵌めてそいつの金で報酬を貰う! 利率まであっちの言い値で!」
「これよ! これこそが私達の目指すべき真のアウトローよ!!」
「アーッハッハッハッハ!」
「あーっはっはっはっはっはっは!」
「あーっは――」
止まった。
「……あれ」
陸八魔アルはそう言った。
そして机の上から足を下ろそうとして、下ろす前に意識を失った。
彼女はそのまま床に倒れ込んだ。
砂と煤にまみれたまま。
「――ぶふっ」
浅黄ムツキがソファから落ちた。
落ちながら笑っていた。
「クフフフッ! 落ちた! アルちゃん今の完璧に落ちた! 台詞の途中で落ちた!」
「しゃ、社長ぉぉぉ!! 社長ーーー!!」
伊草ハルカが給湯室から飛び出してきて、濡れた手のまま床に膝をついた。
「社長! しっかりしてください! 私、私、いま、あの、救急、救急車、いや、あの、私が背負って、いえ、あの、シャーレに、いや、ゲヘナの保健室に――!」
「ハルカ」
「はい!!」
「寝てるだけ」
鬼方カヨコが椅子から立ち上がった。
そして床に転がっている社長を三秒見下ろした。
社長はいびきをかいていた。
満面の笑みだった。
「……はぁ」
鬼方カヨコは深いため息をついた。
そして自分の椅子の背にかかっていた上着を取って、それを社長の上に掛けた。
「クフフ。カヨコ先輩、優しい」
「うるさい」
「毛布出してあげないの?」
「まだ砂だらけだから」
彼女は言った。
「洗ってからにする」
一七五二時。
事務所の窓から夕日が入っていた。
観葉植物の葉に積もった砂が赤く光っていた。
床の上で社長が笑いながら寝ていて、その横で一年生が泣きながら見守っていて、ソファの上では二年生が転げ回って笑っていて、机の前では三年生が請求内訳の十一枚目をもう一度読み直していた。
十一枚目の一番下に手書きで一行だけ書き添えられていた。
『※ 内訳五は、六名の生徒が昨夜四十八基について行った作業に対するものである。
当該作業はキヴォトスのいかなる公的機関も、いかなる企業も、四年間一度も行わなかった。
連邦捜査部シャーレ 顧問 D.W.』
鬼方カヨコはそれを二度読んだ。
事故なく書類を裏返して机の引き出しにしまった。
「――ねえ、カヨコ先輩」
「なに」
「なんて書いてあったの、それ」
「なにも」
彼女は言った。
「事務的なこと」
「ふーん」
浅黄ムツキはソファに戻って寝返りを打った。
「……ねえ」
「なに」
「また呼ばれると思う? あのおじさんに」
鬼方カヨコは窓の外を見た。
夕日がゲヘナの屋根の向こうに沈もうとしていた。
彼女は言った。
「呼ばれるでしょ」
「なんで」
「あの人、七日間の契約って言ったのに」
彼女は言った。
「八日目の内訳を送ってきたから」
床の上で社長が寝返りを打った。
そして寝言で言った。
「……ふふん」
便利屋68のいつもの夕方だった。
四十八日目 一七五二時。
風はまだ南南西から吹いていた。
そして砂漠にはその夜、一発の弾道弾も残っていなかった。