『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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第10話(アビドス編):崩壊の序曲

砂漠の夜気は、肺腑を凍らせるほどに冷たい。

月のない新月の夜。暗視装置(NVG)を通さねば、己の足元さえ定かではない漆黒の世界。

その闇の中、ごつごつとした岩場の稜線に、二つの影が張り付いていた。

 

「……風速、右から左へ3ノット。距離1200。仰角マイナス2度」

 

デイヴィッド・ウェッブは、リューポルド製の観測用スポッティングスコープを覗き込みながら、極めて低い、感情を完全に削ぎ落とした声で呟いた。

その隣で、陸八魔アルが愛銃「ワインレッド・アドマイア(PSG-1)」を構え、微動だにせずに伏せている。彼女の指はトリガーガードの外側に添えられ、呼吸は射撃の基本である「吸って、半分吐いて、止める」のサイクルを正確に繰り返していた。

 

「……視認したわ。監視塔、北西の機銃手」

「Good. 待機しろ。合図があるまで指をかけるな」

 

ウェッブはスコープから目を離さず、喉元の咽頭マイクのスイッチを押し込んだ。ここからは、別の「目」と「手足」を動かす時間だ。

 

「Highlander to Assault Team. Radio check.(ハイランダーより突入班へ。無線感度よし)」

『Assault Leader, loud and clear. ポイント・アルファに到着』

 

小鳥遊ホシノの声に、いつもの気だるげな響きはない。

眼下に広がるカイザーPMC前線基地(FOB "Bravo")。HESCO防壁とコンサーティーナ・ワイヤーで守られたその要塞は、無数のアンテナとサーチライトを備え、低い発電機の音を砂漠に響かせている。

 

「Phase 1, Execute.(第一段階、開始)」

 

音もなく、防壁の一部が溶断された。テルミット反応とボルトカッターによる物理的な「開口」だ。

砂煙の中、最初に滑り込んだのは砂狼シロコだった。その動きは、かつての暴走気味な少女のものではない。ウェッブに叩き込まれた、本物のデルタフォース要員(オペレーター)が憑依したかのような洗練されたCQB(近接戦闘)の挙動だった。

 

銃身を胸元に引き寄せたC.A.R.(Center Axis Relock)スタンス。彼女はコーナーの死角を「パイのカッティング(Slicing the pie)」の要領で慎重に削り取っていく。

巡回中の警備オートマタが、足音に気付いて振り向く瞬間。

 

――タンッ、タンッ。

 

サプレッサー付きのアサルトライフルが、極めて正確なダブルタップでセンサーアイと駆動系を撃ち抜いた。火花を散らして崩れ落ちるオートマタの頭部を、シロコは静かにブーツで押さえつけ、倒れる音すら完全に殺す。

 

「ん……クリア。前進(Push)」

 

シロコの合図で、ホシノがシールドを構えて続く。その後ろに黒見セリカと十六夜ノノミが「スタック(Stack)」の陣形で隙間なく密着し、死角をカバーしながらサーバールームを目指す。最後尾では浅黄ムツキが、主要な燃料タンクや弾薬庫に手際よくC4爆薬をセットしていく。

 

「サーバー室の扉よ。私がシステムを掌握する」

 

鬼怒川カヨコがタブレットを直結(ハードライン)させた、その時だった。

 

『Highlander, this is Sabotage!』カヨコの切羽詰まった声が無線に割り込む。『アクセスログを偽装しようとしたけど、物理的なバイオメトリクス(生体認証)ロックが隠されてた! セキュリティレベルが上がる!』

 

想定外のトラブル。直後、FOB全体にけたたましいサイレンが鳴り響いた。

サーチライトが一斉に点灯し、闇夜が真昼のような白日に晒される。

 

「……バレたか」

ウェッブの目がすっと細くなる。想定内の最悪(ワーストケース)だ。

「All stations, go loud! Weapons free!(全班、交戦開始! 自由射撃!)」

 

ドオォォォン!!

ウェッブの合図と同時に、ムツキのセットした指向性爆薬が一斉に火を噴き、FOBの北側半分を火の海に変えた。

「フフッ、じゃあ遠慮なく……ドッカーンといっちゃうよー!」

 

「……ターゲット、走ってくるPMC兵2名。距離1100」

ウェッブの冷静な風読み(スポッティング)に合わせ、アルのPSG-1が火を噴く。次々と敵の指揮官クラスが砂に沈んでいく。

 

だが、地鳴りのような重低音が、戦場の喧騒を切り裂いた。

FOBの地下格納庫を吹き飛ばし、巨大な鋼鉄の塊が姿を現したのだ。

カイザー・コーポレーションの切り札、無人重戦車「ゴリアテ・カスタム」。120mm滑腔砲が、アビドス突入班のいる区画へ向けられる。

 

『うへぇ……冗談キツイねぇ!』ホシノが巨大なシールドを構え、全身の筋力を軋ませて防弾体勢をとる。

砲口からの爆炎。着弾のすさまじい衝撃波が、ホシノたちを数メートル吹き飛ばした。

『先生! こいつ、私たちの火力じゃどうにもならないよ! 分厚すぎる!』セリカの悲鳴が混じる。

 

「落ち着け。俺が排除する。各員、ハードカバーに身を隠せ」

 

ウェッブはスポッティングスコープから目を離し、自身の戦術端末とレーザー目標指示装置(SOFLAM)を素早く起動した。通信の周波数(NET)を、上空で待機している奥空アヤネの支援無人機へと切り替える。

 

「Strike 01, this is Highlander. A/S tasking. Mission type is SMACK. Advise when ready for 9-Line.(ストライク01、こちらハイランダー。空対地タスク指示。ミッション種別はスマック(座標に対する兵装投下許可)。9ラインの受信準備ができたら知らせろ)」

 

『Highlander, Strike 01 ready.(ハイランダー、ストライク01、準備よし)』アヤネの緊張を極限まで抑え込んだ声。

 

「Lines 1 through 3, N/A(ライン1から3、該当なし).

Line 4, 1-5-0 feet(ライン4・目標標高、150フィート).

Line 5, One Unmanned Heavy Tank(ライン5・目標詳細、無人重戦車、1両).

Line 6, Grid Hotel Romeo 8-8-4-1, 9-2-1-5(ライン6・目標座標、グリッドHR 8841 9215).

Line 7, Laser, Code 1-6-8-8(ライン7・マーク方法、レーザー、コード1688).

Line 8, Friendlies 100 meters North, marked by IR strobe(ライン8・友軍位置、目標から北へ100メートル。IRストローブ発光中).

Line 9, Egress Northwest(ライン9・脱出方向、北西).

Remarks: Danger Close. Cleared Hot.(制約事項、友軍近接(デンジャークローズ)。兵装投下を許可する) Readback(復唱せよ)」

 

『Strike 01, readback. Elevation 1-5-0. Grid Hotel Romeo 8-8-4-1, 9-2-1-5. Danger Close.』

 

「Good readback. Laser on(復唱よし。レーザー照射開始)」

ウェッブは身を乗り出し、SOFLAMの不可視レーザーを戦車の砲塔へ正確に照射(レーズ)した。

「Ten seconds.(着弾まで10秒)」

「……Spot.(レーザー捕捉)」

 

天空から舞い降りたヘルファイア対戦車ミサイルが、ゴリアテ・カスタムの上面装甲を正確にブチ抜き、内部の弾薬を誘爆させて巨大な火柱を上げた。

 

「Target destroyed.(目標破壊確認)」

ウェッブがそう無線のスイッチを切ろうとした、その瞬間だった。

 

燃え盛る残骸の煙を突き破り、**予想だにしなかった「二両目」の無人重戦車**が突進してきたのだ。

しかも、その砲塔はアビドスの生徒たちではなく、真っ直ぐにウェッブとアルの潜む岩場の稜線(ハイグラウンド)へと向けられていた。

 

「なにッ……!?」アルが息を呑む。

二両目は、レーザー照射の逆探知(LWR)機能とアクティブ防護システム(APS)を搭載した最新鋭の試作機だった。

 

砲口が閃光を放つ。

「Get down!(伏せろ!)」

 

ウェッブはアルの襟首を掴み、力任せに岩場の影へと引きずり倒した。

直後、120mm榴弾が直前の岩盤を粉砕し、凄まじい衝撃波と熱風が二人を飲み込む。岩の破片が降り注ぐ中、ウェッブが手探りで掴み取ったSOFLAMは、ひしゃげて完全に沈黙していた。

 

「……ッ、レーザー指示器が破壊された。このままじゃ近接航空支援(CAS)は呼べない」

ウェッブは土煙を払いながら、急速に状況を計算(プロセッシング)する。

眼下の二両目は、履帯を軋ませながら主砲の再装填に入っている。次弾は確実にこの稜線を吹き飛ばすだろう。

 

「アル」

ウェッブは、恐怖で震えながらも懸命にPSG-1を抱きしめている陸八魔アルの肩を、強い力で掴んだ。

「君の腕が必要だ」

「え……? む、無理よ! あんな分厚い装甲、スナイパーライフルじゃ……!」

「装甲は抜かなくていい。目を潰す」

 

ウェッブは自らの双眼鏡を構え、煙の向こうで鈍く光る戦車のセンサー・マストを睨みつけた。

「目標、敵戦車砲塔右上の複合光学センサー群。風速、右から左へ5ノット、突風(ガスト)あり。距離1150」

「先生……っ」

「君は便利屋68の社長だろう。最高のプロフェッショナルだと、俺は評価している」

 

その言葉に、アルの瞳から迷いが消え失せた。

「冷酷非道な悪の組織のボス」としてのプライド。ハードボイルドの仮面が、今度こそ本物の鋼の意志へと変わる。

彼女は砂まみれのコートを翻し、再びライフルを構え、深く、静かに息を吸い込んだ。

 

「……送って(Send it)」

 

タンッ!

 

風を読み切った完璧な一撃。徹甲弾は1150メートルの距離を飛び越え、二両目の重戦車の光学センサーユニットの中央を文字通り粉砕した。

視覚を失い、砲塔が迷うように左右に首を振る。

 

「Bulls-eye(ど真ん中だ)。……Strike 01, this is Highlander」

ウェッブはすぐさま無線の周波数を戻し、怒涛の早口で告げた。

「Target is blind. Shift coordinate 50 meters East of previous mark. Target is the second tank spinning its turret. YOU ARE CLEARED HOT!(目標は盲目になった。座標を先ほどの位置から東へ50メートル修正。目標は砲塔を旋回させている二両目だ。投下を許可する!)」

 

『Copy! 撃ちます!』

 

二発目のミサイルが空気を引き裂き、光学センサーという「傘」を失いAPSを作動させられなかった二両目の重戦車へ直撃。誘爆による爆風が、砂漠の夜空をオレンジ色に染め上げた。

 

「……Target neutralized.(目標沈黙)」

ウェッブは小さく息を吐き、隣でへたり込むアルを見た。

「見事な狙撃だった、社長(ボス)」

 

アルは顔を真っ赤にして、「ふ、ふふん! 当然よ!」と笑おうとしたが、張り詰めていた糸が切れたのか、そのまま気絶するように岩場に突っ伏した。

 

ウェッブは口元にわずかな笑みを浮かべ、再び咽頭マイクに手を当てた。

「Assault Team, threat eliminated. Proceed with the mission.(突入班、脅威は排除された。任務を続行しろ)」

 

ウェッブの極めて冷静な通信が響く中、カイザーPMC前線基地(FOB "Bravo")の地下サーバールーム前は、阿鼻叫喚の坩堝と化していた。

サイレンが鳴り響き、無数のPMC兵士たちが重装甲の盾を構えてサーバールームへと殺到してくる。

 

「アル社長の……アル社長の輝かしい道を邪魔するなぁぁぁっ!!」

 

伊草ハルカが、完全に理性を吹き飛ばした狂気の形相でショットガンを連射していた。雑草の種が混じった彼女特製のバックショット弾が、PMC兵の防弾シールドを次々と粉砕し、通路を文字通り「根絶やし」にしていく。

 

「うへぇ、便利屋の特攻隊長ちゃんは元気だねぇ。おじさんも負けてられないかな」

小鳥遊ホシノが巨大なシールドを展開し、ハルカの前に立ち塞がって敵の反撃(リターン・ファイア)を完全にシャットアウトする。

 

「ん。ハルカ、右は任せる。私は左を制圧(クリア)する」

砂狼シロコがアサルトライフルを構え、流れるようなC.A.R.スタンスで次々とヘッドショットを叩き込む。その無駄のない射撃姿勢は、ウェッブが叩き込んだ近接戦闘(CQB)のドクトリンそのものだった。

「ちょっと! なんであんたたち、そんなに息ピッタリなのよ!」黒見セリカが文句を言いながらも、正確な制圧射撃でシロコをカバーする。

 

防御線の構築が完了したその後方で、鬼怒川カヨコは冷や汗を流しながらタブレットの画面を睨みつけていた。

 

『Sabotage、生体認証(バイオメトリクス)の突破はどうなっている』

インカムからウェッブの冷徹な声が飛ぶ。

「ダメよ、暗号化レベルが高すぎる。物理的にサーバーを破壊したら、肝心のデータごと飛ぶわ」

『……カイザーのネットワークには、構造的な欠陥(ヒューマン・エラー)がある。奴らの階級主義(ヒエラルキー)を利用しろ』

「ヒエラルキー?」

『先程見せたPDF、プロジェクト・パペットだ。あの決裁文書にアクセスした理事のIDとパスコードを、マスターオーバーライドとして入力しろ。奴らは自らの特権階級を過信し、緊急用のバックドアを必ず残している』

 

カヨコの目が鋭く光った。

「……なるほど、傲慢な大人(ヤツら)らしい構造ね」

彼女の指がキーボードの上で踊る。傍受していた理事の決裁コードを入力した瞬間、分厚い鋼鉄の扉をロックしていたランプが、赤から緑へと切り替わった。

 

「ビンゴ。……データの抽出(ダウンロード)、開始」

カヨコが告げたその時、背後で凄まじい爆発音が轟いた。浅黄ムツキが仕掛けたC4爆薬が、基地の弾薬庫に引火したのだ。

「あははっ! 綺麗にドッカーンといっちゃった! カヨコ, 急がないとここも崩れちゃうよー!」

 

プログレスバーが100%に到達し、カヨコは急いでデータドライブを引き抜いた。

「抽出完了! 先生、目標(パッケージ)を確保したわ!」

 

『Copy. All stations, Target secured. Winchester. Execute Egress route Alpha.(了解。全班、目標確保。我が方は弾薬切れだ。脱出ルート・アルファを実行せよ)』

ウェッブの指示と共に、生徒たちは一斉に撤収(フォールバック)を開始した。炎上し、崩壊していくカイザーFOBを背に、彼女たちは夜の砂漠へと姿を消した。

 

---

 

【数時間後――夜明け前、カイザーコーポレーション・アビドス支社応接室】

 

基地の炎上からわずか数時間後。本来であれば勝者として息を巻いているはずのアビドス対策委員会と便利屋68の面々は、信じられないほど重苦しい沈黙の中にいた。

部屋の対面に座るの、カイザーPMCの最高司令官「ジェネラル」と、あくどい笑みを貼り付けた「カイザーPMC理事」である。周囲を十数名の完全武装したPMC精鋭兵に囲まれてなお、長机の端に座るデイヴィッド・ウェッブの表情は微動だにしなかった。

 

ウェッブは無造作に、先ほどカヨコが抽出した黒いデータドライブを机の真ん中へと滑らせた。

 

「これは何だね、シャーレの先生」

理事のロボットフェイスが、不快そうに駆動音を立てる。

ウェッブは感情を完全に削ぎ落とした、氷点下の声で話し始めた。

 

「カイザーコーポレーションの裏金口座(ブラック・バジェット)の全データ、および『プロジェクト・パペット(人形作戦)』の全アクセスログだ。便利屋68をトカゲの尻尾切りとして利用し、作戦後に処分する予定だった証拠(エビデンス)も含めてな」

 

その言葉に、ジェネラルの鋭い目がぴくりと動いた。

「フン、不法侵入で盗み出したデータなど、何の法的証拠にもならん。我々が今ここで貴様らを射殺すれば終わる話だ」

 

「法廷で戦うつもりはない、ジェネラル」

ウェッブは組み替えた指の隙間から、冷徹な視線を二人に突きつけた。元外交官であり、トレッドストーンで心理的脅迫術(サイ・オプス)を叩き込まれた男の、本物の『牙』が剥き出しになる。

 

「この瞬間に、ヴェリタスのミラーサーバー、およびトリニティの報道機関、さらにはヴァルキューレの公安局へと、データの自動送信プロトコル(デッドマンズ・スイッチ)が同期されている。俺の心拍、あるいは戦術端末への一定時間ごとのパスワード入力が途絶えた瞬間、全データがキヴォトス全域に開示(リーク)される」

 

ウェッブは身を乗り出し、声をさらに一段落とし、相手の理性をじわじわと削るように告げた。

 

「情報が公になれば、連邦生徒会はカイザーへの監査を入れざるを得ない。プレジデントが真っ先に切り捨てるのは誰だと思う? ――責任者である君たち二人だ。巨額の損失を出した無能として、キヴォトスの果てへ左遷されるか、最悪の場合は矯正局行きだ。君たちのキャリアは、このドライブ一つで完全に終わる」

 

「な……ッ!?」

理事の機体が目に見えてガタガタと震え始めた。詰めが甘く、想定外の事態に弱い彼の脆弱性が完全に露呈している。ジェネラルもまた、威圧的な軍人口調を忘れ、固く拳を握りしめていた。プレジデントの冷酷さを、部下である彼らが一番よく知っているからだ。

 

「条件は二つ」

ウェッブは拒絶を許さないトーンで淡々と突きつける。

 

「第一に、アビドス高等学校が背負っている法外な借金を、現在のアビドス自治区の適正な地価および経済状況に鑑み、『95%の大幅減額』**とすること。

第二に、現在進行中のアビドス自治区買収計画を**『即時、かつ永久に凍結』すること。

一分やる。プレジデントに連絡を取り、決裁コードをここに打ち込め」

 

ウェッブは懐からアナログなストップウォッチを取り出し、カチリ、とボタンを押した。無機質な秒針の音が、部屋の緊張感を極限まで跳ね上げる。

 

すぐ隣でそのやり取りを見ていたアビドスと便利屋の面々は、呼吸をすることすら忘れていた。

 

「……ね、ねえ、カヨコ」

アルが引きつった顔で、声を限界まで潜めて隣のカヨコに囁いた。

「先生、あんなの……完全に本物の『悪党(マフィア)』じゃない……。私たちの出る幕なんて、一ミリもないわよ……」

「……ええ。交渉っていうより、完全に相手の脳に銃口を突きつけて引き金に指をかけてる状態ね。敵に回したら、本当に一瞬で消されるわ……」

カヨコも冷や汗を流しながら、ウェッブの背中に底知れない恐怖を感じていた。

 

「ひゃはは……先生、怒らせたら絶対ダメなタイプだね。ハルカちゃん、絶対に先生の後ろを歩く時は銃を下げなよ?」

ムツキがいつも悪戯っぽい笑みを消し、本気で顔を引きつらせている。ハルカにいたっては「ひ、う、あ……す、すみません、私が生まれてきてすみません……っ!」と、ウェッブの放つ圧倒的なプレッシャーに当てられて、今にも気絶しそうにガタガタと震えていた。

 

アビドス側も同様だった。

「うへぇ……おじさん、いろんな修羅場を見てきたつもりだったけどさぁ」ホシノがオッズアイを細め、乾いた声を漏らす。「先生のあれ、ただの戦闘技術じゃないよ。血の匂いが染み付いた、本物の『支配(コントロール)』の技術だ。セリカちゃん、絶対に先生に小言を言っちゃダメだよ?」

「い、言えるわけないじゃない、あんなの……っ!」セリカはツインテールを縮こまらせ、完全に気圧されてノノミの背中に隠れていた。シロコだけは、じっとウェッブの手元のストップウォッチを見つめ、「ん……あのプレッシャー、効率的。今度真似する」と呟き、アヤネに「真似しちゃダメです!!」と全力で止められていた。

 

「……残り、10秒」

ウェッブの低い声が響く。

 

「ま、待ちたまえ! わかった、わかったから!!」

恐怖に耐えかねた理事が、狂ったように端末を叩き、プレジデントとの緊急ホットラインを開いた。ジェネラルも悔しげに歯を軋ませながら、自身の指揮権限コードを入力していく。

 

ピロン、という電子音と共に、シャーレの戦術端末に『カイザー金融:アビドス債務内容変更通知』および『買収計画凍結証明書』のデータが着信した。

 

ウェッブはストップウォッチを止め、データを確認すると、机の上のデータドライブをパチンと指で弾いて理事の前に転がした。

 

「取引成立だ。……撤収(RTB)する」

 

ウェッブが立ち上がると、PMCの精鋭兵たちは一人として彼を遮ることはできなかった。彼らは本能で理解していたのだ。この男の目には、自分たちのような軍人は、単なる「処理すべきオブジェクト」にしか映っていないということを。

 

---

 

【数時間後――夜明けの砂漠、合流地点(ラリーポイント)】

 

朝霧が立ち込める合流地点。

ウェッブの背中には、極限の緊張から解放され、そのままスヤスヤと安らかな寝息を立てて背負われている陸八魔アルの姿があった。

 

「あはは……アルちゃん、あの交渉の途中からずっと白目剥きそうになってたもんねー」

ムツキがいつもの調子を取り戻して笑い、ハルカが「アル社長! 恐怖の魔王からよくぞご生還されました……!」と涙ぐみながら駆け寄る。

 

ウェッブはアルを静かに地面に下ろし、毛布を掛けてから、便利屋とアビドスの生徒たちを見渡した。彼の顔からは、先ほどの悪魔的な冷徹さは消え、いつもの「寡黙な先生」に戻っていた。

 

「……彼女の完璧な狙撃で二両目の重戦車を止めてくれたからこそ、あのデータがレバレッジ(梃子)として機能した。便利屋68も、アビドスも、全員が最高の仕事(プロフェッショナル)をした結果だ。これでアビドスの借金は、通常のアルバイトと節約で十分に完済できる額になった」

 

ウェッブの言葉に、セリカの目から大粒の涙が溢れ出た。

「本当に……本当に、学校が助かったんだよね……? 夢じゃないよね……っ」

「ん。夢じゃない。セリカ、もう怪しいバイトをしなくていい」シロコが優しくセリカの肩を叩く。

 

「……ええ。本当に、最高の先生ね」

カヨコが小さく微笑み、ウェッブを見上げた。「でも、次からはもう少し、心臓に優しい交渉にしてくれると助かるわ」

 

「善処しよう」

ウェッブの口元に、わずかな、しかし確かな和らぎが浮かんだ。

「任務完了(ミッション・コンプリート)だ。帰還する」

 

冷徹なデルタフォースの戦術と、生徒たちの不屈の意志がもたらした奇跡。

アビドスの青い空に、ついに本物の夜明けが訪れようとしていた。

 

---

 

ゲヘナ自治区の郊外。吹きすさぶ熱風が、立て付けの悪い窓ガラスをガタガタと揺らす、うらぶれた雑居ビルの一室。

命からがらキヴォトスの砂漠から帰還した「便利屋68」の面々は、文字通り泥と砂にまみれた姿で、長机やソファにぐったりと倒れ込んでいた。

 

「はぁ〜……疲れたぁ。まさか本物の重戦車とやり合うことになるなんてねー」

浅黄ムツキが、砂埃でジャリジャリになったブーツを脱ぎ捨てながら、ソファの上で大きく伸びをした。

 

「ほ、本当に……恐ろしい夜でした……。でも、アル社長のあの完璧な狙撃……! さすが、私たちのアウトローの頂点です……!!」

伊草ハルカは全身煤だらけになりながらも、恍惚とした表情で、長机に突っ伏している陸八魔アルを見つめている。

 

当のアルは、疲労困憊で今にも魂が抜けそうな顔をしながら、必死に「冷酷非道な悪の組織のボス」としての威厳を保とうと、ボロボロになったコートの襟を正していた。

 

「フ、フフッ……当然よ。カイザーの連中も、私の底知れないハードボイルドさの前に震え上がっていたはず……。あとは、あのシャーレの先生からの『莫大な報酬』を待つだけね……!」

 

アルがコーヒーカップ(中身は空である)を優雅に傾けた、その時だった。

 

「クスクス……そういえばさ、アルちゃん」

ムツキが、悪戯っぽい笑みを浮かべて身を乗り出した。

「報酬の話、アルちゃんずっと寝ちゃってて、**全くしてなかった**よね〜?」

 

ピキッ。

アルの動きが、空のコーヒーカップを持ったまま完全に静止した。

 

「あーあ。せっかくカイザーの依頼も蹴っちゃったのに、先生と契約書も交わしてないなんて。もしかして、あの命懸けの破壊工作、**全部タダ働き**になっちゃうかもね〜?」

「なっ……!?」

 

ハードボイルドの仮面が一瞬で粉々に砕け散り、アルの顔からサァッと血の気が引いていく。有名な、あの「驚愕のポンコツ顔(アル顔)」が炸裂した。

 

「え、うそ、ちょっと待って!? 私、あの場でカッコつけて『貸しにしておくわ』とか言っちゃってたわよね!? その後気絶して……起きたらここだったし! まさか、本当に一円も出ないの!? 今月の家賃、どうするのよぉぉっ!?」

 

アルが頭を抱えてパニックに陥り、ハルカが「ああっ、私が今すぐ銀行の金庫を爆破して資金を……!」と物騒な準備を始めようとした、まさにその瞬間。

 

――*ピロンッ*。

 

部屋の隅で、静かにタイピングを続けていた鬼怒川カヨコのPCから、無機質な電子音が鳴り響いた。

 

「……通知が来たわ」

カヨコが、普段のダウナーな声にわずかな驚きの色を混ぜて呟いた。「シャーレの特別予算枠から。名目は『特殊工作及び高度狙撃支援に対する特別報酬』」

 

「ほ、本当!? いくら!? 経費を差し引いて、せめて赤字にならないくらいは……!」

 

アルは転がるようにカヨコのPCの前に駆け寄り、WEB口座の画面を覗き込んだ。

そして。

 

「……………………は?」

 

画面に表示された数字。

そこに並んでいた「ゼロ」の数は、当初カイザーから提示されていたアビドス襲撃の報酬を遥かに凌駕する、見たこともないような天文学的な金額だった。

 

「うそ……なに、この額……。あんな無茶苦茶な交渉で、本当にこれを毟り取ったっていうの……?」

「ええ。カイザーの裏金口座から、連邦生徒会経由で合法的に洗浄(マネーロンダリング)されて振り込まれてる。あの先生、ただの戦闘狂じゃない。完璧な『悪党(マフィア)』のやり口ね」カヨコが冷や汗を拭いながら感嘆の息を漏らす。

 

アルの瞳に、再び強烈な光が宿った。

恐怖ではない。それは、自身が目指すべき絶対的な「理想」を目の当たりにしたかのような、純粋な尊敬と狂喜だった。

 

「み、見た!? これがプロの仕事よ!! 命を懸けて情報を奪い、相手の首根っこを掴んで法外な対価を要求する……!! 先生こそ、私たちが目指すべき真のアウトローよ!! ハーッハッハッハ!!」

 

高笑いするアル。

しかし、その笑い声は、数秒後には急速に尻すぼみになっていった。

 

「あ、あれ……? なんか、急に目の前が、真っ白に……」

「アルちゃん?」

 

極限の緊張状態からの解放。

二日間にわたる砂漠での戦闘疲労。

そして、口座の桁数を見たことによるキャパシティ・オーバーの興奮。

すべてのツケが、一気に彼女の脳をショートさせたのだ。

 

「あ、あはは……ハードボイルドぉ……」

 

アルは完全に白目を剥き、そのまま糸が切れたマリオネットのように、カヨコのデスクの前にバタリと倒れ込んで気絶した。

 

「ア、アル社長ォォォォッ!!?」

ハルカが悲痛な絶叫を上げ、アルにすがりついて激しく揺さぶる。「しっかりしてください社長! 誰か、誰か救急車を! いや、私が人工呼吸を……っ!!」

 

「あはははっ! アルちゃん、結局また気絶しちゃった!」

ムツキはお腹を抱え、涙を流しながら大爆笑している。

 

大騒ぎになる室内。

その喧騒の中で、カヨコだけは静かにPCの画面を閉じ、深く、深くため息をついた。

 

「……はぁ。まあ、先生のやり方は心臓に悪いけど」

 

カヨコは、すやスヤと白目を剥いて眠る社長の顔を横目に見下ろしながら、少しだけ口角を上げた。

 

「これで、今月の家賃は払えそうね」

 

キヴォトスの裏社会を生き抜く、アウトローを目指す少女たちの騒がしい日常は、こうしてまた過ぎていくのだった。

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