『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
第11話(百鬼夜行編):崩れた城壁
灯籠に照らされた街には確かに祭りの匂いがあった。
焼けた醤油、綿飴の砂糖、火薬の残り香。軒先に吊るされた無数の提灯が石畳の路地を橙色に染め上げ、二十年ぶりの復活を控えた「百鬼夜行燈籠祭」の準備で和風の商店街は昼夜を問わず賑わっている。
――この街は内側から崩れている。
その崩壊の一端がまさに今、路地の突き当たりで演じられていた。
「そこまでですわ! 白昼堂々商店街の売り上げを脅し取ろうだなんて、百花繚乱いちのえり〜との身共(みども)が断じて許しませんっ!」
空色の羽織を翻し勘解由小路ユカリが単身、六人からなる魑魅一座(すだまいちざ)の不良たちの前に立ちはだかっていた。制式ライフル「少女の決意」を構えたその姿は確かに凛としている。
囲む側の一人が面の下でせせら笑った。
「はっ、また百花繚乱ごっこか。おいお嬢ちゃん、いい加減気づけよ。お前らの委員会はな、もう解散したんだよ。委員長は消えた、副委員長は逃げた、幹部は雲隠れ。残ってんのは羽織を着たガキ一人きりだ」
「うっ……」
「昔の百花繚乱ならこんなとこで暴れりゃ切り込み隊長のレンゲさんが飛んできた。参謀のキキョウさんが退路を塞いだ。だがなァ、今は誰も来ねえ。誰もだ」
その言葉は残酷なほど正確だった。ユカリの背後には誰もいない。左右の路地からはじりじりと新手の不良が湧き出してくる。数の暴力がゆっくりと彼女を飲み込もうとしていた。
「ぐ……それでも身共は……ひとりでも……っ」
引き金にかけた指がわずかに震える。銃を撃てば人に当たる。当てずに脅せば舐められる。お嬢様育ちの正義感はこの場を制圧する「手段」を持たなかった。
――そしてその一部始終を通りの反対側、屋台の陰から静かに観測していた男がいた。
くたびれたジャケット。短く刈った髪。祭りの人混みに完璧に溶け込みながらその両目だけがこの空間のすべてを撮影するように走査していた。
(守護者を失った街。無法者は成長し住民は諦め、少女一人が形骸化した組織の看板を背負って立っている……)
デイヴィッド・ウェッブはただ胸の内で状況を言語化した。それは彼が過去にアフリカや中東の名もなき街で何度も、うんざりするほど何度も見てきた光景そのものだった。
(統治能力の空白(ガバナンス・ギャップ)。教科書通りだ)
彼はまだ動かない。
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【数時間前――D.U.地区、シャーレ執務室】
祭りの喧騒とは無縁の静まり返ったオフィス。デイヴィッド・ウェッブは山積みになった書類の一枚一枚に機械のような正確さで目を通していた。
アビドス自治区の債務再編に関する事後処理。カイザーコーポレーションとの停戦協定の履行監視レポート。連邦生徒会経由で洗浄された特別予算の会計監査。――アビドスでの一件から数週間、ウェッブの机の上では砲弾ではなく紙の雪崩が続いていた。
彼にとってそれは苦痛ではなかった。むしろ引き金を引く必要のない仕事は数少ない安息だった。
その静寂を能天気な足音が破った。
「もしもし先生。あらあらこんなに根を詰めて。にゃにゃ、そんな怖い顔先生には似合いませんよ?」
襖を開けもせずに部屋へ滑り込んできたのは百鬼夜行連合学院陰陽部部長、天地ニヤだった。人を食ったような笑みを浮かべ勝手にソファへ腰を沈める。
ウェッブは書類から目を上げなかった。
「アポイントは取っていないな」
「あらら手厳しい。でもほらこういうのは風流ってものでして。ね?」
「用件を」
にべもない。ニヤは大げさに肩をすくめ、それから懐から一通の封筒を取り出し机の上に滑らせた。
「百物語の作者――都市伝説として囁かれている『花鳥風月部』からの予告状というやつです。うちの商店街の掲示板に、ある朝ぺたりと」
ウェッブは手を伸ばさなかった。
「これに触れた人間は」
「にゃ?」
「発見から今までだ。誰が剥がし、誰が畳み、誰の懐を経由した」
「え、ええと……見つけた商店街の子と、届け出を受けたうちの部員と、私。三人、ですかねぇ」
「貼られていた状態の写真は」
「と、撮ってないです。剥がしちゃいました……」
「発見は朝。なら貼られたのは夜間だ。掲示板周辺の監視カメラは。当夜の目撃者の聞き取りは。天候の記録は」
矢継ぎ早の問いに、ニヤの軽薄な笑みがぽろぽろと剥がれ落ちていった。彼女にとってこれは「不吉な手紙」だった。だがこの男にとっては、指紋と経路と時刻の刻まれた「現場」なのだ。
「……何も、してないですねぇ」ニヤは素直に白状した。「その……必要だったんです?」
「物と場所は嘘をつかない。人と違ってな」ウェッブは淡々と告げ、そこで初めて和紙を手に取った。「以後、この手のものが出たら誰にも触らせるな。写真を撮り、時刻を記録し、そのまま俺に回せ」
彼は和紙を広げた。キヴォトスの古い書き文字も、シッテムの箱に頼らず読める。言語学者としての古い脳が勝手に文字を解いていく。
『――歓喜の時、空に花咲きたるその刻に。我ら花鳥風月部再び姿を現さん』
「空に咲く花……打ち上げ花火か」
「にゃは、さすが先生。お察しの通り。燈籠祭のフィナーレを飾る大花火のことでしょうねぇ」
だがウェッブの目は、もう文面を離れていた。彼は和紙を窓の光にかざして繊維の透け方を確かめ、指の腹で墨の上をそっと撫でた。
(――紙が古い。それも作為の古さじゃない。数十年単位で自然に焼けた和紙だ。墨は膠の匂いからして手磨り。書体は……崩し方の系統が現行の教育のものと違う。この書き手は、今の学園で読み書きを覚えた人間じゃない。――あるいは、そう見せかけられるだけの教養を持つ人間だ)
結論はまだ出さない。仮説は二つとも卓上に残す。それが彼の流儀だった。
さらに数秒。彼の目がすっと細くなる。
「――続きがある」
「え?」
「この紙は元は縦にもう一段長い。下三分の一が後から鋏で切り落とされている。断面の墨の途切れ方が不自然だ。手紙には続きの文があった。そして誰かが、それを俺に見せたくなかった」
ソファのニヤの笑みがほんの一瞬凍りついた。ほんの一瞬。だがウェッブの網膜はそれを見逃さない。かつてウォータールー駅で記者サイモン・ロスの死を見逃した男は、二度と些細な兆候を見逃さないと誓っていた。
「……にゃえっと、はい。まいったなぁ。さすがですねぇ、先生」
ニヤは観念したように、切り取っていた紙片を渋々もう一枚取り出した。
『――百鬼夜行は炎に包まれて燃え上がらん』
炎という一語。ウェッブの脳裏をニューヨークの崩落したツインタワーの黒煙が一瞬だけよぎった。彼は表情を変えず、しかし内心の温度だけを一段下げた。
「なぜ隠した」
「……先生を怖がらせたくなかったって言ったら、信じます?」
ウェッブは答えなかった。代わりに繋ぎ合わせた全文へ視線を戻し、文頭の一語を指で叩いた。
「質問を変える。――『再び』」
「……にゃ?」
「『再び姿を現さん』。一度目があった、という意味だ」ウェッブは顔を上げた。「書き手がただの悪戯者なら、都市伝説に箔をつける飾り文句かもしれん。だが本物なら――花鳥風月部はかつて一度、この街に姿を現している。……燈籠祭は二十年途絶えていたそうだな。祭りが二十年止まる。『飽きた』で起きることじゃない。二十年前、何があった」
沈黙が落ちた。
ニヤの顔から、今度こそ演技ではなく血の気が引いていた。この男は手紙を読んだのではない。手紙が読ませまいとしたものまで読んだのだ。
「……二十年前」長い間を置いて、ニヤは静かに言った。「最後の燈籠祭の年に、大火がありました。商店街の三分の一が焼けて。……公式記録では失火です。提灯の火の不始末。そういうことに、なってます」
「『なっている』と言ったな」
「陰陽部の書庫の奥に、当時の部長が封印した文書があります。私も全部は読んでません。先代から言い付かったのは一言だけ。――『祭りを二度と、怪談と結びつけるな』」
ニヤは息を吐き、初めておどけた仮面を下ろした。
「街のみんなにとって、燈籠祭は『火事で途絶えた祭り』なんです。それが本当は『怪異に焼かれた祭り』だったなんて話が今更表に出てごらんなさい。二十年ぶりの復活は即中止。商店街が復興に注ぎ込んだお金も、ようやく上向いた人心も、ぜんぶ水の泡。……だから、静かにこっそり片付けてくれる大人が欲しかった。学園の外の人間で、超法規的で、口が堅くて、腕が立つ。そういう都合のいい人がね」
「利用したかったと」
「否定はしませんとも」ニヤは悪びれもせず微笑み、それからふとその瞳に別の色を滲ませた。「……でも、それだけじゃないんですけどね。まあそれはまた今度」
ウェッブは二枚の和紙を机の上でそっと繋ぎ合わせた。完全な脅迫状がそこに復元される。彼はそれを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。
そして言った。
「先に言っておく。俺はまだ、この脅威が実在するとすら思っていない」
「……にゃ?」
「大きな催しの前に届く脅迫状の九割は悪戯だ。都市伝説の名を騙れば箔がつく。祭りを潰したい商売敵、騒ぎを見たいだけの愚か者――候補はいくらでもいる」ウェッブは和紙を指した。「一方でこの紙は数十年物、書き手の手は今の生徒のものじゃない可能性が高く、文面は隠されたはずの二十年前の大火を正確に踏んでいる。悪戯にしては手が込みすぎだ。……つまり現時点では、どちらとも言えない。そして、どちらとも言えないうちは兵を動かさない」
「動かさないって……じゃあ、どうするんです?」
「答えるべき問いは三つだ」
ウェッブは指を順に折った。
「一。花鳥風月部は実在するのか。二。実在するなら、それは誰で、どこにいて、何を、いつ、どうやる気なのか。三。それを止める手段は何か。――この三つに憶測ではなく事実で答えが出るまで、俺のやる事のすべてはそのための情報収集だ。答えの出ていない脅威に兵をぶつける。それが一番人を殺すやり方だと、俺は嫌というほど見てきた」
ニヤはしばらくぽかんとしていた。用心棒を頼みに来たはずが、返ってきたのは尋問と講義だった。
「……えっと。それで結局、引き受けては、もらえるんです?」
「その前に一つ聞く。治安維持組織はどうした。この手の脅威に対処するのは警察か風紀委員会か――お前たちの言う『百花繚乱』の仕事だろう」
その名を出した瞬間、ニヤの表情から今度こそ完全に軽薄さが消えた。
「……ご名答。でも無理なんです。百花繚乱紛争調停委員会は――先月、正式に解散宣言を出しました。委員長は失踪。副委員長も雲隠れ。幹部は散り散り。今あの委員会に残っているのは、たった一人の一年生だけ。看板だけが空っぽの部室に飾ってあるんですよ」
ウェッブは繋ぎ合わせた和紙からゆっくりと視線を上げた。
その頭の中では、もう別の言語で状況が組み立てられ始めていた。二十年ぶりの祭りを控えた自治区(ホスト国)。内部の防衛と開発(IDAD)を担うべき治安維持組織の完全な機能不全。生じた統治の空白。そこに滑り込む正体不明の脅威と、肥え太る無法者ども。
彼が過去に嫌というほど叩き込まれ、そして世界中で目撃してきた「国家崩壊のシナリオ」の雛形そのものだった。
「先生」ニヤが珍しく真っ直ぐな声で言った。「祭りの間だけでいいんです。この街を守ってもらえませんか。もちろん、報酬は弾みます」
ウェッブはしばらく黙っていた。
彼は「守る」という言葉を信用しない。誰かのために引き金を引く仕事はいつも同じ結末――死体の山とAARの『Casualties』欄の数字――に行き着くことを、身体で知っていたからだ。
だが。
(――俺が脅威を潰せば今回の祭りは守れる。だが来年は? 再来年は? 俺がいなくなった後、この街にはまた誰もいなくなる)
ウェッブは椅子の背にもたれ、目を閉じた。脳裏に遠い日に叩き込まれた教義の一節が機械的に再生される。
――外国内部防衛(Foreign Internal Defense)。ホスト国がその社会を転覆、無法状態、暴動、テロから守り抜けるよう、外部から評価し、訓練し、助言し、支援する。決して代わりに戦ってやることではない。彼らが自分たちの手で立てるようにすることだ。
「……ニヤ」ウェッブは目を開けた。「引き受けよう。ただし、条件が二つある」
「…はあ」
「一つ。封印文書を含め、陰陽部が持つ二十年前の記録のすべてに俺のアクセスを認めろ。隠し事はここまでだ。次にどこかが鋏で切り落とされていたら、その時点で俺は降りる」
「……ええ」ニヤは首をすくめた。「もう先生相手に隠し事はしませんよぉ。割に合わないってよーく分かりましたから」
「二つ。俺は花火を止めるだけの用心棒(ボディーガード)としては雇われない。俺はこの街の『崩れた城壁』そのものを立て直す。潰れた百花繚乱をもう一度機能する組織に戻す。――三つ目の問いの答えを先に言えば、この脅威が本物だった場合、それを止めるのは最終的には俺じゃない。あの子たち自身だ」
ニヤはしばらくぽかんとしていた。それから心底おかしそうに、しかしどこか感嘆したように、ふっと笑った。
「……先生って本当に変な大人ですねぇ。用心棒を頼んだら、尋問されて、講義されて、挙句に百花繚乱の再建計画が返ってくるなんて」
「安く済む」ウェッブは書類の山を脇へ寄せ、代わりに一枚の白紙を引き寄せた。「用心棒は雇い主が金を払い続ける限りしか働かない。だが組織は、正しく作れば勝手に育つ」
彼はペンを取り、白紙の一番上に乾いた筆致で英語の一語を書きつけた。
――《ASSESSMENT》(評価)。
その下に、三つの問いを短く書き連ねる。実在。正体。手段。すべての作戦は、まずここから始まる。
「まず現地を見る。話はそれからだ」
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【百鬼夜行連合学院 中央商店街】
ウェッブが百鬼夜行の地を踏んだのはその日の夕暮れだった。
彼は観光客の一人としてゆっくりと商店街を歩いた。だがその散策は彼にとっては純然たる作戦行動――偵察による「地域評価(エリア・スタディ)」だった。
(地形。道幅は狭く路地が毛細血管のように入り組んでいる。祭りの当日は身動きが取れなくなる。人混みはテロリストにとって最高の隠れ蓑であり最悪の被害増幅装置だ)
彼の目は賑わいの裏にある構造を剥き出しにしていく。
(花火の打ち上げ台は天守閣の広場。あそこが最終目標地点だろう。だが……)
視線が商店街の一角で止まる。老舗の団子屋の主人が面をつけた不良の一団に小銭の入った封筒を渡していた。主人の顔には諦めきった愛想笑いが貼りついている。不良たちは当然の権利のように封筒を受け取り次の店へと流れていく。
(みかじめ料、しかも公然と。誰も止めない。止められる者がいないからだ)
そしてもう一つ、彼の目に引っかかった小さな棘があった。
軒先の提灯を一つひとつ検分して回る、祭り装束の女。所作は完璧に「祭りの手伝い」のそれだった。――だが完璧すぎた。荷の持ち方に癖がなく、視線の走らせ方が点検ではなく測量のそれだった。ウェッブが屋台一つ分だけ視線を外し、戻した時、女はもう雑踏のどこにもいなかった。
人混みの中で人が消えるにはそれなりの訓練が要る。
彼は女の顔ではなく、その「消え方」だけを記憶の棚に載せた。
商店街を三十分歩いただけでウェッブは百鬼夜行の「病状」をほぼ正確にカルテに書き起こしていた。
無法者は組織化されている。住民は完全に無力化され依存を通り越して諦観に至っている。そして――かつて存在したはずの治安維持機構は跡形もなく蒸発している。
これは単発のテロ事件ではない。この自治区は長い時間をかけて静かに「失敗国家(フェイルド・ステート)」へと傾きつつある。花鳥風月部はその傾いた地盤に打ち込まれる最後の楔にすぎない。
(症状を叩いても意味はない。病巣を治す。それがFIDの原則だ)
そしてウェッブが路地の突き当たりでまさにその「病巣」と「わずかな希望」の両方を同時に見出したのはその直後だった。
少女が六人――否、増え続ける不良たちに囲まれ単身で立ちすくんでいた。
「それでも身共は……一人でも……っ」
ウェッブは屋台の陰からなおも数秒動かなかった。
冷酷なのではない。評価しているのだ。あの少女は撃てるのか。撃たないならなぜ撃たないのか。その判断は彼女が「素材」として使えるかどうかの最初の試金石だった。
そして彼は見た。ユカリが明確に人を撃てる射線を得ながらあえて引き金を絞らず代わりに一発を石畳へと撃ち込んで威嚇した瞬間を。無力ゆえの躊躇ではない。無辜を撃たないという意志による躊躇だった。
(――撃てるのに撃たない。理由があって撃たない)
それはかつてのウェッブ自身がウォンボーシのクルーザーで子供の瞳を前に凍りついたあの夜に失いかけたものだった。
ウェッブの評価はその瞬間に確定した。
「――距離を取れ」
低い声が路地に滑り込んだ。
不良たちが振り返るより早くウェッブはすでに彼らの隊列の側面に入り込んでいた。銃は抜かない。抜く必要がない。手近の屋台から掴み取った祭りの木製の擂粉木(すりこぎ)が彼の手の中で完璧な近接武器に変わっていた。
先頭の一人の手首の関節を体重を乗せて的確に極める。悲鳴。武器を落とす。ウェッブはそれを蹴り上げて後方へ流し返す動作で二人目の膝の外側を払い、体勢を崩した相手を三人目の突進の軌道へと押し込んだ。
無駄がない。派手さもない。ただ人体の構造と物理法則を冷徹に正確に運用するだけの動き。数秒後には不良の半数が石畳に転がり、残る半数はこの寡黙な大人の男から漂う「格が違う」という本能的な恐怖にじりじりと後退していた。
「――ひ、引くぞ! こいつヤベえ!」
面の生徒が叫び不良の一団は蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
後に残ったのは荒い呼吸のユカリと、擂粉木を静かに屋台へ返す見知らぬ男が一人。
「あ、あの……! お助けいただき感謝いたしますわ……って、あら? その擂粉木、屋台の団子屋さんの……後でちゃんとお返し、いえお代を……!」
危機を脱してなおまず借り物の心配をするその律儀さにウェッブはわずかに眉を動かした。悪くない性根だと評価に一行加える。
「怪我は」
「へ、平気ですわ。身共は百花繚乱いちのえり~と。この程度の窮地――」ユカリはそう言いかけてはたと男の顔をまじまじと見た。そして何かを思い出したようにみるみる顔を青ざめさせた。「……そのお待ちを。もしやあなた様は……巷で噂のシャーレの……『親切なふりをして恩を売りつける危険な大人』……!?」
ウェッブはその突飛な警戒に初めてわずかな面食らいを覚えた。だが否定はしなかった。むしろ――
(悪くない直感だ)と彼は内心で思った。恩を売って相手を操縦するのはまさに彼が工作員として叩き込まれた技術そのものだったからだ。この少女は無知だが鈍くはない。
「先生でいい」ウェッブは短く言った。「話を聞かせてくれ。この街とお前たちの委員会について」
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祭りの提灯の下、ユカリは警戒しながらも命を救われた恩義には報いねばとぽつぽつと語り始めた。
歩きながら聞き出したそれはウェッブにとって一枚の完璧な「インテリジェンス・レポート」を編み上げていく作業だった。彼は相槌を打ちながら少女の言葉の端々から組織の骨格とその骨折の箇所を正確に抽出していった。
百花繚乱紛争調停委員会。この街を築いた伝説の初代委員長クズノハが創設した唯一無二の治安維持機構。各勢力の争いを「力と権威」で仲裁し二十年間自治区の平和を支えてきた。
「……ですが」ユカリの声が沈む。「先代の委員長、七稜アヤメ様がある事件で姿を消してしまわれてからすべてが狂ってしまいましたの。副委員長のナグサ様は委員長代理を務めるもやがて重責に耐えかねてか忽然と姿を消され……作戦参謀のキキョウ様はついに正式な『解散宣言』を。切り込み隊長のレンゲ様に至っては玄関に『青春を取り戻す旅に出る』などという書き置きを残して行方知れずですわ」
ウェッブはそれを聞きながら診断を下していた。
(――一人の天才(アヤメ)を組織の中心に据えすぎた)
これは彼が世界中の脆弱な治安部隊で何度も見てきた致命的な欠陥だった。
カリスマ的な指揮官個人に組織のすべてが依存する。その指揮官が倒れれば組織は骨格を失い瞬時に瓦解する。制度も下士官(NCO)の背骨も共有された作戦の型(ドクトリン)もない。あるのは「委員長ならなんとかしてくれる」という根拠のない信仰と継承戦という名の――
「継承戦というのは何だ」ウェッブは尋ねた。
「委員長の座を懸けた一対一の決闘ですわ。伝統の儀式ですの。より強き者がより上に立つ。それが百花繚乱の掟でして」
(――決闘。個人の武勇の見せ合い。近代戦の対極だ)
ウェッブの中で診断が完結した。
この組織は強いのではない。「強い個人」の寄せ集めにすぎない。彼女たちは一人ひとりが優れた狙撃手だ。だが火力を統合する術も機動と射撃を連携させる術も指揮系統も共有された戦術の言語も持たない。兵法書の格言と個人の天賦の才と決闘の伝統。それだけで二十年辛うじて回してきた。
そして要石だったアヤメが抜けた瞬間アーチは崩れ落ちた。当然の帰結だった。
「身共は」ユカリが握りしめた拳を震わせた。「もう一度百花繚乱を取り戻したいのですわ。ナグサ様に継承戦を挑み身共が新たな委員長となって……もう一度あの憧れの皆が笑い合えた頃の百花繚乱を……! ですがレンゲ様にもキキョウ様にも『もう死んだ組織だ』とけんもほろろに突き放されてしまって……」
彼女の瞳には涙が滲んでいた。だがそれでも折れていない。何度突き放されても前だけを向く不屈の瞳。
彼はその瞳を見た。
そして――久しく忘れていた感覚が彼の胸の底で静かに動いた。
かつてマリーが暗殺者だった彼を見捨てなかった夜。連邦生徒会長が川の底で「あなたにしかできない選択がある」と告げたあの光の中の記憶。それらと同じ微かな熱。
「ユカリ」
「は、はい」
「お前は間違っていない」
ウェッブの声はいつも通り低く平坦だった。だがその一言にユカリの目が大きく見開かれた。
「憧れを取り戻したいという願いは正しい。だが――やり方が古い」ウェッブは続けた。「継承戦で委員長になってもお前は二人目のアヤメになるだけだ。そしてお前が倒れれば組織はまた崩れる。同じことの繰り返しだ」
「そ、それは……では身共はどうすれば……」
ウェッブは遠く天守閣の広場に組まれ始めた巨大な花火の打ち上げ台を見上げた。
そこが花鳥風月部の狙う「最終目標」。そして彼がこれから立て直す「城壁」がいずれ守り抜かねばならない場所。
「組織を個人の武勇から制度の上に建て直す。一人の天才ではなく百人の凡人でも回るように作り変える。……それが俺の専門分野だ」
彼はユカリに向き直った。
「散り散りになった仲間をもう一度集める。継承戦のためじゃない。組織を再建するためだ。まずは要となる人間から探す。――消えた副委員長。御稜ナグサ。彼女がどこにいるか心当たりは」
「ナグサ様を……? で、ですがナグサ様はもう百花繚乱を捨てたと……」
「捨てた人間ほど本当は捨てきれていない」ウェッブは静かに言った。彼自身がジェイソン・ボーンという名を捨てきれなかったように。「彼女はまだこの街の近くにいる。逃げた人間は遠くへは行けないものだ。特に心を置いてきた場所からは」
その断言にユカリは息を呑んだ。
「先生……あなた様は一体……」
ウェッブは答えなかった。ただ灯籠の街の空を見上げ繋ぎ合わせたばかりの脅迫状の一文を胸の内で反芻した。
――百鬼夜行は炎に包まれて燃え上がらん。
(炎はまだ上げさせない)
彼の脳内の作戦盤(オペレーション・ボード)の上で駒が並び始める。崩れた城壁の再建計画。そのフェーズ1――《評価と鍵となる要員の確保》。
その最初の一手が今決まった。
失踪した副委員長を見つけ出す。
「行くぞユカリ。仕事の時間だ」
寡黙な元工作員と憧れを捨てられない少女は灯籠に照らされた夜の街へと歩き出した。
二十年ぶりの祭りまであと一か月。
崩れ落ちた城壁をゼロから築き直すにはあまりにも短く――そして一人の男がその過去のすべてを賭けて挑むには十分すぎる時間だった。