『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
晄輪大祭の準備は、ミレニアムらしく緻密だった。
「物資リスト、最終確認です。……先生!また用途不明の無駄遣いをして!と言いたいところですが、ここ、紅茶セットの数量が一つ多いようですね」
極めて理性的で計算高く、セミナーの財布を握る早瀬ユウカが、少しツンツンしつつもハキハキとした丁寧な口調で首を傾げる。
「追加発注じゃないか?」
「記録にはありません。Q.E.D、妙です」
その横で、便利屋68のアルが箱を持ち上げた。
「ま、サービスってことじゃない? 紅茶は高級品だし~」
「……見せてみろ」
ウェッブはアルから箱を受け取った。その瞬間、彼の脳内に組み込まれた『工作員としての機能』が、無意識に警鐘を鳴らす。
外箱のシュリンクフィルム。一見完璧だが、底部にある熱溶着のラインが、他の正規の箱と比べてわずかに歪んでいる。極細の注射針か何かで開封され、再接着された痕跡(トレードクラフト)。
「アル、それを開けてみよう」
ウェッブはペーパーナイフで慎重にフィルムを切り、箱を開いた。
高級な紅茶の芳醇な香り。だが、ウェッブの鼻は、その奥に潜む「異臭」を捉えていた。
(……オゾン?)
雷雨の後のような、特有の焦げた匂い。
極めて強力な放射線源が密閉空間に置かれた時、大気が電離して発生する化学的痕跡だ。さらに、ウェッブの視力は、一番上にあるティーバッグの茶葉の周囲だけが、微かな熱を帯びて変色しているのを見逃さなかった。
「待て。Touch it not(触るな)」
ウェッブの声が低く、鋭くなる。ユウカが眉をひそめた。
「先生?」
ウェッブはすぐさま引き出しを開け、ミレニアムのエンジニア部(白石ウタハ)に特注させていた大掛かりな環境測定器の中から、アルファ線検知用の「パンケーキ型GM(ガイガー・ミュラー)管」を引き抜いた。
「先生、通常の放射線チェックなら先ほどゲートで……」
「透過力の弱いアルファ線は、パッケージの外からは検知できない。だが、直接当てれば別だ」
ウェッブはプローブの先端を、むき出しのティーバッグからわずか数ミリの距離まで接近させる。
ピガガガガガガガガガッ!!
静まり返った執務室に、耳障りなアラーム音がけたたましく鳴り響いた。線量計のカウンターが異常な数値を叩き出す。
「……ビンゴだ」
「え、ええっ!? そんな……私たちが運んだものに!?」
アルが血の気を引かせて後ずさる。
「ポロニウム210。気化させて吸い込むか、経口摂取させるための致死量のアルファ線源(毒)だ」
ウェッブの脳が、瞬時に状況を逆算する。
毒物を使った暗殺は確実だが、効果が出るまでに数週間かかる遅効性の手段。敵が「今日」標的を仕留めたいなら、これはただの陽動、あるいはFSB(ロシア連邦保安庁)の仕業に見せかけるための偽装(フォールス・フラッグ)に過ぎない。必ず、即効性のある予備のプラン(爆破や狙撃)があるはずだ。
「このケータリング、他にもどこへ運んだ?」
ウェッブの声は絶対的な強制力を帯びていた。
「れ、連邦生徒会事務局にも同じセットを……依頼通りに……」
その瞬間、ウェッブの思考が加速する。脳内地図が展開される。D.U.シラトリ区、連邦生徒会事務局まで最短十五分。防衛室室長である不知火カヤのスケジュールでは、彼女は今から五分以内に視察へ出発する。
「連邦生徒会に連絡しろ。その紅茶は飲むなと伝えろ」
言い捨てると同時に、彼は走り出していた。ジープ・ラングラーに飛び乗り、急発進する。
ウェッブはアクセルを床まで踏み込んだ。
脳内地図が展開される。現在地からD.U.シラトリ区、連邦生徒会事務局まで、最短ルートで十五分。だが、記憶にあるカヤのスケジュールでは、彼女は二十分後に区内のイベント視察へ出発する。
移動時間を考慮すれば、彼女が車に乗り込むのは――今から五分以内だ。ウェッブはアクセルを床まで踏み込んだ。タコメーターがレッドゾーンへ跳ね上がる。片手でハンドルを制御しながら、もう一方の手で端末を操作する。カヤの番号。
――『ただいま、電話に出ることが……』
留守番電話。通信障害か、あるいはジャミングか。舌打ちし、ヴァルキューレ公安局へ緊急コードを送信する。だが、間に合う保証はない。敵はプロだ。紅茶が失敗した時のために、必ず「動的な」罠を仕掛けている。
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ヴァージニア州ラングレー。CIA本部地下四階、対外影響作戦室。
無機質なブルーの蛍光灯に照らされたノア・ヴォーゼンで作戦部長の顔は、スクリーンの光を反射して鉄のように硬く強張っていた。
「ターゲット、シャーレオフィスから移動を開始。時速百四十キロ。D.U.シラトリ区へ向かっています」
分析官の報告を聞きながら、ヴォーゼンは忌々しげに拳を握りしめた。
ジェイソン・ボーン――いや、デイヴィッド・ウェッブ。その名を聞くだけで、彼の胃の奥は焼け付くような怒りで満たされる。
トリノでの狙撃失敗、マドリードでの隠れ家強襲での失態、ニューヨークでのニアミス。これまで幾度となく奴を葬る機会がありながら、その都度、奴の規格外の即応能力と生存本能によって、完璧な作戦網をズタズタに引き裂かれて逃げられてきた。
「クソっ、気づかれたか……」
「FSBの手口に見せかけた暗殺計画は失敗です。どうしますか、部長?」
ヴォーゼンは冷酷に、そしてかつてない執念を瞳に宿して即断した。
「これ以上、あの男を自由にさせておくわけにはいかん。キヴォトスという檻ごと、今度こそ奴の息の根を止める。プランBへ移行しろ。現地班、重装SUV部隊を動かせ。標的の不知火カヤもろとも、物理的に排除(リクイデイト)する」
「しかし部長、公衆の面前での大規模な戦闘はリスクが大きすぎます!」
「黙れ! 奴を仕留めるためなら、地方自治体の機能が一つや二つ消し飛んでも構わん! やれ!」
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同じ頃、D.U.シラトリ区――連邦生徒会事務局の正面広場。
「……はぁ。まったく、防衛室の書類仕事というのは、どうしてこうも非合理的なものばかりなのでしょうね」
不知火カヤは、パールの施された手帳を閉じながら、小さく溜息を吐いた。おっとりとしたお嬢様風の丁寧な口調を保ってはいるが、レンズの奥の瞳には、連日の休日出勤によって生じた薄いクマが浮かんでいる。
彼女はこれから、自分の手駒として管理しているSRT特殊学園のFOX小隊、および治安維持の末端であるヴァルキューレ警察学校への非公式な巡回に赴く予定だった。
「キヴォトスには、私のような規律を統制できる超人が必要なのです……ふふっ」
そう自嘲気味に呟きながらも、彼女の脳裏には、どうしても一人の男の顔が浮かんで離れなかった。
シャーレの顧問、デイヴィッド・ウェッブ。
カヤが自身の出世と歪んだ理想のために裏で引き起こしたあくどい計画を、彼は完璧な諜報術で完全に看破し、文字通り「手荒な方法」で叩き潰した。命の危険すら感じるほどの冷徹な銃口、そして大人の冷酷さと合理性をもって、彼女の欺瞞を徹底的に叱り飛ばした男。
キヴォトスの誰もが、連邦生徒会のエリートである自分に阿慮し、腫れ物に触れるように接する中で、本気で彼女の「悪事」を怒り、一人の人間として正面から叱ってくれたのは、後にも先にも彼だけだった。
カヤが彼に抱く感情は、生存を脅かされるような底知れない「畏怖(恐怖)」であり――そして同時に、生まれて初めて自分の存在を直視してくれた大人に対する、ひどく不器用で歪んだ「恋慕」だった。
「先生……あなたは今、何をしているのでしょうか……」
カヤが白い公用セダンのドアノブに手を伸ばし、電子ロックを解除した、その瞬間だった。
キィィィィィィィアッ!!
鼓膜を裂くようなスキール音を立てて、黒いジープ・ラングラーが歩道に乗り上げ、コンクリートの縁石を粉砕しながら広場へ突っ込んできた。運転席から飛び出してきたのは、他ならぬウェッブだった。
「え、先生……っ!?」
カヤが驚きに目を見開いた瞬間、ウェッブの強靭な腕が彼女の細い胴体を容赦なく抱え込み、ラグビーのタックルのように力任せに引き戻した。
「乗るな!!」
ウェッブが叫ぶと同時に、二人の身体はアスファルトの上を激しく転がった。
直後、カヤが乗るはずだった公用車の内側から、凄まじい衝撃波と炎が噴出した。
ドガァァァァァン!!
燃料タンクと仕込まれたC4爆薬が同時起爆し、公用車は一瞬にして巨大な火の玉と化した。吹き飛んだボンネットが、二人が数秒前までいた場所に垂直に突き刺さる。
「きゃあぁぁっ!?」
爆風の熱波が背中を襲い、カヤはウェッブの胸の中に押し込められたまま、恐怖でヘイローを激しく明滅させた。
「立て! 走るぞ!」
ウェッブは朦朧とする爆鳴を頭振って振り払い、腰を抜かしているカヤの手首を掴んで強引に引きずり起こした。そのまま彼女の身体をジープの助手席へと放り込む。
「せ、先生……! 私の車が……! 一体何が起きているのですか!?」
自身の能力を過信し、超人を自称していたカヤだったが、文字通り死の直線を踏み越えかけた恐怖と、想定外の事態の連続に、いつもの余裕は完全に消え失せて大慌てしていた。
ウェッブはギアシフトをローに叩き込み、クラッチを繋いだ。
「君がターゲットだ。――プランBが始まった」
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「ターゲットの公用車爆破を確認。しかしボーンが接触、不知火カヤを回収して逃走中!」
ラングレーの分析官の叫び声が響く。ヴォーゼンは冷徹に画面を見据えた。
「現地班、全車追跡を開始しろ。逃がすな」
大通りに出たジープの背後に、漆黒の大型重装SUV・シボレー・タホが3台、猛烈な加速で食らいついてきた。
カヤがバックミラーを見て息を呑む。
「な、何ですか、あの不気味な車は……! 連邦生徒会の警備車両ではありません!」
PMCの隊員たちがタホのウィンドウから身を乗り出し、銃身を切り詰めた自動小銃を突き出す。
タタタタタタタタタッ!!
「頭を下げろ!」
ウェッブは叫び、カヤの頭を助手席のダッシュボード下へ容赦なく押し込んだ。カヤは自分の頭を両手で抱え、ジープの床に身を縮める。彼女のすぐ上で、リアウィンドウが激しい音を立てて粉砕され、強化ガラスの破片が鋭い散弾となって車内に降り注いだ。
(――先生が、私を護っている……?)
死の恐怖の中、カヤの胸の奥で、奇妙な高揚感と切なさが混ざり合う。彼は自分のために、世界で最も危険な敵と戦っているのだ。
ウェッブの脳は、すでに常人の思考速度を遥かに超えていた。バックミラーに残った破片で後続車の車間距離を測る。
敵の1番機がジープの右後方に並びかけ、ピットマヌーバ(後輪を引っ掛けてスピンさせる戦術)を仕掛けようとしていた。
「誘い込んでいるな」
ウェッブはあえて速度を微調整し、敵のフロントバンパーがジープのリアフェンダーに接触した刹那、マニュアルのシフトレバーをセカンドに叩き込み、ハンドブレーキを激しく引いた。
ジープの巨体が、慣性を無視したような鋭い挙動でテールを右に振る。
ガシャァァァン!!
ジープの頑強なスチール製リアバンパーが、タホのフロントホイールハウスに完璧な角度で激突した。サスペンションが破壊された敵のSUVは、時速120キロのままコントロールを失い、横転。火花と激しい金属音を撒き散らしながら、後続の2番機を巻き込んで対向車線へと転がっていった。
「クソッ、1番機、2番機が脱落! ターゲットは市街地西側、3号ルートへ逃走中!」
ラングレーの分析官が叫ぶ。「ハッキング班、周辺のインフラを全て押さえろ! 奴の進路上の全信号を赤に固定! 通信も完全に遮断しろ!」
前方の巨大交差点。青だった信号が、黄色を挟まず唐突に赤へと変わった。同時に、左右の幹線道路から大型トレーラーや路線バスが押し寄せてくる。カヤの持つ連邦生徒会用端末の画面も「圏外」に切り替わり、逃げ場を失った車列がクラクションの嵐を巻き起こす。
さらに、ウェッブの動体視力は、十一時の方向――地上30メートルの雑居ビル屋上で、一瞬だけきらめいた「光学照準器の反射」を捉えていた。
(スナイパー。弾道計算――直線。防弾ガラスでは防げない五十口径徹甲弾だ)
「先生、前! トラックが……! それに赤信号です!!」
カヤの悲鳴が車内に響き渡る。
だが、ウェッブの右足はアクセルをさらに深く床まで踏み込んだ。彼の目は、迫り来るトレーラーの速度、交差点の侵入角度、迅速な回避に必要なコンマ数秒を完璧に演算していた。
(今だ――!)
弾着の瞬間、ウェッブはハンドルを左へ猛烈に切り、さらに右へ切り戻した。
ジープが激しく車体をロールさせ、斜めにスライドする。
パンッ!!
空気を切り裂く重低音。直後、ウェッブの頭部が数センチ前にあった空間を、超音速の徹甲弾が駆け抜けた。狙いを外された弾頭は、ジープを猛追していた残り1台の敵SUVのエンジンブロックに直撃する。
ボンッ!!
大爆発を起こしたSUVが、そのまま慣性で左右から交差点に進入してきた大型トレーラーの側面に突っ込み、ストリートを完全に封鎖する巨大な鉄の壁と化した。
ジープはその爆煙の僅かな隙間、大型バスのバンパーから僅か数センチのクリアランスを、紙一重で、滑り抜けた。
ガシャァァンと背後で響く大クラッシュの音を置き去りにし、ジープはD.U.シラトリ区の裏路地へと消えていく。
「……終わったな」
ウェッブがステアリングを握ったまま、血の気の引いた冷酷なトーンで呟いた。
助手席の床に身を縮め、両手で頭を抱えていた不知火カヤの身体が、その言葉を聞いた瞬間に大きく跳ね上がった。
おそるおそる顔を上げた彼女のヘイローは、激しく明滅し、今にも消え入りそうなほどに歪んでいる。いつも優雅に整えられているはずの髪は乱れ、コンクリートに転がった際の泥と硝煙の汚れが白い肌に無残に残っていた。眼鏡などかけていない彼女の大きな瞳には、涙が溢れんばかりに溜まり、視線はウェッブの横顔に釘付けになっていた。
その瞳の奥で、何かが完全に決壊した。
「な……何なのですか、あなたは……! 一体、何なのですか、デイヴィッド・ウェッブ!!」
カヤの声が、薄暗い裏路地に響き渡った。いつもおっとりとしたお嬢様風を装っている彼女からは決して想像もつかない、理性をかなぐり捨てた、むき出しの悲鳴だった。
「いつも、いつも、いつも……! あなたという人は、私の前に現れては、私の想定を、私の完璧な計画を、超人としての私の規律を、めちゃくちゃに引っかき回して……!」
彼女はシートから身を乗り出し、ウェッブの黒いフライトジャケットの胸元を、震える両手で力任せに掴み取った。
「なぜ貴方が持って帰ってくる事案は、いつもこうも命がけで、泥臭くて、非合理的なのですか! 私がこれまでどれだけ、あなたのせいで裏の処理に胃を痛めてきたと思っているのですか!?」
ウェッブは反論せず、ただ凍りついた碧眼で、感情を氾濫させる少女を静かに見つめていた。その温度のない視線が、さらにカヤの心を激しくかき乱す。
「それに……! なんですか、先ほどの回避は……っ!」
カヤの瞳から、大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、ウェッブの胸元を濡らしていく。
「あとコンマ数秒、あと数センチずれていたら……あなたの頭は、私の目の前で消し飛んでいたのですよ!? なぜ、そんな死線を踏み越えるような真似を、そんな平然とした、何も感じていないような顔で行えるのですか……っ!」
掴んだ指先が白くなるほどに力がこもる。カヤの全身は、怒りと、そしてそれ以上に深い「恐怖」でガタガタと震えていた。自分を本気で叱り、キヴォトスで唯一、一人の人間として直視してくれた大人。その絶対的な存在が、自分の目の前で呆気なく物言わぬ死体に変わってしまうかもしれないという理不尽な不安が、彼女の胸を限界まで締め付けていた。
「もし……もし、あなたがそこで死んでいたら……私は……私は一体、どうすればよかったのですか……!!」
カヤはウェッブの胸に額を押し付け、子供のように声を上げて泣き崩れた。
連邦生徒会のエリートとしての誇りも、他者を見下す傲慢さも、すべてが先ほどの弾雨と、この男に対するどうしようもない感情の渦に溶けて消えていた。
ウェッブはしばらく無言のまま、自分の胸で慟哭する少女のヘイローを見つめていた。やがて、彼はカヤの手首を優しく、しかし確実に掴むと、静かに自分の身体から引き離した。その動きには、暗殺者としての冷徹さと、大人としての微かな配慮が同居していた。
「すまない、カヤ」
ウェッブは短くそう言うと、バックミラーに視線を戻した。
涙に濡れた顔を上げたカヤは、自分の手首に残る彼の掌の熱を実感しながら、荒い呼吸を繰り返した。自身の能力を過信していたポンコツな少女の胸の奥には、彼に対する底知れない畏怖と――そして、もはや恐怖と区別のつかない、狂おしいほどの恋慕の烙印が、一生消えない深さで刻み込まれていた。
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事件の直後、現場はSRT特殊学園のヘリと、ヴァルキューレ警察学校のパトカー部隊によって完全に包囲された。カヤとウェッブは直ちに保護され、治安維持上の「重大テロ案件」として、ヴァルキューレ公安局の地下深くにある取調室へと連行された。
鉄格子の向こう。コンクリート剥き出しの薄暗い部屋には、1つの机と2つの椅子、外光を遮断したマジックミラー、そして作動中を示す赤いランプを灯したレコーダーだけが置かれていた。
カツ、カツ、と硬いブーツの音が響き、重厚な鉄扉が開く。
入ってきたのは、ヴァルキューレ公安局長――尾刃カンナだった。世間から「狂犬」と恐れられる彼女は、一切の感情を削ぎ落とした鋭い眼光を崩さないまま、ウェッブの対面に腰掛けた。
カンナは机の上に、少し冷めたコーヒーの入った紙コップを無造作に置くと、手元のレコーダーの録音プロトコルを起動した。
「……これより、シャーレ顧問デイヴィッド・ウェッブに対する、D.U.シラトリ区爆破テロに関する任意聴取を始める」
低く硬い、規律正しい警察官口調。一切の私情を排したその声は、冷たいコンクリートの壁に反響する。だが、一通りの定型文を述べ終えた次の瞬間、カンナは躊躇うことなく手を伸ばし、録音ボタンを力任せに押し込んでレコーダーを強制停止させた。赤いランプが消え、室内に重苦しい静寂が戻る。
カンナは小さく、深くため息を吐くと、眼鏡の位置を直し、仕事用の威圧感をわずかに緩めた。それは、過労気味の時や、信頼する先生の前でだけ見せる「鎧を外した」素の表情だった。
「……形だけの公務はここまでです。私を騙そうとしても無駄ですよ、先生」
ウェッブは手錠をかけられた両手を机の上に置いたまま、表情を変えずにカンナを見つめた。
「普通の下級捜査官が見れば、あなたの行動は完全に『容疑者』のそれだ。パッケージの外からは検知できないはずのポロニウム210を直感だけで看破し、防衛室長を救出。さらに、インフラを完全に制圧した重装部隊のキルチェーンを、事前に動きを知っていたかのように翻弄した。あまりにも出来過ぎている」
彼女はそこで一度言葉を区切り、碧眼の男をまっすぐに見据えた。
「だが、私はあなたの傍で、その驚異的な洞察力と、人間離れした鋭い直感を何度も見てきた。あなたがキヴォトスの平和を脅かすテロの首謀者などではないことは、私が一番よく知っている。……だからこそ、この事件の『数字』が歪んで見える」
カンナは手元のタブレットに、現場から回収された重装SUVの残骸や、毒物の分析データを表示させる。その手つきは極めて実務的で冷静だった。
「使用された毒物はポロニウム210。さらに、軍隊並みの戦術統制を展開した謎の民間軍事会社(PMC)。……こんな芸当、キヴォトスの商業網を牛耳るカイザー・コーポレーションの器ではありません。彼らにはこれほどの電子戦能力も、暗殺の技術もない。カイザーの背後には、本物の『黒幕』が潜んでいる」
「君の見立ては?」ウェッブが初めて口を開いた。低い、温度のない声。
「国家規模のインテリジェンスの介入だ。……それも、旧連邦圏の『ロシア連邦保安庁(FSB)』の影を疑っている」
カンナの言葉に、ウェッブの眉が僅かにピクリと動いた。
「あのポロニウムを用いた暗殺は、かつて彼らが東欧の冷戦期から得意としていたお家芸だ。周到な襲撃計画、目撃者を残さない冷酷さ、すべてがFSBの手口と一致する。……ですが、奴らはあまりにもプロだ。現場には国家の関与を示す物理的な証拠が何一つ残されていない。公安局のデータベースをもってしても、これ以上の追跡は法的に手詰まりです」
カンナはコーヒーに手を付けることなく、机に両手を突き、身を乗り出した。その低い声には、「狂犬」としての執念と、一人の教え子としての必死の想いが混ざり合っていた。
「……先生。私はあなたを理不尽な政治劇の生贄にさせるつもりはありません。私は、あなたを法的に保護するための『大義名分』が欲しい。そのために、ここにいるのです」
不器用なまでに実直な、彼女なりの防衛の意思。カンナの瞳には、先生を護りたいという純粋な焦燥が灯っていた。
「あなたは元外交官だ。そして、今日の敵の動きを完全に予測していた。ポロニウムの痕跡を見た瞬間、あなたはカイザーの背後にいる『本物の化け物』の正体に気づいていたはずだ。……奴らは一体何者なのですか? 誰が、あなたを狙っている?」
カンナの必死の問いかけ。だが、ウェッブの脳裏に浮かんでいるのはFSBの文字ではない。自らを兵器へと解体したアメリカ中央情報局――CIA、ノア・ヴォーゼンの妄執だ。だが、それをこの規律を重んじるヴァルキューレの少女に明かすわけにはいかない。
ウェッブは静かに立ち上がった。手錠の金属音が、薄暗い部屋に冷たく響く。
「……これ以上踏み込むな、カンナ。君の言う通り、奴らは証拠を残さない。それは、目撃者も生かしておかないという意味だ」
ウェッブはドアへと歩き出し、影に沈んだ横顔を僅かに向けた。その目には、教え子に対する、彼なりの不器用な「警告」と、深い拒絶の壁があった。
「君たちの手に負える相手じゃない。自分の防衛ラインだけを維持しろ」
彼は振り返らずに、低い声を部屋に残して去っていった。
「**It's just the beginning.**(これは始まりに過ぎない)」
取り残された取取室で、カンナは深く、重いため息を吐き出した。
拳を痛いほどに握りしめ、背後の暗闇を見つめ続ける彼女の頭上で、ヘイローの光が不穏に揺れていた。夜の帳は、刻一刻と深まっていく。
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ヴァルキューレ公安局による長い尋問は、暗殺の魔の手からデイヴィッド・ウェッブを隔離するための、尾刃カンナの法的な「保護工作」だった。
「……シャーレまで護送する。奴らの監視網がどこまで生きているか分からん。警戒を怠るな」
カンナの低い、焦燥を孕んだ命令の余韻が、パトカーの防弾ガラスに遮られた閉鎖空間に残っていた。赤色灯のサイレンを消したヴァルキューレの車両は、雨に濡れたD・U地区の夜を滑るように走り、シャーレオフィスの車寄せへと滑り込んだ。
パトカーのドアが開き、ウェッブは冷たい夜気の中へと足を一歩踏み出す。
彼の目は、無意識のうちに周囲の環境を走査(スキャン)していた。
シャーレのロビーへと続く、わずか十数メートルのアプローチ。街灯の配置、植え込みの陰、そして――建物の軒下に設置された、連邦生徒会およびシャーレの防犯監視カメラ。
敵(ラングレー)の能力を考えれば、あのレンズの向こう側でヴォーゼンの部下たちが顔認証システムを走らせていると見て間違いなかった。
だが、ウェッブの超人的な空間把握能力は、ある「異常」を捉えた。
ロビーの自動ドアの手前、大型の街路樹が落とす影のわずか二メートル四方のセクター。そこは、三方向のカメラの首振りサイクルが重なることで、数秒だけ物理的な死角が生まれる計算上の「空白地帯」だった。
(いや、違う。カメラのレンズの駆動音がわずかにズレている。何者かがシステムを書き換えたか――)
彼がその空白のセクターに足を踏み入れた、まさにその瞬間だった。
シャーレのロビーから、深夜の帰宅を急ぐ一般職員の雑踏に紛れて、一人の少女が歩いてきた。
特異現象捜査部の和泉エイミ。
彼女は傘も差さず、いつも通りの露出の多い衣服を冷たい夜雨に濡らしながら、ウェッブの左側から音もなく接近してくる。
ウェッブの全身の筋肉が戦闘モードへと瞬時に弾けたが、彼はその衝動を力ずくで抑え込んだ。
エイミの目は、彼を見ていない。視線は虚空へと向けられ、歩調には一切の迷いも、敵意もない完全に機能を最適化された、一個の『運搬体(アセット)』の動きだった。
すれ違う、その刹那。
視線も合わさず、歩みも止めず、言葉すら交わさない。
だが、エイミの右手がウェッブの黒いフライトジャケットの隙間に滑り込んだ。
本の硬質な感触がウェッブの胸元へと滑り込む。
次の瞬間、ウェッブが自動ドアのセンサーを潜り抜けた時、エイミの姿は夜の雑踏と雨の帳の向こうへと、完全に掻き消えていた。
尾行していたヴァルキューレの警官たちはおろか、人工衛星を通じて監視を行っているラングレーのオペレーターでさえ、この一瞬の「物理的な接触」に気づく術はなかった。
ロビーの無機質な蛍光灯の下、ウェッブは歩きながら、ジャケットの内ポケットに収まった奇妙な重量感を確かめた。
(明星ヒマリ……。俺の行動を先読みして、この場所を割り出したのか)
デジタル通信がすべて敵の支配下にあるからこそ、あえて最も古風で、最も確実なアナログ技術(トレードクラフト)を選択する。ミレニアム随一の頭脳を持つ少女が、その全知の学位を「スパイの技術」へと転用したのだ。
ウェッブはエレベーターのボタンを押し、胸元のにそっと触れた。
ラングレーがキヴォトス全域を次の戦場に変えようとしている今、彼の手元には、反撃のための唯一の「暗号表(鍵)」が握られていた。