『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
夜明け前の百鬼夜行は祭りの化粧を落とした素顔を晒していた。
商店街から一本裏へ入った路地の奥、二十年前に廃業した古い呉服屋の蔵。埃と黴の匂いが染みついたその空間にデイヴィッド・ウェッブはたった一晩で「作戦司令室(オプスルーム)」を築き上げていた。
板壁には彼が昨夜のうちに描き起こした百鬼夜行の要図(テレイン・スケッチ)が貼られている。商店街の路地網、天守閣広場の花火打ち上げ台、消防設備の位置、群衆の想定流動経路。その傍らには赤い糸と画鋲で相関図が組まれ、中央には一枚の写真――百花繚乱の集合写真の切り抜きが留められていた。
失踪した委員長・七稜アヤメ。副委員長・御稜ナグサ。作戦参謀・桐生キキョウ。切り込み隊長・不破レンゲ。そして末席の一年生――勘解由小路ユカリ。
「せ、先生……一晩で、こんな……」
蔵に足を踏み入れたユカリがぽかんと口を開けた。彼女は明け方に呼び出され寝ぼけ眼で駆けつけたのだ。
「座れ」ウェッブは振り返りもせず要図の前に立っていた。「今日からお前には俺の『情報源(ヒューミント)』として働いてもらう。この街と百花繚乱を誰よりもよく知る人間としてだ」
「ひゅ、ひゅーみんと……? 何やら難しい横文字ですけれど……身共、お役に立てますの?」
「立てる」ウェッブは断言した。「ナグサを探す。だがたった一人の人間を当てもなく街中で探すのは最も効率の悪いやり方だ」
彼は写真のナグサを指で示した。
「人間はどんなに逃げても必ず『網の目』の中にいる。友人、家族、行きつけの店、幼い頃の思い出の場所。人を捕らえる網とはその人間を知る他の人間たちのことだ」ウェッブはナグサから伸びる赤い糸をレンゲとキキョウの写真へと辿ってみせた。「だからまず網を再建する。散り散りになった幹部をもう一度繋ぎ直す。それがナグサに辿り着く最短ルートであり――同時に崩れた組織を建て直す最初の一手でもある」
一石二鳥というやつだ。ウェッブはそう付け加えなかったが彼の乾いた合理性は常に複数の目的を一つの動作に束ねる。
「つまりまずはレンゲ様とキキョウ様を……!」ユカリの瞳に生気が戻った。「で、ですがお二人ともあれほど頑なに『百花繚乱はもう終わった』と……」
「頑なな人間ほど揺れている」ウェッブは蔵の壁にかけてあった上着を掴んだ。「本当に終わったと思っている人間はそもそも『終わった』とわざわざ口にしない。黙って去るだけだ。……行くぞ。まずは切り込み隊長からだ」
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【修行部・部室】
不破レンゲは道場の畳の上で額に汗を滲ませていた。
「……ふぅ。これぞ大和撫子への道……! アタシ、絶対に素敵なレディーになってやるんだから……!」
彼女の前には正座した膝の上に危なっかしく積み上げられた本の山。頭のてっぺんにはこぼれそうな水を張った小皿が載せられている。所作の美しさを極めるための修行部秘伝の「淑女バランス修行」だそうだ。
「レンゲ様ーっ! ようやく見つけましたわーっ!」
襖を蹴破る勢いで飛び込んできたユカリの声にレンゲの集中が霧散した。頭の小皿が傾き本の山が崩れレンゲはもろとも畳に突っ伏す。
「うわぁっ! ちょ、ユカリ!? せっかくいいとこだったのに……って、なんでお前がここに!」
「レンゲ様、話を聞いてくださいまし! 身共、百花繚乱を――」
「その話ならもう終わりだって言っただろ!」レンゲはガバッと身を起こし決まりの悪さを怒気で塗りつぶした。「アタシはもう百花繚乱の人間じゃない。今はな、失われた青春を取り戻す旅の途中なんだよ! ラノベみたいな甘酸っぱくてキラキラした普通の女子高生の青春をだな……!」
その熱弁をウェッブは戸口に凭れて腕を組んだまま静かに聞いていた。
彼はこの少女を十秒で読み終えていた。
体育会系の張りのある声。だがその語尾はわずかに上ずり視線は時折畳の一点――百花繚乱の羽織が畳まれて置かれたその隅へと泳ぐ。彼女は「青春を取り戻す旅」を語りながら片時もあの羽織から離れられずにいる。
(――逃げているんじゃない。喪に服しているんだ)
指導者を失い後輩を守れなかった自責。それを「青春シンドローム」という道化の仮面で覆い隠している。ウェッブには馴染みの深い防衛機制だった。彼自身が抱えきれない過去を「記憶喪失」という空白で覆い隠して生きてきたのだから。
「……あんた、誰だよ」レンゲがようやくウェッブの存在に気づいて眉をひそめた。「ユカリの連れか? 悪いけど部外者に百花繚乱の話は――」
「不破レンゲ。二年。切り込み隊長」ウェッブは感情を排した声で事実だけを積み上げた。「射撃技術は組織随一。正義感が強く面倒見がいい。後輩の前では鬼教官と呼ばれる。厳しさの根に仲間を守りたいという責任感がある」
「なっ……」
「その責任感が今、宙に浮いている。守るべき仲間がいなくなったからだ。だからお前は意味のない小皿を頭に載せて汗を流している。身体を動かしていないと考えてしまうからだ。――ナグサを、そしてアヤメを救えなかったことを」
道場の空気が凍りついた。
レンゲの顔からみるみる血の気が引き、次いで耐えきれない怒りで赤く染まった。
「――っ、勝手なこと言うな!! あんたにアタシの何がわかる!」
彼女はライフルを掴み銃口をウェッブへと突きつけた。青春の火花――百花繚乱制式ライフル。その手はわずかに震えている。
ユカリが「レンゲ様、おやめください!」と悲鳴を上げる。だがウェッブは微動だにしなかった。突きつけられた銃口をまるで天気の話でもされたかのように静かに見返す。
「撃たないな」ウェッブは静かに言った。「お前は俺が敵か味方かまだ判断がついていない。判断がつかない相手をお前は撃たない。……いい兵士の資質だ」
「……ふざけ……っ」
「もう一つ当ててやろう」ウェッブは続けた。「お前はナグサがどこにいるかうすうす見当がついている。だが探しに行っていない。会いに行けば彼女を責めてしまいそうで――あるいは彼女に責められそうで怖いからだ」
レンゲの銃口ががくりと下がった。図星を突かれた者の無防備な下がり方だった。
「……なんで……なんでそこまで……」
ウェッブは初めて壁から身を起こしゆっくりとレンゲに歩み寄った。そして彼女が畳の隅に置いた羽織を静かに拾い上げその手にそっと戻した。
「今すぐ戻れとは言わない」その声は糾弾の冷たさからわずかに温度を上げていた。「ただこれは捨てるな。喪に服すのはいい。だが服すべき相手がまだ生きているのなら――それは喪ではなくただの逃避だ」
レンゲは羽織を胸に抱え唇を噛んだ。しばらく道場には彼女の荒い呼吸だけが響いた。
やがて彼女は俯いたまま絞り出すように言った。
「……ナグサ先輩は。西区の古い射的場にいるかもしれない。誰にも見つからずに一人で銃の腕を鈍らせないでいられる場所を……あの人はそういうとこを選ぶ。昔から。強がりだから」
それはウェッブが求めていた最初の確度の高いヒューミントだった。
「感謝する」ウェッブは短く頷いた。「もう一つ聞く。この修行部の連中は――」彼は視線を道場の奥でこちらの騒ぎに気づいて起きだしてきた寝ぼけ眼の少女たちへと向けた。眠り姫の部長ツバキ、大和撫子を目指す副部長ミモリ、そして小柄なマスコットのカエデ。「――夜になると街の治安維持のパトロールをしていると聞いた。事実か」
「あ、ああ……ツバキ先輩たちは目立たないけど結構ちゃんとやってる。魑魅一座の見回りとか」
「そうか」
ウェッブはそれだけ言うと道場の全景をもう一度素早く走査した。その頭の中ではすでに新しい駒が盤の隅に静かに置かれていた。
(――使える。夜間パトロールの経験、地域の土地勘。将来、百花繚乱の火力を補完する『増援戦力(オーグメンテーション・フォース)』として訓練の価値がある)
だがそれは今日の議題ではない。彼は踵を返した。
「行くぞユカリ。次は作戦参謀だ」
道場を出る間際レンゲが背中に声を投げた。
「……なあ、あんた」
ウェッブは足を止めた。
「アタシは……戻っていいのか? あんな無様に逃げ出したアタシが、またあそこに……」
ウェッブは振り返らずに答えた。
「戻る場所があるやつが逃げるんだ。本当に何もないやつは逃げることすらできない。……お前にはまだ戻る場所がある。それだけで十分だ」
その言葉にレンゲは羽織をぎゅっと抱きしめ涙が滲むのを堪えるように天井を仰いだ。
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【百花繚乱・調停室】
作戦参謀・桐生キキョウは来訪者を待っていた。
灯の落ちた薄暗い調停室。誰もいなくなった長机の上に彼女は将棋盤のような盤面を広げこけしの駒を並べていた。黒髪と猫耳。組んだ足の上で彼女の指がこけしを一つ静かに弾く。
「――思ったより早かったわね。シャーレの噂の顧問さん」
ウェッブが戸口に立った瞬間彼女は顔も上げずにそう言った。
ユカリが「キキョウ様、なぜ先生のことを……」と息を呑む。ウェッブはその言葉の意味を正確に理解した。この少女は待っていたのだ。彼が来ることを事前に読んでいた。
「調べさせてもらったわ。あなたのことを」キキョウはようやく顔を上げ氷のように理知的な瞳をウェッブに向けた。「ここ数ヶ月キヴォトスの裏側で奇妙な噂が飛び交ってる。ある大人の男がシャーレの顧問に就いてからこの都市の力学が静かに、だけど確実に書き換わっているってね」
彼女はこけしを一つ盤の端に置いた。
「エデン条約の調印式典。本来ならアリウススクワッドとやらの爆破テロで血の海になるはずだった。それが式典の前夜首謀者が『事故』で消え条約は無事に締結された。そしてエデン条約機構が成立した」
もう一つこけしを置く。
「廃校寸前だったSRT特殊学園はなぜか存続した。連邦生徒会防衛室の室長――不知火カヤはある日を境に人が変わったように大人しくなった。あちこちの学園の風紀組織がまるで別物のように鍛え直されて自治区の治安が劇的に改善した」
キキョウは盤上に並んだこけしの群れをすっと手で示した。それらはすべて一人の見えざる手が動かした「布石」を象徴していた。
「――全部あなたの仕業。違う? 名前も顔も表に出さず生徒たちを『駒』として動かし影から力の均衡を操作する。……随分と物騒な『先生』もいたものね」
沈黙。
ウェッブは否定も肯定もしなかった。ただ長机を挟んでキキョウの正面に腰を下ろし盤上のこけしを一瞥した。
「よく調べた」彼は評価した。「情報分析官として優秀だ」
「褒め言葉は要らない」キキョウの声は鋭かった。「本題に入りましょう。あなたはユカリに百花繚乱を再建すると吹き込んだ。そうよね? だから先に言っておく。――無駄よ」
彼女は立ち上がり盤上のこけしをまるで倒れた兵のように一つ、また一つと横倒しにしていった。
「百花繚乱の強さは七稜アヤメというたった一人の天才の上に成り立っていた。彼女がいたから私たちは輝けた。だけど彼女は消えた。副委員長のナグサはアヤメの代役を務めきれずに逃げた。私は現実的な判断として解散を選んだ。……これは感傷じゃない。論理よ。要(かなめ)を失ったアーチは二度と元の形には戻らない。何をどう積み直しても崩れるだけ。それが私の出した『完璧な結論』」
理路整然としていた。冷徹で隙がなく――そして決定的に間違っていた。
ウェッブは横倒しにされたこけしの一つを指先で拾い上げた。
「その分析は七割正しい」彼は静かに言った。「要を失ったアーチは崩れる。それは事実だ。だがお前は一つ致命的な前提を見落としている」
「……前提?」
「『アーチしか作れない』という前提だ」
ウェッブは拾い上げたこけしを盤の中央にまっすぐ立てた。
「お前たちの組織は一人の天才を頂点に据えた『アーチ構造』だった。頂点の石を抜けば崩れる。当たり前だ。だがそれはお前たちがその構造しか知らなかったからだ。――俺は別の構造を知っている」
彼は机の上に指で見えない図を描いた。
「頂点に一人の天才を置くのではなく土台を無数の凡人で組む。個人の武勇に依存するのではなく共有された『型(ドクトリン)』で動かす。誰か一人が倒れても隣の人間がその役割を引き継げるように機能を分散させる。指揮官がいなくても末端の兵士が状況を判断して動けるように判断の基準を全員に叩き込む。――そういう組織は要石を一つ抜かれた程度では崩れない」
キキョウの猫耳がぴくりと動いた。彼女の理知的な瞳の奥で何かが激しく回転を始めていた。
「継承戦でより強い個人が上に立つ。兵法書の格言を暗記する。天才の閃きに賭ける。――それは百年前の戦い方だ」ウェッブは続けた。声に初めて微かな熱がこもる。「今のお前たちに必要なのは天才の後継者じゃない。天才がいなくても回る『制度』だ」
「……っ」キキョウは思わず一歩後ずさった。彼女の完璧だったはずの論理の城壁にウェッブは正面から別の設計図を叩きつけていた。それは反論ではない。彼女がそもそも「そういう建て方がある」ことを知らなかったという致命的な盲点そのものだった。
「あなたは……何を言って……」
「桐生キキョウ」ウェッブは彼女の名を正確に呼んだ。「お前は継承戦で誰かと殴り合うために生まれてきた人間じゃない。お前は盤面全体を読み味方の安全を計算し最善の一手を組み立てる人間だ。――お前が本当に立つべき場所は決闘のリングの上じゃない。作戦を立案し指揮を統制する司令部(スタッフ)だ」
その一言はキキョウがこれまで誰からも――アヤメからさえも――与えられたことのない居場所の定義だった。
彼女はいつも「力こそ正義」の組織の中で自分だけが銃の腕ではなく頭脳で戦うことに拭いきれない引け目を感じていた。だがこの寡黙な男はそれを引け目ではなく組織の中核そのものだと言い切った。
「……勝手なことを」キキョウは動揺を隠すようにそっぽを向いた。その頬が薄暗がりの中でもわずかに赤らんでいるのがわかった。「そんな絵空事、上手くいく保証がどこに……」
「保証はない」ウェッブは即答した。「だが実績はある。俺はこれと同じことをこの都市の他の場所でもう何度もやってきた。お前が調べ上げた通りにな」
その言葉が決定打だった。キキョウ自身が集めた「証拠」が今ウェッブの言葉の裏付けとして彼女自身に牙を剥いた。彼女は逃げ場を失った。
長い沈黙の後キキョウは深く深く息を吐いた。それは敗北ではなく降伏でもなく――ずっと張り詰めていた何かがようやく緩んだ音だった。
「……一つだけ聞くわ」彼女は盤上に立てられた一本のこけしを見つめた。「あなたのやり方で本当に……もう一度あの頃の百花繚乱に戻れるの?」
「戻らない」ウェッブはその希望をあえて冷たく否定した。「昔には戻らない。一度起きたことは元には戻らない。それが世界のルールだ」
キキョウの肩が落胆に落ちかけた。だがウェッブは続けた。
「戻すんじゃない。前に進むんだ。昔より強い、昔より壊れにくい新しい百花繚乱をゼロから作る。――お前の頭脳がその設計図の中核になる」
キキョウは長い間その言葉を噛みしめていた。
そしてふっと初めて表情を緩めた。皮肉屋の仮面がわずかにずれその下から意外なほど幼くそして安堵した少女の顔が覗いた。
「……いいわ。乗ってあげる。あんたのその荒唐無稽な計画に」
彼女はそこで初めてウェッブを「あんた」と呼んだ。突き放すためではなく認めた相手に向ける彼女なりの距離の詰め方で。
「ただし条件があるわ。あんたの言う『ドクトリン』とやら、一つでも非論理的な穴があったら私は容赦なく指摘する。作戦参謀として当然の権利よ」
「歓迎する」ウェッブはわずかに口角を上げた。「穴を見つけて潰すのが参謀の仕事だ」
キキョウは盤上のこけしを片付けながらぽつりと言った。
「ナグサのことなら西区の廃射的場。……あそこはナグサが昔アヤメと二人でこっそり訓練してた場所よ。誰にも見つからずに一人で強がっていられる場所。彼女は思い出のある場所からはどうしても離れられないの」
それはレンゲの証言と完全に一致した。二つの独立した情報源が同じ地点を指し示す。ウェッブの中でナグサの座標が「推定」から「確定」へと格上げされた。
「感謝する。二人目の証言で裏が取れた」
「二人目……? あんた、まるで情報機関のエージェントみたいね」キキョウは呆れたように笑いそれから少しだけ真剣な声になった。「……ねえ。ナグサはたぶん一番厄介よ。レンゲや私みたいに怒ったり拗ねたりしてるんじゃない。彼女は自分で自分を完全に見限ってる。『自分にはアヤメの代わりなんて務まらない無能だ』って心の底から信じ込んでる。……そういう人間をどうやって連れ戻すつもり?」
ウェッブはしばらく黙って蔵の要図の――ナグサの写真を思い浮かべた。
自分を完全に見限った人間。
それはかつてイースト川に身を投げた彼自身の姿とあまりにもよく似ていた。
「見限った人間の連れ戻し方は」ウェッブは静かに言った。「一つしかない。……『お前はまだ必要とされている』と伝えることだ。それも言葉じゃなく事実で」
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【西区へ向かう夜道】
調停室を後にしウェッブとユカリは月明かりの下、西区へと続く古い街道を歩いていた。
「先生……! 身共、感動いたしましたわ!」ユカリは興奮を隠しきれずに声を弾ませた。「あのキキョウ様があんなに素直に……! 先生はまるで魔法使いのようですわ!」
「魔法じゃない」ウェッブは前を見据えたまま言った。「あの子たちは最初から戻りたがっていた。ただ戻るための『理由』と『やり方』を持っていなかっただけだ。俺はそれを一つずつ埋めただけだ」
FIDにおける最初の、そして最も重要なフェーズ。それは火力でも訓練でもない。ホスト国の人間たちに「自分たちには立ち上がる価値と能力がある」ともう一度信じさせることだ。制度はその信頼の上にしか建たない。
――散らばった礎石が二つ拾い集められた。レンゲとキキョウ。あとはその中央に据える最も欠けた一片。
失踪した副委員長、御稜ナグサ。
そして彼女こそがウェッブにとってこの作戦全体で最も難しい対象になることを彼は予感していた。折れた組織は建て直せる。だが自分自身を見限った人間の心を建て直すのはいかなる野戦教範にも書かれていない最も個人的な戦いだったからだ。
その時――
ウェッブの足がぴたりと止まった。
「先生……? いかがなさいまし――」
「静かに」
彼はユカリの肩をそっと押さえ視線だけを街道脇の高い塀の上へと走らせた。
そこには何もいなかった。少なくともユカリの目には。
だがウェッブは確かに感じ取っていた。ほんの一瞬前までそこに「視線」があったことを。こちらを観察しそして気配を消して退いた何者かの残り香を。塀の上の瓦が一枚わずかにずれている。人が身を伏せそして音もなく去った痕跡。
(――監視されている)
ウェッブは繋ぎ合わせた脅迫状の一文を再び胸の内で反芻した。
――歓喜の時、空に花咲きたるその刻に。
花鳥風月部はもう動き始めている。そして崩れた城壁を建て直そうとするこの奇妙な大人の存在に確かに気づいた。
彼らの街を焼こうとする者たちはその計画の前に一つの障害が立ち上がったことを今認識したのだ。
ウェッブはずれた瓦を一瞥しそれ以上追わなかった。今追うべき相手ではない。
「行くぞユカリ」彼は再び歩き出した。その足取りに乱れはなかった。「敵にこちらの動きを見られた。……ならなおのこと急ぐ必要がある。崩れた城壁が一枚の石も積み終わらないうちに敵に総攻撃をかけられるわけにはいかない」
月明かりの街道を寡黙な元工作員と少女の影が西へと伸びていく。
その先に待つのは自分自身を見限った一人の少女。
そして崩れた城壁の――最後の、そして最も重要な礎石だった。