『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
二週間目に入って三日目の夕刻にウェッブは課程の打ち切りを宣言した。
「教えることは教えた。ここから先を反復で埋めても伸びるのは精度だけだ。……課程の残りの日々はすべて試験に使う」
「し、試験……演習ってやつか!」レンゲが拳を鳴らす。「よーし、キルハウスだな! 何秒で制圧すりゃ合格だ?」
「キルハウスは使わない」
ウェッブは錬兵場の北――朝霧に半ば沈んだ山並みを顎で示した。
百鬼夜行自治区の北縁に広がる「北山演習林」。南北六キロ、東西五キロ。標高差はおよそ四百メートル。深い杣道と三本の沢、東には涸れ沢の刻む盆地。二十年前までは百花繚乱が野戦教練に使っていたという今は誰も立ち入らない広大な山林区画である。
「想定を言う。――この演習林のどこかに敵の狙撃手が一名潜伏している。武装・練度・経験すべてお前たちの知る最悪だ。目標はこの一名の無力化。制限時間は七十二時間」
「……敵は」ナグサが静かに問うた。
「俺だ」
四人が息を呑むのと背後から場違いに陽気な声が割り込んだのは同時だった。
「はいはーい、通りまーす。ミレニアムサイエンススクール・エンジニア部出張納品でございまーす」
錬兵場に乗り入れてきたのは武骨なコンテナを山と積んだ荷車とそれを軽々と押してくる作業着姿の少女だった。首から工具のホルダーを提げ油の染みた手袋を外しながら少女はにやりと笑ってみせた。
「白石ウタハ。エンジニア部の部長やってる。シャーレの『業務委託』で何度か先生の無茶振りには応えてきたけど――ふっふっふ。今回のは格別に面白かったよ先生?」
「間に合ったか」
「誰にものを言ってるのさ」
ウタハはコンテナの留め具を景気よく弾いた。中に整然と収まっていたのは銃の側面に取り付ける小さな黒い発射器と腕時計を無骨にしたような端末そして無数のセンサー類だった。
「アメリカ軍に実弾を使わずに撃ち合いの訓練をするためのレーザー交戦システムがあるんだってね。通称マイルズ(MILES)。先生から仕様書もどきを渡されて設計思想だけありがたく頂戴して――中身は全部私が作り直した」
彼女は発射器を一つ摘まみ上げ指先でくるりと回した。
「名付けてミレニアム・インテグレーテッド・レーザー・エンゲージメント・システム。頭文字を並べると――ほら同じMILESになる。狙って合わせたんだ。技師のこだわりってやつさ」
「れ、レーザーで撃ち合うんですの?」ユカリが端末を覗き込む。「でも、レーザーは真っ直ぐ飛ぶのでしょう? 本物の弾は落ちますし風にも流されますわ?」
「いい質問だねお嬢さん」ウタハの目が輝いた。技師が最も好む種類の質問だったらしい。「そう光は落ちない、だから落としてやるのさ。発射器には風向・風速・気温・気圧・重力・装填した空砲に対応する弾速――各種の環境センサーが載ってる。引き金と連動して空砲が鳴った瞬間、装置は『今この環境でこの弾を撃ったらどこへ飛ぶか』を計算して内蔵ミラーが照射の向きとタイミングをほんのわずかに補正する。つまり六百メートル先の谷風まで込みで当たるべき場所にしか当たらない。実弾と遜色ない狙撃シミュレーションだ」
「音まで再現してあげたよ」ウタハは得意げに続けた。「弾が近くを通れば端末が空気の裂ける音――衝撃波を再生する。撃たれる側の耳に届くべき音は届くべき方向から届く。……手は抜いてない」
続いて彼女は腕輪型の端末を配った。左腕に巻き付ける方式で小さな画面が灯っている。
「被弾判定はこの子が全部やる。撃たれたら音と映像で知らせて画面に被弾箇所と傷の程度が出る。表示に従って正しく手当てをすること。放置すれば出血なり何なりが進行して時間経過で行動不能判定。要するに撃たれた後も本物と同じに扱えってこと」
「そして急所だ」ウェッブが引き取った。「頭部や頸動脈などの即死部位に被弾した場合は即座に行動不能判定が出る。同時に交戦装置を通じて銃本体にセーフティがかかり以後その銃は撃てない。――戦死(KIA)扱いだ」
「損傷モデルは部位ごとに火器管制へ反映される仕様にしてある」ウタハが補足した。「たとえば片腕が重篤判定ならその腕での操作にはペナルティ。両腕が重篤までいったら射撃系統は丸ごとロックだ。撃てない兵隊のできあがり。……あと無力化の判定はもう一つ。相手を物理的に拘束した状態でその端末の確保キーを三秒間押し込めば『確保』が成立する。ちゃんと押しごたえのあるボタンにしといたよ」
「一つ重要な非対称がある」ウェッブは四人を見渡した。「お前たちの端末はキヴォトスの生徒の身体を基準に較正してある。小銃弾程度の胴体・四肢への被弾は軽傷から中等傷――処置は要るが即座には止まらない。お前たちの実際の身体がそうであるようにだ。ただし急所は例外だ。頭と首を撃ち抜かれれば生徒だろうと戦死判定が出る。ヘイローとやらの理屈がどうであれこの試験ではそう扱う」
「先生の方は?」キキョウが目を細めた。
「生身の人間と同じ設定だ」ウェッブは事も無げに答えた。「胴体に一発貰えば重傷。四肢でも重篤ならその腕は使い物にならなくなる。……それが正しい。俺は人間だからな」
「……つまり」キキョウはゆっくりと言った。「私たちは何発か貰っても止まらない。あんたは一発で終わりかねない。四対一で地の利も装備の差もこちらが有利。――それでもあんたは勝つ気でいるのね」
ウェッブは答えなかった。答えないことが答えだった。
「交戦ログは全部私のサーバーに落ちる」ウタハがにんまり笑った。「報酬は規定額で結構。その代わり、生徒の生体データと行動ログは研究用に頂くからね。喉から手が出るほど欲しかったんだこれ。……それじゃ健闘を祈るよみんな。私はポップコーンでも齧ってるから」
装具の支給と検査が続いた。Mk14 Mod1とグロック20。そして三日分の山を生きるためのバックパック。ウェッブは中身を一つずつ検めては乾いた声で用途を告げていく。
「スポッティングスコープ、射手の目は二つで一組だ。風速計・レーザー距離計・データブック。狙撃は才能じゃない記帳だ。コンパスと地図、電子機器は死ぬが磁石と紙は死なない。MRE九食・水・救急キット・マルチツール・浄水錠・細引き・ポンチョ・寝袋。靴下三足――」
「豆はもう卒業しましたわ!」
ウェッブは頷き次の背嚢に手を入れ――止まった。
取り出されたのはMREでも水でもなかった。缶詰である。焼き鳥のたれ味。もう一つ、塩。もう一つ、柚子胡椒。さらにたれ、たれ、炭火焼き。……検査台の上に都合十二個の缶が整列した。
「…………」
「…………非常食です」ナグサは無表情のまま言った。
「MREが九食支給されている」
「非常の定義は人それぞれかと」
「重量にして二キロ超だ」
「私、焼き鳥がないと戦えない女なの」
「そういやナグサ先輩、昔っから修羅場で焼き鳥食ってたよな……不良どもに囲まれながら頬張ってたのアタシ見たことあるぞ」
「置いていきなさい」キキョウが額を押さえた。
「……三缶までなら譲歩するわ」
粘り強い交渉の末に六缶が背嚢に残った。ウェッブは没収しなかった。「士気も装備のうちだ」とだけ言いそれから一言付け加えた。「ただしタレの匂いは思っているより遠くまで届く。……覚えておけ」
呼出符号はキキョウが決めた。調停室に預けてきた古い狙撃銃――百蓮から取ってコールサイン「ロータス」。ワンがナグサでツーがレンゲ、スリーがキキョウでフォーがユカリ。敵性目標の呼称はレンゲ発案の「亡霊(ゴースト)」が満場一致で採用された。
「指揮官はナグサだ。俺は試験中助言を一切しない。……理由は終わってから聞け」
それだけ言い残すとギリーを纏った男の輪郭は朝霧の杣道へ数歩で溶けて消えた。
二時間後演習林の門が開いた。七十二時間の狩りが――否。
七十二時間狩られる側の時間が始まった。
【H+0〜H+10――最初の授業料】
「初日は探さない」
杣道の入り口で地図を広げナグサは静かに宣言した。レンゲが「はァ!?」と声を上げる。
「せっかく四対一なんだぞ! 手分けしてローラーかけりゃ三日もかからず――」
「歩き方も知らない土地で亡霊を探し回るのは、彼の的になりに行くのと同じよ」ナグサは地図の等高線を指でなぞった。「まず地形と風を覚える。水場と見晴らしと音の通り道を……土地を知らない狩人から先に死ぬ。……ただし彼はきっとそれを待ってはくれないでしょうけど」
キキョウが地図に鉛筆を走らせ演習林をMGRSの格子で刻んでいく。三本の沢に東の涸れ沢盆地。卓越風は南西。四人は二組に分かれ相互躍進で北へ入った。一組が銃を構えて睨み一組が三秒だけ走って地面に消える。教わった通りに。骨に刻まれた通りに。
最初の授業料は五時間後に請求された。
鞍部――尾根と尾根の間の低い切れ目を先頭のユカリが横切ろうとした瞬間だった。
空気が裂けた。
バシッという乾いた鞭のような音が頭上を走り抜け直後にユカリの左腕の端末がけたたましく鳴いた。
『被弾――右肩。中等傷。十五分以内に処置を要す』
「ユカリ!!」
四人の銃口が反射的に音のした南の斜面へ一斉に向いた。
第二射の裂帛音が今度はレンゲの頬のすぐ横を通過した。判定は出ない。至近弾。だが四人の血の気を引かせるには十分すぎた。
「散れ! 三秒!」ナグサの号令が飛ぶ。「ツーはフォーを引いて! 岩まで!」
レンゲが自分の身体でユカリを覆い襟首を掴んで岩陰まで引きずり込む。訓練通りに。撃ち返すべき敵の頭は――どこにもなかった。制圧すべき火点が見えない。戦場における最良の薬は火力の優越だと教わった。だがその火力を向ける先がない。
「処置! 私が見る!」岩陰でナグサがユカリの端末を覗き込んだ。画面には右肩の被弾箇所と進行していく出血の表示。「M――大量出血じゃない。圧迫包帯! ユカリ喋って。気道は生きてるわね」
「い、生きてますわ……! というより悔しいですわ……! 身共何も見えませんでしたのよ……!」
「見えなくていい生きてれば」ナグサは包帯を巻き上げ、端末の警告が沈黙するのを確かめた。被弾から遮蔽まで四秒。処置完了まで九十秒。身体は正しく動いていた。頭が追いついていないだけで。
「南だ! 音は確かに南の斜面からだった!」レンゲが銃を構え直す。
「……違うわ」
低い声で否定したのはキキョウだった。彼女は自分の端末の画面を睨んでいた。
「ユカリの被弾ログ。着弾ベクトルの概略方位――西北西よ。南じゃない」
「は? で、でも音は確かに南から――」
「……そういうこと」キキョウは奥歯を噛んだ。「思い出しなさい。サプレッサーが消すのは銃口の音だけ。弾が空気を裂く衝撃波は消せない。そして衝撃波は撃った場所からじゃなく弾の通り道から聞こえるのよ。私たちが振り向いた『音の方向』には最初から何もいない」
音に釣られて全員が明後日の方向へ銃口を向けたあの数秒間。もし敵が撃ち続ける気だったならあと二人は狩れていた。四人は同じ想像に行き着いて揃って背筋を凍らせた。
一時間後四人は西北西六百メートルの稜線に彼の射座を発見した。
――何もなかった。
薬莢は一つも落ちていない(ボルトアクションは排莢を手の中に回収できる)。靴跡は丁寧に掻き消され、伏せた身体の痕は下生えの復元力で既に半ば起き上がっている。ただ一箇所射界を確保するための灌木の枝が切られるのではなく細引きでそっと縛って避けられていた。切り口という痕跡を残さないために。
「……几帳面すぎますわ」ユカリが呆然と呟いた。「痕跡がなさすぎますの」
「その『なさすぎ』を覚えておいて」キキョウがデータブックを開き最初の頁に記帳を始めた。射撃時刻・推定距離・射座の特徴・離脱方向。「彼の発砲記録簿を作るわ。一発ごとに彼は私たちに情報を払ってる。高い授業料だもの。一円も取りこぼさない」
「おい見ろよ。窪みに敷き藁まで――」
射座の奥へ踏み込みかけたレンゲの脛がふと見えない糸を撫でた。
乾いた炸裂音と閃光が弾け彼女の端末が咆えた。
『被弾――左下腿。重篤。破片損傷。即時止血を要す』
「ぐっ……な、なんだ今の――」
「伏せて!!」
ナグサの絶叫と三発目の裂帛音はほとんど同時だった。倒れたレンゲへ反射的に踏み出しかけたキキョウの鼻先を弾道の衝撃波が薙いだ。判定なし。至近弾。だがそれは明確に「止まれ」という意味の一発だった。
倒れた仲間。それを助けに出る者を待ち構える銃口。――教範がCUF(戦闘下の救護)の章の冒頭で最初に警告する最も古典的で最も残酷な狩りの形。
「フォー! 西北西の稜線を制圧射撃して!」ナグサの声はもう震えていなかった。「スリーは私と挟んでツーを引くわよ。低く!」
ユカリのMk14が半自動の連射で稜線の「面」を叩きその銃声の傘の下でナグサとキキョウがレンゲを窪地へ引きずり込む。止血帯を表示部位の直上で締め上げ時刻を書き込む。
制圧射撃が止み山に静寂が戻った。もう誰も撃ってはこなかった。
「……罠を踏ませて駆け寄る仲間を狙う」キキョウの声は怒りで低かった。「なんて性格の悪い……!」
「これは先生の”教え”よ」ナグサはレンゲの止血帯をもう一度確かめながら言った。「教えていなかったことを教えに来てるの。……授業料二件目。記帳して」
二つ尾根を越えた杣道でウェッブは腕の端末に流れる交戦ログを一瞥した。被弾から遮蔽まで四秒。制圧射撃の指向正確。救助は火力の傘の下でのみ実施。処置完了二分十一秒。
(――初動合格。罠への対処は……これからだ)
彼はストップウォッチを止め音もなく次の教案へと歩き出した。その足元にある背嚢の側面にはウタハに「OPFOR用消耗品」として要求した模擬発音筒がまだ三つ残っていた。
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その頃。祭りの準備に沸く街の一角にある古びた調停室――ただしその引き戸の内側はもう昨日までのそれではなかった。
畳の一部は剥がされ配線が床を這い、壁一面に据えられたモニターが演習林の地形図と五人分のバイタルサインを映し出している。ウェッブの依頼でエンジニア部が十日がかりで作り替えた即席のオペレーションルーム。四人の少女たちは自分たちの帰るべき部室が今どうなっているのかをまだ知らない。
「うわーうわー見てくださいよこれ!」コトリがモニターに齧りついていた。「初交戦時のロータス・フォー心拍一八六! ワンでも一六〇超えです! それに対して先生ご覧ください――五十五! 撃った瞬間も五十五! 呼吸数に至ってはむしろ下がってます! これ生理学的にはですね訓練された狙撃手は撃発の瞬間に心拍の谷間を――」
「コトリ記録。解説は後でまとめて聞くよ」ウタハはポップコーンを一粒放り込み鼻歌――なぜか演歌の節回し――を止めて目を細めた。「……それにしてもいいデータだ。ヒビキ罠のとこ巻き戻して」
ヒビキは黙って映像を戻した。レンゲが糸を踏む三十秒前。画面の隅の数値を彼女は指先でとんとんと叩いた。
「……先生の心拍。罠を仕掛け終わった時と罠が作動した時。どっちも五十三。……仕掛けてる最中だけ五十一。二つ下がってる」
「へえ?」
「たぶん落ち着くんだと思う。ああいう作業をしてると」ヒビキの声はいつも通り朴訥として抑揚がなかった。「……ちょっとだけわかる」
「君が共感するんじゃないよ」ウタハは苦笑しそれからモニターの中の枯草色の点を眺めてぽつりと呟いた。「……ほんとうに何者なのさあの人は」
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その夜四人は火を焚かなかった。光の排除。冷えたままのMREの封を切り、ユカリは「メインディッシュ・チリマカロニ」の文字を三度読み返してからこの世の終わりのような顔をした。
「……身共お夕食というものはお椀が七つ並ぶものだと教わって育ちましたのに」
「うっま! これうっま! ユカリ食わないならくれよ!」
「食べますわ! 食べますけれども!」
五割警戒の輪番で交代で寝袋に入る。見張りに立ったナグサは雨の匂いの混じり始めた夜気の中でふと思った。
(……先生は今もこの闇のどこかに一人でいる)
火もなく仲間もなく七十二時間分の警戒をたった一人で背負って。それが彼の言う「最悪の敵」の練度なのだとしたら――それは同時に彼がずっと生きてきた世界の練度でもあるのだろう。
【H+14〜H+26――見えない光】
二日目の夜が最初の折れ目だった。
「夜はこっちのもんだ」とレンゲは言った。GPNVG-18の四眼が闇を昼に変えPEQ-15の赤外線レーザーが敵にだけ見えない照準線を引く。夜間の掃討で一気に包囲を狭める――方針そのものは間違ってはいなかった。
前提が一つ崩れていただけで。
同時刻、涸れ沢を見下ろす岩棚でウェッブは背嚢から取り出した単眼の暗視装置を右目に当てていた。
緑一色の視界の中を四本の細い光線が泳いでいた。
彼女たちのIRレーザー、肉眼には決して見えない光。だが暗視装置を持つ者の目には煌々と輝く「ここにいます」という看板だった。四本の光線は律儀に警戒方向を照らし、律儀に持ち主の位置と進行方向とあろうことか視線の向きまで逐一ウェッブに報告し続けていた。
(敵に見えない光。……そう教えたのは俺だ。「敵が暗視装置を持たなければ」という但し書きごと教えるべきだったな)
いや――と彼は思い直した。但し書きはこうして身体で覚えさせた方が二度と忘れない。
彼は光の隊列の側面へ静かに回り込み三百五十メートルからキキョウの左前腕を正確に撃ち抜いて四人が地形に溶ける三秒の間に岩棚ごと消えた。
「――ッ、この……!」
岩陰で圧迫包帯を巻かれながらキキョウは端末を睨んでいた。痛みはない。だが屈辱が痛かった。夜間掃討を具申したのは自分だ。夜間の優位を確信したのも。
そして彼女は被弾ログの着弾ベクトルと直前の各自の位置関係を頭の中に並べ直しすっと血の気を引かせた。
「……レーザーよ」
「は?」
「私たちの『見えない光』。あいつには見えてる。じゃなきゃこの位置取りの説明がつかない。彼は私たちのレーザーを目印に警戒の死角へ正確に回り込んだ。……つまり暗視装置を持ってるのよ、あの亡霊」
「んなっ……卑怯だぞ!」
「道具に思考を預けた私のミス、二度目はない!」キキョウは吐き捨てそれから即座に規律を書き換えた。「IRレーザー照射は交戦時のみ。点灯は三秒以内。点けたら必ず移動すること」
だが士気は目に見えて沈んだ。
開始から丸一日。こちらの損害はユカリの右肩にレンゲの左脚キキョウの左腕。処置は済んで判定は一段ずつ回復に向かっているとはいえ敵への命中は依然ゼロ。それどころか敵の姿をまだ誰一人一秒たりとも視認できていない。
「二日で三人だぞ……」焚火もない闇の中でレンゲが膝を抱えた。「しかも全員あいつがどこにいたのかすら分かんねえまま……。あと二日であの亡霊をどうやって……」
重い沈黙。
その沈黙の中でかこんと場違いに軽い金属音が鳴った。
ナグサが背嚢の底から取り出した缶詰のプルタブを引いた音だった。
「……非常時よ」彼女は大真面目な顔で宣言し月明かりの下十二個の缶を車座の真ん中へ並べていった。「開けましょう全部」
「や、や焼き鳥ですわ……! こんな山奥で焼き鳥……!」
「冷えてるけどね」ナグサは一本を口に運び目を細めた。それは廃射的場で独りだった頃の彼女が唯一自分に許していた贅沢の味だった。「……ね。世界の終わりみたいな顔をするにはまだ早いでしょう?」
冷えたたれの甘辛が疲れ切った四人の身体に染みた。レンゲが三缶目に手を伸ばす頃には車座の空気は生き返っていた。
「うめえ……ナグサ先輩あんた最高だよ……」
「ええ、だから聞いて」ナグサは缶を置き静かに言った。「彼は私たちを削ってるんじゃない、教えてるの。最初の一発は『音に騙されるな』。罠は『倒れた仲間の周りを疑え』。今夜の一発は『道具を過信するな』。……一発ごとに授業料を取られてるだけよ。なら払った分は全部覚えて返しましょう」
彼女はキキョウのデータブックを指した。三発分と罠一件の記帳。時刻・方位・距離・地形・離脱方向。
「彼は完璧よ。でも完璧というのは裏を返せば『必ず同じ原則で動く』ということ。原則は癖。癖は読める。ね、キキョウ?」
俯いていた作戦参謀がゆっくりと顔を上げた。その目に悔しさとは別の光が戻り始めていた。
「……ええ、読んであげるわよ、徹底的に」
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同じ夜、二つの尾根の向こう。
ウェッブは巨岩の張り出しの下雨の匂いの濃くなっていく闇の中に背嚢を背にしたまま浅く沈み込んでいた。眠るのではない。二十分だけ意識の水位を下げる。銃はスリングごと胸の上右手は常に握把の上。退路を二本頭に入れてから目を閉じる。何万回と繰り返してきた手順だった。
だが、二十分ぴったりで浮上した意識に身体はわずかな遅延をもって従った。
(……冷えるな)
湿った夜気が三十代半ばの筋繊維から容赦なく熱を奪っていく。若い頃には存在すら意識しなかった膝の古傷が湿度計のように鈍く疼いた。冷えたMREを咀嚼しながら彼は自分の消耗を装備品の一つとして冷静に棚卸しする。水残り一・二リットル。睡眠負債蓄積中。左膝湿気で可動域低下。……敵ならば必ず突いてくる弱点の一覧だ。
そして彼はその「敵」のことを考えた。
罠と狙撃の複合に対して二の矢を許さなかった火力の傘。あの失敗から一時間足らずで書き換えられた光の規律、あの参謀の目つきが変わっていた。
(……速い)
彼は世界中で現地部隊を鍛えてきた。砂漠でも密林でも崩れかけた市街でも。だがたった二週間でここまで来た部隊を彼は知らなかった。教えたことを吸収するだけではない。教えたことの「裏」を自分の頭で掘り始めている。
かつて彼自身がそうやって世界最強の機関の裏をかき続けてきたように。
(狩る側と狩られる側。彼女たちは今、狩られる側の夜を過ごしている)
火を焚けない夜の冷たさ。物音の一つひとつに銃口を向ける消耗。仲間の寝息だけが唯一の温度である時間。――それを知らない指揮官に追われる者の心理は読めない。逃亡者の十年が教えてくれた数少ない換金可能な知恵だった。
雨の匂いがまた一段濃くなった。
(明日の夜には降る。……水の問題は消える。だがその前にあの参謀は必ず水場に線を引いてくる)
読まれることまで読んだ上で彼は静かに次の教案を組み立て、そして再び二十分だけ意識の水位を下げた。
【H+30〜H+48――人間を狩る】
三日目の朝は乳白色の霧から始まった。
キキョウは平らな岩の上に地図を広げその余白に木炭で数字を書き並べていった。まるで商店の帳簿のように。
「発想を変えるわ。彼を『亡霊』として追うのはやめる。――人間として狩る」
「人間として……?」
「先生は言った。『人間の限界を物差しにするのをやめる』って。私たちの訓練基準を書き直した時にね」キキョウの口の端が獰猛に上がった。「なら逆も成立するでしょう。彼は人間よ。彼にだけは人間の物差しが刺さる」
木炭が走る。
「水、この蒸し暑さで山を移動する成人男性の消費は日に三リットル前後。背嚢の容積と重量配分から携行はどう多く見積もっても五リットル。出発から三十時間……残量はもう危険域。この演習林で水を取れるのは三本の沢と涸れ沢盆地の湧水。計四箇所だけ」
「そして睡眠、人間は眠らなければ二日で判断力が半減するわ。けれど彼は分割睡眠で凌ぐはず。二十分単位で必ず退路を二本確保できる場所で……つまり彼の『寝床』の候補も地形から絞れる」
「食料は冷えたMREで問題なし。移動速度は人間の脚――私たちの半分以下。……整理すると彼は水場という『鎖』に繋がれた、眠らなければならない足の遅い生き物よ。超人でも亡霊でもなく」
「す、すごいですわ……敵が急にその生き物に見えてきましたわ……!」
「ただし」ユカリの感嘆にナグサが静かに待ったをかけた。彼女は空を見上げていた。「……天気。今夜から明日にかけて雨よ」
「雨? 予報なんてどこで――」
「昨日の夕方日暈が出てた。風向きも南東に振れ始めてる。山の匂いも変わった。……それにキキョウのデータブック。昨日から気圧の記録がずっと右肩下がり」
キキョウの木炭が止まった。数秒の沈黙。それから彼女は自分の組み上げた帳簿を睨み直した。
「……なるほど、だから『今』なのよ!」
「今?」
「雨が降れば彼の水問題は消える。ポンチョ一枚でどこでも水は受けられるもの。つまり水が切れかけていてなおかつ雨がまだ降っていない彼が、水場という鎖に繋がれている最後の時間帯。それが今日の午後から雨が来るまで、この間だけ彼の行き先は四箇所に絞られる」キキョウは涸れ沢盆地の湧水にぐりぐりと印を打った。「中でもここ、沢と違って水音で接近を聞かれない。湧水は流れが細いから汲むのに時間がかかるわ。――彼が最も長く足を止める場所よ」
仮説はまず足で検証された。
正午前、四人は二組に分かれて三本の沢を溯行した。合言葉は「彼のいた場所ではなく彼が来る場所を探す」。西の沢と中央の沢は接近路が開けすぎていて論外――彼なら選ばない。そして東の沢の中流で流れが岩で細く絞られる屈曲部でユカリの足がぴたりと止まった。
「……ナグサ様、ここ変ですわ」
「何かあった?」
「いいえ逆ですの。――何もなさすぎますわ」
水際の平らな岩の上。沢筋のどこにでもある落ち葉と小枝の散らばりが、ちょうど人が片膝をつける広さだけ不自然に「均質」だった。乱れてもいない。だが積もってもいない。まるで一度すべて掃き清めてから周囲と同じに見えるよう丁寧に撒き直したような。
「初日の射座と同じ。『几帳面すぎる不在』」ナグサは岩の窪みに顔を近づけた。溜まった水面にごくわずかな土の濁りがまだ沈みきらずに漂っている。「彼はここで水を汲んだ。数時間以内に」
「じゃあ近くに――」
「止まってくださいまし!」
鋭く制したのはユカリだった。彼女は屈み込んだまま岩の脇の下生えを凝視していた。膝の高さ。木漏れ日の縞の中にほんの一瞬だけ蜘蛛の糸ではあり得ない直線が光った。
「……糸、ですわ。レンゲ様の脚を獲ったのと同じ」
今度は誰も踏まなかった。キキョウが腹這いで接近し、マルチツールの先で細引きの張りを確かめ、発音筒の安全栓を差し込み――彼の二つ目の罠は無力なガラクタに還った。
「……補給地点に帰り道を見張る罠。徹底してるわね」キキョウは回収した発音筒を掌で転がしふと嗤った。「ありがたく頂くわ。高い授業料の成果ね」
罠の設計はその日の午後のうちに組み上がった。
戦場は涸れ沢盆地――彼が雨までに必ず立ち寄る最後の水場。キキョウは周辺の地形を虱潰しに検討し「彼が伏せうる射座」を洗い出していった。基準は二日半分の観察と二つの射座跡が教えてくれた彼の原則である。
「射界が開けていること、背後に稜線を背負わないこと、そして退路――彼は退路のない場所には絶対に伏せない。二つの射座跡が証明してる。しかもその退路は二回とも北の沢筋へ落ちてた。水音で自分の足音を消すためよ。……この盆地でその全部を満たす射座は三つ。いえ東のあれは退路が崖で半分潰れてるから実質二つ半ね」
「で、アタシらはどう並ぶんだ?」
「二組に分かれる」ナグサが引き取った。「狙撃と観測のハンターキラー・チーム。私が射手で観測はキキョウ。ユカリが射手で観測はレンゲ」
「……はァ!?」レンゲが素っ頓狂な声を上げた。「ちょっと待てよ、アタシが観測ぅ!? アタシは切り込み隊長だぞ! 走って撃つのが仕事で――」
「その脚は判定上、まだ本調子じゃないでしょう」キキョウが容赦なく指摘した。「重篤から中等に戻ったばかりで機動ペナルティ持ち。それに相手はあんたの突撃に付き合ってくれる敵じゃない。六百メートルの向こうから決闘を申し込む前に終わらせてくる敵よ」
「うぐ……で、でもよ……」
「レンゲ」ナグサが静かに言った。「初日に罠の糸を最初に『変だ』と感じたのは誰? 今日鳥の群れの飛び方がおかしいと言い出したのは? ……あなたの目は速いの。速い目は速い脚と同じくらいの武器よ。私はその目にユカリの弾を預けたい」
「…………ちぇ。そこまで言われちゃしょうがねえな」レンゲはスポッティングスコープを引ったくるように受け取りそれから急にニヤリとした。「観測手……観測手か。よく考えたらこれ相棒の弾を導く影の司令塔ってやつじゃんか。……悪くねえ。むしろ『それっぽい』!」
「はいはい、それっぽいそれっぽい」
配置が組まれた。盆地の底の湧水を望む位置に「露営」を偽装する。使い古した寝袋に枯草を詰めた人形をポンチョで半分覆い焚き火を組む。ただし今度は教範通りの綺麗な火ではない。わざと石の間隔を乱し、薪を崩し、疲れ切った小隊の杜撰な火を装った。
そして囮の本命はもう一つ。
「彼が私たちの赤外線を見れるなら――見せてあげればいいのよ」
キキョウが取り出したのはウタハの予備品コンテナから支給されていたIR識別マーカー。本来は味方の位置を暗視越しに示すための小さな赤外線灯だ。それを細引きで灌木の枝に括り風で不規則に揺れるよう吊るす。露営地の周囲に三つ。まるで警戒の緩んだ歩哨の赤外線ライトが所在なくうろつくように。
「見えない光で釣られた借りは、見えない光で返す。……それとこれ」彼女は回収した彼の発音筒を掲げた。「二つ半の射座のうち一番良い『第一射座』にこれを仕掛ける。彼の罠を彼の寝床に」
「当たると思うか? 相手はあの先生だぞ」
「当たらなくていいのよ」キキョウは事も無げに言った。「罠の仕事は当てることじゃない。『ここは読まれている』と教えて彼の選択肢を削ること。第一射座を捨てさせれば残りは第二と退路の悪い『半』だけ。……彼の来る場所が絞れればそれで罠は満点」
対面斜面の二箇所に二組のハンターキラーが溶けた。第二射座への射線を制するのがナグサとキキョウ。第一と第二の間の移動経路そして「半」の射座を扇に収めるのがユカリとレンゲ。全射座への距離は事前にレーザー測距済み。谷風のログはレンゲが半日かけて几帳面に記帳し続けた――「フォネティックコード覚えた時と同じノリでいけるなこれ」というのが本人の弁である。
日が西の稜線へ落ちかかっていく。西からの射座は逆光でスコープが使いものにならない。彼の選択肢は東側の「二つ半」へとさらに絞られていく。
盆地の底で白々しくない程度に乱れた焚き火が細い煙を上げ始めた。
---
――その頃盆地の東縁では。
一時間に十五メートル。ギリースーツを纏った枯草色の影が匍匐とも呼べない速度で第一射座へと「生えて」いくところだった。
そして射座まで残り三メートル。地面へ伸ばしたウェッブの指先が張られた細引きの気配を捉えて止まった。
(――――)
自分の仕掛けと同じ結び方。同じ張力。回収された発音筒。彼はその糸を切りも触れもせずただ三十秒かけて観察し静かに後退した。
(俺の罠で俺の射座を潰しに来たか)
胸の内で彼は採点欄に一つ丸を付けた。罠の意味を正しく理解している。当てるためではなく削るための罠。教えていないことをまた一つ自分の頭で掘り当てた。
(なら第一は死んだ。第二か――退路の悪い東の切れ込みか)
第二射座に入った彼はスコープを覗く前にまず裸眼で盆地全体の「面」を眺めた。乱れた焚き火。半分だけ覗く寝袋。風に揺れる三条の赤外線光――暗視の単眼を当てれば確かにそれらしく泳いでいる。
(……囮だ。全部)
焚き火は上手い。前回の授業を正しく反映している。だが薪のくべ足しの間隔が正確すぎた。疲れた小隊の火はもっと不規則に痩せてもっと不規則に蘇る。そして赤外線の「歩哨」は三十時間この山で光の規律を叩き込まれた部隊にしてはあまりにも無防備に光りすぎていた。
だが彼の目に嘲りはなかった。囮と分かる囮を分かった上で堂々と置いてくる。それは「あなたは必ず見抜く。見抜いた上で来る」という彼の思考への正確な信頼の表明だった。教官としてこれほどの答案はない。
(なら次の設問だ。――囮の意味は囮の後ろにある)
この餌が釣ろうとしているのは俺の「一発」。撃てば銃口炎と発砲音が対面斜面のどこかに潜む牙に俺の座標を教える。ならば試すのは一つ。撃って九十秒だけその場に残る。優秀な射手ほど仲間が――たとえ人形でも――撃たれた瞬間に撃ち返したくなる。撃ち返してくれば獲る。撃ち返してこなければそれはそれで彼女たちが「その先」まで育っている証明になる。
どちらに転んでも教案としては満点だった。
彼はボルトを静かに閉鎖し、第二射座の岩の切れ込みへ銃口を音もなく滑り込ませた。
――バシッ。
対面斜面。茂みの中でナグサの人差し指が引き金の遊びを半分だけ絞りそこで止まった。
(……まだ撃っては駄目)
擬装の下の身体は既に二時間微動だにしていない。首筋を虫が這う。汗が眉を伝って目に沁みる。左脚のつま先が痺れて感覚を失っていく。そのすべてを彼女は「観測すべき環境情報の一部」として意識の棚に静かに載せていった。動かないこととは我慢することではない。動かない身体の内側で観測だけを動かし続けることだ。――そう教わった。
(撃てば私の銃口炎が彼への返礼になる。彼の本当の狙いはそれ。人形を撃って私を炙り出すこと)
隣でキキョウがストップウォッチを親指で押さえたまま囁くように数字だけを刻んでいく。三十秒。六十秒。九十秒。
第二射は来なかった。代わりに――
「……フォー、こちらツー」無線に抑えきれない緊張を孕んだレンゲの声が滑り込んだ。「二時方向の杉から鳥が飛んだ。三羽いっぺんに。距離四四〇。……何かが動いてる」
第二射座から東の切れ込みへ抜ける移動経路。まさにユカリとレンゲの扇の中だった。稜線の観測教練でウェッブ自身が教えた兆候――「鳥は嘘をつかない」。
「フォー、了解ですわ」ユカリの声は囁きなのに凛としていた。「岩の切れ目……」
「距離四四五! 風右から三――谷で巻いて実質二! 修正出てるな!?」
「データブック通りですわ。……レンゲ様」
「おう!」
「導いてくださいまし!」
切れ込みの奥で枯草色の何かが移動の最後の一歩でほんのわずかに輪郭を晒した。
「――今だ!」
Mk14の銃声が谷に轟いた。
四百四十五メートル先、移動の最後の一歩でわずかに晒されたギリースーツの脇腹――腰骨のすぐ上で、判定の赤が灯った。
『被弾――腹部。重傷。主要臓器への致命的損傷なし。出血進行中。以後三十分毎の再処置を要す。未処置の場合、行動不能まで進行』
「命中! 命中ですわ!!」スポッティングスコープを覗いたままレンゲが吼えた。「やった! やりやがった! ユカリお前――ッ!」
「み、身共……身共、亡霊に当てましたわ……! えり〜と亡霊に勝ちましたわ……!」
「まだよ」無線にナグサの静かな声が被さった。「フォー・ツー……彼はまだ生きてる」
切れ込みの陰でウェッブは岩を背に腰を落としていた。端末の無慈悲な電子音声を聞き流しながら、内心で採点欄に大きく二重丸を付ける。囮への射撃に釣られず九十秒の沈黙に耐えた狙撃手。第一射座を罠で潰し彼の選択肢を一つまで削った参謀。鳥の羽音から接触を拾った観測手。そして一瞬の隙を逃さなかった射手。
四人が四人の仕事をした。それが「部隊」だ。
(――教えた通りだ。教えた通りに俺が撃たれた)
判定は腹部重傷。装置の損傷モデルは彼の移動力を容赦なく削り、以後三十分ごとに彼を止血へと縛りつける。彼は歯で救急キットの封を裂き、判定部位へ滅菌ガーゼを詰め、その上から圧迫帯を締め上げた。MARCHの最初のM。二週間前、彼女たちに千回やらせたあの手順のままに。
彼は薄く、ほとんど分からないほど薄く笑い――予測された通りに、しかし予測の半分の速さで、北の沢筋へと消えた。
「亡霊が北の沢へ離脱!」ユカリが叫んだ。「規模一名! 行動、負傷後北方へ離脱中――足取りが、遅いですわ! 位置グリッドNH四五二・二三〇! 部隊亡霊! 時刻一八〇五! 装備抑音狙撃銃!」
「追うぞ! 今なら追いつけ――」
「ツー、止まりなさい」ナグサの声が無線を静かに締めた。「日没の沢に手負いの彼を追わない。手負いこそ一番危ない獲物よ。それに彼の退路には十中八九また罠が張ってある。……包囲に切り替える。退路は北の沢筋。今夜のうちに下流と支流の出口を塞ぐわ。スリー、線を引いて」
『こちらスリー了解。……ふふ。初めてこっちが授業料を取ったわね』
「なあさっきの座標もう一回りリピー――」
「レンゲ!」キキョウの声が飛んだ。「その単語を無線で言い切ったら、比喩じゃなく頭上に砲弾が降るわよ! 『セイ・アゲイン』!」
「せ、せいあげいん!! ……あっぶねー……」
---
その夜――予報より半日早く雨が来た。
包囲線は夜を徹して沢筋をゆっくりと絞り上げていった。彼はもう速くは動けない。腹の判定が歩幅を削り、三十分ごとの止血が彼の足を立ち止まらせ、包囲は狭まり、雨は彼の水問題を解決した代わりに人間の体温を容赦なく削っていく。生徒の身体は雨など歯牙にもかけないが生身の身体はそうはいかない。
もっとも――「生徒の身体」にも例外が一つだけあった。
包囲線の東翼、増水した支流が行く手を膝上の深さで横切っていた。幅は五メートルもない。レンゲが躊躇なくざぶざぶと渡り、ユカリが続きナグサが続き最後の一人が岸に立ったまま動かなかった。
「……スリー? どうした渡れって」
「わ、分かってるわよ。今流速と河床の安定性を計算して……」
「五メートルだぞ?」
「水深と濁度から見て岩が滑る確率が……そ、それに夜間の渡渉は教範的にもリスク評価を……」
暗視越しでも分かるほどキキョウの猫耳がぺたりと伏せていた。左腕の端末が彼女の心拍だけを律儀に跳ね上げて記録していく。
レンゲは無言で引き返し無言で背中を向けてしゃがんだ。
「…………」
「…………借りは返すわよ」
「へいへい。ねぎま二本な」
作戦参謀を背負った切り込み隊長がじゃぶじゃぶと五メートルを渡りきる。誰も何も言わなかった。ただユカリだけが「ずるいですわ! 身共もおんぶ……」と羨ましがり、キキョウの「言ったら殺すわよ」という地を這う声が雨音に紛れて消えた。
【H+60〜H+70――雨の山祠】
包囲の輪が最後に閉じたのは沢の中流、半ば崩れた古い山祠と家ほどもある巨岩が折り重なる岩塊帯だった。
苔むした石段が数段、闇の中に沈んでいる。祠の脇には首の欠けた小さな狐の石像が一対、雨に打たれて濡れそぼっていた。二十年前まで演習の無事を祈る百花繚乱の生徒たちが手を合わせた場所なのだとユカリが囁いた。
「……皮肉なものね」キキョウが巨岩の輪郭を暗視越しに睨んだ。「百花繚乱の守り神の膝元が、亡霊の最終防衛線ってわけ」
射程六百の世界はもうここにはない。角の向こうがすべて未知の三十メートルの世界。
――だが、四人はその三十メートルに一歩も踏み込めずにいた。
「……止まってくださいまし。糸、ですわ」
先頭のユカリの手が上がったのはこれで四度目だった。岩と岩の隙間、膝の高さ。雨に濡れてかすかに光る細引き。その先には見慣れた模擬発音筒。
「四本目……いえ。この太い通路にだけ何も無いのが不気味ですわね」
「なるほど」キキョウは暗視越しに地形を睨み、見取り図の上で木炭を止めた。罠の配置は奇妙な模様を描いていた。「見なさい。罠があるのは歩きにくい隙間ばかり、一番歩きやすい一本道にだけ綺麗に何も無い。……これは地雷原じゃないわ。導線よ。私たちをこの一本道へ流し込むための。城壁と、堀と、たった一つの門」
「流し込んだ先には?」
「決まってるでしょう。銃口よ」
ナグサは腕の端末に目を落とした。H+60:14。残り、十一時間四十六分。
「……彼は、狩りをやめたのね」彼女は静かに言った。「腹部を撃たれて走れなくなった。だからこの岩場を城に変えたのよ。私たちが踏み込まなければ彼はもう一発も撃つ必要がない。雨風を凌いで、三十分ごとに止血をやり直して、ただ夜明けを待てばいい。七十二時間が尽きた瞬間――試験は終わる。彼の勝ちで」
「はァ!? じゃ、じゃあ突っ込むしかねえだろ!」レンゲが唸った。「アタシの身体なら罠の一つや二つ踏んだって――」
「駄目よ」キキョウが即座に潰した。「発音筒の破片判定は四肢を持っていく。門をくぐる頃にはあんたの脚は重篤、あの狭さで頭と首を庇いながら走れる? 三十メートルの岩の迷路で待ち構えているのはあの先生の銃口よ。急所は生徒でも即死判定。……門をくぐった三歩目で、あんたは戦死する。参謀として断言してあげるわ」
「ぐ……なんだよそれ。待ったら負け、進んでも負けって……」
「待たないし、進まないわ」
ナグサだった。彼女は雨に霞む祠の輪郭を、じっと見上げていた。
「――彼を動かすの」
同じ頃、祠の軒下でウェッブは三十分に一度の儀式を終えたところだった。
圧迫帯を締め直し、濡れた指先の感覚を確かめる。体温は限界域。水は雨が解決した。弾薬は十分。そして時計だけが七十時間で初めて彼の側についていた。
(走って包囲を破る選択肢は死んだ。なら、走らない)
追い詰められた狙撃手の教科書的な最適解。防御陣地、単一の接近路、そして時間の消化。彼は自嘲気味にそれを認めた。窮地で守勢に回った瞬間に負けは決まる――それが彼の流儀だった。だが今夜の彼は主導権を手放したのではない。時間という名の援軍を、罠と石の城壁で呼び寄せたのだ。
射座は一つに決めてあった。祠の軒下。雨を凌げる屋根。背後に石。そして「門」を見下ろす射界。出血し、凍えていく人間の身体が一晩持ち堪えられる場所はこの岩場でここを措いて他にない。
(彼女たちがそれを読めるかどうか。……最後の教案だ)
作戦は岩陰で三分で組まれた。
「思い出して、私たちは彼を『人間として狩る』ことを覚えたわ」ナグサは見取り図に指を置いた。「あの時の鎖は水場だった。水の鎖はもう切れたけれど、今の彼はもっと重い鎖に繋がれてる。――出血と雨と体温。三十分ごとに止血をやり直さなきゃいけない人間が、この雨の中濡れる場所に伏せていられると思う?」
キキョウの目が見開かれ、それから獰猛に細められた。木炭が走り、見取り図に二つの丸が打たれる。
「雨を凌げて、背後に石があって、あの門を見下ろせる射座。……祠の軒下と東の岩庇。この岩場でその全部を満たすのは二つだけよ」
「どちらにいるかは分からない。だから――撃たせるの」
そしてナグサは指揮官として最も重い一手を口にした。
「レンゲ。あなたに撃たれてもらうわ」
一瞬の沈黙。レンゲはきょとんとし、それからにっと笑った。
「……ほう?」
「北側の外周、あの岩の切れ目。あそこを抜けられたら彼の城は横腹から崩れる。彼は絶対に見過ごせない。あなたが本気の脚で走れば彼は必ず一発撃つ。……その一発を、あなたの端末に食べてもらう」
「被弾ログの着弾ベクトル」キキョウが引き取った。声に、抑えきれない昂ぶりが滲んでいた。「初日、私たちは音に騙された。音は嘘をつく。――でもログは嘘をつかない。あんたの身体に刻まれた一発の入射角を逆算すれば、二つの丸のどちらから来たか、二秒で割れるわ」
「つまりアタシは囮で盾で計測器ってわけか」レンゲはスポッティングスコープを地面に置き、首をごきりと鳴らした。「上等じゃねえか。『動く遮蔽』はアタシが板壁に書いた教義だぜ。……胸から下なら好きに使え。頭と首だけは庇う。教わった通りにな」
「ユカリはレンゲの援護位置に撃たなくていいわ。撃ちそうな気配だけ思いきり撒き散らして彼の注意を北に釘付けにするの」
「お任せくださいまし。気配の大安売りですわ」
「そして私とキキョウは――」ナグサの指が、二つの丸のどちらでもない一点を突いた。祠の軒下と東の岩庇、二つの射座を結ぶ経路上。巨岩と巨岩が作る、幅二メートルの切れ目。「ここで待つ」
「射座じゃなくて、か?」
「彼は撃ったら必ず動く。射点に九十秒以上留まらない。それが彼の原則で――原則は癖。癖は読めるわ」ナグサは静かに言った。「軒下から岩庇へ、頭と胴を石に隠したまま移れる道は切れ目一本しかない。彼のいた場所は狙わない。……彼が来る場所で待つの」
「レーザーは?」
「使わない。彼には見える光だもの。距離は今のうちに測っておくわ。――二百十メートル、この距離なら彼が切れ目に晒す時間は〇・四秒。それだけあれば十分よ」
配置に一時間。ナグサとキキョウは切れ目を扇に収める斜面へ、一時間かけて十五メートルを「生えて」いった。かつて彼がそうしたように。伏せてからは微動もしない。落ち葉を払わず、乱さず、周囲とまったく同じに――ただし彼に教わった通り、几帳面すぎない程度に。
【H+69:02】
レンゲが走った。
祠の軒下でウェッブはその足音を三秒前から聞いていた。
(北の切れ目か…)
囮の可能性は八割。彼は冷静にそう見積もった。だが残る二割が問題だった。あの脚が本物なら抜けられた瞬間にこの城の横腹が開く。罠は北に薄く、回り込まれれば射界も雨を凌ぐこの軒も、すべてが無意味になる。
判断まで三秒、ボルトが音もなく閉鎖される。スコープの中、雨のカーテンを裂いて疾走する影、頭と首を肩越しに庇う独特の前傾――撃たれる前提の走り方、やはり囮だ。だが止めねばならない囮だった。
タンッ。
『被弾――胸部。中等傷』
「――効かねえよッ! そういう身体なんでな!」
レンゲは止まらなかった。止まらないまま切れ目の三歩手前で身を翻し、岩の陰へと滑り込んだ。役目はもう終わっていた。彼女の左腕の端末がその一発の入射角を〇・一秒で記録し終えていたからだ。
「ログ取得!」キキョウの囁きが無線を走り、データブックの余白で鉛筆が跳ねた。二秒。「――射点、祠の軒下! ワン、彼は動くわ! 経路上!」
そしてウェッブは動いていた。
撃発の残響が雨に溶けきる前に射座を捨て、石の陰を縫って東へ。腹の判定が歩幅を削る。それでも彼の移動は水が低きへ流れるように淀みなかった。巨岩の間の切れ目まで、あと三歩。
二歩。
――そこで、彼の足が半歩分だけ迷った。
切れ目の向こうの斜面、何も見えない。何も聞こえない。雨と闇と乱れ一つない落ち葉。
……何もなさすぎた。
(――几帳面すぎる)
彼が教えた言葉が、彼自身の首筋を冷たく撫でた。
同時刻、調停室のモニター上で七十時間もの間、五十五前後から動かなかった心拍数が七十四へと跳ね上がった。
だが、引き返す選択肢はすでに死んでいた。捨てた射座は座標が割れている。留まれば嬲り殺し。目の前の切れ目は〇・四秒。夜と雨がその〇・四秒を守る――確率はまだこちらにある。彼の脳は〇・二秒でそう結論を下し、彼の脚は結論の通りに石の間へと踏み出した。
その〇・四秒を御稜ナグサは二十七分前から待っていた。
スコープの中で雨のカーテンが人の形に裂けた。
タンッ。
一発。
『被弾――頭部。即死部位。戦死判定。……敵性目標ゴースト、無力化。演習終了』
雨音と五人分の端末が一斉に沈黙していく電子音だけが沢に響いた。
総経過時間、七十時間四十一分。
切れ目の石の間でウェッブは濡れた岩に背を預け、ゆっくりと座り込んだ。腕の端末では戦死を示す赤いランプが雨に滲んでいる。
この状況で彼の胸に去来したのは、屈辱でも敗北感でもなく――奇妙なほど静かな、誇りに似た何かだった。
足音が近づいてくる。四つ。彼女たちの銃口はまだ彼を外していなかった。戦死判定の出た敵にすら、確認が済むまで警戒を解かない。教えた通りだった。
やがて岩の上から狙撃手が降りてきて、泥濘に立ち、静かに告げた。
「敵性目標・ゴースト、無力化を確認。演習終了です。……教官殿、結果は?」
前髪から雨水が滴っていた。その目の中に、廃射的場で自分を見限っていたあの少女は、もうどこにもいなかった。
「――合格だ」
雨は上がり東の稜線の向こうがゆっくりと白み始めていた。演習終了の号令とともに五人の端末は一斉に沈黙し、七十時間分の「傷」は画面上から嘘のように消えた。だが四人の少女の足取りには、判定では消えない本物の疲労が確かな重みとして残っていた。
「はー……終わったぁ……」レンゲが泥まみれの顔で空を仰いだ。「なあ先生、腹減ってんだろ? MREまだ余ってるぜ。チリマカロニ」
「……もらおう」
「身共のクラッカーもお付けしますわ! 味は保証しかねますけれど!」
杣道を下りながらウェッブは半歩後ろから四人の背中を眺めていた。互いの装備の緩みを直し合い、キキョウがナグサのふくらはぎの歩様を横目で確かめユカリが眠りかけのレンゲの背嚢を黙って半分持つ。誰も指示していない。誰も指示される必要がない。
七十時間前、この門をくぐっていったのは優れた四人の射手だった。
今、下りてくるのは――一つの部隊だった。
(……悪くない三日間だった)
彼は自分の左腕のもう何も表示していない端末を一瞥した。狩られる側の三日間。それを「悪くない」と思える日が来るとは、イースト川に身を投げたあの夜の彼は想像もしなかっただろう。
【AAR――事後検討】
杣道の口には中継テントが張られ、機材ごと運び出されてきたモニターの前で目を血走らせた三人が待ち構えていた。
「見てた見てた見てたよぉ、全部!」ウタハが開口一番まくし立てた。「いやー最高のデータだ! 特に最後の待ち伏せ! それとキキョウ君、君の入射角の手計算、うちのサーバーの自動逆算より一・四秒速かったんだけど!? どういう頭してるのさ!?」
「……当然の結果ね」キキョウが前髪を直した。だが口元が緩むのを彼女は隠しきれていなかった。
「そういえば機材はどこで回してましたの?」
「それは後のお楽しみ〜」
彼女がキーを叩くと七十時間分のテレメトリが吐き出された。
――総交戦時間:七〇時間四一分。
――ゴースト射撃:一三発。命中五(うち至近弾判定二)。罠六基(作動一、無力化二、未作動三)。
――ロータス射撃:一七六発。命中二。
――ロータス損害:中等傷三、重篤一。処置成功率百パーセント。戦死ゼロ。
――総移動距離:ゴースト四七キロ。ロータス平均六七キロ。
「はい、ここでバイタル面白データのお時間ですー!」コトリがモニターを切り替えた。「まず先生! 七十時間の心拍がほぼ全域で五十五前後! 腹部に被弾した瞬間ですら五十七! それがたった一度だけ、H+六九・四――例の切れ目の手前で五十四から七十四へ跳ねてます! 頭部被弾判定の〇・三秒前! これはですね、予測モデルの破綻を脳が先に検知した時にだけ生じる驚愕反応でして、つまり先生の直感はナグサさんの潜伏を最後の最後で嗅ぎ当てていたという動かぬ証拠――なのにそのまま踏み込んだのは、確率計算が直感を上書きしたからで――」
「……〇・三秒」ナグサが小さく呟き、それから少しだけ得意げに目を細めた。「私の『不在』、あなたの直感に〇・三秒だけ勝ったのね」
「それとそれともう一つ興味深いのがですね! H+六三でロータス・スリーの心拍が交戦記録もないのに全期間最大値の一九〇を記録して――」
「コトリさん」
「はいー?」
「それ以上言ったら殺すわよ」
「ふえっ!?」
事後検討はウェッブではなく四人自身の手で行われた。それが最後の課題だった。何が起き、何が正しく、何が間違っていたか。時系列に沿って感情を排して一つずつ。四人は自分たちの失敗――音への誤指向や赤外線レーザーの過信や罠地帯での隊形の乱れ――を自分たちの言葉で腑分けしていきウェッブは最後に三つだけ付け加えた。
「一つ。初日に射座発見後の追撃を打ち切った判断は正しい。だが決心に時間を使いすぎた。戦場では遅い正解は間違いと同じ値段がつく」
「二つ。無線で禁句を言いかけた者がいる」
「うぐ……」
「未遂は未遂だ。だが記録には残す。……三つ」
彼は映像記録を巻き戻し涸れ沢盆地の囮の露営を映し出した。
「この焚き火だ。乱し方はいい。前の授業を正しく踏まえている。……だが、薪をくべ足す間隔が正確すぎた。疲れた小隊の火はもっと不規則に痩せてもっと不規則に蘇る。俺はこれで囮と確信した」彼は静かに言った。「嘘は細部で破れる。覚えておけ。……もっともお前たちは見抜かれることまで罠に織り込んでいた。だからこれは減点ではなく次への申し送りだ」
「なあなあアタシは!? アタシの成績は!?」レンゲが身を乗り出した。「……って言ってもアタシ、結局命中ゼロなんだよな……胸に二発貰って、走って、鳥を見てただけ……」
「その鳥がいなければユカリは撃てなかった」ウェッブは端的に言った。「そして最後の一発――お前の身体が食ったあのログがなければ、ナグサは待つ場所を得られなかった。射手は引き金を引いた者の名で記録される。だがあの二発は観測手と囮を三秒で志願した『計測器』のものだ。……胸に一発貰う仕事を笑って引き受ける兵士を俺は知らない」
「……お、おう」レンゲは耳まで赤くなり、ごまかすようにスポッティングスコープを抱え直した。「まあ? 囮と計測器ってのも悪くねえ仕事だよな」
「最後にもう一つ。確保に固執せず、戦死判定で終わらせた決心も正しい」ウェッブは静かに付け加えた。「キキョウの捕縛の教義は生徒に向けたものだ。俺は生徒じゃない。……教義は対象を選んで使え。全部に同じ物差しを当てる部隊から死んでいく」
検討が終わりウタハたちが機材の撤収にかかり少女たちが濡れた装備を解き始めた頃――キキョウがふと片付けの手を止めた。
「……ねえ先生。一つだけ聞いていい?」
「言え」
「七十時間。たった一人で火も焚けず、二十分ずつしか眠れず雨に打たれて、四人に追われ続けて。……あんた、ずっとああいう世界で生きてきたの?」
テントの中が少しだけ静かになった。
ウェッブは濡れたギリースーツを畳む手を止めなかった。ただ、いつもよりわずかに長い間を置いて短く答えた。
「……昔の話だ」
なぜ指揮官をナグサにしたのか――その理由を結局誰も尋ねなかった。尋ねる必要がなかったからだ。七十時間の間、追撃を止め、囮を組み、包囲を絞り、そして最後の確保の号令をかけたのは彼女自身の声だった。
その夜、ウェッブは一人訓練記録の最終頁に評価を書き入れた。
銃弾を弾くヘイロー、個々の天賦の才。その超常の優位に二週間で叩き込んだ近代のドクトリンと彼女たち自身が書き足した独自の教義が組み合わさった時――百花繚乱紛争調停委員会は伝統と革新の入り混じるTier 1級の精鋭部隊へと変貌を遂げていた。
人間の兵士なら一個中隊を投入してなお取り逃がしかねない狙撃手の狩りを、四人の少女は七十時間想定戦死ゼロのまま完遂した。もはや彼女たちに足りないものは技術ではない。
(――残る空白は敵を知ることだけだ)
窓の外では雨上がりの夜空の下で祭り提灯の設営が着々と進んでいた。
地獄のような二週間になると男は言った。
約束は果たされた。
祭りまであと十二日。