『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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第17話(百鬼夜行編):都市伝説の証明

老朽化した木造の調停室は外から見ればただの古びた日本家屋のままだった。

 

だが引き戸を開けた瞬間四人は揃って声を上げた。

 

「「「「うわっ……」」」」

 

エンジニア部によって修繕された室内は古風な外観を裏切って別世界だった。畳の一部は取り払われ無数の電子機器が小さな駆動音を響かせている。壁一面のモニターには百鬼夜行自治区の街路の映像とクロノススクールの報道番組がいくつも同時に映し出されていた。

 

「なんですのこれは……! 古いお屋敷が映画の秘密基地に……!」ユカリが目を丸くする。

 

「うおおおこれぞ『それっぽい』の極致……!」レンゲが両手を掲げた。

 

キキョウはもうモニターの前へ歩み寄っていた。「これ全部リアルタイム? 街の主要な辻を……ちょっと待って。百鬼夜行にこんな監視網があったなんて話は聞いたことがないわよ」

 

「なかったからね。十日前までは」

 

部屋の奥から油の染みた手袋を外しながら白石ウタハが現れた。その背後ではコトリが端末に齧りつきヒビキが配線の束を黙々と留めている。

 

「街の主要な辻四十六箇所。カメラと回線全部うちの新設だよ。この屋敷の改装と並行してね」ウタハは腰に手を当てそれからじろりとウェッブを睨んだ。「――で言わせてもらうけどね先生!」

 

「言え」

 

「うちはミレニアムの誇るエンジニア部であって便利な万事屋じゃないんだよ!? 交戦シミュレーターの新規開発に雨漏りするボロ屋敷の全面改装、市内四十六箇所のカメラ設置と回線敷設、おまけに歩容解析ソフトのおまけ付き! それを全部並行して十日で!」

 

「間に合ったな」

 

「間に合わせたんだよ!! ……ああもうこの人はこれだから」ウタハは肩を落としそれから懐から一枚の紙を取り出してウェッブの胸に押しつけた。「はい請求書。心を込めて盛らせてもらった。技術料、特急料、深夜作業手当、精神的苦痛への慰謝料込みだ」

 

横から覗き込んだキキョウが桁を三度数え直して白目を剥いた。

 

「ちょっ……これ暗視装置の時の総額より……」

 

「妥当だ」ウェッブは請求書を一瞥しただけで折り畳み懐に収めた。「経費で落ちる」

 

「即決!?」ウタハの方が拍子抜けした顔になりそれからにやりと笑った。「……ふん、まいどあり。ま、正直言うと楽しかったけどね。こんな面白い発注ミレニアムでも滅多に来ないし」

 

「設置楽しかった」ヒビキが配線の陰からぼそりと同意した。

 

「屋根の上からの眺め最高でした〜! あと提灯屋のおばあちゃんに大福もらいました!」コトリが手を挙げる。

 

「一つ確認よ」キキョウが真顔に戻った。「街中に無断でカメラを付けて回ったの? 百鬼夜行には統一された自治権力がないわ。一体誰の許可を取ったのよ」

 

「取ってない」ウェッブが端的に答えた。「取れる相手がいないからだ。……ただし黙認は取り付けてある」

 

「黙認?」

 

「陰陽部だ。設置作業は連中の見回りに三度見つかっている。三度とも報告は上がって握り潰された」ウェッブは中央モニターを指した。「ニヤはシャーレの動きだと分かった上で見逃した。祭りを守るのに必要な措置だと判断したんだろう。……代金はいずれ別の形で請求されるだろうがな」

 

その予言は思ったより早く成就することになる。

 

---

 

「もう一つお前たちに見せておくものがある」

 

ウェッブは部屋の奥に新設された鋼製のロッカーの扉を開けた。

 

そこには青いMk14の予備弾倉やグロックの整備用具に並んで――四挺の古い銃が手入れされた状態で静かに架けられていた。青みがかった木製の銃床。長い銃身。百花繚乱制式ライフル。

 

「『少女の決意』……!」

 

ユカリが駆け寄った。彼女は自分の銃の木目を確かめるように撫でそれから涙目でウェッブを振り返った。

 

「て、てっきり処分されてしまったものと……身共聞くのが怖くて……」

 

「捨てるとは一度も言っていない」ウェッブは静かに言った。「『命を賭ける主装備にはしない』と言った。それだけだ」

 

「ついでに言うとその骨董品うちで一通り診させてもらったよ」ウタハが横から口を挟み一挺を手に取ってボルトを操作した。かちりと絹のような閉鎖音がした。「……驚いたね。銃身は職人の手鍛え。ボルトの閉鎖剛性は今の量産品より上。要するにこいつら作りだけなら一級品なんだ。旧いのは思想であって鋼じゃない」

 

「……つまり?」キキョウが目を細めた。

 

「高倍率スコープを載せて精密弾を誂えてやれば――六百メートルの向こうの一点を獲る勝負ならMk14を食う『かもしれない』」ウタハは銃を架に戻した。「半自動は構造上どうしても一点の精度でボルトに劣る。面の制圧はMk14で針の一刺しはこの子たち。改修案の見積もりはもう出してある。……ただし作業は祭りの後だ。直前に装備をいじるなってのはそこの参謀さんの持論だろ?」

 

「……ええ。今度こそね」キキョウが苦笑した。

 

ナグサは架けられた四挺を見つめそれから自分の傍らの百蓮に視線を落とした。伝統を捨てず更新する。あの日この人が百蓮に下した扱いが仲間たちの銃にも同じように及んでいた。

 

「伝統は捨てるものじゃない」ウェッブはロッカーの扉を閉めながら言った。「更新するものだ。……お前たちが証明していけ」

 

---

 

エンジニア部が引き上げた後ウェッブは四人を板壁の前に集めた。そこには復元された脅迫状の写しとその横に乾いた筆致で書かれた三つの言葉が初日から貼られたままになっていた。

 

――実在。正体。手段。

 

「先生がニヤの依頼を受けた日に立てた三つの問い」キキョウが板壁の前に立ち一同を振り返った。もう彼女がこの部屋の進行役だった。「一、花鳥風月部は実在するのか。二、実在するなら誰がどこで何をいつどうやる気なのか。三、それを止める手段は何か。――この二週間私たちは『手段』の側を鍛えてきた。銃を替え身体を作り替えた。でも肝心の一問目と二問目はまだ白紙のまま」

 

「え? ですが敵は脅迫状を……」ユカリが戸惑う。

 

「大きな催しの前に届く脅迫状の九割は悪戯だ」ウェッブが静かに言った。「都市伝説の名を騙れば箔がつく。祭りを潰したい者や騒ぎを見たいだけの者。候補はいくらでもいる。――俺たちはまだ花鳥風月部が実在することすら証明していない。憶測で兵を動かせば本物の脅威を見逃すかありもしない影に戦力を溶かす。どちらでも人が死ぬ」

 

「だから今日からはこっちの番よ」キキョウが板壁を叩いた。「守って待つのは終わり。第一問から順に私たち自身の手で潰していく」

 

ウェッブが授けたのはかつて彼が砂漠でアビドスの少女たちに叩き込んだのと同じ技術だった。元外交官の情報分析論という穏やかな仮面の下に隠された血生臭いスパイの技術。

 

情報が回る輪。何を知りたいかを決め集め裏を取って分析し使える形にして共有する。人から聞き出すヒューミント。公開情報を繋ぐオシント。そして――敵が捨てたものを漁るトラッシュ・インテリジェンス。

 

「人は口では嘘をつく。だが捨てるものは嘘をつかない」ウェッブは静かに言った。「もう一つ。集めた情報には必ず札をつけろ。『確認された事実』か『合理的な推定』か『未検証の仮説』かそれとも『空白』か。この四つを混ぜた瞬間情報は毒に変わる」

 

---

 

最初の収穫はその日の夕方に向こうから運ばれてきた。

 

「よいしょよいしょ……にゃ、にゃも〜なんで部長の私が荷運びなんですかぁ」

 

引き戸を開けて現れたのは古びた桐箱を抱えた天地ニヤだった。その後ろで副部長のカホが冷ややかに腕を組んでいる。

 

「日頃の行いです。それ、部長が先生と交わした約束ですよね。私は手伝いませんからね」

 

「カホちゃんが冷たい……にゃはぁ先生お約束の品ですよぉ。陰陽部の書庫の一番奥で先代から『触るな』とだけ言い付かってきた箱。――『祭りを二度と怪談と結びつけるな』のブツです」

 

ニヤは机に桐箱を置き――そして部屋を埋めるモニターの群れをぐるりと見回してにんまりと笑った。

 

「それにしても立派な監視網ですねぇ。うちの見回りの子たちが『屋根の上に不審なミレニアム生が』って三回も報告してきたんですよ。三回とも私の机の引き出しで安らかに眠ってもらいましたけど」

 

「感謝する」

 

「いえいえ。……ところで先生。これ今朝がた道端でたまたま拾ったんですけどぉ」

 

ニヤは袖から一枚の付箋をひらひらと取り出した。几帳面な手書きの英数字の列。――監視網の閲覧用の符牒だった。

 

ウェッブの目がすっと細くなった。

 

「……ウタハか」

 

「さぁて誰でしょうねぇ。大福三つで口が軽くなる親切な誰かさんとしか。にゃは」ニヤは付箋を大事そうに袖へ戻した。「まあまあ固いこと言いっこなしですよ。街中を映す目ん玉を黙認してあげてる大家としては家賃くらい頂かないと」

 

「……条件を付ける」ウェッブは溜息を一つ飲み込んだ。「閲覧は治安目的に限る。記録の持ち出しは禁止。破った時点で符牒を替える」

 

「商談成立です〜」

 

「あの人たち似た者同士ね……」キキョウが小声で呻いた。

 

---

 

桐箱の蓋が開けられると四人は思わず身を乗り出し――そして一様に言葉を失った。

 

中にあったのは綴りと呼べる代物ではなかった。

 

水を吸って固着し縁を焼かれ虫に喰われた紙の断片の山。かろうじて綴じ紐の残る束が二つ。墨は滲み頁の順序すら分からない。

 

「……これが封印文書ですの?」ユカリが呆然と呟いた。

 

「封印なんて格好いいものじゃないんですよぉ実は」ニヤは肩をすくめた。「二十年前の火事のあと当時の部長が燃え残りをかき集めて箱に詰めた。それだけです。『触るな』の言い伝えは封印というより――読める者が誰もいなかったからですかねぇ。読めない紙は触っても崩れるだけですし」

 

「二十年前の記録が綺麗に残ってるなんて虫のいい話はないってことね」キキョウは白手袋をはめながらむしろ闘志を燃やした目で断片の山を見下ろした。「上等よ。――ライトテーブル借りるわ。ウタハの置き土産が早速役に立つじゃない」

 

そこから三時間調停室は物音一つしない工房と化した。

 

キキョウはピンセットで断片を一枚ずつ持ち上げ、紙質と墨の濃淡で束を分類し、綴じ穴の位置と間隔で頁の順序を復元していった。欠けた文字は欠けたまま。埋めた推測にはすべて鉛筆で印をつける。ウェッブは口を挟まずただ一度だけ「断片の物理的な並びと文の意味の繋がりを混ぜるな。並びは事実で繋がりは推定だ」と言った。

 

やがてライトテーブルの上に穴だらけの物語が浮かび上がった。

 

『――火は雨の夜に█まれたり。水を掛くれども消えず雨に打たれて尚██広がる。かの炎この世の火にあらず』

 

「……雨の夜に。水を掛けても消えない火」キキョウの声が硬くなった。

 

『――前夜廃社にて怪談の█の開かれし由後に聞き及ぶ。百の物語を語り終えし時火は█まれたりと』

 

「怪談の会……」ナグサが呟いた。

 

そして最も焼損の激しい最後の一片。

 

『――火を招きし者勘解由小路の巫女なりし█と云う。名は記さず。記せばその名がまた物語となる故に』

 

「……ッ」

 

小さく息を呑む音がした。ユカリだった。彼女は自分の名字が記されたその一行を瞬きも忘れて見つめていた。

 

「勘解由小路の巫女……? 身共の家の……?」

 

「札を付けるわよユカリ。落ち着いて聞いて」キキョウはピンセットを置き努めて事務的に言った。「まず『事実』は――この断片が存在すること。それだけ。文面の中身は全部当時の部長という一人の書き手の記録。『前夜の怪談の会』は本人も『後に聞き及ぶ』と書いてる通りの伝聞。そして『火を招きし者』の一行には根拠も経緯も何一つ書かれていない。誰がそう言ったのかすらね」

 

彼女は焼け焦げた一片を指した。

 

「これは告発文じゃない。……怯えた人間が怖かったものを書き殴った恐怖の記録よ。だから札は『二十年前勘解由小路の巫女がいた』が推定。『その巫女が火を招いた』は――当時の部長がそう信じていたという事実止まり。真偽は空白」

 

「なら身共が調べますわ」

 

ユカリの声は自分でも驚くほど静かだった。

 

「勘解由小路の家には家記がございます。祭儀を代々担ってきた家ですもの。二十年前に巫女がいたのなら必ず記録が残っておりますわ。……蔵のどこにあるかも身共は知っております」

 

「ユカリあんた……」レンゲが顔を曇らせた。「家を出たんだろ。戻れんのかよ」

 

「戻りとうはありませんけれど」ユカリは小さく笑った。少しだけ強がりの混じったけれど揺れない笑みだった。「これは百花繚乱のえり〜との任務ですもの。それに――身共の家が招いたかもしれない火なら身共の家の記録で確かめるのが筋ですわ」

 

「一人では行かせない。レンゲ、門まで送れ」ウェッブは短く指示しそれからニヤに向き直った。「ニヤ、もう一件照会を頼んでいた」

 

「にゃ、はいはい。――百蓮の件ですねぇ」

 

ニヤの声から珍しく茶化す色が抜けた。

 

「調べましたよ。委員会に残っていたはずの記録は二十年前の大火でほとんど焼けてます。百蓮が実際に『怪異』を撃った記録も力の発動条件も紙の上にはもう何も残ってません。……残っていたのはうちに伝わる口伝がたった一つ」

 

「言え」

 

「――『百蓮は担い手の覚悟を量る』」

 

ニヤは肩をすくめた。

 

「初代委員長クズノハ様の言葉だと伝わってます。それが銃の仕様の話なのか心構えの説教なのか私には分かりかねますけどねぇ」

 

調停室に沈黙が落ちた。全員の視線がナグサの傍らに立てかけられた古い狙撃銃に集まる。

 

「……仕様書はなし。取扱説明は精神論が一行。とんだ骨董品ね」キキョウが乾いた声で言った。

 

「発動の紐付けはどうなっている」ウェッブが問うた。「伝承では百蓮の真価は『委員長の権限』に応えるはずだ。その権限はどうやって受け渡される」

 

「継承戦ですわ」

 

答えたのはユカリだった。彼女は少し決まり悪そうにしかしはっきりと説明した。

 

「百鬼夜行の教範に記された下克上の制度ですの。百花繚乱の上に立つ者には紛争を調停するに足る能力が求められますわ。その肩書に似合わぬ者がいると幹部が判断した場合メンバーが継承戦を申し込むことでその座を奪うことができます。……成立には証人が二名。百花繚乱の幹部が一人と百花繚乱以外の外部の立会人が一人。……実を申せば身共最初はナグサ様にこれを挑んで委員長になるつもりで陰陽部に立会いをお願いしようとしておりましたの」

 

「そうだったな」ウェッブは頷いた。「俺が『やり方が古い』と止めた」

 

「教範に載っているということは」キキョウが顎に手を当てた。「制度そのものは委員会が潰れても紙の上に生きてる。……ならいつか委員会が正式に復活した暁には正規の手続きで委員長の座と百蓮の権限を繋ぎ直す道は残ってるってことね。何度も行われた制度じゃないみたいだけど」

 

「その日までは棚に上げる」ウェッブは断を下した。「そして本題だ。――百蓮は『検証』できるのか」

 

四人が顔を見合わせた。

 

「検証と言われても……」ナグサが百蓮を見下ろした。「この銃の真価は怪異にしか向かないと伝わっています。撃つ相手の怪異がいないことには……」

 

「そこが致命的な問題だ」ウェッブは板壁の前に立った。「装備の検証には試験環境がいる。だが怪異とやらは超常の事象だ。訓練場に呼び出す手段も再現する技術も俺たちにはない。念のためウタハに聞いた。答えは『うちは科学の部活だよ!?』だった」

 

「でしょうね……」

 

「つまり百蓮は初弾を撃つその瞬間まで当たるかどうか誰にも分からない銃だ」ウェッブは板壁の一角に四文字を書き付けた。――未検証の仮説。「俺は未検証の装備を切り札には数えない。だが検証不能である以上この件は棚上げする。棚上げした穴は手順で塞ぐ。――今中止基準を決める」

 

彼は全員を見渡した。

 

「仮に怪異が実在し仮にそれが現れそして百蓮が沈黙した場合。その瞬間から全部隊は交戦を放棄し住民の避難誘導に全戦力を切り替える。倒せない敵と戦うな。守れるものを守れ。全員復唱は要らない。頭に刻め」

 

ナグサは百蓮を静かに見つめていた。

 

覚悟を量る。

 

その言葉は彼女の胸の一番深いところに小さな棘のように残った。

 

---

 

そして帰り際――桐箱の埃を払っていたニヤがふと手を止めた。

 

「……先生。耳の痛い事務連絡が一件。いえ」彼女は珍しくおどけた仮面を自分から下ろした。「白状が一件です」

 

「言え」

 

「百花繚乱の解散の件です。……宣言が出たのが先月。キキョウちゃんの要請で正式な解散手続きはあの時からずっと進んでいました。連合の各勢力に書類が回って承認の判が一つずつ揃っていって――最後の判が揃ったのが」

 

ニヤは一拍置いた。

 

「あなたたちが北の山で泥だらけになって駆け回っていた頃です」

 

調停室の空気が凍りついた。

 

「……は?」レンゲの声が裏返った。「ちょ、ちょっと待て。それってつまり」

 

「ええ。百花繚乱紛争調停委員会はもう書類の上では正式に存在しません。承認済み。撤回不能。私の一存では戻せません」ニヤは淡々と告げた。「そして私はそれを知ってから今日まで――黙っていました」

 

「そんな……」ユカリが声を落とした。

 

ウェッブは長い間無言だった。彼が口を開いた時その声は静かでそして冷たかった。

 

「ニヤ。初日に言ったはずだ。次にどこかが鋏で切り落とされていたらその時点で俺は降りると」

 

「言われましたねぇ」

 

「なぜ隠した」

 

「賭けたからですよ」ニヤは悪びれもせず微笑んだ。「承認が下りたあの日私の前には二つの札がありました。一つは律儀に報告して立ち直りかけている子たちの心をへし折ってついでにあなたに降りる口実を差し上げる。二つは黙ってあなたがこの子たちに深入りするのを待つ。……先生。今この瞬間のあなたに聞きます。――降りられます?」

 

ウェッブは答えなかった。

 

「降りられないでしょう? 山であの子たちを七十時間も追い回した教官が今更」ニヤはにゃはと笑いそれからその笑みをすっと消した。「……というのが狡い方の半分です。もう半分はもっと格好悪い話でしてね」

 

彼女は桐箱の蓋を指先でそっと撫でた。

 

「あの子たちが変わっていくのを私は毎日見てたんです。腐ってた切り込み隊長が朝から通話表を歌って冷めきった参謀が徹夜で教範を抱きしめて消えてた副委員長が仲間の真ん中に戻ってきて。……そこへ『あなたたちの看板が正式に消えましたよ』って告げに行く勇気が私にはありませんでした。水を差すのがただ怖かった。隠したというより――先送りにしたんです。今日この箱を運ぶ口実ができるまでずっと」

 

沈黙が落ちた。

 

やがてウェッブは静かに息を吐いた。

 

「……お前のやり方は信用しない」

 

「でしょうねぇ」

 

「だがお前の読みは正しい。俺は降りない。降りて困るのはお前じゃない。この街とこの四人だからだ」ウェッブはニヤをまっすぐに見た。「その代わり新しい規則だ。以後陰陽部に届く百花繚乱関連の文書は受領した当日に俺へ回せ。判断はこちらでする。お前の『勇気』を経由させるな」

 

「……はぁい。肝に銘じます」ニヤは首をすくめそれから顔を上げた。「では実務の話を。委員会が存在しない以上あなたたちが街で動く名目が要ります。――陰陽部からシャーレへの正式依頼。その履行のために先生が編成した臨時部隊。名目はそれで十分です。羽織はまあ」

 

ニヤは空色の袖を一瞥してにゃはと笑った。

 

「験担ぎの衣装ということにしておきましょうか」

 

「……回りくどいわね」キキョウが目を細めた。彼女はまだ承認の一件を消化しきれない硬い顔のままだった。「あんたの用件はその先でしょう。『復活させたい』って顔に書いてあるわよ」

 

「にゃはぁ、優秀な参謀は嫌いですねぇ」

 

ニヤは悪びれもせずそれから初めて商人の顔になった。

 

「条件を一つだけ。――二十年ぶりの燈籠祭が平和裏に無事に終わること。そうしたら私は『祭りを守り抜いた実績』を手土産に百花繚乱の復活を連合の各勢力に諮ります。それなら通せる。通してみせます。……でも祭りが焼けたら話は逆さまです。守れなかった治安組織の復活案なんて誰が賛成します? その時は――永久にこのままです」

 

沈黙が落ちた。

 

「……人質を取られた気分だぜ」レンゲが唸った。

 

「逆だ」ウェッブが静かに言った。「報酬の後払いだ。実績で信用を買い戻す。……潰れた組織の再建としてはこれ以上ない正攻法だ」

 

「にゃは先生には話が早くて助かります」

 

ニヤは引き戸に手をかけ最後にほんの少しだけ茶化しの抜けた声で付け加えた。

 

「……私だって百花繚乱には戻ってきてほしいんですよ。陰陽部は武力を持たない。持てない。あの空色の羽織が街を歩いているだけでどれだけの揉め事が起きずに済んでいたか――帳簿をつけていた人間が一番よく知っていますから」

 

引き戸が閉まった。

 

しばしの沈黙の後口を開いたのはキキョウだった。

 

「……気づいてるかしら? ナグサ。委員会が正式に消えた以上あんたは今や委員長代理ですらないのよ。百蓮が『委員長の権限』に応える銃だとしたら――」

 

「ええ」ナグサは膝の上の古い狙撃銃を見下ろした。その声は静かだった。

 

「今の私はただの御稜ナグサ。……『百蓮は担い手の覚悟を量る』。なら――量ってもらうだけよ」

 

---

 

そこから数日四人はそれぞれの網を張った。

 

キキョウは調停室に張りつき真新しい監視網を睨み続けた。四十六の目玉は忠実に街を映し続けた。ほどなく彼女は兆候を掴んだ。魑魅一座・闇市流の連中が同じ場所を何度も下見のように触って回っている。商店街の提灯の列。祭りの櫓の足場。人の流れが束になる辻。ユカリとレンゲが雑踏に紛れてその一人を尾行し連中が執拗に「触って」いた提灯の根本を夜を待って検めた。

 

――何もなかった。

 

装置も細工も火薬の匂いの一つすらも。

 

「おかしいですわ」戻ったユカリが眉を寄せた。「あれだけ念入りに下見をしておいて何も仕掛けていないだなんて……」

 

報告を受けたウェッブは闇市流が触れた地点をすべて地図に落とさせた。そして自らも夜の商店街へ出てその一つひとつを指の腹と目で検めた。結論は変わらなかった。

 

「発火装置に爆薬に燃料の備蓄――物理的な仕掛けは一つも存在しない」ウェッブは静かに告げた。

 

「だが下見そのものは事実だ。組織的で反復されていて地点の選び方に明確な優先順位がある。連中が『何か』の準備を進めている。それは確認された事実。……そして洗っても仕掛けが出てこないことも同じ重さの事実だ」

 

「見つからないのが事実……?」レンゲが首を捻る。

 

「探していないから無いのと探しても無いのは違う」ウェッブは地図の赤い印を見渡した。「これだけ洗って出てこないなら敵の火は俺たちの知っている火ではない可能性がある。……第一問の答えには近づいた。だが第三問――手段はむしろ遠のいたと思え」

 

そして監視網はもう一つの奇妙な獲物を吊り上げていた。

 

「……ねえ、これ見て」

 

深夜キキョウがモニターの前に全員を呼んだ。画面には三つの映像が並んでいた。提灯職人の老爺。屋台の売り子の娘。参拝客風の生徒。三日の間にそれぞれ別の下見地点の近くを通り過ぎた何の関係もないはずの三人。

 

「顔も背格好も服も全部違う。……でも歩き方を見て」

 

彼女がウタハの歩容解析ソフトを走らせると三つの人影の関節の動きに同じ色の線が重なった。歩幅。重心の落ち方。右足の抜きのわずかな癖。

 

『歩容一致率――九二パーセント』

 

「……同じ人間?」ナグサが息を呑んだ。

 

「顔は毎回違うのに歩き方だけが同一。三日で三つの顔。全部闇市流の下見地点の傍」キキョウは板壁に向かいマーカーを走らせた。「札はこう付けるわ。『確認された事実』――同一の歩容を持つ複数の"別人"が下見地点周辺に出没している。『合理的な推定』――練達の変装使いが少なくとも一人いる」

 

「玄人だな」ウェッブが画面を見つめて低く言った。「顔を変えるのは誰でもできる。歩き方まで変えられないのが素人だ。……こいつは顔を変えることに慣れきって歩き方を変える必要を感じたことがない。つまりこれまで一度も歩き方で足がついたことがない。――相当に場数を踏んだ変装使いだ」

 

「カメラ様々ね」キキョウがぽつりと言った。「彼女に大福でも送っておくわ」

 

---

 

だが第一問への最後のそして決定的な答えは――向こうからやってきた。

 

その晩ナグサが一人聞き込みの帰り道を歩いていた時だった。

 

祭りの喧騒から一本外れた暗い路地。背筋を撫でるような冷たい笑い声が闇から響いた。

 

「くふふ……ずいぶん熱心に嗅ぎ回ってるじゃないですかぁ副委員長サマ」

 

ナグサは瞬時に百蓮の銃把へ手をかけ振り返った。手に火縄銃を提げた一人の少女が立っていた。街のどの生徒とも違う常軌を逸した気配。

 

「手前は花鳥風月部の箭吹シュロ。都市伝説とやらの正体でございますよぉ」

 

その一言でナグサの中の最後の疑いが氷解した。花鳥風月部は実在した。

 

だがシュロの狙いは名乗りではなかった。彼女は懐から黒く歪んだ一冊の書物――奇書を取り出した。

 

「せっかくですから余興といきましょうか」シュロの目が愉悦に濡れた。「手前の怪談は人の心の一番隠したい場所を暴くのが得意でしてねぇ」

 

奇書がぼうっと昏い光を放つ。ナグサの胸の奥から無理やり何かが引きずり出される感覚。それは彼女がかつて必死に隠してきた内心そのものだった。

 

「見せてあげますよぉ手前さんの本性を」シュロが嗤った。「手前さんが吐き続けてきた『アヤメへの敬意』なんて綺麗事の嘘。本当は――アヤメという盾を失って優秀な副委員長というメッキが剥がれ無能な正体がバレるのが怖くて逃げ出しただけ。雪原で腕を伸ばしてその腕が蝕まれた恐怖に耐えきれず親友を見捨てて自分だけ逃げた。……手前さんはそういう卑怯な偽物なんですよぉ!」

 

それは本来ならナグサの精神を粉々に打ち砕くはずの猛毒の言葉だった。

 

だが――ナグサは崩れなかった。

 

彼女は静かにその暴露を受け止めていた。そして悲しげにしかし穏やかに微笑んだ。

 

「……ええ。全部その通りよ」

 

シュロの笑みが凍りついた。

 

「私は無能な偽物。アヤメの代わりなんて務まらなかった。怖くて逃げ出した。腕が動かなくなるのが怖くて親友の手を掴みきれなかった。……そんなことあなたに暴かれるまでもなく私はとっくに知ってる」

 

ナグサは震える右腕をそっと左手で包んだ。だがその瞳はもう揺れていなかった。

 

「少し前の私なら今の言葉で崩れていたでしょうね。でも――もう遅いの。私はその全部をある人に暴かれる前に自分から認めさせてもらったから」

 

ウェッブのあの廃射的場での言葉が彼女の背骨になっていた。お前はアヤメじゃない。御稜ナグサだ。欠けたまま隣に立つのが本物の兵士だと。

 

「私はアヤメにはなれない。ただの御稜ナグサ。アヤメの親友。……それでいいの」ナグサはまっすぐにシュロを見た。「だからあなたの怪談は私には効かない」

 

シュロはしばらく言葉を失っていた。

 

彼女の怪談は標的の「否認」に食い込む。隠した恥や認めたくない弱さ。それを暴くことで心を砕く。だが目の前の少女はその弱さをとうに自分の一部として受け入れきっていた。暴くべき「隠し事」がどこにもなかった。

 

「……なにそれ。気持ち悪い」シュロは動揺を嘲りで塗りつぶした。だがその声はわずかに上ずっていた。「まあいいです。せめてこれはご存じないでしょう? あの脅迫状の隠された結末。――『百鬼夜行は炎に包まれて燃え上がる』。せいぜい震えて――」

 

「……それも知っているわ」

 

ナグサの静かな一言がシュロの言葉を遮った。

 

「あの手紙が届いた日先生が切り取られた痕から全文を復元していた。あなたたちの脅迫状は届いた瞬間から丸裸だったの」

 

勿体ぶったシュロの笑みがこの夜二度目の空振りに終わった。彼女は忌々しげに舌打ちすると煙のように夜の人混みへと消えた。

 

ナグサはしばらくその場に立ち尽くした。それから通信機を握った。

 

「キキョウ、先生。……第一問に答えが出ました」

 

---

 

「――実在は確定。実行者の名は箭吹シュロ。そして敵の『武器』の正体に仮説が立った」

 

調停室。ナグサの報告を聞き終えたキキョウが板壁の「実在」の文字の上に赤い線を引いた。

 

「敵の怪談は人の隠された絶望や恐怖に食い込む」彼女は青ざめたまま分析を続けた。「シュロはナグサの内心を暴いて心を砕こうとした。……もしナグサが先生に救われる前だったらあの場で崩されていたわ。そして復元した断片の記述と繋げるなら――連中の百物語は恐らく人間の恐怖や絶望を燃料にして『怪異』を生む。二十年前の消えない炎もそれで説明がつく」

 

「札は『仮説』のままにしろ」ウェッブが釘を刺した。「筋は通るが怪異とやらを俺たちはまだ一度も見ていない。……ただし対処は仮説の側に備える。それが保険というものだ」

 

「もう一つ引っかかってることがあるの」キキョウは復元された脅迫状の写しを指した。「先生初日に言ってたわよね。この紙は数十年物で書き手は今の学園で読み書きを覚えた人間じゃない可能性が高いって。――でもシュロはどう見ても私たちと同世代の生徒よ。あの子がこの達筆をこの古紙に書いた?」

 

「あり得ないとは言わん。だが不自然だ」ウェッブは頷いた。「シュロは実行者だ。手紙の書き手じゃない。――背後に年経た頭目がいる」

 

「頭目……」

 

「そしてその頭目に触れた可能性のある人間がこの部屋に一人だけいる」

 

ウェッブの視線が静かにナグサへ向いた。

 

「ナグサ。お前は雪原でアヤメが連れ去られる場に居合わせた。この街でただ一人の『向こう側』の目撃者だ」

 

ナグサの肩が強張った。右腕が無意識に疼く。

 

「……ごめんなさい。あの日のことは思い出そうとすると頭に霧がかかったようになって。吹雪と腕の痛みと……断片しか」

 

「それでいい。断片で十分だ」ウェッブは椅子を引き彼女の正面に座った。「一つ俺の技術を貸す。認知面接――記憶の回収技術だ。尋問じゃない。お前が思い出せないんじゃない。思い出したくない記憶に心が鍵をかけているだけだ。その鍵を壊さずに開ける」

 

「……先生はそんなことまでできるのですか」

 

「昔の商売道具だ」ウェッブは短く答えた。そしてほんの少しだけ声の温度を上げた。「言っておく。途中でやめたくなったらいつでもやめていい。決めるのはお前だ」

 

ナグサは百蓮を膝に抱えしばらく黙っていた。それから静かに頷いた。

 

「……お願いします。私は知らないままでいる方が怖い」

 

部屋の灯りが落とされた。キキョウたちは息を潜めて壁際に下がる。

 

「目を閉じろ。あの日の朝から始める。順番はどうでもいい。正しく話そうとするな。見えたものや聞こえたものに匂いや寒さ。感じたものだけを感じた順に言え。俺は誘導しない。質問もほとんどしない」

 

低く平坦でどこまでも静かな声だった。ナグサの呼吸が少しずつ深くなっていく。

 

「……雪。横殴りの雪。まつ毛が凍って目を開けているのが痛い。……地図はもう役に立たなくて。……お堂。半分埋もれた古いお堂の匂い。黴と線香と……」

 

「その匂いのそばで最後に見たものは」

 

「……アヤメの背中。青色の羽織が雪で白くなって。呼んだの。何度も。振り返ってくれなくて。……腕を伸ばして」

 

彼女の右腕が跳ねた。呼吸が乱れる。ウェッブは急かさなかった。

 

「時間を巻き戻せ。腕を伸ばす前だ。お堂の前に立った時そこにあった音は」

 

「――声」

 

ナグサの声が変わった。

 

「……アヤメじゃない。女の人の声。柔らかくて歌うみたいで……訛っていた。聞いたことのない訛り。『――ようやった。ええ物語や』……傘。雪の中なのに赤い唐傘をさしてて。アヤメの隣に……」

 

「その女は名乗ったか」

 

長い長い沈黙があった。

 

そしてナグサは鍵のかかっていた最後の扉を自分の手で開けた。

 

「……『覚えとき。我はコクリコ。――この子の物語の続きを書く者さね』」

 

目を開けたナグサの頬を涙が伝っていた。だが彼女は崩れなかった。震える右腕を左手で押さえ自分の口から出た名前をもう一度自分の耳で確かめるように繰り返した。

 

「コクリコ。……アヤメを連れて行ったのはコクリコという女です」

 

「よく戻った」ウェッブは静かに言った。それは記憶からの帰還を労う彼なりの精一杯の言葉だった。

 

かつて全記憶を失い自分の名前すら他人の口から知らされた男が記憶の回収技術で少女を導く。その皮肉を彼は誰にも語らなかった。

 

---

 

そして翌日の夕刻。二本目の糸が一本目に結ばれた。

 

「――ただいま戻りましたわ」

 

調停室の引き戸を開けたユカリは埃をかぶった古い綴りを胸に抱えていた。門まで送ったレンゲがその少し後ろで気遣わしげに続く。

 

「家記ありましたわ。蔵の身共が昔かくれんぼをした棚の奥に」ユカリは綴りを机に置き少しだけ笑った。「家を飛び出して以来初めてあの門をくぐりましたの。……門番の爺やが泣いておりましたわ。それだけが収穫以外の収穫ですの」

 

開かれた頁には勘解由小路家の厳格な筆致で二十年前の記録が残っていた。こちらは蔵の奥で火にも水にも触れずに眠っていた紙だった。

 

『――燈籠祭の神事巫女これを務むべきところ儀の直前に持ち場を離れ還らず。儀は破れ街は焼け家名は地に堕つ。よって当代巫女を除籍とす』

 

そして除籍の一行にその名は消されることなく残っていた。

 

『――巫女 コクリコ』

 

「……一致した」

 

キキョウの声が掠れた。彼女は板壁に走り書きした二枚の紙片を震える手で並べて留めた。ナグサの記憶から回収された名。家記に残された名。出所のまったく異なる二つの情報源が同じ一つの名を指している。

 

「二系統の独立した情報源の一致。――ただし一致したのは『コクリコという名の巫女が実在し儀の直前に持ち場を離れて除籍された』ことまでよ。『火を招いた』は燃え残りの断片に書かれた当時の部長の伝聞。だから札はこう分ける。『確認された事実』は巫女コクリコの実在と除籍。『合理的な推定』は彼女が二十年前の火に関与していること。そして『空白』――なぜ彼女は儀の直前に持ち場を離れたのか。除籍の理由は職務放棄であって放火じゃない。放火なら家記は必ずそう書くはずだもの」

 

「それと……先生」ユカリが綴りの別の頁を開いた。「系譜を遡りましたの。この方は勘解由小路の血筋。……身共の遠い縁者にあたりますわ」

 

彼女の声は静かだった。静かすぎた。

 

「家の道具として育てられ家の体面のために切り捨てられた巫女。……その人が二十年後街ごと家を焼きに戻ってくる。――笑えない話ですわね。一歩間違えばそれは身共だったかもしれませんもの」

 

誰もすぐには言葉を返せなかった。

 

「……待って。計算が合わないわ」キキョウが我に返ったように顔を上げた。「二十年前に巫女を務めていたなら今はもうとっくに大人のはず。でもナグサの記憶の女は赤い唐傘の『少女』……よね?」

 

「ええ。私たちとそう変わらない歳に見えた」

 

「二十年姿が変わっていない……?」キキョウは自分の腕をさすった。「駄目ね。考えれば考えるほど普通の生徒じゃない。人間かどうかすら怪しい。……こいつらただの都市伝説じゃないわ。もっと得体の知れない何かよ」

 

---

 

その夜。板壁の前に全員が集まった。

 

キキョウが街の地図を広げ赤い印を打ち込んでいく。闇市流の下見ルート。そして敵の姿が確認された地点。

 

「情報を整理するわ。先生に教わった通り札をつけて」

 

彼女はチョークで板を三つに区切った。

 

「『確認された事実』。花鳥風月部は実在する。実行者は箭吹シュロ。頭目はコクリコ――二十年前に除籍された勘解由小路の元巫女。下見地点の周辺に同一の歩容を持つ複数の"別人"が出没している。実行部隊は金で雇われた魑魅一座・闇市流。組織的な下見は確認済み――ただし発火装置や爆薬の類は一切発見されていない」

 

「『合理的な推定』。決行は燈籠祭の大花火の刻――脅迫状の文面と二十年前の再現という敵の様式から。同一歩容の"別人"たちの正体は練達の変装使い。そして敵の『火』は事前設置に依らない。決行の間際に持ち込まれるかその場で生み出される――仕掛けが皆無である以上そう考えるしかない」

 

「『未検証の仮説』。恐怖と絶望を燃料に怪異が生まれる。二十年前の消えない炎はそれによるもの。対抗手段は百蓮――ただし口伝のみで検証は不能」

 

そして彼女は最後の欄の前で手を止めた。

 

「――『空白』。コクリコの現在の所在。変装使いの素顔と正体。コクリコが儀の直前に持ち場を離れた理由。そして――敵の発火手段そのもの」

 

「そこだ」ウェッブが板を指した。「今夜全員に一番覚えてほしいのはその欄だ。俺たちが名前と存在を掴んだのはシュロにコクリコに変装使い。――だがこれは『少なくとも三人』であって『三人だけ』という意味じゃない。確認できた敵と実在する敵は別物だ。この区別を忘れた部隊は数えていなかった敵に横から殺される」

 

四人は神妙に頷いた。板壁の「空白」の二文字が妙に大きく見えた。

 

「その上で次の問いに進むわ」キキョウが地図に向き直った。「敵の狙い。二十年前の再現が様式なら火だけじゃ足りない。仮説が正しいなら連中には怪異を生むための『燃料』が要る。祭りの当日最も深い絶望を抱えた心の弱った誰かが」

 

彼女の指が地図の天守閣広場でぴたりと止まった。燈籠祭の特設ステージ。

 

「……神事の巫女」

 

「巫女?」レンゲが問う。

 

「二十年ぶりの燈籠祭には天と交信する神事がある。その中心に立つのが巫女。祭りのクライマックスに大勢の視線をたった一人で浴びる孤独で逃げ場のない役目。……そして二十年前まさにその巫女だったのがコクリコ。敵の様式としてこれ以上の的はないわ」

 

「巫女はまだ立っていないはずだ」ウェッブが記録を確認した。「燈籠祭の神事は代々ひとつの家が担ってきた世襲の役目。務められる者は事実上一人しかいない」

 

調停室の視線がゆっくりと一点に集まった。

 

勘解由小路ユカリ。この街の祭儀を代々担ってきた名家のただ一人の娘。

 

「……つまり」キキョウの声が硬くなった。「敵が巫女の絶望を器にするつもりなら狙いは最初から決まっている。家に縛られ孤独で逃げ場のない巫女――あんたよユカリ。二十年前の自分と同じ場所に立つ娘」

 

「シュロに絶望を突かれて……最悪の怪異を生み出す器にされる」ナグサが身を固くした。

 

その沈黙の中で――当のユカリが静かに前へ進み出た。

 

「……その巫女身共が務めますわ」

 

「ユカリあんた何を言って……!」レンゲが目を剥く。「話聞いてたか!? そこが一番危ないんだぞ! 敵に直接狙われる役目だ!」

 

「わかっておりますわ」ユカリはいつもの気弱な様子ではなかった。まっすぐに皆を見返していた。「だからこそ身共がやるのです」

 

彼女は机の上の家記にそっと手を置いた。

 

「昨日久しぶりにあの門をくぐってよく分かりましたの。身共は物心ついた頃から家の体面を取り戻すための道具でしたわ。夢も意志も誰一人尊重してはくれなかった。巫女役も本来なら家が身共に押しつけてくるお役目でした。……コクリコという人はきっとその果てにああなったのですわ」

 

「ユカリ……」ナグサが痛ましげにその名を呼んだ。

 

「でも今の身共は違いますの」ユカリは顔を上げた。その瞳に涙ではなく静かな炎が宿っていた。「身共は先生に拾っていただきました。百花繚乱の皆さまに居場所をいただきました。もう身共は家の道具ではありません。――家に強いられる『道具』としてではなく身共が身共の意志で選び取る『覚悟』として巫女をお引き受けしますわ」

 

彼女はウェッブに向き直った。

 

「先生。教えてくださいましたわよね。名誉とは誰も見ていない時でも正しいことを行う姿勢だと。……そして敵が巫女の絶望を狙うと言うのなら」

 

彼女はニコリと笑った。それは少女のしかし鍛えられた戦士の笑みだった。

 

「身共は絶望などいたしませんわ。敵が身共の心を砕こうと忍び寄ってきたなら――それは敵の方から身共の間合いに飛び込んでくるということ。ナグサ様がシュロの怪談を跳ね返したように身共も跳ね返してみせます。……そしてその隙を皆さまが突く。巫女を囮にした罠ですの」

 

被害者になるのではない。囮となって敵を誘き寄せる罠になる。

 

ウェッブはしばらく無言だった。

 

彼は子供を囮に使うことを何よりも嫌う。それは彼の譲れない一線だった。だが――目の前の少女は道具として使われるのではなく自らの意志で覚悟を持ってその役目を選び取ろうとしていた。しかも敵の頭目と同じ痛みを知った上でその痛みの先の別の答えとして。それは彼が彼女たちに求め続けてきたものそのものだった。自分で考え判断し決断する。

 

「……危険な役目だ」ウェッブは静かに言った。「だがお前が自分で選ぶなら止めはしない。その代わり――一人にはさせない。巫女のお前を必ず全員で守る。それが条件だ」

 

「はいですわ先生!」ユカリが満面の笑みで頷いた。

 

「なら次にやるべきことは決まっている」ウェッブは付け加えた。「巫女は運営委員会が立てるものだ。お前の口から正式に伝えろ。ただし敵情は明かすな。シズコに背負わせていいのは祭りの重さまでだ。それ以上を知れば彼女自身が標的になる」

 

「開示の線引きですわね」ユカリは頷いた。「では善は急げですわ。レンゲ様お供をお願いしても?」

 

「おう任せろ。……なんか嫌な予感がするけどなアタシ」

 

---

 

【和風喫茶・百夜堂】

 

「いらっしゃいませ〜! 百夜堂へようこそにゃんにゃん♪ ……あっユカリちゃん!」

 

暖簾をくぐった二人を看板娘モードのシズコが完璧な営業スマイルで出迎えた。だがユカリの顔を認めるとその笑顔に本物の色が三割ほど混ざった。

 

「ちょうどよかったお茶していってください! 実は今ね例の……巫女の件でいよいよ大詰めなんです」

 

「大詰めと申しますと?」

 

「勘解由小路のお家との交渉ですよ〜」シズコは声を潜めカウンターの下から分厚いファイルの束をどさりと取り出した。背表紙には几帳面な字で『勘解由小路家対策・第七次案』とある。「もう三週間押したり引いたりの膠着状態で。世襲のお役目だから務められる方は事実上お一人しかいないんですけど――お家の側が『巫女を出す条件』を山ほど付けてきて」

 

「条件……」

 

「『儀が成った後は家に戻ること』『しかるべき教育を修め直すこと』『委員会ごっことやらは金輪際やめること』……ってあれ? これ全部ユカリちゃんのことじゃ……」シズコは今更のように瞬きした。「と、とにかく! こっちは条件なしを求めてあちらは一歩も引かなくて。でもやっと昨日仲介役の選定に目処が付いて手土産リストも百二十品目まで絞り込んで来週にはいよいよ当主様と直接――」

 

「シズコ様」

 

ユカリは背筋を伸ばしまっすぐに頭を下げた。

 

「その巫女身共が務めますわ。――家の許しではなく身共自身の意志で正式にお引き受けいたします」

 

時が止まった。

 

シズコは口を開けたまま三秒固まりそれから両手で口を覆いみるみる目を潤ませた。

 

「ほ、ほんとに……? ほんとにほんとですか!? やった……やったぁ! これで神事が立つ! 二十年ぶりの燈籠祭が完璧に……っ」

 

彼女は飛び跳ねて喜び――その拍子にカウンターの上の分厚いファイルの山がどさどさどさと雪崩を打って床に落ちた。

 

『第七次案』。『手土産リスト(最終選定版)』。『仲介役候補・身辺調査綴り』。『想定問答集・全百二十頁』。

 

シズコの動きが止まった。

 

「…………あれ? じゃあこの三週間の根回しは……」

 

「…………」

 

「手土産リスト百二十品目は……当主様の好物の羊羹の老舗に予約した特注品は……昨日徹夜で仕上げた想定問答集は……」

 

「……し、シズコ様?」

 

「もっと早く言ってほしかったですぅぅぅ……!!」

 

シズコはカウンターに突っ伏した。看板娘の仮面が音を立てて剥がれ落ちその下から徹夜続きの一人の経営者が現れた。

 

「わ、私のこの三週間……お祭りの準備と店の営業の合間を縫って寝る時間削って自腹で羊羹予約して……ぜんぶぜんぶ徒労……」

 

「わ、悪かったって! な!? ほらうちのお嬢も昨日決めたばっかりでよ!」レンゲが慌てておしぼりを差し出す。

 

「……ぐすっ。いえ。いいんです。神事が立つのが一番ですから。ええええ一番ですとも……」

 

シズコはおしぼりで乱暴に目元を拭い――そして三秒後がばりと顔を上げた。その目はもう涙の膜の下で商売人の光を取り戻していた。切り替えの早さは彼女の看板より確かな本領だった。

 

「――よし切り替えました。ならこの資料一枚も無駄にしません」

 

「へ?」

 

「ユカリちゃん。神事には装束と祭具が要ります。あれは勘解由小路家の蔵が納めてきた家宝で仕来りでは当主の手から巫女へ直に渡されるもの。……つまりどのみちあの門は誰かがくぐらなきゃいけないんです」彼女は床に散ったファイルを一冊拾い上げぱんと埃を払った。「当主様の人となりに地雷や好物に話の通じる従者の名前――全部この綴りに入ってます。三週間の膠着は伊達じゃありませんから」

 

ユカリは差し出されたファイルとシズコの充血した目を交互に見て――深々と頭を下げた。

 

「……ありがたく頂戴いたしますわ。この御恩必ず晴れ舞台でお返しいたします」

 

「ふふ期待してますね。二十年ぶりの巫女様」シズコはにっこり笑いそれから小声で付け加えた。「……あと羊羹の予約はキャンセル料かかるので当日の楽屋見舞いに転用しますね。食べてください。絶対ですよ」

 

帰り道レンゲが呆れ半分感心半分で呟いた。

 

「……たくましいよなぁあの委員長」

 

「ええ。……あの綴り正直百物語より心強いですわ」

 

――結局あの門をまたくぐるのですね。ユカリは夕焼けの空を見上げ少しだけ遠い目をした。だがその横顔に以前の怯えはもうなかった。

 

---

 

だがその決意の直後に現実の重さが数字でのしかかってきた。

 

その夜の調停室。キキョウが地図に自分たちの守るべき青い持ち場を書き込んでいく。そしてその手が止まった。

 

「……先生。これ無理よ」その声が震えた。「同時に守るべき場所が多すぎるわ。火の回りやすい木造密集区や花火台や塞がれかねない出口に囮のユカリと特設ステージに所在不明の頭目と正体不明の変装使い……持ち場が六つも七つもあって全部街の端から端まで離れてる」

 

彼女は顔を上げた。

 

「私たちは四人。どんなに鍛えられても四人は四人。同時に何か所もいられない。監視網が四十六の目玉をくれても駆けつける脚は四対しかないのよ」

 

言葉にするとそれは残酷なほど明白だった。

 

「アタシが三人ぶん働けば……」レンゲが拳を握る。

 

「無理よ。これは根性じゃなくて算数の問題」キキョウが首を振った。「私たちは圧倒的に手が足りない」

 

調停室の空気が重く沈んだ。その絶望の縁でキキョウはふと視線を上げた。

 

視線の先のウェッブと目が合う。言葉はいらなかった。作戦参謀の少女とこの道の専門家は同じ一つの結論へ辿り着いていた。

 

(――百花繚乱にあと二つの部隊を統合するしかない)

 

修行部と忍術研究部。この街に残された戦える手はもうそれしかなかった。

 

「……先生も同じことを考えてたのね」

 

「ああ」ウェッブは頷いた。「百花繚乱と修行部と忍術研究部。三つが一つにならなければこの祭りは守れない」

 

「修行部はまだいい」レンゲが頭を抱えた。「ツバキ先輩たち夜のパトロールもやってるし面識もある。でも忍術研究部は非公認の部活だぞ。旧校舎の地下にこっそり潜んでて護衛の請負で食い繋いでる連中で正直部長の顔もよく知らねえ」

 

「まったく毛色の違う二つの部活」ナグサが静かに整理した。「互いに面識も薄い。私たちとも薄い。その二つを口説き落として仲間に引き入れる。しかも」

 

「引き入れて終わりじゃない」ウェッブが続けた。「連中をお前たちと共に戦えるようにする必要がある。装備を渡し通信を教え連携を叩き込む」

 

「そんな……!」ユカリが悲鳴を上げた。「身共たちですら二週間かかりましたのに!」

 

「残された時間は」キキョウがカレンダーを見た。「祭りまであと十日」

 

十日。面識も薄い異質な二つの部活を説説し統合し共に戦えるまで鍛え上げる。誰がどう考えても無謀だった。

 

その沈黙を破ったのはナグサだった。

 

「ねえみんな」その声は静かで揺るがなかった。「少し前の私たちは崩れて散り散りで自分すら見限っていた。そんな私たちを先生は諦めなかった。一人ずつ拾い集めてここまで作り変えてくれた。――今度は私たちの番じゃない?」

 

彼女は三人を見渡した。

 

「修行部も忍術研究部もそれぞれに事情を抱えてる。日陰にいるには理由がある。でもそれは少し前の私たちと同じ。手を伸ばせば届く場所にいる。先生にしてもらったことを今度は私たちがあの子たちにする。それだけのこと」

 

レンゲがはっと顔を上げた。「……そうだよな。アタシは鬼教官だ。誰かを鍛えるのが仕事だ。十日だろうがやってやるよ」

 

「無謀を可能にする段取りを組むのが参謀の仕事」キキョウが口の端を上げた。「もう頭の中で線が引け始めてる」

 

「身共が繋ぎ役になりますわ!」ユカリが胸を張った。

 

四人の目に決意の光が揃って灯った。

 

ウェッブはその様子を静かに見つめ内心で頷いた。これこそが彼の目指した形だった。鍛えられた現地の部隊が自らの意志で立ち上がり自らの手で仲間を増やし組織を広げていく。

 

「決まりだな」ウェッブが言った。「前に出るのは俺じゃない。お前たちだ。俺は後ろで助言する。二つの部を口説くのも鍛えるのもお前たち自身の仕事だ」

 

「「「「はい先生!」」」」

 

四つの声が調停室に力強く響いた。

 

---

 

その頃。天守閣の最上層。

 

賑わう街を見下ろしながら箭吹シュロが退屈そうに種子島を撫でていた。だがその横顔にはいつもの余裕がわずかに欠けていた。

 

「コクリコ様ぁ。……妙なんですよあの副委員長サマ」シュロが忌々しげに言った。「手前の怪談が効かなかったんです。内心を暴いてやったのに。あの女平然と全部認めやがった。……気持ち悪い。おまけに脅迫状の結末までとっくに読まれてました」

 

闇の中から京都訛りの声が応じた。

 

「……ほう。己の影を受け入れたと」コクリコの声に初めて微かな警戒が滲んだ。「厄介やな。我らの怪談は隠したい心にしか爪を立てられん。隠すものが無うなった心は怪異を生まぬ」

 

「あの用心棒の仕業ですよぉきっと」シュロが吐き捨てた。「あちこちでガキどもの心を丈夫にしやがって。手前たちの天敵だ」

 

「じゃが案ずることもないさね」コクリコは愛でるように言った。「心を丈夫にできる者は限られとる。あの男が一人で街中の人間の心を守れるわけやない。祭りの夜あの膨大な群衆の中には絶望に心を明け渡す者が必ずおる。……それにあの男は必死に手を増やそうとするやろ。高う高う希望を積み上げてな。その希望を花の咲く夜に根こそぎ焼き払う。――その方が絶望は深うて美しいさね」

 

彼女の瞳が闇の中で爛と燃えた。

 

無数の提灯が何も知らずに橙色の灯を夜風に揺らしていた。

 

祭りまであと十日。

 

三つの問いのうち二つに答えが出た。実在は証明され正体は名を露わにした。だが最後の問い――「手段」の答え合わせはまだ始まってもいない。

 

崩れた城壁をさらに広げようとする者たちとその城もろともすべてを灰にしようとする者たち。静かな戦いはいよいよその核心へと動き出そうとしていた。

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