『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
その朝、調停室の板壁には新しい紙が二枚貼り出されていた。
一枚には「修行部」。もう一枚には「忍術研究部」。
「昨日決めた通りこの二つの部隊を仲間に引き入れる」ウェッブは四人を見渡した。「期限は三日。祭りまであと十日しかない以上、勧誘と統合に割けるのはそこまでだ。……そして最初に言っておく」
彼は一歩下がって板壁の前を四人に譲った。
「口説くのはお前たちだ。俺は同行するが後ろにいる。助言はするが代わりに頭は下げない。交渉の席で俺は一言も喋らない」
「は!?」レンゲが素っ頓狂な声を上げた。「いやいやいや、先生がやった方が絶対早いって! 元外交官なんだろ!? 口八丁で丸め込むのなんて得意中の得意じゃんか!」
「早いだろうな」ウェッブはあっさり認めた。「だが駄目だ。理由は三つある」
彼は指を折った。
「一つ。俺が口説けばそれは俺の部隊になる。お前たちが口説けばお前たちの仲間になる。祭りの夜に命を預け合うのはお前たちだ。俺じゃない」
「二つ。俺は外の人間だ。シャーレの顧問がいつまでも一つの街に張り付いていられる保証はどこにもない。俺の顔で繋いだ縁は、俺がいない朝には使えない縁だ。お前たちの顔で繋いだ縁は、この街に残る」
「三つ」ウェッブはわずかに間を置いた。「――お前たちはもう撃ち方を覚えた。歩き方を覚えた。生き残り方を覚えた。だが組織を率いる人間に一番必要な技術はまだ教えていない。人を動かす技術だ。銃は敵を止めるための道具だが言葉は仲間を増やすための武器だ。そして仲間を増やせる組織だけが俺がいなくなった後も生き残る」
四人は顔を見合わせた。
「これは訓練の続きじゃない」ウェッブは静かに締めくくった。「お前たちの最初の実任務だ。最初の実任務が射撃じゃなく交渉になる。……いい部隊の育ち方だと俺は思う」
「で、でも先生」ユカリが不安げに手を挙げた。「身共たち交渉なんて習っておりませんわ。どうやって……」
「だから今日は座学だ」ウェッブは机に着席を促した。「一日で俺が二十年かけて覚えたことの背骨だけ渡す。……安心しろ。撃ち方よりは簡単だ。人間は的より大きいからな」
「それ冗談のつもり?」キキョウが真顔で聞いた。
「五割ほどは」
---
【座学・第一部――国務省編】
「まず交渉とは何かを定義する」
ウェッブは黒板に二つの言葉を書いた。ポジション。インタレスト。
「昔、国務省の研修で最初に叩き込まれる寓話がある。――姉妹が一個のオレンジを取り合っていた。二人とも『オレンジは私のものだ』と譲らない。見かねた母親はオレンジを真っ二つに切って半分ずつ与えた。公平な解決だ。……だが最悪の解決だった。なぜか分かるか」
四人がきょとんとする。やがてキキョウが眉を寄せた。
「……待って。二人が『何のために』オレンジを欲しがってたかによるわね」
「その通り。姉はジュースを絞りたかった。妹はケーキに使う皮が欲しかった。つまり丸ごと一個あれば二人とも百パーセント満足できた。半分こにした瞬間、二人とも五十パーセントしか手に入らなくなった」
ウェッブは二つの言葉を線で区切った。
「『オレンジをよこせ』がポジション――表向きの要求だ。『ジュースが欲しい』『皮が欲しい』がインタレスト――その要求の下に埋まっている本当の利害だ。素人の交渉はポジション同士をぶつけて削り合う。プロの交渉は相手のポジションの下を掘ってインタレストを探し当てる。……いいか。人を動かしたいならこちらの都合を並べるな。相手が本当は何に渇いているのかを見ろ。その渇きに応えろ。交渉の基本のすべてだ」
「渇きに応える……」ナグサが手帳に書き取った。
「次。BATNA」ウェッブは横文字を書き付けた。「交渉が決裂した場合の最善の代替案。交渉に入る前に必ず自分に問え。『この話が流れたら俺には他にどんな手がある?』――代替案が強い側は余裕を持って交渉できる。代替案が無い側はそれを悟られた瞬間に足元を見られる」
「じゃあ質問」キキョウが即座に手を挙げた。「今回の私たちのBATNAは?」
「いい質問だ。答えてみろ」
キキョウは少し考えてから嫌そうに顔をしかめた。
「……無いわ。修行部に断られたら代わりの実働部隊は存在しない。忍術研究部に断られたら代わりの斥候部隊も存在しない。私たちのBATNAはゼロ。交渉としては最悪の手札よ」
「そうだ。ではその最悪の手札でどう卓に着く?」
「隠す……のは無理ね。向こうも馬鹿じゃない。人手が足りてないことくらい見れば分かる」
「なら?」
キキョウは長く息を吐いた。
「……正直に言うしかないの? 『あなたたちしかいない』って」
「正解だ」ウェッブは頷いた。「弱い手札を隠す努力は大抵の場合、手札そのものより高くつく。それに覚えておけ。『あなたの代わりはいない』という言葉は交渉の弱みであると同時に――言われた側にとっては人生でそう何度も聞けない言葉だ。弱みと贈り物は時に同じ形をしている」
授業は続いた。
決定権者の見極め。「会議で一番喋る人間が決定権者とは限らない。座の空気が誰の顔色を最後に窺うかそこを見ろ。決定権者とその前に立つ門番を見分けろ。門番を突破しようとするな。門番を味方にしろ」
沈黙の使い方。「提案を出したら黙れ。人間は沈黙に耐えられない。先に口を開いた側が大抵は譲る。……レンゲ、お前は特にだ。沈黙を三秒で埋めようとする癖がある」
「う……だ、だって気まずいじゃんか……」
「だが、気まずさは武器でもある。持ってろ」
傾聴の技術。「相手の言葉を相手の使った単語のまま繰り返せ。『つまりこういうことか』と自分の言葉に翻訳するな。翻訳した瞬間、相手は『ああ、この人は聞いていないな』と気づく。人間が本当に欲しいのは賛成でも助言でもない。まず『聞かれた』という事実だ」
そして約束の規律。
「約束できないことは口が裂けても約束するな。交渉は一回では終わらない。今日結んだ相手とは明日も祭りの夜もその先も付き合う。守れなかった約束は一つ残らずいつか最悪のタイミングで請求書になって戻ってくる。……信用は通貨だ。刷ることはできない。稼ぐだけだ」
昼前、ウェッブは棚から団子の包みを取り出して机に置いた。
「実技試験だ。レンゲ。この団子を俺に売ってみろ」
「へ? 団子を? ……よっしゃ任せろ!」レンゲは包みを掲げて胸を張った。「この団子はうまいぞ! 商店街の老舗の一品! 焼き加減絶妙、みたらしはコク深、しかもたったの三百円! 今買わなきゃ損だって!」
「いらん」ウェッブは即答した。「俺は今、腹が減っていない」
「な……じゃ、じゃあ半額! 百五十円!」
「値段の問題じゃないと言っている」
「ぐぬぬ……」
「はいそこまで」キキョウが呆れ顔で割って入った。「レンゲ、あんた今、講義の内容を一個も使ってないわよ。商品の説明――つまり自分の都合を並べただけ。先生のインタレストを一度も聞いてない」
「え? じゃあどうすりゃ……」
キキョウはウェッブに向き直った。「先生。一つ聞かせて。今日この後、誰かに会う予定は?」
「……ニヤに経過報告がある」
「手ぶらで?」
ウェッブは数秒黙ってから財布を取り出した。
「……三百円で買おう」
「うおおおお!? なんで!? 今の何!?」
「先生の渇きは『空腹』じゃなくて『手土産』だったのよ」キキョウが涼しい顔で団子をレンゲに突き返した。「売る前に聞く。……なるほどね。身体で分かったわ」
「……末恐ろしい生徒だ」ウェッブは本心から言った。
---
【座学・第二部――教科書に載っていない課程】
午後。ウェッブは黒板を消すと少しだけ声の温度を変えた。
「ここからは外交官の教科書には載っていない課程をやる」
「……載ってない?」キキョウの目がすっと細くなった。「外交官ってそんな講義まで受けるの?」
「受ける者もいる」
ウェッブはそれ以上答えず黒板に四つの文字を書いた。金。思想。弱み。自尊心。
「ある種の機関が人間を『獲得』する時に使う四つの鍵だ。頭文字を取ってMICEと呼ぶ。金で釣る。思想で口説く。弱みで縛る。自尊心をくすぐる。――人間は必ずこの四つのどれかに渇いている。渇きを見つけそこに手を差し込めば大抵の人間は落ちる」
調停室の空気がわずかに冷えた。午前の講義とは何かが違う。その手触りの生々しさに四人は無意識に背筋を伸ばした。
「獲得には手順がある」ウェッブは続けた。「まず発見。使える人間を見つける。次に評価。その人間の渇き、価値、危険を査定する。それから接近。偶然を装って知り合い時間をかけて信頼を育てる。そして最後に獲得。渇きに応える対価を示しこちら側に引き込む。……ここまでが技術だ」
「…………」
「そしてここからが本題だ」
ウェッブはチョークを置き四人に向き直った。
「この技術の行き着く先を俺は近くで見てきた。渇きを利用されて獲得された人間はいずれ必ず気づく。自分は仲間じゃなく道具だったと。そして道具は――用が済めば処分される」
その声は講義の声ではなかった。もっと暗くもっと深い場所から響いていた。四人は誰も口を挟めなかった。ナグサだけがふと思った。この人は今、教範ではなく墓標を読み上げていると。
「だからお前たちに命じる。技術は今日全部渡した。だが最後の一歩だけは逆に踏め」ウェッブは黒板のMICEを横一線に消した。「操作は渇きを利用する。同盟は渇きに応える。表面上の動きはほとんど同じだ。相手を調べ渇きを見つけそこに手を差し伸べる。違いは一つだけ――差し出す水が本物かどうかだ」
「本物の水……」ユカリが呟く。
「嘘は一つも使うな。誇張もだ。お世辞もだ」ウェッブは一人ずつ目を合わせた。「明日口説く相手は明後日には背中を預ける仲間になる。獲得の瞬間についた小さな嘘は必ず最悪の瞬間に破裂する。……お前たちが作るのは資産じゃない。仲間だ。忘れるな」
沈黙の中でキキョウがじっとウェッブを見ていた。元外交官。危機交渉の専門課程。教科書に載っていない講義。道具は処分されるという時のあの声。
(……この人の経歴、いつか必ず洗ってやるわ)
彼女は手帳の隅に小さくそう書き付けて頁を閉じた。
---
【ターゲット・パッケージ】
「では相手を知る作業に入る。交渉は席に着く前に八割決まる」
ウェッブは板壁に大きな白紙を二枚貼った。「これから二つの部活の『交渉カルテ』を作る。構成員。決定権者。渇き。恐れ。地雷。こちらが差し出せる本物の水。そして誰が口火を切るか。――全部お前たちの頭で埋めろ。俺は赤を入れるだけだ」
四人は自分たちの持つ情報を洗い出し始めた。
修行部についてはレンゲが一番詳しかった。
「部長は春日ツバキ先輩。二年であだ名は『眠り姫』。……いっつも寝てる。マジでいっつも寝てる。けど夜になると街の見回りに出てるんだ。アタシも夜駆けの訓練中に何度も会った。闇市流の連中が屋台を強請ってるとこに出くわした時なんか盾一枚担いで寝ぼけた顔のまんま五人まとめて追っ払ってた。……あれは強いよ。多分この街で一番」
「副部長は水羽ミモリ様ですわ」ユカリが続けた。「お祭りの調整で何度もご一緒しましたの。運営委員会のシズコ様の依頼で修行部は前々から祭りに向けた施設の点検と見回りを引き受けておられますのよ。お優しくて人望も厚くて……ただ」
「ただ?」
「……あの方、人の心を読みますわ。読心術師と噂されるほどの洞察の目ですの。取り繕った言葉はまず通用しませんわ」
「一年生の勇美カエデさんは元気なマスコット的な子」ナグサが補足した。「武器は信号拳銃だから前線向きではないけれどあの街の子供たちと顔が広い。それと……確か虫捕りの名人ね」
キキョウが白紙に手早く整理していく。
「決定権者はツバキ。ただし普段は寝てる。実質の窓口――門番はミモリ。読心術師相手だから演技も駆け引きも全部捨てる。誠実一択」彼女はペンを走らせた。「インタレストは明白ね。この人たちは『もう守ってる』のよ。シズコの依頼で夜回りをして闇市流を追い払って。つまり私たちの提案は『新しい仕事の依頼』じゃない。『あなたたちが既にやっている仕事に意味と勝ち目を与える』提案。……ここを外さなければ通る」
「懸念は?」ウェッブが後ろから問うた。
「……ある」キキョウはペンを止めた。「百花繚乱への不信。私たちは一度この街の夜を空けた。委員会が崩れてた間、夜を守ってたのは修行部よ。向こうからすれば『今更戻ってきて指図する気?』となっても文句は言えない。……ミモリなら絶対そこを突いてくる」
「突かれたら誰が答える」
四人は顔を見合わせた。ややあってナグサが静かに手を挙げた。
「……私が。委員会が崩れた理由を一番知っているのは崩れる場所に立っていた私だから」
ウェッブは何も言わず頷いた。
もう一枚のカルテ――忍術研究部は難航した。
「正直アタシ、部長の顔もよく知らねえんだよな」レンゲが頭を掻いた。「非公認の部活で旧校舎の地下にこもってて護衛の請負で食い繋いでるってことくらいしか」
「なら調べるところからよ」キキョウが立ち上がった。「ナグサ付き合って。裏取りに行くわ」
二人は午後いっぱいを聞き込みに費やした。忍術研究部が過去に請け負った護衛仕事の依頼主たち。商店の主人。荷運びの元締め。夜道の送りを頼んだ生徒たち。
夕方、調停室に戻った二人の報告は四人の想像を上回っていた。
「過去一年で確認できた護衛請負二十六件。完遂二十六件」キキョウが調査メモを読み上げた。「依頼主九人に直接聞き込んだ。評価は全員一致。『仕事が丁寧』『時間に正確』『払った額以上の働き』。中には『あの子たちが夜道についてくれてた時期だけは闇市流に絡まれなかった』って証言もある。……本物よこの子たち。日陰でずっとプロの仕事をしてた」
「部長の千鳥ミチルは三年生」ナグサが続けた。「忍者への情熱は本物。自作の忍具、自作の忍術、動画配信までやってる。……ただ過去に趣味を馬鹿にされたことがあるらしいの。それも一度や二度じゃなく。聞き込みの途中、昔の同級生だったという子がこう言ったわ。『ああ、忍者ごっこの子でしょ』って。悪気もなく笑いながら」
ナグサは手元のメモを見つめた。
「……部を公認にしたいという願いもずっと持っているらしいわ。公認には他部活の推薦が要る。でも推薦を頼みに行った記録がどこにもない。行けなかったのよ。頼みに行った先でまた笑われるのが怖くて」
調停室が静かになった。
「一年生が二人。久田イズナさんは忍者志望の元気な子。ただ幼い頃からその夢のせいで友達がいなかったそうよ。もう一人の大野ツクヨさんは百八十センチの長身で……その身体の大きさをずっとからかわれて育った。極端に内気で銃も苦手。でも」ナグサは依頼主の証言メモを指した。「『夜通し微動だにせず見張りに立っていた』『いてくれるだけで安心だった』。……この子の静けさは才能よ」
キキョウがカルテを埋めていく。決定権者はミチル。傷は嘲笑と非公認。渇きは――
そこまで書いて彼女のペンが走った。「自尊心をくすぐる」。
「消せ」
後ろからウェッブの声が飛んだ。赤鉛筆がその一行を横一線に消す。
「くすぐるな。午後の講義を思い出せ。……承認は本物の実績にだけ与えろ。幸いお前たちは今日足で調べた。二十六件、完遂二十六件。九人の証言。それは『おだて』じゃない。『監査結果』だ。数字と証言で承認しろ。それなら嘘が一グラムも混ざらない」
「……了解。書き直すわ」キキョウは素直に消した跡の上に書き直した。「渇き――『本物だと証明されること』」
そして彼女は「提供価値」の欄で手を止め、ペンの尻でこつこつと机を叩いた。
「……ミチルの渇きは『本物だと証明されること』。公認申請には公認団体の推薦が要る。本来なら百花繚乱の推薦状が最高の水だった。――でも」
「でも?」
「駄目ね。今の私たちに推薦権なんてない」キキョウは自嘲気味に笑った。「解散した委員会に、他人様を公認に推す資格があるわけないでしょう? 書類の上では、私たちは忍研と同じ非公認……いえ、一度掲げた看板を自分で下ろした分、それ以下よ」
調停室が静まった。最強の手札だと思われたカードは、めくってみれば白紙だった。
「……ならどうしますの?」ユカリが眉を下げる。「隠して口説くわけには……」
「いかないわ。ミモリと同じで、傷を持った相手に嘘は一グラムも通らない」キキョウはしばらく白紙のカルテを睨み――それから、ふっと顔を上げた。「……いえ待って。これ、弱みじゃないわ」
「は?」
「先生が言ったでしょう。弱みと贈り物は時に同じ形をしている、って」キキョウのペンが走り始めた。「私たちは今、忍研と同じ日陰にいる。同じ非公認。しかも祭りを守り切れなければ永久にこのまま。……この手札を全部、卓の上に表で並べるのよ。その上で約束できることだけを約束する」
彼女は二行、書きつけた。
「一つ、今回の作戦は陰陽部からシャーレへの正式依頼。参加した部隊の働きは陰陽部の公式記録に残る。これは確定事項――忍術研究部の名前が初めて百鬼夜行の公式の書類に『功』として載るの。二つ。百花繚乱の復活が認められたその日、再興した委員会の最初の公務として、忍研の公認申請の推薦状に全員の連名で署名する」
「復活しなかったら?」ナグサが静かに問うた。
「署名はできない。だからそう言うのよ、正直に」キキョウはペンを置いた。「条件付きの約束は条件ごと渡せば嘘にならない。……でしょ、先生?」
「良いか」後ろで赤鉛筆が短く動いた。「線引きを一ミリも間違えるな。復活は約束できない。公認も約束できない。約束できるのは記録と、復活した場合の最初の署名。……その二つだけだ」
「約束できないことは約束するなですわね」ユカリが午前の講義を諳んじた。
最後にナグサがカルテの余白を長いこと見つめていた。
「……どうしたの?」
「このカルテ」ナグサは小さく言った。「読んでいて苦しいの。……大好きなものを馬鹿にされて日陰に隠れて差し伸べられる手を『どうせ笑いに来たんだ』と疑って。――昔の私だもの」
彼女は顔を上げた。
「開幕は私にやらせて。本当のことをちゃんと話すから」
---
【模擬交渉】
「では最終確認だ。――模擬交渉をやる」
夜の調停室。ウェッブは椅子を一脚部屋の中央に置いて座った。
「軍隊は本番の前に必ず予行をやる。交渉も同じだ。……俺が千鳥ミチルを演る。カルテに書かれた傷と警戒を全部装備した状態のミチルだ。手加減はしない。かかってこい」
「先生がミチル役……?」レンゲが半笑いになった。「いやいや、大人のおっさんがタヌキ耳の女子高生の真似なんて――」
ウェッブがすっと視線を落とした。
肩が丸まる。腕が組まれる。身体が半身になって心理的な壁が立つ。そして顔を上げた時そこにいたのは歴戦の工作員ではなく――値踏みするような拗ねたような、傷つく前に傷つけようとする目をした「誰か」だった。
「……なに。百花繚乱がなんの用? こんな日陰の部活に」
声色を変えたわけでもないのに四人は一瞬本気でぞっとした。
「え、えっと」ユカリがつい実戦のつもりで前に出た。「身共たち百花繚乱紛争調停委員会ですわ! 実は祭りに重大な危機が迫っておりまして身共たちだけでは手が足りず、皆さまのお力をぜひ――」
「へえ」ウェッブ演じるミチルが冷たく遮った。「『手が足りない』。……つまり困った時だけ日陰に来たんだ。今まで一度だってうちに顔を出したこともないくせに。祭りが終わったら? どうせまた忘れるんでしょ私たちのこと。……公認様は気楽でいいよね」
「そ、そんなつもりでは……!」
「じゃあどんなつもり? 言ってみてよ」
ユカリが詰まった。レンゲが助け舟を出そうとして口を開いて何も出てこなかった。沈黙が痛いほど流れ――
「そこまでだ」ウェッブが姿勢を戻した。教官の顔に戻っている。「全滅だ。何が悪かったか分かるか」
「……私たちの都合を九割喋ったわ」キキョウが唸った。「『危機が迫ってる』『手が足りない』『力を貸して』。全部こっちの渇き。相手の渇きが一度も出てこなかった」
「その通り。そしてもう一つ。最初の一言を間違えた」ウェッブは言った。「傷を負った人間は扉を開ける前にまず一つのことだけを確かめようとする。『こいつは私を笑いに来たのか?』――その問いに答えるまでこちらの用件は一語も届かない。……ナグサ。お前の言っていた開幕案ここでやってみろ」
ナグサは深呼吸を一つして椅子の前に立った。
ウェッブが再び「ミチル」になる。「……なに。百花繚乱がなんの用?」
「千鳥ミチルさん」ナグサは静かに目線を合わせるように少しかがんだ。「先に私の話をさせて。――私はね、少し前までこんな日陰にいたの」
「…………」
「委員長の代わりが務まらなくて逃げ出して街外れの廃射的場に一人で隠れてた。『どうせ私なんて』って自分で自分を見限って。誰かが手を差し伸べてくれても『どうせ笑いに来たんだ』って棘で追い返して」
模擬とわかっていてもその声には嘘が一グラムもなかった。ウェッブは「ミチル」のまま数秒黙りそれからすっと素に戻った。
「……いいだろう。それが正解だ」彼は立ち上がった。「自分の傷を先に開くのは最強のラポール――信頼の橋になる。相手に『あなたは安全だ』と証明する唯一の方法は先にこちらが無防備になることだからだ。ただし警告しておく。これは本物の傷にしか使えない。作った傷や飾った傷は傷を持つ人間には必ず見抜かれる。……お前のそれは本物だ。だが本物を人前で開くのは痛い。使う覚悟はあるか」
「覚悟なら」ナグサは微笑んだ。「もう済ませてあります。先生のおかげで」
「なら行ける」ウェッブは頷き最後に付け加えた。「明日の順番だ。午前、修行部。読心術師のミモリに小細工は無意味だから技術は全部忘れて手の内を全部見せろ。それが唯一の技術だ。――午後、忍術研究部。開幕ナグサ、証拠キキョウ、提案ユカリ、そしてレンゲ」
「アタシは?」
「お前は一年生二人の顔を見ていろ。決定権者はミチルだがミチルの心はあの二人の顔色で最後に決まる。……仲間思いの部長というのはそういうものだ」
---
【修行部・道場】
修行部の道場はあくびが出るほどのどかだった。
部長・春日ツバキは盾を枕代わりに日向でうとうとと舟を漕ぎ副部長・水羽ミモリがその傍らで穏やかに繕い物をしている。一年生の勇美カエデは縁側で虫籠を覗き込み「今日こそオオクワの王を捕獲するの!」と一人で気炎を上げていた。
「ごめんくださいまし! 百花繚乱の勘解由小路ユカリですわ!」
「あ! ユカリお姉ちゃんだ!」カエデが真っ先に飛んできた。「あのね聞いて! 昨日ね、境内の裏でコクワガタの――」
「カエデ。お客様よ」
ミモリが顔を上げ柔らかに微笑んだ。それから――その瞳がふと四人の顔を順に撫でた。読心術師とも噂されるあの静かな洞察の目だった。
「……あら」
彼女は繕い物を膝に置いた。
「ずいぶんいいお顔になったのね。みんな。……特にナグサちゃん。前にお見かけした時はどこか思い詰めた顔をしていたのに。今は地に足がついているわ。……何か大きなものを乗り越えたのね」
「……はい」ナグサが静かに微笑んだ。「乗り越えさせてもらいました。だから今日はそのお礼を別の誰かに返しに来たんです」
ミモリはそれだけでおおよそを察したようだった。彼女は隣の眠り姫を起こさぬまま四人に座布団を勧めた。
「シズコさんから聞いているわ。ユカリちゃん巫女のお役目正式にお受けしたんですってね。シズコさん電話口で泣いて喜んでいたわよ。『これで神事が立つ』って」
「は、はい。身共の意志でお受けいたしましたの」
「『身共の意志で』」ミモリは繰り返し目を細めた。「……いい言葉ね。それで今日のご用件はそのお祭りのことかしら」
「はい」レンゲが居住まいを正した。「……ミモリ先輩。修行部がシズコの依頼でずっと祭りの見回りをやってるのは知ってる。アタシも夜駆けで何度も見た。闇市流を追い払ってるとこも。……その見回ってる街が今狙われてるんだ」
レンゲは順を追って語った。花鳥風月部の脅迫状。それが悪戯ではなく本物だと証明されたこと。執拗に繰り返される闇市流の下見。だが、どれだけ洗っても見つからない発火の仕掛け。狙われている祭りの夜。――ウェッブに定められた開示の線引きの内側でしかし一切の誇張なく。
聞き終えたミモリの顔から笑みが消えていた。だが動揺はなかった。むしろ静かな確認の色があった。
「……私たちが毎晩見回っていた道。闇市流を追い払っていた辻。あの道を、あの辻を、あの人たちは焼くつもりでずっと見て回っていたのね」
「はい」ユカリが頭を下げた。「身共たちだけでは手が足りません。修行部の皆さまのお力をお貸しいただけませんか。……皆さまが守ってこられた夜回りの道を皆さまと一緒に守らせていただきたいのです」
ミモリはしばらく黙っていた。それから繕い物の針を針山に戻し静かに言った。
「一つだけ。意地悪な質問をしてもいいかしら」
来た。四人は背筋を伸ばした。
「あなたたちの委員会は一度この街の夜を空けたわ」
その声は責める声ではなかった。だからこそ重かった。
「委員長さんがいなくなって看板が下りて。私たちが夜回りを始めたのはその空白を埋めるためだったの。シズコさんに頼まれるよりずっと前からよ。……ねえ。今度は崩れないとどうして言えるのかしら。私たちがあなたたちの旗の下に入ってそしてまたある朝突然その旗が消えていたら――今度こそこの街の夜は誰が守るの?」
レンゲが唇を噛んだ。ユカリがうつむいた。答えるべき人間は決まっていた。
「……崩れた理由からお話しさせてください」
ナグサが前に出た。
「百花繚乱が崩れたのはアヤメが――委員長がいなくなったからではありません。委員長一人に全部を預けていたからです。あの人のカリスマ、あの人の判断、あの人の強さ。組織のすべてがあの人という一本の柱に載っていた。だから柱が消えた朝屋根ごと落ちた。副委員長だった私は二本目の柱になれなくて逃げました。……それが真実です」
ミモリは黙って聞いていた。その洞察の目は一瞬も逸れなかった。
「今の私たちはその逆を作っています。誰か一人が倒れても崩れないように機能を分けて全員が互いの代わりを務められるように訓練を積みました。指揮も判断も一人に預けない。……教えてくれた人の受け売りですが――『組織を一人の天才に依存させるな』と」
「……それでも絶対とは言えないでしょう?」
「言えません」ナグサは即答した。「だから約束はしません。約束できないことを約束するなとこれも教わりましたから。私に言えるのは二つだけです。一度崩れた私たちは崩れ方を知っています。同じ崩れ方は二度としません。……そしてもう一つ。もし万一また私たちが崩れる日が来ても」
彼女はまっすぐにミモリを見た。
「その時この街に夜を守れる人たちが一つでも多く立っているように――だから今日私たちは仲間を増やしに来たんです。全部を私たちで抱え込むためではなくその逆のために」
長い沈黙があった。
やがてミモリはふと息をこぼした。それは笑みだった。
「……『合格』だなんて言ったら偉そうね。ごめんなさい、試すような真似をして」彼女は頭を下げた。「でも聞かなければいけなかったの。私はこの部の門番だから」
そして彼女は隣で舟を漕ぐ幼馴染の肩をそっと揺すった。
「ツバキ。起きて。……お仕事よ」
「んぅ……はぁ……なぁにミモリ……いいところだったのに……」
「私たちの街が燃やされるんですって。お祭りの日に。大勢の人と一緒に」
ツバキのとろんとした目がそこですっと細くなった。
寝ぼけた空気が嘘のように霧散する。盾を抱え直し彼女はゆっくりと立ち上がった。その佇まいはもう眠り姫のそれではなかった。
「……ふぅん。それはいけないなぁ」
凛と芯の通った声だった。
「私たちがなんのために毎日修行してると思ってるの。……誰も私の昼寝は邪魔させない。――この街のみんなの眠りもね」
彼女は四人を見た。おだやかでしかし途方もなく頼もしい部長の顔で。
「いいよ。修行の成果見せてあげる。……私が先頭に立つよ」
「ツ、ツバキ先輩かっこいいですーっ!」カエデが虫籠を放り出して飛び跳ねた。「カエデも! カエデもやるの! 素敵なレディーは街を守るの!」
修行部の合流はこうして決まった。帰り際ミモリが四人をそっと呼び止めた。
「ね。次はどこへ行くのかしら」
「……忍術研究部です」
「あの子たちね」ミモリは何かを見通すように少しだけ寂しそうに微笑んだ。「……優しくしてあげてね。あの部長さんうちのツバキとは逆なの。ずっと起きたまま――ずっと目をつぶっている子だから」
---
【辺境・旧校舎の地下】
忍術研究部の部室は陰陽部の目も届かない街外れの旧校舎、その埃っぽい地下にあった。
軋む階段を降りていくと地下から賑やかな声が漏れてきた。
「――というわけで今日の自作忍法紹介はここまで! チャンネル登録・高評価よろしくね! 以上、『少女忍法帖ミチルっち』でしたっ!」
「お見事でございましたミチル殿! ですが今の煙玉、少し湿気ておりました! さささ次はイズナが調合いたします!」
「……あの、お二人とも……そろそろご飯……」
ナグサが扉を叩いた。
中の声がぴたりと止んだ。数秒の沈黙。それから警戒しきった足音が近づき扉が細く開いた。
タヌキ耳の少女が隙間からこちらを覗いた。その視線が四人の――百花繚乱の青い羽織の上を走った瞬間開きかけた扉が半分戻った。
「……なに。百花繚乱がなんの用? こんな日陰の部活に」
模擬交渉と同じ台詞。だが本物は比べものにならないほど痛かった。ウェッブの演技には無かったものがその声の底にあった。本物の傷がじくじくと膿む音だ。
「あー……はいはいわかってる」ミチルは四人が口を開く前に自嘲するように先回りした。「どうせあれでしょ。『非公認のくせに』とか『忍者ごっこ』とか笑いに来たんでしょ。それとも公認様の縄張り整理? 言っとくけど私たちは私たちでちゃんと護衛の仕事で街の役に立ってるんだから。放っといてよ」
扉の奥でキツネ耳の小さな少女が心配そうに部長を見上げそのさらに奥で長身の少女が気配を消すように棚の陰へ縮こまるのが見えた。
ユカリが口を開きかけ――昨夜の全滅を思い出して思いとどまった。
「――ミチルさん」
一歩前に出たのはナグサだった。
彼女は半分閉じた扉の前まで静かに歩み目線を合わせるように少しかがんだ。
「先に私の話をさせて。……私はね、少し前までこんな日陰にいたの」
「……は?」
「委員長の代わりが務まらなくて逃げ出して。街外れの廃射的場でたった一人で隠れてた。『どうせ私なんて無能な半人前だ』って自分で自分を見限って。……誰かが手を差し伸べてくれても『どうせ笑いに来たんだ』って棘で追い返して」
ミチルの、扉を押し戻そうとしていた手が止まった。
「あなたが大好きなものを馬鹿にされるのが怖い気持ちはわかる。大好きなものを否定されるくらいなら最初から日陰にいた方がましだって思ってしまうのも。……全部通ってきた道だから」ナグサは静かに続けた。「だから今日は笑いに来たんじゃないってことだけ先に信じてほしいの。信じられなくても――せめて五分だけ疑うのをやめてほしい」
長い沈黙。
やがて扉が軋みながら開いた。
「……五分だけだからね」
地下の部室は手作りの忍具と資料と撮影機材で溢れていた。壁には自作の巻物。棚には調合中の煙玉。安物の機材で撮られた動画のサムネイルがモニターに並んでいる。安っぽくて雑多で――そして途方もない熱量の詰まった部屋だった。
「それで? 用件は」ミチルは腕を組んだまままだ半身だった。「言っとくけど同情ならいらないから。『頑張ってるね』とか『えらいね』とかそういうのが一番むかつくの」
「同情はしないわ」
キキョウが一歩前へ出て手帳を開いた。
「する必要がないもの。――昨日あなたたちを調べさせてもらった。過去一年で確認できた護衛請負二十六件。完遂二十六件。完遂率百パーセント。依頼主九人に直接聞き込みした。評価は全員一致。『仕事が丁寧』『時間に正確』『払った額以上の働き』。荷運びの元締めはこう言ったわ。『あの子たちに任せた荷は一つも欠けたことがない』。夜道の送りを頼んでいた生徒はこう。『あの子たちがいてくれた時期だけは一度も絡まれなかった』」
ミチルの目が見開かれていった。
「……な、なにそれ。調べたの? 私たちのこと……?」
「ええ。仲間にしたい相手のことを調べもせずに口説くのは失礼だから」キキョウは手帳を閉じた。「千鳥ミチル。私は褒め言葉を信じない性質なの。数字と証言しか信じない。その私が監査結果として言うわ。――あなたたちの仕事はプロの仕事よ。数字は人を笑わない」
「~~~っ」
ミチルの喉が何かを言おうとして詰まった。組んでいた腕がいつの間にかほどけていた。
「……で、でもどうせ」彼女は最後の砦に立てこもった。「どうせあんたたちが欲しいのは頭数でしょ。都合よく使って終わったらポイ。公認様はいつだってそう――」
「頭数なら修行部で足りますわ」
ユカリが静かに言った。
「身共たちが欲しいのは頭数ではありません。潜入。斥候。気配を消して敵を見張る技術。――それは百花繚乱にも修行部にも誰にもできません。この街であなたたち忍術研究部にしかできないことですの」
「わたしたちにしか……」
「はい。ですから正直に申しますわ。あなたたちに断られたら身共たちに代わりの当てはございません」ユカリは深々と頭を下げた。「あなたたちの代わりはいないのです」
イズナのキツネ耳がぴんと立った。棚の陰のツクヨがそっと顔を覗かせた。
「そしてここからは、取引のご提案……と申し上げたいところなのですけれど」
ユカリは一度言葉を切った。懐に手を入れかけ――やめた。取り出すべき書面など、最初から存在しないのだ。代わりに彼女は、もう一度まっすぐに頭を下げた。
「その前に、身共たちの手札をすべてお見せいたしますわ。――百花繚乱紛争調停委員会は先月、正式に解散いたしました。撤回はできませんの。書類の上では、身共たちはもう公認組織ですらございません」
「……は?」ミチルが目を瞬いた。「え、なにそれ。じゃああんたたち……」
「ええ。今のあなた方と同じ、非公認。……いいえ、一度掲げた看板を自分で下ろした分、あなた方より下ですわね」
ミチルの組んだ腕から、ゆっくりと力が抜けていった。「公認様」と吐き捨てるつもりで温めていた棘が、行き場を失って宙に浮いていた。
「陰陽部からは条件をいただいておりますの。この祭りを守り抜けば、復活を連合に諮っていただけます。守れなければ――百花繚乱は永久に、このまま消えますわ」ユカリは顔を上げた。「ですからこれは、潰れかけの委員会の残党が、なけなしの信用を全部積んでするお願いですの。その上で、お約束できることが二つだけございますわ」
彼女は指を二本立てた。
「一つ、今回の作戦は陰陽部からシャーレへの正式なご依頼。参加部隊の働きはすべて陰陽部の公式記録に残ります。これは確定ですわ。――忍術研究部の名が初めて百鬼夜行の公式の書類に、悪戯の苦情ではなく『功』として記されますの」
「こ、公式記録に……」
「二つ、百花繚乱の復活が認められた暁には、再興した委員会の最初の公務として忍術研究部の公認申請の推薦状に、委員会全員の連名で署名いたしますわ。推薦状には『彼女たちの技術は本物であり、この街の危機において余人をもって代えがたい働きをした』と。――一文字も嘘のない推薦状ですわ」
「すいせん……」ミチルの声が掠れた。
「ただし、先に線を引いておきますの」ユカリは声を落とさなかった。「復活そのものはお約束できませんわ。何故なら決めるのは連合と陰陽部ですの。公認もお約束できませんわ。これも決めるのは陰陽部ですの。ですから最悪の場合、この二つ目のお約束は果たせないまま終わりますわ。……それでも一つ目だけは、何があっても残りますわ」
長い沈黙があった。
「……なにそれ」ミチルの目からぽろりと涙がこぼれた。一粒こぼれると、もう止まらなかった。「推薦してくれるかどうかも分かんない、潰れかけの委員会が……手札全部さらして、うちなんかに頭を下げに来たってこと……?」
「うちなんか、ではありませんわ。あなたたちにしか、できないことですの」
「……ずるいよ、そんなの」ミチルは腕で乱暴に目元を拭った。「同じ日陰の人間が、それだけ必死に差し伸べてきた手をさ……忍者が、断れるわけないでしょ……!」
「ほ、ほんとに……? ほんとに私たちの忍者が……役に立つの……? 笑わない……?」
「笑わない」ナグサがはっきりと言った。「約束する。……これは約束できることだから」
「ミチル殿おおおお!」
イズナが感極まって部長に抱きついた。
「イズナしかと聞き届けました! 潜入に斥候! これぞ忍びの本懐、忍者の花形任務でございます! イズナたちの修行は無駄ではなかったのです! しかもしかも仲間が――こんなにたくさんの仲間ができるのでございますよミチル殿!」
「イ、イズナ、ちょっ、くっつかないでよもう……!」
ミチルは涙を拭いながらそれでも最後に一度だけ部屋の隅を振り返った。
「……ツクヨはどう思う?」
長身の少女が棚の陰でびくりと縮こまった。
「……わ、私は……」ツクヨは消え入りそうな声で言った。「……足を引っ張るだけじゃないかなって……。私、銃下手だし……大きくて目立つし……隠密なのに目立つ忍者なんて……」
「あー、それなんだけどよ」
レンゲがずいっと前に出た。ツクヨが「ひっ」と身を固くする。だがレンゲの声は拍子抜けするほどまっすぐだった。
「聞き込みで一番多かった証言、あんたのことだぜ。『夜通し微動だにせずに見張りに立ってた』『あの子がいてくれるだけで安心だった』。……なあ。うちの部隊にはな、銃の上手い奴なら四人もいるんだ。けど夜通し気配消して立ってられる奴は一人もいねえ。アタシなんか三分でうずうずする」
「…………」
「デカいのは的になるだけって思ってるだろ。逆だよ。あんたはそのデカい身体で誰よりも静かに誰よりも長くそこに『いられる』んだ。……そういうの才能って言うんだぜ」
ツクヨの大きな身体が小さく震えた。彼女はぐるぐる眼鏡の奥で目を潤ませそれから――おずおずとしかしはっきりと、言った。
「……や、やります。私、一度決めたら……飛び込む方なので。ミチル先輩とイズナと一緒なら……ううん」
彼女は初めて四人の目を見た。
「皆さんと一緒にやってみたいです」
ミチルは部員二人の顔を見回した。それからぐいっと涙を拭っていつものドヤ顔を少し湿ったまま取り戻した。
「……ふん! しょうがないなぁ! そこまで言うならこの天才忍者・千鳥ミチルが一肌脱いであげようじゃないの!」彼女は差し伸べられたナグサの手をしっかりと握った。「潜入斥候なら任せなさい! 忍術研究部、いざ参戦! ――ってね!」
日陰に潜んでいた忍者たちが日の当たる場所へと歩き出した瞬間だった。
――と。
「……ん?」
イズナのキツネ耳がぴくりと動いた。彼女はくるりと振り返り誰もいないはずの薄暗い階段の踊り場をびしっと指差した。
「――そこな御仁! いつからそこに!」
四人がぎょっとする中、闇からゆっくりと一人の大人の男が姿を現した。ウェッブだった。約束通り彼は一言も発さずただ階段の陰で待っていたのだ。
「な……嘘でしょ全然気配なかった……」ミチルが絶句する。
「途中からではない。最初からだ」ウェッブは短く言った。「……よく気づいたな」
「イズナのお鼻は誤魔化せませぬ!」イズナは胸を張り――それからその男をまじまじと見上げた。完全に殺された足音。闇に溶ける立ち姿。呼吸の音すら聞こえない佇まい。忍者を夢見て育った少女の目がみるみる輝いていった。
「……もし。御仁は何者でございますか」
「シャーレのウェッブだ。この四人の後見のようなものだ」
「ウェッブ殿……いえ」イズナはその場で正座し深々と頭を下げた。「その御姿こそイズナが夢見た『まことの忍び』! 本日よりあなた様を主殿とお呼びいたします! ニンニン!」
「……ウェッブでいい」
「はい主殿!」
「…………」
聞いていない。四人が必死に笑いを噛み殺す中、キヴォトス最高の忍者を目指す少女と元CIAの工作員の奇妙な主従が誕生した。
---
【調停室】
こうして二つの部活が百花繚乱の旗の下に集った。
初めてCIA式の調停室に足を踏み入れた新入りたちはそれぞれの反応を見せた。
「うわぁ……すごい……! なにこれ映画みたい……!」ミチルがモニターの群れに目を輝かせる。「これ動画のネタに――あ、いや今はそれどころじゃないか」
「はぁ……あったかい……ここお昼寝によさそう……」ツバキは早くも隅で舟を漕ぎかけミモリに「ツバキ、まだよ」とたしなめられていた。
「主殿の御座所しかと記憶いたしました! ニンニン!」イズナが部屋の隅々を偵察して回る。
「わー! 画面いっぱい! ムシクイーンできそう!」
「……か、家具のふりをしていれば邪魔になりませんので……」ツクヨが壁際で気配を消そうとしてその長身ゆえに誰よりも目立っていた。
賑やかなしかしどこか噛み合わない空気。まったく毛色の違う三つの集団。だがその混沌をキキョウの凛とした一声が断ち切った。
「――全員静粛に。ブリーフィングを始めるわ」
彼女が大きなモニターに街の地図を映し出した。赤い印が無数に打たれたあの「虐殺の図面」だ。調停室がしんと静まり返った。
「これから話すことには全部『札』がついてる。『確認された事実』か『合理的な推定』か『未検証の仮説』か『空白』か。この区別ごと覚えて。混ぜた瞬間、情報は毒になるから」
彼女は淀みなく語り始めた。
「まず事実。花鳥風月部は実在する。実行者は箭吹シュロ。頭目はコクリコ――二十年前、燈籠祭の儀を破って除籍された元巫女。二十年前の大火への関与は推定。正体不明の変装使いが少なくとも一人。実行部隊は金で雇われた魑魅一座・闇市流。闇市流による組織的な下見が街の各所で確認されている――だが発火装置の類は、どれだけ洗っても一つも見つかっていない」
「次に推定。決行は祭りのフィナーレ、大花火の刻」
「そして仮説。連中の百物語は人間の恐怖と絶望を燃料に物理攻撃の効かない『怪異』を生む。二十年前の消えない炎の正体もそれ。対抗できる可能性があるのはナグサの持つ退魔銃・百蓮だけ――ただしこれも未検証。だから中止基準がある。怪異が現れて百蓮が通用しなければ全部隊は交戦をやめて住民の避難誘導に全部切り替える」
新入りたちの顔からみるみる血の気が引いていった。
「そ、そんな……祭りに来たみんなを……?」カエデが震える声で言った。
「……ひどい」ツクヨが口を押さえる。
「最後に一番大事な『空白』」キキョウは地図の余白を指した。「コクリコの現在の所在。変装使いの正体。そして敵の全容。私たちが掴んだのは『少なくとも三人』であって『三人だけ』という意味じゃない。数えていない敵がいると思って動くこと」
そして彼女は最後の一枚の札をめくった。
「敵の狙いは祭り当日最も深い絶望を抱えた誰かを怪異の器にすること。最有力の標的は――神事の巫女」
視線が自然とユカリに集まった。ユカリはたじろがなかった。むしろ一歩前に出て新しい仲間たちに向けてニコリと笑ってみせた。
「その巫女は身共ですわ。……身共が自分で選んで囮を務めますの。敵が身共の心を砕きに来たらそれは敵から罠に飛び込んでくるということ。――皆さまにはその罠の周りを固めていただきたいのです」
沈黙が落ちた。
最初に動いたのはミモリだった。彼女はユカリの前まで歩みその顔をじっと見つめ――ふわりと微笑んだ。
「……押しつけられたのではなく自分で選んだのね。ええ顔を見れば分かるわ」それから彼女は隣の幼馴染を見た。「ツバキ。当日の巫女の周りは」
「うん」ツバキは盾を抱え直した。もう眠り姫の顔ではなかった。「私が張り付く。……眠らずにね。私、寝ないでいる修行も実はけっこう得意なんだ」
「潜入と見張りは忍研の花形!」ミチルが胸を叩いた。もう卑屈さは消えていた。「絶対成功させよう。忍者の名にかけて」
「イズナ頑張ります! ニンニン!」
「わ、私も……頑張ります」
ばらばらだった三つの集団が一つの脅威を前に一つの意志へと束ねられていく。ウェッブが目指した「拡張されたホスト国治安部隊」が今、形になろうとしていた。
---
だが。
ブリーフィングを終え束の間の高揚が去った後。
キキョウは地図を睨みながら静かに眉を寄せていた。その隣でウェッブもまた腕を組んで同じ地図を見ていた。
「……先生」キキョウが低く言った。「人手は増えた。修行部も忍術研究部も加わった。でも――」
「守り切れるとは言えないな」ウェッブがその先を引き取った。
「ええ」キキョウの声は硬かった。「守る側はいつだって不利。敵はいつどこを突くか自由に選べる。私たちは六箇所も七箇所も受け身で待ち構えるしかない。人数が増えてもそれは変わらない。しかも誰にでも化ける変装使いがこの群衆に紛れてる。当日私たちが後手に回った瞬間――崩れる」
彼女は顔を上げた。分析官の鋭い目で。
「……待ち構えて守るだけじゃ勝てない。この戦い方を根本から考え直さないと」
ウェッブは静かに頷いた。彼もまた同じ結論に達していた。
盾は揃った。だが盾だけでは勝てない。この敵に勝つにはこちらから先に剣を振るう必要がある。
「明日作戦を立てる。受け身をやめる方法をな。……お前が立案しろキキョウ。参謀の腕の見せ所だ」
「……ええ」キキョウの目がぎらりと光った。「任せて。とびきりの一手を考えるわ」
窓の外では二十年ぶりの祭りを待つ提灯が橙色に揺れていた。
ウェッブは一人、今日一日の記録を短くまとめた。交渉二件。成立二件。特記事項――教官は交渉の席で一言も発言せず。
(……一言も喋らずに済んだ。それが今日一番の成果だ)
かつて彼が世界中で見てきた「支援」はいつも支援者が主役だった。金を出し口を出し代わりに戦いそして去った後には何も残らなかった。だが今日この街の少女たちは自分たちの言葉で自分たちの仲間を自分たちの手で増やした。彼の役目は階段の陰に立っていることだけだった。
それでいい。それがいい。
祭りまであと七日。
崩れた城壁は三つの部活を束ねた大きな砦へと姿を変えた。
だがこの砦がただ守るための砦なのかそれとも――先んじて敵の喉元を突く槍の穂先となるのか。
その答えは明日、作戦参謀・桐生キキョウの手に委ねられようとしていた。