『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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第19話(百鬼夜行編):亡霊の履歴書

深夜二時。調停室の灯りだけが眠る自治区の底で青白く灯っていた。

 

中央モニターの縁に黒いマーカーで数字が一つ書かれている。――「7」。

 

祭りまでの残り日数だった。誰が書いたのかは全員が知っていた。桐生キキョウは毎朝その数字を消しては一つ小さく書き直す。誰も理由を訊かなかった。訊かなくても分かった。彼女はその数字を自分の首に掛かる縄の長さとして数えているのだ。

 

その「7」の下でキキョウは靴を脱いで椅子の上に膝を抱え、冷めきった緑茶の湯呑みを両手で包んでいた。壁一面に広げられた街の地図。無数の赤い印。付箋。時系列表。そのすべてを彼女はもう何百回も往復していた。

 

「……分からない」

 

呟きが静寂に落ちた。

 

向かいでナグサが顔を上げる。「キキョウ?」

 

「奴らがどうやって街を焼くのか。その方法がまったく分からないの」

 

キキョウは湯呑みを置き、地図の前を歩き回った。

 

「この数日街をしらみつぶしに洗い続けたわ。商店街の軒下、祭りの櫓の裏、下水の枡の中まで。焼夷装置も爆薬も燃料の備蓄も一つも出てこない。一つもよ。……つまり敵は私たちが想像もしていない方法で火を起こす。その方法が読めないうちは防ぎようがない。無力化する対象が見つからないんだから」

 

彼女は椅子に沈み込んだ。

 

「脅迫状の文面は覚えてる。『空に花咲きたるその刻に』。フィナーレの大花火が合図。そこまでは分かってる。でも合図と手段は違う。花火が上がったその次に何が起きるのか。……そこがまるごと空白なのよ」

 

「……先生なら」

 

ふとナグサがこぼした。

 

「先生ならこの手詰まりをどう解くのかしらね」

 

その一言が部屋の空気を変えた。二人の視線が宙で交わる。

 

「ねえナグサ」キキョウの声が少しだけ低くなった。「私あの人のことは初日に洗い終えたつもりでいたの」

 

「……第一印象の話?」

 

「彼が来る前の晩よ。エデン条約の首謀者の『事故死』。SRTの存続。不知火カヤの変貌。各地の治安統計。――あの時集めた材料は全部彼が『何をしたか』のリストだった。私はそれを彼に突きつけて彼はそれを否定しなかった。それで調べは済んだと思ってた」

 

キキョウは首を振った。

 

「済んでなかったのよ。『何をしたか』はただの結果の一覧。私が本当に知らなきゃいけなかったのは『どうやったか』――そして『何者か』。……あの人の手の内を知ることはそのまま私たちが敵に勝つための教科書になる。あの人ならどう解くか。それを本気で知りたいならあの人が何を学んできた人間なのかを突き止めるしかない」

 

「……怖い?」ナグサが小さく聞いた。

 

「怖くないと言えば嘘になる」キキョウは正直に答えそれからふっと笑った。「でもそれ以上に――知りたい。分析官の悪い癖よ。目の前に解けていない謎があると放っておけないの」

 

彼女はモニターの光を見つめそして決めた。

 

「ファイルを二冊作るわ。一冊目は敵のファイル。二十年前の大火の真相と花鳥風月部の人格。これが本務。……二冊目は」

 

「……先生のファイル」

 

「ええ。ただしこっちは絶対に悟られちゃいけない。あの人は塀の上の瓦一枚のずれに気づく人よ」キキョウはナグサをまっすぐ見た。「だから二冊目はあなたに任せたい」

 

「私に……?」

 

「私は昼間資料倉庫と忍研の網に張り付くことになる。あの人の目の届く場所でね。でもあなたには明日から表向きの任務として『報道と街の噂の収集』が回ってくるはずよ。公開情報を漁る係。……最高の隠れ蓑だと思わない? 堂々と新聞の山に埋もれていられる」

 

ナグサは膝の上で手を握った。廃射的場で自分を拾い上げてくれたあの寡黙で不器用な大人。その裏側を自分の手で掘る。

 

「……やり方を教えて」

 

「教えるわ。私と――皮肉なことにあの人自身がね」

 

---

 

【D−6】

 

翌朝。調停室に全員が集められた。百花繚乱の四人と忍術研究部の三人。

 

モニターの縁の数字は「6」に書き換えられていた。

 

扉が開いてウェッブが入ってきた。

 

「聞いた。敵の手段が読めずに詰まっているそうだな」

 

「……ええ」キキョウが認めた。「街を隅々まで洗っても火を起こす仕掛けが見つからない。合図は花火。でもその先が分からない」

 

ウェッブは地図の前に立ちしばらく赤い印を見つめた。

 

「詰まった時は探し方を変えろ。――今のお前たちは"物"を探している。爆薬、装置、燃料。だが見つからない。ならば探すのをやめて"人"を読め」

 

「人を読む?」

 

「敵が何を使うかは分からん。だが敵が何者かは少しずつ見え始めている。箭吹シュロ。コクリコ。正体不明の変装使い。……人間は必ず自分の性格の通りに行動する。凶悪な計画もその人間の"癖"から逃れられない。犯人の人格を読み解けばまだ見ぬ手段もまだ知らぬ次の一手も輪郭が浮かぶ」

 

彼は黒板に一つの言葉を書いた。

 

――プロファイリング。

 

「今日からそれを教える。俺が昔叩き込まれた技術だ。……その前に情報の集め方と裁き方から行く」

 

講義は簡潔でしかし密度が異常だった。

 

情報の三系統。通信を傍受するシギント――街中に設置した監視カメラから得られる情報もここに含まれる。公開情報を繋ぐオシント――新聞、報道、公示、噂。誰でも触れられる断片を大量に集めて編む。諜報の八割はこれで組み上がる。そして人から聞き出すヒューミント――斥候、聞き込み、証言。

 

「集めた情報には必ず札をつけろ。確認された事実。合理的な推定。未検証の仮説。空白。この四つを混ぜた瞬間情報は毒に変わる」

 

そして分析の型。ウェッブは黒板に表を描いた。縦に仮説を並べ横に証拠を並べる格子。

 

「競合仮説分析。ありうる説明を全部並べて一つずつ証拠をぶつける。ここで大事なのは証拠が『どの仮説を支持するか』を数えることじゃない。証拠が『どの仮説を殺すか』を見ることだ。人間の頭は自分の好きな仮説を可愛がる。だから逆をやる。生き残った仮説だけが次の行動に値する」

 

キキョウが猛烈な勢いで手帳にメモを取りその隣でナグサが同じ格子を少し違う目的のために自分のノートへ写し取っていた。

 

任務が割り振られた。

 

忍術研究部は街に溶けるヒューミントの網。イズナは屋台の売り子見習いに化けて人の流れを覚え、ツクヨは物陰と物陰の"間"に静かに立ち続け、ミチルは自作の小型カメラ――「忍法・遠見の術」と本人は言い張った――を辻という辻に仕掛ける。

 

キキョウは陰陽部の資料倉庫。二十年前の大火の周辺記録を掘り起こし敵のプロファイルと突き合わせる。

 

そしてナグサにはウェッブ自身の口からこう命じられた。

 

「ナグサ。お前は報道と公開記録だ。クロノススクールの報道アーカイブ、連邦生徒会の公示、街の刷り物。花鳥風月部と二十年前の火に触れた記事の断片を全部拾え。……地味な仕事だ。だが諜報の八割はそこで決まる」

 

「――はい。先生」

 

ナグサは静かに頷いた。その返事に嘘は一グラムもなかった。命じられた仕事は本当にやるのだから。

 

ただその網を広げる方角が一つ多いだけで。

 

---

 

講義の最後にレンゲが手を挙げた。

 

「なあ先生。アタシとユカリは今日も修行部の教官役だろ? ずっと気になってたんだけどよ……アタシらですら二週間かかった訓練をあと六日でどうやって間に合わせるんだ? 正直無理があるだろ」

 

もっともな問いだった。だがウェッブは首を振った。

 

「二週間は要らん」

 

「は?」

 

彼は指を三本立てた。

 

「教えるのは三つだけでいい。共通の言葉――通話表と報告の型。撃たない判断――識別。血の止め方――MARCH。戦い方そのものは連中の流儀のままでいい。むしろ変えるな。直前に染みついた型をいじるのが一番危険だと装備更新の時にキキョウが言った通りだ」

 

「よっしゃ任せろ! 『不破式・四日で喋れるようになる集中講座』だ!」

 

「却下。短縮連携課程」キキョウが三秒で改名した。

 

その短縮課程は初日から奇妙な光景を生んだ。

 

道場の畳の上でレンゲが通話表を読み上げると盾を枕に舟を漕いでいたツバキが目を閉じたまま「……ロメオ、シエラ、タンゴ……」と正確に後を続けそのまま寝息を立てた。「起きて答えてんのか寝て答えてんのかどっちだよ!?」というレンゲの絶叫にミモリが「両方よ。あの子寝ながら覚える修行もしていたから」と微笑む。

 

識別射撃の課題ではそのミモリが初回から満点を叩き出した。武器の有無、手の位置、人質の陰。ユカリが感嘆すると彼女は少し困ったように頬に手を当てた。

 

「だって……撃っていい顔と撃ってはいけない顔は違いますもの」

 

読心術師の面目躍如である。カエデは前線には出さない代わり信号拳銃を活かした照明支援と伝令の係を与えられて「素敵なレディーは連絡もできるの!」と胸を張り、イズナは報告の型を一晩で丸暗記して「規模一名! 徒歩で北進中! 三叉路! 所属不明! ニンニン!」と余計な一語まで込みで完璧に唱え、ツクヨは試験代わりの静止観測で十時間微動だにせず見回りに来たレンゲの方が先に音を上げた。

 

四日の課程は三日目の昼には仕上げの段階に入っていた。

 

(――教範は市民を前提に書かれている。この街の"市民"はその前提の外にいる)

 

ウェッブは訓練記録にそう書き加えた。もう驚きはなかった。物差しを替える作業にはこの一か月で慣れていた。

 

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【D−6〜D−4 キキョウ――紙の底の火】

 

陰陽部の資料倉庫は書庫のさらに奥にあった。

 

「倉庫の目録は私が全部作り直しましたからどこに何があるかはお任せください。二十年前の消防記録はこの棚の……あっ、その綴りは紐が切れて……あーっ!」

 

カホの案内は有能と惨事が三対一で混ざっていた。崩れた綴りの山を二人で積み直しながらキキョウは埃の匂いの中に潜った。

 

彼女がまず求めたのは封印された手記そのものではなかった。手記は既に読んだ。欲しいのはその周辺――手記が語らなかった当時の街の「事務の紙」だった。消防の出動記録。商店街の回覧。苦情の綴り。見舞金の台帳。誰も物語として読まない紙の群れ。だが物語を読まない紙は嘘もつかない。

 

三時間後彼女は青焼きの図面を一枚灯りの下に広げた。二十年前の火災の焼損範囲図。消防が保険の査定のために起こした出火点と延焼経路の記録だった。

 

キキョウの手が止まった。

 

彼女は無言で懐から自分の地図を取り出した。この数週間闇市流の下見地点を赤で打ち込み続けたあの地図を。二枚をライトテーブルの上で重ねる。

 

出火点九箇所。下見地点十一箇所。

 

――九箇所が重なった。

 

「……再現じゃない」キキョウの声が掠れた。「複写よ。あいつら二十年前の火を一箇所ずつなぞる気なんだわ」

 

コクリコのプロファイル――細部に執着し再現に取り憑かれた人格――が紙の上で物理的な形を取った瞬間だった。仮説が推定へ推定が事実へと格上げされていく。

 

さらに彼女は回覧の綴りに挟まったまま二十年眠っていた一枚の紙片を見つけた。当時の陰陽部員の走り書きだった。

 

『――童子ら口々に巫女様は儀の刻限南のボヤの方角へ駆けて行かれたと申す。上へ上げるも取り合われず』

 

キキョウは長いあいだその紙片を見つめていた。

 

除籍の理由は職務放棄。家記はそう記す。だがなぜ持ち場を離れたのか。この黄ばんだ紙切れ一枚だけが二十年間ずっとその問いを抱えたまま誰にも読まれずにいた。子供たちの証言は握り潰された。もし巫女が火を消しに走ったのだとしたら――。

 

「……札は『空白』のまま」彼女は自分に言い聞かせるように呟き紙片を丁寧に写し取った。「でも覚えておく。あんたの物語には誰も読まなかった頁があるってことを」

 

そして最大の発見は時系列の側にあった。

 

手記は言う。『前夜廃社にて怪談の会の開かれし由。百の物語を語り終えし時火は生まれたり』。家記は言う。『儀の直前に持ち場を離れ儀は破れ街は焼け』。消防記録は言う。出火は祭り当日大花火の刻限。

 

「……二段構えなのよ」

 

その夜調停室でキキョウは板壁の前に立ちマーカーを走らせた。

 

「前夜に『語りの場』が開かれ火種が仕込まれる。そして当日祝祭の絶頂で開花する。二十年前がそうだった。再現に執着する犯人なら今回も必ず同じ手順を踏む。――物理的な装置が街のどこにもないのは当然だったのよ。火は物じゃない。『場』で仕込まれるんだから」

 

「つまり」ナグサが静かに引き取った。「決行の前夜敵はどこかで必ず『場』を開く」

 

「そう。そしてそこには首魁が揃う」キキョウの目がぎらりと光った。「手段の正体はまだ空白。でも敵が"いつどこで動くか"は絞れた。……ねえ先生。これ待ち構える必要ある?」

 

部屋の隅で聞いていたウェッブは答える代わりにわずかに口角を上げた。

 

「――続けろ。いい線だ」

 

「もう一つ」キキョウは付け加えた。「コクリコはただ街を焼きたいんじゃない。焼くだけなら二十年前にとうに済んでる。彼女は祭りの復活を二十年待った。……祝祭そのものが要るのよ。人々が空を見上げて歓声を上げるまさにその瞬間の幸福が。それを絶望に反転させる落差にこそあの女は陶酔する。『空に花咲きたるその刻に』――合図が花火なんじゃない。花火の瞬間の幸福があの女の画材なの」

 

調停室がしんと静まった。確率の話をする者はいなかった。だが翌朝ウタハが機材の点検に来て何気なく「で?その読みどれくらい当たると思ってるのさ」と尋ねた時キキョウは端末から顔も上げずに答えた。

 

「百」

 

「……はい?」

 

「九十五でもいいわよ。数字に幅がないと技師は不安になるらしいから。――でも私の中では百よ」

 

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【D−6〜D−4 ナグサ――亡霊の履歴書】

 

その頃ナグサの戦場は紙とモニターの中にあった。

 

表向きの持ち場は調停室の資料席。クロノススクールの報道アーカイブ端末と連邦生徒会の公示綴り、この数年分の縮刷版の山。花鳥風月部と二十年前の火に触れた記事を拾う――それが命じられた任務であり彼女は実際にそれを几帳面にこなした。拾った断片はキキョウのファイルへ流れ大火のプロファイルを裏から支えた。

 

もう一冊のファイルは部屋の反対側にあった。

 

百花繚乱に代々伝わる古い掛け軸。その裏にナグサは自分だけのボードを貼っていた。調停室の端末は一切使わない。検索は街の共用閲覧室で。メモはすべて手書きで。持ち歩かず掛け軸の裏へ。焼き鳥の缶詰を一つ開け夜皆が引き上げた後の三十分だけがその作業の時間だった。

 

最初の教材はキキョウが一晩で仕込んでくれた。

 

「いいナグサ。オシントの鉄則その一。単一の発生源は事実にならない。同じ話が独立した二系統から出て初めて『確認』の札がつく。その二。消された記事ほどよく読むこと。ネットの海には『魚拓』――消される前の写しを残す場所がある。誰かが慌てて消した紙は慌てて消す価値があった紙よ。その三。記事の本文より日付と時刻を読むこと。人間は文章では嘘をつけてもタイムスタンプでは嘘をつきにくいから」

 

そしてナグサは堂々と公開されている場所から掘り始めた。

 

一つ目の鉱脈は連邦生徒会の公示システムだった。

 

シャーレは連邦生徒会から予算を受ける機関である。ゆえに説明責任がある。四半期ごとの活動要約、予算執行の概況、処理案件の件数――固有名詞をすべて洗い落とした「表向きの報告書」が透明性確保の名目で誰でも閲覧できる形で公示されていた。中身は徹底して無味乾燥だった。『渉外調整一件』『治安関連助言業務三件』。読んでも何も分からないように書かれている。

 

だが公示システムは提出時刻を秒まで記録して公開していた。

 

ナグサは過去三か月分の提出記録を紙に書き写し時刻だけを並べた。午前三時十七分。午前四時二分。午前二時五十五分。午前三時四十一分……。日中の提出は一件もなかった。決裁欄の記名はすべて同じ一人。

 

(……この人はいつ眠っているの)

 

彼女はその紙に『確認された事実』の札を貼った。報告書の中身は読めなくても報告書の"影"は読めた。

 

二つ目の鉱脈はクロノススクールの報道アーカイブだった。

 

シャーレの顧問――キヴォトスにたった一人の「大人」――への世間の関心は異常なほど高く報道各社は日夜その周辺に張り付いていた。ナグサはまずそれらの記事に共通する奇妙な特徴に気づいた。

 

写真が一枚もまともに撮れていないのだ。

 

望遠の紙面写真は常にピンボケか後ろ姿。正面からの一枚が存在しない。ある記者のぼやきコラムにはこうあった。『取材拒否率百パーセント。出勤の動線が毎日違う。あの男我々が構える前にレンズの位置を知っている』。

 

(撮らせないのではなく――撮られる前に気づく)

 

対監視。訓練された人間の癖。ナグサはその切り抜きをボードに貼った。写真の不在という「空白」がそこにいる人間の輪郭を逆に描き出していた。空白を"情報が無い"と処理するな。"異常に情報を消せる相手がいる"という事実として読め――彼自身の講義が彼自身に刺さっていく。

 

そして三つ目の鉱脈が砂漠から届いた。

 

数週間前の社会面。『アビドス砂漠深夜の閃光と爆発音。貨物列車の乗務員ら複数が目撃』。カイザーコーポレーション広報の発表は『自社保管弾薬の自然発火。人的被害なし』。それで終わるはずの記事だった。

 

だが十日後続報が一度だけ載り――即日取り下げられていた。

 

魚拓が残っていた。キキョウに教わった通りの場所に。取り下げられた記事の中でカイザーの下請け整備員を名乗る匿名の告発者はこう語っていた。『自然発火なんかじゃない。あの夜前進拠点〈ブラボー〉は襲撃された。襲撃者は極めて少数だった。朝には痕跡ごと消えていた。上からは全員無かったことにしろと』。

 

前進拠点〈ブラボー〉。カイザーの社内呼称が消された記事の中にだけ残っていた。

 

ナグサは震える手で経済面の縮刷を繰った。同じ月の後半。『アビドス自治区の債務大幅減額で合意。カイザー社と連邦生徒会詳細は非公開』。並べてシャーレの公示報告書。同じ四半期の欄に一行。『渉外調整一件』。

 

閃光。もみ消された襲撃。極めて少数の襲撃者。直後の債務減額。そして「渉外調整一件」。

 

どの一枚も単体では何も証明しない。カイザーは自然発火と言い連邦は詳細非公開と言いシャーレの報告書は何も言わない。だが四枚を時系列に並べた瞬間紙と紙の間から一つの夜が立ち上がってきた。少数の人間が監視で急所を割り出し、一点を短時間で制圧し痕跡ごと消え、そして交渉の卓で巨人に借金を吐き出させた夜が。

 

ナグサはペンを置きしばらく動けなかった。

 

彼女はその夜を見たことがない。記録も黒塗り以前にそもそも存在すら公にされていない。それでもこの復元された骨格に彼女は覚えがあった。

 

(……知ってる。この狩り方)

 

北山演習林での七十時間。音に騙され罠に釣られ、見えない光を読まれ水場に線を引かれた三日間。彼女たち自身が骨の髄まで味あわされたあの狩りの骨格と――同じだった。

 

見たことはなくても味わったことならある。

 

彼女はボードの中央に書いた。『砂漠の一夜(復元)――監視による収束点の特定。少数による一点制圧。痕跡の消去。事後の"交渉"』。札は『合理的な推定』。二系統以上の独立した破片が同じ形を指している。

 

---

 

最後の作業は人格の側だった。

 

ナグサはウェッブに教わった競合仮説分析の格子をウェッブ自身に向けて引いた。

 

仮説A――ただの元外交官。仮説B――軍の特殊部隊出身者。仮説C――情報機関の工作員。

 

証拠を一つずつぶつけていく。

 

古い書き文字を翻訳機なしで読む語学力。教養のにじむ言葉遣い。――Aを支持。BCを殺さない。

 

軍の用語が口をつく癖。地形評価。火力の教義。七十時間の単独潜伏。――Aを殺す。外交官は雨の山で二十分睡眠を回さない。

 

認知面接。あれは公開された司法心理学の技法だと共用閲覧室の文献は教えてくれた。それ単体では何も証明しない。だが獲得の四つの鍵。デッド・ドロップ。対監視。尋問の呼吸。情報を武器として人間を追い詰める技術体系。――一つひとつは説明がついても全部を一人が持っている説明はC以外に存在しなかった。

 

そしてあの三語。

 

Surprise, speed, success。戸口の前に立つたび彼の唇が音もなくなぞった三つの言葉。

 

共用閲覧室の端末に彼女はその三語を打ち込んだ。海外のニュースサイトと軍事関連の公開文献が答えを一瞬で返してきた。

 

第一特殊部隊デルタ作戦分遣隊。通称デルタフォース。米陸軍の最高峰の特殊任務部隊。その部隊の信条として退役隊員の手記にまで記されている三語。

 

ナグサは画面の前で長いあいだ動かなかった。

 

仮説Aは死んだ。生き残ったのはBとCの複合。学者か外交官の頭脳と最精鋭の特殊部隊の身体と情報機関の手癖。到底一人の人間の履歴とは思えない亡霊のような経歴の断片。だがその組み合わせだけがあの男のすべての行動を矛盾なく説明した。

 

そしてボードの右下にはもう一つの島があった。

 

彼女自身が『未接続』と札を貼った海外報道の切り抜きの群れ。英国大手紙の記者がロンドンの駅の雑踏で白昼射殺された未解決事件。同じ時期ニューヨークの政府関連施設で夜間に銃声、屋上から川へ転落した男、遺体は未発見。各国の空港網に一斉に流れたという身元非公開の重要手配の噂。

 

繋がらない。名前も写真もない。ただ一つ時期だけが揃っていた。――先生がこのキヴォトスに現れたその直前に。

 

ナグサはその島に線を引かなかった。引けなかった。分析官として引く材料がなくそして彼女の中の別の何かがその線を引くことを拒んでいた。

 

(……この続きを読むことは。あの人の傷を素手で開くことと同じだわ)

 

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【D−4 深夜――対決】

 

その夜調停室に残ったのはキキョウとナグサの二人だけだった。

 

モニターの縁の数字は「4」。二人は互いのファイルを机に開き初めての相互ブリーフィングを行っていた。キキョウが敵のファイルを――出火点の複写、二段構えの手順、前夜の「語りの場」理論を。ナグサが亡霊のファイルを――公示の時刻、消された告発、砂漠の一夜、三語の意味を。

 

「……砂漠の骨格と演習林の骨格が同じ」キキョウが唸った。「つまり私たちは知らないうちに本人から本人の手口を直伝されてたのよ。ならそれをそのまま敵に返せば――」

 

「返せるわ。前夜の『場』に対して」ナグサが頷いた。「監視で収束点を割り出して一点を短時間に――」

 

「――そこまでだ」

 

低い声が扉の方から響いた。

 

二人が弾かれたように振り返る。そこにウェッブが立っていた。足音は二人ともまったく聞いていなかった。

 

「せ、先生……」

 

ウェッブはゆっくりと歩み寄った。表情はいつも通り静かだった。彼の視線が机の上を走査していく。敵のファイル。そして――掛け軸の裏から降ろされたもう一枚のボード。公示の時刻の一覧。魚拓の写し。三語の検索結果。仮説の格子。

 

その視線が右下の『未接続』の島で止まった。

 

ほんの一瞬。だが部屋の温度が確かに一段下がった。

 

「……キキョウ。お前が俺を掘る気でいることは講義の日から読めていた」ウェッブは静かに言った。「教えた技術は必ず教えた本人に向く。分析官として正しい応用だ。責めはしない。……だがナグサ」

 

彼はボードに向き直った。

 

「お前の作業は最後まで拾えなかった」

 

「……え」

 

「調停室の端末を使わず検索は外の共用機。記録は手書きで保管は掛け軸の裏。動線も時間帯も完璧だった。俺はお前の"収集"そのものは一度も検知していない」彼はわずかに息を吐いた。「発覚の経路はニヤだ。お前は三日前公示綴りの在処をあの狐に尋ねたな。今朝あの狐は俺の机に茶を置きながらこう言った。『ナグサちゃんの身辺調査は順調ですかねぇにゃは』と」

 

「……っ」

 

ナグサの顔から血の気が引いた。技術は完璧だった。漏れたのは技術の外からだった。

 

「覚えておけ。情報は必ず一番柔らかい口から漏れる。端末は黙るが人間は喋る」ウェッブの声に糾弾の色はなかった。あるのは教官の採点の声だった。「……お前の失点はそこだけだ。九十五点をやる。俺が現役の頃、俺を五日間見失わせた追跡者は片手で数えるほどしかいない」

 

それは紛れもない賛辞だった。だからこそその後に続く沈黙は重かった。

 

ウェッブは椅子を引き二人と目線を合わせて座った。何かを打ち明ける覚悟を決めた静かな顔だった。

 

「お前たちが辿り着いた組織のことを少しだけ話す。詳しくは言わない。言えばそれだけで危険だからだ」彼は切り出した。「デルタも情報機関も――お前たちが物語で思い描くようなものとはまるで違う。あれはこの世で最も洗練された暴力と欺瞞の装置だ。国家の意志のために人を証拠も残さず消す。作戦のために味方すら駒として使い捨てる。感情も良心もそこでは任務の邪魔になるだけの不純物だ」

 

淡々とした事実の羅列。それゆえに二人の背筋を凍らせた。

 

「そして俺は」ウェッブは自分の両手に視線を落とした。「その装置の一部だった。この手で大勢の命を奪ってきた。名前も知らない相手を理由も知らされないまま。……俺の手はとうに数えきれない人間の血で染まっている」

 

キキョウとナグサは言葉を失った。

 

「一つお前たちに認めなければならないことがある」

 

ウェッブは顔を上げそして自分からあの三語を静かに口にした。

 

「……Surprise, speed, success。――この癖のことは自分で知っていた」

 

「……え?」

 

「消そうとしたこともある。何度もだ。だが二十数年かけて骨に刷り込まれたものは二十数年かけても抜けなかった。戸口の前に立つたび唇が勝手に動く」彼はほんのわずかに自嘲に似た息を漏らした。「だから俺は現役の間この癖を『許容できる残余リスク』として帳簿につけていた。読める人間が近くにいなければ三語のつぶやきはただの息だ。……そしてこの街で俺はその帳簿を緩めた。ここは安全だとお前たちの前でだけはどこかで思っていたからだ」

 

彼はボードの検索結果を指した。

 

「その油断の値段がこの答案だ。お前たちが三語一つから俺の古巣まで辿れたなら――俺を探す側もまったく同じ道を辿れる。分かるか。俺という人間は癖の一つひとつが座標になる。存在そのものが発信源なんだ。俺に深く近づいた人間はそれだけで標的になりうる」

 

彼は静かに立ち上がった。

 

「だから決めている。この燈籠祭が終われば俺は百鬼夜行から完全に手を引く」

 

「え……」

 

「もうお前たちは自分の足で立てる。俺がいなくてもこの街を守れる。……それが俺の仕事の正しい終わり方だ。祭りが終われば俺は消える。俺のことは忘れろ。それがお前たちにとって一番安全だ」

 

彼はそれで話を終えたつもりだった。二人を危険から遠ざける。それが彼なりの精一杯の優しさだった。

 

――だが。

 

「……ふざけないで」

 

低い声が震えていた。桐生キキョウだった。俯いた彼女の拳が白くなるほど握りしめられていた。

 

「ふざけないでよ先生」キキョウが顔を上げた。その目には涙と烈火のような怒りが同時に燃えていた。「あんた自分が今何を言ったか分かってるの?」

 

「私たちはこの一か月あんたに一つのことを叩き込まれた。組織を一人の天才に依存させるな。誰か一人が倒れても崩れないように機能を分散させろ。要石を一つ抜かれた程度で崩れる組織を作るな。……そう教えたのはどこの誰?」

 

「……」

 

「あんたはナグサを救った」キキョウが隣の親友を指した。「『アヤメの代わりを一人で背負おうとするな』って。彼女をたった一人で消えようとした場所から連れ戻したのはあんたでしょう! なのに――いざ自分のことになったらこれ? 危険は全部一人で背負って誰にも頼らず黙って消える? それ失踪する前のアヤメとまったく同じじゃない! あんたがあれほど否定した一番脆い生き方そのものじゃない! ……あんたとんでもない大嘘つきよ!」

 

その言葉はウェッブの最も痛いところを正確に貫いた。彼は何も言い返せなかった。

 

「それだけじゃない」キキョウは机の上の公示時刻の一覧を叩いた。「これ全部誰でも見られる公開資料よ。黒塗りの機密でも何でもない。連邦生徒会の公示システムが透明性のために公開してるただの提出記録。――過去三か月あんたの報告書の提出時刻の中央値は午前三時十七分。日中の提出はゼロ。決裁は全案件あんた一人。公示された処理件数は月十二件。でもクロノスの報道と街の噂を数え上げると『シャーレが関わったらしい』出来事は月三十件を下らないの。差分の十八件はどこの記録にも存在しない」

 

彼女の声が掠れた。

 

「表の帳簿にすらあんたが一人で潰れかけてることが書いてある。そして帳簿に載らない仕事の存在は載っていないという空白の"形"が語ってる。……確証はないわ。でも私はあんたに分析を教わったんだもの。シャーレっていう組織はね先生。私がこれまで見た中で一番脆い砂上の楼閣よ。ウェッブというたった一人の個人に何もかもがぶら下がってる。あんたが私たちに『作るな』と言ったまさにその組織を――あんた自身が生きているの!」

 

ウェッブは長い間沈黙していた。

 

(……固有名詞を消し経緯を均し読めない要約に磨き上げたはずの紙だった。だが消した絵は消した跡の形で残る。――それを教えたのも俺か)

 

彼が自分の手で育てた分析官が彼が公開を義務づけられた紙だけを使って彼の急所を正確に撃ち抜いていた。文句のつけようがなかった。

 

「……大した分析官だ」

 

「褒め言葉は要らない」キキョウの目から涙がこぼれ落ちた。「私が言いたいのは一つだけ。――全部を話せなんて言わない。あんたの過去はあんたのものよ。墓場まで持っていけばいい。でもあんたを信じてる生徒はこの街にキヴォトス中に大勢いるの。だからもう少しだけ私たちを信じて頼って。一人で全部背負って消えようとしないで。あんたは私たちに『組織で支え合え』って教えたんだから。……その教えをあんた自身にも適用しなさいよ。大嘘つきの先生」

 

「それにね」彼女は涙を乱暴に拭い分析官の顔に戻って言い放った。「癖が消せなくて存在が座標になるって言うなら――一人で荒野に消えるのが正解だと思ってるの? 逆よ。発信源を隠すなら雑音の中に埋めるの。七人の生徒と三つの部活と祭りでごった返すこの街の雑踏の中にね。単独の熱源より群衆の中の一人の方がよっぽど見つからない。分析官として保証してあげるわ」

 

彼女自身が彼から教わった理屈だった。防諜の論理で防諜の専門家の退路を断つ。ウェッブは束の間本当に言葉を失った。

 

その静寂の中でナグサが静かに口を開いた。

 

「先生。……廃射的場で私に言いましたね」

 

彼女はまっすぐにウェッブを見た。震える右腕を左手でそっと押さえて。

 

「『捨てた人間ほど本当は捨てきれていない』と。……あなたは今私たちを捨てる練習をしています。捨てきれもしないのに。――欠けたまま隣の仲間のために立つのが本物の兵士だと教えてくれたのはあなたでしょう。あなたの欠け方だけが例外だなんて私は認めません」

 

「――アタシも同じ意見だ」

 

調停室の扉の陰からぬっと二つの影が現れた。レンゲとユカリだった。

 

「レ、レンゲ! ユカリ! あんたたち修行部の課程は!?」キキョウが頬を赤らめる。

 

「四日課程の三日目が半日で終わっちまってな。ツバキ先輩寝ながら通話表を完走しやがった」レンゲは悪びれもせず腕を組んでウェッブの前に立った。「で報告に戻ってきたらなんか良い声が聞こえてきたもんでね。……アタシからも言わせろ先生。あんたが勝手に一人でしんどいのを抱え込んでるのが一番腹が立つんだよ。頼れよアタシらに。ぶん殴ってでも手伝うからよ」

 

「身共も……!」ユカリが涙目で胸を張った。「身共は先生に拾っていただきました。今度は身共が先生をお支えする番ですわ! 誰も見ていないところでも正しいことを行う。それが身共の学んだ名誉ですもの!」

 

四つのまっすぐな瞳が孤独な亡霊のような男を見つめていた。

 

ウェッブはしばらくそれを見つめ返し――そしてふっと彼らしくもなく力なく息を吐いた。降参の吐息だった。

 

「……敵わないな。お前たちには」

 

それは拒絶でも肯定でもなかった。だがその声にいつもの鋼のような硬さはなかった。長い間誰にも開かずにいた扉がほんのわずかに軋んだ音だった。

 

「話は済んだか」ウェッブはそう言って少し照れ隠しのようにボードの敵ファイルを指した。「なら続きだ。お前たちはさっきいいところまで来ていた。前夜の『場』。収束点。……その先を組め。祭りは待ってくれない」

 

「……ええ」キキョウが涙を拭って微笑んだ。「そうね続きをやりましょう」

 

孤独にすべてを背負おうとした男のその肩の荷がこの夜ほんの少しだけ軽くなった。

 

---

 

【D−3 作戦立案】

 

翌日分析は最終段階に入った。モニターの縁の数字は「3」。

 

「敵の手段はいまだ空白。でも空白の"形"は固まった」キキョウが板壁の前で宣言した。「事前設置の装置は存在しない。火は『場』で仕込まれる。手順は二段構え――前夜の『語りの場』で火種を当夜の絶頂で開花を。再現に執着する犯人はこの手順を絶対に崩さない。二十年前の複写だもの」

 

「なら結論は一つよ。当日街のあちこちを受け身で守るのは最悪の策。守る対象が分からないんだから。――手段が発動する前にそれを"仕込む場"そのものを潰す。前夜敵の首魁たちが必ず一箇所に集まる。その収束点を叩く」

 

「雛形はあるの?」ミチルが問うた。

 

「あるわ」キキョウは机の上に二枚の紙を並べた。一枚はナグサのボードから写した『砂漠の一夜(復元)』の骨格。もう一枚は彼女たち自身の演習記録だった。

 

「一枚目は報道の破片と消された告発から私たちが復元したある夜の骨格。監視で収束点を割り出し少数で一点を短時間に制圧し痕跡ごと消える。――出所は全部公開情報よ。誰の機密も破っていない」彼女はちらりとウェッブを見た。ウェッブは何も言わなかった。それが答えだった。「そして二枚目は私たちが北の山で三日間身体で味わわされた狩りの記録。……二つは同じ骨格をしてるの」

 

「見たことはなくても」ナグサが静かに微笑んだ。「味わったことならあるものね」

 

「捕らえた後は?」ツバキが盾を抱えたまま問うた。

 

「ヴァルキューレに引き渡す」キキョウは静かに言った。「私たちが裁くんじゃない。警察の手で正式に連行してもらう。……先生の教えよ。生徒には何があっても手を掛けない。それは敵であっても変わらない。殺すのではなく捕らえる。裁くのではなく法に委ねる」

 

「一つだけ俺から助言する」ウェッブが静かに口を挟んだ。「その"収束の瞬間"を捉えるのは決行のぎりぎりになる。前日か当夜か。相手は正体不明の変装使いを抱えている。こちらの動きが漏れれば逆に待ち伏せされる。だから動く時刻をこちらから固定するな。敵が動いた瞬間に初めて動く。引き金を引くのは敵だ。俺たちはその引き金に居合わせるだけだ」

 

「潜入は静けさで勝ち決行は敵の動きが決める……」キキョウが猛然とメモを取った。

 

役割も決まった。気配を消して敵を追う斥候は忍術研究部。一瞬で確保する実行班は百花繚乱と修行部。現場全体を指揮するのはナグサ。調停室からすべての部隊を束ねるのはキキョウ。情報、指揮、統制、通信、偵察――そのすべてを一手に担う中枢。

 

その隣にウェッブが座る。助言役として。分析の担当官として。もう一人ですべてを背負う男としてではなく――キキョウの右腕として。

 

人手はぎりぎりだった。敵の"手段"はいまだ空白のままだ。だが崩れた城壁から生まれ変わった砦はいまやただ守るための盾ではなく、敵の喉元へ静かに忍び寄る一本の槍としてその切っ先を研ぎ澄まし始めていた。

 

---

 

【D−2】

 

その朝、お祭り運営委員会のシズコから調停室に一本の連絡が入った。

 

『――取れました! 面会のお約束!』

 

受話器の向こうの声は、徹夜明けの掠れと勝利の高揚が半々だった。

 

『今日の夕刻、当主様がユカリちゃんに直接お会いになります。装束と祭具の受け渡しです。例の仕来り通り、当主の手から巫女へ直に。……三週間塩漬けだった窓口が、やっと開きましたよ』

 

「……手際が良すぎない?」受話器を代わったキキョウが目を細めた。「あの石頭の家が、沙汰から数日で面会まで漕ぎ着ける?」

 

『ふっふっふ。第七次案まで練った根回しは伊達じゃないんです』シズコの声が商売人のそれになった。『綴りに書いた「話の通じる従者」――門番の爺やさん、覚えてます? ユカリちゃんが家記を借りに戻った日に泣いてたっていう。あの方、うちの百夜堂の常連さんなんですよ。月に二度、奥向きの使いのついでに桜餅を三つ。……その筋から通しました』

 

「……門番を突破しようとするな。門番を味方にしろ」キキョウが半ば呆れ、半ば感嘆して呟いた。「…先生の教えそのままじゃない」

 

『え? 何か言いました?』

 

「こっちの話。……それで、条件は」

 

『取り下げられていません』シズコの声が事務の硬さに戻った。『儀の後は家に戻ること。教育を修め直すこと。委員会は金輪際やめること。――三週間、あちらが一寸も動かさなかった三点です。今日もまずそれを並べてくるはずです。……ユカリちゃん、いますか? 一つだけ』

 

受話器がユカリに渡った。

 

『綴りの最後の頁、読みました?』

 

「朱書きの頁ですわね。……ええ、何度も」

 

『なら大丈夫。あとは――手土産、百夜堂の名前で先に届けさせてあります。リスト筆頭のあれです。楽屋見舞いの分とは別口ですから遠慮なく』

 

「……何から何まで。この御恩、どうお返しすれば」

 

『舞で返してください。二十年ぶんの、いちばん綺麗なやつで』

 

通話が切れた。

 

調停室の机の上には、すでに一枚の紙が広げられていた。ユカリが昨夜のうちに自分の手で書き上げた、生まれて初めての「交渉カルテ」だった。

 

決定権者――勘解由小路家当主。門番――爺や(味方)。先方のポジション――家に戻れ、委員会をやめろ。その下のインタレスト――家名の回復。二十年間、祭儀の家でありながら祭儀のない街を生きてきた屈辱を雪ぐこと。地雷――二十年前の件を、家の外の人間が口にすること(シズコの綴りに朱書き)。そして、こちらのBATNA――。

 

「最終確認だ」ウェッブがカルテの前に立った。「交渉は席に着く前に八割決まる。残りの二割を詰める。……ユカリ。先方の欲しいものは何だ」

 

「身共ではありませんわ」ユカリは即答した。「家が欲しいのは『儀の成功』と『家名』ですの。身共を家に戻すのは、そのための手段にすぎません。――オレンジの皮と果汁、ですわね。家名の回復という果汁は、身共が持ち場を捨てず完璧に舞えば、家に戻らずとも絞れます」

 

「約束できるのはどこまでだ」

 

「儀の成功そのものはお約束できません。当日は邪魔が入りますもの」彼女は静かに言った。「お約束できるのは二つ。持ち場を捨てないこと。そして、舞のために身共が積める研鑽のすべてを積むこと。……口にするのはそこまでにいたしますわ」

 

「BATNAは」

 

「稽古着で舞うことですわ」ユカリはまっすぐに答えた。「装束をいただけなくても神事は立ちます。巫女は身共で、舞は身共のものですもの。……こちらの代替案は先方のそれより強い。先方には身共の代わりがおりませんの」

 

「なら最後の規律だ」ウェッブは指を一本立てた。「その札は切り札だ。抜くのは最後。そして――抜いたら必ず実行できるものだけを口にしろ。実行できない脅しは口にした瞬間にお前の信用ごと死ぬ。……本当に稽古着で舞えるか」

 

ユカリは一拍だけ目を閉じた。全土に生配信される二十年ぶりの晴れ舞台。家宝の装束のない稽古着の巫女。家名に刻まれる註釈。

 

目を開けた時、そこに迷いはなかった。

 

「舞えますわ。――神事は装束が舞うのではございません。巫女が舞うのですもの」

 

「合格だ」

 

「あと、敵情は一言も明かさないこと」キキョウが付け加えた。「囮の件も花鳥風月部の件も。家に背負わせていいのは祭りの重さまで。……行ってらっしゃい、えり〜と」

 

ユカリは一度だけ目を伏せた。家記を借りに戻ったあの日、門番の爺やが泣いていた。あの門の向こうには涙よりずっと硬いものが待っている。それを知らないほど今の彼女はお嬢様ではなかった。

 

顔を上げた時、そこに迷いはなかった。

 

「身共が参りますわ。――これは、巫女の最初のお務めですもの」

 

ウェッブが短く言った。「レンゲ、門まで送れ。門から先は」

 

「はい」ユカリは微笑んだ。「身共一人の、戦場ですわ」

 

【勘解由小路家】

 

屋敷は祭りを控えた街の華やぎから切り離されたように静まり返っていた。塀の内側には提灯の一つも吊るされていない。夕暮れの光を磨き抜かれた石畳が鈍く返している。

 

「……相変わらずお堅い家だぜ」門前でレンゲが囁いた。「なあ、ほんとに一人で平気かよ。アタシ、塀くらい飛び越えられるぜ」

 

「平気ですわ。それに――」ユカリは肩をすくめてみせた。「この敵は、撃ってきませんもの。撃てない敵との戦い方なら、この一月で嫌というほど教わりましたわ。……それに今日は、味方の置いた布石の上を歩くだけですの」

 

門が軋みながら開いた。現れた白髪の門番の目が、ユカリの姿を認めた瞬間に潤む。

 

「お嬢様……」

 

「爺や、ただいま戻りましたわ。……今日は、お客としてですけれど」ユカリは声を落とし、いたずらっぽく付け加えた。「百夜堂の桜餅、月に二度、三つずつ。……存じ上げませんでしたわ」

 

「なっ……そ、それは、その」老人は狼狽え、それから観念したように洟をすすった。「……奥向きの使いの、ほんの駄賃でございます。シズコさんには口止めしたはずなのですが」

 

「爺やの口利きだったのでしょう、今日の席は」

 

「……この爺めにできるのは、旦那様のご機嫌の良い日をお伝えすることくらいで」

 

「十分すぎますわ」ユカリは深く頭を下げた。「――ありがとう、爺や」

 

長い廊下を歩いた。線香の匂い。廊下の両脇に目を伏せて控える従者たち。物心ついた頃から息の詰まる思いで歩いた廊下は、記憶よりもずっと短かった。

 

奥座敷。上座に当主が座っていた。その脇息の傍らには、桐の菓子箱が一つ、開けられもせずに置かれている。百夜堂の名で今朝届いたはずの手土産――老舗の羊羹。当主の好物として、シズコの綴りの筆頭に朱丸で記されていた品だった。

 

当主の視線が一瞬だけその箱に落ち、それからユカリに戻った。

 

「……よく調べたものだ」

 

第一声はそれだった。褒めてはいない。だが、無視もできなかったのだ。相手はこちらの帳簿を読んでから席に着いている――その事実を。

 

「調べたのは身共ではございません。身共のために三週間、この家の門前で粘り続けてくださった方がおりますの」ユカリは静かに答えた。「お口に合えば、その方の面目も立ちますわ」

 

当主は答えず、居住まいを正した。埃も感情も払い落とした、事務の声になった。

 

「巫女の件、運営委員会より正式の沙汰があった。――家としてこれを受ける」

 

「『家として』」

 

ユカリは静かに、相手の使った言葉をそのまま繰り返した。皮肉ではない。確認だった。相手の言葉を相手の単語のまま繰り返せ――そう教わった。

 

「そうだ」当主は動じなかった。「二十年前、この家は巫女に裏切られ家名は地に堕ちた。以来二十年、勘解由小路は祭儀の家でありながら祭儀のない街を生きてきた。この祭りは家名を雪ぐ最初にして最後の機会。しくじりは許されぬ」

 

そして条件が並べられた。

 

「装束は渡す。ただし――祭儀の間、お前は勘解由小路の巫女として家の作法にのみ従うこと。儀が成った後は家に戻り、しかるべき教育を修め直すこと。百花繚乱とやらは解散したと聞いた。ごっこ遊びの看板はもう無い。……潮時であろう」

 

(――一言一句、綴りにあった通りですわ)

 

ユカリは胸の内で、あの分厚い第七次案に静かに頭を下げた。三週間、この三点から一寸も動かなかった条件。運営委員会が押しても引いても崩れなかった壁。驚きは、ない。準備した者に、不意打ちは存在しない。

 

従者たちの間に、これで話は終いという空気が流れた。二十年前と同じ手続きだった。家が巫女を「立てる」。巫女は輿に載せられ、担がれ、儀が成れば蔵へ戻される。祭具と同じように。

 

「二つ、訂正がございますわ」

 

ユカリは畳に手をつかなかった。背筋を伸ばしたまま、まっすぐに上座を見た。

 

「……なに?」

 

「一つ、百花繚乱は確かに書類の上では解散いたしました。ですが、身共の性根までは解散しておりませんの。看板が下りていようと、身共は百花繚乱の勘解由小路ユカリ。それだけは誰にも――この家にも、下ろさせませんわ」

 

座がかすかにざわめいた。当主の目が細くなる。

 

「二つ、巫女のお役目は家が受けるものではございません。身共が身共の意志で既にお受けいたしましたの。運営委員会のシズコ様には身共の口から直にお伝えしてございます。……家はその後から体面という輿を担ぎに来られただけですわ」

 

「口を慎め。誰に向かって――」

 

「二十年前の巫女に向かって、この家が何をしたか」

 

静かな一言が当主の言葉を断ち切り、座敷の空気が凍った。

 

(シズコ様の綴りには朱書きがございましたわ。『二十年前の件、当主の前では触れるべからず』と)ユカリは胸の内でだけ、あの徹夜明けの声に詫びた。(ごめんなさい、シズコ様。……ここだけは、承知の上で踏んで通りますの)

 

「家記を拝見いたしましたわ。『儀の直前に持ち場を離れ、還らず。よって除籍』。――家は巫女を家名の道具として立て、儀が破れるや名前ごと切って捨てました。なぜ持ち場を離れたのか。それを問うた形跡は、家記のどこにもございませんでしたわ」

 

指先が震えそうになるのをユカリは静かに握り込んだ。恐怖ではない。これは怒りなのだと自分で分かった。彼女の脳裏には、キキョウが資料倉庫から写してきた一枚の紙片があった。『童子ら口々に、巫女様は南のボヤの方角へ駆けて行かれたと。上へ上げるも取り合われず』。――握り潰された、子供たちの証言。

 

「道具として使われ、道具として捨てられた者が二十年の果てに何になるか。……身共はそれを知ってしまいましたの。ですから申し上げます。身共は家に強いられる道具としてではなく、身共自身が選び取った覚悟として巫女を務めますわ」

 

そして彼女は相手の渇きの一番深いところへ手を伸ばした。

 

「この家が本当に欲しいものは、身共の身柄ではございませんでしょう。――二十年ぶりの神事が寸分の狂いなく成ること。地に堕ちた家名が雪がれること。……ならば申し上げますわ。身共は持ち場を捨てません。何があっても。そして舞のために積める研鑽は、当日までの一分一秒、すべて積みますわ。それは家に戻らずとも果たせるお約束ですの。――家名の回復は身共の舞の結果として差し上げます。目的として身共を縛ることはお許しになりませんように」

 

「……それが家の条件と相容れぬなら、どうする気だ」当主の声は低かった。「装束なしで神事が務まるとでも」

 

来た。ユカリは胸の内で、静かに切り札の柄に手を掛けた。抜いたら必ず実行する。実行できるものだけを口にする。

 

「務めますわ」

 

即答だった。

 

「神事は装束が舞うのではございません。巫女が舞うのです。いただけないのであれば、身共は稽古着で舞いますわ。二十年ぶりの祭事を、全土に生配信される晴れ舞台で。――勘解由小路家が家宝の装束を出し渋った、という註釈つきで」

 

(……先生。これは脅しではなく事実の提示、ですわよね?)

 

胸の内でだけユカリはこっそり確認した。嘘は一つもない。誇張もない。ただ、相手の帳簿に載る数字を先に読み上げただけだ。そして――口にした以上、本当にやる。稽古着でも身共の舞は二十年ぶんの舞になる。そう決めてから抜いた札だった。

 

そして彼女は口を閉じた。

 

沈黙が落ちる。長い、長い沈黙だった。

 

(――提案を出したら黙れ。人間は沈黙に耐えられない。先に口を開いた側が、大抵は譲る)

 

教わった通りに、ユカリは黙り続けた。畳の目を数え、庭のししおどしの水音を数えた。気まずさが喉元までせり上がってくる。(気まずさは武器だ。持ってろ、と先生は仰いましたけれど……この武器、随分と重うございますわ……!)

 

従者の一人が何かを言いかけ、当主が手だけでそれを制した。

 

そして、ししおどしが間の抜けた音を一つ立てた。

 

やがて。

 

「――蔵を開けよ」

 

短い命だった。従者たちが息を呑み、それから慌ただしく動き出す。

 

沈黙を先に破ったのは上座の側だった。

 

運び込まれた長持の蓋が開かれると同時に防虫香の匂いがふわりと立った。二十年間、誰にも袖を通されることのなかった巫女装束。白と――百鬼夜行の空の色。

 

当主は立ち上がり、仕来りの通り、自らの手でその装束を取り上げた。そして差し出しながら、初めてユカリの目を正面から見た。

 

「……二十年前の巫女は、儀の前夜に持ち場を捨てた」

 

声から、家の論理の硬さは消えていなかった。ただその底に、一滴だけ、別の何かが沈んでいた。

 

「お前は捨てるな」

 

「捨てませんわ」

 

ユカリは装束を両手で受け取った。ずしりと重い。二十年ぶんの重さだった。

 

「持ち場も、名も、この家の記録も。……全部持って、舞って差し上げます」

 

当主はそれ以上、何も言わなかった。ただ踵を返す間際、独り言のように落とした声を、鍛えられたユカリの耳は拾ってしまった。

 

「……舞は、母親似であればよいが」

 

え、と顔を上げた時には、その背はもう襖の向こうに消えていた。

 

ユカリはしばらく閉ざされた襖を見つめていた。

 

シズコの綴りの最後の頁が脳裏に浮かんだ。朱書きの一行。『※当主の前で、ユカリ様のお母様の舞の話題は禁忌。ただし――』。その先は墨が滲んでどうしても読めなかった。三週間かけてもシズコが掘り当てられなかった、この家の一番深い場所。

 

(……お母様の、舞)

 

その先を問う資格が今の自分にあるのかは分からなかった。ただ、装束の重みの中に、家記には決して書かれない何かが畳み込まれている気がしたユカリはそれをそっと抱え直した。

 

帰り道、長持は爺やが運んでくれた。門までの短い道を老人は何度も洟をすすりながら歩いた。

 

「お嬢様の晴れ姿を、この爺めが生きて見られる日が来ようとは……」

 

「泣くのはまだ早いですわ、爺や。当日、特等席で見ていてくださいまし。……ただし」ユカリは少しだけ声を落とした。「なるべく舞台から離れた場所で。お約束ですわよ」

 

老人は怪訝な顔をしたが、それ以上は問わなかった。

 

門前ではレンゲが塀にもたれて待っていた。

 

「おう、おかえり。……顔晴れてんじゃん」

 

「ええ」ユカリは長持を抱え直した。「勝って参りましたわ。――初弾を、撃たずに」

 

「はっ、上等だよ。今日イチの戦果かもな、それ」

 

「それと、帰りに百夜堂へ寄ってもよろしくて? シズコ様に戦果のご報告と……あの綴りへの御礼を正直に申しますわ。今日の身共の弾は、半分あの方の装填ですの」

 

「はいはい。ついでに桜餅を三つな」

 

夕闇の道を二人は調停室へと歩き出した。

 

その夜、調停室のモニターの縁で数字が書き換えられた。

 

――「2」。

 

二十年前。同じ門から一人の巫女が祭りの夜へと送り出された。家の道具として立てられ、儀が破れるとともに名前ごと捨てられた巫女が。

 

そして今、同じ蔵の装束を抱えてもう一人の勘解由小路の巫女が同じ祭りの夜へと歩いていく。家に強いられた務めとしてではなく、自らの手で選び取った覚悟として。

 

二十年を隔てた二人の巫女の物語が交わる夜まで――あと、二日だった。

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