『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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第2話(プロローグ):バディ・システム

一.アクリル板

 

連邦矯正局、第三面会室。

 

蛍光灯は一本だけ寿命が近く、二十三秒に一度微かに明滅している。錠前サオリはその周期を数えていた。数える意味はない。ただ数えていないと時間というものが存在しなくなるからだ。

 

アリウス分校の地下で育った者は時計を持たない。ベアトリーチェが与えなかった。時間は「マダム」だけが所有する資産であり、子供たちは呼ばれたときにだけ存在を許された。

 

だから彼女はここへ来てからあらゆるものを数える癖がついた。

 

換気口の格子は縦十一本に横四本。廊下を歩く看守の靴音は一分間に九十六歩。配膳は〇七〇〇時、一二〇〇時、一八〇〇時。誤差は五分以内。

 

――規則正しい。

 

それがこの矯正局に収監されて三週間で彼女が抱いた最初の感想だった。

 

殴られない。眠れる。飯が出る。「役に立たない者から順に処分される」という囁きが背中に張りつくこともない。同室のアツコは初日に「ここ、あったかいね」と言った。ガスマスク越しのあまりに無防備な声だった。サオリはそれに何と返せばいいのか分からなかった。

 

――牢屋の方がマシだったと私たちはそう言っているのだ。

 

その事実こそがベアトリーチェという女がアリウスに何をしたのかをどんな告発文書よりも正確に証明していた。

 

エデン条約調印式典。

 

彼女たちが火を放つはずだったあの日、爆破は起きなかった。トリニティの生徒は一人も死ななかった。ゲヘナの生徒も来賓も誰も。

 

作戦開始の十一時間前にベアトリーチェが死んだからだ。

 

公式にはそうなっている。捜査記録上、遺体の第一発見者はアリウスの別の生徒ということになっていて死因は「不詳」で処理された。誰も真剣に調べなかった。あの女を惜しむ人間はこの街に一人もいなかった。

 

――嘘だ。

 

サオリはこの三週間一度もその嘘を訂正していない。

 

あの夜、アリウス・バシリカの扉を最初に開けたのは彼女だ。

 

そしてあの部屋にいたものを見たのはキヴォトス広しといえど彼女ただ一人だ。

 

尋問官にも話していない。ミスズにも話していない。アツコにもヒヨリにもミサキにも――誰にも話していない。

 

なぜなら話そうとするたびに彼女の記憶は途中で切れてしまうからだ。

 

そして今。

 

その男がアクリル板の向こうの席に座った。

 

黒いフライトジャケット。短く刈った髪。三十半ば。特別に大きくも特別に厚くもない身体。すれ違っても記憶に残らないだろう平凡な男。

 

サオリの心拍が一瞬で百四十を超えた。

 

膝の上の両手が勝手に震え出す。彼女はそれを机の下に隠した。呼吸を四秒で吸い、四秒で止め、四秒で吐く。戦闘前の呼吸法。十年間彼女を生かしてきた技術。

 

――こいつだ。

 

――こいつがあの部屋にいた。

 

彼が椅子に座った瞬間、無意識に扉と非常口の位置を確認したのをサオリは見逃さなかった。机の上に置かれた彼の手は掌を下に指を開いている。いつでも机を蹴り上げて盾にできる角度。彼女がそれをできるように彼もそれをできる。

 

「デイヴィッド・ウェッブだ。連邦捜査部シャーレ、顧問」

 

低い声。感情の温度がない。

 

サオリの隣で槌永ヒヨリが小さく縮こまった。反対側では戒野ミサキが窓の外――正確には窓のない壁――を見ている。秤アツコだけが白いガスマスクの下から真っ直ぐに彼を見返していた。

 

三人とも何も気づいていない。

 

「……あんたか」

 

サオリの声は掠れていた。

 

「ベアトリーチェを殺したのは」

 

ウェッブは肯定も否定もしなかった。

 

ただほんの一秒――挨拶にしては長く警戒にしては短い正確に一秒だけ――彼女の目を見た。

 

それだけだった。

 

彼は書類の束をアクリル板の受け渡し口に滑り込ませた。

 

「取引の話をしに来た」

 

面会室の隅で連邦矯正局長・監原ミスズが困り顔で書類を抱えている。彼女は先ほどからずっと「あの、先生、あの、規則ではですね……」と言いかけては引っ込めるを繰り返していた。優しい人だとサオリは思う。優しすぎてこの場では無力な人だ。

 

「司法取引だ。選択肢は二つ」

 

ウェッブは指を二本立てた。

 

「一つ。このまま矯正局で刑期を務める。三十四ヶ月。模範囚なら二十ヶ月で仮釈放。出所後は前科持ちとしてキヴォトスのどの学園にも登録されない。学籍がない生徒はこの街では存在しないのと同じだ」

 

「……」

 

「二つ。社会貢献活動としてSRT特殊学園に転入する。再建中だ。人手が足りない。訓練は過酷だ。俺が監督する。逃亡、命令違反、暴力行為が一度でもあれば取引は即時破棄。刑期に六ヶ月上乗せして戻ってくることになる」

 

ヒヨリが「ひぇっ」と喉を鳴らした。

 

「条件を言う。武器の携行を許可する。実弾だ」

 

サオリの眉が動いた。ミスズが「せ、先生!?」と裏返った声を上げる。

 

「テロリストに銃を返すのか」

 

「君たちが銃を持っていない状態で、俺は君たちを信用できない」

 

意味が分からなかった。サオリは初めて表情を崩した。

 

「……理屈が逆だろう」

 

「逆じゃない」

 

ウェッブは初めてわずかに身を乗り出した。

 

「武装解除された人間は監視されている人間だ。監視されている人間はいつまで経っても責任を持たない。責任を持たない人間は育たない。……俺は君たちを見張りたいんじゃない。使いたいんだ」

 

言葉が鈍器のようにサオリの胸を叩いた。

 

――使う。

 

彼女はその言葉を生まれてから一万回は聞いてきた。マダムはいつもそう言った。お前たちは道具だ。よく切れる刃だ。刃は使われるためにある。

 

だがこの男の「使う」はなぜか同じ音がしなかった。

 

「……三人は」

 

サオリは搾り出すように言った。

 

「私はどうでもいい。だがこの三人は――」

 

「同じ条件だ。四名一括。分割はしない」

 

「アツコは駄目だ」

 

サオリの声が跳ね上がった。アクリル板に手をつく。ガラス越しに男を睨みつける。

 

「この子は……この子だけは駄目だ。この子の血は、この街の連中が知ればまた利用しようとする奴が出てくる。この子を戦場に出せばまた誰かが儀式だの生贄だの言い出す。この子は――」

 

「――さっちゃん」

 

穏やかな声が彼女の言葉を止めた。

 

アツコがサオリの袖をそっと摘んでいた。

 

「私、学校に行ってみたい」

 

「アツコ」

 

「夜中の学校に忍び込んで机に座ってみたことがある。誰もいない教室で黒板に落書きをして。……それ、楽しかった。すごく」

 

ガスマスクの奥の赤い瞳が静かにサオリを見上げた。

 

「でもあれは『ごっこ』だった。私、本物がどんなものかまだ知らない」

 

サオリは何も言えなかった。

 

ヒヨリが震える手を挙げた。「あ、あの……私はどちらでも……いえ、どちらも地獄だと思うので……人生とはそういうものですし……」

 

ミサキは壁を見たまま呟いた。「どっちでもいい。どこにいても同じだよ。全部、無意味だから」

 

そして三人は同時にサオリを見た。

 

――委ねられた。いつものように。

 

サオリの掌が汗で滑る。彼女はこの三人の人生をこれまで何百回と代わりに決めてきた。誰を撃つか。誰を撃たないか。どの穴に隠れるか。誰が先に死ぬか。

 

「……即決しろというのか」

 

「そうは言ってない」

 

ウェッブは椅子の背に体重を預けた。

 

「一週間やる。悩め。眠れないなら眠るな。飯が喉を通らないなら食うな。……それが『選択する』ということだ」

 

彼は立ち上がり書類を残して背を向けた。ドアノブに手をかけたところで一度だけ振り返る。

 

「錠前サオリ」

 

「……なんだ」

 

「君は俺に『命令してくれ』と言おうとしただろう」

 

サオリの息が止まった。

 

「言っておく。俺は君に命令を出せる。訓練中は出す。戦場でも出す。……だがこの件は違う」

 

蛍光灯が明滅した。二十三秒目。

 

「大事なのは経験じゃない。選択だ」

 

ウェッブは自分でも意外なほどすんなりとその言葉が出てきたことに内心で驚いていた。それは彼の言葉ではなかった。川底で、光の中で傷だらけの少女が彼に遺していった言葉だった。

 

「一週間後に来る」

 

ドアが閉まった。

 

サオリはアクリル板に映る自分の顔を見た。頭上のヘイローが割れた歯車のように歪んで回っている。

 

そして彼女の記憶はまたあの扉の前に立っている。

 

――調印式典の前夜。

 

アリウス・バシリカ(古聖堂)。

 

彼女はテロ計画の進捗報告のためにマダムへの謁見に上がるところだった。定刻は二三〇〇時。彼女は二二三八時に到着した。二十二分早かった。

 

それだけだ。

 

それだけの意味のない二十二分が彼女の人生を作り変えた。

 

聖堂の重い扉はわずかに開いていた。

 

彼女は規則通りに三度ノックし、規則通りに名乗り、規則通りに――返答を待たずに押し開けた。マダムを待たせてはならない。それがアリウスの規則だった。

 

そして。

 

祭壇の前にベアトリーチェが横たわっていた。

 

赤い肌。ゆったりとした衣。頭部から暗い色の何かが石畳の目地に沿ってゆっくりと広がっていく。彼女を十年間支配し、彼女の子供時代を丸ごと食い尽くした女はあまりにも呆気なく、あまりにも小さくそこに転がっていた。

 

そして、その傍らに「それ」がいた。

 

人間の形をしていた。人間の背丈で人間の腕で人間の手で作業をしていた。

 

だが、サオリの脳はそれを「人間」として処理することを断固として拒否した。

 

「それ」は慌てていなかった。

 

床に膝をつき薬莢を一つ、二つ、三つ――拾い上げて掌の中で数えている。数え終えるとポケットに落とす。次に祭壇の縁を布で拭う。角度を変えてもう一度拭う。窓に歩み寄りブラインドの隙間から外を三秒だけ確認する。戻ってくる。遺体の腕を持ち上げ下に敷かれていた布の位置を数センチずらす。まるで家具の位置を直すように。

 

音がしなかった。

 

ブーツが石畳を叩く音も、衣擦れの音も呼吸の音もしなかった。ただ極めて効率的な動作だけが静寂の中で事務的に淡々と続いていた。

 

――処理している。

 

サオリは理解した。

 

これは洗濯物を畳んでいるのと同じ手つきだ。この生き物は人間を殺してその痕跡を消すという行為を何百回も何千回も繰り返してきた。だから迷いがない。だから感情がない。だから音がしない。

 

――怪物だ。

 

彼女はアサルトライフルを構えた。

 

安全装置(セレクター)はセミオートに落ちていた。射線は完全に通っていた。距離十二メートル。相手は膝をついていてこちらに背中の四分の三を見せている。

 

外すはずのない距離。外すはずのない角度。

 

彼女は七歳から銃を撃ってきた。これまで一度も引き金を躊躇ったことはない。

 

指をかけた。

 

――動かなかった。

 

筋肉が拒否したのではない。恐怖で凍りついたのでもない。

 

ただ、彼女という人間の中にある「引き金を引く」という機能そのものがその瞬間だけこの世界から綺麗に消え失せていた。

 

そして「それ」は振り返りもせずに――彼女がそこにいることを最初から知っていたかのように――言った。

 

「君は、錠前サオリだな?」

 

低い声。感情の温度がない。

 

「すまない。こんなところを見せてしまって……」

 

そこで記憶が切れる。

 

その後彼女がどうやってバシリカを出たのか。銃をどうしたのか。誰とすれ違ったのか。どうやって寝床まで戻ったのか。

 

何一つ思い出せない。

 

翌朝彼女は自分のベッドで目を覚まし、装備は規則通りに整備されて枕元に置かれマガジンには弾が満数入っていた。一発も減っていなかった。

 

あれから何十日が経っても彼女はまだ同じ場所を歩き続けている。

 

なぜ私は撃てなかったのか。

 

撃てなくてよかったのか。

 

――それすらまだ答えられない。

 

---

 

二.〇五三〇時、SRT特殊学園

 

一週間後、アリウススクワッドの四名はSRT特殊学園の門をくぐった。

 

校舎はまだ半分が瓦礫だった。廃校決定から再建承認までの空白期間に、雨と時間が容赦なく食い荒らした跡が鉄骨の錆として残っている。だが正面玄関の上には新品の看板が掛かっていた。

 

『SRT特殊学園』

 

その下に少し小さく白いペンキで書き足された一行。

 

『不可能な作戦は無い』

 

サオリはその文字をしばらく見上げていた。

 

「――遅い」

 

冷たい声。

 

正面の階段に白い制服の少女が立っていた。狐の耳。赤い瞳。感情を削ぎ落とした顔。

 

七度ユキノ。FOX小隊長。コールサイン、FOX1。

 

彼女の背後には七名。副小隊長の吉野ニコが穏やかに微笑み、ポイントマンの高倉クルミが露骨に顔を背け、狙撃手の天神山オトギが「おー、来た来た」と気安く手を振り、そしてRABBIT小隊の四名が一段下の踊り場に整列していた。

 

月雪ミヤコ。空井サキ。風倉モエ。霞沢ミユ。

 

――八名。全員が武装。全員がこちらの「射線」を無意識に外している位置に立っている。

 

サオリは瞬時に理解した。歓迎ではない。これは配置だ。

 

「集合時刻は〇五三〇時。現在〇五三〇時と十四秒」

 

ユキノが言った。

 

「SRTでは十四秒あれば人が死ぬ」

 

「……了解した」

 

「返事は『はい』だ」

 

「――はい」

 

サオリは頭を下げた。頭を下げるという行為に彼女は慣れていない。地面が近くなると後頭部が無防備になる。それでも下げた。

 

「自分は反対だ」

 

RABBIT2、空井サキが一歩前に出た。ブーニーハットの下から真っ直ぐな目がサオリを射抜く。

 

「教範のどこにもテロリストと同じ釜の飯を食えとは書いてない」

 

「サキ」

 

小隊長のミヤコが短く制した。だがその声には制止というより「言うな、私も同じことを考えている」という響きがあった。

 

RABBIT3の風倉モエだけが棒キャンディをくわえたままミサキの背負ったロケットランチャーを凝視していた。

 

「……ねえ。それ、セイントプレデター? 実物初めて見た。榴弾の炸薬、アリウス独自配合でしょ。ねえ、一発だけ、ねえ」

 

「モエ!」

 

「冗談だってば。……半分は」

 

そして誰も気づかなかったがRABBIT4の霞沢ミユとアリウスの槌永ヒヨリはその瞬間、階段の同じ死角に立って同じ角度で背中を丸めていた。互いの存在にすら気づいていなかった。

 

「訓練を開始する」

 

ユキノが背を向けた。

 

「顧問殿の指示だ。今日から一二〇日間、諸君は同一の課程を履修する。落伍者は――」

 

彼女は言葉を切り初めてサオリを振り返った。

 

その瞳の奥にあったのは憎悪ではなかった。もっと厄介なもの。

 

――疑い。

 

「――落伍者は出ない」

 

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三.雨の中の六時間

 

最初の三週間は身体の問題だった。

 

〇五〇〇時起床。体力錬成。四十キロの装備を背負っての行軍。射撃場。近接戦闘訓練。市街地戦。夜間潜入。二二〇〇時消灯。翌朝また〇五〇〇時。

 

アリウスの四人は驚くべきことにこの課程に食らいついた。

 

当然だ。彼女たちは八歳の頃からこれよりひどい訓練を飯抜きで、雨の中で失敗すれば「処分」される恐怖と共にやってきたのだから。SRTの訓練は地獄のように厳しかったが少なくとも終わりがあり休憩があり水が出た。

 

そして週末には休暇があった。

 

「休暇……?」

 

ヒヨリが手渡された外出許可証を見て本気で怯えた。

 

「これは何かの罠ですか。休ませておいて油断したところを処分するという……ああ、やっぱり私の人生は……」

 

「休みだよ」オトギが笑いながら肩を叩いた。「街に出てなんか食ってきなよ。あ、私の分もクレープ買ってきて」

 

――だが身体の問題が終わると次に来たのは人間の問題だった。

 

食堂では誰もアリウスの隣に座らなかった。

 

弾薬受領票が三度「紛失」した。

 

無線で呼びかけても応答が三秒遅れるようになった。三秒。実戦なら人が二人死ぬ時間。

 

そして四週目の火曜日。

 

模擬市街地での中隊規模の演習。アリウスの四名はヒヨリを狙撃手として西の給水塔屋上に配置し警戒に就かせた。演習は一四〇〇時に終了した。

 

誰もヒヨリに終了を伝えなかった。

 

彼女は待った。

 

雨が降り出しても待った。命令を受けたから。持ち場を離れれば「処分」される世界で十年生きてきた少女は離れるという選択肢をそもそも持っていなかった。

 

六時間。

 

サオリが半狂乱で探し回り給水塔の梯子を駆け上がったとき、ヒヨリは体温を失いかけながらそれでもスコープを覗いていた。唇は紫色で指はライフルのハンドガードに凍りついたように貼り付いていた。

 

「……あ、隊長。すみません、ずっと敵が来ないので、私、何か失敗したのかと……」

 

サオリは彼女を抱えて声も出さずに泣いた。

 

そして――ただ一人。

 

RABBIT4の霞沢ミユは一五〇〇時の時点で給水塔の上に「誰かがいる」ことに気づいていた。

 

彼女は誰にも言わなかった。

 

自分のような存在感のない人間が何かを言ってもどうせ聞こえないと思ったからだ。

 

---

 

四.ブルーブック

 

翌朝〇六〇〇時。中庭。

 

十二名が整列している。

 

ウェッブは演台に上がった。手には一冊の本。青い表紙。

 

「――『兵士のブルーブック』」

 

彼は本を掲げた。

 

「米陸軍が新兵に配る本だ。俺の国の、俺の軍隊の、俺の言語で書かれている。キヴォトスとは何の関係もない」

 

雨が上がったばかりの空は白く、風はまだ冷たい。

 

「だが、書いてあることはここの信条と変わらない」

 

彼はページを開いた。

 

「訓練期間中の五つの黄金律(ゴールデン・ルール)。第一条」

 

低い声が中庭に落ちた。

 

「――『絶対に仲間をいじめ、ハラスメントし、暴行してはならない。常にチームメイトを助け、支援すること』」

 

誰も動かない。

 

「第五条。『バトルバディなしでどこへも行ってはならない。規則や方針の違反を目撃した場合は、速やかに指導部に報告すること』」

 

ウェッブは本を閉じた。

 

「昨日、諸君の一人が雨の中に六時間置き去りにされた」

 

空気が凍った。

 

「彼女は持ち場を離れなかった。命令だったからだ。……それは規律だ。俺が今まで見た中で最も純度の高い規律だ。そして俺はその規律をこの部隊が悪用したことに吐き気がしている」

 

サキの喉仏が動いた。クルミが唇を噛んだ。

 

「空井サキ」

 

「……はい」

 

「弾薬受領票は誰が処理する」

 

「……自分です」

 

「三度紛失した。理由は」

 

サキは一秒だけ黙りそれから真っ直ぐに前を見て言った。

 

「――自分が意図的に破棄しました」

 

隣でミヤコが息を呑む。

 

「理由を言え」

 

「あいつらは人を殺そうとしました。トリニティとゲヘナの生徒を何百人も。……自分は教範を信じています。教範には正義を執行しろと書いてある。テロリストに弾を渡せとはどこにも書いてない」

 

「高倉クルミ」

 

「……っ、な、なによ」

 

「食堂で彼女たちが座ろうとした席に荷物を置いたのは君だな」

 

「……そうよ。悪い? 別に暴力振るったわけじゃないでしょ」

 

「天神山オトギ」

 

「……げ。私?」

 

「君はそれを見ていた。そして笑って誤魔化した」

 

オトギの表情からいつもの陽気さが抜け落ちた。

 

「霞沢ミユ」

 

「ひっ……は、はい……っ」

 

「君は給水塔に人がいることに五時間前に気づいていた」

 

ミユの身体が目に見えて震え始めた。涙が滲む。

 

「……ご、ごめんなさい……私、私が言っても誰も聞いてくれないと思って……私なんかどうせ……」

 

「ミユ」

 

ウェッブの声は叱責ではなかった。

 

「君の声が届かなかったのは君の欠陥じゃない。この部隊の欠陥だ」

 

彼は演台を降りた。十二名の前をゆっくりと歩く。

 

「ブルーブックにはこうも書いてある。『受動的な傍観者(パッシブ・バイスタンダー)になることは許されない。傍観者も問題の一部とみなされる』」

 

彼は足を止めた。

 

「見ていて何もしなかった者はやった者と同罪だ。それが俺の国の軍隊の基準(スタンダード)だ。そして――」

 

彼は顔を上げ看板を指した。

 

『不可能な作戦は無い』

 

「――ここの信条だ。七度ユキノ。SRTの信条を暗唱しろ」

 

ユキノの喉がわずかに動いた。

 

「……我らは学園間の利害に左右されない」

 

彼女の声は最初震えていた。

 

「我らは要請あらばいかなる自治区にもいかなる時刻にも赴く」

 

「続けろ」

 

「我らは最も困難な任務を最初に引き受ける」

 

「続けろ」

 

「……我らは仲間を……」

 

言葉が詰まった。

 

「言え」

 

「――我らは仲間を置き去りにしない」

 

ユキノの手が制服のポケットの中で何かを固く握りしめていた。訓練生時代の名札。SRTの生徒が全員持ち歩くあの小さな金属片。

 

「昨日、君たちはそれを守ったか」

 

沈黙。

 

「守らなかった。……そしてこれは君たちの失敗じゃない」

 

ウェッブは中庭の中央に立った。

 

「これは指揮官の失敗だ。俺の失敗だ」

 

十二の顔が一斉に上がった。

 

「俺は君たちに『同じ課程を履修しろ』と命じた。だが『どういう基準で互いを扱え』とは一度も明示しなかった。明示されない基準は存在しない基準だ。存在しない基準の下では人間は最も楽な方へ落ちる。……全部俺の責任だ」

 

彼は一度だけ深く息を吸った。

 

「だから今日、明示する」

 

風が青い表紙をめくった。

 

「俺は諸君に彼女たちを許せとは言っていない。好きになれとも言っていない。……信頼しろとすら言っていない」

 

彼はサオリを見た。それからサキを見た。それからユキノを見た。

 

「俺が要求するのはたった一つだ。――基準だ」

 

「基準を満たせば俺は君たちが心の中で何を思っていようが一切干渉しない。憎め。軽蔑しろ。口をきくな。それは君たちの自由だ」

 

「だが、基準を下回った瞬間俺は君たちを部隊から外す。犯罪者だからじゃない。エリートだからでもない。――基準を下回ったからだ」

 

彼は本を脇に抱えた。

 

「以上。解散。……七度ユキノ、残れ」

 

---

 

五.褒めるときは全員の前で

 

中庭に二人だけが残った。

 

ウェッブは演台に腰を下ろしコーヒーの入った保温ボトルを開けた。もう一つのマグを無言でユキノに差し出す。

 

彼女は受け取らなかった。

 

「……なぜ全員の前で私を叱責しなかったのですか」

 

「褒めるときは全員の前で。叱るときは二人きりで。俺の国の軍隊の作法だ」

 

「私は部隊が腐るのを見ていた小隊長です。全員の前で解任されるべきだ」

 

「そうだな」

 

ウェッブはあっさり同意した。ユキノの肩がびくりと震えた。

 

「君は見ていた。食堂も受領票も無線の三秒も、全部見ていた。そして何もしなかった。……なぜだ」

 

「……」

 

「答えろ、FOX1」

 

ユキノの拳が白くなる。

 

「……私は道具です」

 

搾り出すような声だった。

 

「武器は自ら判断しないからこそ価値がある。私は与えられた命令を遂行する。それ以上のことをすれば私はまた――」

 

「また、誰かを傷つける、か…」

 

ユキノの呼吸が止まった。

 

ウェッブは静かに続けた。

 

「二年前の作戦記録を読んだ。容疑者の初動対応。君は動いた。判断を誤った。市民が巻き込まれた」

 

「……」

 

「あの日から君は二度と『自分で判断する』ことをやめた。命令されたことだけをやる。命令されないことは目に入ってもやらない。……そうすればもう誰も傷つけないと思ったからだ」

 

ユキノの赤い瞳から感情が消えていた。ハイライトのない虚ろな目。

 

「昨日君は動かなかった」

 

ウェッブは言った。

 

「そして槌永ヒヨリは雨の中で六時間体温を失いながら立っていた」

 

「――っ」

 

ユキノの膝がわずかに折れた。

 

「道具は判断しない。だから道具は誰も傷つけない。……そう思っていたな?」

 

彼は保温ボトルの蓋を閉めた。

 

「間違いだ。判断しないことも判断だ。動かないという判断だ。そして昨日、その判断は人を殺しかけた」

 

ユキノは何も言えなかった。何年もかけて自分の周りに積み上げてきた壁がたった一言で内側から崩落していく音がした。

 

「泣くな。まだ話は終わってない」

 

「……泣いていません」

 

「そうか」

 

ウェッブは立ち上がり彼女の前に立った。彼女より少しだけ背が高い。ただそれだけの当たり前の大人の身長。

 

「ユキノ。君は優秀な小隊長だ。それは間違いない。だが君はまだ指揮官じゃない」

 

「……違いがあるのですか」

 

「ある」

 

彼は言った。

 

「小隊長は命令を実行する。指揮官は責任を引き受ける。……そして責任というのは背負うものじゃない。分けるものだ」

 

「――分ける?」

 

初めてユキノの声に人間の温度が戻った。

 

「一人で背負える責任の量には限界がある。それを超えたら人間は壊れるか道具になるかのどちらかだ。君は後者を選んだ。……賢明だが間違っている」

 

「では、どうすれば」

 

「隣の人間に半分渡せ」

 

ウェッブは遠くの校舎を顎で示した。

 

「ニコに渡せ。ミヤコに渡せ。……いずれ俺にも渡せ」

 

「そんなことをすれば、その人が壊れる」

 

「二人なら半分ずつだ」

 

彼はもう一つのマグを演台の上に置いていった。

 

「三人なら三分の一だ。十二人なら十二分の一だ。……それが部隊だユキノ。それ以外の意味は部隊にはない」

 

彼は背を向けた。

 

「〇八〇〇時、射撃場。全員だ」

 

一人残されたユキノは演台の上の冷めていくコーヒーを長い間見つめていた。

 

そして初めてそれを手に取った。

 

苦かった。だが彼女はそれを飲み干した。

 

---

 

六.相互ゼロイン

 

〇八〇〇時。射撃場。

 

「編成を組み替える」

 

ウェッブはホワイトボードに四つの枠を書いた。

 

「三名一組。各組にFOXから一名、RABBITから一名、アリウスから一名。以後これを『セル』と呼ぶ。訓練、給養、点呼、外出、就寝――すべてセル単位で行う」

 

「せ、先生!?」クルミが悲鳴を上げた。「ちょっと待って、それって寝るときも一緒ってこと!?」

 

「バディなしでどこへも行くな。ブルーブックの第五条だ」

 

「読んでない! 私、その本読んでない!」

 

「今から読め」

 

彼はマーカーを走らせた。

 

セル・アルファ:七度ユキノ(FOX1)/月雪ミヤコ(RABBIT1)/錠前サオリ

セル・ブラボー:吉野ニコ(FOX2)/空井サキ(RABBIT2)/秤アツコ

セル・チャーリー:高倉クルミ(FOX3)/風倉モエ(RABBIT3)/戒野ミサキ

セル・デルタ:天神山オトギ(FOX4)/霞沢ミユ(RABBIT4)/槌永ヒヨリ

 

「デルタ、狙撃手ばっかりじゃん!」オトギが吹き出した。

 

「同じ職種を組ませた。教えられる人間が隣にいなければ人間は伸びない」

 

ウェッブは射撃台に標的紙の束を置いた。二十五メートル・ゼロイン標的。

 

「今日の課目はゼロイン確認だ。……ただし」

 

彼は標的紙を一枚指で弾いた。

 

「自分の銃は自分では撃たない」

 

沈黙。

 

「は……?」

 

サキが素っ頓狂な声を上げた。

 

「セル内の別の人間が君の銃を撃つ。三発一群(スリーラウンド・グループ)。平均弾着点(MPI)を出す。修正クリック数を計算する。ダイヤルを回すのはその人間だ。君は隣でそいつの射撃を観測(コール)し風を読み記録を取る」

 

「ま、待ってください」ミヤコが声を上げた。「自分の武器のゼロを他人に委ねるということですか」

 

「そうだ」

 

「それは――」

 

「それは次の実弾演習でその銃で撃つのが君だという意味だ」

 

ウェッブは静かに言った。

 

「銃はゼロインした人間のためにだけ真っ直ぐ飛ぶ。君の銃のゼロを狂わせるのは君の隣にいる人間には簡単だ。二クリック。誰にも分からない。次の任務で君は三百メートル先の標的を二十センチ外す」

 

十二人の顔が青ざめた。

 

「殺そうと思えば今日殺せる。……そういう課目だ」

 

「なんて悪趣味な訓練だ……!」クルミが呻いた。

 

「悪趣味だ」

 

ウェッブは否定しなかった。

 

「だが戦場では毎日これをやっている。君が背中を向けた瞬間後ろの人間は君を撃てる。君が寝ている間歩哨に立つ人間は敵を通せる。君が弾切れを起こしたとき隣の人間は弾倉を渡さないこともできる」

 

彼は射撃台に肘をついた。

 

「軍隊というのはそれを毎日全員がやらないという、ただそれだけの極めて脆い約束の上に成り立っている。その約束を俺の国では『信頼』と呼ぶ」

 

「――撃て」

 

最初に動いたのは意外にも空井サキだった。

 

彼女は無言でアツコのスコルピウスを受け取り射撃台に依託し、伏射(プローン)の姿勢を取った。マガジンを直接地面に着けてモノポッドのように使う。教範通りの姿勢。

 

三発。

 

紙に開いた三つの穴をアツコがガスマスク越しに覗き込み静かに言った。

 

「……綺麗。三発とも五ミリ以内」

 

「当たり前だ」サキはぶっきらぼうに言った。「教範に書いてある通りにやっている」

 

「じゃあ教範にはこれも書いてある?」

 

アツコが修正ダイヤルに指を置いた。

 

サキの身体が硬直した。

 

自分の――ではない。アツコの銃だ。だがこの後これを使って前線に立つのはアツコ本人であり、そしてアツコが撃ち損なえば隣で盾になるのはサキ自身なのだ。

 

「……好きにしろ」

 

サキは目を逸らした。

 

アツコはダイヤルを右に二クリック回した。正しい方向に。

 

「サキちゃん」

 

「……なんだ」

 

「私、あなたのことまだ何も知らない。あなたも私のこと何も知らない」

 

アツコは標的紙を折り畳んだ。

 

「でもゼロインは合った。今日のところはそれでいいと思う」

 

サキは長い間黙っていた。

 

そしてブーニーハットを目深に被り直してこう言った。

 

「……次はお前が撃て。自分が観測する。風、右から二メートル毎秒。修正は自分が計算する」

 

「うん」

 

隣の射座では風倉モエが戒野ミサキのセイントプレデターを両手で捧げ持ち恍惚とした表情で震えていた。

 

「ふ……ふふ……いいの? ほんとにいいの? これ、撃っていいの?」

 

「……好きにしなよ。どうせ意味なんてない」

 

「意味ならある!! 大アリだよ!! こんな綺麗な炸薬配合、キヴォトス中どこ探してもないんだから!!」

 

「…………」

 

ミサキは初めてほんの少しだけ目を丸くした。

 

自分の武器をこれほど嬉しそうに扱う人間を彼女は見たことがなかった。アリウスでは武器は道具で道具は虚しく虚しいものに価値はなかった。

 

「……壊さないでよ」

 

「壊すわけないじゃん! 愛してるもん!」

 

「…………変な人」

 

そして二十メートル離れた射座では――

 

「あ、あの……ヒヨリさん、でしたっけ……」

 

「……はい。……あの、ミユさん、ですよね……」

 

「……あの、私たぶん途中でいなくなっちゃうと思うんですけど……」

 

「わ、私もです……。私いつも誰も探しに来てくれないので……」

 

「……じゃあ、あの」

 

ミユが震える指でヒヨリの手首を掴んだ。

 

「……手、繋いでてもいいですか」

 

「……ぜ、是非」

 

天神山オトギはその光景を後ろから眺めてしばらく肩を震わせそれから両手で顔を覆った。

 

「……あー。もう。なんなの、この子たち。可愛すぎるでしょ」

 

---

 

七.十二名

 

第九週。

 

「夜間行軍。距離三十二キロ。装備重量四十キロ。制限時間、八時間」

 

ウェッブが装備を点検しながら告げた。

 

「地形は北部演習場。標高差六百メートル。今夜の気温は四度、降水確率八十パーセント」

 

「ひぇ……」ヒヨリが白目を剥いた。

 

「合格基準は一つだけだ。よく聞け」

 

彼は十二名の顔を一人ずつ見た。

 

「――十二名で発ち、十二名で還れ」

 

「以上だ。〇一〇〇時、出発」

 

雨が降った。

 

四時間目、傾斜が三十度を超えた辺りで隊列が伸び始めた。ヒヨリの荷が肩に食い込みミユの姿が定期的に見えなくなり(オトギが十五分おきに点呼を取った)、クルミが「もう無理、絶対無理、絶っっっ対無理」と呟き続けながら足を動かした。

 

六時間目。

 

戒野ミサキが立ち止まった。

 

そしてゆっくりと膝から崩れた。

 

「――ミサキ!」

 

サオリが駆け寄る。ミサキの顔は蒼白で、呼吸は浅く、脈は速い。脱水。低体温。そして極度の消耗。

 

「立て、ミサキ。立つんだ。私が担ぐ」

 

「……いいよ」

 

ミサキは雨に濡れた地面を見つめたまま言った。

 

「置いてって」

 

「馬鹿を言うな!」

 

「私がここで死んでも何も変わらない。……最初から何も無かったんだから。全部無意味だよ」

 

彼女の手首の包帯が、雨を吸って重く垂れ下がっていた。

 

サオリはその言葉を何十回も聞いてきた。そして何十回もこの子の手を掴んできた。掴んで掴んで掴み続けて――それでもいつか掴み損ねる日が来るのではないかと毎晩眠れずにいた。

 

「……もう疲れた」

 

ミサキが目を閉じかけたそのとき。

 

ゴッ、という重い音がした。

 

四十キロの背嚢が、雨の地面に叩きつけられた音だった。

 

「――教範に書いてある」

 

空井サキが装備を投げ捨てて立っていた。

 

「戦士の気風(ウォリアー・エイソス)、第四項。『私は絶対に、倒れた戦友を置き去りにしない』」

 

彼女はミサキの前に片膝をつきその腕を自分の肩に回した。

 

「……お前が何をしたかは知っている。忘れてもいない。許してもいない」

 

サキの声は震えていた。怒りでもなく憐れみでもなくただ彼女が信じてきたものが試されているその恐怖で。

 

「だが書いてあるものは書いてある。……自分は書いてある通りにしかできない人間だ」

 

「サキ……」ミヤコが呟いた。

 

「担架を作る」

 

FOX2、吉野ニコが即座に動いた。「ポンチョと支柱で四点式。クルミ、右前。オトギ、左前」

 

「ちょ、ちょっと! 私まだ自分の荷物で――」

 

「クルミ」

 

ニコが母親の声で言った。

 

「あなた、荷物と人間、どっちが重いと思ってるの」

 

「…………っ、分かってるわよ、そんなこと!」

 

クルミは自分の背嚢からシールのケース(彼女の宝物だ)を取り出して胸ポケットに突っ込み、残りを全部その場に捨てた。

 

「――全隊、聞け」

 

七度ユキノの声が、雨を裂いた。

 

十二人が振り返る。

 

FOX1は雨の中に立って隊列全体を見渡していた。その赤い瞳には、もうハイライトが戻っていた。

 

「担架搬送に移行する。四名一組、五分交代。装備は必要最小限を残して遺棄。回収は明朝の車両で行う」

 

「隊長、時間が――」ミヤコが言いかけた。

 

「制限時間は超過する」

 

ユキノは断言した。

 

「合格基準は時間じゃない。……十二名で発ち、十二名で還ることだ」

 

彼女はポケットの中の名札を握りしめた。

 

「顧問殿は時間を一言も『基準』とは言わなかった。私は……ずっと命令されていないことはやらない人間だった」

 

彼女はサオリを見た。かつて自分が殺そうとした少女。かつて自分を殺そうとした少女。

 

「――これは私の判断だ」

 

「……FOX1」

 

サオリが口を開いた。

 

「担架の右後ろは私がやる。この子は私が十年間担いできた」

 

「却下だ」

 

「なに」

 

「右後ろは私がやる」

 

ユキノは担架の柄を掴んだ。

 

「君は先頭でナビゲートしろ。カタコンベで育った人間は暗闇での方向感覚が異常に鋭いと聞いている。……使えるものは使う」

 

サオリは数秒その言葉の意味を咀嚼した。

 

――使う。

 

それは彼女が生涯で二度目に聞いたあの音のしない「使う」だった。

 

「……了解した」

 

十二名は雨の中を歩いた。

 

ヒヨリが最後尾で懐中電灯を振り、ミユがヒヨリの手を握り、モエが無線で座標を叩き、アツコがミサキの額の雨を拭い続けた。

 

制限時間を四十七分超過して。

 

彼女たちはゴールを越えた。

 

---

 

八.夜明けのAAR

 

〇九一二時。

 

ゴール地点にウェッブが立っていた。ジープのボンネットに保温容器を並べ、コーヒーの湯気が朝の冷気に白く立ち上っている。

 

彼はストップウォッチを見た。それから担架の上のミサキを見た。

 

「――衛生班。低体温症。温めろ。水分と糖分。急げ」

 

医療スタッフが駆け寄る。ミサキは意識を取り戻し酸素マスクの下で掠れた声で何か言った。

 

「……なに?」モエが耳を寄せる。

 

「……なんで、置いてかなかったの」

 

「え? そりゃあ、あんたの武器、まだ一発も撃たせてもらってないもん」

 

「…………」

 

「あとバディだから」

 

モエは棒キャンディを新しいのに替えた。

 

「先生が言ってたじゃん。バディなしでどこへも行くなって。……あんたがいなくなったら私が怒られるんだよね。迷惑」

 

ミサキは酸素マスクの下で長い間天井を――いや雨の上がった空を見ていた。

 

そして聞き取れないほど小さな声でこう言った。

 

「……ごめん」

 

「はぁ? 聞こえないんだけど」

 

「……なんでもない」

 

「事後検討会(アフター・アクション・レビュー)を行う」

 

三十分後ウェッブは十二名を車座に座らせた。全員がずぶ濡れで泥だらけで目は落ち窪んでいる。

 

「ルールは四つ。第一に階級は存在しない。ここでは小隊長も新兵も犯罪者も全員が同じ発言権を持つ。第二に犯人探しはしない。第三に事実のみを述べる。第四に――」

 

彼はコーヒーを配りながら言った。

 

「――嘘をつくな」

 

「質問は四つだ。何が起こるはずだったか。実際に何が起きたか。なぜそうなったか。次はどうするか」

 

彼は最初に自分から始めた。

 

「俺から言う。……俺はミサキの体調を事前に把握していなかった。指揮官の情報収集の失敗だ。彼女は三週間平均睡眠時間三時間だった。俺は知らなかった。……知らなかったこと自体が俺の失敗だ」

 

十二人が驚いて顔を上げた。

 

大人が最初に自分の失敗から話し始めるという光景を彼女たちの誰一人として見たことがなかった。

 

「次」

 

沈黙。

 

そしてゆっくりと空井サキが手を挙げた。

 

「……自分は弾薬受領票を三度破棄しました。四週目には無線で応答を意図的に遅延させました。……理由は憎かったからです」

 

彼女は真っ直ぐにサオリを見た。

 

「トリニティの生徒に友人がいます。あの日、あそこにいました。……お前たちの巡航ミサイルが直撃していたらあいつは死んでいた」

 

「……ああ」

 

サオリは目を逸らさなかった。

 

「そうだ」

 

「謝るな」

 

サキが遮った。

 

「謝られたら自分は困る。許すか許さないかを決めなきゃいけなくなる。……自分はまだ決めていない」

 

「決めなくていい」

 

サキは震える手でコーヒーを飲んだ。

 

「決めないまま隣で撃つ。……教範にはそう書いてある」

 

ウェッブは頷いた。

 

「――記録する。以上が『なぜそうなったか』だ」

 

「次は『どうするか』だ。ミヤコ」

 

「はい」

 

RABBIT1が背筋を伸ばした。

 

「セル単位での相互点呼を日に三度から五度に増やします。特に狙撃手の配置解除については、配置した本人が回収を確認するまで演習終了を宣言しないという手順(SOP)を提案します」

 

「採用する。他は」

 

「私からもいいでしょうか」

 

七度ユキノが静かに手を挙げた。

 

「……FOX小隊はこれまで自分たちの都合で後輩の小隊を『支隊』として扱おうとした過去があります。私はその先頭に立っていました」

 

彼女はミヤコを見た。そしてサオリを見た。

 

「私は責任を一人で抱えられると思っていました。それは傲慢でした」

 

彼女はポケットから小さな金属の名札を取り出した。訓練生時代の彼女の名札。

 

そしてそれを車座の中央に置いた。

 

「――提案があります。SRTの信条を十二名で暗唱したい」

 

サキが目を見開いた。

 

「隊長、それは……犯罪者に、SRTの信条を……」

 

「空井サキ」

 

ユキノは言った。

 

「昨夜、担架の左後ろを担いでいたのは誰だ」

 

「……錠前サオリです」

 

「六時間給水塔から降りなかったのは誰だ」

 

「……槌永ヒヨリです」

 

「――『我らは、最も困難な任務を、最初に引き受ける』」

 

ユキノは名札を見つめたまま言った。

 

「私はこれを守ったことがあるか? 三年間一度でも」

 

サキは何も言えなかった。

 

そして震える手で自分の名札をポケットから取り出しユキノの隣に置いた。

 

一つ、また一つ金属の小さな音が朝の空気に落ちていく。

 

八枚の名札が並んだところでウェッブが動いた。

 

彼はポケットから四枚の新品の名札を取り出した。

 

刻印されている名前は、錠前サオリ。秤アツコ。槌永ヒヨリ。戒野ミサキ。

 

「……いつの間に」

 

サオリが呆然と呟く。

 

「三週間前に発注した」

 

ウェッブはそれを一枚ずつ彼女たちの掌に置いた。

 

「合格すると思っていたんですか」

 

「いや」

 

彼はコーヒーを一口飲んだ。

 

「不合格になったら捨てるつもりだった。……その方が安上がりだ」

 

「……最低だな、あんた」

 

「よく言われる」

 

---

 

九.マスクの下

 

その週の金曜、ブラボー・セルの昼食は演習場の日陰だった。

 

「はい、どうぞ」

 

吉野ニコが大きな重箱を開けた。中には艶やかに光るおいなりさんが隙間なく詰まっている。

 

「わ……」

 

秤アツコがガスマスクの奥で目を丸くした。

 

「あの、これ……」

 

「私が作ったの。多めに作ったからブラボー・セルで食べましょう。サキちゃんも」

 

「自分は携行糧食(レーション)で――」

 

「サキちゃん」

 

「……いただきます」

 

アツコはしばらくその重箱をじっと見ていた。

 

そしてゆっくりと両手を後頭部に回した。

 

ベルトを外す音。

 

黒いガスマスクが静かに彼女の膝の上に降りた。

 

サキの手が止まった。ニコの微笑みがほんの少しだけ固まった。

 

現れたのは――ただの女の子だった。

 

白に近い淡い紫の髪。長い睫毛。吸い込まれそうな赤い瞳。頬にはまだ幼さが残っていて鼻の頭が少し赤くて、そして少しだけ緊張していた。

 

「……食事のときだけは、外すの」

 

アツコは恥ずかしそうに言った。

 

「マスクの中にごはんが入らないから」

 

そしておいなりさんを一つ両手で持ち上げて小さく齧った。

 

咀嚼する。

 

飲み込む。

 

もう一口。

 

その頬にゆっくりと赤みが差していく。

 

「……おいしい」

 

彼女は言った。

 

「すごく、おいしい」

 

ニコは何も言わなかった。ただそっと二つ目のおいなりさんを彼女の手元に置いた。

 

サキは明後日の方を向いていた。ブーニーハットを目深に被って鼻を啜っていた。

 

「昨日の雨で風邪をひいたんだ。それだけだ」

 

「はいはい」ニコが笑った。「サキちゃん、あなたの分もあるからね」

 

---

 

十.引き金

 

夕刻。

 

シャーレへ戻る車両の助手席にサオリが座っていた。ウェッブがハンドルを握っている。

 

「話がある、と言ったのは君だ」

 

「……ああ」

 

サオリはフロントガラスの向こうを見つめたまま長い間黙っていた。

 

信号を三つ通過した。

 

そして言った。

 

「二二三八時」

 

ウェッブの視線は道路から動かなかった。

 

「私は二十二分早く着いた。だが扉を開けた」

 

「……」

 

「あんたは薬莢を三つ拾った。祭壇を二度拭いた。窓を三秒だけ確認した。それからあの女の腕を持ち上げて下の布を数センチずらした」

 

彼女の声は感情を殺そうとして失敗していた。

 

「私はそこにいた」

 

ウェッブは何も言わなかった。

 

否定もしなかった。驚きもしなかった。

 

ただハンドルを握る右手の指が一本ずつ順番に握り直された。

 

「――誰かに話したか」

 

「話していない」

 

「これからも話すな」

 

「なぜだ」

 

「俺が困るからだ」

 

彼はあっさり言った。あまりにあっさりしていたのでサオリは一瞬聞き間違えたかと思った。

 

「あの女がキヴォトスの外から来た『大人』だということを連邦生徒会は正式には知らない。知らないままの方がいい。……そして俺が一人の大人を令状も裁判もなしに処理したという事実は、この街の子供たちが背負う必要のない重さだ」

 

「……それは私も含めてか」

 

「君はもう背負っている」

 

彼は言った。

 

「だから君だけには話す」

 

サオリは膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込む。

 

「……なら、答えろ」

 

「言え」

 

「なぜ…私は撃てなかった」

 

彼女の声は彼女自身が驚くほど震えていた。

 

「射線は通っていた。十二メートルだ。あんたは膝をついて背中を四分の三こちらに向けていた。外すはずがない。私は七歳から銃を撃ってきた。躊躇なんてとっくの昔に捨てさせられた」

 

「……」

 

「それなのに指が動かなかった。その後の記憶もない。私は壊れたのか? ……それとも撃たなくて正解だったのか? ――どうなんだ」

 

ウェッブは赤信号でブレーキを踏んだ。

 

ワイパーがフロントガラスを一往復した。

 

「――撃てなかったんじゃない」

 

彼は言った。

 

「撃たなかったんだ」

 

「同じことだろう」

 

「まったく違う」

 

信号が青に変わった。後続車がクラクションを鳴らしたが無視した。

 

「人間は自分が理解できないものに引き金を引けない。……それは欠陥じゃない。人間である証拠だ」

 

サオリは彼の横顔を見た。

 

「俺も一度、引き金を引けなかったことがある」

 

彼の声はこれまでで一番低かった。

 

「船の上だった。標的は目の前にいた。命令は明確だった。……だが、標的の隣に子供がいた」

 

サオリは息を止めた。

 

「その一秒で俺の人生は全部壊れた。撃たなかったせいで俺は背中を撃たれ、海に落ち、記憶を失い、七年間世界中から追われた」

 

彼はアクセルを踏んだ。

 

「――そして、その一秒が」

 

車が走り出す。街の灯りが彼の横顔を切れ切れに照らしていく。

 

「俺の人生でただ一つ正しかったことだ」

 

サオリは何も言えなかった。

 

助手席の窓の外をキヴォトスのネオンが流れていく。

 

やがて彼女は言った。

 

「あんたが何かをしたからか」

 

「いや」

 

ウェッブは前を見たまま答えた。

 

「君は銃を下ろした。安全装置をかけて俺に背中を向けて自分の足で歩いて出て行った。俺は追わなかった。……それだけだ」

 

「……嘘だ。私は覚えていない」

 

「覚えていないだけだ」

 

彼は言った。

 

「人間の脳は自分が壊れそうになったとき、その日の記録を勝手に消す。……あれは故障じゃない。安全装置だ」

 

サオリは窓に額を預けた。

 

冷たいガラスの向こうをこの街の光が流れていく。彼女が焼き払うはずだった街の、彼女が殺すはずだった子供たちの明かりだ。

 

「……ウェッブ」

 

「先生と呼べ。ここではそういう規則(ルール)だ」

 

「…………先生」

 

サオリは慣れない発音を口の中で二度転がした。舌が言うことを聞かない。この単語を発音するための筋肉を彼女は生まれてから一度も使ったことがなかった。

 

「あの日あんたは私を殺せた。あの部屋で十二メートルで私は硬直していた。……なぜ殺さなかった」

 

ウェッブはしばらく答えなかった。

 

信号が二つ流れた。

 

「――君が生徒だからだ」

 

彼は言った。

 

「そして俺はもう、そういう仕事はしない」

 

車はD.U.地区の光の中へ滑り込んでいった。

 

その夜SRT特殊学園の兵舎では消灯時刻を三十分過ぎても点呼の声が続いていた。

 

「セル・アルファ、三名異常なし」

 

「セル・ブラボー、三名異常なし」

 

「セル・チャーリー……あ、待って、ミサキがトイレ行った。……戻った。三名異常なし」

 

「セル・デルタ……えっと……あれ? ミユは? ヒヨリは? ……あ、いたいた、ベッドの下にいた。二人とも。なんで!?」

 

「……あの……ベッドの下、落ち着くので……」

 

「……ですよね……」

 

「もー!! 二人まとめて引きずり出すからね!! セル・デルタ、三名異常なーし!」

 

消灯。

 

十二名は眠った。

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