『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
一.消えた鉄条網【防衛線側】
その丘陵地帯にはつい数ヶ月前まで「境界線」と呼ばれる巨大な傷跡が走っていた。
トリニティ総合学園とゲヘナ学園。キヴォトスの二大勢力が数百年にわたって睨み合ってきた最前線。三重の鉄条網。コンクリートのバリケード。対車両壕。地中に眠るセンサー網。丘の稜線ごとに建てられた監視塔は互いの銃眼を向け合い、夜ごとサーチライトの白い刃が幅十数キロに及ぶ緩衝地帯の草原を薙いでいた。
正義実現委員会の黒と風紀委員会の紺。二つの制服はこの丘を挟んで何世代にもわたって互いを「越えてくるもの」として監視し続けてきた。
――だが今。
鉄条網は消えた。
バリケードは撤去され、監視塔は解体、対車両壕は埋め戻された。緩衝地帯だった草原には測量杭が整然と打ち込まれ、真新しい標識が立っている。
『エデン条約機構 合同訓練場 第一演習区域』
エデン条約機構――ETOの成立がすべてを変えた。
数百年分の憎悪の物理的な堆積物がわずか数ヶ月で撤去された。そして今、その跡地には別のものが築かれつつあった。
塹壕である。
数日がかりで進められてきた陣地構築の、今夜がその最終夜――仕上げの夜だった。夜明け前の薄闇の中、投光器の白い光の帯の下で無数のシャベルが土を掻く音が丘に響いていた。黒いセーラー服の少女が掘り出した土嚢を紺のブレザーの少女が受け取って積み上げる。正義実現委員会と風紀委員会。かつて銃口を向け合った二つの組織が、今は同じ防衛線の同じ塹壕を肩を並べて掘っている。
「――土嚢は互い違いに積むんだぞ。前に教わっただろう。同じ向きに積むと機銃弾で一列ごと崩れる」
赤い「風紀」の腕章。銀鏡イオリが稜線下の射撃陣地を歩き回り、片目を隠した前髪の下から鋭い視線を配っていた。
「胸壁の高さはあと二十センチ。射界の確認を忘れるな。掘って満足するのは素人だ」
「わ、分かってるわよ! っていうか、なんでゲヘナに指図されなきゃいけないの!?」
塹壕の底から泥だらけの顔を上げたのは下江コハルだった。ピンクのツインテールが土埃で薄汚れている。
「私は正義実現委員会のエリートなんだから、ざ、塹壕くらい……よいしょ……掘れるんだから……!」
「エリートのシャベルの持ち方じゃないな。刃を立てろ。腰で掘れ。腕で掘ると三十分で潰れるぞ」
「〜〜〜っ!」
コハルは反論しかけて言われた通りに持ち替えた瞬間、土がざくりと深く入ったので何も言えなくなった。イオリは満足げに頷いて次の陣地へ歩いていく。その背中にコハルが「……ちょっとだけ感謝してあげるわよ」と小声で言ったのをイオリは聞こえないふりをした。
丘の別の斜面では弾薬の集積が進んでいた。
「五・五六ミリペイント演習弾二千四百発入り――こちらの木箱っす。第二中隊さん受領サインお願いするっすね〜」
仲正イチカが糸目の笑顔でクリップボードを差し出す。受け取るのはゲヘナの風紀委員だ。ほんの数ヶ月前なら、この光景は悪い冗談か開戦前夜の偽装工作としか解釈されなかっただろう。
同じ口径。同じ弾薬。同じ無線プロトコル。同じ教範。同じ規則。
ETOの成立後、両委員会の装備と手順は完全に統一された。
シャーレ顧問デイヴィッド・ウェッブが持ち込んだキヴォトスの誰も見たことのない分厚い翻訳教範の山――『FM 3-0 作戦』『FM 3-09 火力支援』『TC 3-22.9 ライフルとカービン』――などの教範に基づいて、射撃姿勢の基礎から諸兵科連合の機動防御までNATO方式のドクトリンが数ヶ月かけて徹底的に叩き込まれた。
丘の頂上近くの一本だけ残された巨木の枝の上には小柄な影がひとつ。
静山マシロが自分の身長ほどもある対物ライフルを枝に預け、単眼鏡で北の地平線を舐めるように観察していた。
『こちらOP(観測所)ツー。北北東グリッド、ノヴェンバー・ブラボー――四七三、二九一。地平線上に土埃。車両集団、移動中。……統制部の管理下で始発位置へ向かう敵ユニットと思われます。数と隊形を記録します』
彼女の声は淡々として感情の揺らぎがない。だがその指はメモ帳に幾帳面な文字で観察記録を書き付けていた。趣味の観察日記と同じ筆跡で。
『――正義の監視に死角はありません』
そして丘陵地帯の後方の逆斜面に隠された窪地には、白いテントの群れが設営されていた。テントの天蓋には巨大な赤十字。野戦病院である。
「トリアージ・タグはこちらの手順で統一します。緑、黄、赤、黒。……装着訓練をもう一度おさらいしましょう」
蒼森ミネが凛とした声で白衣の少女たちを前に説明していた。救護騎士団の白とゲヘナ救急医学部の暗色のコート。これもまた、数ヶ月前にはあり得なかった混成部隊だ。
「黒タグの判定基準について質問が」
氷室セナが無表情に手を挙げた。
「演習規定ではMRデバイスがKIA判定を下した生徒は『死体』として扱うとあります。死体の搬送優先度は」
「……セナさん。『戦死判定を受けた生徒』です。死体ではありません」
「失礼。訂正します。……新鮮な検体」
「余計に悪化しています」
「はいはーい! ハナエ質問です!」朝顔ハナエが元気よく飛び跳ねた。「足に被弾判定が出た患者さんは、患部を切断すれば歩けるようになりますか!?」
「なりません。というか演習で切断は発生しません」
「えー」
「『えー』ではありません」
鷲見セリナが救急箱の中身を几帳面に数えながらため息をついた。
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二.高台の観測者【観測点側】
演習場全体を見渡せる南の高台に男が一人座っていた。
キャンプチェア。膝の上に軍用無線機。傍らの折りたたみテーブルには魔法瓶とラミネート加工された作戦図。黒いジャケットの男――デイヴィッド・ウェッブは単眼鏡を目に当てたまま、もう二時間近くほとんど動いていなかった。
視界の中では防衛線が形を成しつつあった。
主要接近経路を塞ぐ形で設定された三つの交戦地域。その前縁に敷かれた模擬地雷原と車両障害。稜線の逆斜面に配置された対戦車ミサイル班。縦深に梯次配置された予備隊。後方の窪地には百五十五ミリ榴弾砲がひっそりと砲列を敷き、その砲身には夜露が光っている。
――EAの設定は及第点。TRP(目標参照点)の割り振りも悪くない。第二EAの側防火器の射界がわずかに浅いが、あれは日の出後に自分たちで気づくだろう。
ウェッブは単眼鏡を下ろし、魔法瓶のコーヒーをカップに注いだ。湯気が朝の冷気に白く立ち上る。
――フルダ・ギャップ。
その名前が勝手に浮かんだ。
西ドイツ・ヘッセン州。フルダの街を扼する丘陵地帯の回廊。冷戦の四十年間、ワルシャワ条約機構の機甲軍団が西側へ雪崩れ込むならここを通ると誰もが信じた土地。アメリカ第五軍団は四十年間、あの丘で塹壕を掘り交戦地域を設定し、ソ連の戦車師団を何百回も何千回も図上で殲滅し続けた。
ウェッブ自身はその時代の兵士ではない。彼が士官として任官した頃、ベルリンの壁はとうに瓦礫になっていた。だが彼を鍛えた教官たちは、皆あの丘の亡霊に取り憑かれた男たちだった。交戦地域の作り方、火力計画の組み方、機動防御の呼吸を、彼らは観測所アルファの塹壕の湿った土の記憶と共に教えた。米陸軍の教範の行間には今もフルダの亡霊が棲んでいる。
そして――あの戦争は来なかった。
一発も撃たれなかった。何万人もの兵士が四十年間準備し続けた戦争は、ただの一度も起きなかった。準備の完璧さこそが戦争が起きなかった理由の一つだった。
――抑止。
ウェッブは眼下の防衛線を見た。黒いセーラー服と紺のブレザーが同じ塹壕で肩を並べている。
――撃たないために撃てるようになる。戦わないために戦えるようになる。……この街の子供たちに俺が渡せるものがあるとすれば、それだけだ。
背後の林で枯れ枝が折れる音がした。
ウェッブは振り返らなかった。足音は二つ。一つは極端に軽く、歩幅が短い。もう一つは重心が安定していて、それでいて足の運びがぎこちない――緊張している人間の足取りだ。二つとも二百メートル手前から把握していた。
「……休暇は二日間と言ったはずだが」
足音が止まった。
「げっ」
小さな声。ウェッブが振り返ると、林の際に二人の少女が立っていた。
小柄な方は白い髪に大きな角、背中に黒い翼。ゲヘナ学園風紀委員長、空崎ヒナ。私服の上に申し訳程度のフィールドジャケットを羽織っている。
大柄な方は長い前髪で目元を隠した黒髪に、禍々しい形の黒い翼。トリニティ総合学園正義実現委員会委員長、剣先ツルギ。こちらは律儀に制服姿で、なぜか手に紙袋を提げている。
キヴォトスで最も恐れられる二人の「戦略兵器」は、悪戯を見つかった子供のようにその場で固まっていた。
「……その、これは」ヒナが視線を泳がせた。「……散歩よ。偶然通りかかっただけ」
「自治区の境界から十二キロの丘陵地帯を、〇四三〇時に、偶然」
「…………めんどくさい言い方しないでくれる?」
「ギ……ギギ……」ツルギは紙袋を胸に抱えたまま消え入りそうな声を絞り出した。「わ、わたしは……その……さ、差し入れ、を……」
ウェッブは無言で二人を見た。それから自分のキャンプチェアの両脇――あらかじめ広げてあった二脚の予備のキャンプチェアを顎で示した。
二人が同時に硬直した。
「……最初から分かってたの?」
「君たちが『休め』と言われて休む人間なら、俺はこの演習を計画していない」
ヒナとツルギは顔を見合わせ、それから気まずそうに、しかしどこか安堵したようにそれぞれの椅子に腰を下ろした。ウェッブは無言で魔法瓶からもう二杯、コーヒーを注いで手渡した。ツルギの紙袋からはスコーンが出てきた。ハスミの目を盗んで買ってきたのだという説明は、しどろもどろで三分かかった。
三人はしばらく黙って夜明け前の防衛線を見下ろしていた。
「……ねえ、先生」
先に口を開いたのはヒナだった。カップを両手で包み込むように持ち、視線は眼下の塹壕線に向けたまま。
「本当に大丈夫だと思う? ……私たちが不在で」
ウェッブはすぐには答えなかった。
この問いの重さを彼は正確に知っていた。
エデン条約機構が成立するより前から、ウェッブは両委員会の内部資料を読み込んで過去の出動記録を分析し、一つの結論に達していた。
――この二つの組織は、組織ではない。
正義実現委員会も風紀委員会も、書類の上では数百人規模の治安維持機構だ。指揮系統や部門、そして規則がある。だが実際の運用記録が示すのは、まったく別の姿だった。自治区内で手に負えない事案が発生する。現場が押される。増援が投入される。それでも解決しない。そして最終的には――委員長が来る。空崎ヒナ、あるいは剣先ツルギが単騎で戦場に現れすべてを終わらせる。
個人の武力が組織の判断を代行する。それが数百年続いた結果、組織は「最強の個人」という名の単一障害点(シングル・ポイント・オブ・フェイラー)に依存する構造へと退化していた。
そのツケを払っているのが目の前の二人だ。特にヒナ。委員長でありながら、本来なら分隊長がやるべき現場対応から行政官がやるべき書類仕事の決裁まで、あらゆる業務が彼女一人に集中する。深夜二時のモモトーク。『先生、まだ起きてる? ……私も。眠れない』。あの短い文面の裏にあるものを、ウェッブは同類として正確に読み取っていた。
だから彼は、シャーレの特別予算を注ぎ込んだ。通信機材や車両、訓練場、教範を。業務改善命令を出し、権限の委譲を制度化させて中間指揮官を育成し、幹部要員に指揮幕僚課程を叩き込んだ。扇喜アオイを卒倒させた請求書の山は、すべてこの一点のためにある。
――委員長がいなくても回る組織を作る。
今日の大規模合同演習の真の目的は、それだった。仮想敵を撃退することではない。空崎ヒナと剣先ツルギが不在のまま、両委員会が四十八時間連携して防衛線を維持できることを実証する。二人に「休む」という選択肢を、初めて与えるために。
「……大丈夫かどうかは、俺が決めることじゃない」
ウェッブは静かに言った。
「彼女たちが証明することだ」
「……もし、失敗したら?」
「失敗する」
あっさりと言い切ったので、ヒナは目を丸くした。
「四十八時間どこかで必ず綻びが出る。通信が輻輳する。報告が遅れる……だがそれでいい。ここは演習場だ。失敗するために作った場所だ」
彼はコーヒーを一口飲んだ。
「実戦で最初の失敗をするのと、ここで百回失敗しておくのと、どちらがいいかという話だ。……君たちは今まで部下に失敗する機会を与えてこなかった。君たちが速すぎて強すぎて失敗が形になる前に全部終わらせてしまうからな」
「……う」
ヒナが小さく呻いた。図星だった。
「それは君たちの罪じゃない。この街の構造の問題だ。だが――」ウェッブは眼下の塹壕線に視線を戻した。「構造は、変えられる」
「ギギ……」ツルギがスコーンを齧りながら前髪の奥から防衛線を見つめた。それから蚊の鳴くような声で言った。「……ハスミ、なら……できる、と……思う。……ずっと、わたしなんかより……ちゃんと、してた、から……」
「……アコもね」ヒナも小さく笑った。「あの子、私の仕事を取り上げる練習を最近ずっとしてたのよ。『委員長は決裁だけしてください』って。……ちょっと寂しいくらい」
「それを寂しいと感じられるうちに部下に譲れる指揮官は、優秀だ」
ウェッブは言った。それからほんのわずかに声の温度を変えた。
「……二人ともよくここまで組織を保たせた。単一障害点というのは、裏を返せば、たった一人で数百人分の障害を吸収し続けてきたということだ。……普通は途中で壊れる」
ヒナとツルギが同時に固まった。
ヒナの耳が赤くなった。ツルギは「あわ、あわわわ」と言いながらスコーンを取り落としそうになった。
「な、なによ急に。……そういうこと言うの、ずるいと思う」
「事実を述べただけだ」
「……先生のそういうところ、ほんとに……」ヒナはカップに顔を半分隠して、もごもごと何か言った。聞き取れたのは語尾の「……きじゃない」だけだった。
夜明けの最初の光が東の稜線を金色に縁取り始めた。
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三.合同指揮所【指揮所側】
丘陵地帯の中央後方の偽装網に覆われた窪地に合同指揮所(CP)は設置されていた。
大型テントの内部に足を踏み入れた者はまず音に圧倒される。数十台のデジタル式軍用無線機が発する電子的なノイズと変調音の重なり。冷却ファンの唸り。プリンターの駆動音。そして間断なく飛び交う交信の声。テントの外には各周波数帯のアンテナが乱立し、その様相は湾岸戦争時代の軍団司令部を小型化して移植したかのようだった――実際、機材の選定リストを作ったのはウェッブであり、彼の脳内の「ライブラリ」が参照した原型はまさにそれだった。
「――第一中隊、こちらCP。感明度良好。〇五〇〇時をもって演習統制に移行する。以後の報告は演習周波数で送れ、オーバー」
ヘッドセットを着けた火宮チナツが、理知的な声で淡々と交信をさばいていた。眼鏡のレンズに目の前のタフブックの画面が映り込んでいる。
その隣では仲正イチカが三台の無線機を同時に監視しながら、糸目の笑顔のまま驚異的な速度で通信記録を打ち込んでいた。
「はいはーい、第三中隊さん燃料の受領報告がまだっすよ〜。〇四四五までって言ったっすよね〜? ……あ、今来た。オッケーっす」
テント中央の大机には、天井に吊られたプロジェクターが作戦図を投影していた。MGRS座標。等高線。青いNATO兵科記号――バツ印は歩兵、楕円は機甲、点は砲兵――が防衛配置に従って整然と並び、その北方には、まだ姿を見せない敵を示す赤い菱形の予想記号が不気味に点在している。
その机を挟んで二人の少女が向かい合って座っていた。
天雨アコ。ゲヘナ学園風紀委員会行政官。
羽川ハスミ。トリニティ総合学園正義実現委員会副委員長。
両委員会の事実上の指揮官たち。
「――最終確認です」アコが眼鏡を押し上げた。「敵は仮想カイザーPMC『第三機械化師団』を基幹とする諸兵科連合軍。機械化歩兵および戦車の各連隊に、攻撃ヘリ中隊や師団砲兵が随伴。総計は我の約六倍」
「対して我が方は」ハスミが手元の資料を読み上げる。「機械化歩兵二個大隊――M2ブラッドレー及びM113基幹。砲兵二個中隊――百五十五ミリ榴弾砲、M270MLRS、各種迫撃砲、スティンガー携行地対空ミサイル。野戦支援一個大隊――HEMTT重輸送車基幹。および野戦病院。……六倍の敵を二個大隊で四十八時間、この丘で受け止める」
「教範通りなら防御側は三倍の敵まで、と言いたいところですが」
「ええ。ですから教範の先を行きます。……顧問の言う『縦深と火力と時間の交換』を」
二人の視線が作戦図の上で交差した。
数ヶ月前まで、この二人は境界線を挟んだ敵同士だった。ハスミにとってゲヘナの風紀委員会は「野蛮で話の通じない方々」であり、アコにとってトリニティは警戒すべき仮想敵の筆頭だった。合同教育の初日二人が同じ教室で顔を合わせたときの温度は、氷点下だったと記録されている。
それを溶かしたのは友情などという美しいものではなかった。
書類だった。
互いの組織の業務量を知ったとき――ハスミがアコの決裁待ちフォルダの厚みを見たとき、アコがハスミの始末書処理件数を見たとき――二人の間に生まれたのは、戦友だけが交わせる種類の深く昏い共感だった。以来二人は委員長たちには内緒で、月に一度「事務処理効率化会議」という名の愚痴会合を開いている。会場は毎回二十四時間営業のスイーツ店である。
「……ときにハスミさん」
アコが交信の合間に声を潜めた。
「机の下の、その紙袋は」
「っ。……ひ、非常用行動食です。四十八時間の長丁場ですから、指揮官は血糖値の管理も任務のうちで」
「限定パフェ・ゼリーが行動食として制式化された記憶はありませんが」
「あ、明日から! 演習が終わったら本格的にダイエットを始めますから今日だけは……!」
「……まあ、いいでしょう。私も徹夜用の栄養ドリンクを一ダース持ち込んでいますし。お互い、様です」
チナツがヘッドセットを片耳ずらして冷静に口を挟んだ。
「お二人とも。開始十五分前です。それと――高台の観測点から入電。『委員長二名、所在確認。心配無用』とのことです」
アコとハスミの手が同時に止まった。
「……やっぱり来てましたか、ヒナ委員長」アコが額を押さえた。「あれほど休んでくださいと……いえ。分かっていました。分かっていましたとも。ヒナ委員長が休暇を素直に消化される確率は、私の試算で三パーセント未満でしたから」
「ツルギも、ですね」ハスミは苦笑した。「……ですが好都合です。見ていてもらいましょう。私たちが三年間、あの方たちの背中に隠れてきた分を――今日返します」
アコは眼鏡の奥の目を細めて頷いた。
「ええ。……ヒナ委員長のいない戦場をヒナ委員長のために守り切る。矛盾しているようですが、これほど胸のすく任務はありません」
彼女はヘッドセットを着け直して全周波数へ送信するスイッチに指をかけた。
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四.張りぼての師団【仮想敵側】
ところで――「六倍の敵」は、どこにいるのか。
丘陵地帯の北側、演習統制ラインの向こうに広がる草原には一見して奇妙なものたちが展開していた。
まず、車の墓場のような車両群。中古車市場で廃車同然の値段で買い叩かれた乗用車やバン、トラックの群れが、砂埃を上げて草原を走り回っている。どの車両にも通信機器と自動運転装置、三百六十度カメラが取り付けられ、車体の四方には巨大なQRコードと赤いNATO兵科記号のラベルが貼られていた。敵性部隊は菱形の枠で表示される――菱形に楕円はT-72M1戦車。車輪の記号を添えたものはBMP-2歩兵戦闘車。それらの記号を貼られたポンコツのミニバンが、律儀に戦車の隊形――くさび形(ウェッジ)――を組んで機動している。
上空には小型ドローンの編隊。それぞれが四方から視認できるサイズのQRコードと兵科記号をプリントした垂れ幕を吊り下げて飛んでいる。対戦ヘリ中隊、という設定である。
肉眼で見れば、壮大な茶番だ。
だが、MR(複合現実)デバイスのバイザー越しに見れば――世界は一変する。
ポンコツのミニバンは、QRコードを認識した瞬間、砲塔を巡らせるT-72戦車の精密な3Dモデルに置き換わる。垂れ幕を吊ったドローンは、ローター音を轟かせるハインドの編隊になる。そして草原には、現実には一人も存在しないアンドロイド歩兵の大隊が、仮想空間の中でだけ整然と散開して前進する。
司令部要員以外の全参加生徒――正義実現委員会、風紀委員会、救護騎士団、救急医学部、数百人分――に配布されたのは、ミレニアム製の市販MRデバイスだった。これもシャーレの特別予算で押し通したものである。数百人分のデバイスや銃火器、弾薬、対戦車ミサイル、携行式地対空ミサイル、暗視装置、軍用無線機、タフブック、複合機、AIサーバー数台、そしてヴェリタスへの外注費用。その請求書の束を見た連邦生徒会財務室長・扇喜アオイは、報告によれば一言も発することなくその場で卒倒したという。意識を取り戻した彼女の第一声が「不許可です」だったことも、しかしその三日後、その書類に七神リンの承認印が押されて財務室へ差し戻されたことも、今や連邦生徒会の伝説である。
そしてこの張りぼての師団に「魂」を吹き込んでいるのが――演習場の東端にある、冷却ダクトを剥き出しにしたテントだった。
「――全ノード、応答正常。物理演算クラスタの負荷四十二パーセント。判定エンジン、スタンバイ」
各務チヒロがタフブックから顔を上げて眼鏡を押し上げた。徹夜明けの目元にうっすらと隈が浮いているが、声は落ち着いている。
「敵指揮AI『OPFOR-01』が最終起動シーケンスに入ります。……ハレ、電力系は」
「余裕。発電機三号機の燃料だけあとで補給いるかな」小鈎ハレはエナジードリンクの缶を三本キーボードの脇に並べながら答えた。「にしても、我ながらいい仕事したよねこのAI。無人ユニットのセンサー情報を統合して状況評価して作戦立案して、隷下部隊に命令出すまで全自動。教範データも食わせてあるから、ちゃんと『敵らしく』戦うの。……糖分が足りない」
負傷・命中判定処理もすべてこのサーバー群が担う。各生徒のMRデバイスから送られる位置・姿勢データと、ペイント弾の着弾情報、仮想火力の弾道計算を統合し、AIが判定を下す。負傷判定を受けた生徒を適切に手当てせず放置すれば、判定は容赦なくKIA――戦死――へと変わる。戦車砲弾や榴弾砲の直撃判定なら、即座に。
なお、演習全体を律する演習統制部の統制部長は、ウェッブその人が務める。ヴェリタスは統制部直轄の技術班として判定サーバーと敵AI基盤を運用するが、敵指揮AIは起動と同時に完全な自律状態へ移行し、以後は演習規定上、開発者であるヴェリタス自身も一切介入できない。敵軍の巣と審判席と統制部が同じテントに同居して見えるのは、そのためである。
榴弾砲と多連装ロケットに関しては、仮想ではなく実物が使われる。ゲヘナとトリニティが保有する実装備にヴェリタス監修のペイント弾頭を搭載し、仮想敵役に選抜された生徒たち――主に両委員会の砲兵要員――が、AIの火力計画に従って本物の砲弾とロケット弾を撃ち込んでくるのだ。ただし実弾射撃を行うのはこの限られた実砲のみであり、判定サーバーが着弾の弾種と弾量をソ連式の諸元へ仮想スケーリングする。一発の実着弾が、判定上は一個中隊の斉射として処理される。丘に降る鉄量の九割は、サーバーの中にだけ存在するのである。
「敵の砲兵陣地、最終チェック完了っと! ついでに全部の砲車にヴェリタスのエンブレム描いといたから!」
小塗マキがペンキまみれの手を振りながらコンテナに駆け込んできた。
「マキ。……描いていいのはQRコードと兵科記号だけと言いましたよね」
「え〜、だって真っ黒の砲車って退屈じゃん! 世界はもっと愉快にって私の芸術魂が――」
「後で消しなさい。……いえ待って。視認性テストの結果次第では採用します。派手な方がドローンのカメラ写りがいい」
「やった! チヒロ先輩話わかる〜!」
コンテナの最も暗い一角では、音瀬コタマが巨大なヘッドセットを着けて十数本の通信チャンネルを同時に傍受していた。現実の彼女は影のように静かだが、モニターの中の彼女は雄弁だった。統制周波数のテキストチャンネルに、流れるような速度で通信品質レポートが打ち込まれていく。
『全ch傍受体制、確立しました。混信や妨害、規約違反の交信はすべて記録します。……ちなみに先生の無線の音声は今日も素晴らしい音質です。保存しておきますね』
『しなくていい』
高台からウェッブの短い返信が届いた。
『……はい』
〇四五五時。
野戦病院では、ミネが最後の点呼を終えていた。セナの救急車は待機位置につきセリナは担架の結束を三度確認し、ハナエは「フレー!フレー!」と誰にともなく応援の予行演習をしていた。
前線の塹壕では、少女たちが胸壁に銃を委託してMRバイザーの表示を最終調整していた。イオリが「全員頭を下げておけ。初弾は必ず砲撃から来るぞ」と声を張り、コハルが「わ、分かってるわよ!」と言いながら誰よりも深く塹壕に沈み、マシロが巨木の上で微動だにせず北を見据えていた。
合同指揮所では、アコとハスミが立ち上がって作戦図の前に並んだ。
そして高台では、ウェッブが腕時計に視線を落とした。ヒナとツルギが無意識に椅子の上で背筋を伸ばした。
〇四五九時三十秒。
サーバー室で、チヒロが最後のキーを叩いた。
「――敵指揮AI、起動。統制権限を演習統制部――高台の統制部長へ移管。……ご武運を」
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五.〇五〇〇時【全部隊】
夜が明けた。
東の稜線から溢れ出した朝日が丘陵地帯の草原を金色に染め上げていく。数百年間鉄条網と憎悪で分断されていた丘。今は二つの学園の少女たちが同じ塹壕で同じ方向を見つめている丘。
その静寂を――
アコの声が全周波数を貫いた。
『総員に告げます。エデン条約機構、第一回大規模合同演習――防衛シミュレーション「エデン・シールド01」を開始します。演習開始時刻は〇五〇〇時。状況開始』
三秒の間があった。
そして北の地平線が低く唸り始めた。
仮想敵砲兵の最初の火力準備射撃。ペイント弾頭を積んだ本物の榴弾砲の砲声が、遠雷のように連なって丘を渡ってくる。MRバイザーの中では着弾予測地点に警告表示が走り、塹壕の少女たちが一斉に身を沈めた。マシロの淡々とした報告が、観測網に乗って指揮所へ流れ込む。土埃の壁の向こうからQRコードを貼られた「戦車師団」の第一梯団が、くさび形の隊形で前進を開始した。
高台の上でウェッブは単眼鏡を構えた。
その視界の中で四十年間戦われなかった戦争の亡霊が――フルダの丘の亡霊が、キヴォトスの朝日の中にゆっくりと立ち上がろうとしていた。
――さあ、見せてみろ。
彼はコーヒーを一口飲んで無線機のボリュームを上げた。
四十八時間の防衛戦が始まった。
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六.敵将の幕舎【仮想敵側 H+2】
敵の「頭脳」は演習場の東端にあった。
高台を降りたウェッブとヒナ、ツルギの三人が林道を抜けるとまず音が変わった。大型ディーゼル発電機の腹に響く駆動音。冷却ファンの甲高い唸り。そして偽装網を被った大型テントの周囲には超広帯域無線のアンテナマストが何本も鋼鉄の樹木のようにそびえ立っていた。
仮想敵――カイザーPMC諸兵科連合軍の野戦指揮所である。
テントの垂れ幕をくぐった瞬間、ヒナが小さく息を呑んだ。
内部は熱気と電子音の坩堝だった。エンジニア部製のAIサーバー向けGPUで構成された水冷サーバーラックが中央に鎮座し、冷却液のチューブが血管のように床を這っている。作業台にはタフブックが所狭しと開かれ、無数のケーブルが束になって天井を渡る。そして床には――三百五十五ミリリットル入りエナジードリンクの二十四缶入り段ボールが何箱も積み上げられ、その周囲に飲み干された空き缶が薬莢のように転がっていた。
「……あ、いらっしゃい。足元の缶、蹴らないでね。回収して数えるから」
テントの奥から眼鏡の少女が顔を上げた。各務チヒロ。その目の下の隈はもはや化粧で隠せる段階を超えていた。奥ではハレがラックの冷却液圧を睨み、マキが床に座り込んで予備のQRタグに何やら描き足し、コタマが暗がりで十数チャンネルの傍受モニターに埋もれている。
そしてヴェリタスの四人と二人の委員長の視線が交差した。
言うまでもなく初対面である。
「……ゲヘナ学園風紀委員長、空崎ヒナよ。今日は――その、部下たちが世話になってる」
「ギ……ギギ……」ツルギは前髪の奥からサーバーラックを凝視し、それから消え入りそうな声で言った。「……ト、トリニティ……正義実現委員会……剣先、ツルギ……で、です……」
ミレニアムの一年生であるマキが「わ、ほんものだ」と小声で呟き、コタマがヘッドセットの陰に半分隠れた。キヴォトスの二大武力の頂点が同じテントに立っているという事実はハッカーたちにとってすら日常の外側の光景だった。
「ヴェリタス副部長の各務チヒロです。……ええと、せっかくなので説明しますね」
チヒロはタフブックの一台を二人に向けた。画面には演習場全域の俯瞰図。数百の赤い兵科記号が生き物のように蠢いている。
「お二人の部下が今戦っている『敵』の正体は、このラックの中にいます。指揮AI『OPFOR-01』。廃車にQRコードを貼った数百台の無人車両と、垂れ幕をぶら下げたドローンの群れ。それら全ユニットのセンサー情報があの外のアンテナ経由でここに集まってAIが状況を評価し、作戦を立てて命令を返す。判定処理も全部ここ。……つまりこのテントが落ちれば敵は全滅しますけど、演習規定でここは聖域です。念のため」
「……ふうん」ヒナが画面を覗き込んだ。「この赤いのが全部……」
「全部です。ちなみにこの環境は納期三週間で作らされました」
チヒロの声がすっと半音下がった。視線がゆっくりと傍らのウェッブへ向く。
「アンテナマストの搬入と設営とテスト。発電機の燃料計画。サーバーの構築と負荷試験。それから――廃車同然の車両数百台とドローン全機にQRコードとNATO兵科記号のタグを貼る作業。四人で。数日間寝ずに」
「マキちゃんなんて三日目から寝言でQRコード描いてたんですよ……」ハレがエナジードリンクの新しい缶を開けながら気怠げに援護射撃した。「私の血糖値はもう概念になった」
「先生の依頼はいつもこう……」コタマが暗がりから通信越しのように滑らかな声でテキスト読み上げを流した。『納期・非常識。要求・軍事級。予算・追加交渉の余地あり――と記録しています』
「――というわけで、先生」
チヒロは事務用のクリアファイルを取り出し、一枚の書類をウェッブへ差し出した。追加請求書だった。項目は「深夜割増」「休日割増」「特急対応費」「精神的損耗費(エナジードリンク実費含む)」。
ウェッブは書類を受け取り、三秒で読み、無言でサインした。
「……交渉しないんですか」
「正当な対価だ。それに」彼は積み上がった空き缶の山を一瞥した。「労働の証拠が現場に残っている。争う余地がない」
「…………先生のそういうところ、ちょっと好きですよ。アオイ室長は卒倒すると思いますけど」
「二度目は慣れる」
そのときサーバーラックの駆動音が一段階高くなった。
ハレが画面に飛びつく。「――演算負荷跳ね上がった。AIが動く」
俯瞰図の上で数百の赤い記号が一斉に隊形を変え始めた。散開していた各部隊が南東の一点へ向かって収束していく。太い矢印が生成されつつあった。
「……一点突破」
ヒナの声から気だるさが消えていた。風紀委員長の声だった。
「カイザーPMC第三機械化師団――AIは縦深攻撃を選んだ。第一梯団で防衛線を食い破って間を置かずに後続を縦に叩き込む腹よ。……ソ連式ね」
「ギ……」ツルギの前髪の奥で目が細められた気配があった。「……南東の回廊……ハスミが……罠を張ってるところ……」
ウェッブは何も言わず画面を見つめていた。
――さあ、始まるぞ。
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七.南東回廊【指揮所側 H+4】
『――こちらOPツー。敵第一梯団、南東回廊へ進入。先頭は戦車でくさび隊形。後続は機械化歩兵。……予測針路、我の障害地帯へ直進中』
マシロの淡々とした報告が合同指揮所のスピーカーから流れた。
「かかりました」
ハスミが作戦図の前で静かに拳を握った。南東の回廊――丘陵に挟まれた幅二キロの隘路。そこには演習開始前から模擬対戦車地雷原と車両障害の帯が三重に敷かれている。
「敵第一梯団を地雷原で拘束。機動が止まったところへ両翼の稜線から対戦車火力で挟撃。教範通りの機動防御です。……アコさん、砲兵の準備は」
「TRP〇〇三から〇〇七、全て諸元入力済みです」アコが眼鏡を光らせた。「敵が地雷原に頭を突っ込んだ瞬間効力射を頭上に。完璧です。管理と名のつくものにおいて完璧に近いこの私が計画したのですから」
「頼もしい限りです」
イチカとチナツが無線機の列の前で顔を見合わせ、小さく頷き合った。ここまでは図上演習で百回繰り返した通りの展開だった。
――そして百一回目はいつも違う形でやってくる。
最初の異変はコタマの傍受網より早くマシロの単眼鏡が捉えた。
『……こちらOPツー。敵第一梯団、停止。……交戦距離外で停止しました』
「停止?」ハスミの眉が動いた。「地雷原の手前で?」
『距離は約八キロ。隊形を維持したまま……待機しています。まるで――』
マシロの声が一拍だけ途切れた。
『――何かを待っているようです』
チナツのタフブックが鋭い警告音を発した。
「――対砲兵レーダー、感! 敵後方から多数の発射煙……弾道多数、上昇中! 弾種判定(仮想諸元)――二百二十ミリ級多連装ロケット、および百五十二ミリ榴弾! 着弾予測地点――」
彼女の指が画面の上で止まった。
「……我の障害地帯です」
三十秒後、南東回廊が炎に呑まれた。
二百二十ミリロケット弾の斉射が地雷原の敷設帯に沿って正確に降り注いだ。実際に落ちてくるのは選抜砲兵班の限られた実弾――だが判定サーバーはその一発一発を一個中隊の効力射へと増幅していく。ペイント弾頭と演習用炸薬とはいえその爆圧と衝撃波は本物だ。判定サーバーが無慈悲に処理を進める。地雷原表示の大部分が俯瞰図の上で灰色――無力化――へと塗り替えられていく。百五十二ミリ榴弾の雨が後を追い、車両障害の判定を次々と剥ぎ取った。
指揮所が水を打ったように静まり返った。
「……地雷原啓開を工兵じゃなくて」イチカの糸目が珍しく薄く開いていた。「……砲兵で力ずくでやったっす」
「質より量。いえ――量こそが質という思想です」アコの声は硬かった。「敵は我々の罠を承知の上で罠ごと吹き飛ばす物量を持っている。……ウェッブ顧問が仰っていた通りに」
砲撃が止むと同時に待機していた第一梯団が前進を再開した。焼け野原になった障害地帯をくさび形の戦車群が悠々と踏み越えていく。
「対砲兵射撃開始! 対戦車小隊、交戦許可!」
ハスミの号令で防衛線が火を噴いた。稜線からTOWとジャベリンの模擬発射炎が走り、百五十五ミリ榴弾砲が咆哮する。敵先頭の戦車記号がいくつも黒く塗り潰され――しかしその隙間を埋めるように後続が湧いてくる。
そして敵の砲兵が今度はこちらの砲を狙い始めた。
「敵、対砲兵射撃! 第一砲兵中隊、陣地変換急げ!」
「撃っては動き、動いては撃つ――シュート・アンド・スクートです! 教わった通りに!」
以後数時間、丘陵地帯の空を双方の砲弾が交錯し続けた。撃てば位置が露見し、露見すれば撃たれる。熾烈な対砲兵射撃の応酬。前線では一進一退の攻防が続き、俯瞰図の彩色は青と赤がまだらに入り乱れていった。
防衛線は――かろうじて保っていた。
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八.河は防壁にあらず【仮想敵側 H+13】
日が西の稜線に沈もうとしていた。
敵将の幕舎ではウェッブが腕を組んで俯瞰図を睨んでいた。傍らのヒナとツルギはいつしか椅子を画面の前に寄せ、部下たちの戦いに完全に没入していた。
「……粘るわね」ヒナが呟いた。「第一防衛線は削られたけど第二線で受け止めてる。対砲兵戦もほぼ互角。アコ、砲の逃がし方が上手くなった……」
「ギギ……ハスミの火力配分……綺麗……」ツルギが小さな声でしかし確かな熱を込めて言った。「……TRPの切り替えが……速い……」
そのときサーバーの演算音がまた変調した。
「……あれ」ハレが眉をひそめた。「AIが工兵ユニットを前に出してる。……河川方向に?」
俯瞰図の北西。演習場の縁を蛇行して流れる河川。防衛計画においてそこは「渡渉不能」として最小限の警戒部隊しか置かれていない方角だった。幅、水深、流速――装甲部隊の通過は不可能。それが両委員会の共通認識であり地形判断だった。
その河へ向かって赤い工兵記号の一群が闇に紛れて滑り込んでいく。
「……戦車橋」
ウェッブが静かに言った。
「編成表を思い出せ。カイザー第三機械化師団の装備定数には架橋戦車が含まれている。MTU級――展開時間数分。戦車一個大隊なら三十分で渡る」
ヒナとツルギが同時に振り返った。
「ちょ……先生、それ知ってたの」
「編成表は開示情報だ。演習開始前に全指揮官へ配布されている」ウェッブはコーヒーを一口飲んだ。「……読み込みが浅かった。『河があるから来ない』と地形が言った瞬間、編成表の一行が頭から消えた。実戦ならよくあることだ」
「い、今からでも警告……」ヒナが腰を浮かせかけ――そして止まった。
ウェッブが彼女を見ていた。何も言わずに。
「…………分かってる」
ヒナは唇を噛んで椅子に座り直した。両手を膝の上で握りしめる。
「分かってるわよ。……ここで私が口を出したら今日という日の意味が全部消える。あの子たちの四十八時間がまた『委員長に助けられた記録』になる。……分かってる。分かってるけど――」
「――心配、だよ、ね……」
ツルギが蚊の鳴くような声でしかしまっすぐに言った。ヒナは一瞬目を見開き、それから小さく力なく笑った。
「……ええ。すごく」
コタマの傍受モニターが静かなアラートを灯した。渡河点の敵通信量が跳ね上がり始めていた。
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九.黒いタグ【指揮所側/野戦病院 H+16】
第二梯団の渡河が発覚したのは最初の架橋から四十分後だった。
『こ、こちら北西警戒班! て、敵! 敵です! 河から! 戦車が河を渡って――嘘でしょ、なんで!? 数確認できません、多数! 多数です!』
その悲鳴のような報告を境に指揮所の秩序は音を立てて軋み始めた。
「北西!? 渡渉不能地形のはずです!」「架橋戦車です! 敵は橋を持っていました!」「第二大隊予備の転用を――駄目です、南東の第一梯団が同時に攻勢再開! 拘束されています!」「警戒班、後退が間に合いません!」
無線が悲鳴で溢れた。第一梯団と第二梯団。南東と北西。防衛線の打撃部隊は伸びきった態勢のまま二方向からの圧力に挟み込まれた。
そして――損害判定が雪崩を打った。
『第三中隊、被害多数! 負傷判定十二、後送required……送れません、車両が足りない!』『こちら第一中隊、包囲されかけています! 負傷者を担いで下がれない!』
後方の野戦病院にその混乱は数十分遅れで鉄の箱に詰められて到着した。
M113装甲兵員輸送車が土埃を巻いて滑り込み、後部ランプが落ちる。中から担ぎ出されてくるのはMRデバイスに「負傷」判定を表示された生徒たちだ。バイザーには受傷部位と重症度が表示され装着者には疑似的な行動制限がかかる。処置する側のデバイスには止血、気道確保、輸液――実施すべき処置がリアルに投影され手順の正誤がそのまま判定に反映される。
「トリアージ開始します! 赤タグはこちら、黄色は第二テント!」
蒼森ミネの声が飛ぶ。セリナが手際よくタグを付け、ハナエが担架を押して駆け回り、セナが赤タグの「重傷者」へ淡々と処置判定をこなしていく。
「気道確保確認。止血確認。輸液ルート――確保。……次」
だが搬送は途切れなかった。むしろ加速した。そして間隔が乱れ始めた。三十分前に負傷判定を受けたはずの生徒が今になって運び込まれてくる。前線の混乱で後送が滞っているのだ。
「この子、受傷判定から四十七分経過しています! 処置猶予は――」
セリナがタグを付けようとしたその瞬間。
担架の上の生徒のバイザーが無機質な電子音を発した。
表示が切り替わる。
【判定:KIA】
トリアージ・タグの選択肢から緑と黄と赤が消えた。残されたのは一色だけ。
野戦病院の喧噪の中にその一角だけ奇妙な静寂が生まれた。
「……嘘」
担架の上の生徒――ゲヘナの一年生だった――が呆然とバイザーの表示を見上げた。痛くもない。血も出ていない。ただ画面に三文字あるだけだ。それなのに。
「わ、私死んだの……? 演習なのに……?」
セリナは黙って黒いタグを彼女の胸元に付けた。それからその手をぎゅっと握った。
「……大丈夫です。演習ですからあなたは勿論生きています。……でも」
彼女は顔を上げテントの外――砲声の続く前線の方角を見た。いつもの母親のような柔らかさの奥に静かな怒りに似たものが灯っていた。
「今のは本物なら本当の『手遅れ』でした。……この黒タグの意味を指揮所は絶対に忘れてはいけません」
セナが記録端末に感情のない指先で打ち込んだ。
『H+1622。当演習初のトリアージ・ブラック発生。死因は後送遅延。……以後増える見込み』
その報告は一分後、合同指揮所の大画面に表示された。
アコとハスミはその一行を長い間見つめていた。
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十.口論、そして賭け【指揮所側 H+17】
「――撤退します」
先に言ったのはアコだった。
「現防衛線を放棄。全部隊を最終防衛ラインまで下げます。これ以上前線を維持すれば黒タグが量産されるだけです」
「待ちなさい」
ハスミの声が鋭く遮った。
「今この態勢で全軍後退すれば敵の両梯団に追撃の背中を晒すことになります。後退戦は攻撃より難しい――顧問の教えをお忘れですか。下手な撤退は陣地での玉砕より多くの損害を出します」
「では座して包囲を待てと? 我の打撃力は既に三割を割っています。数の暴力を相手に正面を支え続ける選択肢はとうに消えました。管理者として断言します。この戦線はあと六時間で崩壊します」
「崩壊するのは分かっています! 私が言っているのは撤退の是非ではなくその方法です!」
「方法を議論する時間ごと敵に食われているのが現状だと申し上げているのです!」
二人の声が初めて正面からぶつかった。指揮所の全員が息を呑む。イチカが「あちゃー」という顔で無線機のボリュームをそっと下げ、チナツだけが冷静に交信をさばき続けていた。
睨み合いは十秒続いた。
先に息を吐いたのはハスミだった。彼女は机の下から例の紙袋を取り出し、限定パフェ・ゼリーをひとつ無言でアコの前に置いた。それから自分もひとつ開けた。
「……糖分です。指揮官の血糖値管理も任務のうちですから」
「…………いただきます」
二人は三十秒間無言でゼリーを胃に流し込んだ。そしてほぼ同時に顔を上げた。
「――アコさん。敵の弱点はどこだと思われますか」
「……補給線です」アコは即答した。「縦深攻撃は速度が命。速度は燃料と弾薬を貪り食う。そして敵は今、二個梯団を同時に前進させている。渡河点の橋は限られ補給トラックの列は伸びきる一方――」
言いながらアコの目が見開かれていった。ハスミが静かに頷いた。
「ええ。……我々が深く下がれば下がるほど敵の補給線は長く細く脆くなる」
ハスミは作戦図の上に指を滑らせた。最終防衛ラインまで後退する主経路。その途中、廃線跡の切り通しと森林が経路を頭上の目から覆い隠す遮蔽区間。そして――そこから左右に大きく開いて敵の侵攻軸の背後へと回り込む二本の迂回経路。
「撤退を罠に変えます。――第一段階。全軍、敵の観測の目の前で整斉と最終防衛ラインへ後退します。隊列は隠しません。むしろ見せつけます。敵AIの状況図に『防衛軍主力二個大隊、最終防衛線へ後退、防御準備中』という評価を刻み込むために」
「……『見せる』撤退ですか」
「はい。そして第二段階。敵の状況図が固まったところで両大隊は夜陰に紛れ、遮蔽区間で隊列を左右に割って迂回経路へ流れ出します。最終防衛ラインに残すのは偽装陣地と最小限の要員のみ。以後は完全無線封鎖のまま大きく迂回して敵後方へ回り込み――伸びきった補給線を根元から寸断します」
「敵の目には『主力は最終防衛線に籠って決戦を待っている』ように見え続ける……」アコの眼鏡の奥で計算が走った。「ですがそのためには、敵主力を最終防衛ラインの正面へ引き込み続け、主力の離脱を絶対に悟らせない部隊が要ります。敵の偵察を一機残らず排除し、『この頑強な後衛の背後に主力が待ち構えている』と信じ込ませ続ける幕(スクリーン)が」
「ええ。少数で機動力があり、しつこく食い下がる部隊が」
「見つかればその部隊は集中砲火で消し飛びます。偵察を一機でも通せば、空になった最終防衛線が露見して作戦全体が崩壊する。……とんでもない賭けですよ、これは」
「存じています。ですが――」ハスミは大画面の隅の黒タグの報告を見た。「座して崩壊するより賭けて勝ちを拾いに行きます。それに」
彼女はふと口元を緩めた。
「これに似た作戦計画を私たちは教わっています。顧問の教範の行間で」
アコの眼鏡が光った。
「……作戦計画三三〇〇一。汎用防衛計画」
「はい。かつて『フルダ・ギャップ』と呼ばれた回廊で、圧倒的な敵の縦深攻撃を機動と火力の交換で受け止めるために練り上げられた計画。……四十年間磨かれて一度も使われなかった計画です」
「では使いましょう。ここで。――イチカさん、チナツさん、記録を」
二人のオペレーターが弾かれたように姿勢を正した。
「両委員会混成の独立機甲騎兵中隊を臨時編成します。基幹装備はM2ブラッドレー十両。人員百二十名――各小隊から抽出する車両要員を含みます。編成は偵察狙撃小隊、対戦車小隊――装備はジャベリン、TOW、パンツァーファウスト3。防空小隊はスティンガー装備。人員輸送と後送用にM113数両を野戦支援大隊から抽出。随伴砲兵は一個中隊」
「指揮官の人選は」
「――中隊長、銀鏡イオリ」アコが言った。「あの子の無鉄砲は囮任務でだけは美徳になります」
「偵察狙撃小隊長は静山マシロ」ハスミが続けた。「敵に見られずに敵を見続ける任務です。適任はあの子しかいません」
「中隊名はどうします? 臨時編成でも呼称は要ります」
ハスミは数秒考え、そして言った。
「――ブラックホース」
「……由来を伺っても?」
「作戦計画三三〇〇一でフルダの国境線に最初に立ち、遅滞戦闘の全てを託されていた部隊――第一一機甲騎兵連隊(11th Armored Cavalry Regiment)の愛称です。黒い馬。……敵の大軍を最初に迎え、時間を稼ぎ、主力に勝機を渡す者たちの名前です」
「独立『機甲騎兵』中隊。……名は体を表しますね。承認します」
アコは眼鏡を押し上げ、それから手元の編成案の余白に視線を落とした。
「――ですが、人事がもう一つ残っています。両翼へ回り込む二個大隊の指揮官です。私と貴方はこの指揮所を離れられません。最終防衛ラインの『主力の芝居』と、全体の火力調整と欺瞞は、ここでしか打てませんから」
「ええ。ですから――」
ハスミは静かに立ち上がり、通信席を振り返った。
「左翼大隊、指揮官――仲正イチカ」
「……ふぇっ!?」
イチカの糸目が本日二度目に薄く開いた。
「右翼大隊、指揮官――火宮チナツ」アコが続けた。
チナツの指がキーボードの上で初めて止まった。
「り、理由を聞いていいっすか!? 自分、ただの通信係っすよ!?」
「二十時間の無線封鎖行軍に必要なのは、派手な戦闘指揮ではありません」アコは淡々と言った。「部隊を迷わせず、遅らせず、燃料と弾薬を切らさない管理能力です。この演習で全部隊の燃料残量と弾薬受領と現在位置を、書類も見ずに諳んじられる人間があなたの他にいますか、イチカさん」
「うっ……そ、それは……確かに全部頭に入ってるっすけど……」
「チナツさんは」ハスミが引き取った。「開戦から十七時間、全部隊の全交信を一人でさばいてきました。どの中隊がどこで何を抱えているか、指揮系統の隅々まで、今この瞬間の指揮所で最も正確に把握しているのはあなたです。……無線を封じた部隊に必要なのは、無線がなくても全体像を頭の中に持ち続けられる指揮官です」
チナツはヘッドセットをゆっくりと外した。眼鏡を押し上げ、一拍置いて、短く答えた。
「――拝命します」
「ちょ、チナツさん早いっすよ!? ……あー、もう」イチカは頭を掻きむしり、それから観念したように笑った。糸目はもういつもの形に戻っていた。「分かったっす。やるっす。……ただし帰ったら特別手当の申請書、書かせてもらうっすからね〜」
「決裁します。二枚でも」
「権限は委譲するためにある――顧問の受け売りですが」アコは眼鏡の奥の目を細めた。「通信席は次席オペレーターに引き継ぎを。両大隊への着任は後退開始と同時に。以上」
二人の新任大隊長が弾かれたように装具へ手を伸ばした。
アコはヘッドセットを着け直して全周波数へ送信するスイッチに指をかけた。
「承認します。……全周波数繋いでください」
---
十一.黒馬、走る【中隊側 H+19〜】
(一)PL「ダイエット」
「――というわけだ。質問は」
最終防衛ラインへ続く後退経路上、掩体に停められたM2ブラッドレーの車列の前で、銀鏡イオリは即席の中隊を見渡した。黒いセーラー服と紺のブレザーあわせて百二十名。全員の顔に十九時間分の泥と硝煙と疲労が張り付いている。
「し、質問!」コハルが手を挙げた。「なんで私が二等兵なの!? 私、正義実現委員会のエリートで――」
「臨時編成だからだ。全員一階級で運用する。各小隊から車両要員を抽出済み、私も臨時中隊長で演習が終われば元の木阿弥だ。……他には」
「……一点だけ」マシロが淡々と手を挙げた。「任務の要旨を正しく理解したいので確認します。我々百二十名で敵二個梯団――数千名相当を最終防衛ラインまで数十時間引きつけ続ける。主力が敵背後へ回り込むまで我々が『防衛軍主力』のふりをする。……間違いありませんか」
「間違いない」
「了解しました」マシロは頷き、それから前髪の下の目に静かな熱を灯した。「――少数をもって多数を欺き、味方の勝機を作る。これほど純度の高い正義の任務はありません。この身に代えても」
「身に代えるな。生き残って稼いだ一時間が、そのまま主力の一時間になる」
イオリはラミネート加工された経路図を掲げた。
「後退統制線は五本。ここを一本ずつ売りながら下がる。呼称は指揮所が決めた。――PL『マカロン』、PL『スコーン』、PL『ゼリー』、PL『パフェ』。そして最終防衛ライン手前が、PL『ダイエット』だ」
沈黙が落ちた。
隊列のどこかで、誰かが小さく「……ハスミ副委員長だ……」と呟いた。
「言いたいことは分かる。だが呼称の変更は認められん」イオリは真顔のまま言った。「つまり私たちはこれから、マカロンを売り、スコーンを売り、ゼリーとパフェを売り払って、最後にダイエットで踏み止まる。……笑うな。いや、笑え。こういうときに笑える奴から順に生き残るぞ」
張り詰めていた百二十の顔のあちこちから堪えきれない吐息のような笑いが漏れた。黒いセーラー服も、紺のブレザーも、同じ場所で笑っていた。
「最後にひとつ。教官が訓練中に一度だけ口を滑らせた言葉を教えてやる。――本人は直後に『今のは忘れろ。俺の前で二度と使うな』と言っていたがな。こういう任務を、教官の国の軍隊ではこう呼ぶそうだ。FUBAR(フーバー)」
「ふ、ふーばー?」
「Fucked-Up Beyond All Recognition。『原形を留めないほどの滅茶苦茶』だ。計画は狂い、状況は最悪で、それでも誰かがやらなきゃならない仕事のことだ」
イオリは獰猛に笑った。
「つまり――私たち向けってことだぞ。乗車! ブラックホース中隊、遅滞戦闘を開始する!」
---
(二)マカロンの値段
H+24。夜明け前。
PL「マカロン」の稜線裏でブラックホース中隊は最初の売り場を開いていた。
十両のブラッドレーは稜線の切れ目――砲塔だけを覗かせる射撃位置(キーホール)に分散し、エンジンを切って冷えていく。対戦車小隊はTOWの三脚を胸壁に据え、防空小隊は後方の窪地でスティンガーを抱えて空を見張る。誰も喋らない。四十分前から誰も喋っていない。
コハルは塹壕の底で自分の心臓の音を数えていた。速い。数えるほどに速くなる。演習だと分かっている。ペイント弾だと分かっている。それでも、地平線の向こうから腹の底に響いてくるこの低い連続音――数百のディーゼルエンジンがひとつの生き物のように唸る音――は、彼女の知っているどんな「訓練」の音でもなかった。
『――こちらサーベル・ワン』
無線にマシロの声。彼女は中隊の三キロ前方、送電鉄塔の上にいた。偵察狙撃小隊の観測手たちが「小隊長、教範的にその位置は」と止めたが、「私の観測精度は教範外です」の一言で登ってしまった。
『敵第一梯団、視認。先頭はT-55Aおよび T-62M、混成で約三十。後続にBMP-1P多数。旧式で編成された捨て駒の梯団です。隊形はくさび。針路このまま。……距離、五五〇〇』
「ブラックホース6、了解」イオリは車長ハッチの中でストップウォッチを親指で起こした。「全車、REDCON(即応態勢)1。TOWは距離三七〇〇で開店だ。値切りは受け付けるな」
『五〇〇〇……四五〇〇……』
マシロの声は観察日記を読み上げるように平坦だった。その平坦さが、かえって塹壕の少女たちの背筋を伸ばした。
『四〇〇〇。……三八〇〇』
「――全店、開店。撃て」
稜線の四箇所から、ほぼ同時にTOWの模擬発射炎が走った。
そして――何も起きない時間が始まった。
TOWの飛翔時間は最大射程で十数秒。ミサイルが届くまで射手は照準線を目標に重ね続けなければならない。十数秒。敵の車列がこちらの発射炎を見てから砲塔を回すのに十分な時間。
「動くな」対戦車小隊の陣地でトリニティの射手が自分に言い聞かせるように呟いた。「動くな動くな動くな……」
敵先頭のT-55が停止し、砲身がこちらの稜線を向いた。MRバイザーの中で砲口に発射予告のマーカーが灯る。射手の隣でゲヘナの装填手が彼女のベルトを両手で掴んだ。「あんたが照準してる間、私が抑えててやる! 撃たれても倒れなきゃ判定は続く!」
十三秒目。
俯瞰図の上で、先頭の四両が同時に灰色に沈んだ。
『命中判定、四!』『T-55、隊列停止! 展開始めます!』
「第二射――」
『ブラックホース6、こちらCP!』オペレーターの声が割り込んだ。『対砲兵レーダー感! 敵自走砲、発射煙多数――弾種判定(仮想諸元)、百五十二ミリ、2S3! 効力射まで推定九十秒!』
「閉店だ!」イオリは即座に叫んだ。「発煙、全基点火! 全車後退――オスカー・マイク!」
「お、おすかーまいく!?」
「『移動中』って意味だ、走れ二等兵!」
白い煙幕が稜線を覆い、ブラッドレーが後進のまま斜面を滑り降り、対戦車小隊が三脚を担いでM113に転がり込む。コハルは自分が何を掴んで何に飛び乗ったのか覚えていない。ランプが閉まり、車体が跳ね、六十秒後――
世界が揺れた。
ペイント弾頭とはいえ、百五十五ミリ級の実弾の斉射だ。三十秒前まで中隊がいた稜線が、装甲板越しにも分かる連続の地響きと共に土柱の列に消えた。M113の暗い車内で、十人の少女が天井を見上げたまま固まっていた。
「……マカロン一枚」誰かが掠れた声で言った。「……戦車四両と交換」
「悪くない値段だぞ」イオリの声が無線から返った。「次の売り場はスコーンだ。ブラックホース、チャーリー・マイク――任務続行」
---
(三)走る教室
食事は走行するM113の車内だった。
MREのカロリーバーを水筒の水で無理やり胃に流し込む。味など誰も覚えていない。コハルは三本目のバーを齧りながら装甲板に頭を預けて三十秒だけ眠り、着弾の振動で目を覚まし、また齧った。
「……ねえ」
薄暗い車内でトリニティの装填手がゲヘナの機関銃手にMREの袋から出てきたチョコキャンディを差し出した。
「これ、あげる。さっき……ベルト、掴んでてくれたから」
「……ん」ゲヘナの少女は受け取り、それから自分の袋からクラッカーを差し出した。「交換だ。……うちの姉さんがさ、昔あんたらの委員会に半殺しにされてんだよね。だから正直、今朝まではあんたらの隣で戦うとか冗談だろって思ってた」
「……うちも。おばあさまの代からゲヘナは『越えてくるもの』だって教わってきましたし」
「だよね。……なのに今、なんであんたのベルト掴んでんだろ、私」
「軍隊ではな」前の席からイオリが振り向きもせずに言った。「そういう滅茶苦茶を全部まとめて呼ぶ言葉がある。SNAFU(スナフー)。Situation Normal: All Fucked Up――『状況は正常。つまり全部滅茶苦茶』」
「……全部滅茶苦茶なのが、正常?」
「そうだ。数百年殺し合った連中が同じ缶詰を分け合ってる。滅茶苦茶だろう。だが今日のこの中隊では、それが正常だ」
車内に疲れ切った笑いが転がった。
それが始まりだった。以後、走るM113の車内は移動式の語学教室になった。イオリが教官の講義の隅から拾い集めた言葉たちを、一つずつ棚から下ろしていく。塹壕をもう一本掘れと命じられれば誰かが「BOHICA(ボヒカ)……」と呻き(「Bend Over, Here It Comes Again。『屈め、また来るぞ』だ。理不尽への正式な返答だぞ」)、泥濘にはまったM113を全員で押しながらトリニティのお嬢様が完璧な発音で「エンブレイス・ザ・サック……! この最悪を、抱きしめますわ……!」と絶叫し、ゲヘナ勢が「言い方が上品すぎて逆に怖ぇ」と腹を抱えた。
「FNGってなによ」とコハルが訊けば、
「Fucking New Guy。『クソ新入り』だ。お前のことだぞ、二等兵」
「わ、私はエリートよ! え、エリートのFNGなんだから!」
「両立しないんだよなあ、それ」
マシロはその一部始終を単眼鏡の手入れの合間に観察日記へ書き付けていた。幾帳面な文字で。
「ね、ねえ……マシロ……」揺れる車内でコハルが掠れた声を出した。「これ、ほんとに意味あるの……? 私たち、ずっと逃げてばっかりで……」
「逃げてはいません。売っています」
マシロは日記から目を上げずに答えた。
「地形を売って時間を買っています。一つの丘を放棄するたび、敵は展開と啓開と再編成に一時間を支払う。その一時間が、今この瞬間も左右の翼で歩き続けている主力の見えない盾になっている。……これは撤退ではありません。会計です」
「か、会計ってあんた……」
「それとコハル」マシロは続けた。「あなたの射撃記録を確認しました。本日、敵偵察車両三両撃破。小隊内で二位です。……エリートの仕事だと思います」
「……っ! べ、別に当然のことをしただけよ! 当然の!」
コハルは真っ赤になってそっぽを向いた。その口元が緩んでいるのを、車内の全員が見なかったことにした。
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(四)黒い馬の代金
PL「スコーン」は二時間で売れた。PL「ゼリー」は四時間粘った。同じ商売の反復――待ち伏せ、最大射程での斉射、砲兵のTRP射撃、煙幕、離脱。教範に書かれた通りの、しかし教範には書かれていない疲労と恐怖にまみれた反復。
異変は、H+34。PL「パフェ」で起きた。
『……こちらサーベル・ワン。敵第二梯団の先鋒を視認。――新型です』
マシロの声に、初めてわずかな硬さが混じった。
『T-80BV、約二十両。車体前面と砲塔に爆発反応装甲(ERA)。速度が第一梯団とまるで違います。……本命が来ました』
「構わん。TOW、距離三七〇〇――撃て」
四条の飛翔。十三秒の祈り。命中判定。
そして――俯瞰図の上でT-80BVは灰色にならなかった。
『判定サーバー通知:命中弾四、うち有効判定一。爆発反応装甲により三発を無効化』
「ウィスキー・タンゴ・フォックストロット!(WTFの意)」対戦車小隊の陣地で誰かが叫んだ。
「言葉の使い方は満点だぞ!」イオリが無線に怒鳴り返す。「だが慌てるな! 反応装甲は上面には貼れない――ジャベリン小隊、トップアタックに切り替え! 残弾を数えて撃て!」
ジャベリンの垂直降下が二両を仕留めた。だが携行数には限りがある。そしてT-80BVの群れは、旧式梯団の倍の速度で稜線の間隔を食い潰してくる。
「六号車、被弾判定! ――撃破判定! 乗員、戦死判定です!」
ブラッドレー一両が灰色に沈んだ。ハッチから這い出してきた三人の車両要員のバイザーには、あの三文字が表示されていた。【判定:KIA】。三人は武器を置き、規定に従って隊列を離れ、後方の集結点へ歩き出す。振り返ることは許されない。「死者」だからだ。
その背中へ誰が始めたのでもなく、塹壕の中隊全員が敬礼した。三人のうち一番小柄なゲヘナの一年生が前を向いたまま、拳だけをぐっと突き上げて応えた。
「……見たな」イオリは低く言った。「あれが後送の遅れの値段だ。次は誰の番でもおかしくない。――だから次の一両は、タダではくれてやらん」
彼女は経路図の一点を叩いた。PL「パフェ」後方の、廃線跡が丘を切り通す隘路。
「パンツァーファウスト班、六名。切り通しの側壁に伏せろ。TOWもジャベリンも届かない懐まで引き込む。距離六十で側面装甲を殴る。……志願は」
真っ先に手を挙げたのはコハルだった。次に、あのゲヘナの機関銃手とトリニティの装填手が顔を見合わせてから同時に。
切り通しの底でコハルは湿った土の匂いに顔を半分埋めて待った。地響きが近づく。金属の軋み。排気の熱風。六十メートル先を四十六トンの鋼鉄が――バイザーの中では紛れもないT-80BVが――砲塔をこちらに向けないまま通過していく。鉄の匂いすら錯覚した。怖い。死刑にしてやりたいくらい怖い。それでも彼女の指は、教範通りの手順で安全装置を外していた。
「――今!」
六条の模擬弾が、至近距離から側面を叩いた。
『撃破判定、三! 隘路閉塞! 敵縦隊、停止!』
「全員回収、オスカー・マイク!」イオリの声が弾んだ。「――ブラボー・ズールー! 『よくやった』って意味だ! 覚えとけ!」
泥まみれで転がり込んできたコハルに、車内から一斉に「ブラボー・ズールー!」の声が飛んだ。彼女は「と、当然のことをしただけよ!」と叫び、それから装甲板の陰で、誰にも見えないように三秒だけ泣いた。
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(五)光る狼煙
そして――二日目の夜が来た。
「全車停止。エンジンカット。……見ろ」
イオリの声に車長ハッチから顔を出した各車長が暗視装置を目に当てた。
視界の中の漆黒の草原に――無数の淡い光点が揺れていた。
敵機甲部隊の照準用赤外線ライト。肉眼には見えない波長の光が、暗視装置越しには、闇の中で自ら位置を晒す狼煙の列になっていた。
「敵さん、夜間行軍中は赤外線を焚きっぱなしだ。AIの野郎、几帳面に教範通りに動いてくれる。……マシロ、数は」
「先頭集団は戦車および装甲車が約六十。T-72M1基幹。後続多数」
「砲兵中隊、聞こえてるか」イオリは無線に囁いた。「目標を送る。MLRS全弾――それと煙幕弾をありったけだ。奴らの目を潰して、光だけ残す」
三分後、夜空が裂けた。
随伴砲兵中隊のM270MLRSが十二連の咆哮を上げ、ロケット弾の雨が赤外線の光点の只中へ降り注いだ。同時に投射された大量の煙幕弾が敵の熱源センサーと視界を塗り潰し――しかし敵自身が焚く赤外線ライトだけは、煙の中でなお律儀に自らの位置を示し続けた。
「ブラックホース、突撃機動! 光ってる奴から順に食え!」
闇と煙の中を九両のブラッドレーが走った。二十五ミリ機関砲とTOWが光点を一つ、また一つと消していく。判定サーバーの記録上、この夜襲だけで敵車両数十両が撃破された。
だが敵も黙ってはいなかった。
「――回転翼音! Mi-24V、二時方向、複数! Mi-8随伴!」
垂れ幕を吊ったドローンの群れが――暗視装置の中では紛れもないハインドの編隊が――低空から中隊に食らいついてきた。模擬ロケット弾の判定が車列の周囲に着弾し、M113一両が「撃破」の灰色に沈む。
「三号車、タンゴ・ユニフォーム!」搭乗員たちがハッチから転がり出ながら叫んだ。「『つま先が上向いた』――くそ、BOHICA!」
「生きて悪態がつけるなら上等だ! 防空小隊! 仕事だぞ!」
「――待ってました」
スティンガー射手たちが車体の陰から立ち上がり、シーカーのロックオン音が夜気に重なった。発射判定。二機、三機。ハインドの記号が夜空から消えていく。残る敵機は追撃を諦め、闇の彼方へ退いた。
戦闘が熄んだ。
砲塔の上でイオリは荒い息をつきながら東の空を見た。まだ暗い。夜明けまでは遠い。眼下の車内ではコハルがカロリーバーを齧りかけたまま眠り落ち、その肩にあのゲヘナの機関銃手が黙って雨衣を掛けていた。トリニティの装填手が「起こさないであげて」と唇の形だけで言い、二人は声を殺して笑った。
マシロが観察日記の新しい行に幾帳面な文字を刻んだ。
『H+41。残存ブラッドレー八、M113は二両を喪失。人員損耗、累計十五名。売却済み統制線、四本。残る商品はダイエットのみ。――中隊は本夜も正義を継続する(チャーリー・マイク)』
「……FUBARな夜だ」イオリは呟いた。「だが、悪くない夜だぞ」
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十二.沈黙の両翼【仮想敵側 H+30〜】
敵将の幕舎では奇妙な緊張が続いていた。
「……AIの状況評価ログを見てください」
チヒロが画面を指した。OPFOR-01の内部評価が時系列で並んでいる。
『H+22:敵主力ト接触中。遅滞戦闘ヲ確認。追撃ヲ継続ス』
『H+26:敵主力ノ抵抗、頑強。砲兵支援ヲ増強ス』
『H+31:敵主力ノ位置、最終防衛線前面ト推定。決戦近シ』
「……『敵主力』」ヒナが画面を睨んだ。「AIはブラックホース中隊を防衛軍の主力だと信じ込んでる」
「百二十人を二個大隊だと」ハレが唸った。「……いや当然か。撃ってくる火力の密度も後退の粘り方も主力のそれだもん。囮が囮らしくない」
「本物の主力はどこ……?」マキが俯瞰図を覗き込む。青い記号の大集団は画面のどこにもいない。無線封鎖。夜間の隠密行軍。MRデバイスの位置情報すら演習規定に基づき敵AIには秘匿されている。
「コタマ。傍受は」
『……両翼方向は完全な無線沈黙です』コタマの声がテキストと共に流れた。『数百人規模の部隊が二十時間以上電波を一度も出していません。……見事です。怖いくらい』
ツルギが前髪の奥からじっと画面を見つめぽつりと言った。
「……ハスミが……昔言ってた……。『沈黙は正義実現委員会の一番苦手な武器』……って。……みんな我慢してる……。すごく……」
ウェッブは腕を組んだまま動かなかった。
その目は俯瞰図の上の「空白」を見ていた。AIが認識できていない二本の見えない矢印。左翼をハスミが、右翼をアコが率い、敵の伸びきった侵攻軸の付け根へ闇の中を這うように迫っている。
――作戦計画三三〇〇一。
彼は内心で静かに舌を巻いていた。教えたのは骨子だけだ。縦深防御の思想と機甲騎兵による遅滞戦闘の概念といくつかの戦史。それを彼女たちは自分たちの地形と装備と人員に翻訳し、実行可能な計画に組み上げ、そして今寝食を削って実行している。
――フルダの丘で四十年間夢想された防衛計画はついに実行されなかった。実行する日が来なかった事こそがあの計画の勝利だった。
――だがここでは。
ここでは誰も死なない丘の上でその亡霊が二本の足で歩いている。
「……先生」ヒナが画面から目を離さずに言った。「あの子たち勝つわよ」
「まだ分からない」
「分かるわよ。だって――」彼女は疲れ切って、それでも笑った。「私、悔しいくらい出る幕がないもの」
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十三.H+46【中隊側】
演習開始から四十六時間。
最終防衛ラインの手前、最後の遅滞陣地でブラックホース中隊は限界に達しつつあった。
人員百二十名のうち戦死・後送判定による損耗は約二十名。車両はブラッドレー三両とM113二両を失った。生き残った者たちも四十時間を超える連続戦闘でまぶたの裏に砂が詰まったような疲労を抱えていた。コハルは装填の手順を二度間違え、三度目に泣きそうになりながら正しくやり直した。マシロの観察日記の文字は最後のページで初めてわずかに乱れていた。
「……中隊長」マシロが単眼鏡を下ろした。「敵第一梯団が再集結を完了。次の攻勢で我々は最終防衛ラインまで押し込まれます。……後がありません」
「……そうだな」イオリは砲塔にもたれ掠れた声で答えた。「だがまだ無線は鳴らない。主力からの合図は――」
その時だった。
四十六時間、演習統制波以外では沈黙を守り続けた中隊の無線機が――突然生きた。
『――全周波数、全部隊へ。こちらCP』
チナツの声だった。いつも通り理知的でいつも通り冷静で――しかしその奥に隠しきれない何かが震えていた。
『左翼大隊および右翼大隊より入電。両大隊は〇三〇〇時、敵後方のグリッド、ノヴェンバー・ブラボー――一一二、〇八四において……合流に成功』
一拍。
『――敵補給線の遮断を確認。繰り返します。敵補給線の遮断を確認』
ブラックホース中隊の陣地に一秒の沈黙が落ち――
次の瞬間、四十六時間分の声が爆発した。
歓声。絶叫。泣き声。ヘルメットが宙を舞い黒いセーラー服と紺のブレザーが抱き合い、誰かが「やった! やったぞ!」と叫び、コハルは「ほ、ほら見なさい! 私たちはエリートなんだから!」と言いながら顔中を涙でぐしゃぐしゃにし、マシロは静かに深く頷いた。
「……我々の売った時間が」彼女は言った。「正義に換金されました」
イオリは砲塔の上に立ち上がり北の地平線を見た。
敵の後方――遥か彼方の闇の中でいくつもの光が次々と灯り始めていた。仮想空間の中で燃料と弾薬を満載した敵補給トラックの列が両翼から食い破られ炎上していく光。数十台分の火の手と黒煙がMRバイザーの空を赤く染めていた。
そして俯瞰図の上では青い二個大隊が敵二個梯団の背後で腕を組むように展開し――包囲網が閉じた。
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十四.投了【仮想敵側 H+47】
敵将の幕舎でサーバーの演算が一際高く唸った。
「……AIが再評価に入りました」チヒロがログを読み上げる。「補給線遮断を認識。残存燃料で継戦可能時間を再計算……前方部隊の弾薬残量を再計算……離脱経路を探索……探索……探索……」
ログの更新が止まった。
十秒。二十秒。
そして一行が出力された。
『状況評価:侵攻継続不能。包囲下ノ戦力保全、不能。損害区分――重大な敗北(メジャー・ディフィート)』
『――当部隊ハ投降ヲ選択スル』
俯瞰図の上で数百の赤い記号が一斉に動きを止めた。全ユニット停止。全砲兵射撃中止。廃車の群れが草原の各所で律儀にエンジンを切り、垂れ幕を吊ったドローンたちが静かに地面へ降りていった。
ハレがエナジードリンクの缶を置いた。マキがぽかんと口を開けた。コタマがヘッドセットを外し珍しく生の声で「……終わった……」と呟いた。
チヒロは深く息を吐き統制卓のキーを叩いた。
「演習統制部より全部隊へ。――状況終了(エンドエックス)。繰り返します。状況終了」
ウェッブは腕時計を見た。
演習時間四十七時間五十一分。
彼は無言で立ち上がりテントの垂れ幕を開けた。
東の空が白み始めていた。四十八時間前とまったく同じ夜明けの光。それが今、砲声の絶えた丘陵地帯をゆっくりと金色に染め上げていく。
ヒナとツルギが両脇に並んで立った。
「……終わったわね」
「……終わった……」
「ああ」ウェッブは言った。「――君たち抜きでな」
二人の委員長は顔を見合わせた。ヒナの目元には隈が浮かびツルギの制服は皺だらけで、二人とも四十八時間指一本動かさずに戦い続けた者の顔をしていた。
そしてどちらからともなく笑った。
「悔しいけど」ヒナが言った。「……最高の気分よ」
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十五.丘の上の朝
〇五〇〇時。演習終了。
丘陵地帯のあちこちで少女たちが塹壕から車両から陣地から這い出してきた。
黒いセーラー服と紺のブレザー。泥と硝煙とペイント弾の染みと四十八時間分の疲労にまみれた数百人。黒タグを付けられた「戦死者」たちも判定を解除され、気まずそうにしかしどこか誇らしげに隊列へ戻っていく。
もはやそこにはゲヘナに対する憎悪もトリニティに対する敵意もなかった。
数百年分の憎しみが消えた場所に残っていたのは、もっと単純でもっと切実なたった三つの願いだった。
熱いシャワーを浴びたい。
温かい食事を取りたい。
ベッドで眠りたい。
両委員会あわせて数百人の生徒全員が一言も打ち合わせることなく完全に同じことを考えていた。合流したブラックホース中隊の隊列でコハルが歩きながら立ったまま眠りかけてマシロに支えられ、イオリが「風呂だ……風呂に入るぞ……」と譫言のように繰り返し、指揮所ではハスミとアコが四十八時間ぶりに椅子の背もたれというものの存在を思い出し、イチカとチナツがヘッドセットを外した耳を揉みながら「……賑やかっすね……」「……ええ。賑やかです……」と囁き合っていた。
野戦病院ではミネが最後の「患者」を送り出し、セリナが医療品の在庫を数え終え、ハナエが「completion! 完全勝利です! フレー! フレー!」と一人で万歳し、セナが記録端末に『最終集計。実負傷者は転倒による捻挫二名、軽度脱水五名。死者ゼロ』と打ち込んでほんのわずかに――本当にわずかに口元を緩めた。
高台ではウェッブが最後のコーヒーを注いでいた。
朝日の中、彼は眼下の丘を見渡した。塹壕の線。砲兵陣地の跡。夜襲の焼け焦げ。数十時間の戦闘の痕跡のすべてが金色の光の中に横たわっている。
ウェッブは湯気の立つカップを軽く掲げた。誰に向けてでもなく――あるいはあの丘の塹壕で四十年間待ち続け、ついに来なかった敵を見送った名も知らぬ兵士たちすべてに向けて。
それから彼は無線機を取り全周波数のスイッチを入れた。
「――全部隊ご苦労だった。事後検討会(AAR)は四十八時間の休養の後に行う。……全員帰って食べて寝ろ。それが最後の命令だ」
丘のあちこちから疲れ果てた、しかしこの上なく晴れやかな歓声が上がった。
朝日が鉄条網のない丘を照らしていた。