『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
ゲヘナ学園とトリニティ総合学園の境界線。かつて両雄が血生臭い睨み合いを続けたその荒涼たる不国境地帯には今、異様な光景が広がっていた。
連邦捜査部シャーレの「先生」ことデイヴィッド・ウェッブが持ち込んだ、米軍流の近代戦ドクトリン。共通の**作戦規準(SOP)**、統合作戦プロトコルに従い、両学園の治安維持組織が泥に塗れながら演習に励んでいた。
演習場に設定された仮の防衛線には、幾重にも走る塹壕が掘り進められ、強固な兵站補給線が構築されている。迫撃砲陣地では、ゲヘナ風紀委員会の腕章を巻いた生徒と、トリニティ正義実現委員会の構成員たちが、息を切らせて重い割薬弾(訓練用ペイント弾)の箱を運んでいた。
陣地後方に設置された野戦救護所(コンパウンド)では、**救護騎士団**と**救急医学部**が合同で負傷者の治療体制を整えている。
「現場の死体……失礼、負傷者の受け入れ準備は完了しています」と、救急医学部長の氷室セナが淡々と大型救急車のハッチを閉めれば、救護騎士団の鷲見セリナが医療キットを抱えてテキパキと指示を飛ばす。学園の垣根を越えた効率的な衛生チェーンが、そこには確かに構築されつつあった。
しかし、前線を統括する**合同指揮所(CP)**の仮設テント内は、お世辞にも「統合」とは呼べない戦術的摩擦(フリクション)に満ちていた。
長机にずらりと並んだ戦術無線機とノートPC。中央のテーブルには、等高線が細かく描かれた大規模作戦地図が広げられ、青と赤の**NATO兵科記号**が刻まれた駒が大量に置かれている。その机を挟んで、風紀委員会行政官の天雨アコと、正義実現委員会副委員長の羽川ハスミが、互いに冷酷な視線を突き合わせ、一歩も引かずに睨み合っていた。
エデン条約の調印式典爆破テロを未然に阻止し、このエデン条約機構を半ば強引に成立させた舞台裏の立役者――ウェッブが植え付けた高度な組織連携のシステム。それ自体は機能しているように見えたが、根深い確執を持つアコとハスミの二人こそが、部隊全体を破滅させかねない「潜在的な爆弾」だった。
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指揮所から数百メートル離れた高台の監視所(OP)。
遮蔽物の陰から、ウェッブは双眼鏡を覗いたまま無言でその様子を見つめていた。
彼の隣には、非番として今回の演習から外された風紀委員長の空崎ヒナと、正義実現委員長の剣先ツルギが佇んでいる。今回はあえて、組織の「絶対的エース」である二人が不在の状況でも、組織が自律して機能するかを見極めるための荒療治(テスト)だった。
「……あ、あの、せ、先生……。わ、私、その……先生の、お隣、恐れ多いっす……あぅあぅ(ジタバタ)」
普段なら戦場を蹂躙するはずのツルギは、憧れの先生の至近距離にいることにキャパシティをオーバーし、顔を真っ赤にして指先を小刻みに震わせている。
一方、ヒナは小さな身体を折りたたむようにして、気だるげに防壁に背中を預けていた。その目元には、いつも通りの濃いクマが刻まれている。
ウェッブはプロの観察眼で彼女の疲労度を測り、元外交官の落ち着いたトーンで声をかけた。
「ヒナ、部屋で休んでいても良かったんだぞ。これは防衛室や各学園の幹部自立のための演習だ」
「……めんどくさい、けど……」
ヒナはふっと視線を落とし、小さくため息をついた。先生の前でだけ見せる、柔らかくもどこか張り詰めた少女の本音。
「私がいない状況で、あの二人がどうなるか……アコもハスミさんも、能力は高い。でも、お互いが絡むと、途端に計算式が狂うから。心配で、寝ていられない」
ウェッブは応じず、ただ戦術端末の時計に目をやった。
午前0900時。デジタル数字が切り替わると同時に、暗号化通信のスピーカーから硬質なノイズが走った。
『――各隊、これより状況を開始する(エクササイズ・スタート)。交戦規定(ROE)に基づき、想定脅威を排除せよ』
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状況開始が宣言された直後、懸念は最悪の形で的中した。
ヒナとツルギという「抑止力」を失った指揮所は、コンマ数秒で泥沼の混沌へと転がり落ちていったのだ。
ウェッブたちが手元の端末で傍受している統合同信チャンネルからは、耳を劈くような怒号と無線の輻輳(混信)が響き始めた。原因は、アコとハスミによる「主導権(チェーン・オブ・コマンド)」の奪い合いだった。
『風紀委員会各員、右翼の丘陵陣地を確保してください! トリニティ側の前進速度は我が方の計算より3分遅れています、足を引っ張らないで!』
アコの冷徹でトゲのある高圧的な声が響けば、即座にハスミの上品だが激昂を孕んだ声が通信を上書きする。
『不愉快ですね、天雨さん。我が方の突撃規律は完璧です。むしろゲヘナの左翼部隊が勝手に前進して射線を塞いでいるのが見えないのですか!? 指揮権は我が正義実現委員会が預かります!』
『なんですって!? 現場のデータ管理すら満足にできない脳筋の皆さんに、全体を統制する権利はありません!』
『脳筋……っ!? 規律の破片すら持たない野蛮なゲヘナに言われたくありません!』
指揮官二人の感情的な衝突は、瞬く間に前線の通信網をマヒさせた。
『まあまあ、お二人とも、落ち着くっすよ〜。無線が混線して前線が完全に止まってるっす』
調停役の仲正イチカがフランクに割って入ろうとするが、激化する二人の無線に押し流される。
『アコさん、ハスミさん、規律を維持してください……』
火宮チナツの困惑に満ちた悲痛なセリフも空しく消えた。
その結果、前線の実戦練度は最悪のスパイク(機能不全)を起こす。
『おい、どけトリニティ! 邪魔だ! ターゲットは私がブチ抜く!』
突撃隊長の銀鏡イオリが、前方を確認せずに猪突猛進し、正義実現委員会の構築した即席地雷原へと突っ込んでいく。
『……あ、あの、前方、味方識別信号(IFF)が……撃てません……』
静山マシロは巨大な対物狙撃銃を構えたまま、味方と敵が入り乱れるカオスに硬直していた。
戦術無線機が狂ったように鳴り響く合同指揮所(CP)の中は、さながら湾岸戦争時の通信麻痺を起こした司令部のようだった。イチカやチナツらオペレーターが、何台もの無線機を前に必死にパッチパネルを繋ぎ変え、指示を送り直そうとするが、命令系統が完全に破綻したCPは、すでにただの「騒音の発生源」と化していた。
監視所でその音声を聴いていたウェッブは、深く頭を抱えた。
近代戦の教科書をどれだけ叩き込もうと、人間という「最大の不確定要素(トラブル)」が感情で動く限り、戦場は一瞬で地獄になる。工作員としての本能が、この作戦の失敗を告げていた。
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カオスはこれだけで終わらなかった。戦場で最も恐るべき致命的エラー――フレンドリーファイア(友軍誤射)が発生する。
前線での大混乱により、赤ペイント(負傷判定)を付着させられた両学園の生徒たちが、後方へ搬送されることもなく塹壕に放置されていた。適切な後送手順(MEDEVAC)が機能しないため、重傷者から順に、判定上の死亡を示す「トリアージブラック」へと次々に処理されていく。
そして、決定的な大事故が起きた。
『こちらFO(前進観測員)! 敵の増援部隊を発見、グリッド・アルファ・スリー、ベアリング2-1-0! 迫撃砲班、一斉射(ファイア・フォー・エフェクト)!』
前線のパニック状態に陥った構成員が、座標の数値を完全に読み間違えた。
彼らが指定したグリッド・アルファ・スリー。それは、大量の重傷者と衛生兵、救護騎士団の蒼森ミネや朝顔ハナエらが懸命にトリアージを行っていた「合同野戦病院」の真上だった。
直後、ヒュルルルル……と空気を引き裂く不快な風切り音が響き、数十発の訓練用ペイント迫撃砲弾が野戦病院へ正確に降り注いだ。
**「ドガガガガガァン!!」**
凄まじい衝撃音と共に、ピンクや赤の鮮烈なペイントが炸裂し、テントや医療資材、そして衛生兵たちを容赦なく染め上げていく。
『うわああ!? ハナエの特製注射器がペイントまみれにーっ!』
『不条理です……! 敵ではなく、味方の砲撃で救護所を破壊するなど、このミネが許しません! 医療行為(物理)で無力化します!』
病院内は一瞬で壊滅判定。
最初、大好きな先生の隣にいられることに、内心完全に舞い上がっていたヒナとツルギだったが、通信から聞こえるこの世の終わりのような大惨事に、完全に表情を失っていた。最終的には、ウェッブを含めた三人全員が、無言で同じ角度で頭を抱え、レシーバーからの悲鳴を聴く羽目になった。
さらに、トリアージブラック(死亡)判定を受け、演習場外の待機所に集められたゲヘナ風紀委員数十人と、トリニティ正義実現委員数十人の間で、ストレスが限界を突破。
「あんたたちのFOがバカだからこんなことに!」
「なんですって!? 先に突っ込んできて無線の邪魔をしたのはそっちでしょう!?」
仕舞いには、判定を無視した泥沼の場外乱闘(掴み合いのケンカ)が勃発し、演習場は完全に統制を失った暴動会場へと変貌した。
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もはや戦術訓練でも何でもない。ただの血の気の多い少女たちの泥仕合だった。
だが、トドメの一撃はまだ残っていた。
前線のFOが、混乱の極みの中でさらに座標の計算を誤認。
『あ、あれ!? 違う、今の無し! 修正、グリッド・ブラボー・ツー! 撃て撃て撃て!!』
グリッド・ブラボー・ツー。それは、アコとハスミが今なおマイクを奪い合って罵り合っている「統合指揮所(CP)」の仮設テントそのものだった。
「――っ、全員伏せろ(ヒア・イット・カムズ)!」
ウェッブの鋭い警告と同時に、高台から見えるCPのテントに、一斉射されたペイント迫撃砲弾の束が直撃した。
**「ズドォォォォン!!」**
大量の泥と鮮やかな原色のペイントを撒き散らし、幹部たちが立て籠もっていた仮設テントは見事に爆破・圧壊。無線機や地図の駒もろとも、アコやハスミ、イチカやチナツたちの頭上へと崩れ落ち、通信は完全に不快なブー音へと変わった。
「…………」
ウェッブはゆっくりと端末の電源を切り、レシーバーを外した。
視界の先では、ペイントまみれになってテントの残骸から這い出てくる生徒たちと、場外乱闘を続ける泥だらけの集団。元CIAの伝説的工作員をして、開いた口が塞がらないほどの「完璧な作戦失敗」だった。
「……状況終了(エクササイズ・ターミネイト)。……全員、泥を洗ってこい」
ただ茫然と虚空を見つめる先生の横で、ツルギの堪忍袋の緒が完全に引き千切られた。
「ギエエエエエエエエヤハハハハハ!! 恥を……っ、先生の前で、なんという、不始末をォォオ!! 全員まとめて、私が、私が引き裂いて教育してやるわぁぁあああ(窓から飛び降りるような勢いで高台から突撃)!!」
狂犬の本能を覚醒させたツルギが怪叫を上げて現場へ殴り込みにいく中、ヒナは深く、今日一番の重いため息を吐き、華奢な肩を落とした。
「……はぁ。やっぱり、めんどくさいことになった……。アコ、後で絶対に、お説教だからね……」
キヴォトスの平和を守るための「完璧な統合ドクトリン」への道は、ラングレーの追跡をかわすよりも遥かに遠く、険しいものであることを、ウェッブは戦慄と共に理解したのだった。