『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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アビドス編
第4話(アビドス編):ダストオフ


一.四十一日

 

〇四三〇時。連邦捜査部シャーレ顧問執務室。

 

デイヴィッド・ウェッブは書類の山を右から左へ移していた。

 

決裁の作業ではない。分類だ。彼は書類を読まない。走査(スキャン)する。用紙の左上に押された受付印の日付、右下の起案者、中央部の金額欄。この三点を〇・八秒で拾い、処理の優先度に従って三つの山へ振り分けていく。ラングレーで一日に四百件の通信傍受記録を選別していた頃の手癖だ。あの頃と違うのは選別の結果が誰かの死に直結しないという一点だけだった。

 

右の山は「今日中」。中央は「今週中」。左は「破棄していい」。

 

左の山が一番高い。

 

その左の山の下から三十枚目で彼の手が止まった。

 

『支援要請書(様式第七号)』

 

用紙の質が違った。他の申請書はどれも各学園の事務局が刷った上質紙だが、これは家庭用のインクジェットプリンタで印字したごく普通のコピー用紙だった。しかも紙の右下がわずかに波打っている。一度濡れて乾いた紙の癖だ。

 

――砂ではない。水だ。誰かがこの紙の上で何かをこぼした。あるいは。

 

ウェッブはその推測を最後まで組み立てなかった。

 

受付印の日付を見た。

 

四十一日前。

 

彼の指がわずかに止まる。用紙を裏返す。裏面には回付の履歴が判子の列で刻まれていた。

 

『連邦生徒会 調停室・受理』――保留。理由欄:当該自治区における行政実体の存在が確認できず、要請書の受理主体を特定できないため。

 

『同 財務室・回付』――保留。理由欄:要請元に債務不履行の履歴あり。予算執行の適格性について要検討。

 

『同 人材資源室・回付』――保留。理由欄:アビドス自治区の土地所有権は民間法人(カイザーコンストラクション株式会社)に帰属。連邦生徒会の直接介入は所有権に抵触する恐れがあり、法務室の見解を要する。

 

『法務室・回付』――以下、空欄。

 

四十一日間、この紙は四つの部屋を回り四つの判子を押され、そして誰の机の上でも決断されなかった。

 

ウェッブは表に戻した。本文はわずか十二行だった。

 

『……本校生徒五名は現在、武装集団による反復的な襲撃を受けています。防衛用の弾薬、飲料水、食料の在庫が枯渇しつつあります。本校には現在、五名以外の生徒も職員も存在しません。援助が困難であることは理解しております。ですが、どうか一度、どなたか一人でも構いませんので現地をご覧いただけないでしょうか。

 

アビドス高等学校 廃校対策委員会 書記 奥空アヤネ』

 

ウェッブはその十二行を二度読んだ。

 

一度目は情報として。二度目は――言語学者として。

 

『どなたか一人でも構いませんので』

 

助けてくれとは書いていない。救ってくれとも守ってくれとも書いていない。この文書の起案者は要請の水準を意図的に極限まで切り下げている。相手が断る理由をあらかじめ全部潰しにいっている。金は要らない。兵は要らない。見るだけでいいと。

 

――交渉の初手で最低条件まで自分から降りる人間は二種類しかいない。

 

――素人か、あるいは断られ続けた人間だ。

 

ウェッブは椅子に背を預けた。天井の蛍光灯を数秒見つめる。

 

四十一日。

 

彼はこの四十一日間に何をしていたか正確に思い出せた。エデン条約機構の合同演習の計画立案。ヴァルキューレ警察学校の装備更新の査定。ミレニアム中央スタジアムの警備動線の再設計。晄輪大祭の脅威評価。SRT特殊学園の新入生に基礎射撃を叩き込む十四日間。

 

そのすべてが正しい仕事だった。

 

そのすべてがこの十二行の上に積まれていた。

 

――俺の机の上でだ。

 

不意に部屋の隅に据え付けられた古い無線機が雑音を吐いた。

 

シャーレの通信室から執務室へ引き込まれた予備回線。連邦生徒会がキヴォトス全域に敷いた民間防災用の低出力周波数で、平時は誰も使わない。ウェッブが赴任してから一度も鳴ったことのない機械だった。

 

『……こちらアビドス高等学校。……こちらアビドス高等学校。応答願います』

 

若い声だった。抑揚を必死に押し殺している。ノイズが酷い。送信出力が足りていない。おそらく壊れた機材から部品を寄せ集めた自作の送信機だ。

 

『どこでもいいです。誰でもいいです。……聞こえていたら応答してください』

 

ウェッブは椅子から立ち上がる前にすでに送話器を握っていた。

 

「――こちらシャーレ。感明度、三の三。送れ」

 

回線の向こうで息を呑む音がした。

 

一秒。二秒。

 

『――っ、し、シャーレ!? 本当にシャーレですか!?』

 

「連邦捜査部シャーレ顧問、デイヴィッド・ウェッブ。奥空アヤネか」

 

『は……はい! はい、アビドス高等学校対策委員会書記、奥空アヤネです!』

 

声が跳ねた。それからすぐに引き締まった。この娘は自分の感情を三秒で管理下に置ける、とウェッブは判定した。

 

『状況を報告します。現在、本校は――』

 

そこから流れ出した報告は形式としてはめちゃくちゃだった。時系列が前後し、主観と客観が混ざり、彼女自身の謝罪が三度挟まった。だがウェッブの頭の中では、その混乱した音声が入力された端から標準様式へ組み替えられていく。

 

――発生。敵性武装集団による攻撃。継続中。

 

――位置。アビドス自治区、旧アビドス高等学校本館。

 

――敵。歩兵約六十。車両三。うち一両に重機関銃を搭載。

 

――我。生徒五名。全員が交戦中。負傷者なし(現時点)。

 

――補給。小火器弾薬、残量二十パーセント以下。飲料水、残量三日分。食料、二日分。

 

――要請。補給。

 

『……以上です。あの、それと』

 

アヤネの声が一段小さくなった。

 

『四十一日前に支援要請書を出しました。もし届いていたら――いえ、届いていなくても仕方がないんです。うちは、その、いろいろと書類上の立場が微妙で、だから』

 

「届いていた」

 

『……え』

 

「俺の机の上にあった。四十一日間だ」

 

回線が沈黙した。

 

ウェッブは書類をデスクの中央に置き直した。声の温度は変えなかった。変えればそれは謝罪ではなく言い訳になる。

 

「今から離陸する。飛行時間は給油を含めて七時間から八時間。到着予定は一四〇〇時前後。それまで持ちこたえろ」

 

『……っ、あ、あの待ってください、来るって何を持ち、どのくらいの規模で――』

 

「水と食い物と弾だ」

 

ウェッブは無線を切った。

 

そして彼が四十一日ぶりに執務室のドアを蹴り開けたとき、書類の山の左側――「破棄していい」の山は彼の肘に押されて崩れ、床一面に散らばっていた。

 

彼は一枚も拾わなかった。

 

---

 

二.積み荷

 

〇五〇二時。シャーレ地下第一格納庫。

 

天井の作業灯が順番に点灯していく。三十メートル四方のコンクリート空間の中央に、それは折り畳まれた翼を休める鳥のように鎮座していた。

 

濃緑と黒のツートン。四枚のメインローターは駐機のため後方へ折り畳まれている。機首下面には赤外線/光学の複合センサーターレット。胴体側面から張り出したスタブウィング(ESSS)には、内側の懸架点に二三〇ガロンの増槽が二本、外側にはM134ミニガンが二挺と十九連装のロケット弾ポッドが左右一基ずつ。

 

MH-60M。

 

機体番号はない。国籍標識もない。垂直尾翼に小さく白いステンシルで『S.C.H.A.L.E. AVIATION』とだけ入っている。

 

「所属機体数一。搭乗員数一。それを『航空隊』と表記する神経を、私はまだ受け入れられていません」

 

背後から抑揚のない声がした。

 

七神リンが格納庫の入り口に立っていた。この時間だというのに白いコートには皺一つない。手にはタブレット。

 

「起きていたのか」

 

「貴方が二三時以降に格納庫の照明系統を起動した場合、私の端末に通知が飛ぶよう設定してあります」

 

「……いつからだ」

 

「貴方が最初にこれを持ち込んだ日からです」

 

ウェッブはそれ以上追及せず機体後部のカーゴドアへ回った。すでにフォークリフトが待機している。運転席には誰も座っていない。無人搬送のプログラムを昨夜のうちに彼が組んだ。

 

「積載計画を読み上げる。復唱は要らない」

 

彼はタブレットも見ずに続けた。

 

「飲料水、五百リットル。二リットルボトルの段ボール梱包で二百十ケース相当を五百リットルに圧縮。重量五百キロ。経口補水塩、二千包。糧食、レトルトおよび乾燥食品で三百キロ。医療品一式、四十キロ」

 

フォークリフトが動き出す。

 

「弾薬。五・五六ミリNATO弾、普通弾、一万発。七・六二ミリNATO弾、リンク済み、五千発。十二番散弾、〇〇バック及びスラッグ、各五百発。九ミリパラベラム、二千発。予備弾倉、各口径分。総重量四百六十キロ」

 

「……七・六二のリンク弾は」

 

「ミニガン用だ。あの学校の二年生が携行火器としてミニガンを撃つ。ベルトリンクの規格を三種類調べた。合うのは一種類だけだった」

 

リンの眉がほんのわずかに動いた。

 

「四十一日前の要請書に、使用火器の型式は書かれていましたか」

 

「書かれていない。戦闘記録の映像を昨夜のうちに七本見た」

 

「……その情報の入手経路について、私は報告書にどう書けばよいのでしょう」

 

「書かなくていい」

 

「そうします」

 

積み込みが進む。カーゴベイの床にパレットが並びラッシングベルトが締め上げられていく。ウェッブはベルトの張力を一本ずつ手で確かめた。この機体の中で唯一彼が他人にも機械にも任せない工程だった。緩んだ貨物は空中で凶器になる。

 

リンがタブレットを操作しながら言った。

 

「燃料の件です。DU地区からアビドス自治区まで直線で六百三十キロ。増槽込みでも往路を一度で飛ぶのは無理でしょう」

 

「三回降りる。ETO合同訓練場の臨時燃料集積所、ハイランダー鉄道学園の第四保線基地、それとアビドス自治区の外縁――旧アビドス駅」

 

「後者二つは民間施設です。着陸許可は」

 

「取ってくれ」

 

「……今からですか」

 

「三十分後に一つ目、四時間後に二つ目、六時間半後に三つ目が要る」

 

リンはタブレットの上で指を滑らせ、それから疲れたようでも呆れたようでもない声で答えた。

 

「……ハイランダーの生徒会長は〇六〇〇時に起床します。旧アビドス駅は無人ですが給油設備の管理権はセイント・ネフティスにあります。両方、私が話をつけます」

 

「助かる」

 

「その代わり」

 

彼女は顔を上げた。

 

「一つ、記録のために確認させてください。アビドス自治区の土地の大半はカイザーコンストラクション社の私有地です。貴方はこれから民間法人の所有地に、武装したヘリコプターで無許可で降ります」

 

「そうだ」

 

「連邦生徒会はその行為を法的に擁護できません」

 

「知っている」

 

「シャーレの超法規的権限はキヴォトスの法の枠外での活動を認めるものであって、私有財産権の否定を認めるものではありません」

 

「そうだな」

 

リンは眼鏡を押し上げた。レンズが作業灯を反射する。

 

「――ですので、私はこの会話を記憶していないことにします」

 

ウェッブはラッシングベルトから手を離した。

 

「リン」

 

「なんでしょう」

 

「四十一日前のあの要請書に四つ判子が押してあった。調停室、財務室、人材資源室、それと法務室に回付済み。全部『保留』だ」

 

「……ええ」

 

「保留の理由は全部正しい。行政実体がない。債務不履行がある。所有権が民間にある。どれも間違っていない。俺が四つの部屋のどこかに座っていたとしても同じ判子を押した可能性が高い」

 

彼は一度だけ格納庫の天井を見上げた。

 

「正しい判断を四つ重ねると生徒が五人死ぬことがある。それがこの街の書類の書式だ」

 

リンは何も言わなかった。

 

「様式第七号を書き換えろ。『生命に対する差し迫った脅威』の項目を最上段に置いて、それに丸がついた要請書は他のすべての審査に優先して二十四時間以内にシャーレへ直送されるようにする。判子は要らない。回付も要らない。届いた時点で俺の責任だ」

 

「……予算の裏付けは」

 

「後で考える」

 

「扇喜アオイ室長が卒倒します」

 

「彼女は倒れない。倒れる代わりに請求書を作る人間だ」

 

リンは初めてほんのわずかに口の端を動かした。それは笑みと呼ぶには小さすぎたが笑みでないと言い張るには十分に大きかった。

 

「……様式は今日中に起案します。それと、先生」

 

「なんだ」

 

「回転翼機の操縦資格を貴方はお持ちですか」

 

ウェッブはコクピットのドアに手をかけたまま、振り返らずに答えた。

 

「この街に航空局はあるのか」

 

「……ありません」

 

「では問題ない」

 

〇五一七時。

 

格納庫の天井が両側へ割れて開き、朝焼け前の紺色の空が細長く覗いた。四枚のブレードが展開しロータリーの唸りが地下空間を満たしていく。回転数が上がる。砂粒のような細かい塵がコンクリートの床を這って渦を巻いた。

 

ウェッブはヘッドセットの位置を直し、コレクティブをゆっくりと引き上げた。

 

――キヴォトス管制。こちらシャーレ・ゼロワン。離陸する。

 

応答はなかった。管制など存在しないからだ。

 

MH-60Mは無音の許可を得て、D・U地区のネオンの海の上へ舞い上がった。

 

---

 

三.最後の弾倉

 

同日一四一二時。アビドス自治区、旧アビドス高等学校。

 

気温四十一度。風速七メートル、東南東。視程はよくない。舞い上がった砂が空を薄い黄土色の膜で覆い、太陽は白い円盤にしか見えなかった。

 

校舎の二階、旧図書室の窓枠に五・五六ミリの空薬莢が二本、コンクリートの上で乾いた音を立てて跳ねた。

 

「……ん」

 

砂狼シロコは頬付けを解かずにそのまま呼吸を一つ吐いた。銀色の髪が汗で額に張りついている。狼の耳が銃声の方向を追って小さく動いた。

 

「セリカ。残弾」

 

「二本! 二本しかない! もう本当に二本しかないの!」

 

隣の窓枠で黒見セリカが叫んだ。ツインテールが振り乱れて猫の耳が怒りと焦りで倒れている。彼女はチェストリグを何度も叩いた。空だ。何度叩いても空だった。

 

「なんでこいつらこんなに撃てるのよ! 先週の三倍じゃない! あいつらの給料誰が払ってんのよ!」

 

「セリカちゃん、口より手を動かして!」

 

一階正面玄関のバリケードの陰から奥空アヤネの声が飛んだ。彼女は無線機とタブレットとメモ帳を膝の上に並べ、鉛筆の芯を折りながら消費弾数を記録し続けていた。眼鏡が汗で滑り落ちるのを手の甲で押し戻す。

 

「シロコさん東の駐車場跡に八名! 遮蔽物なしで前進中です! ノノミさん南! 南のフェンス側が――」

 

「はぁい、見えてますよ〜」

 

おっとりした声とともに鋼鉄の唸りが空気を裂いた。

 

十六夜ノノミの構えるミニガン『リトルマシンガンV』が咆哮する。毎分数千発の七・六二ミリが砂の地面を耕し、南から回り込もうとしていたヘルメット団の一団が悲鳴を上げて瓦礫の陰へ飛び込んだ。

 

だが――

 

「……あら」

 

三秒で銃声が止んだ。

 

ノノミは自分の腰に回した給弾ベルトを見下ろした。垂れ下がっていた金色の帯がなくなっていた。

 

「あらら。……ごめんなさい、皆さん。ノノミ、おしまいです」

 

「おしまいって言い方やめてよノノミ先輩!!」

 

「予備は」

 

「先週使い切っちゃいました。それに、そろそろこの子も限界かも」

 

彼女は銃身束を軽く撫でた。六本の銃身のうち二本は内側のライフリングがもう摩耗で溶けかけている。セイント・ネフティス製の高級品を修理も交換もできないまま二年間撃ち続けた結果だった。

 

砂まみれの空気の中で五人分の呼吸だけが妙に大きく聞こえた。

 

そしてそれが止まった。

 

低い規則的な打撃音が近づいてくる。重機関銃を積んだピックアップトラックのエンジン音と車載の砲架が回る金属音。ヘルメット団の増援が三度目の突入を仕掛けようとしていた。

 

「……アヤネちゃん」

 

正面玄関の内側、崩れた靴箱に背中を預けて座っていた小鳥遊ホシノがゆっくりと立ち上がった。

 

ピンク色の長い髪が砂を含んだ風に持ち上がる。

 

「みんな二階に上がって。ノノミちゃんはセリカちゃんを連れて。シロコちゃんは階段の踊り場で待機」

 

「……ホシノ先輩?」

 

「アヤネちゃんは無線ね。もし駄目そうだったらそのまま裏の排水路から出て。地図は覚えてるでしょ」

 

けだるげな声のはずだった。いつもと同じ間延びしたおじさんくさい声のはずだった。

 

だがアヤネはその声の中から「うへ〜」も「まぁいっか〜」も消えていることに気づいてしまった。

 

「せ、先輩待ってください。何を」

 

「おじさんがちょっと行ってくるよ」

 

ホシノは巨大な盾を左腕に通し、ショットガン『ホルスの目』の遊底を引いた。装弾数六。予備四発。

 

「――駄目です!」

 

アヤネが立ち上がった。眼鏡の奥の目が赤い。

 

「先輩それ勝てないから言ってるんじゃないですよね!? 勝てないのを分かってて時間を稼ぐって言ってるんですよね!? 私たちを逃がすために――」

 

「アヤネちゃん」

 

ホシノは振り返らなかった。

 

「二年前ね」

 

砂の音。

 

「この学校の大人は全員いなくなったんだ」

 

「……」

 

「生徒会長も先生も事務の人も。誰も悪くないよ。みんな限界だっただけ。だからおじさんは誰も恨んでない。……ただね」

 

彼女は盾を持ち上げた。

 

「もう一回同じことになるのは、ちょっとだけ嫌なんだよ」

 

――そこにいたのは「おじさん」ではなかった。

 

一年生だった頃、たった一人で全部を背負い込んでいた鋭くて余裕のない少女だった。二年間かけて後輩たちの前で丁寧に埋葬したはずの小鳥遊ホシノという本物だった。

 

「私が耐えている間にみんな上へ」

 

彼女が玄関の残骸を踏み越えようとした、その瞬間。

 

「――待って」

 

アヤネの声が変わった。

 

彼女はタブレットに飛びついていた。画面には校舎の屋上に設置した自作の広域音響センサーの波形。二年間、砂嵐と車両接近を聞き分けるためだけに彼女が育ててきた玩具。

 

その波形がこれまで一度も記録したことのない形を描いていた。

 

低周波。周期的。四枚羽根。

 

「回転翼音……」

 

アヤネの唇が震えた。

 

「方位〇八〇。高度低い。すごく低い。……速度、二百四十キロ以上」

 

「ヘリ? ヘルメット団がヘリなんて――」

 

「違います」

 

アヤネは顔を上げた。砂色の空の、太陽の真下。

 

「東からです」

 

そして彼女は思い出した。今朝〇五〇〇時前、雑音まみれの無線の向こうで聞いたことのない低い声が何の飾りもなくこう言ったことを。

 

『水と食い物と弾だ』

 

---

 

四.挨拶

 

太陽を背負って来る。

 

それが基本だ。太陽を背にすれば地上の目は光の中に機体を見失う。ウェッブは高度三十メートルの地表追随飛行(ナップ・オブ・ジ・アース)で砂丘の稜線を舐めるように越え、最後の丘の向こう側でわずかに機首を上げた。

 

視界が開けた。

 

砂に半分埋もれた三階建ての校舎。半円形に構築された即席のバリケード。校庭だったであろう平地。そして――

 

その平地に散開する黒い制服とフルフェイスヘルメットの集団。

 

ウェッブは光学ターレットの倍率を上げた。〇・八秒で状況が展開する。

 

敵、歩兵五十八。車両三。うち一両、荷台に重機関銃を搭載。銃手は乗車中。二両は空荷。歩兵の散開の仕方に規律はない。射撃姿勢に統一性がない。装具は――

 

――新しい。

 

彼の視線が引っかかった。プレートキャリアの生地に色褪せがない。光学照準器が全員分揃っている。無線機のアンテナが全員の肩に立っている。

 

――五十八人分の装備が同一ロットだ。

 

この情報は今処理すべきものではない。彼は意識の後ろ側にそれを置いた。

 

そして目の前の問題に戻った。

 

――この五十八人を殺してはならない。

 

理由は三つあった。

 

一つ。彼女たちは雇われだ。雇い主は今日ここにいない。末端を五十八人殺しても雇い主の予算からは五十八人分の給料が浮くだけだ。

 

二つ。この街の子供たちには奇妙な光輪(ヘイロー)が浮かんでいてそれが銃創を発生させない。だがウェッブはその現象を四ヶ月かけて実験的に確認するまで、一度もこの街で引き金を引かなかった男だった。確認した今でも彼は「殺せない」と「殺していい」を同じ意味で使う気はなかった。

 

三つ。

 

三つ目の理由は彼自身にも言葉になっていなかった。ただ砂の匂いが鼻の奥に届いた瞬間、脳の古い層で何かが軋んだ。薬漬けにされて前線へ送り出された少年兵の冷たくなった死体の山。あの光景にこの街で似たものを積み上げるつもりはない。

 

「――シャーレ・ゼロワン、火力支援に入る」

 

誰も聞いていない無線に彼は職業上の習慣で送信した。

 

「効果を『制圧』とする。目標、地上部隊の前方八メートル。修正は……ない」

 

彼はサイクリックを倒し機首を下げた。

 

ESSS外側のM134が回転を始める。

 

キヴォトスの砂漠にそれまで誰も聞いたことのない音が響き渡った。

 

銃声ではない。それは連続した銃声が音として分離できなくなった果てにある、鋸で鉄板を切るような、あるいは巨大な布を引き裂くような単一の低い咆哮だった。

 

毎分四千発の七・六二ミリがヘルメット団の突撃隊形の八メートル前方に着弾した。

 

砂が壁になって立ち上がった。

 

高さ三メートル、幅四十メートルの土煙の帯が進路を横切って地面を切り裂いていく。跳弾が甲高く空へ抜ける。着弾の衝撃が地面を伝わって団員たちの足の裏を殴った。

 

先頭にいた赤いジャージの少女――カタカタヘルメット団の幹部の一人はその場に尻餅をついた。

 

「な、なななな何あれ!? 何あれ!?」

 

彼女の三十センチ前で砂が沸騰していた。

 

その帯は前進しない。後退もしない。ただ彼女たちの足元に沿って正確に平行に走り続けている。

 

「隊長ォ! 撃ってきてます!」

 

「見りゃ分かるわよ!」

 

「違います! 撃ってきてるのに――」

 

団員の一人が震える指で自分の身体を指した。

 

「――誰も当たってません!」

 

赤ジャージの少女の思考がそこで一度停止した。

 

五十八人。全員が遮蔽物のない開けた砂地の上にいる。頭上から機関砲を撃たれている。

 

そして負傷者がゼロ。

 

――これは事故じゃない。

 

――当ててないんじゃない。当てないように当ててんだ。

 

その理解が彼女の背筋を這い上がったとき、上空の轟音がわずかに角度を変えた。

 

ウェッブは重機関銃搭載車――技術的にはテクニカルと呼ばれる代物――にターレットを固定していた。倍率二十倍。銃手の姿は荷台にない。最初の掃射で飛び降り、二十メートル離れた瓦礫の陰に伏せている。運転席、無人。助手席、無人。車体の周囲十メートル以内に人影なし。

 

彼は三秒待った。

 

誰も戻らないことを確認するために。

 

「――ロケット、一発。目標、車両」

 

ハイドラ70が発射管を離れた。

 

白い煙の尾が空を斜めに引き裂き、そしてピックアップトラックの機関銃架を正確に貫いた。

 

爆発は思ったより静かだった。一瞬遅れて燃料タンクが誘爆し、黒い炎の球が砂の上へ膨れ上がる。熱波が数十メートル先の団員たちの頬を撫でた。

 

それが合図だった。

 

「に、逃げろォォォ!!」

 

誰が最初に叫んだのかは分からない。

 

黒い制服とヘルメットの群れは蜘蛛の子を散らすように四方八方へ走り出した。武器を投げ出す者、転ぶ者、転んだ仲間を引きずって走る者。二両の空荷のトラックに十数人がしがみつき、定員をとうに超えた車体が悲鳴を上げて砂を蹴った。

 

上空のヘリコプターは追わなかった。

 

一度も追わなかった。

 

砂丘の向こうへ最後の一人が消えるまで、その黒い機体は校庭の上空をゆっくりと旋回し続けただけだった。

 

赤ジャージの少女は逃げる部下たちの最後尾で一度だけ振り返った。

 

炎上する自分たちのトラック。その向こう、砂煙の中を降下していく機体。

 

――あれはうちらに何かを言った。

 

言葉ではなかった。だがその意味はこの砂漠で一番頭の悪い団員にでも伝わるほどはっきりしていた。

 

『今日は撃たなかった』

 

彼女はヘルメットの中で唾を飲み込み、そして走り出した。

 

---

 

五.丸腰

 

轟音が校舎を揺らした。

 

窓ガラスが震え、崩れかけた天井から砂がざらざらと降り注ぐ。校庭に舞い上がった砂柱が一階の廊下まで押し寄せ、五人は思わず腕で顔を覆った。

 

ダウンウォッシュが弱まる。エンジン音が減速する。

 

そして砂の幕が晴れた。

 

校庭のど真ん中にそれは着陸していた。

 

黒に近い濃緑の巨体。回転を落としながらもまだ惰性で回るローター。胴体から張り出した翼にぶら下がった二挺のミニガンと片方が空になったロケット弾ポッド。機首下の球体センサーがまるで生き物の眼球のようにこちらを向いていた。

 

「……なに、あれ」

 

セリカが呆然と呟いた。

 

「軍用ヘリです」シロコが淡々と答えた。「ん、……たぶん汎用ヘリの特殊作戦仕様。ミニガン二挺とロケット弾ポッド」

 

「なんでシロコがそんなの分かんのよ!?」

 

「重機の点検が趣味だから」

 

「全然関係ないでしょ!?」

 

四人が銃口をヘリへ向ける中、アヤネだけが両手を広げて彼女たちの前に飛び出した。

 

「撃たないでください!」

 

「アヤネちゃん!?」

 

「シャーレです!」

 

彼女は叫んだ。声が裏返っていた。

 

「連邦捜査部シャーレの顧問です! 四十一日前に私が出した支援要請書の……返事です!」

 

四人が動きを止めた。

 

サイドドアがスライドした。

 

金属が軋む音とともに機内が露わになる。

 

積み上がっていた。

 

パレットに固縛された飲料水の段ボール。段ボール。段ボール。レトルト糧食の箱。緑色の金属製の弾薬箱。その弾薬箱の側面には白いステンシルで規格が刷られていた。『5.56mm BALL』『7.62mm LINKED』『12GA』『9mm』。

 

セリカの構えていた銃口がゆっくりと下がった。

 

「……嘘」

 

そして機内から一人の男が降りてきた。

 

黒いフライトジャケット。短く刈った髪。三十半ば。特別に大きくも厚くもない砂の色をした男。

 

彼は両手を肩より高く上げていた。

 

その手には何も握られていなかった。腰にも脇にも脚にも何もなかった。

 

シロコの獣耳が動いた。彼女は誰よりも早くその事実に気づいた。

 

「……武器を置いてきてる」

 

ウェッブは校庭の砂の上に立ち、両手を掲げたまま動かなかった。

 

彼にとってそれはこの十年で最も苦痛な姿勢だった。

 

――ジャケットの内側が軽い。

 

G19はコクピットの計器盤の下に置いてきた。ナイフも予備弾倉も無線機さえも。この二十メートルの距離を丸腰で歩くという判断を、彼の脳の古い部分は今も全力で否決し続けている。心拍が上がっているのが自分でも分かった。掌の内側で汗の膜が張っている。

 

――逃走経路なし。遮蔽なし。反撃手段なし。

 

――だから意味がある。

 

信頼というものは演説では作れない。

 

作れるのは、こちらが不利になる姿勢を相手に見えるように取ることだけだ。

 

バリケードの向こうで動く影があった。

 

「……みんなここにいて」

 

小鳥遊ホシノが盾を下ろした。

 

「先輩!?」

 

「あの人が何なのか、おじさんが確かめてくるよ」

 

「危険です!」アヤネが叫ぶ。「今の攻撃を見たでしょう!? あんな火力を持った相手を一人で――」

 

「だからだよ」

 

ホシノは振り返っていつものけだるげな顔で笑った。

 

「あの人が本気だったら今ごろこの校舎は建ってないでしょ」

 

そう言ってい彼女は一人で崩れた玄関を出た。

 

盾は置いていった。ショットガンだけを銃口を下げたまま片手に提げて。

 

砂を踏む音が二十メートルの距離をゆっくりと詰めていく。

 

八メートルの距離でホシノは止まった。会話ができて、しかし互いの手が届かない距離。

 

彼女は男を見上げた。

 

「――こんにちは」

 

「こんにちは」

 

「両手下ろしていいよ。疲れるでしょ」

 

「まだ下ろさない」

 

「へえ」

 

ホシノは首を傾げた。ピンク色の髪が肩から滑る。

 

「なんで?」

 

「君がまだ判断していないからだ」

 

八メートル先の男の声は低く平坦で、そして――押しつけがましさが完全に欠落していた。

 

ホシノの中で何かの警報が一つ静かに解除された。

 

「……お名前は」

 

「デイヴィッド・ウェッブ。連邦捜査部シャーレ顧問」

 

「シャーレって、あの生徒会長さんが作ったっていう」

 

「そうだ」

 

「ふーん。……おじさんね、大人の人と話すのあんまり得意じゃないんだ」

 

ホシノはショットガンを持ち替えた。銃口は地面を向いたままだ。

 

「二年前にね、この学校に大人の人が来たことがあるの。三人。三人ともスーツを着ててみんなすごく親切だった。書類を持ってきてね、ここにサインすれば楽になりますよって」

 

「カイザーローンか」

 

「知ってるんだ」

 

「名前だけは」

 

「そう」

 

ホシノは笑った。目は笑っていなかった。

 

「だから聞くね。ウェッブさんはうちから何を持って帰るの? 土地? 権利? それともうちの後輩?」

 

風が吹いた。砂が二人の間を横切っていく。

 

ウェッブは即答しなかった。

 

彼はこの手の質問を三十年扱ってきた。ここで「何も要らない」と即答するのは最悪だ。それは詐欺師の第一声だからだ。

 

だから彼は代わりに事実を並べた。

 

「機内の積荷は水が五百リットル、糧食が三百キロ、医療品が四十キロ、小火器弾薬が四百六十キロ。全部で千三百キロだ。これを今から降ろす」

 

「……」

 

「契約書はない。借用書もない。署名も要らない。利息もつかない。返済期限もない」

 

「タダなんて話があるわけ――」

 

「ある」

 

彼は初めてわずかに声を強めた。

 

「一つだけ条件がある。……要らないと言われたらそのまま積んで帰る。押し付けるつもりはない」

 

ホシノの表情が初めて動いた。

 

彼女は返す言葉を探し、そして探しているのは言葉ではなく理由だと気づいた。断る理由だ。この二年間、彼女は差し出されたすべての手に断る理由を見つけてきた。見つけられなければ探した。探して見つからなければ作った。

 

今、見つからなかった。

 

代わりに彼女の思考は別のことを拾い始めていた。

 

――この人さっきから一度も校舎を見てない。

 

――ずっと地面を見てる。

 

正確には地形だ。この男は着陸してから今まで崩れた校舎にも五人の生徒にも一度も長く視線を置いていない。彼が見ているのは砂の起伏とバリケードの死角と東側の駐車場跡の窪みと南のフェンスの切れ目だった。

 

そして着陸地点。

 

――校庭のど真ん中。

 

――遮蔽物ゼロ。四方から丸見え。

 

軍用ヘリを操縦してきた人間が、地形を読める人間が、わざわざ最も安全でない場所に降りた。それは操縦の下手さではない。

 

――こっちが撃とうと思えば撃てる場所にわざと降りたんだ。

 

ホシノは長く息を吐いた。

 

「……ねえ、ウェッブさん」

 

「なんだ」

 

「さっきヘルメット団を一人も撃たなかったよね」

 

ウェッブの眉がミリ単位で動いた。この娘はあの砂煙の中から負傷者数を読み取っていたのだ。

 

「見ていたのか」

 

「ずっと戦ってると分かるようになるんだよ。……なんで撃たなかったの?」

 

「必要がなかった」

 

「でもあの子たちは何度も来るよ。今日も三回目だった。撃っておいたほうが楽じゃない?」

 

「あれは雇われだ」

 

ウェッブは静かに言った。

 

「雇い主は今日ここにいない。末端を五十八人潰しても雇い主の帳簿からは五十八人分の人件費が消えるだけだ。……来週には六十人に増えて戻ってくる」

 

ホシノの目が細くなった。

 

「……雇い主がいるって決まってるの?」

 

「決まっていない。だが装具が新しすぎた」

 

「……」

 

「五十八人分の装備が同一ロットだ。同じ日に、同じ場所から、同じ人間が発注している」

 

八メートルの砂の上で二人はしばらく黙って向かい合っていた。

 

やがてホシノはショットガンをぐるりと回して肩に担いだ。

 

戦闘姿勢の完全な放棄。この二年間で彼女が知らない大人の前でその動作をしたのは初めてだった。

 

「――シロコちゃーん」

 

彼女は振り返って間延びした声で叫んだ。

 

「セリカちゃーん。ノノミちゃーん。アヤネちゃーん」

 

四つの頭がバリケードから恐る恐る覗く。

 

「荷下ろし手伝って。千三百キロだって」

 

「せ、先輩!? いいんですか!?」

 

「うん。……この人たぶん詐欺師じゃないよ」

 

「たぶんって何ですかたぶんって!!」

 

セリカの絶叫が校庭に響き渡り、それから五人分の足音が砂を蹴って走り出した。

 

ウェッブはようやく両手を下ろした。

 

指がわずかに震えていることに彼だけが気づいていた。

 

十分後。

 

段ボールを抱えたセリカが水のボトルを一本抜き取って一気に半分飲み干し、それから「し、塩分! 経口補水塩ってどれ!?」と叫んだ。ノノミが弾薬箱の中の七・六二ミリリンク弾を見つけて「あらあら、この子の分まで……」と目を潤ませた。シロコが弾薬箱の刻印を舐めるように読んで「ん、……ロットが新しい。去年の製造だ」と幸福そうに呟いた。アヤネが在庫台帳を新しいページから書き起こし始めた。

 

そしてホシノはレトルトのカレーの箱を抱えたまま、一人で機体の側面を見ていた。

 

翼にぶら下がったロケット弾ポッド。十九本の発射管のうち空になっているのは一本だけだった。

 

――十八本残ってる。

 

――この人はそれを使わなかった。

 

---

 

六.九億六千二百三十五万円

 

一五四〇時。旧学園祭事務局――現・アビドス廃校対策委員会室。

 

砂を掃き出したばかりの床。壁一面のホワイトボード。年季の入ったソファ。よく手入れされた小さな流し台。そして部屋の隅に積み上げられた大量の骨董品らしき壺と皿。

 

ウェッブは勧められたソファに浅く腰掛け、部屋を〇・四秒で走査した。

 

――出口二。窓一。ドアは外開き。壁は木造。防弾性能なし。天井の梁は古いが健全。ソファの背後に射線が通る位置が一箇所。

 

――それと壁のカレンダー。四十一日前の日付に赤い丸。

 

ノノミが紅茶を淹れた。カップとソーサーがあまりに高級品で、この部屋の他のすべてと調和していなかった。

 

「先生、砂糖はいくつにしましょうか?」

 

「そのままでいい」

 

「あら。じゃあこちらのクッキーもどうぞ。ノノミの実家から届いたものなんですよ」

 

「……悪いな」

 

「ちょっとノノミ先輩! なんでいきなり歓待モードなの!?」セリカが噛みついた。「まだ何にも分かってないんだからね! この人うちに何か売りつけに来たのかもしれないじゃない!」

 

「セリカちゃん、この方は千三百キロくださいましたよ」

 

「そ、それはそうだけど! でもでもこういうのって最初はタダで、後から」

 

「セリカちゃん」

 

アヤネが遮った。彼女はホワイトボードの前に立ちマーカーを握っていた。

 

「私が呼びました。責任は私にあります。……だからまず説明させてください」

 

彼女はマーカーのキャップを外した。

 

「――アビドス高等学校の現状についてご説明します」

 

そこから三十分、奥空アヤネは一人で喋り続けた。

 

彼女の説明は正確で簡潔で、そして無慈悲なほど誠実だった。

 

砂漠化の開始時期。年間の砂の流入量。除砂に投入された累計予算。それでも止まらなかった進行。生徒数の推移――三千二百名、千八百名、六百名、九十四名、十一名、五名。

 

そして債務。

 

彼女はホワイトボードに数字を書いた。

 

『九億六二三五万円』

 

「元本と累積利息の合計です。現在の返済ペース――月々の利息分七百八十八万円を支払い続けた場合、完済までの試算期間は三百二年です」

 

マーカーが次の行に移る。

 

「なお、この七百八十八万円はノノミさんのご実家からのご厚意と、セリカさんの掛け持ちのアルバイトと、私たちの部費の全額を合わせてようやく届いている金額です」

 

「ちょ、ちょっとアヤネ! バイトのことは言わないでって――」

 

「言います。全部言います」

 

アヤネは振り返らずに続けた。眼鏡の奥の目がホワイトボードの数字だけを見ている。

 

「土地について。アビドス自治区の土地の約八十七パーセントはすでにカイザーコンストラクション社の所有です。本館周辺と校庭を含むこの区画だけが辛うじて学園の名義で残っています」

 

「……」

 

「そしてヘルメット団による襲撃です。記録を取り始めてから今日で通算百四十七回目でした」

 

「ん、提案がある」

 

それまで壁際で黙って弾薬箱の刻印を眺めていたシロコが、真顔で手を挙げた。

 

「銀行を襲えばいい」

 

「シロコさん!?」

 

「九億六千二百三十五万円。闇市場のステギアン銀行の地下金庫にはその十倍がある。目出し帽は五人分ある。フォーメーションはBで――」

 

「却下です! ダメなものはダメです!」アヤネがマーカーを振り回した。「常識を大切にする対策委員会です! 先生の前でいきなり何を言い出すんですかあなたは!」

 

「またそれ言ってる……」セリカが頭を抱えた。

 

ウェッブはその提案を三秒間真剣に検討した。

 

「――却下だ」

 

「そこは同意してくださるんですね!?」

 

「ただし計画としては筋が悪くない」

 

「そこは同意しないでください!!」

 

ウェッブは表情を変えずに続けた。

 

「実行可能性の問題じゃない。目的の問題だ。……九億六千万円を今日手に入れたとして、明日この学校の土地は誰のものだ」

 

シロコの獣耳がぴくりと止まった。

 

「……カイザーの、まま」

 

「そうだ。金は問題の症状であって原因じゃない。原因を潰さない限りいくら奪っても同じ穴に落ちる。……それともう一つ」

 

彼は初めてその二年生の目を正面から見た。

 

「一度でも越えた線は二度目から線に見えなくなる。俺はそれを知っている」

 

シロコはしばらく彼を見返していた。

 

それからこくりと頷いた。

 

「ん、……分かった」

 

「ええっ!? シロコが一発で引き下がった!?」セリカが素っ頓狂な声を上げた。「アヤネが三十分説得しても無理だったのに!」

 

「筋が通ってるから」

 

シロコは淡々と答えた。

 

「アヤネはいつも『ダメだから』としか言わない」

 

「わ、私の説明が悪いみたいに言わないでください!」

 

ホシノはソファの向かいでその一部始終を黙って眺めていた。

 

――ダメだからじゃなくて、なんでダメなのかを言ったんだ。

 

――しかもあの子が納得する理由を選んで。

 

彼女の中で目盛りが一つ動いた。

 

ウェッブはそこで初めて姿勢を変えた。

 

「アヤネ。さっき襲撃は通算百四十七回と言ったな」

 

「え? あ、はい」

 

「なぜ数えている」

 

「……なぜと言われても」アヤネは戸惑ったように眼鏡を押し上げた。「数えないと何が起きているのか分からないので」

 

「記録はあるのか」

 

「あります」

 

アヤネは棚から分厚いバインダーを三冊引き抜いてテーブルの上に積んだ。

 

「日時、天候、方位、推定人数、車両の有無、使用火器、交戦時間、こちらの消費弾数、被害状況。全部つけています。……意味があるのかは分かりませんけど」

 

ウェッブは一冊目を開いた。

 

そこから彼は七分間一言も喋らなかった。

 

ページをめくる速度は最初の一分で異常なものになった。彼は文章を読んでいなかった。表の右端の三列――日付、推定人数、火器の型式――だけを縦に走査していた。

 

四人の視線が彼の手元に集まっていく。

 

「……あの、先生?」

 

やがて彼は一冊目を閉じ、二冊目を開き、三十秒でそれも閉じた。

 

そして口の中で数字を確かめるように呟いた。

 

「……三日から五日」

 

「え?」

 

「アヤネ。返済日はいつだ」

 

「へ? あ、はい、毎月二十五日です。翌月分の利息を二十五日に」

 

「二十五日に払っている」

 

「はい」

 

ウェッブはバインダーの背表紙を指で叩いた。

 

「襲撃の発生日を月別に並べると二十八日から三十日に集中している。過去十二ヶ月でそのパターンの外にある襲撃は三回だけだ」

 

部屋が静かになった。

 

「……え?」

 

セリカが間の抜けた声を出した。

 

「え、ちょ、待って。それって……」

 

「それと装備の更新履歴だ」

 

ウェッブはページを開いて示した。アヤネが二年間書き続けた几帳面な筆跡の欄。

 

「君の記録では彼女たちの火器の型式が四回、階段状に更新されている。四月、八月、十一月、そして先月。更新のたびに旧式が完全に消えて新型に統一されている。……不良集団の装備は普通そうはならない。少しずついい銃が混ざるだけだ。全員分が一斉に入れ替わるのは」

 

彼は言葉を切った。

 

「――発注だ」

 

沈黙が落ちた。

 

シロコが静かに言った。

 

「ん、……誰かがお金を出してる」

 

「決まったわけじゃない」

 

ウェッブは即座に打ち消した。

 

「相関があるだけだ。因果じゃない。この記録から言えるのは『月末に襲撃が増える』と『装備が一括更新されている』の二点だけで、それを結ぶ線はまだ物証がない」

 

「でも先生、それって明らかに――」

 

「明らかに見えるものを証拠と呼ぶ習慣は捨てたほうがいい」

 

低い声だった。

 

「明らかに見えるものを根拠に動いた人間が、これまでどれだけ死んだかを俺は知っている」

 

四人が黙った。

 

ホシノだけがソファの向かい側で足を組んだまま彼を見ていた。

 

――この人まだ何か言ってない。

 

彼女は確信していた。この男は五十八人の装備が同一ロットであることに校庭で気づいていた。三十分前に。そして今、三冊のバインダーから月末という周期を抽出した。その二つを繋げれば答えは中学生でも出せる。

 

出せるのに言わない。

 

――なんで。

 

理由はしばらくして彼女自身の中で組み上がった。

 

もしこの男が今ここで「カイザーの仕業だ」と言えばどうなるか。

 

セリカは激怒する。シロコは襲撃計画を立て始める。ノノミは実家に連絡を取ろうとする。アヤネは証拠を探しに行く。そして自分は――間違いなく明日の朝には一人でカイザーの事務所へ向かうだろう。

 

五人の生徒が民間軍事会社を保有する超巨大企業に単騎で殴り込む。

 

――ああ。

 

――この人はうちらに標的をあげないようにしてるんだ。

 

ウェッブはバインダーを閉じ、三冊を几帳面に重ね直した。

 

「アヤネ。二つ頼みがある」

 

「は、はい」

 

「一つ。返済は現金か、振込か」

 

「……現金です。毎月二十五日に現金輸送車が学校の前まで来ます。こちらで用意した現金をその場で引き渡して受領書をもらいます」

 

「受領書は保管しているか」

 

「二十四ヶ月分全部あります」

 

ウェッブはほんのわずかに頷いた。それは他の四人には見えなかったがホシノには見えた。この男が今何かを掴んだという事実だけが見えた。

 

「二つ目。この三冊と受領書を俺に三日間貸してくれ」

 

「か、構いませんけど……それで何が」

 

「分からない。だから読む」

 

彼は立ち上がった。

 

「今日から三日、ここに泊まる。空いている教室を一つ貸してくれ。それとこの自治区の地図で一番古いものを出してくれ。砂漠化する前のものだ」

 

「あの」

 

セリカがまだ警戒を解かないまま、しかし小さな声で聞いた。

 

「……あんた、なんで来たのよ」

 

ウェッブは足を止めた。

 

彼はしばらくこの一年生の顔を見ていた。真っ赤な目。強がった声。二年間、複数のアルバイトを掛け持ちして学校の利息を払ってきた十五歳の顔。

 

「四十一日遅れた」

 

彼は言った。

 

「それだけだ」

 

セリカは何かを言い返そうとして口を開いて、閉じた。

 

書籍俯いて「……別に責めてないし」と小さく呟いた。

 

---

 

七.二三四〇時、旧一年三組

 

砂はいくら掃いても戻ってくる。

 

ウェッブがあてがわれたのは二階の西端にある旧一年三組の教室だった。机は二十二脚残っていて、そのうち十四脚は脚が折れて隅に積んである。窓ガラスは半分割れていてベニヤ板が打ち付けてある。教壇の教卓だけがなぜか妙にしっかりしていた。

 

床の隅には砂が三センチほど溜まっている。

 

ウェッブは教卓の上に業務用のタフブックを開き、その光だけを頼りに作業していた。天井の蛍光灯は点けていない。灯りは位置を教える。

 

画面には彼が四時間かけて組み上げた文書があった。

 

『アビドス自治区――状況評価および行動方針案(草案)』

 

一.問題の定義

 

彼は二度書き直した最初の段落をもう一度読み返した。

 

『本件における敵は襲撃者ではない。

 

襲撃は症状である。原因は債務契約とその履行構造にある。

 

したがって防衛の完成は問題の解決を意味しない。防衛が完成した場合、敵は襲撃を中止し、債務の履行のみで目的を達成する。所要期間は約三百年、あるいは現在の生徒五名が卒業するまでの三年。どちらか早いほう。』

 

二.行動方針案

 

『COA1:防衛の非対称化。

 

現状、当校の防衛は個人の戦闘能力に完全依存している。特に三年生一名が単一障害点として機能しており、彼女が不在または無力化された場合、防衛は即座に崩壊する。

 

対策:陣地の構築、火力の再配置、通信の統制、および射撃技術の標準化。所要期間十四日。効果:襲撃一回あたりの敵側損耗コストを上昇させ、襲撃を経済的に不合理にする。

 

留意:これは時間を買う措置であり勝利ではない。』

 

『COA2:資金供与。

 

シャーレ特別予算から債務を一括返済する。所要時間一日。

 

――却下。

 

理由:債務の返済は債務の消滅であって土地所有権の回復ではない。既に八十七パーセントが移転済み。返済後もこの学校は他人の土地の上に建ち続ける。

 

第二の理由:この五名は二年間自力で利息を払い続けてきた。それを外部から一日で消すことは彼女たちの二年間を無価値にする行為である。金は問題を解決するが人間を壊すことがある。』

 

『COA3:契約の攻撃。

 

真の目標は契約書である。

 

高利貸しは違法ではない。だが貸し手が借り手を襲撃させ、その襲撃によって借り手の返済能力を毀損し、担保の差し押さえを早めているのであれば、それは融資ではない。

 

――そこまでは推測だ。

 

必要なもの:資金の流れ。現金輸送のログ。受領書の連番。二十四ヶ月分。』

 

ウェッブはそこでキーを止めた。

 

彼はこの草案のまだ書いていない四行目を頭の中で書いていた。

 

『四.最大のリスク

 

対策委員会の五名に上記推測を現時点で共有した場合、彼女たちは行動する。

 

行動を止める手段は現時点で存在しない。

 

したがって共有は物証の獲得後とする。』

 

――これは嘘か。

 

彼は自問した。

 

黙っていることは嘘か。

 

四十一日間、俺の机の上で誰かが黙っていた。あれは嘘だったのか、それとも判断だったのか。

 

答えは出なかった。答えが出ないまま行動しなければならないという状態に、彼は二十年前から慣れていた。慣れているという事実そのものが彼の最も古い傷だった。

 

不意に砂の匂いが鼻の奥で膨らんだ。

 

――砂。

 

――熱。

 

――暗視装置の緑色の視界。

 

――少年兵の。

 

ウェッブは目を閉じ、四秒で吸い、四秒止め、四秒で吐いた。

 

三回。

 

匂いは砂の匂いに戻った。ここは砂漠だ。夜の教室だ。窓の外には星が出ている。

 

彼が目を開けた、そのときだった。

 

窓の外の音が消えた。

 

砂漠にも虫はいる。夜になると乾いた瓦礫の隙間で規則的な摩擦音を立てる小さな生き物が。この教室の窓の下では二二一〇時から今までその音が途切れずに続いていた。

 

それが消えた。

 

同時にウェッブの首の後ろの産毛が立った。

 

――気配。

 

彼はこの単語を信用していない。感覚ではなく情報の統合の結果に過ぎないからだ。

 

だが今回は統合すべき情報が少なすぎた。

 

――音がない。廊下の砂を踏む音がない。あの砂は三センチある。三センチの砂の上を音を立てずに歩ける人間は存在しない。

 

――だが空気の圧が変わった。〇・二秒前。廊下の南端のドアが開いた。この校舎の廊下は南北に一直線で、南のドアが開くとこの教室の割れた窓との間に微弱な気流が発生する。

 

――重量。推定四十キロ前後。だが移動速度はその体重の人間が音を立てずに出せる速度ではない。

 

――距離、十二メートル。接近中。

 

ウェッブの右手がジャケットの内側へ滑った。

 

G19 Gen5。昼間はコクピットに置いてきたそれを彼は日没前に回収していた。掌に馴染んだポリマーの感触。

 

そして彼の脳は〇・三秒で教室を分解した。

 

――退路:東の窓(ベニヤ板、釘四本、蹴破りに要する時間一・一秒)。北のドア(接近方向、使用不可)。天井の点検口(南東角、高さ三メートル、机二脚で到達可能)。

 

――武器:折れた机の脚(鉄パイプ、長さ六十センチ、七本)。黒板消し(無価値)。チョーク箱(粉塵、視界遮蔽、有効)。教卓(重量四十キロ、盾および楔)。カーテン(長さ二メートル、拘束および火器の作動阻害)。消火器(廊下、使用不可)。床の砂(三センチ、有効)。

 

――遮蔽:なし。教卓は隠蔽物であって遮蔽物ではない。木材は九ミリを止めない。

 

――そして脅威評価。

 

彼は昼間、この学校の三年生が校庭を歩く姿を見ていた。歩幅、重心の移動、足首の使い方。あれは百四十五センチの少女の歩き方ではなかった。あれは自重の五倍を支えられる関節の歩き方だった。

 

――正面からの制圧は不可能。

 

彼はタフブックの画面を閉じなかった。

 

わざと開けたまま教卓の上に置いた。

 

そして音もなく東の窓へ移動した。

 

---

 

八.九ミリの説得

 

小鳥遊ホシノは廊下の砂を踏まずに歩いていた。

 

砂の上ではなく床板の継ぎ目の上を。この校舎の板の位置は二年間の巡回で全部覚えている。どこが鳴いてどこが黙るか。

 

胸の中で彼女は自分の行動を三度弁明していた。

 

――確かめるだけだよ。

 

――何もしないよ。ちょっと寝顔を見に行くだけ。

 

――……嘘だ。

 

彼女は右手にショットガンを提げていた。安全装置は解除済み。

 

昼間、あの男は正しかった。丸腰で降りてきて荷物を全部置いて押し付けず、標的を渡さず後輩たちの前で一度も声を荒げなかった。

 

正しすぎた。

 

二年前の三人のスーツの男たちも正しかった。

 

――昼間に見せる顔なんて誰でも作れる。

 

――本物が出てくるのは夜だよ。

 

だから彼女は確かめに来た。深夜、誰も見ていない時間にこの学校の中であの男が何をしているのかを。

 

もし。

 

もしあの男が後輩たちの部屋の前に立っていたら。

 

もし通信機で誰かに座標を送っていたら。

 

もし――

 

ホシノは旧一年三組の前で止まった。

 

ドアの隙間から青白い光が漏れている。

 

彼女は息を殺しゆっくりとドアを引いた。

 

教室の中は無人だった。

 

教卓の上でタフブックの画面が点灯している。文字が並んでいる。ついさっきまで誰かがそこに座っていた証拠が光になって浮かんでいる。

 

椅子がまだ引き出されたままだ。

 

――いない。

 

ホシノの背筋を冷たいものが走った。

 

彼女は今まで数え切れないほどの戦闘をしてきた。ヘルメット団、便利屋、カイザーの傭兵、無人兵器。相手がどこにいるか分からないことは何度もあった。

 

だが「さっきまでそこにいた人間が今そこにいない」という状況は初めてだった。

 

彼女はショットガンを両手で構え直した。

 

肩付け。銃口を下げ気味に。ゆっくりと教室を左から右へ。

 

――机の下。いない。

 

――教壇の裏。いない。

 

――ロッカー。扉が開いている。空。

 

――窓。ベニヤ板。……割れていない。

 

――天井。

 

彼女が顎を上げようとした、その〇・四秒前。

 

背後の東の窓のベニヤ板が内側へ倒れた。

 

音はほとんどしなかった。ウェッブは四本の釘のうち三本を外側から指で抜いていたからだ。

 

そして彼は外壁の幅十五センチの雨樋受けの上に一分四十秒立ち続けた男の速度で教室の中へ滑り込んだ。

 

ホシノが振り返るより早く、彼の左腕が彼女の首の前を通り、右腕が後頭部を押さえた。

 

裸絞(リア・ネイキッド・チョーク)。

 

正しく極まれば六秒で意識を奪う。

 

――〇・八秒で外された。

 

ホシノは首を絞められた瞬間抵抗せず、逆に膝を折った。そして落下する自重を使って上体を前方へ叩き落とした。

 

ウェッブの身体が宙を舞った。

 

百四十五センチの少女が七十八キロの成人男性を、投げたのではなく振り落とした。

 

――なんて力だ。

 

彼は空中で身体を丸めて受け身を取り、着地の瞬間に横へ転がった。〇・二秒後、彼がいた床板にショットガンの銃床が叩きつけられて木片が飛び散った。

 

――正解だ。彼女は撃たなかった。

 

――殺す気がない。だが手加減もしていない。

 

ウェッブは立ち上がりながら右足で床の机の脚を蹴り上げた。

 

鉄パイプが宙に舞う。彼はそれを掴まず掌で叩いた。回転した六十センチの鉄がホシノの脛を横から打つ。

 

「――っ」

 

痛くはない。だが「打たれた」という情報はどんな身体にも一瞬の入力として届く。

 

その一瞬でウェッブは距離をゼロにしていた。

 

ホシノがショットガンを振り上げる。ウェッブは避けなかった。彼は銃身の側面に自分の前腕を当て、押し返さず軌道に沿って添えた。振り上げの力がそのまま天井へ流れ、ショットガンの銃口が天井を向く。

 

そして彼の左手がカーテンの裾を掴んでいた。

 

一巻き。二巻き。

 

排莢口とレシーバーの上に褪せた布が絡みついた。

 

「――え」

 

ホシノが引き金を引いた。

 

撃鉄は落ちた。だが二発目の排莢が噛み込んだ布に阻まれた。

 

ショットガンが鉄の棒になった。

 

「そんな……っ」

 

彼女は瞬時に切り替えた。左手がボディアーマーの前面へ走る。マグネット式のホルスターに収まった拳銃。抜けばこの距離でも――

 

抜けなかった。

 

ウェッブの右手が彼女の手首ではなくホルスターそのものを上から押さえていた。掌の付け根が撃鉄の位置に食い込み、親指が抜き出しの軌道を塞いでいる。

 

――近すぎる。

 

ホシノは初めてこの状況の意味を理解した。

 

この距離では彼女の側の武器は全部使えない。ショットガンも拳銃も盾も彼女の膂力すらも。振り回すためのスペースがない。

 

そして相手はこの距離を維持するためだけに全部を組み立てている。

 

――近づかれた瞬間に負けてた。

 

「……っ、この!」

 

彼女は距離を取ろうとした。

 

正しい判断だった。彼女の間合いは中距離だ。三メートル取ればこの男に勝ち目はない。

 

彼女は左掌でウェッブの胸を突き飛ばした。

 

七十八キロが床を滑って三メートル半後退した。

 

――取った。

 

ホシノがカーテンを引き剥がそうと視線を落とした、その〇・六秒。

 

顔を上げたとき目の前にあったのは銃口だった。

 

ウェッブは滑りながらすでに抜いていた。

 

G19を胸の前に引きつけ、銃をわずかに内側へ傾け両肘を折り畳んだ姿勢。銃口と身体の距離が異常に近い。奪われないための構え。狭い室内で至近距離の相手に絶対に武器を取られないための構え。

 

センター・アクシス・リロック(CARシステム)。

 

「――失礼する」

 

四発。

 

九ミリパラベラム弾が一・五メートルの距離から小鳥遊ホシノのみぞおちに叩き込まれた。

 

痛みはなかった。

 

彼女の頭上に浮かぶ光輪が微かに明滅し、弾丸は彼女の身体を傷つけることなく減衰した。それはこの街の生徒にとってあまりにも当たり前の物理法則だった。銃弾は生徒を殺さない。

 

だが。

 

運動量は消えなかった。

 

一発あたり四百ジュールを超えるエネルギーが四回連続で彼女の横隔膜の直上を殴った。

 

「――かはっ」

 

肺の中の空気が意思と無関係に全部押し出された。

 

腹腔神経叢が痙攣した。横隔膜が硬直した。吸えない。吐けない。

 

小鳥遊ホシノの膝が生まれて初めて彼女の許可なく折れた。

 

――なに、これ。

 

――息が、できな……

 

視界が白く点滅した。彼女は倒れまいと片足を踏み出し、そしてそこへウェッブの体当たりが入った。

 

肩から。全体重を乗せて。

 

二人は床に転がった。

 

ホシノの手からショットガンが離れた瞬間、その一秒後にはウェッブの手の中にあった。

 

そして。

 

カチ、カチン、カシャ。

 

先台が前へ滑る。バレルナットが回る。マガジンチューブのキャップが外れる。ボルトが抜ける。トリガーグループのピンが二本、指先で押し出される。

 

四秒だった。

 

『ホルスの目』は七つの部品になって砂の上に散らばった。

 

教室が静かになった。

 

ホシノは仰向けのまま天井を見ていた。息はまだ半分しか戻っていない。腹の中央が痺れたように熱い。

 

十センチ横に彼女の銃だったものの部品が転がっている。バネが一本ゆっくりと回って止まった。

 

そして視界に男の顔が入った。

 

ウェッブは彼女の上に乗ってはいなかった。半歩離れた床に片膝をつき、彼女の顔と部品の山とドアを同時に視界に収める位置に座っていた。息はほとんど乱れていない。

 

彼は右手を差し出していた。

 

「――立てるか」

 

---

 

九.先生

 

ホシノは差し出された手を見ていた。

 

それから笑った。

 

「……あははっ」

 

笑うと腹が痛んだので、彼女は途中で咳き込んだ。それでも笑った。

 

「……い、痛くなかったよ」

 

「知っている」

 

「うん、知ってるよね。知ってて撃ったんだよね」

 

「四ヶ月かけて確認した」

 

ウェッブは静かに言った。

 

「この街に来て最初にやったことだ。ヘイローが弾丸をどう処理するのか。運動エネルギーがどこへ行くのか。確認するまで俺はこの街で一度も引き金を引かなかった」

 

「……ふーん」

 

ホシノは天井を見上げたまま呟いた。

 

「じゃあ、もし確認できてなかったら?」

 

「今日は投げられて終わりだった」

 

「……あはは。それけっこう格好悪いね」

 

「そうだな」

 

彼女は右手を上げた。ウェッブの手を掴む。

 

引き起こされる。百四十五センチの身体が驚くほど簡単に持ち上がった。彼が力を使ったのではない。角度を使ったのだと彼女は気づいた。この人は全部そうだ。力ではなく角度で世界を動かしている。

 

ホシノは床に座り込んだまま腹をさすった。

 

「ねえ、ウェッブさん」

 

「なんだ」

 

「今の、殺す気なかったよね」

 

「なかった」

 

「なんで分かるかっていうとね」

 

彼女は散らばった部品を指差した。

 

「壊さなかったから」

 

七つの部品。すべて無傷だった。バレルにもボルトにも傷一つない。この男は彼女の銃を破壊したのではなく分解しただけだった。組み立て直せば明日にはまた撃てる。

 

「壊すつもりならバレルを曲げるか撃針を折るよね。おじさんならそうする」

 

「……」

 

「あなたは私を止めようとしてた。壊そうとはしてなかった」

 

ウェッブは答えなかった。

 

代わりに彼は床に落ちていたバネを拾い、部品の列に並べ直した。分解した順番の逆順に。組み立てやすいように。

 

その手つきを見てホシノの胸の奥で二年間ずっと閉じていた何かが、かちりと音を立てた。

 

「……ずるいなあ」

 

「何がだ」

 

「なんでもない」

 

彼女は膝を抱えた。

 

「ねえ。おじさん、あなたに聞きたいことがあったんだ」

 

「聞け」

 

「もし私が本気であなたを殺しに来てたらどうしてた?」

 

「同じことをした」

 

「勝てた?」

 

「勝つ必要はない」

 

ウェッブは部品を並べ終え、顔を上げた。

 

「生き残ればいい。負けなければ次がある」

 

ホシノはしばらくその言葉を口の中で転がしていた。

 

そして――ゆっくりと笑みが消えた。

 

「……ねえ」

 

彼女の声から間延びした調子が抜けた。

 

「なんでこの学校に来たの」

 

「四十一日遅れたからだ」

 

「そうじゃなくて」

 

彼女は真っ直ぐに彼を見た。

 

そこにいたのは「おじさん」ではなかった。二年間、五人分の命の重さを一人で持ち上げ続けてきた三年生の少女だった。

 

「私はね、この二年間ずっと計算してたんだ」

 

「……」

 

「あと何回私が耐えられるか。あと何ヶ月この身体が保つか。私が倒れた日にシロコちゃんとノノミちゃんとセリカちゃんとアヤネちゃんがどこまで逃げられるか」

 

彼女は自分の掌を見た。

 

「答えはね、いつも同じなの。『私が倒れたら終わり』」

 

砂が風で窓の外を流れる音がした。

 

「今日ね、あなたが降りてきたとき私、最初に何を考えたと思う?」

 

「言え」

 

「『こいつが敵だったら明日みんな死ぬな』って」

 

彼女は笑った。今度は自嘲だった。

 

「二番目に考えたのが『こいつが味方だったら私、休めるかも』。……最低でしょ。後輩たちが必死に戦ってる隣で、委員長が最初に考えたのが自分が休めるかどうかなんだよ」

 

ウェッブは何も言わなかった。

 

彼はただ、この少女の言っていることを正確に理解していた。

 

――単一障害点(シングル・ポイント・オブ・フェイラー)。

 

ゲヘナの風紀委員長もトリニティの正義実現委員会委員長も、同じ構造の中で同じ形に磨り減っていた。だが彼女たちには数百人の組織があり、副官がいて、予算があった。

 

この少女には四人しかいない。

 

そして四人とも彼女より年下だ。

 

「だから確かめに来たんだよ」

 

ホシノは言った。

 

「昼間のあなたは完璧だった。完璧すぎた。だから夜に来た。夜のあなたが本物かどうかを見に来た。……もし部屋で誰かに連絡してたら、寝てる後輩の部屋の前に立ってたら、そのときは撃つつもりだった」

 

「そうか」

 

「怒らないの?」

 

「正しい手順だ」

 

ウェッブは即答した。

 

「昼の顔で人を判断するのは素人だ。俺なら同じことをする。……というより俺は毎朝それをしている。コンビニの棚の商品が一列違うだけで俺は逃走経路を三本考える」

 

「……なにそれ。しんどそう」

 

「しんどい」

 

「あははっ」

 

ホシノは声を上げて笑い、それからまた咳き込んだ。

 

そして笑いが収まった後の静かな声で言った。

 

「――ねえ」

 

「なんだ」

 

「今日あなたが撃った四発ね」

 

彼女は自分のみぞおちをそっと押さえた。

 

「痛くなかった。傷もついてない。でも立てなかった」

 

「……」

 

「私、立てなくなったの二年ぶりなんだ」

 

ウェッブは彼女を見た。

 

「あのね。私が立てないってことは私より強い人がいるってことでしょ」

 

ホシノは顔を上げた。

 

砂だらけの教室で、タフブックの青白い光に照らされて、その顔は――ひどく子供っぽく笑っていた。

 

「悔しくないんだ。全然」

 

彼女は言った。

 

「安心したの。すっごく」

 

彼女は膝の上で両手を組んだ。

 

「あなたにならさ、この学校任せてもいい?」

 

ウェッブは長いこと答えなかった。

 

彼はこの手の依頼をこれまでの人生で三度受けたことがある。一度は国家から。一度は組織から。一度は死にゆく友人から。三度とも彼は引き受け、三度とも誰かが死んだ。

 

彼は自分がその三度から何を学んだのかを正確には言葉にできていなかった。

 

だが。

 

砂の上に散らばった七つの部品と、みぞおちを押さえて笑っている少女と、その少女が二年間一人で数えていた「あと何回」という数字を前にして、彼の口から出た言葉は彼自身が驚くほど短かった。

 

「――任されよう」

 

「軽いなあ」

 

「重くすると断りたくなる」

 

「あははっ。それすごく分かる」

 

ホシノは立ち上がった。腹をさすりながら少しよろけた。ウェッブが手を出しかけたが彼女は自分で立った。

 

そして床の部品を一つずつ拾い集めながら、背中越しに言った。

 

「明日からうちの後輩たちが世話になります」

 

「ああ」

 

「――先生」

 

ウェッブの動きが止まった。

 

この街に来てから彼はもう数え切れないほどその言葉で呼ばれてきた。ゲヘナの風紀委員長もトリニティの副委員長もミレニアムの会計も矯正局から連れ出した四人も、みんな彼を「先生」と呼ぶ。それはこの街の慣用句で、職名で、記号だった。

 

だが今のは違った。

 

これは呼びかけではなかった。

 

これは引き渡しだった。二年間一人の少女が一睡もせずに抱えていた荷物の受領のサインだった。

 

ウェッブはしばらく言葉を探した。

 

見つからなかったので彼は代わりにいつもの声で言った。

 

「――〇六〇〇時」

 

「え?」

 

「明日〇六〇〇時。全員、校庭に集合させろ」

 

「ええー、朝早いよ。おじさん朝弱いんだけど」

 

「〇六〇〇時だ」

 

「……何するの?」

 

「射撃を教える」

 

ウェッブは教卓の上のタフブックを閉じた。

 

「君たち五人の射撃記録を昼間に一通り見せてもらった。命中率は悪くない。だが五人とも撃ち方が違う。姿勢も呼吸もリロードの手順も弾倉の入れ方すら全員バラバラだ。それは君たちが独学でここまで来たという意味で誇っていい」

 

「……なんか褒められてる気がしない」

 

「褒めている。だが明日から全部揃える」

 

「なんで?」

 

「弾倉が共有できないからだ」

 

彼は簡潔に言った。

 

「五人が同じ手順で同じ場所に弾倉を挿していれば、倒れた仲間のポーチから弾倉を抜いて見ずに撃てる。それが百四十八回目の襲撃で誰かの命を救う」

 

ホシノは部品を抱えたまま彼を見ていた。

 

それから深く息を吐いた。

 

「……ほんとにあなたみたいな大人がいるんだね」

 

「珍しくはない」

 

「珍しいよ」

 

彼女はドアへ向かい、そして敷居のところで一度だけ振り返った。

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「今日、ありがとう」

 

「まだ何もしていない」

 

「うん。でもね」

 

彼女は笑った。

 

「今夜、私二年ぶりに見張りを立てないで寝るんだ」

 

ドアが閉まった。

 

砂を踏まない足音が廊下の南へ遠ざかっていく。

 

ウェッブは一人になった教室でしばらく動かなかった。

 

やがて彼はタフブックを開き直し、『アビドス自治区――状況評価および行動方針案(草案)』の末尾に新しい行を追加した。

 

『五.前提の修正

 

本項の作成時、筆者は当校の防衛を「一名の単一障害点に依存する構造」と評価した。

 

これは正確である。

 

だが不正確でもある。

 

正確には――一名が二年間、四名分の障害を吸収し続けてきた構造である。

 

通常、人間は途中で壊れる。

 

壊れなかった理由を筆者はまだ理解していない。理解するまでこの学校を評価対象として扱わない。』

 

彼はそこまで打って少し考え、最後の一行を消した。

 

代わりにこう打ち直した。

 

『理解するまで、ここにいる。』

 

〇四四〇時。

 

ウェッブは屋上にいた。無線機を膝に置き東の地平線を見ていた。三時間だけ眠り体内時計に従って起きた。この二十年一度も狂ったことのない習慣だ。

 

砂の海の向こうがゆっくりと灰色から金色へ変わっていく。

 

眼下の校庭には着陸したままのMH-60Mの黒いシルエット。翼には十八本のロケット弾が残っている。使われなかった十八本が朝日を受けて鈍く光っていた。

 

校舎の二階、対策委員会室の窓の中では五人分の寝息が続いている。

 

ウェッブは魔法瓶から一杯目のコーヒーを注いだ。

 

湯気が砂漠の冷えた朝の空気に白く立ち上る。

 

――百四十八回目は来る。

 

――だが次は違う場所で受ける。

 

彼はカップを持ったまま校庭の地形をもう一度眺めた。東の駐車場跡の窪み。南のフェンスの切れ目。北の砂丘の稜線。射界。死角。縦深。

 

砂漠のフルダ・ギャップだ、と彼は思った。

 

四十年間誰も来なかった丘。準備の完璧さだけが戦争を起こさせなかった丘。

 

ここには四十年はない。あるのは十四日だ。

 

彼はコーヒーを一口飲んだ。

 

不味かった。だがそれは彼が生きてこの砂の上に座っているという物理的な証明だった。

 

やがて東の空が白み、五人分のアラームが一斉に鳴る音が階下から聞こえてきた。

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