『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
陽炎に歪む地平線の向こう、アビドス高等学校の校舎は、まるで忘れ去られた要塞の残骸のように佇んでいた。かつては生徒の笑い声や足音が響いていたであろう廊下も、今は埃っぽい静けさに満ち、時折吹き込む砂がカサカサと小さな音を立てるだけだ。残された五人の生徒たちが、この場所を「学校」と呼び続けるための、か細い生活音が唯一の証拠だった。
その日の朝、奥空アヤネは通信端末を握りしめたまま、しばらく動けずにいた。対策委員会唯一の常識人であり、常にメンバーの暴走に頭を悩ませている彼女にとって、これ以上の状況悪化は耐え難いものだった。画面には、送信済みの一通のメールが表示されている。
――助けてください。
宛先は、連邦捜査部シャーレ顧問。名は、デイヴィッド・ウェッブ。
内容は簡潔だった。不良生徒の集団による連日の襲撃。弾薬の枯渇。食料の不足。そして、これ以上は自分たちだけでは持ちこたえられない、という切実な訴え。送信ボタンを押した瞬間、「大人に頼った」という事実が胸を締め付けた。アヤネの近視の眼鏡越しに、画面がぼやけて見える。
小鳥遊ホシノの顔が脳裏をよぎる。
『大人なんて、信用しちゃダメだよ』
あの気だるげな声。ホシノはいつも怠惰そうに欠欠伸を交えながら言うが、それがただの怠け心ではないことを、アヤネは知っている。ホシノは誰よりも仲間を守ることに強い責任感と執着を持っている。だからこそ、大人を嫌う。裏切られ続けた結果として。
その頃、シャーレ。
ウェッブはモニターに映し出された地図を睨んでいた。アビドス自治区。砂漠化が進行し、行政的にも半ば切り捨てられた地域。メールの文面は短いが、行間から滲み出る絶望は明らかだった。ウェッブは元米陸軍大尉であり、デルタフォースに所属していた経歴を持つ。彼の脳裏に、当時の記憶がフラッシュバックする――砂漠の作戦地で、孤立した部隊を指揮した日々。
無辜の民間人、特に子供を巻き込むことを極端に嫌う彼にとって、このSOSを無視する選択肢はなかった。即座に判断を下す。
「ブラックホークを出す。物資、弾薬、医療品。全部だ」
オペレーターの生徒が目を見開く。
「先生、一校の支援にしては大掛かりすぎませんか……?」
「現地が孤立している。それだけで理由は十分だ」
数時間後、ブラックホークは数度の給油を挟みながら、広大な砂海を越えていた。FLIRモニターに校舎が映る。周囲に点在する熱源――数十の不良生徒。軽装で即席武装。ヘルメット団だ。
だが、同情はしない。ウェッブは無線で指示を出した。
「低空侵入。屋上手前の砂地を掃射しろ」
ミニガンが砂を裂く。乾いた連続音が砂漠に響き、弾幕は校舎を避け、包囲線の〝前〟を削った。続けて、閃光弾。視界と意識を奪う光が退路を白く塗り潰す。最後に、ハイドラロケット。狙いは路肩に停められた弾薬満載の無人ピックアップ。直撃。それは〝傷つけず、心を折る〟ための一撃だった。デルタフォースの心理戦術――敵の戦意を削ぐ。
ヘルメット団は瞬時に瓦解した。蜘蛛の子を散らすように、砂漠へと消えていく。
「……着陸する」
だが、校庭に降り立った瞬間、彼らを迎えたのは銃口だった。屋上から五つ。卓越した身体能力を持つ砂狼シロコの冷静な狙撃姿勢、黒見セリカの苛立った銃口、十六夜ノノミの優しげだが鋭い視線、熟練の貫禄を漂わせる小鳥遊ホシノの気だるげだが冷徹な目。アヤネだけが慌てて手を振る。
「止まってください!」
ホシノは特有の脱力した様子で欠伸を交えながら言った。
「うへ〜……また大人?おじさん、そういうの簡単に信用できないなぁ」
視線がウェッブを射抜く。セリカがツンツンとした勢いのある口調で歯噛みする。
「くっ……誰よあんた!べ、別に撃ちたくなんかないけど、怪しいんだから仕方ないでしょ!」
シロコは無言でホシノを見た後、淡々と呟く。
「ん。敵なら、排除する」
ノノミがおっとりとした優しいトーンで少し困った顔をした。
「みんな、ちょっと待って☆きっと味方ですよ……よね?」
ウェッブは言語学・極東アジア専門の外交官としての側面も持ち、鋭い観察力で瞬時に彼女たちの性格や脅威度を分析していた。数秒の沈黙の後、彼は両手を上げる。
「撃つな。I'm here to help. 敵なら、さっき全滅させてる」
ホシノの目が細くなる。
「……アヤネちゃん、降ろしていいよ」
銃口が下がる。ウェッブは内心で思う――この子たちは、戦場を知っている。デルタの新入りたちを思い出す。
物資の積み下ろし後、ウェッブは校舎の一室で説明を受けていた。アビドスの現状。借金。カイザーローン。生徒数、五人。および退学が意味する、この都市での〝死〟。
「……だから、必死なんです」
アヤネは深く頭を下げた。ウェッブはしばらく黙っていた。
「分かった。I'll stay until this is sorted.」
ホシノが椅子にだらしなく座りながら言う。
「うへ〜、でもさ〜、先生はいつまで居てくれるの?適当に来て適当に去るような大人なら、おじさん困っちゃうな〜」
「少なくともこの問題が片付くまではいるつもりだ」
正直な答えだった。こうしてシャーレによるアビドスへの電撃的な物資支援は完了し、ウェッブはアビドス高等学園に一時的に滞在することとなった。
だが、それは本当の意味での受け入れを意味してはいなかった。
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砂漠の夜は、唐突に冷え込む。
乾いた風が窓枠を揺らし、校舎の軋む音が響いていた。
滞在初日。デイヴィッド・ウェッブは、あてがわれた仮眠室代わりの教室の硬い椅子に座っていた。
彼の脳は、覚醒した瞬間から周囲の環境を無意識に走査(スキャン)し続けている。部屋の容積、四方のコンクリート壁の厚み、唯一の出入口までの正確な歩数。さらに、教卓の上に置かれた厚さ五センチのハードカバーの言語学辞典、窓辺のアルミブラインドから垂れ下がる強靭なナイロン製のコード、そしてアヤネが忘れていったステンレス製の三十センチ定規。彼にとって、この部屋にあるすべての物体は、即座に殺傷力を持つ「デバイス」へと変換可能だった。
背後に、空気の密度の変化を感じた。足音はない。だが、衣類が擦れる微かな摩擦音。
手は懐のグロック19には伸びない。キヴォトスの生徒相手に、九ミリパラベラム弾のストッピングパワーは事実上無力だ。弾を撃ち込むよりも、物理法則に則った打撃と重心の破壊こそが有効であると、昼の観察で既に結論づけていた。
「……先生。まだ起きてる?」
教室の入り口に、小鳥遊ホシノが立っていた。
右手に対爆シールド、左手にショットガン。
「眠れないのか、ホシノ」
ウェッブはゆっくりと立ち上がり、半身の構えをとる。自然体を装いつつ、いつでも教卓の辞典を掴める距離を維持した。
「うーん、まあね。……それにさ」
ホシノのオッズアイがすっと細められ、怠惰な「おじさん」の仮面が剥ぎ取られる。仲間を守ることに異様なほど執着する彼女の、冷徹な防衛機制が牙を剥いた。
「――先生みたいな『異物』が近くにいると、背中がムズムズするんだよね。手っ取り早い方法で確認させてもらうよ。先生が本当に私たちを守れるのか。それとも……ただの『弱い大人』なのか」
言葉の終わりを待たず、ピンク色の影が爆発的な踏み込みで迫る。
瞬間、ウェッブは教卓の『言語学辞典』を右手で鷲掴みにし、前方へステップした。ホシノの巨大なシールドが風を裂いて迫る。まともに受ければ内臓が破裂する質量。ウェッブは体を極限まで沈め、シールドの突進を紙一重でかわしながら、手にした辞典の角をホシノの左手首――ショットガンを保持する関節へと正確に叩きつけた。
打撃のエネルギーを一点に集中させる。鈍い衝撃音が響き、ホシノの銃口がわずかに逸れた。
「――ッ!?」
ホシノが目を見開く。骨は折れずとも、神経を正確に圧迫された左手が強制的に弛緩する。ウェッブはその隙を逃さず、左手で窓辺のアルミブラインドのコードを掴み、引きちぎるようにしてホシノのショットガンの銃身に巻き付けた。そのまま強引に引き込み、彼女の重心を前方へと傾けさせる。
「くっ、何これ……!?」
「神秘」で強化された怪力に対し、ウェッブは力で対抗しない。彼女が強引に引き剥がそうとする力のベクトルに自身の体重を上乗せし、回転。柔道の体捌きを応用し、ホシノの小柄な身体をスチール製の机へと叩きつけた。
激しい衝突音が教室に轟く。だが、ホシノは怯まない。机を背中で粉砕しながら、右手のシールドを強引に振り回し、至近距離からの裏拳の要領でウェッブの脇腹を捉えた。
ゴハッ、とウェッブの口から息が漏れる。防弾ベストの上からでも、肋骨が悲鳴を上げるのが分かった。体格差を無視した超人的な怪力。吹き飛ばされそうになる身体を、ウェッブは強靭な精神力で踏みとどまらせた。
(Treadstone)の過酷な記憶が、痛みをトリガーにして脳の最深部からせり上がってくる。
心拍数が急激に低下し、世界が完全なスローモーションへと変わる。ウェッブの瞳から感情が完全に消失した。ジェイソン・ボーンの覚醒。
ホシノが体勢を立て直し、ショットガンを再び構え直そうとした瞬間、ボーンの右手がアヤネの机から滑り落ちた『ステンレス製の三十センチ定規』を捉えていた。
容赦のない、高速のCQC。
ボーンはホシノのショットガンのインサート(排殻口)に定規を突き立て、スライドの前進を物理的にジャミング(閉鎖不良)させた。同時に、空いた左手でホシノの顎の下を強烈な掌底で突き上げる。脳を揺らす打撃。ヘイローがあろうとも、三半規管への物理的な衝撃は防げない。
ホシノの視線がわずかに泳ぐ。すかさずボーンは彼女の右腕を巻き込み、クラヴマガの特異なフェイントから、彼女のシールドのグリップを握る指の関節を逆方向に極めた。
「あ、が……っ!?」
人間の解剖学的な弱点を突いた容赦のない関節技。激痛にホシノの指が開き、巨大な対爆シールドが床に転がって甲高い音を立てた。
だが、キヴォトスの「最強の先鋒」の本能が、彼女を狂戦士へと変える。ホシノの瞳に冷たい戦闘狂の光が宿り、武器を失った両手でボーンの胸ぐらを掴んで強引に床へと引きずり倒そうとした。まともに組み合えば、生身の肉体など容易にへし折られる。
逃げ場のない教室の隅。背後はコンクリートの壁。ホシノの拳が、ボーンの顔面めがけて振り下ろされる。
――もう、後がない。
その極限の死線において、ボーンの右手が初めて懐のグロック19へと伸びた。
引き抜き、銃身をホシノの身体に接触させるほどの至近距離でホールドする。C・A・R(Center Axis Relock)システム。狙うのは、彼女の強固なヘイローでも、防弾ベストでもない。
タン、タン、タンッ!
乾いた三連射。銃弾が放たれたのは、ホシノの右足の付け根、大腿動脈の走るわずかな隙間、そして彼女が踏み込もうとした床のコンクリートだった。
火花と弾丸の破片がホシノの足元で炸裂し、大腿部への至近弾の衝撃波が、彼女の突進のエネルギーを物理的に相殺する。どれほど頑強な肉体であっても、肉眼で捉えきれない超近接射撃による「衝撃(インパルス)」は、その進路を阻むに十分だった。
「――っ、うあッ!?」
ホシノの身体がわずかに浮き、バランスが完全に崩れる。
ボーンはその一瞬の隙を見逃さず、銃を握ったまま彼女の懐へ潜り込み、彼女の細い手首を掴んで壁へと押し付けた。同時に、グロック19の冷たい銃口が、ホシノの左の眼球の、わずか数ミリ手前で完全に固定される。
静寂。
壊れた蛍光灯が、ジジ、ジジ……と不気味な音を立てて明滅している。
砂埃が沈殿していく中、二人の呼吸音だけが響いていた。
ホシノの動きが、完全に止まった。彼女の瞳のすぐ目の前にある、黒い銃口。そして、その奥にある男の目。そこには、キヴォトスのどの大人にもなかった、徹底的な「効率」と「死」の数式だけが冷酷に走っていた。ヘイローの保護があろうとも、眼球への至近弾がもたらす致命的な結果を、彼女の本能が理解していた。
「……あはは」
数秒の沈黙の後、ホシノの口から力の抜けた笑い声が漏れた。
「参ったなぁ。……先生、やっぱり普通じゃないや」
彼女の身体から、鋭利な殺気が霧散していく。
ウェッブはゆっくりとグロック19のトリガーから指を離し、銃身を下げてホルスターへと戻した。彼が一つ、深く瞬きをすると、その瞳にジェイソン・ボーンの冷徹さは消え、再び「デイヴィッド・ウェッブ」の静かな光が戻った。
激痛が遅れて脇腹を襲う。彼は顔をしかめ、割れた教卓に手をついた。
「……手加減を知らないのか、君は」
「ごめんごめん。おじさんつい、昔の癖で熱くなっちゃってさ」
ホシノは痺れる手首をさすりながら立ち上がり、ニシシと笑った。だが、そのオッズアイは、男の底知れぬ本質を完全に見抜いていた。
「辞書で銃口を叩いて、定規で排殻口を塞ぐなんてね。……先生、ただの『イイ人』じゃない。毒を以て毒を制す、劇薬だねぇ」
ウェッブは、好戦的で暗い過去を持つ彼女に対し、一瞬で「同類」と認識し、芯の部分で静かな共感を示していた。
「アビドスへようこそ、先生。……その強さなら、背中を預けてもいいかもね」
去り際、彼女は振り返らずに手を振った。
ウェッブは崩れた壁に背を預け、長く重い息を吐いた。震える手で眼鏡をかけ直す。
この少女たちは、ただ守られるだけの存在ではない。俺の役目は飼い慣らすことじゃない。彼女たちがその牙で、自分自身を傷つけないように導くことだ。
そしてそのためには――生半可な大人の論理ではなく、彼女たちを上回る圧倒的な「戦技」と「強さ」を証明し続けなければならない。
アビドスの夜風が、破壊された窓から吹き込み、ウェッブの火照った体を冷やしていた。初日の夜にして、最悪で、最高の通過儀礼は終わった。
明日からはシロコ、セリカ、ノノミ、アヤネ、そしてホシノとの本格的な共同生活が始まる。ヘルメット団やカイザーの脅威に立ち向かうため、元デルタフォースによるアビドス対策委員会の過酷な「訓練」と、奇妙な「交流」の幕が今、上がろうとしていた。