『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
一.計画表
〇五五八時。アビドス高等学校、昇降口前。
砂狼シロコはすでに校舎の外周を二周し終えていた。首に巻いた青いマフラーの端が朝の乾いた風に細く流れている。呼吸は乱れていない。
黒見セリカは立ったまま眠っていた。正確には眠りながら立つ技術を身につけていた。ツインテールが片方だけ盛大に跳ねている。
十六夜ノノミは籐のバスケットを提げていた。中身はサンドイッチである。
奥空アヤネは十二分前から同じ位置に立ち、真新しいノートの一ページ目に日付と天候と気温を書き込んでいた。
そして〇五五九時五十秒、小鳥遊ホシノが昇降口の階段をゆっくり降りてきて四人の隣に並んだ。
「先輩、ギリギリすぎませんか!?」
「間に合ってるでしょ〜」
「間に合ってるのが一番むかつくんですよ!」
その声を開いたままの引き戸の向こうから聞いていた男がいた。
デイヴィッド・ウェッブは〇四〇〇時から起きていた。昇降口の掲示板の砂を落とし、そこに一枚の大判の紙を四隅で画鋲留めしていた。紙は昨夜対策委員会室のインクジェットプリンタでA3用紙四枚に分けて印刷し、裏からセロテープで継いだものだ。この学校にはA3より大きな紙を印刷する手段がなかった。
〇六〇〇時ちょうど。
彼は掲示板の前に立ち、砂の上を歩いてきた。
「点呼」
五人の背筋が条件反射のように伸びた。
「小鳥遊ホシノ、三年」
「……はぁい」
「砂狼シロコ、二年」
「ん、いる」
「十六夜ノノミ、二年」
「はい、おはようございます先生」
「黒見セリカ、一年」
「……ふぁ……いる、けど……」
「奥空アヤネ、一年」
「はい! 全員、揃っています!」
「五名。異状なし」
ウェッブはそれだけ言って掲示板を親指で示した。
『アビドス高等学校 廃校対策委員会 訓練計画表(第一次)』
〇五〇〇 起床・点呼
〇五一〇 個人衛生
〇五三〇 体力錬成
〇六三〇 朝食
〇七三〇 装具点検
〇八〇〇 座学
一二〇〇 昼食
一三〇〇 座学および実技
一七〇〇 夕食
一八〇〇 教官講習
二〇三〇 個人時間
二一三〇 消灯
表の余白はなかった。
四人が紙に顔を近づけ、同時に固まった。
「……せ、先生」アヤネが眼鏡を押し上げた。「あの、この『座学』というのは」
「座って学ぶ、と書く」
「い、意味は分かります! そうではなくて――一日に八時間ですか!?」
「初日は九時間だ。夜の講習を含める」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」セリカが完全に覚醒した。「なんで!? あんた、射撃を教えるって言ったじゃない! 昨日の夜、先輩に!」
「言った」
「じゃあ銃は!?」
「今日は触らない」
ウェッブは平坦に言った。
「十四日のうち最初の四日間、君たちに銃を触らせない。撃ち方を直すのは最後だ」
「はぁ!?」
「理由は二つある」
彼は指を一本立てた。
「一つ。今ここで撃ち方を直せば、次に襲撃が来たときに君たちは『半分覚えた新しい手順』と『二年間で身体に染みついた古い手順』の間で迷う。戦闘中の迷いは下手な手順よりはるかに人を殺す。だから襲撃が来る間は今のままで撃て。全部が揃ってから作り直す」
二本目。
「二つ。射撃は結果だ。原因じゃない。君たちが昨日消費した弾は六百発を超えている。命中は――」
彼は上着の内ポケットから折り畳んだ紙を出した。アヤネの記録簿から書き写した数字だ。
「――記録上、四だ」
沈黙が落ちた。
「六百二十二発撃って四人しか倒せていない。それは君たちの腕が悪いからじゃない」
「じゃあ何が悪いのよ」
「見えていないからだ」
ウェッブは校庭のほうを顎で示した。半円形の即席バリケード。砂に埋もれかけた駐車場跡の窪み。南のフェンスの切れ目。
「敵がどこにいて味方がどこにいて、次に何が起きるのか。それが五人とも見えていない。見えていない人間に的の当て方を教えても当たらない的が増えるだけだ」
彼は掲示板の隣に置いてあった段ボール箱を持ち上げ、蓋を開けた。
中には簡易製本された分厚い冊子が五冊入っていた。表紙は無地の青いカバー用紙。この学校のプリンタで刷れる一番厚い紙だった。
「支給する。名前を書け」
冊子が五人の手に渡っていく。
セリカが表紙をめくった。
『兵士のブルーブック(抄) アビドス版』
「……なにこれ」
「二百五十年前から書き継がれている新兵のための教本だ」ウェッブは答えた。「原典は五百ページを超える。君たちに必要なのは八十七ページだ。それだけ抜いて訳した」
「訳した?」アヤネが顔を上げた。「先生が、ですか?」
「四ヶ月かけた。もともと別の場所で使うために訳したものだ。今回はそこから削った」
ノノミが冊子を両手で捧げるように持って目を丸くした。
「あの、先生。これ……最初のページに冬の絵が」
「読め」
五人が黙って最初の数行に目を落とした。
『二百五十年前、ある軍隊が谷で冬を越そうとしていた。彼らは勇敢だった。大義もあった。だが軍隊ではなかった。ただの武装した市民の集まりだった。彼らは飢え、凍え、隊列の組み方も命令の伝え方も便所の掘る場所も知らなかった。訓練された正規軍と戦って負け続けていた』
「その谷の名前をヴァリー・フォージという」ウェッブが言った。「そこに一人の男が呼ばれた。彼は英語をほとんど話せなかった。彼がやったのはまず十数人を選び出して、その十数人に基本を叩き込むことだった。次にその十数人が残りの全員に同じことを教えた。彼はその手順を本に書いた。兵士たちはその本を表紙の色でこう呼んだ」
彼は冊子を指で叩いた。
「――『ブルーブック』」
セリカが自分の手の中の青い表紙を見下ろした。
「……青って」
彼女は言いかけてやめた。
砂に埋もれた校舎の壁に褪せた校章が残っている。三角形と太陽、そしてその周りを縁取るこの学校の色。
「偶然だ」ウェッブは言った。
それ以上は何も言わなかった。
「最後に一つ」
彼は五人を見渡した。
「今日からバディを組む。二人一組だ。互いの装備を点検し、互いの位置を常に把握し、互いの生存に責任を持つ。一人でどこにも行くな。便所も砂かきも見回りもだ」
「バディ……ですか」アヤネが復唱した。
「シロコとアヤネ」
「ん」「え、は、はい!」
「セリカとノノミ」
「なんで私がノノミ先輩と!? いや、その、別に嫌じゃないけど……!」
「あらあら、うれしいですね」
「五人は奇数だ」ウェッブは続けた。「余りが一人出る」
四人の視線が自然に一箇所へ集まった。
小鳥遊ホシノは掲示板の計画表をぼんやり眺めたまま、まだ何も言っていなかった。
「委員長」
「……はいはい」
「君のバディは俺だ」
ホシノの目がゆっくりとウェッブへ動いた。
「……え?」
「不服か」
「いや、そうじゃなくて……」
彼女は笑おうとして少し失敗した。
「……おじさん、バディとかいらないよ。委員長だし。みんなを見てなきゃいけないし」
「二年間、誰が君を見ていた」
風が吹いて砂が二人の間を横切った。
ホシノは答えなかった。
「規則だ」ウェッブは短く言った。「規則には従え。以上、解散。〇六三〇時に朝食。〇七三〇時に装具点検」
彼は背を向けて歩き出した。
その背中にセリカの声が飛んだ。
「ちょっと! じゃあ〇五三〇の『体力錬成』はどうすんのよ、もう過ぎてるけど!」
「今日はやらない」
「はぁ?」
ウェッブは足を止めずに答えた。
「脱水して寝不足の身体を走らせるのは訓練じゃない。傷害だ。……最初の四日は測る」
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二.三つの習慣
その日の午前、ウェッブがやったことは彼自身の分類によれば「診断」だった。
彼は五人を一人ずつ対策委員会室に呼んだ。医療用の秤と体温計と尿比重計とノートを持って。
「先生、なんか健康診断みたいですね」ノノミがおっとりと言った。
「みたいじゃなく健康診断だ」
彼は問診票を作っていた。
一日の睡眠時間。就寝時刻と起床時刻。夜間の中途覚醒回数。一日の飲水量。最後にきちんとした食事を摂った日。生理周期。過去六ヶ月の負傷歴。現在痛む場所。
五人分の回答が揃ったとき、ウェッブはノートを閉じてしばらく天井を見ていた。
――全員、慢性的な脱水。
――全員、亜鉛と鉄の不足を疑うべき所見。
――そして。
彼は睡眠時間の欄をもう一度見た。
砂狼シロコ、六時間三十分。奥空アヤネ、五時間四十五分。十六夜ノノミ、六時間。
黒見セリカ、三時間二十分。
小鳥遊ホシノ、記入なし。
〇九一〇時。
彼はまずセリカを呼び戻した。
「タイムカードを見せてくれ」
「はぁ!? な、なんでよ!」
「バイトの記録だ。給与明細でもいい」
「なんであんたにそんなの――」
「命令じゃない。頼みだ」
セリカは口をへの字にして、それから五分ほど後に輪ゴムで束ねた紙の塊を叩きつけるように置いていった。
ウェッブは十二分でそれを読み終えた。
「六つある」
「……六つ、あるけど」
「コンビニの深夜。工事現場の交通誘導。倉庫の仕分け。喫茶店の皿洗い。それと自治区の外の――これは何だ」
「……ポスティング」
「一部いくらだ」
「……三円」
彼は紙を並べ替え、シャープペンシルで余白に計算を始めた。
「工事現場。時給八百二十円。現場はここから片道二時間だ。往復四時間。交通費は自腹。四時間労働で三千二百八十円、交通費が千百二十円。差し引き二千百六十円を拘束八時間で割ると――時給二百七十円」
セリカの顔からゆっくりと色が抜けた。
「倉庫の仕分けは深夜割増がついている。これは悪くない。喫茶店も近い。……だが、この二つを入れた翌日、君は必ずコンビニの遅番に入っている。三日連続で睡眠が三時間を切っている週が過去二ヶ月で五回」
「……だから何よ」
「翌日、君は疲れている」
ウェッブは記録簿を開いた。アヤネがつけていた二年分の戦闘記録だ。
「アヤネの記録に交戦ごとの各人の消費弾数がある。君の消費弾数は前日にバイトを二本入れた日、平均の一・八倍に跳ね上がる。命中は下がる。当たらないから余計に撃つ」
「……」
「君は月に――」
彼は計算の最後の行を丸で囲んだ。
「――およそ三万二千円損をしている」
セリカの手が震え始めた。
「嘘」
「計算は残しておく。自分で検算しろ。俺が間違っているかもしれない」
「嘘だってば!」
彼女の声が裏返った。
「私、二年間ずっと……夜走って電車乗って寝ないで、それで……それで毎月七百八十八万円の一部を作って、それが……損してるって……」
「六つのうち四つが、だ」
ウェッブは静かに言った。
「倉庫と喫茶店は残せ。この二つは君の時給を正しく評価している。残りの四つを切れ。それで君の手取りは月に一万一千円減る。睡眠は一日三時間増える」
「一万一千円減ったら返済が――」
「一万一千円だ」
「一万一千円が大事なの!」
「知っている」
彼は初めて少し声を落とした。
「だから君に決めさせている。俺が四つ辞めさせることもできる。シャーレの予算で穴を埋めることもできる。だがそれをやると、君が二年間かけて自分の足で立ち続けたという事実が俺の署名一つで消える。……それはやらない」
セリカは俯いたまま紙の束を握りしめていた。
長い沈黙のあと、彼女は小さく言った。
「……三万二千円、ほんとに?」
「ほんとうだ」
「……ばか」
「そうだな」
「あんたじゃなくて! 私!」
彼女は紙束を抱えて部屋を飛び出していった。
ドアが閉まる直前、ウェッブの耳は廊下の角を曲がったあたりで彼女がしゃがみ込む音を拾っていた。
彼は追わなかった。
代わりにノートに一行書いた。
『黒見セリカ ――計算はできる。ただし自分の労働だけは計算対象から除外していた。理由は計算すると辞められなくなるからだ』
〇九四〇時。
次に彼はホシノの記入していない欄について話をした。
場所は屋上だった。彼女がそこを選んだ。
「うへ〜、朝から取り調べ?」
「睡眠時間だ」
「うーん」
ホシノは給水塔の陰に座り込み膝を抱えた。
「……おじさん、寝てるよ。昼寝も好きだし」
「昼寝は睡眠じゃない。分割された仮眠だ」
「うわ、細かい」
「二年間の夜間警戒を誰が回していた」
ホシノの指が膝の上で止まった。
「……ローテーション、組んでたよ。四人で」
「四人だな」
「うん」
「五人じゃなく」
「……」
「アヤネの記録には夜間の異状発生時刻が全部書いてある」ウェッブは言った。「過去十二ヶ月、〇二〇〇時から〇四〇〇時の間に発生した異状が三十七件。そのすべてに初動対応者として君の名前が書かれている。ローテーションの当番が誰であってもだ」
「……あの子、そんなことまで書いてるの」
「書いている。おそらく本人はそれが何を意味するのか気づいていない」
風が屋上を渡った。眼下の砂の海がゆっくりと形を変えていく。
ホシノは膝に顎を乗せたまま長いこと黙っていた。
「……起きちゃうんだよね」
やがて彼女は言った。
「音がしたら。ううん、音がしなくても。二時くらいになると勝手に目が覚める。それで屋上まで上がってぐるっと見て、誰も来てないなって確認して降りてくる。降りてきたら当番の子が寝ちゃってて」
彼女は笑った。
「起こさないんだ。かわいそうだから」
「そうか」
「怒らないの?」
「怒る理由がない」
ウェッブは屋上の縁に寄りかかった。
「同じことをしていた人間を何人か知っている。全員途中で壊れた」
「……あはは。おじさんも壊れる?」
「もう壊れている」
ホシノが顔を上げた。
「二年間、〇二〇〇時に自動的に目が覚める身体になったのなら、それはもう壊れている」ウェッブは淡々と言った。「直るかどうかは知らない。俺のは直らなかった。だが直そうとしなかったからかもしれない」
「……なんかさ」
ホシノは目を細めた。
「先生って慰めるの下手だね」
「慰めていない。所見を述べている」
「そこがいいんだけど」
彼女は立ち上がり、砂だらけのスカートを払った。
「で、どうすんの。おじさんの睡眠時間」
「今夜から夜間警戒に俺が入る。五人プラス一人で回す。君は〇時から〇六〇〇時を完全に空ける」
「〇二〇〇時に起きちゃうよ?」
「起きたら屋上に来い」
「なんで?」
「俺がいる」
ホシノはその言葉の意味を数秒かけて咀嚼した。
「……見張りを見張るの?」
「バディだ」
「……」
「規則だと言っただろう」
ホシノはしばらく彼を見て、それから両手で顔をこすった。
「……ずるいなあ、ほんと」
「何がだ」
「なんでもない」
---
四日目の朝。
ウェッブは対策委員会室のホワイトボードに五本の折れ線を引いた。
「訓練はまだ何もしていない」
彼は宣言した。
「この四日間で君たちがやったのは、水を一日三リットル飲んだこと、塩を摂ったこと、七時間寝たこと、朝と昼と夜に飯を食ったこと。それだけだ」
彼はマーカーで初日と四日目の数字を並べた。
握力。垂直跳び。二十メートル往復走。単純反応時間。
「シロコ、握力プラス四パーセント。ノノミ、プラス六パーセント。セリカ、プラス十一パーセント。ホシノ、プラス二パーセント」
そしてマーカーが最後の行に移った。
「アヤネ、プラス十九パーセント」
「え」
アヤネが自分の名前を二度見た。
「え、私、何もしてませんけど……」
「寝た」
ウェッブはキャップを閉めた。
「君は四日前まで一日五時間四十五分しか寝ていなかった。今は七時間十分寝ている。そして反応時間が〇・〇六秒縮んだ。〇・〇六秒というのは五メートル先の相手が引き金を引き終わるまでの時間のおよそ半分だ」
「……」
「これは俺が教えた成果じゃない。君の身体が勝手に元に戻っただけだ。……つまり君たちは二年間、本来の性能の七割で戦ってきた」
セリカがゆっくりと手を挙げた。
「……あの」
「なんだ」
「それ、もっと早く誰かが言ってくれてたら」
「言う人間がいなかっただけだ」
ウェッブは言った。
「君たちが悪いんじゃない。誰も来なかっただけだ」
---
三.教室
旧一年三組が教室に戻った。
ウェッブが最初にやったのは床の砂を掃き出すことだった。三センチの砂を五人で掃き出すのに二時間かかった。彼はその二時間も訓練だと言った。
「掃除ですか?」
「作業だ。だがこの学校で最も足りていないのは訓練でも装備でもない。手順だ」
彼は箒を持ったまま言った。
「同じ場所を二人が掃くな。誰がどこを掃くかを最初に決めろ。決めたら報告しろ。終わったら報告しろ。……これが分隊の動き方だ。砂でできないことは弾の下ではもっとできない」
板を打ち付けた黒板に彼はチョークで一列の文字を書いた。
A アルファ
B ブラボー
C チャーリー
D デルタ
E エコー
「昨日の戦闘で君たちは二回、味方に銃口を向けた」
「え、ええっ!?」セリカが立ち上がった。「そんなことしてないわよ!」
「北棟二階の窓、一四三二時。君はシロコの背中を三秒間光学照準器の中に入れていた」
「う……」
「気づかなかったのは君が悪いんじゃない。君たちの間に言葉がないからだ。だから、まず話し方から教える」
そこから四時間、五人はアルファベットを二十六個、数字を十個暗唱させられた。
「『九』は『ナイナー』と伸ばす。雑音の中で『ノー』や『ファイブ』と紛れるからだ。『五』は『ファイフ』。『三』は『トゥリー』」
「うへ〜、舌が回らない」
「回るまでやる」
「了解は『ラジャー』。命令に従うと返すなら『ウィルコ』。送信を終えて相手の返事を待つときは『オーバー』。交信そのものを終えるときは『アウト』。映画のように『オーバー・アンド・アウト』とは絶対に言うな。矛盾している」
「聞き取れなかったときは?」アヤネが猛烈な速さでメモを取りながら訊いた。
「『セイ・アゲイン』。『リピート』は使うな。あれは砲兵にもう一度同じ場所を撃てという意味のまったく別の言葉だ」
「ひえっ」
「そしてこれが今日一番重要な規則だ」
ウェッブは黒板に大きく書いた。
『無線は短く。必要なことだけ』
「長く喋ればその分だけ発信源を特定される。それと――喋っている間、君は撃てない」
〇九〇〇時。彼は無線機を五台配った。この時点ではまだシャーレの倉庫から掻き集めてきた旧式の予備機だった。
そして一つの規則を追加した。
「今日から、無線規律を破った人間は撃つ」
「は?」
パン、と乾いた音がした。
セリカの胸の中央に青いペイントが弾けていた。
「――ぎゃあああ!?」
「『こちらセリカ! えーっと、あの、なんか北のほうで、うん、なんか動いてる気がするんだけど、たぶん人だと思う、っていうか、あれ、シロコ? シロコいる? ねえ、シロコってば』」
ウェッブは彼女の送信を一言一句感情を込めずに復唱した。
「――十四秒。無線機一台の送信を十四秒続ければ、まともな電子戦部隊なら発信源を三十メートル以内に絞り込む。今のは君が自分の位置を敵に読み上げただけだ」
「ペイント弾で撃つ!? いきなり!?」
「痛くはないだろう」
「痛くないけど心臓が止まるのよ!!」
「では正しい送信を言う」
彼は自分の無線機を上げた。
「『デルタ・ワン、こちらエコー・ワン。方位〇一〇、距離二〇〇、人員一。オーバー』……四秒だ」
セリカは青く染まった制服を見下ろし、それから低く唸って教本を開いた。
「……アルファ、ブラボー、チャーリー、デルタ……」
以後二週間にわたって、この教室ではときどき唐突に乾いた破裂音が鳴り、誰かの悲鳴が上がることになる。
シロコは三日目に一度だけ撃たれ、それ以後は一度も撃たれなかった。
アヤネは一度も撃たれなかった。
ノノミは五回撃たれた。すべて「あらあら」と「ごめんなさいね」を送信に含めたためだった。
ホシノは初日に七回撃たれ、七回とも笑っていた。
八回目でウェッブが弾倉を替えたとき、彼女は初めて真顔になった。
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午後。黒板に格子が引かれた。
「地図の話をする」
ウェッブは縦横の線を重ねていった。碁盤の目。
「昨日の同士討ちのもう一つの原因がこれだ。君たちは『あっち』『そっち』『敵の右』で戦っている。『敵の右』はそれを聞いた人間の立ち位置によってまるで別の方向を指す」
「あ……」
「だから世界を格子で切る」
彼は一点を指した。
「MGRS。地球をまずUTM図法という方法で細長い区画に割り、その区画を百キロ四方の四角に刻んで二文字の記号をつける。その中をさらに細かい格子で刻む。この仕組みなら地球上のどんな一点でも、数文字と数桁の数字で誰が聞いても一点に定まる形で名指しできる」
「ど、どうやって読むんですか?」
「覚えるのは一つだけだ。『右に読んで、上に読む』」
彼は指を横へ、次に上へ滑らせた。
「横軸を左から右。次に縦軸を下から上。この順番だけは絶対に間違えるな。世界共通の鉄の約束だ」
そして彼は二年前に作られたアビドス自治区の地形図を広げた。砂漠化する前の地図と重ね合わせ、透明シートに格子を描き込んである。
「この校庭の中央、ヘリが降りた場所は――」
彼は座標を読み上げた。
「――ここを『ロメオ・ワン』と呼ぶ。北の砂丘の稜線を『ロメオ・トゥー』。東の駐車場跡の窪みを『ロメオ・スリー』。南のフェンスの切れ目を『ロメオ・フォー』。よく使う場所には名前をつけろ。座標より速いからだ」
アヤネの手が挙がった。
「先生。地図と方位について質問です」
「言え」
「コンパスの北と地図の北は同じですか」
ウェッブの視線が初めてわずかに動いた。
「……なぜそう思った」
「星の位置とノートの記録が少しずつずれるからです」
彼女は自作のノートを開いた。二年分の砂嵐と星と方位の記録が几帳面な字で埋まっている。
「二年前から日没の方向を毎日記録していました。誤差が出るのは天体の運行のせいだと思っていたんですけど計算しても合わなくて。それでうちのコンパスが壊れてるのかと」
ウェッブはしばらく彼女のノートを見ていた。
「壊れていない」
彼は言った。
「地図の北と磁石が指す北は違う。この差を偏差と呼ぶ。位置と年によって変わる。無視して歩けば遠くを目指すほど大きくずれる」
「……やっぱり」
「君は誰にも教わらずに二年かけて偏差を測っていたことになる」
アヤネの動きが止まった。
「……え?」
「そのノートはこの自治区の偏差の実測記録だ。俺が持っている資料より精度が高い」
「え、あの、私、ただ気になっただけで」
「その『気になった』を二年続けられる人間は多くない」
ウェッブは彼女のノートを閉じ、丁寧に返した。
「今日からこの部隊の航法はお前が管理しろ」
奥空アヤネは両手で自分のノートを受け取り、一年生らしい顔で――ものすごく赤くなった。
「は、はい! えっ、あの、はい!」
「アヤネちゃんが茹だってる」ノノミが微笑んだ。
「茹だってません!!」
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四.百四十八回目
三日目、一五一二時。
砂丘の向こうに土煙が上がった。
「――来ました!」アヤネが屋上の音響センサーから飛び降りるように駆け込んできた。「方位一四〇、車両二、人員、目視で三十以上!」
五人が動いた。二年間で染みついた動きだ。ホシノが盾を掴み、シロコが二階の図書室へ、ノノミが南、セリカが北。アヤネが玄関のバリケードへ。
そしてウェッブは校舎の三階の窓辺に折り畳み椅子を置いて座った。
膝の上には記録板とストップウォッチ。
「先生!?」アヤネが叫んだ。「何を――」
「見ている」
「見てるって、あの、加勢は」
「しない」
「え」
「銃も持っていない」
ウェッブは本当に丸腰だった。腰にも脇にも何もない。
「今日は君たちの戦い方を測る。俺が撃てば数字が変わる。数字が変わると何を直せばいいのか分からなくなる」
「そ、そんな……!」
「アヤネ」
彼の声が初めて硬くなった。
「配置につけ」
その日の交戦は二十六分続いた。
ウェッブは一度も口を挟まなかった。二十六分間、彼はただ書き続けた。誰がどこにいて誰が何を撃ち、誰が誰の射線を横切り、誰が何も言わずに動いたか。
ヘルメット団はいつも通り日没前に引き上げた。
いつも通り五人は生きていた。
いつも通り誰も敵を倒せていなかった。
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一八〇〇時。旧一年三組。
黒板に四行の文字が書かれていた。
『一.何が起こるはずだったか
二.実際に何が起こったか
三.なぜそうなったか
四.次はどうするか』
「事後検討(アフター・アクション・レビュー)という」ウェッブは言った。「今日から交戦のたびにこれをやる。規則が三つある」
彼は指を折った。
「一つ。ここでは学年を持ち込むな。三年生の意見と一年生の意見の重みは同じだ」
「え……」アヤネとセリカが顔を見合わせた。
「二つ。個人を責めるな。責めるのは手順だ。『セリカが悪い』ではなく『セリカがそう動くしかない手順になっていた』と言え」
「三つ。ここで言ったことは外に持ち出さない」
彼は記録板をめくった。
「では、一つ目。今日、何が起こるはずだったか。……委員長」
ホシノがソファの端でだるそうに手を挙げた。
「うーん、いつも通り。私が前に出て、みんなが上から撃って、向こうが飽きて帰る」
「それが計画か」
「計画っていうか……そうしかならないから」
「分かった。二つ目。実際に何が起こったか」
ウェッブは記録板を読み上げた。
「開始から終了まで二十六分十二秒。消費弾数、五・五六ミリ四百十一発、十二番散弾三十四発、七・六二ミリ二百八十発、九ミリ十二発。総計七百三十七発」
セリカが「ひっ」と小さく言った。昨日ウェッブが配った弾を一日で消費した量だ。
「敵の損耗、俺の観測で八名。うち六名は転倒による自損だ。実際に射撃で戦闘不能になったのは二名」
「……二名」
「敵は三十四名で来た。次は三十四名で来る」
沈黙。
「次。交戦の内訳だ。二十六分のうち敵が実際に射撃を受けた時間は――」
彼は数字を読んだ。
「――四分三十秒。残りの二十一分半、君たちは撃っていない。移動していたか、弾倉を探していたか、叫んでいたかだ」
「さ、探してないわよ!」
「セリカ。君は一四三八時に弾倉を落とした。それを拾いに戻るのに一分十二秒かかった」
「だってポーチが……」
「ポーチの位置が悪い。それは君の落ち度じゃない。誰も君にポーチの位置を教えていないからだ」
彼はページをめくった。
「次。ホシノ」
「はぁい」
「二十六分のうち、君が敵の直射に晒されていた時間は十九分四十秒だ。残り四人の合計は六分十秒」
部屋の空気が変わった。
「……えっ」セリカが顔を上げた。「合計って、四人分の合計で六分?」
「六分十秒だ」
「先輩が、十九分……?」
「七十六パーセント」ウェッブは言った。「この学校の戦闘の四分の三は一人が引き受けている」
ホシノは笑おうとした。
「いやいや、そんな大げさな。おじさん盾持ってるし、丈夫だし――」
「先輩」
セリカの声だった。
震えていた。
「なんで、そういうこと言うんですか」
「……えっと」
「なんでいつも、そうやって……」
セリカは立ち上がっていた。目が真っ赤だった。
「私、知ってましたよ。全部じゃないけど知ってました。先輩が最初に出るの。先輩が最後に戻ってくるの。私が撃つより先に先輩が撃たれてるの」
「セリカちゃん」
「言うなって思ってました!」彼女は叫んだ。「言ったら先輩が困るから! 言ったらじゃあ代われるのかって話になるから! 私代われないもん! だから黙ってた! 二年間!」
彼女は袖で乱暴に目をこすった。
「でも、今日数字で見せられたらもう無理」
部屋が静かになった。
シロコが静かに口を開いた。
「ん、……私も同じ」
「シロコちゃん……」
「先輩が一人で前に出るのは効率がいいと思ってた。実際生き延びてる。だから正しいと思ってた」
彼女はまっすぐホシノを見た。
「でも、それは先輩が二年間壊れなかっただけだ。壊れる前提の計算をしてなかった。……ごめん」
「な、なんでシロコちゃんが謝るの」
「私が計算しなかったから」
ノノミは何も言わなかった。
ただホシノの隣に座り直して、その手をそっと自分の膝の上に乗せた。
ホシノはその手を見下ろしていた。
そして、初めて――
「……あ」
――言葉が出てこなかった。
「四つ目だ」
ウェッブが記録板を閉じた。
「次はどうするか」
彼は五人を見渡した。
「答えは簡単だ。四分の三を五分の一ずつに割る。そのために必要なのは根性じゃない。手順と、位置と、言葉だ。……それをこれから十日で叩き込む」
彼は立ち上がった。
「今日の検討は以上。委員長、記録の署名を」
ホシノは差し出された記録板をしばらく見て、それから受け取った。
ペンを握る手が少しだけ震えていた。
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五.答案用紙
四日目から座学の密度が跳ね上がった。
ウェッブは黒板に、この二週間で叩き込む項目を書き出した。
『歩哨と一般命令
陣地構築
隊形
市街地・室内戦闘の基礎
戦術的戦傷救護(TCCC)とトリアージ』
「順番には理由がある。上から順に覚えていないと死ぬ順だ」
歩哨の教育は拍子抜けするほど地味だった。
「一般命令は三つ。暗記しろ」
一.割り当てられた範囲のすべてを監視し、正規の手続きで交代させられるまで決して持ち場を離れない。
二.特別命令を厳格に守り、任務を端正な態度で遂行する。
三.違反、緊急事態、および自分の指示書に書かれていない事態はすべてただちに上級者へ報告する。
「三つ目が一番大事だ」ウェッブは言った。「『書いていないことが起きたら報告しろ』。二年間、君たちの誰かが夜中に何かに気づいて大したことないと判断して、そのまま黙って寝たことが何度ある」
四人が気まずそうに目を逸らした。
「……先輩は」アヤネが小さく言った。「起こしてくれませんでした」
「ばれてるじゃん」ホシノが天井を見た。
そして誰何(すいか)の手順。夜間に接近者を見つけたときの九つの段階。
「『止まれ』。『誰か』。『識別のため前へ』。近づいたらもう一度『止まれ』。距離は二歩から三歩。『用件を述べよ』。身分証を地面に置かせて六歩下がらせる。相手を見たまま身分証を確認する。……疑わしければ銃口の下に置いたまま応援を呼ぶ」
「ねえ先生」ホシノが手を挙げた。「うちの学校、身分証持ってる人が来たことないよ?」
「では、六歩下がらせるところまでやれ。それだけで君たちと相手の間に六歩の距離ができる」
「……ああ」
「手順の大半は相手が誰であるかを確かめるためのものじゃない。距離を作るためのものだ」
陣地構築の授業ではシロコの目の色が変わった。
「土嚢は互い違いに積め」ウェッブは黒板に断面図を描いた。「同じ向きに積むと機銃弾で一列ごと崩れる。高さは胸まで。上に隙間を作って銃眼にする。銃眼は小さくしろ。撃つには十分で撃たれるには小さすぎる大きさに」
「掩体は二人用を基本にする。一人用は孤独だ。孤独な兵士は動けなくなる」
「射界を確認しろ。掘って満足するのは素人だ。掘ったら必ず自分の銃眼から何が見えて何が見えないかを確かめて図に描け」
「そして――交互配置(インターロッキング)だ」
彼は二つの陣地から扇形の線を引き、交差させた。
「一つの陣地が守るのは自分の正面じゃない。隣の陣地の正面だ。互いの射界を斜めに交差させると、敵から見るとどこから撃たれているのか分からなくなる」
「ん」
シロコが手を挙げた。
「重機を使っていい?」
「重機?」
「校舎の裏に埋まってる。バックホーが一台。二年前に動かなくなったやつ。……たぶん燃料系統。私、直せる」
ウェッブは三秒考えた。
「直せ。それが今日の君の課題だ」
「ん、了解」
彼女は本当にその日のうちに直してきた。
翌朝、砂に半ば埋もれていた黄色い機械が二年ぶりに校庭で咆哮を上げたとき、セリカは飛び上がり、ノノミは拍手し、アヤネは「音がうるさいです! 近隣に迷惑が――近隣、いませんでした!」と叫んだ。
シロコは運転席から降りずに静かに言った。
「ん、……久しぶりに触った」
耳が上機嫌に揺れていた。
隊形の授業は屋外だった。
「三つ覚えろ。楔(ウェッジ)。縦列(ファイル)。横列(ライン)」
「楔は前方に強い。開けた場所を進むとき。縦列は狭い場所を通るとき。前と後ろにしか撃てないが幅を取らない。横列は正面に全火力を向けるとき。……砂漠は開けている。基本は楔だ」
「そして最重要の原則」
彼は五人を砂の上に立たせ、線を引いた。
「動く者は無防備だ。だから撃つ者が守る。二つに割れ。一組が撃ち、一組が動く。動く側は三秒だけ走って伏せる。三秒――『あいつが俺を見た、狙った、引き金に指をかけた』と数え終わる前に地面に消えろ。次は撃っていた側が動く。相互躍進(バウンディング・オーバーウォッチ)だ」
「常にどっちかの銃が敵を睨んでる状態を切らさないってことね」セリカが言った。
「そうだ」
「……あれ?」彼女は首を傾げた。「私、今、けっこう賢いこと言った?」
「言った」
「え、褒めた? 今の褒めた!?」
「事実を述べた」
「もー!」
市街地・室内戦闘の授業は崩れた北棟を使った。
「角の向こうは常に未知だ」ウェッブは廊下の角に立った。「一気に飛び出すな。角から距離を取って円を描くように少しずつ視野を広げていく。ケーキを一切れずつ切るようにだ」
「パイの切り分け(スライシング・ザ・パイ)と呼ぶ。一度に全部を見ようとする人間から死ぬ」
そしてドアの前で。
「戸口は最悪の場所だ。全員が同じ場所を通ることが敵にも分かっている。……だから戸口には長居するな。通れ。止まるな」
彼は五人を壁際に一列に積み重ねさせた。積み重なり(スタック)。
「先頭は誰だ」
四人が当然のようにホシノを見た。
「――違う」
ウェッブは静かに言った。
「委員長は二番目だ」
「え」
「先頭はシロコ。二番目に委員長、三番目にセリカ、四番目にノノミ、最後にアヤネ」
「ちょ、ちょっと待って」ホシノが手を挙げた。「それおかしくない? 私が一番丈夫だよ? 最初に入りが一番危ないんだから私が――」
「委員長」
ウェッブは彼女を見た。
「部屋に入って三秒後、君は何をしている」
「え? 撃ってるけど」
「四人はどこにいる」
「……後ろ」
「四人が何をしているか見えているか」
ホシノの口が閉じた。
「先頭は目の前の三メートルしか見えない。それでいい。それが先頭の仕事だ」ウェッブは言った。「だが四人がどこにいて、次に誰がどの部屋に入るかを見る人間が必ず一人要る。それを見る人間が先頭に立つと――部隊は指揮官のいない四人になる」
「……」
「君は一番丈夫だ。だからこそ一番後ろか、二番目だ」
ホシノはしばらく壁に手をついたまま動かなかった。
「……それって」
彼女は言った。声が少しだけ低くなっていた。
「私に後ろで見てろって言ってる?」
「そうだ」
「みんなが撃たれるのを後ろで見てろって?」
「そうだ」
ウェッブは目を逸らさなかった。
「それが君に残っている一番きつい仕事だ」
長い沈黙のあと、小鳥遊ホシノは二年ぶりに――
「……わかった」
――と答えた。
答えるまでに十一秒かかった。
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TCCCの授業はノノミが最も静かに聞いていた。
「戦場で人が死ぬ原因の上位三つは四肢の大出血、気道の閉塞、緊張性気胸だ」ウェッブは言った。「この三つはその場で処置すれば助かる」
「順番を覚えろ。MARCHだ」
大出血(Massive hemorrhage)。気道(Airway)。呼吸(Respiration)。循環(Circulation)。低体温と頭部外傷(Hypothermia/Head injury)。
「まず血だ。骨折より血。痛みより血。意識より血。……上から順に放置したときに早く死ぬ順だ」
彼は止血帯を配った。五本。それぞれの個人用救急包(IFAK)に同じ位置に、同じ向きで。
「巻き方は片手でできなければならない。自分の腕が撃たれたとき、もう片方の手しか残っていないからだ」
五人は互いの腕に止血帯を巻き、締め、緩め、また巻いた。
「痛いですぅ〜!」ノノミが悲鳴を上げた。
「痛くない止血帯は止まっていない」
「うう……」
そしてトリアージ。四色のタグ。
「赤。今すぐ処置すれば助かる。黄。処置は要るが待てる。緑。歩ける。黒――」
彼は言葉を切った。
「黒は処置しても助からない」
部屋が静まり返った。
「一人しか助けられないとき赤を助けろ。黒を助けようとして時間を使うと赤も死ぬ」
「……それ」
セリカが小さく言った。
「決めるの、誰なんですか」
「そこにいる人間だ」
「決めたくない」
「決めたくない人間が決めるほうがいい」
ウェッブは言った。
「決めたい人間に決めさせるな。それは俺がいくつかの場所で見てきたことだ」
ノノミがそっと手を挙げた。
「先生」
「なんだ」
「私、この係をやらせていただけませんか」
ウェッブは彼女を見た。
「理由を言え」
「……理由」
ノノミはしばらく考え、それからいつものおっとりした声で――しかしいつもより少し低い声で――言った。
「私、みんなに何かしてあげるのが好きなんです。おやつを買ったり、お茶を淹れたり。でもそれ全部私が『できること』なんですよね。私が持ってるお金でできることばっかり」
「……」
「でも、これは違います。お金じゃ買えません。私の手が覚えないとできません」
彼女は自分の掌を見た。ミニガンの銃身束を握り続けてきた大きくて柔らかい手を。
「私、うちの子たちにお金以外のものをあげたことがないんです」
セリカがはっと顔を上げた。
「ノノミ先輩、そんな――」
「だから」
ノノミは微笑んだ。
「やらせてください」
ウェッブは彼女の手を三秒見た。
「――衛生兵(メディック)は君だ。ノノミ」
「はい」
「装備を追加発注する。訓練量も三倍になる」
「はい」
「泣くのは後にしろ」
「……はぁい」
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そして試験があった。
ウェッブは対策委員会室のプリンタで毎晩問題用紙を刷った。両面刷り、二十問、制限時間三十分。採点は赤ペン。返却は翌朝。
第一回の平均点は四十一点だった。
第二回、五十八点。
第三回、七十三点。
第四回、八十六点。
四回目の答案を返しながらウェッブは名前を読み上げた。
「奥空アヤネ、九十八点」
「はいっ!」
「砂狼シロコ、九十二点」
「ん」
「十六夜ノノミ、八十四点。救護の項目は満点だ」
「まあ、うれしい」
「黒見セリカ、九十点」
「――えっ!?」
セリカが答案を二度見した。
「え、うそ、九十!? 私!?」
「弾道と距離の設問が全問正解だ。計算が速い」
「そ、そりゃ会計だし……! 当たり前でしょ! べつに、その、嬉しくないし……!」
彼女は答案を胸に抱えて真っ赤な顔でそっぽを向いた。
「小鳥遊ホシノ」
「はいはい」
「十九問正解」
四人が振り向いた。
「え、先輩、十九問!?」
「あれ、そんなに合ってた?」
「勉強してました!?」
「してないよ〜。なんか書いたら合ってた」
ウェッブは彼女の答案を差し出した。
「――設問十が白紙だ」
ホシノの手が答案を受け取ったまま止まった。
『設問十.君が戦闘不能になった。指揮を継承するのは誰か。氏名を書け』
赤ペンでその下に一行が書き足されていた。
『不正解ではない。未記入だ。次の試験までに書け』
ホシノはその一行を長いこと見ていた。
「……ねえ、先生」
「なんだ」
「これ書かなきゃだめ?」
「だめだ」
「なんで」
「君が倒れる可能性を君以外の四人が全員知っているからだ」
ホシノは答案を折りたたんだ。
「……いじわる」
「そうだな」
第五回の試験の答案が返ってきたとき、設問十の欄には震えた字でこう書かれていた。
『砂狼シロコ』
そしてその日の夕方、対策委員会室の壁に一枚の紙が貼り出された。
『指揮継承順位
一.小鳥遊ホシノ
二.砂狼シロコ
三.十六夜ノノミ
四.奥空アヤネ
五.黒見セリカ』
シロコはその紙の前に五分立っていた。
それから誰にも聞こえない声で「ん、……重い」と呟いた。
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六日目、一六二〇時。第百四十九回。
ウェッブはこの襲撃を「中間試験」と呼んだ。
出題範囲は通信と座標のみ。陣地はまだ完成していない。隊形も未習だ。使えるのはフォネティック・コードとMGRSと名前をつけた四つの地点だけ。
結果は劇的とは言いがたかった。
交戦時間、十八分五十秒。消費弾数、三百九十四発。
だが。
「先生」
その夜の事後検討でアヤネが記録板を見ながら言った。
「同士討ちの未遂がゼロでした」
「ああ」
「二年間、毎回一回か二回はあったんです。それが初めてゼロです」
「言葉ができたからだ」
ウェッブは短く言った。
「弾はまだ無駄になっている。だが君たちは今日、初めて『どこにいるか』を互いに知りながら戦った。……次の襲撃までに陣地を仕上げる」
そして、その三日後。
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六.百五十回目
九日目、一一〇〇時。
砂丘の向こうからいつも通り土煙が上がった。
だが、その日に迎え撃った校庭は六日前とは別の場所になっていた。
東の駐車場跡の窪みはシロコのバックホーで掘り拡げられ、二人用の掩体が二つ互い違いの角度で構築されていた。土嚢は――校舎の中から掻き出した砂で作られていた。
『この砂はこの学校を殺しかけている』
ウェッブは五日前、砂の山の前で言った。
『今日からこの砂は、この学校の壁だ』
二年間五人が呪い続けた砂が、今は二千百個の土嚢になって彼女たちの正面に積み上がっていた。
「――こちらエコー・ワン。全局へ。目標、方位一四〇、ロメオ・スリーの手前二百」
アヤネの声が五つのイヤホンに同時に届いた。震えていない。速い。短い。
「デルタ・ワン、ラジャー」シロコ。
「ブラボー・ワン、ラジャー」ノノミ。
「チャ、チャーリー・ワン、ラジャー!」セリカ。
「アルファ・ワン、了解。……ラジャー」ホシノ。
そしてホシノは玄関を出なかった。
彼女は二階の階段の踊り場に立ち、四人分の位置が全部見える窓辺に盾を立てかけた。
「――ブラボー、南のフェンス側に四。ロメオ・フォーに入った」
「はぁい、見えてますよ〜」
ノノミのミニガンが吠えた。
だが以前とは違った。
一秒。止まる。〇・五秒。もう一秒。止まる。
「短く区切れ」ウェッブは彼女に教えていた。「三秒撃てば君の銃身は溶ける。二年間君が銃身を二本潰したのは撃ちすぎたからだ。……お前の仕事は音を出すことじゃない。お前は部隊の骨格だ。骨格が折れたら全部が崩れる」
砂が跳ね、フェンス際の四人が瓦礫の陰へ転がり込んだ。
そしてそこから出られなくなった。
「……あ、あれ?」
瓦礫の陰に伏せたヘルメット団の一人が恐る恐る顔を上げようとして、砂を頭に浴びた。反対側から。
「ちょ、ちょっと! こっちからも撃たれてる!」
「どこから!?」
「わかんない! 二方向から来てる!」
交互配置。
東の掩体は南を撃ち、南の掩体は東を撃つ。互いの正面を互いに守っている。
その事実に気づくには、彼女たちの側に地図と教範が必要だった。
そして彼女たちは地図も教範も持っていなかった。
「――アルファ、こちらデルタ。ロメオ・トゥーに新手。八名。稜線を越えてくる」
「アルファ了解。……チャーリー、北へ。デルタが援護」
「チャーリー、ウィルコ!」
セリカが動いた。三秒走って伏せる。三秒走って伏せる。
上からシロコの弾が彼女の頭上を越えていく。
「――撃つ側と、動く側」
セリカは砂の中で歯を食いしばりながら教範の一行を思い出していた。
『動く者は無防備だ。だから撃つ者が守る』
守られていた。
生まれて初めて、彼女は自分が走っている間誰かの銃が自分のために睨みを利かせていることをはっきりと感じていた。
交戦は六分四十秒で終わった。
ヘルメット団は誰一人として校舎から八十メートル以内に入れなかった。
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そして一人だけ逃げ遅れた。
北の稜線で足を挫いた団員が砂の斜面を転がり落ちて、掩体の目の前で動けなくなっていた。
四人の銃口が一斉にそこへ向いた。
「――撃つな」
無線からウェッブの声。
「保護しろ」
「保護!?」セリカが叫んだ。「こいつら二年間うちを――」
「セリカ」
ホシノの声だった。
「先生の言う通りにして」
十分後。
その団員――フルフェイスヘルメットの下から出てきたのは泣きそうな顔をした一年生くらいの少女だった――は対策委員会室のソファに座らされ、ノノミが淹れた紅茶と氷嚢と包帯を与えられていた。
「……なんで」
彼女は震える声で言った。
「なんで撃たねーの」
「足首が腫れている」ウェッブは膝をついて彼女の靴を脱がせていた。「捻挫だ。骨は無事だ。二週間走るな」
「……は?」
「名前は聞かない。所属も聞かない。答えたくないことは答えるな」
「じゃあ何を――」
「一つだけ聞く」
ウェッブは氷嚢を巻き終えて顔を上げた。
「その装具はいつ支給された」
少女は反射的に自分の胸のプレートキャリアを見た。真新しい。ほつれ一つない。
「……先月」
「全員分か」
「……うん」
「支給の場所は」
「言わねーよ」
「言わなくていい」
ウェッブは頷いた。
「もう一つだけ。……君たちは来月も来るのか」
少女はしばらく黙った。
そしてなぜか――泣きそうな顔のまま少しだけ笑った。
「……来るよ。だって単価が上がったんだ」
「単価」
「うちらが強い相手とやると上がるんだよ。一人あたりの日当が。今月から千二百円上がった」
紅茶のカップを持ったままノノミの手が止まった。
「……あなたたち」セリカの声が掠れた。「私たちが強くなると給料が上がるの?」
「そーだよ」
少女はヘルメットを抱えて俯いた。
「うちら、他に行くとこねーもん」
その日の夜。
ウェッブはバックホーの助手席にその少女を乗せ、自治区の外縁まで送った。水を二本とレトルト糧食を三食分持たせて。
別れ際、少女が振り返った。
「……なあ」
「なんだ」
「アンタら、勝つ気なの」
ウェッブは答えなかった。
代わりに彼はこう言った。
「怪我が治るまで来るな。来たら次は撃つ」
「……ふん」
少女はヘルメットを被り、砂丘の向こうへ足を引きずって消えていった。
ウェッブはその背中が見えなくなるまで待ち、それからタフブックを開いた。
『物証:なし。
証言:装具の一括支給を確認(先月/全員分)。日当の単価が「相手の強度」に連動して改定されている。
――末端の傭兵の給与テーブルに、標的の防御力を変数として組み込む発注者は素人ではない。
これは襲撃ではない。事業だ。』
彼はそこまで打って少し考え、最後にもう一行足した。
『五名には、まだ見せない。』
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七.請求書
十日目、〇八〇〇時。
連邦捜査部シャーレ、第三会議室。
長机の上に積まれた書類の高さは四十二センチあった。
「……四十二センチです」
七神リンが眼鏡を押し上げた。
「一つの自治区への装備供与としては、シャーレ設立以来の最高記録を更新しています」
「必要な分だ」
「私もそう思います」リンは平坦に言った。「問題は、そう思わない人間がこの部屋に来ることです」
ドアが開いた。
「――失礼します」
扇喜アオイは入ってくるなり書類の山を見て一秒だけ立ち止まった。
それから非常に礼儀正しく微笑んだ。
「ウェッブ顧問。おはようございます。ご機嫌はいかがですか」
「良い」
「そうですか。私は最悪です」
彼女は書類の一番上を取り上げ読み上げた。
「『暗視装置、四眼式、五個』」
「五名分だ」
「一個あたりの単価をご存じですか」
「知っている」
「五個で――」
「家が四軒建つ」
「五軒です」
「そうか」
アオイは次の紙をめくった。
「『無線機、個人用、六台』」
「五名と俺の分だ」
「『通信ヘッドセット、電子式聴覚保護機能付、六個』」
「聴覚保護だ。予算じゃなく医療の問題だ。……あの五人は二年間耳栓なしで屋内でミニガンを撃たれる距離にいた。全員高音域が落ちている。アヤネは右耳が特にひどい」
アオイのペンがそこで止まった。
「……検査の記録は」
「昨日簡易聴力計で測った。データは添付の別紙十七だ」
彼女は無言で別紙十七を探し、五人分の聴力図を見た。
長い沈黙。
「……次に行きます」
彼女はページをめくった。
「『拳銃、G19 Gen5、五挺』。……サイドアームですね。理由をお聞かせください」
「主武器が詰まったとき直すより速いからだ。それと――弾倉が共有できる」
「共有?」
「五挺とも同じ銃だ。俺のも同じだ。この六人の間で九ミリの弾倉はどれを誰が抜いても使える」
アオイは彼を見た。
「顧問。……あなたは自分の予備弾倉を生徒に融通するつもりで機種を選定したのですか」
「そうだ」
「そういうことは稟議書の『選定理由』欄に書いてください」
「書くと長くなる」
「長くていいんです」
彼女は深く息を吐いた。
「――『重機用燃料、月三千リットル』。『発電機、二十キロワット、二基』。『逆浸透膜式浄水装置、一式』。『防塵型銃器用潤滑剤、二十四リットル』。『ミニガン用予備銃身束、二組』」
彼女はそこで顔を上げた。
「この銃身、製造元がセイント・ネフティスになっています」
「あの規格を作れるのはあそこだけだ」
「ノノミさんのご実家です」
「知っている」
「ご本人が出すと言い出しませんでしたか」
「言い出す前に発注した」
アオイの眉がわずかに動いた。
「……なぜ」
ウェッブはしばらく黙っていた。
「あの学校の備品の大半にあの子の家の名前が入っている」
彼は言った。
「紅茶のカップもソファもミニガンの弾倉も部費もおやつも。あの子はそれを贖罪だと思っている。……この二年間あの学校が誰かに『買ってもらった』もののうち、あの子が金を出さなかったものは一つもない」
「……」
「銃身はシャーレが買う」
会議室が静かになった。
扇喜アオイは書類の束をきちんと揃え直した。
「――ウェッブ顧問」
「なんだ」
「一つだけ申し上げてよろしいですか」
「言え」
「私はこの請求書を通します」
「助かる」
「ただし」
彼女は顔を上げた。目が笑っていなかった。
「あなたが今言った理由を全部稟議書に書いてください。一字残らず。……この金額を後から『妥当だった』と証明できる人間はこの街に一人もいません。私が唯一できるのは、あなたがどういう理由でこれを買ったのかを記録に残すことです」
「……」
「十年後に誰かがこの帳簿を開いたとき、そこに『理由』が書いてなければこれはただの浪費です。理由が書いてあれば――」
彼女は書類の山に手を置いた。
「――これはこの街が一度だけ正気だった証拠になります」
ウェッブは彼女を数秒見た。
「……分かった」
「三日以内にお願いします」
「二日でやる」
「二日で書けたら私が請求書に判を三つ押します」
彼女は書類を抱えて出ていった。
ドアが閉まってからリンが静かに言った。
「……室長が『三つ押す』と言ったのは私の記憶では二度目です」
「一度目は」
「エデン条約機構の設立費用のときです」
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八.支給
十一日目、一三〇〇時。
砂を掃き出した体育館の床に長机が五つ並べられ、その上に五組の装備が寸分の狂いもなく同じ配置で並べられていた。
五人が入ってきて、そして動きを止めた。
「……なにこれ」
「装備品の支給だ」
ウェッブは机の端に立っていた。
「並べ方に意味がある。上段左からプレートキャリア、弾倉ポーチ、個人用救急包、水袋。下段左から通信ヘッドセット、無線機、暗視装置、拳銃と拳銃用ホルスター。……この配置は今日から五人とも同一だ」
「同一?」セリカが首を傾げた。
「弾倉ポーチは全員胸の左から二番目。止血帯は全員左肩の下。ハサミは全員右腰の後ろ」
「なんで揃えるんですか?」アヤネが訊いた。
「君が倒れたとき、誰かが君の身体から止血帯を探すからだ」
部屋がしんとした。
「探す時間をゼロにする」
ウェッブは言った。
「見なくても手が届く。それが標準化の意味だ。……格好つけるためじゃない」
五人がそれぞれの机の前に立った。
最初に手を伸ばしたのはノノミだった。彼女は通信ヘッドセットを持ち上げ、耳に当ててみて目を丸くした。
「あら……外の音が聞こえます」
「電子式だ。銃声のような大きな音だけを潰して小さな音は逆に増幅する。……つけたほうがよく聞こえる」
「まあ!」
「ノノミ。君は今日からこれを外して撃つな。一度もだ」
「はぁい」
シロコは拳銃を持ち上げ、スライドを引き、薬室を覗き戻し、弾倉を抜き挿し直した。動作が三秒で終わった。
「ん、……いい銃だ」
「触ったことがあるのか」
「無い。でも構造が分かる」
「――そうだろうな」
セリカは四眼の暗視装置を両手で持ってものすごい顔をしていた。
「……ねえ。これ、いくらするの」
「値段は聞くな」
「聞くわよ! 会計だもん!」
「聞くと返そうと言い出す」
「……」
セリカは唇を噛んだ。
「返さないわよ」
「そうか」
「……ありがと」
「聞こえなかった」
「聞こえてたでしょ!!」
そしてアヤネの机の前でウェッブは足を止めた。
彼女の机の上には他の四人と同じ装備一式に加えて、もう一つ大きな箱が置かれていた。
「奥空アヤネ」
「は、はい」
「開けろ」
彼女が留め具を弾いた。
中身は無線機だった。
だが五人に配られた個人用のものとはまったく規模が違った。分厚い本体。折り畳み式のアンテナ。予備の電池パック。そして拡張用のアンテナ架台と同軸ケーブルの束。
「……これ」
「基地局用だ。屋上に上げればこの自治区の全域と、六百キロ先のシャーレまで届く」
アヤネの指が震え始めた。
「六百……キロ……」
「四十一日前に君が出した要請書は四つの部屋を回って止まった」ウェッブは言った。「三日前に様式を書き換えた」
彼は一枚の紙を差し出した。
『支援要請書(様式第七号 改)』
その最上段に他のどの項目よりも大きな枠が新設されていた。
『□ 生命に対する差し迫った脅威』
「この欄に丸がついた要請書は判子も回付もなしで、二十四時間以内にシャーレの俺の机に直送される。……起案者の欄を見ろ」
アヤネは紙を裏返した。
『起案:連邦生徒会 事務局/原案:アビドス高等学校 廃校対策委員会 書記 奥空アヤネ』
「え」
「君が書いた十二行が原案だ。あの文章の削れ具合が様式の設計に一番役に立った」
「わ、私、そんな、ただ断られないように――」
「そうだ。だから使えた」
ウェッブは箱を指した。
「これはその要請書が届くようにするための機械だ。もう二度と送信出力が足りないという理由で誰にも届かないことがないように」
アヤネは無線機を見下ろしていた。
眼鏡の下から水が落ちて、金属の天板に小さな染みを作った。
「……あの」
彼女は声を絞り出した。
「私の、その、前の……自作の……」
「捨てるな」
ウェッブは即答した。
「あれは廃棄しない。屋上に据える。予備回線として登録する」
「あ、あんなボロを予備なんて」
「あの機械が鳴らなかったら俺はここにいない」
彼は言った。
「――性能じゃない。あれはこの学校で唯一外に届いた装置だ」
奥空アヤネはそこで完全に泣いた。
十五歳の一年生が二年分の何かを一気に流すように泣いた。
セリカが慌てて駆け寄って、ノノミがハンカチを出して、シロコが黙って背中に手を当てて、そして――
ホシノが少し離れたところでそれを見ていた。
「……ねえ、先生」
「なんだ」
「あの子たぶん二年間で一回も泣いてないよ」
「知っている」
「なんで知ってるの」
「記録の字が一度も乱れていないからだ」
ホシノはそのまま静かに言った。
「――ありがとう」
「まだ何もしていない」
「昨日もそう言ってた」
「明日も言う」
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九.砂
十二日目、〇五三〇時。
計画表の『体力錬成』の欄が七日ぶりに書き換えられた。
初日から四日目までそこには『測定』と書かれていた。五日目から昨日までは『陣地構築』だった。土嚢を二千百個積む作業はそれ自体が十分に体力錬成だったからだ。
そして今朝その欄にはただ二文字だけが書かれていた。
『錬成』
「今日から本番だ」
ウェッブは校庭に立っていた。足元には土嚢が五つ並んでいる。
「まず測定の結果を言う」
彼は記録板を開いた。
「三・二キロ走。砂狼シロコ、九分十二秒。十六夜ノノミ、十一分五十秒。黒見セリカ、十三分四十秒。小鳥遊ホシノ、十一分三十秒」
彼は最後の行で止まった。
「奥空アヤネ、十六分五十秒」
アヤネが俯いた。
「腕立て、二分。シロコ八十八。ノノミ六十二。セリカ五十一。ホシノ四十」
「アヤネ、二十四」
「……すみません」
「謝るな」
「でも私だけこんなに――」
「ホシノ」
ウェッブが突然名前を変えた。
「三・二キロを十一分三十秒で走ったな」
「うん、頑張ったよ〜」
「君は昨年七月十一日の交戦記録で、砲弾の落下する校庭を盾を持って四百メートルを二十九秒で走っている」
ホシノの笑顔が固まった。
「換算すると三・二キロは遅くとも七分を切る」
「……なんでそんなの知ってんの」
「賭博サイトの映像を七本見た」
「うっわ、最悪」
「腕立ても同じだ。四十で止めたのは四十一回目をやると誰かが驚くからだろう」
四人がいっせいにホシノを見た。
「先輩」
「……いやあ、あの」
「二年間君は後輩たちの前で自分の性能を隠してきた」ウェッブは言った。「理由は分かる。君が本気の数字を出すと四人が『自分たちは要らない』と思うからだ」
「……」
「その配慮を俺は否定しない。だが今日で終わりだ。今日から君は本気の数字を出す。四人が『自分たちは要らない』と思わないようにするのは隠すことじゃない。役割を分けることだ」
ホシノは長いこと黙って、それから頭を掻いた。
「……うへ〜」
「言い訳は」
「ないよ。ばれてたらしょうがないもん」
「では、書き直す」
ウェッブは記録板の数字に横線を引いた。
そして――五人全員の欄を一つずつ書き直し始めた。
「基準を作る」
彼は言った。
「米陸軍の体力基準は十七歳から二十一歳の人間を想定して作られている。君たちにはそのまま使えない。上にも下にも外れている」
彼はチョークで校庭のコンクリートに五本の縦線を引いた。
「だから五人分の基準を作った」
「……五人分?」ノノミが首を傾げた。
「シロコの基準はシロコにしか適用しない。セリカの基準はセリカにしか適用しない。全員今日の自分の数字の九割を明日の下限にする」
「……あの」
セリカが手を挙げた。
「それって私とシロコでやる量が全然違うってこと?」
「違う」
「じゃあ不公平じゃない」
「公平だ」
ウェッブは言った。
「基準は五人分ある。だが地獄は一つだ」
四人がその意味を数秒で理解した。
そして揃って青ざめた。
「――ちょっと待って」セリカが後ずさった。「それ全員が全員自分の限界の九割でずっと走らされるってこと!?」
「そうだ」
「シロコが楽になるとかじゃなくて!?」
「シロコが一番きつい」
「ん」シロコが小さく頷いた。「望むところ」
「言うと思った!!」
「そして」
ウェッブは記録板の最後の行を指した。
「部隊としての基準は一つだけ作る」
彼は名前を読み上げた。
「――奥空アヤネの数字だ」
アヤネの顔が跳ね上がった。
「え」
「行軍速度、休憩間隔、負荷重量、走破距離。部隊として動くときの数字は全部アヤネが達成できる値に設定する」
「ま、待ってください!」
彼女は叫んだ。
「それじゃあ私のせいでみんなが遅く――」
「奥空アヤネ」
ウェッブは彼女の前に立った。
「部隊の速度は一番遅い人間の速度だ。これは意見じゃない。定義だ」
「だったら、なおさら――」
「一番遅い人間がいるとき選択肢は三つしかない」
彼は指を三本立てた。
「一つ。置いていく。二つ。合わせる。三つ。速くする」
彼は一本目の指を折った。
「一つ目は絶対に取らない。この十四日もこれから先も一度もだ」
二本目を折った。
「二つ目と三つ目を同時にやる。部隊はお前に合わせる。同時に、お前を速くする。合わせている間に速くなれば部隊も速くなる」
そして三本目。
「そしてこれが一番大事だ」
彼はアヤネの目を見た。
「基準というのは全員が超えられる線のことだ。誰かが超えられない線は基準じゃない。ただの選別だ。……俺は選別をしに来たんじゃない」
「……」
「お前は足を引っ張っていない。お前は基準だ。基準は部隊で一番重要な数字だ」
奥空アヤネはしばらく口を開けたまま立っていた。
「……あの」
「なんだ」
「私、あの、その」
「言え」
「……頑張ります」
「返事が長い」
「はいっ!」
「よし」
ウェッブは足元の土嚢を蹴った。
「では始める」
彼は五つの土嚢を指した。
「これは校舎の一階から掻き出した砂だ。二十キロずつ入っている」
「……ま、まさか」
「担げ」
「うわああああ」
「この砂は二年間、君たちの敵だった」
ウェッブは言った。
「今日からこれは君たちの重りだ」
---
それから三日間。
アビドス高等学校の校庭では、朝から晩まで砂が動き続けた。
砂を担いで走る。砂を担いで土嚢を積む。積んだ土嚢を崩してまた担ぐ。
シロコは自分の分と途中でセリカの分を持ちかけて、ウェッブに止められた。
「シロコ。持つな」
「でも、セリカが」
「セリカが自分で運べる重さをお前が決めるな。決めるのはセリカだ」
「……ん」
「代わりに、お前は隣を走れ。速度を合わせろ。それが一番きつい」
シロコは実際にその日初めて音を上げた。
自分の全力で走るより他人の速度に合わせて走り続けるほうにはるかにきつかった。
セリカは初日に吐いた。
二日目にも吐いた。
三日目には吐かなかった。
ノノミは重量には一切文句を言わなかったが、二日目の夜に足の裏に大きな豆を作り包帯を巻きながら泣いた。
「行軍が終わったら真っ先に靴下を替えて足を乾かせ」ウェッブは言った。「足の手入れは装備の手入れと同格だ。歩けない兵士はどれほど強くても兵士じゃない」
「はぁい……」
「泣くのは足を乾かしてからにしろ」
「厳しいですぅ……」
ホシノは初日にとんでもない数字を出して四人を絶句させた。
そして二日目に初めて――疲れた顔をした。
九割で走り続けるということは、彼女にとって二年ぶりに全力を出すということだった。
三日目の夜、彼女は屋上に上がってきて給水塔の陰に座り込みそのまま眠った。
〇二〇〇時に起きなかった。
〇六〇〇時まで一度も。
ウェッブは彼女の隣に座って朝までそこにいた。
そして夜間行軍。
砂丘には目印がない。三十分歩けば来た方角すら分からなくなる。
「タブレットもスマホも使わせない。電子機器は壊れる。妨害される。……だが磁石と星と自分の歩幅は裏切らない」
歩測。方位角。偏差の補正。
五人は月のない夜の砂漠を地図とコンパスだけで歩いた。
初日、集結点から一・四キロずれた。
二日目、二百八十メートル。
三日目――アヤネが手を挙げて砂丘の稜線を指した。
「あそこです」
集結点との誤差、十一メートル。
彼女の隣でホシノが小さく口笛を吹いた。
「……すごいね、アヤネちゃん」
「ノートのおかげです」
アヤネは荒い息で、しかしはっきりと言った。
「二年分の私のノートの」
---
十.射線
十四日目。
朝、五人が校庭に出ると、そこには射撃場ができていた。
シロコのバックホーが掘った土塁。二十五メートル、五十メートル、百メートル、二百メートルの標的架。射座には砂袋。安全区域を示す赤い旗。
そして五人分の銃が机の上に並べられていた。
自分たちの銃だ。二年間使い続けた五挺の銃。
「先生」アヤネが訊いた。「新しい銃にはしないんですか」
「しない」
ウェッブは即答した。
「君たちの銃は君たちの手に二年間馴染んでいる。俺はそれを取り上げない」
彼は自分の手にあったシロコのアサルトライフルを机に戻した。
「取り上げるのは君たちのバラバラな手順だ」
そして彼は最初の言葉を告げた。
「今から四つの原則を言う。この四つは俺がこの十四日間に教えたすべての中で唯一例外がない」
彼は指を四本立てた。
「一.すべての銃は装填されているものとして扱え。空だと思った銃で人が死ぬ」
「二.壊すつもりのないものに銃口を向けるな」
「三.撃つと決めるまで指は引き金から離してまっすぐ伸ばしておけ」
「四.的が何であるかとその向こうに何があるかを必ず確かめろ」
彼は五人を見渡した。
「この四つのどれかを破った人間はその日の射撃を終了する。理由は聞かない。抗弁も聞かない。……委員長でもだ」
「はぁい」
「では状態の話をする。銃の安全状態を三色で言う」
彼は自分の拳銃を掲げた。
「緑。弾倉なし、薬室空。黄。弾倉あり、薬室空。赤。薬室に弾が入っている」
「今日から誰かが射座に上がるときは必ず声に出せ。『レッド』『グリーン』。……二年間君たちは一度もこれをやっていない。よく暴発しなかったと思う」
「あ」ノノミが手を口に当てた。「一度だけ天井に穴が」
「あったのか」
「ありましたぁ」
「今日から無い」
---
ゼロインから始まった。
「銃身の軸線と照準器の視線は別のものだ。二本の線を決めた距離で交差させる。これをゼロインという。……やっていない銃はどれだけ高価でも音の出る棒だ」
二十五メートル。伏射。砂袋依託。三発一組。
シロコが最初に撃った。
タン。タン。タン。
ウェッブが単眼鏡を覗き、そして――止まった。
「シロコ」
「ん」
「もう三発」
タン。タン。タン。
彼は単眼鏡を下ろした。
「……銃を貸せ」
彼はシロコのアサルトライフルを受け取り、光学照準器のマウントを指で摘んで軽く捻った。
かすかに動いた。
「――ネジが緩んでいる」
「え」
「一箇所じゃない。四箇所全部だ。緩んで締まってまた緩んでを繰り返した跡がある。……いつからだ」
シロコがゆっくりと瞬きをした。
「……分からない。でもたぶん一年半くらい前から少し右に外れるようになった」
「どう対処した」
「少し左を狙ってた」
ウェッブはしばらく彼女を見た。
「――一年半狂った照準器で外して当てていたのか」
「ん」
「六百メートルの標的でもか」
「そこまでは撃たない」
「三百は」
「三百なら当たる」
彼は無言でトルクレンチを取り出し四本のネジを規定の値で締め直し、白いペンでネジ頭と台座に一本の線を引いた。
「この線がずれていたら緩んでいる。毎朝見ろ」
「ん、了解」
「シロコ」
「なに」
「今のは才能だ」
彼は言った。
「一年半壊れた道具で当て続けたのは間違いなく才能だ。……だが今日から才能で補うのはやめろ。道具を直せ。才能は道具が正しいときに使え」
砂狼シロコはしばらく自分の銃を見下ろしていた。
そしていつもの淡々とした声で言った。
「……ん。もったいなかったな」
「そうだな」
「一年半、無駄に撃ってた」
「無駄じゃない。一年半外し方を覚えた。それは今日から風の読み方に転用できる」
シロコの獣耳がぴくりと立った。
「……それ、面白い」
「面白いだろう」
「ん」
彼女は再び伏せた。
三十分後、彼女の三発は二十五メートル先の紙の上で直径三センチの円の中に収まっていた。
---
セリカの問題は別のところにあった。
彼女の弾着は右下に散っていた。しかも規則的に。
「セリカ」
「な、なによ」
「弾倉を渡せ」
ウェッブは彼女の弾倉を受け取り、背中を向けて何かをして返した。
「もう一度、五発」
タン。タン。タン。カチ。
四発目で銃が鳴らなかった。
そして――
黒見セリカの身体が大きく前へ跳ねた。
肩が落ち、頭が沈み、銃口が下を向いた。撃っていないのに。
「……あ」
彼女は自分がやったことを理解した。
「――今のが君の右下だ」
ウェッブは静かに言った。
「弾が出るより先に身体が反動に備えている。予期(アンティシペーション)という。人間なら誰でもなる。恥じゃない」
「……」
「君は二年間耳栓なしで屋内で隣でミニガンを撃たれながら撃ってきた。あの音の中で身体が縮まないほうがおかしい」
彼はダミー弾を掌に載せて見せた。
「これを弾倉の中に無作為に混ぜる。いつ来るか分からない。……身体が嘘をつけなくなるまでこれを続ける」
「……分かった」
セリカはヘッドセットを付け直し頬を叩いた。
「もう一回」
「弾倉、二十発。うち五発がダミーだ」
「上等よ」
その日の午後には彼女の弾着は右下から中心へゆっくりと寄り始めていた。
そして彼女がその日一番はっきり覚えたのは命中率ではなかった。
「ワークスペース」
ウェッブは自分の顎の前あたりに両手で球を作ってみせた。
「顎の前、直径四十センチくらいの空間だ。弾倉交換も槓桿を引くのも故障の排除も全部この空間の中でやれ」
「なんで?」
「手元を見ないためだ。視線を下げると敵を見失う。この空間の中でやれば目は敵を見たまま手だけが動く」
セリカは弾倉交換をその日だけで四百回やった。
最初は八秒かかった。
日が暮れる頃には二・二秒になっていた。
---
ノノミの授業は他の四人とは完全に別だった。
ウェッブは彼女を土塁の上に連れて行き、そこに三脚と金属の器具を据えた。
「これは何ですか?」
「昇降俯仰機構(T&E)という。銃を左右と上下に目盛りで固定する道具だ」
彼はミニガンの銃身束を指した。
「君は撃つ場所を目で決めている。だから毎回違う場所を撃つ。……これを使うと暗闇でも煙の中でも目盛りだけで昨日と同じ場所を撃てる」
「まあ!」
「そして、これを覚えろ。最終防護射撃(FPL)だ」
彼は地図に一本の直線を引いた。校舎の正面を地面すれすれに横に薙ぐ線。
「ここが破られたら学校が終わるという最後の一線をあらかじめ決めておく。その線の上に君の銃を目盛りで固定しておく。……そしてその線が破られそうになったら誰かが無線で二つの言葉を言う」
「二つの言葉?」
「『ファイナル・プロテクティブ・ライン』。それを聞いたら君は目を閉じていてもその線を撃つ」
ノノミはしばらく黙っていた。
「……先生」
「なんだ」
「それはみんなが下がりきったあとに撃つということですか」
「そうだ」
「みんなが下がりきらなかったら」
「撃たない」
ウェッブは言った。
「だから下がりきったかどうかを誰かが確認して君に伝える。……君は判断しない。君は撃つ」
「私は判断しないんですね」
「君に判断させると君は撃たない」
「……あら」
ノノミは微笑んだ。
「よく、ご存じで」
「二日目に分かった」
彼は淡々と言った。
「君は他人のために自分の判断を曲げる癖がある。それは長所だ。だがあの一線の上では欠点になる。だから君からその判断を取り上げる」
「……はい」
「代わりに俺が判断する。俺がいないときは指揮継承順位の一番上の人間が判断する」
「はい」
「そして判断した人間が責任を持つ」
十六夜ノノミはミニガンの把手を握り直した。
指が少しだけ震えていた。
「先生」
「なんだ」
「私ずっとこの銃が怖かったんです」
「……」
「音が大きいからみんなが下がってくれるでしょう? だから私撃つんです。撃てばみんなが安全な場所に行ってくれるから。……でもそれは私が『みんなを下がらせている』だけで、私は何も守ってないなってずっと」
彼女は目盛りを見た。
「これがあれば私ちゃんと守れますか」
「守れる」
ウェッブは即答した。
「今日から君の銃は最も遠くから最も長く仲間を守る装備だ。……その代わり覚えることが四人の三倍ある」
「はぁい」
彼女は笑った。
そしてその日彼女は初めて――三秒以上引き金を引かなかった。
---
アヤネの銃は拳銃だった。
『コモン・センス』。彼女がそう呼んでいる小さな自動拳銃。
「アヤネ」
「はい」
「君は今日からこの銃を抜く練習をする。一日千回だ」
「せ、千回!?」
「抜くだけだ。撃たない」
彼は彼女のホルスターの位置を二センチ下げた。
「君の仕事は撃つことじゃない。無線と航法と記録だ。この銃を抜く場面が来たとき、それは部隊の他の全員が使えなくなったときだ」
「……」
「だから抜けなければ意味がない。速さは要らない。確実さが要る。……手が震えていても目が見えなくても抜ける手だけを作る」
アヤネは拳銃を握った。
「先生」
「なんだ」
「私この銃で誰かを撃ったことがありません」
「知っている」
「二年間、一度も」
「記録に書いてある」
彼女は俯いた。
「……私この委員会で一番弱いです。走るのも遅いし撃つのも下手だし力もないし。ヘリも操縦できないし重機も直せないしミニガンも持てないし」
「奥空アヤネ」
「はい」
「四十一日前、五人のうち誰が要請書を書いた」
彼女が顔を上げた。
「……私ですけど」
「二年間、誰が襲撃の回数を数えた」
「……私です」
「二年間、誰が偏差を測った」
「……」
「昨日集結点を十一メートルの誤差で当てたのは誰だ」
「……私です」
「この学校で唯一外に声を届けたのは誰だ」
アヤネは答えられなかった。
「弱いのは身体だ」
ウェッブは言った。
「身体は鍛えれば伸びる。伸びなくても他の四人が代わりに担げる。……だが君がやってきたことは他の四人には代わりが利かない」
「……」
「千回、抜け」
「……はいっ」
---
そしてホシノ。
彼女の授業は一番短かった。
ウェッブは彼女に散弾銃を持たせ、五十メートル先の標的を撃たせた。
散弾は届かなかった。
「知ってた?」
彼女は笑った。
「うん、知ってた。おじさんの銃、遠くは無理なんだよね」
「知っていて、どうしていた」
「近づいてた」
「そうだな」
ウェッブは彼女の隣に立った。
「今日から近づかない」
「……」
「散弾銃は二十メートル以内ではこの街のどんな銃より速く相手を止められる。二十メートルを越えるとただの重い棒になる。……だから君は二十メートル以内が来るまで待つ」
「待つの、苦手なんだよね」
「知っている」
彼はスラッグ弾を一発彼女の掌に置いた。
「これは散らない。一発の塊で飛ぶ。八十メートルまで届く。……装弾を切り替えろ。散弾とスラッグを状況で選べ。切り替えの手順を教える」
「へえ」
「そしてもう一つ」
彼は彼女の腰の拳銃を指した。
「君の主武器は今日からこの四人だ」
ホシノの動きが止まった。
「……なにそれ」
「君が二階の踊り場に立って四人の位置を全部見て、無線で位置を割り振る。それがこの学校の最大火力だ」
「……」
「九日目の交戦は六分四十秒で終わった。八十メートル以内に一人も入れていない。君は一発も撃っていない」
彼は記録板を閉じた。
「あれが君の一番強い戦い方だ」
小鳥遊ホシノは散弾銃を持ったまま長いこと立っていた。
やがて彼女は言った。
「……先生」
「なんだ」
「私さ、一年生の頃ずっと前に立ってたんだ」
彼女の声から間延びした調子が抜けていた。
「先輩がいて、その先輩が私の前に立ってくれてた。それでその先輩が――いなくなって」
砂が射撃場を横切っていく。
「そのとき私思ったの。ああ、前に立つ人がいなくなったんだ、じゃあ私が立たなきゃって」
「……」
「二年間ずっとそう思ってた。前に立つのがいなくなった人の代わりをするってことだって」
彼女は散弾銃の遊底をゆっくりと引いた。
「……違ったんだね」
「違う」
ウェッブは言った。
「代わりをするな。続きをやれ」
ホシノは目を閉じた。
そして二年ぶりに――泣かなかった。
代わりに笑った。
「……うん」
「もう一度五十メートル。今度はスラッグで」
「はぁい」
ドンと重い音が響いて、五十メートル先の標的が真っ二つに割れた。
---
日が落ちるまで五人は撃ち続けた。
弾倉交換の音。槓桿を引く音。「レッド」「グリーン」と声を出す音。誰かが間違えて誰かが指摘して誰かがやり直す音。
薬莢が射座の砂の上に山になっていった。
一九四〇時。
ウェッブは射撃終了を宣言し五人に武器の手入れをさせ、それから記録板を開いた。
「今日の結果を言う」
彼は五人を整列させた。
「二十五メートル、五発の集弾。シロコ、直径二・八センチ。セリカ、九・一センチ。ノノミ――ミニガンなので測定不能。ホシノ、スラッグで七・四センチ。アヤネ、拳銃で十四・六センチ」
「……」
「初日の記録と比べる」
彼はページをめくった。
「――比べられない。初日は誰もゼロインをしていなかった」
彼は記録板を閉じた。
「つまり今日が一日目だ」
五人が彼を見た。
「十四日で君たちに教えたのはここまでだ」ウェッブは言った。「知っていることとできることはまったく別のものだ。頭で分かった通りに身体が動くようになるまで、人間は何百回何千回と同じことを繰り返さなければならない」
彼は日の落ちた砂丘の稜線を一瞥した。
「銃声の中でも恐怖の中でも疲労困憊の中でも、考えるより先に身体が正しく動く。そこまで行って初めて訓練が終わる」
「――ここからだ」
砂だらけの五人が砂だらけの校庭でまっすぐ前を見ていた。
「はい、先生」
「ん、了解」
「はぁい」
「わ、分かったわよ!」
「はいっ!」
五つの声はまだ揃っていなかった。
だが五つとも同じ方向を向いていた。
---
十一.〇四四〇時
その夜、ウェッブは屋上にいた。
無線機を膝に置き東の地平線を見ていた。
眼下の校庭には二千百個の土嚢と掘り返された掩体と二十五メートルの標的架が並んでいる。校舎の窓の中には五人分の寝息。
彼は魔法瓶からコーヒーを注いだ。
不味かった。
タフブックを開き、『アビドス自治区――状況評価および行動方針案』の第三版を開いた。
『COA1:防衛の非対称化――所要十四日。
達成状況:おおむね達成。
備考。
第百四十八回の襲撃において、当校の防衛は一名の三年生に七十六パーセントを依存していた。
第百五十回において、その数値は二十二パーセントまで低下した。
同交戦における消費弾数は七百三十七発から百六十四発へ低下し、敵の最接近距離は八メートルから八十二メートルへ後退した。
――以上は数字である。
数字にならない変化を、以下に記録する。
一.五名のうち四名が、三年生に対して「前に出るな」と口頭で要求できるようになった。
二.三年生が、指揮継承順位の第一位に他人の氏名を記入した。所要日数、五日。
三.一年生が、自身の記録の価値を初めて他人の口から聞いた。
四.二年生が、自分以外の人間の金で買われた装備を受け取った。
五.三年生が、交戦中に一発も撃たなかった。そして、それを敗北と呼ばなかった。
本項の作成時、筆者はこの五名を「二年間、崩壊を先延ばしにしてきた集団」と評価した。
現時点の評価を改める。
――部隊である。』
彼はそこまで打ち少し考え、最後にもう一行だけ足した。
『ただし、まだ新兵だ。』
保存。
彼はタフブックを閉じコーヒーを飲み干した。
そして壁のカレンダーのことを考えた。
二十五日。現金輸送車が来る日。受領書の連番。二十四ヶ月分。
――〇八〇〇時に、あの三冊をもう一度読む。
そう考えたとき、膝の上の無線機が小さく雑音を吐いた。
シャーレの予備回線ではない。
彼が三日前自分用に開けておいた闇市場の周波数だった。
内容はごく短い商業通信だった。暗号でもなんでもない。ただの業者間の連絡。
『――カタカタ、契約終了。今月末で打ち切り。理由は費用対効果。
次は六八でいく。単価は四倍。着手は来月。以上』
ウェッブは送話器に手を伸ばさなかった。
彼はただ無線機のダイヤルをその周波数に固定したまま、東の空が灰色から金色へ変わっていくのを見ていた。
――費用対効果。
――つまり、あの子たちの日当が上がりすぎたということだ。
――つまり、この十四日はこちらが思っているより正確に測れていた。
彼はカップを置いた。
砂漠の朝の空気が頬を撫でていく。
やがて東の空が白み、階下から五人分のアラームが一斉に鳴る音が聞こえてきた。
十五日目が始まっていた。