『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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第6話(アビドス編):パーソネル・リカバリー

一.第二次

 

十五日目の朝、昇降口の掲示板に二枚目の紙が貼られた。

 

『アビドス高等学校 廃校対策委員会 訓練計画表(第二次)』

 

一枚目の紙は剥がされなかった。ウェッブはその隣に四隅を画鋲で留めて、新しい紙を並べた。

 

セリカが読み上げた。

 

「……『偵察および監視』。『パトロールの編成』。『室内戦闘(応用)』。『近接格闘』。『捕獲者の取り扱い』。……『任務型指揮』?」

 

「上から順に、覚えていないと死ぬ順だ」

 

「それ前も言ってたわよ!」

 

「前も本当だった」

 

〇六〇〇時。五人の背筋は、もう条件反射で伸びるようになっていた。

 

「十四日で君たちは撃てるようになった」ウェッブは言った。「今日から教えるのは、撃たずに済ませる技術だ」

 

「……撃たずに?」アヤネが復唱した。

 

「敵がどこにいるかを敵が撃ってくる前に知る。知っていれば選べる。選べれば撃たずに済む場合がある。……二年間、君たちは一度も選んでいない。全部向こうが決めていた」

 

彼は砂丘の稜線を指した。

 

「今日からこちらが決める」

 

---

 

斥候の教育は、最初の三日間ほとんど「歩かない訓練」だった。

 

「斥候の仕事は撃つことじゃない。見て帰ってくることだ」ウェッブは言った。「撃った斥候は失敗した斥候だ」

 

「えっ、勝っても?」セリカが訊いた。

 

「勝っても失敗だ。撃った瞬間、敵は『見られている』と知る。……君が持ち帰るはずだった情報の価値がそこで半分になる」

 

彼は砂の上に七つの短い文を書いた。

 

『絶えず偵察せよ。

偵察の目標を見失うな。

接触を得て、失うな。

自らの行動の自由を保て。

情報は速やかに、正確に報告せよ。

偵察部隊を予備にするな。

状況を早く見極めよ。』

 

「この七つは二百年前から書き換えられていない。理由は書き換える必要がなかったからだ」

 

そして報告の形式。

 

「SALUTEだ。規模、活動、位置、所属、時刻、装備。この六つをこの順番で言え。順番が固定されていれば聞く側は次に何が来るか分かる。分かっていれば聞き逃さない」

 

「六つも覚えられるかしら……」ノノミが困り顔をした。

 

「覚えるな。書け。……そのために全員の左腕にこれをつける」

 

彼はゴムバンドで留める小さな防水の記入板を五つ配った。表面には六つの欄が印刷されている。

 

「見て、書いて、送る。記憶に頼るな。人間の記憶は恐怖の中で最初に壊れる」

 

そして、シロコが選ばれた。

 

「シロコ」

 

「ん」

 

「今日から君は斥候だ」

 

砂狼シロコの獣耳がぴくりと動いた。

 

「一人?」

 

「二人だ。アヤネと組め」

 

「え、わ、私ですか!?」

 

「君は歩測ができる。偏差の補正ができる。星が読める。……そして君は撃たない。斥候としてこれ以上ない資質だ」

 

「そ、それ褒めてます!?」

 

「褒めている」

 

ウェッブは二人の前に膝をついた。

 

「出る前に必ず五つを残せ。GOTWAだ」

 

彼は指を折った。

 

「一、どこへ行くか。二、誰を連れていくか。三、いつ戻るか。四、戻らなかったときに残った者は何をするか。五、途中で撃たれたときに両方が何をするか」

 

「……四つ目」セリカが小さく言った。「それ、けっこう嫌な項目ね」

 

「嫌な項目だ。だから最初に決めておく」

 

ウェッブは立ち上がった。

 

「決めていない部隊は四つ目が起きたときに必ず探しに行く。探しに行って二人目を失う」

 

---

 

三日目の夜。

 

シロコとアヤネは校舎から北へ四・二キロの砂丘の裏に潜伏監視所を築いた。

 

穴ではない。窪みですらない。乾いた低木の陰に砂色の布を張り、その下に二人が横たわるだけの空間だ。掘れば影ができる。影は遠くからよく見える。

 

「動くな」ウェッブは無線で言った。「六時間だ。飲め、食え、記録しろ。だが動くな」

 

「六時間……」アヤネの声が震えていた。「あの、先生。トイレは」

 

「持ってきた袋にしろ」

 

「……はい」

 

四時間五十分後。

 

『――シックス、こちらデルタ・ワン。SALUTE、送る』

 

シロコの声だった。囁きよりも小さいのに、はっきりと聞き取れる声だった。

 

『規模、車両四、人員推定四十から四十五。活動、集結および装備の分配。位置――エコーが読む』

 

『こちらエコー・ワン、位置、方位〇八六、当該地点から一一〇〇。座標、送る』

 

アヤネの声には震えがなかった。

 

『所属、ヘルメット。ヘルメットの色が三種類ある。黒が三十、赤が四、白が八。白は見たことがない』

 

『時刻、二三一二。装備――』

 

そこで一秒、シロコの声が止まった。

 

『――装備、白の八名だけ暗視装置を持ってる』

 

対策委員会室で、ウェッブは記録板にその一行を書き込んだ。

 

そして初めて口の端をわずかに動かした。

 

「――よく見た。デルタ、エコー、そのまま。撤収は〇一〇〇時。以上」

 

『デルタ、ラジャー』

 

『エコー・ワン、ウィルコ』

 

無線が切れた。

 

対策委員会室の壁際で、小鳥遊ホシノがソファの背に顎を乗せて、その一部始終を聞いていた。

 

「……ねえ、先生」

 

「なんだ」

 

「アヤネちゃん、四時間半、砂の下で動かなかったんだよね」

 

「そうだ」

 

「あの子、去年まで砂嵐の日に窓閉めるのも怖がってたのに」

 

ホシノは天井を見上げた。

 

「……なんでそんなことできるようになっちゃうんだろ」

 

「できるようになってんじゃない」

 

ウェッブは記録板を閉じた。

 

「怖がったままやれるようになったんだ。それは別のことだ」

 

---

 

二.四十センチの世界

 

近接格闘の授業は体育館で行われた。

 

ウェッブは畳の代わりに土嚢を割いて敷いた砂の層を六十枚並べさせた。二時間かかった。彼はその二時間も訓練だと言った。

 

そして彼が最初にやったことは、五人を座らせて一冊の雑誌を配ることだった。

 

セリカがコンビニの深夜勤で貰ってきた、返本予定の週刊誌だった。

 

「……なにこれ」

 

「武器だ」

 

「は?」

 

ウェッブは自分の分の雑誌を端から固く巻いた。直径三センチほどの短い棒になった。

 

「紙は巻くと硬くなる。硬いものは狭い場所で振れる。振れるものは武器だ」

 

彼は棒の先で、自分の喉の前、鎖骨の窪み、顎の下を順に軽く叩いてみせた。

 

「――俺が今指した三箇所は、この街の生徒には効かない。ヘイローが運動量を減衰させるからだ」

 

「じゃあ意味ないじゃない!」

 

「意味はある」

 

彼は棒を横にしてセリカの右手首の下に滑り込ませ、ほんの少しだけ持ち上げた。

 

セリカの身体が勝手に半歩、横へ動いた。

 

「……え」

 

「痛みじゃない。角度だ。……人間は手首の角度が変わると肘が動く。肘が動くと肩が動く。肩が動くと足が出る。足が出た人間は撃てない」

 

彼は棒を下ろした。

 

「一秒でいい。相手を撃てなくすれば隣の誰かが撃てる」

 

シロコが手を挙げた。

 

「ん。……武器がないときは」

 

「武器がないという状態は存在しない」

 

ウェッブは体育館を見回した。

 

「箒。バケツ。跳び箱の踏み板。カーテンの紐。君たちの水筒。アヤネのバインダー。ノノミの紅茶のポット――は熱いから使うな、火傷する」

 

「使いませんよぉ」

 

「セリカの弾倉ポーチには金属の弾倉が六本入っている。あれは片手で握れる鈍器だ。……ただし使ったら弾はなくなる。順番を間違えるな」

 

セリカが自分の胸元を見下ろして複雑な顔をした。

 

「……なんか、あんたの世界の見え方ってこわいわね」

 

「そうだな」

 

ウェッブは否定しなかった。

 

「俺は部屋に入って三秒で出口を三つと武器を七つ数える。二十年やっている。……もうやめ方が分からない」

 

彼は雑誌を巻き直した。

 

「だが今日はそれを教える。君たちにはやめ方も一緒に覚えてもらう」

 

---

 

そしてホシノの授業は、他の四人と正反対だった。

 

「委員長」

 

「はぁい」

 

「君は力を使うな」

 

「……えー」

 

「君が本気で腕を掴めば、掴んだ相手の腕はこの街の物理法則の外側にある力で固定される。だが君はその力を〇・一秒で調整できない」

 

彼はホシノの前に立った。

 

「昨日セリカの襟を掴んで引き寄せたな。あれは訓練の範囲だ。だが君の指は掴んだあと〇・四秒力が抜けていなかった。……相手が敵で君が全力なら、あの〇・四秒で相手の鎖骨は終わっている」

 

ホシノの笑顔が少しだけ薄くなった。

 

「……別にいいんじゃないの。相手、敵だし」

 

「良くない」

 

「なんで」

 

「今日、君の相手はセリカだからだ」

 

沈黙。

 

「君の一番の武器はこの学校で君だけが持っている力だ。そして君の一番の弱点も同じものだ」ウェッブは言った。「強い人間は手加減の技術を最後に覚える。だが覚えなかった強い人間を俺は何人か知っている」

 

「……どうなったの」

 

「味方を壊した」

 

ホシノはしばらく自分の掌を見ていた。

 

それから、いつもの調子で言った。

 

「うへ〜。今日も先生の授業しんどいなあ」

 

「しんどい」

 

「そこ、否定してよ」

 

「事実だ」

 

その日、小鳥遊ホシノは四時間かけて「相手を制圧したまま相手の骨を折らない握り方」だけを練習した。

 

四時間の終わりに、彼女はセリカの手首を掴んで床に落とし、そのまま三秒静止した。

 

セリカは無傷だった。

 

「……できた」ホシノが言った。

 

そしてそのあと十分ほど、誰にも見えないところで手を握ったり開いたりしていた。

 

---

 

三.第百五十二回

 

二十日目の一〇四〇時。

 

砂丘の向こうの土煙は、その日四十分早く見えた。

 

正確には見えたのではない。四十分前にシロコが報せていた。

 

『――シックス、こちらデルタ。ロメオ・トゥーの北二千。集結始まった。白、六名。稜線に上がる気だ』

 

「シックス、了解。……委員長」

 

『アルファ・ワン』

 

「指揮を取れ」

 

無線の向こうで〇・五秒の空白があった。

 

『……アルファ・ワン、ウィルコ』

 

その日の交戦は三分四十秒で終わった。

 

白ヘルメットの六名は稜線に上がる前に稜線の裏で待っていた。彼女たちがそこを通ることは二日前からシロコの記録に書いてあった。三度同じ場所を通っていたからだ。

 

『ブラボー、東の窪みに火線を寝かせて。……そのまま、撃たないで待って』

 

ノノミのミニガンは目盛りで固定されたまま二分間沈黙していた。

 

『――チャーリー、位置ついた?』

 

『チャーリー、ついた! 目標、見えてる!』

 

『じゃあ、声かけて』

 

「声?」

 

『大きい声で、「止まれ」って』

 

セリカは一瞬固まり、それから土嚢の上に半身を出して砂漠に向かって思い切り叫んだ。

 

「――止まれェ!!」

 

稜線の裏の六人が止まった。

 

そして自分たちの正面と右と左から、三方向に土嚢の壁が並んでいるのを見た。

 

一発も撃たれていないのに六人は伏せた。

 

『――ブラボー、三秒。頭の上』

 

ノノミの銃身束が三秒だけ吠えた。砂が二メートル舞い上がり、誰にも当たらなかった。

 

三分四十秒後、砂丘の向こうから四台の車両が引き返していった。

 

その日の消費弾数は七十二発だった。

 

そして小鳥遊ホシノは一発も撃たなかった。

 

彼女はその三分四十秒のあいだ二階の踊り場に立ち、四人の位置を見て無線に十一回声を出しただけだった。

 

---

 

一八〇〇時。旧一年三組。事後検討。

 

黒板の四行はいつも通りだった。

 

「三つ目だ。なぜそうなったか」

 

「敵が同じ道を三回通ったからです」アヤネが即答した。

 

「そうだ。……そしてもう一つ。今日、敵は本気じゃなかった」

 

四人が顔を上げた。

 

「二十七分で撤収の判断をした前回に比べて今日は三分四十秒だ。損害はゼロ。装備の遺棄もない。……あれは負けたんじゃない。帰ったんだ」

 

「……なんで?」セリカが言った。

 

「今は答えない」

 

「なんでよ!」

 

「材料がないからだ。推測を君たちに渡すと、君たちは推測に基づいて動く」

 

ウェッブは記録板を閉じた。

 

その紙の裏に、彼だけが読める字で一行が書いてある。

 

『第百五十二回。敵の交戦意欲、著しく低下。契約の終期が近い。二十五日を待て。』

 

「四つ目。次はどうするか」

 

彼は五人を見渡した。

 

そして黒板に新しい言葉を書いた。

 

『指揮官の意図』

 

「今日はこの一つだけを教える」

 

彼はチョークを置いた。

 

「命令には二種類ある。『何をしろ』と『何のためにやるのか』だ。……君たちが今まで受け取ってきたのは全部前者だ。前に出ろ。下がれ。撃て。撃つな」

 

「うん」

 

「だが命令は届かなくなる。無線が壊れる。俺が撃たれる。俺が電話に出ない。……そのとき『何をしろ』しか知らない部隊は止まる」

 

彼は五人の顔を順に見た。

 

「だから今日から俺は命令のたびに必ず最後に一行足す。『何のためにやるのか』を」

 

「……それだけ?」アヤネが訊いた。

 

「それだけだ。だがそれが分かっていれば君たちは俺がいなくても動ける。俺の命令じゃなく俺の意図を実行しろ。……状況が変わったら命令のほうを捨てていい」

 

セリカが手を挙げた。

 

「あの。……捨てて、間違ってたら?」

 

「俺が責任を取る」

 

「先生がいないから捨てるって話なのに!?」

 

「そうだ。矛盾している」

 

ウェッブは平坦に言った。

 

「だが二百年やって、この矛盾より上手いやり方は見つかっていない」

 

彼は最後に、黒板の隅に短い数字を書いた。

 

『6』

 

「今日から俺の呼出符号を決める。『シックス』だ」

 

「なんで六?」アヤネが訊いた。

 

「昔からそうなっている。部隊の指揮官は六番だ。理由は誰も覚えていない」

 

「じゃあ、シックスがいなくなったら?」

 

ウェッブは彼女を見た。

 

そして壁に貼られた紙を指した。

 

『指揮継承順位 一.小鳥遊ホシノ』

 

「シックスはアルファ・ワンになる」

 

ホシノがソファの端で、小さく「うへ〜」と言った。

 

その声にはいつもの間延びした調子が半分しか残っていなかった。

 

---

 

四.二三〇八時

 

その夜、ウェッブは旧一年三組でいつも通りの作業をしていた。

 

まず第九回試験の採点。

 

赤ペン。両面刷り、二十問。

 

奥空アヤネ、百点。余白に『航法の設問、二問とも君の実測値のほうが正しい。次から俺が君の数字を使う』と書き足した。

 

砂狼シロコ、九十五点。『設問十四、君の答えは教範と違うが君の答えのほうが今回の地形では正しい。理由を明日説明しろ』

 

十六夜ノノミ、九十点。『救護の項目、三回連続で満点。他の四人に教えるのは君の仕事だ』

 

黒見セリカ、九十四点。『弾道の計算が速い。速いだけでなく検算をしている。それは才能ではなく習慣だ。習慣のほうが強い』

 

小鳥遊ホシノ、十八問正解。

 

設問十の欄には今回もきちんと『砂狼シロコ』と書かれていた。字は前回より震えていなかった。

 

ウェッブは赤ペンを置き、タフブックを開いて翌日の試験問題を打ち込んだ。

 

第十回。二十問。

 

十九問目まで打ち終えて、彼は最後の一問で少し考えた。

 

それからこう打った。

 

『設問二十.指揮官と連絡が取れなくなった。君たちが最初に確認すべきことを三つ、優先順に書け』

 

保存。印刷。

 

インクジェットプリンタが五枚を吐き出すのに四分二十秒かかった。彼はその四分二十秒のあいだ割れた窓の外を見ていた。

 

星が出ていた。

 

砂漠の夜はこの街のどこよりも星がよく見える。ネオンがないからだ。ウェッブはこの光景にまだ慣れていなかった。二十年間、彼にとって星というのは主に方位を出すための道具だった。眺めるものではなかった。

 

刷り上がった五枚を教卓に伏せて置いた。

 

二三〇八時。

 

彼は床に敷いた寝袋に横になり、上着を畳んで枕にした。ブーツは脱がなかった。二十年一度も脱いだことがない。

 

窓の下では乾いた瓦礫の隙間で、小さな生き物が規則的な摩擦音を立てていた。

 

その音を聞きながら彼は眠った。

 

異状は何もなかった。

 

---

 

五.〇一四七時

 

目を開けなかった。

 

これは訓練ではなく二十年間の習慣だった。意識が戻ったことを相手に知らせずに、まず情報を集める。

 

聴覚。

 

――何もない。

 

これが最初の異常だった。

 

空調の唸りがない。配管の水の音がない。外を走る車の音がない。建物というものは必ず音を立てる。木材が湿度で軋み、電線が微かに鳴り、どこかの部屋で誰かが咳をする。無音の建物は存在しない。

 

――音がないというのは部屋がないということだ。

 

嗅覚。

 

――何もない。埃の匂いすらしない。

 

触覚。

 

――革。背中の下。ひび割れていない。冷たくもない。人間が座り続けた革は必ず座面の中央が沈み、体温を吸って生温くなる。この革はどちらでもなかった。

 

そして、彼は自分の身体を点検した。

 

頭痛はない。口の中に金属の味も薬品の後味もない。肘の内側にも頸部にも大腿の内側にも針の痕はない。

 

服装。乱れていない。上着のジッパーの位置は、彼が眠る前に下ろした位置のままだ。

 

ブーツ。

 

――結び目が俺の結び方だ。

 

彼は二十年間同じ結び方をしている。二重に絡げて余りを内側へ折り込む。世界中のどの靴紐職人もやらない彼だけの手癖だ。誰かが脱がせて履かせ直したなら、この結び目は再現できない。

 

つまり――彼は自分の足でここまで歩いてきた。

 

その事実が、この状況の中で最も恐ろしかった。

 

――記憶がない。

 

彼は目を開けた。

 

事務所だった。

 

木の羽目板の壁。天井は低い。スチール製の書類棚が三本右手の壁に並んでいる。窓には金属製のブラインドが下りている。左手にドア。中央に応接用のローテーブル。彼が横たわっているのはその手前の革張りのソファだ。

 

そして部屋の奥、正面に大きな事務机が一つ。

 

机の上には緑色の傘のついたデスクランプが点いている。

 

――配線がない。

 

ランプの台座からコードが出ていなかった。

 

――壁にコンセントが一つもない。

 

彼は左手首を見た。腕時計は動いていた。〇一四七時。

 

正面の壁の掛時計も〇一四七を指していた。

 

秒針が動いていなかった。

 

動いていないのに時刻は合っていた。

 

――ここはどこでもない。

 

ウェッブは身体を起こした。ゆっくりと。両手を膝の上に置いて掌を見せて。

 

そして机の向こうを見た。

 

椅子に何かが座っていた。

 

黒い背広だった。仕立ては完璧だった。襟の返しも袖口から覗く白い部分も、およそ人間の紳士が金をかけて誂えるもののすべてが正確にそこにあった。

 

首から上がなかった。

 

正確には――そこには黒があった。輪郭を持たない黒がゆっくりと蠕動しながら、頭部があるべき空間を占めていた。煙のようでもあり影のようでもあり、そのどちらでもなかった。

 

顔がない。目がない。表情が一切読めない。

 

「おや……? これはこれは」

 

声がした。

 

「ようこそお越しくださいました」

 

――方向がない。

 

ウェッブの脳が真っ先にそれを処理した。声には距離がある。壁に反射し、床に吸われ、話者の口の高さから来る。だがこの声にはそのどれもなかった。部屋のあらゆる場所から同時に等しい音量で聞こえた。

 

「――座ったままで失礼する」

 

ウェッブは言った。

 

「どうぞ。楽になさってください。ここでは貴方に危害を加えるつもりはありません」

 

「そうか」

 

「信じておられませんね」

 

「信じる材料がない」

 

「合理的です」

 

黒服は――そう名乗る前からウェッブの頭の中でその呼び名は既に定まっていた――机の上で両手を組んだ。

 

指は十本あった。爪もあった。人間の手だった。

 

「申し遅れました。私のことは黒服とお呼びください。皆さんそう呼びます」

 

「デイヴィッド・ウェッブだ」

 

「存じております」

 

「だろうな」

 

ウェッブは部屋を見ていた。見ながら聞いていた。

 

そして三十秒ほどで、彼は最初の異常を言語の側で捉えた。

 

――息をしていない。

 

人間の話す文には必ず肺の限界がある。どれほど流暢な話者でも二十秒に一度は息継ぎのために文を切る。切る位置は文法ではなく肺が決める。だから人間の話し方には意味と無関係な区切りが必ず混ざる。

 

この声にはそれがなかった。

 

区切りは全部意味の側にあった。文の長さは肺ではなく論理が決めていた。

 

――言語学的に言えば、これは「話している」のではない。

 

――「文を出力している」んだ。

 

「ずっとお会いしたいと思っておりました」

 

黒服は言った。

 

「川の底のことを覚えておいでですか」

 

ウェッブの指が膝の上で〇・二秒だけ止まった。

 

「傷だらけの少女が貴方に頼み事をした。頭から血を流して煤にまみれて、それでも貴方に頭を下げた。……あれを私は見ておりました。いえ、見ていたという言い方は正確ではありませんね。観測していたと申し上げるべきでしょうか」

 

「……」

 

「あの少女はずいぶんと高い代価を払って貴方を呼んだ。呼んでおいて名乗りもしなかった。実に大人げない大人です。ええ、彼女もまたこの街では数少ない『大人』でしたから」

 

黒服は、わずかに首と思しき部分を傾けた。

 

「アリウス・バシリカ。エデン条約調印式典の前夜。二二三八時」

 

ウェッブは動かなかった。

 

「薬莢を三つ拾われましたね」

 

「……」

 

「二つではなく三つ。二つで済ませる者は多い。三つ目を探す者は少ない。三つ目を探して、しかも見つけてから床の目地を布で二度拭う者は――私の知る限り貴方だけです」

 

「見ていたのか」

 

「後から。……私が気づいたのは十一時間遅かった」

 

黒服はゆっくりと両手を開いた。

 

「あの夜、あの聖堂で、翌日の正午に何が起こる予定だったかは貴方もご存じでしょう。トリニティの講堂。ゲヘナの来賓席。そして火を放つ役目を負わされていた四人の子供」

 

「……」

 

「そのどれも起こらなかった」

 

黒服は言った。

 

「私はあれをずいぶん長いこと考えました」

 

彼は続けた。

 

「廃校の決定していた学園を貴方は書類だけで止めた。四十三枚だったと記憶しております。連邦生徒会の防衛室長には銃口を向けて説教をなさった。……あれは実に見事でした。あの少女に必要だったのは処罰ではなく叱責でしたから。それを見抜いた大人はこの街に一人もいなかった」

 

「――待て」

 

ウェッブは初めて話を遮った。

 

「なんでしょう」

 

「本題を言え」

 

「本題」

 

「あんたは俺の履歴を読み上げるためにこれをやったわけじゃない」

 

ウェッブは静かに言った。

 

「人間をこういう部屋に連れてくる理由は三つしかない。取引か尋問か処分だ。……俺は縛られていない。武器は取り上げられていない。だから処分じゃない。あんたはまだ質問を一つもしていない。だから尋問でもない。残るのは取引だが、あんたは要求を何も口にしていない」

 

「よく整理されておられる」

 

「四つ目があるなら言え」

 

「では四つ目を」

 

黒服は両手をまた組み直した。

 

「――ただ、貴方と話がしたかった。それだけです」

 

部屋が静かになった。

 

もともと静かだったのでそれ以上静かにはならなかったが、ウェッブにはそう感じられた。

 

彼は相手を測っていた。

 

――手は常に見えている。机の向こうから一度も出てこない。距離を詰める素振りがない。声のピッチが一定で上がりも下がりもしない。

 

――だが顔がない。読める情報が致命的に少ない。

 

だから彼は言葉を読んだ。

 

「あんた、あの女の身内か」

 

「身内。……面白い表現をなさる」

 

「同じ組織にいたな」

 

黒服はしばらく黙っていた。

 

「……ええ」

 

「そしてあの女が死んだことを残念に思っていない」

 

「思っておりません」

 

「なぜだ」

 

「彼女は規律を破りましたので」

 

――出た。

 

ウェッブは内心でその語を掴んだ。

 

規律。処分。排除。

 

これらは外部の人間が使う語ではない。組織の内側で身内を切るときにだけ使われる語彙だ。二十年間、彼はその文法をラングレーの廊下で毎日聞いていた。

 

「貴方は」黒服は言った。「私の代わりに私たちの規律を執行してくださった。あの夜、私が扉に手をかけたとき、すべては既に終わっておりました。……私は貴方に礼を申し上げるべき立場です」

 

「言うな」

 

「言いません。貴方が嫌がられるでしょうから」

 

――敵意はない。

 

ウェッブはそう判定した。

 

そして同時に、その判定に何の安心も感じなかった。敵意がないことと安全であることは全く別のことだ。彼の職業人生において最も多くの人間を殺してきたのは、敵意を持たない者たちだった。

 

「一つ伺ってもよろしいですか」

 

「聞くだけなら」

 

「シッテムの箱をなぜ電波暗室に封印なさったのですか」

 

ウェッブは一秒だけ黙った。

 

「うるさかったからだ」

 

沈黙。

 

そして黒服は――笑った。ように見えた。肩の線がわずかに揺れた。

 

「……素晴らしい」

 

「そうか」

 

「私はあれを手に入れるために十年を費やしました。私の同僚の一人はあれを『世界を読むための鍵』と呼び、別の同僚は『受肉すべき教義』と呼びました。……そして貴方はうるさいから閉じ込めた」

 

「電波暗室だ。箱じゃない」

 

「同じことです」

 

黒服は机の縁を指先で一度だけ叩いた。

 

音がしなかった。

 

「私はシッテムの箱も大人のカードも使わずにここまでたどり着いた大人を見たことがありません」

 

「大人のカード」

 

「ご存じないのですね」

 

「知らん」

 

「……ええ。それも含めて貴方は例外なのです」

 

黒服は言った。

 

「この街の大人は皆、何かを支払って力を得ます。寿命を削るか子供を差し出すか真実を売るか。そういう仕組みになっている。ところが貴方は何も支払わずに――いえ」

 

彼は言い直した。

 

「――既に、支払い終えていらっしゃる」

 

ウェッブは答えなかった。

 

「本当のことを申し上げますとね、先生」

 

――先生。

 

その語がこの部屋で使われた。

 

ウェッブの背中の筋肉が意思と無関係に一段階硬くなった。

 

「私は本来、アビドス高等学校の三年生を研究するつもりでおりました」

 

部屋の温度が変わったわけではなかった。

 

だがウェッブの体温は確かに一度下がった。

 

「あの子にはこの街で最も純度の高い神秘が宿っております。私はそれを裏返してみたかった。恐怖の側へ。……人間というのは最も愛したものを失ったときに最も美しく壊れますから」

 

「……」

 

「準備は三年前から進めておりました。債務の額を調整し、退学届の様式を用意し、彼女が一人で全部を背負う癖が固まるのを待った。……あと二年でした」

 

ウェッブは動かなかった。

 

彼はこの二十年でこれほど強い力を「動かない」という行為に費やしたことがなかった。

 

呼吸は変えない。瞳孔の位置は変えない。膝の上の手は開いたまま。

 

――今ここで殺せない。

 

――手段がない。相手の物理的実体が確認できていない。この部屋に出口があるかどうかも分かっていない。

 

――そして何より。

 

――俺が反応した瞬間、こいつは俺があの子を守っていることを確認する。

 

「ですが」

 

黒服は言った。

 

「今は貴方のほうに興味があります」

 

「……」

 

「あの子の神秘はあと十年待っても逃げません。ですが貴方は」

 

彼は両手を広げた。

 

「――貴方は、明日にも死ぬかもしれない」

 

---

 

「この物語は本来の筋書きとは大きく異なっている」

 

黒服は続けた。

 

「筋書き」

 

「ええ。私にはかつてこの街の行く末がおおよそ読めておりました。文章のようなものです。次の段落に何が書かれているか、書き手の癖から推測できる」

 

「今は」

 

「読めません」

 

黒服は初めて、わずかに困っているように聞こえる声を出した。

 

「今より先のことは不確定ではっきりとは分かりません。分岐が多すぎるのです。貴方が一つ選ぶたびに私に見えていた道が三本ずつ消えていく。……こんなことは初めてです」

 

「……」

 

「ですがこれだけは分かります」

 

黒服は両手を組み直した。

 

「貴方はいずれ大きな代償を支払う時が必ずやってくるでしょう」

 

ウェッブは、その言葉を頭の中で二度繰り返した。

 

「代償」

 

「ええ」

 

「何の」

 

「さあ」

 

黒服は言った。

 

「そこまでは。……ただ形は見えます。貴方が最も守ろうとしたものの近くからそれは来ます。いつもそうですから」

 

風のない部屋に風が吹いた気がした。

 

ウェッブは机の向こうの黒を真っ直ぐに見つめた。

 

「一つ聞かせろ」

 

「どうぞ」

 

「あんたは俺の何を知っている」

 

長い沈黙があった。

 

ランプの光は揺れなかった。掛時計の秒針は動かなかった。

 

そして、黒服は答えた。

 

「――貴方の、全てを」

 

その瞬間だった。

 

---

 

六.〇二三一時

 

ウェッブの耳が最初に拾ったのは粘着テープの音だった。

 

布と紙が擦れるごく短い音。ドアの向こう、右側の壁。おそらく蝶番の高さ。

 

――貼っている。

 

その情報が意味に変わるまで〇・三秒。ソファの裏へ転がるのに〇・四秒。両掌で耳を覆い、口を開け、目を閉じるのにさらに〇・二秒。

 

『――ファイア・イン・ザ・ホール!』

 

聞き覚えのある声だった。

 

黒見セリカの声だった。

 

轟音。

 

木の破片と金属の蝶番が室内を横断し、ローテーブルが吹き飛んだ。

 

〇・八秒後、開口部から三つの円筒が投げ込まれた。

 

一つは正面へ。一つは右へ。一つは高く、天井に当てて奥へ。

 

――投げ分けている。

 

閃光。三回。

 

ウェッブは目を閉じたままソファの裏で伏せていた。閉じた瞼の裏側が白く三度光った。

 

そして足音が入ってきた。

 

『一番、入る!』

 

砂狼シロコ。ドアの右側から壁に沿って部屋の右奥の角へ。

 

『二番!』

 

小鳥遊ホシノ。左側から入り左奥の角へ。銃を構えたまま彼女は先頭に出なかった。

 

『三番!』

 

黒見セリカ。右へ。

 

『四番!』

 

十六夜ノノミ。左へ。ミニガンではなく腰の拳銃を両手で握っていた。

 

『五番、入りました!』

 

奥空アヤネ。開口部の内側で膝をつき、外へ向けて銃口を残した。

 

「右奥、クリア」

 

「左奥、クリア」

 

「机の下、クリア」

 

「棚の裏、クリア」

 

「――先生!」

 

ホシノの声だった。

 

「――こっちだ」

 

ウェッブはソファの裏から両手を上げて立ち上がった。

 

四眼式の暗視装置を跳ね上げた五つの顔が彼を見た。

 

そして部屋がしんとした。

 

机の向こうの椅子は空だった。

 

四分の一だけこちら側へ回転していた。

 

奥にドアはなかった。窓は金属のブラインドの向こうで板が打ち付けられていた。天井の点検口には二十年分の埃が積もっていて、触られた形跡はなかった。

 

シロコが机の抽斗を順に引いた。

 

四つとも空だった。

 

「……ん」

 

彼女は淡々と言った。

 

「空じゃない。使われてない。……新品の匂いがする。二十年前の新品の匂い」

 

セリカが照明を確かめて、それから声を上げた。

 

「ちょっと、これコンセントないんだけど! このランプなんで点いてんの!?」

 

そしてアヤネが床を見た。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「この部屋、埃が積もってます。何十年も」

 

「そうだな」

 

「でも机の周りだけ円く埃がありません」

 

彼女は懐中電灯を床に這わせた。

 

半径二メートルほどの綺麗な円。

 

そしてソファの前に、ウェッブが立ち上がったときの靴跡が二つ。

 

それだけだった。

 

他には誰の足跡もなかった。

 

---

 

七.〇二四四時

 

「――今、何時だ」

 

ウェッブが最初にした質問はそれだった。

 

「〇二四四時です」アヤネが答えた。

 

「日付は」

 

「変わってません。先生が寝るって言ってから三時間三十六分です」

 

ウェッブはしばらく黙っていた。

 

三時間三十六分。

 

彼の身体感覚は二日を告げていた。あの部屋にいたのは体感で三十分程度だった。そのどちらとも合わない数字が正しい数字だった。

 

「……どうやってここを突き止めた」

 

五人が顔を見合わせた。

 

答えたのはアヤネだった。彼女はプレートキャリアの内側から折り畳んだ紙を出した。

 

「〇〇五三時にこれが届きました」

 

「メールか」

 

「はい。屋上の基地局に紐づけてある対策委員会の受信箱です。差出人不明。件名なし。本文――」

 

彼女は紙を開いた。

 

そこには彼女の几帳面な字で写し取られた一行だけがあった。

 

十桁の座標だった。

 

「それだけです。挨拶も署名もなにもありません」

 

「……」

 

「最初は迷惑メールだと思いました。よくあるんです、闇市場の業者が座標だけ送りつけてくる詐欺が。……だから私、一度消しかけました」

 

アヤネの指が紙の端を握りしめていた。

 

「〇一〇〇時に交代の申し送りに行きました。先生は〇二〇〇時からの当番でしたけど、その前に無線の記録簿にサインをもらう決まりだったので」

 

「……」

 

「教室にいませんでした」

 

彼女の声がそこで一度揺れた。

 

「タフブックは閉じてあって、寝袋はそのままで、試験の紙が教卓に伏せてあって、……ブーツの跡が部屋の中で終わってました」

 

「終わっていた」

 

「はい。窓のほうにも廊下のほうにも続いてませんでした」

 

ウェッブはそこで初めて自分の呼吸が浅くなっているのに気づいた。

 

「〇一〇二時に非常呼集をかけました」アヤネは続けた。「〇一〇五時、全員集合。それで――」

 

彼女は隣を見た。

 

小鳥遊ホシノが壁に背を預けて立っていた。

 

「委員長が指揮を取りました」

 

ホシノは何も言わなかった。

 

代わりにシロコが淡々と口を開いた。

 

「先輩が最初に言ったのは三つ」

 

彼女は指を折った。

 

「一つ、『先生の位置を知ってる人間はいない。だからまず先生の意図を確認する』。二つ、『教卓の試験を読め』。三つ、『アヤネちゃん、今日届いたメールを全部出して』」

 

ウェッブがホシノを見た。

 

ホシノは目を合わせなかった。

 

「……座標がちゃんと現実の場所を指してたから」

 

彼女は床を見たまま言った。

 

「罠かもしれないってのは分かってたよ。分かってたけど、罠じゃなかったら先生は今そこにいる。……それで決めた」

 

「距離は」

 

「十九キロです」アヤネが答えた。「北西」

 

「移動手段は」

 

沈黙。

 

そしてアヤネが真っ赤な顔で小さく手を挙げた。

 

「……ヘリを飛ばしました」

 

ウェッブの動きが止まった。

 

「誰が操縦した」

 

「……私です」

 

「夜間だな」

 

「はい」

 

「灯火は」

 

「消しました。四眼で。……先生にそう習ったので」

 

ウェッブは彼女を見ていた。

 

この二十日で彼はこの一年生に十一時間の操縦教育を行っていた。すべて昼間だった。すべて教官同乗だった。夜間単独の着陸は一度もやらせていない。

 

「着陸は」

 

「四百メートル手前の平地に降ろしました。……音で気づかれると先生が危ないと思ったので」

 

「――どうだった」

 

「……三回跳ねました」

 

「上出来だ」

 

アヤネの眼鏡の下がみるみる潤んだ。

 

「なっ、泣きませんから!」

 

「泣いていない」

 

「泣いてません!!」

 

ウェッブは五人を見渡した。

 

そして記録板を持っていないことに気づき、代わりに指を折った。

 

「――事後検討をやる。ここでだ」

 

「え、今!?」セリカが叫んだ。

 

「今だ。記憶が新しいうちがいい」

 

彼は言った。

 

「一つ。入る順番が正しかった。先頭シロコ、二番目に委員長。委員長は先頭に出なかった。……四時間かけて教えたことを四時間の実戦で使ったのは、俺の知る限り君たちが初めてだ」

 

ホシノはまだ床を見ていた。

 

「二つ。ノノミ、君はミニガンを外に置いてきた」

 

「はぁい。……室内ではみんなが危ないので」

 

「正しい。判断は君がしたか」

 

「はい」

 

「なら上出来だ。……君が判断を返してきたのはこれが初めてだ」

 

「あら」

 

「三つ。セリカ。装薬の量と立ち位置」

 

「……あ、あの、私、教範に書いてある通りに――」

 

「教範の通りにやると、この蝶番の位置では扉が内側へ倒れる。倒れると突入路が塞がる」

 

セリカが青くなった。

 

「え、じゃあ私、間違って――」

 

「君は正しかった」

 

ウェッブは言った。

 

「倒れた扉はあの角度で外へ向いている。君は貼る位置を変えている。……その計算を何分でやった」

 

「……九分」

 

「九分か」

 

「だ、だってあんたがいないんだもん! 誰も確かめてくれないから三回検算したのよ! 三回とも同じ数字が出るまで貼らなかったんだから!」

 

黒見セリカはそこで初めて怒鳴った。

 

「――九分も待ったんだからね!!」

 

ウェッブは彼女を見た。

 

「……ああ」

 

「なによ」

 

「すまなかった」

 

セリカは口を開け、それから何も言わずに乱暴に袖で顔をこすった。

 

「四つ。アヤネ」

 

「はい」

 

「メールを消さなかった」

 

「……はい」

 

「あれが今日の一番の功績だ」

 

「え……」

 

「情報というのは価値の分かる人間の手元に届いたときにだけ情報になる。……あれを消していたら俺は今もあの部屋にいた」

 

アヤネは何か言おうとして失敗し、ただ何度も頷いた。

 

「――そして、五つ目」

 

ウェッブは最後にホシノを見た。

 

「委員長。判断が速かった。……俺の意図を確認してから動いたな」

 

「……別に」

 

ホシノは壁から背を離した。

 

そして彼を真っ直ぐに見つめた。

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「あそこに誰かいたよね」

 

部屋の空気が変わった。

 

ウェッブは答えなかった。

 

「机の椅子、回ってた。ランプ点いてた。先生、ソファの裏に伏せてた。……先生が伏せるのは危ないものが目の前にあるときだけでしょ」

 

「……」

 

「私、二番目に入ったんだ」

 

彼女は言った。声は静かだった。

 

「閃光が消える前の、たぶん十分の一秒くらい。机の向こうに黒いのが座ってた。……見間違いかもしれない。フラッシュバンのあとって変なもの見えるから」

 

「……」

 

「ねえ、先生」

 

ホシノの声が初めてわずかに掠れた。

 

「誰だったの」

 

ウェッブは長いこと黙っていた。

 

彼の頭の中では、いくつもの答えが同時に組み上がり、同時に破棄されていた。

 

嘘をつくことはできた。彼は世界最高水準の嘘つきだった。「誰もいなかった」と言えば、この五人は納得しただろう。あるいは半分だけの真実を渡すこともできた。

 

だがあの部屋で聞いたことを、彼はまだ言葉にできる形に整理できていなかった。

 

――三年前から準備しておりました。

 

――あと二年でした。

 

これを今この場で口にすれば、目の前の少女は自分がこの二年間積み上げてきたすべてが誰かの実験の準備期間だったと知ることになる。

 

――今じゃない。

 

「……いた」

 

ウェッブはそれだけ言った。

 

「誰」

 

「今は言えない」

 

「言えないの? 言わないの?」

 

「言わない」

 

彼は正確に言い直した。

 

その正確さがかえって彼女を黙らせた。

 

ホシノはしばらく彼を見ていた。

 

それからいつもの調子で――ただし、いつもより五段階ほど平たい声で――言った。

 

「……そっか」

 

「ああ」

 

「うん。分かった」

 

彼女は背を向けて破壊された戸口のほうへ歩き出した。

 

「アヤネちゃん、帰ろう。燃料余裕ある?」

 

「あ、はい、あります」

 

「じゃ、帰ろ」

 

---

 

〇四一〇時。

 

対策委員会室に戻った五人は砂まみれのまま床に座り込んでいた。

 

アヤネが教卓から持ってきた紙の束をぼんやりと膝の上に置いていた。

 

第十回試験問題。両面刷り、二十問。

 

彼女は無意識に最後のページをめくった。

 

そして動きが止まった。

 

「……あの」

 

「なによ」

 

「これ、先生が昨日の夜に刷ったものです」

 

「知ってるわよ。教卓にあったやつでしょ」

 

「……設問二十を読みます」

 

アヤネは震える声で読み上げた。

 

「『指揮官と連絡が取れなくなった。君たちが最初に確認すべきことを三つ、優先順に書け』」

 

部屋が静かになった。

 

セリカが口を開けたまま固まった。

 

ノノミがゆっくりと両手で口を覆った。

 

シロコがただ一言、

 

「……ん」

 

とだけ言った。

 

そして小鳥遊ホシノは、ソファの背に顎を乗せたまま天井を見上げていた。

 

「……知ってたわけじゃないよね」

 

彼女は誰にともなく呟いた。

 

「知ってて刷ったんじゃないよね」

 

誰も答えなかった。

 

---

 

八.二一四〇時

 

その日の夜、ウェッブは屋上にいた。

 

風がない夜だった。砂漠の夜にはたまにそういう夜がある。砂が一粒も動かず、地平線までの全部が貼り絵のように静止する夜。

 

彼は給水塔の陰に折り畳み椅子を置き、無線機を膝に乗せ東を見ていた。

 

足元には魔法瓶が一本。

 

そしてカップが二つ。

 

十七日目からそうしている。理由は自分でも整理できていない。ただ、一つでは足りない夜が三度続いたので二つ持ってくることにした。

 

二一四〇時、階段の扉が開いた。

 

「……まだ交代の時間じゃないぞ」

 

「うん」

 

小鳥遊ホシノは扉を後ろ手で閉めて給水塔の壁に背を預け、そのままずるずると座り込んだ。

 

膝を抱えた。

 

しばらく二人とも何も言わなかった。

 

星が出ていた。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「今日ね、私、ちょっと壊れてた」

 

ウェッブは東を見たまま動かなかった。

 

「〇一〇〇時にアヤネちゃんが走ってきて、『先生がいません』って言ったんだ。それで私、走って教室行ってドア開けて」

 

彼女は膝に額を押しつけた。

 

「――誰もいなかった」

 

「……」

 

「タフブックが閉じてて、寝袋があって、椅子がそのままで、紙が置いてあって、……さっきまでそこに人がいた形だけが全部そのまま残ってた」

 

彼女は顔を上げなかった。

 

「あのね、先生。私、戦闘は怖くないの。撃たれるのも囲まれるのも負けるのも全部怖くない。全部対処があるから」

 

「……」

 

「でも、『さっきまでそこにいた人がいない』っていうのだけは対処がないんだ」

 

風のない夜に彼女の声だけが乗った。

 

「二年前も同じだった」

 

ウェッブはコーヒーに手を伸ばしかけてやめた。

 

そして椅子から降りて屋上のコンクリートの上に、彼女の隣ではなく二メートル離れた場所に座った。

 

聞く姿勢だった。

 

「――話せ」

 

彼はそれだけ言った。

 

「……うん」

 

小鳥遊ホシノは話し始めた。

 

---

 

「梔子ユメっていう人がいたんだ」

 

彼女は言った。

 

「アビドス高校の最後の生徒会長。私の、一個上の先輩」

 

「……」

 

「今日私たちが行ったあの街ね。あそこで会ったんだ、最初に」

 

ウェッブの視線が動いた。

 

だが、彼は何も言わなかった。

 

「私、一年生の頃めちゃくちゃ尖ってたの。信じられる? 今の私からじゃ想像つかないでしょ」

 

「つく」

 

「うわ、否定してよ」

 

彼女は笑って、すぐに笑うのをやめた。

 

「……あの頃はさ、大人がいっぱい来てたんだよ、学校に。スーツ着て書類持って優しい顔して。それでみんな何か持ってった。土地とか建物とか生徒とか」

 

「……」

 

「だから私、全部信じてなかった。学校のことも先輩のことも、生徒会なんてもうただの看板だって思ってた。実際そうだったし」

 

彼女は膝の上で指を組んだ。

 

「でもさ、ユメ先輩はなんか変だったの」

 

「変」

 

「うん。すっごくドジで。三日に一回は転んでたし、書類はなくすし計算はできないし砂漠でよく迷ってたし。……なのに口癖が『きっと、何とかなる』なんだよ」

 

彼女は少し笑った。

 

「何ともなってないのに。学校の生徒、当時でもう二十人切ってたのに。何とかなるわけないのに」

 

「……」

 

「一回さ、二人で宝探しに行ったんだ」

 

「宝」

 

「大オアシスの下にすっごい高い鉱物が埋まってるって話があってさ。花火に使うやつ。百グラムで何百万とかそういうの。先輩が『掘れば見つかる』って言い出して」

 

彼女は目を細めた。

 

「なんでか二人とも水着着てさ。砂漠だよ? 馬鹿でしょ。日焼けで死ぬかと思った。八時間掘って何も出てこなくて、二人でオアシスに転がって」

 

「……見つからなかったのか」

 

「見つからなかった。一個も」

 

ホシノはしばらく黙った。

 

「……でもさ、先輩、それを手帳に書いてたの。『宝は見つからなかった。でも楽しかった。また来よう』って。……あの人、そういう人だった」

 

風のない夜に彼女の声が続いた。

 

「先輩さ、ずっと鉄道の使用権を買い戻そうとしてたんだ。百万円で。ネフティスが昔うちに押しつけたやつ。……あの人、それが取り戻せたら昔みたいにお祭りができるって本気で信じてた」

 

「……」

 

「それで手付金の一万円を持って、一人で砂漠に行ったんだ」

 

ウェッブは動かなかった。

 

「その前の日にね、私、先輩とすごい喧嘩したんだ」

 

彼女の声から間延びした調子が完全に抜けた。

 

「学校がもうどうしようもないのに夢とか希望とか言ってるのが我慢できなかった。それで言っちゃったの」

 

「……」

 

「『そんなに希望のアビドスがやりたいなら一人でやれ』って。『生徒会ごっこはもう終わりだ』って」

 

彼女ははっきりとそう言った。

 

一度も詰まらずに言った。二年間何百回も自分の中で再生してきた文だからだ、とウェッブは理解した。

 

「それが最後の会話」

 

「……」

 

「次の日、先輩は一人で行った。契約書にサインして。それから連絡が取れなくなった」

 

彼女は膝を抱え直した。

 

「一回だけ留守電が入ってたの。ずいぶん後で気づいたんだけど。……『コンパス、忘れちゃった』って。『砂嵐に巻き込まれちゃった』って。『手帳を残しておくから探してね』って」

 

「……」

 

「一ヶ月探した」

 

彼女は言った。

 

「シロコちゃんもノノミちゃんもまだいなかったからほとんど一人で。地図もろくにない砂漠を方位も分からないまま毎日歩いた。……今なら分かるよ。あの探し方じゃ絶対見つからない。私、偏差って言葉も知らなかったし」

 

ウェッブは目を閉じた。

 

「三十一日目に見つけた」

 

「……」

 

「砂の真ん中で」

 

長い沈黙があった。

 

ウェッブは慰めの言葉を一つも探さなかった。探すべきでないことを知っていたからだ。彼はただそこにいた。

 

「あのね、先生」

 

やがて、ホシノは言った。

 

「私が一番怖いのは死ぬことじゃないんだ」

 

「……」

 

「いなくなることなんだ。どこにいるか分からなくなることなんだ」

 

彼女は顔を上げた。

 

「先生、今日どこにいたの」

 

ウェッブは正直に答えた。

 

「――分からない」

 

「……そうだよね」

 

ホシノは頷いた。

 

「それが一番怖いんだよ」

 

---

 

九.半分

 

「先生」

 

ホシノは言った。

 

「バディって先生が決めたんだよ」

 

「……ああ」

 

「互いの装備を点検し、互いの位置を常に把握し、互いの生存に責任を持つ。一人でどこにも行くな。便所も砂かきも見回りもだ。……全部先生が最初の日に言ったの」

 

「言った」

 

「なのにさ」

 

彼女は膝を抱えたまま彼を見た。

 

「先生の位置だけ誰も知らないんだよ」

 

風のない夜にその一言が落ちた。

 

「先生はさ、全部知ってるよね。私が〇二〇〇時に起きちゃうことも、セリカちゃんのバイトのことも、アヤネちゃんが二年間泣かなかったことも、ノノミちゃんがお金以外のものをあげたことがないことも、シロコちゃんが一年半壊れた照準器で撃ってたことも」

 

「……」

 

「全部先生が見つけて、全部先生が持ってった」

 

彼女は言った。

 

「じゃあ、先生の分は誰が持ってるの」

 

ウェッブは答えなかった。

 

「私、頭悪いから難しいことは分かんないよ。でも荷物の重さくらいは分かる。二年間一人で持ってたから」

 

彼女は手を差し出した。

 

小さな掌だった。この街の物理法則の外側にある力を持つ、百四十五センチの少女の掌だった。

 

「――先生の荷物、半分ちょうだい」

 

その瞬間だった。

 

ウェッブの記憶の底で、鍵のかかっていた引き出しが一つ勝手に開いた。

 

パリの、名前も覚えていない安宿の一室。

 

髪を切ったばかりの女が彼の前に二つのカップを置いて、テーブルの向こうから同じ角度で手を伸ばした。あの女は彼が何者かをその時点でほとんど知っていて、それでも同じことを言った。

 

一人で全部持たなくていい、と。

 

彼はあの時その手を取らなかった。

 

取ったのはもっとずっと後だった。そして取ってから三年も保たなかった。

 

――同じ形をしている。

 

――同じ形の手を、俺はまた見ている。

 

彼は長いことその掌を見ていた。

 

砂漠の夜は静かで風がなくて、星が異常なほど多かった。

 

そして、デイヴィッド・ウェッブは口を開いた。

 

---

 

十.ニクサ

 

「ミズーリにニクサという町がある」

 

彼はそう始めた。

 

「人口は俺がいた頃で四千人ちょっとだ。牧草地しかない。夏になると刈った草の匂いが町中に立ちこめる。空が異常に広い。……この砂漠の空より広く見える。理由は分からない。たぶん遮るものがないのと、若かったのが半分ずつだ」

 

ホシノは何も言わなかった。

 

ただ聞いていた。

 

「父の名前はリチャード・ウェッブといっだ。政府の仕事をしていた。何の仕事かは家では一度も話さなかった。……母はパイを焼くのが下手だった。毎年感謝祭に焼いて毎年底が焦げた。家族全員でそれを食った」

 

「……」

 

「父が俺に最初に教えたのは地図の畳み方だ」

 

彼は言った。

 

「道路地図を広げたら元の折り目に沿って畳んで返せ。違う折り目をつけるな。次に開く人間が困るから。……六歳のときに三十回やり直させられた」

 

ホシノがほんのわずかに顔を上げた。

 

「……それで、先生」

 

「なんだ」

 

「地図にうるさいんだね」

 

「――そうかもしれん」

 

彼は少し黙った。

 

「陸軍に入った。志願だ。理由は格好つけたかったのが半分と、本気で国を守るつもりだったのが半分だ。……両方とも本当だった」

 

「……」

 

「配属先で四人と仲が良かった。マーティン、ドイル、コルテス、それしてみんなが『プリーチャー』と呼んでいた男。本名は結局最後まで知らなかった。日曜になると全員を集めて説教をするからそう呼ばれていた。説教の内容は毎回同じで、『生きて帰れ』だ」

 

「……」

 

「四人とも生きて帰らなかった」

 

ホシノは何も言わなかった。

 

「デルタに選ばれた。世界中に行った。……行った先で俺は主に砂と暗視装置の緑色を見ていた」

 

彼は東の地平線を見ていた。

 

「一度、ある国の前線で少年兵の集団を見た」

 

「……」

 

「十歳から十四歳だ。薬を打たれて前に押し出されていた。武装勢力は彼らを盾にしていた。……こちらの側は彼らを撃つか、味方を死なせるかの二つしか選べなかった」

 

「……先生」

 

「その日、俺は何もしなかった」

 

彼は言った。

 

「何もしなかったというのは正確じゃない。俺は指揮官だったから命令を出した。……出した命令の内容は言わない。君に聞かせるものじゃない」

 

ホシノは膝を抱えたまま小さく頷いた。

 

「そのあと父が死んだ」

 

彼は淡々と続けた。

 

「国外のテロ事件に巻き込まれた民間人の犠牲者だ、と報告書に書いてあった。よく出来た報告書だった。よく出来すぎていた」

 

「……」

 

「後で分かった。テロリストじゃなかった。……俺を志願させるために、俺を雇った連中が殺した」

 

ホシノの息が止まった。

 

「その話をされたのはずっと後だ。当時の俺は真相を知りたくて仕方がなかった。その傷口にある組織が指を入れてきた。彼らは俺に真実に近づけると言った。……俺は志願した」

 

彼は言った。

 

「ニューヨークの東七十一丁目四百十五番地。窓のない建物だ」

 

「……」

 

「その中で何ヶ月かかけて俺は解体された。眠らせてもらえない。薬を打たれる。暗闇で殴られて質問される。質問の内容は毎回同じだ。『お前は誰だ』」

 

「……」

 

「最後の日に部屋に連れていかれた。椅子に頭から袋をかぶった男が縛られていた。……俺は銃を渡された」

 

風のない夜だった。

 

「引き金を引いた」

 

彼は言った。

 

「そのとき、デイヴィッド・ウェッブは死んだ。……そういう言い方をされた。そして俺は別の名前を与えられた」

 

「……その名前は」

 

「ジェイソン・ボーン」

 

彼は初めてその名を口にした。

 

この街に来てから一度も。

 

「それから何年か俺は人を殺す道具だった。世界中を回って標的の息を止めた。……記録に残っているのは三十二件だ。残っていない分は数えていない」

 

「……」

 

「最初の仕事はある国の議員だった。政権に逆らっていた男だ。妻と一緒にいた。……俺は両方殺して、妻が夫を撃ってから自殺したように見えるよう部屋を作り替えた」

 

ウェッブの声には抑揚がなかった。

 

「そういうのが俺は上手かった」

 

ホシノは何も言わなかった。

 

言わないでいてくれた。

 

「そのあと、ある船に潜入した。標的はアフリカの独裁者だ。銃口を当てた。……その男の隣に子供がいた」

 

「……」

 

「引き金が引けなかった。〇・五秒くらいだと思う。それで撃たれて海に落ちた」

 

彼は言った。

 

「気がついたら地中海の漁船の甲板で、俺は自分の名前を思い出せなかった」

 

---

 

「そこから何ヶ月か、俺は自分が誰かを探していた」

 

「……」

 

「その途中でマリーという女に会った」

 

彼は言った。

 

「金がなくて俺が金を払って車で送ってもらった。それだけの関係のはずだった」

 

「……」

 

「彼女は途中で俺が何者か気づいた。追われていることも人を殺してきたことも。……普通はそこで降りる。彼女は降りなかった」

 

風がなかった。

 

「三年、一緒にいた。名前を変えて、国を変えて、髪を切って。……あの三年間だけ俺は毎朝、自分が誰かを確認しないで起きられた」

 

「……」

 

「インドの海沿いの町にいた。俺が運転していた。橋の上で俺を狙った銃弾が助手席の彼女に当たった」

 

彼はそこで一度言葉を切った。

 

「車ごと川に落ちた」

 

「……」

 

「俺は潜った。何度も潜った。……連れて上がれなかった」

 

ホシノは膝の上で両手を強く握っていた。

 

「そのあと俺は全部思い出した」ウェッブは言った。「そして俺が最初に殺した議員の娘のところへ行った。二十歳くらいの子だった。彼女は十年以上、母親が父親を殺して死んだと思って生きていた」

 

「……」

 

「本当のことを言った。『君の両親を殺したのは君の母親じゃない。俺だ』と。……それだけ言った」

 

「その子、なんて言ったの」

 

初めてホシノが口を開いた。

 

「何も言わなかった」

 

ウェッブは答えた。

 

「一言も。ただ聞いていた」

 

「……」

 

「――だが、聞いてくれた」

 

彼は言った。

 

「それで十分だった」

 

小鳥遊ホシノはそこで初めて袖で目をこすった。

 

「……そっか」

 

「そうだ」

 

「私も何も言えないや」

 

「言わなくていい」

 

ウェッブは言った。

 

「聞いてくれた」

 

---

 

「そして今日だ」

 

彼は言った。

 

「あの部屋にいたのは人間じゃない。黒い背広を着ていた。頭の部分に顔がなかった。……あれは自分を『黒服』と呼んだ」

 

ホシノの肩がはっきりと震えた。

 

ウェッブはそれを見た。見て、意味を理解した。

 

――知っているのか。

 

――君も会ったことがあるのか。

 

彼はそれを問い質さなかった。今日はその日ではない。

 

「あれは俺に危害を加えなかった。要求も取引も脅迫もなかった。ただ俺の履歴を全部読み上げてこう言った。『貴方と話がしたかっただけです』と」

 

「……なにそれ」

 

「俺にも分からん」

 

彼は正直に言った。

 

「あれはもう一つ言った。『貴方はいずれ大きな代償を支払う時が必ず来る』と」

 

「代償」

 

「そう言った。何の代償かはあれ自身も分かっていないようだった」

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「先生はそれ、怖い?」

 

ウェッブは少し考えた。

 

「怖くはない。……もう払っているからだ。あれが言っているのは次の請求書のことだ」

 

「……」

 

「怖いのは、請求先が俺じゃない場合だ」

 

彼はそれ以上説明しなかった。

 

そして最後に一つだけ付け加えた。

 

「――一つだけ、まだ言えないことがある」

 

ホシノが顔を上げた。

 

「あの部屋で聞いたことの中に君に関わることがあった。今は言わない。整理できていないからだ。……だが必ず言う」

 

「いつ」

 

「整理でき次第だ。誤魔化さない。忘れない。……嘘もつかない」

 

ホシノはしばらく彼を見ていた。

 

そしてゆっくりと頷いた。

 

「……うん」

 

「それでいいか」

 

「いいよ」

 

彼女は言った。

 

「だって『言わない』ってちゃんと言ってくれたもん」

 

---

 

十一.コスモブルー

 

気がつくと東の空の色が変わり始めていた。

 

ウェッブは腕時計を見なかった。見なくても分かった。この砂漠で二十日過ごせば空の色で時刻が読める。

 

彼は魔法瓶の栓を開けた。

 

湯気が風のない空気の中を真っ直ぐ上に立ち上った。

 

そして二つ目のカップに注ぎ、それをホシノに差し出した。

 

「……え」

 

「飲め」

 

ホシノはその黒い液体を見て、それからカップを両手で受け取った。

 

――同じだ。

 

ウェッブは思った。

 

――カップを両手で持つのも同じだ。

 

彼はそれ以上何も考えないことにした。

 

ホシノは一口飲んで盛大に顔をしかめた。

 

「……まっっっず」

 

「そうだな」

 

「なにこれ、ほんとに不味い。ねえ、これコーヒーで合ってる? なんか違うものが混ざってない?」

 

「豆と、湯だ」

 

「絶対なんか混ざってるって!」

 

「二十日前の豆だ」

 

「それだよ!!」

 

ホシノはまた一口飲んだ。

 

そしてまた顔をしかめて、それでも飲んだ。

 

「……先生、これ毎晩飲んでるの」

 

「飲んでいる」

 

「なんで」

 

ウェッブは東を見た。

 

「不味いからだ」

 

「は?」

 

「不味いものを飲むと味が分かる。味が分かるということは舌が動いていて、脳が動いていて、俺がここに座っているということだ」

 

彼は言った。

 

「――生きていることの物理的な証明になる」

 

小鳥遊ホシノはしばらくカップを両手で持ったまま彼の横顔を見ていた。

 

それから彼女は膝を抱えて東を見た。

 

二人ともそれきり何も言わなかった。

 

言うことは全部言い終えていた。

 

砂丘の輪郭がゆっくりと輪郭を取り戻していく。

 

地平線の際がまず溶けた金属のようなオレンジになった。

 

その上にまだ星の残る深い群青が乗り、二つの色は境目を持たずに溶け合っていた。青は下へ、橙は上へ、互いの領分へゆっくりと滲み出しながら、砂漠の空の全部を使ってたった一つの帯を描いていた。

 

橙と、コスモブルー。

 

その鮮やかな階調の下で砂の海が金色に燃え始めた。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「〇二〇〇時にね」

 

ホシノは言った。

 

「今日も起きちゃったよ」

 

「知っている」

 

「屋上に来いって言ったの先生だからね」

 

「そうだ」

 

「文句言わないでよ」

 

「言っていない」

 

「……うん」

 

彼女はカップを両手で包み直した。

 

「明日の分もさ」

 

「なんだ」

 

「二つ持ってきてね」

 

ウェッブは東を見たまま答えた。

 

「――もう二つ持ってきている」

 

階下で四人分のアラームが一斉に鳴り始めた。

 

二十一日目が始まっていた。

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