『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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第8話(アビドス編):ディセミネーション

一.四枚目

 

三十七日目 〇六〇〇時。

 

昇降口の掲示板に四枚目の紙が貼られた。

 

一枚目も二枚目も三枚目も、剥がされないまま並んでいた。四枚並ぶと掲示板の幅がちょうど埋まった。

 

『アビドス高等学校 廃校対策委員会 訓練計画表(第四次)』

 

その下に一行だけ。

 

『渡す技術』

 

「……たった一行?」

 

黒見セリカが眉をひそめた。

 

「これまで三つずつ書いてあったじゃない」

 

「三つ要らない」

 

ウェッブは画鋲を押し込みながら言った。

 

「一つで足りる。そして一つで足りるものが一番難しい」

 

「毎回それ言ってない?」

 

「毎回本当だ」

 

体育館の壁に貼られた大判の紙の前で、五人が並んで立った。

 

ウェッブはマーカーを取り、紙の中央に大きく一つの図を描いた。

 

丸が二つ。左の丸から右の丸へ矢印が一本。

 

「情報というのは、こちら側にある間はただの重さだ」

 

彼は左の丸を叩いた。

 

「知っているだけでは何も動かない。知っている人間が眠れなくなるだけだ」

 

「……」

 

「動くのはここだ」

 

彼は矢印を二度なぞった。

 

「渡した瞬間に情報は武器になる。……そして武器というのは、向きを間違えると自分に当たる」

 

奥空アヤネが記録板から顔を上げた。

 

「先生。渡し方って、そんなに何通りもあるんですか」

 

「三通りある」

 

ウェッブは右の丸の横に三行書いた。

 

『一.説得する。

二.証明する。

三.確かめさせる。』

 

「一つ目は最悪だ」

 

彼は即座に線を引いて消した。

 

「説得された人間は、後で必ず恨む。自分の頭が他人に使われたと気づくからだ。……そして恨んだ人間は、都合が悪くなると寝返る。二度目に」

 

「二つ目は?」

 

「二つ目は普通だ」

 

彼はその行に薄く線を引いた。

 

「証明はできる。だが証明を受け取るかどうかを決めるのは相手だ。……こちらが本物だと言えば言うほど、相手は偽物を疑う。これは人間の構造の問題で、書類の質の問題じゃない」

 

「じゃあ三つ目」

 

砂狼シロコが言った。

 

ウェッブはマーカーのキャップを閉め、三行目を丸で囲った。

 

『三.確かめさせる。』

 

「相手が自分の手で、自分の道具を使って、自分の質問をして、自分で答えを聞く」

 

彼は言った。

 

「そのとき情報は初めて相手のものになる。……そしてそのとき、こちらは何も言っていない」

 

長い沈黙があった。

 

十六夜ノノミが小さく手を挙げた。

 

「あら。……でもそれ、失敗したらどうなるんですか?」

 

「失敗する」

 

「はい?」

 

「相手が確かめて、こちらの情報が間違っていたら、そこで終わりだ」

 

ウェッブは平坦に言った。

 

「一切の言い訳ができない。……だから三つ目を選べる組織は少ない。自分たちの情報が本物だと本気で思っていないと選べないからだ」

 

小鳥遊ホシノがソファ代わりの跳び箱に腰かけたまま脚をぶらぶらさせた。

 

「うへ〜。……つまり先生は、うちらの集めたやつが本物だって思ってるってこと?」

 

ウェッブは彼女を見た。

 

「三十六キロの紙を運んだのは俺じゃない」

 

「……」

 

「二千八百本の短冊を並べたのも、七十二秒の電話をかけたのも、詰まった紙を三枚取ったのも俺じゃない」

 

彼はマーカーを置いた。

 

「本物だ」

 

奥空アヤネが眼鏡を押し上げた。

 

そして「泣いてません」と言った。

 

「まだ何も言っていない」

 

「泣いてません!!」

 

---

 

二.四人の紙

 

三十七日目 〇九〇〇時。旧一年三組。

 

机が四つ、教室の中央に向かい合わせに並べられていた。

 

その上にそれぞれ一枚ずつ、まっさらなA3の紙が置いてある。

 

「これから四枚作る」

 

ウェッブは言った。

 

「一枚に一人だ。……四人の紙を作る」

 

「四人って、便利屋の?」

 

「そうだ」

 

「なに書くの」

 

「知っていることだけを書く」

 

彼は黒板に三本の縦線を引いて四つの欄を作った。

 

『確認済(出所あり)/推定(根拠あり)/不明』

 

「三つ目の欄が一番大事だ」

 

「不明?」

 

「そうだ。……不明の欄が空っぽの資料は、必ず嘘が混ざっている」

 

セリカが最初の紙の前に座り、鉛筆を握って唸った。

 

「ええと……陸八魔アル。二年生。社長。えらそう」

 

「『えらそう』は所見だ。事実じゃない」

 

「じゃあどう書けばいいのよ!」

 

「観察を書け。……いつ、どこで、誰が、何を見たか」

 

「うーん」

 

彼女は消しゴムで消した。

 

「『コートを羽織ってソファに足を組んで座っていた(出所:ヘルメット団隊長、伝聞、三十日前)』」

 

「そうだ」

 

「これでいいの?」

 

「上出来だ」

 

ホシノが跳び箱から降りて隣の紙に手を伸ばした。

 

「じゃあおじさんが集めたやつ出すね」

 

彼女は制服のポケットから折り畳んだメモを七枚出した。

 

七枚ともコンビニのレシートの裏だった。

 

「……先輩、これ全部レシートの裏じゃないですか」

 

「うん。手帳持ち歩くと怪しいでしょ」

 

「そういう問題ですか!?」

 

ウェッブがわずかに眉を動かした。

 

「――誰に習った」

 

「習ってないよ」

 

ホシノは首を傾げた。

 

「ヘルメットちゃんに会いに行くとき、なんとなくそのほうがいいかなって」

 

「……」

 

「だめだった?」

 

「いや」

 

ウェッブは短く言った。

 

「二十年やってそれを最初から思いつく人間は少ない」

 

「えへへ」

 

「褒めていない」

 

「褒めてるよ」

 

メモは順に読み上げられ、黒板の欄に貼られていった。

 

『事務所は旧ゲヘナ管区の廃ビル三階。看板なし。表札に手書きで「便利屋68」。(出所:ヘルメット団隊長経由、引き継ぎ時に訪問)』

 

『社長は電卓を叩く。二十分。同じ箇所を繰り返す。(同上・目撃)』

 

『「着手金はいつ入るんですか」――電話で七回。(同上・立ち聞き)』

 

『最年少(一年生)が近所のスーパーの見切り品コーナーで四人分の弁当を買っている。半額。(出所:ヘルメット団構成員、常習的目撃)』

 

セリカが最後の一枚を読んで、鉛筆を置いた。

 

「……ねえ」

 

「なんだ」

 

「四人分買ってるのが一年生なのに、電卓叩いてるのは社長なのよね」

 

「そうだ」

 

「それって」

 

彼女は少し口ごもった。

 

「……金がないの、下っ端に見せてないってことじゃないの」

 

教室が静かになった。

 

ウェッブは黒板の前でチョークを持ち上げ、そして『推定(根拠あり)』の欄に一行書いた。

 

『組織の資金状況は、構成員四名のうち一名または二名にしか共有されていない。』

 

「黒見セリカ」

 

「な、なによ」

 

「今のは分析だ」

 

「……え」

 

「観察を並べて、そこにない一行を出した。……この一ヶ月で君がやった仕事の中で一番価値がある」

 

黒見セリカは自分の耳が熱くなるのが分かった。

 

そして即座に言った。

 

「べ、別に。……当たり前のこと言っただけだし」

 

「そうか」

 

「……もー!」

 

昼までに四枚の紙は埋まった。

 

そして午後、五枚目の情報源が現れた。

 

---

 

一四二〇時。

 

アビドス自治区外縁、柴関ラーメン。

 

「――ああ、あの四人組か」

 

犬の大将は寸胴の蓋を持ち上げたまま言った。

 

湯気が店の低い天井にぶつかって横に流れた。

 

「来てるよ。先月から三回かな。……セリカがいない曜日に来る」

 

「なんで私がいない日なんですか!?」

 

「知らんよ。偶然だろ」

 

大将は玉杓子で寸胴の底をひとかきした。

 

「先生さんよ、なんでそんなこと聞くんだ」

 

「客の話です」

 

ウェッブは言った。

 

「聞かせたくなければ答えなくていい」

 

「……ふん」

 

大将は鼻を鳴らした。

 

「別に隠すようなことじゃねえ。……あの子ら、いい客だよ」

 

「どういう意味で」

 

「金の払い方が丁寧だ」

 

彼は言った。

 

「四人来て、注文は毎回同じだ。三人が普通のを頼んで、一番背の高いコートの子だけが素ラーメン。一番安いやつな」

 

「……」

 

「で、会計は全部そのコートの子が出す」

 

セリカの手が止まった。

 

「一番安いの食べて、全員分払うんですか」

 

「そうだよ。しかも毎回財布から出す前に一回だけ中を見る。中を見てから出す。……ああいうのはな、金が足りるか確かめてるんじゃねえ。足りたのを確かめてるんだ」

 

大将は麺揚げをざるに打ちつけて水を切った。

 

「一回だけ、白髪のちっこい子が『社長も普通の食べればいいのに』って言ったことがある。そしたらコートの子が何て言ったと思う」

 

「……なんて」

 

「『経営者は最後に食うものよ』だとさ」

 

大将は笑わなかった。

 

「あんな見栄の張り方、大人だってなかなかできねえよ」

 

帰り道、砂に半分埋まった舗道を歩きながらセリカが言った。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「私、あいつらのこと、金のためなら何でもする連中だと思ってた」

 

「そうだろうな」

 

「違うの?」

 

「違わない」

 

ウェッブは前を見たまま言った。

 

「金のためなら何でもする。……ただし、自分の四人分を守るためにだ」

 

「……」

 

「その二つを区別できない相手は、寝返らせられない」

 

彼は歩調を変えなかった。

 

「区別できる相手は、寝返る」

 

---

 

一八〇〇時。旧一年三組。

 

四枚の紙が壁に並んで貼られた。

 

ウェッブはその前に立ち、右端から順に指した。

 

「――伊草ハルカ。一年生。散弾銃。爆発物を扱う」

 

彼は言った。

 

「本作戦において最も危険な人物だ」

 

「え?」

 

アヤネが顔を上げた。

 

「あの、一番小さくて、いつも謝ってる子ですよね? 資料の写真だと」

 

「そうだ」

 

「……なんで一番危険なんですか」

 

「自分の命を計算に入れていないからだ」

 

教室が静かになった。

 

「交渉というのは、双方が失うものを持っているときにだけ成立する。……失うものがない人間は交渉の場にいられない。何を提示されても価値がゼロだからだ」

 

彼は写真の下の一行を指した。

 

『「アル社長のためなら、この命、いつでも捧げます」(出所:ヘルメット団構成員、本人発言の伝聞)』

 

「一年生が二年生のために死ぬと言っている。……本気で言っている」

 

「……」

 

「こういう人間が同席している交渉は、一度も成功したのを見たことがない」

 

長い沈黙があった。

 

そして、奥空アヤネが手を挙げた。

 

「あの、先生」

 

「なんだ」

 

「……失うもの、あります」

 

ウェッブは彼女を見た。

 

「アルさんです」

 

教室の空気が変わった。

 

「その子は自分の命を計算に入れてません。でも、アルさんの命は計算に入れてます。……じゃないと『捧げる』なんて言葉出てきません」

 

彼女は眼鏡を押し上げた。

 

「捧げる相手がいるから、捧げられるんです」

 

デイヴィッド・ウェッブは長いこと動かなかった。

 

そして四枚目の紙の『不明』の欄に線を引いて消し、そこに新しく一行書いた。

 

『伊草ハルカの弱点=陸八魔アルの生存。』

 

「――奥空アヤネ」

 

「は、はい」

 

「君は今、俺が二十年で一度もできなかったことをした」

 

「え」

 

「あの手の人間を、俺は全員『排除対象』の欄に入れてきた」

 

彼はマーカーのキャップを閉めた。

 

「一度も、その下に何が書いてあるかを読まなかった」

 

奥空アヤネは何も言えなかった。

 

代わりに記録板の隅に、その日の欄外にこう書いた。

 

『先生は、今日、自分が間違っていたと言った。』

 

---

 

三.予行

 

三十八日目 〇八〇〇時。旧一年三組。

 

机が二つ、向かい合わせに置かれていた。

 

片方にウェッブが座っていた。

 

彼は椅子の背に体を預け、脚を組み、片手をだらりと肘掛けに垂らしていた。

 

そして誰も見たことのない角度で顎を上げた。

 

「――で?」

 

声が変わっていた。

 

半音低く、語尾がわずかに伸び、そして退屈そうだった。

 

「用件を言いなさい。私、忙しいの」

 

セリカが椅子から半分ずり落ちた。

 

「ちょっと! ちょっと待って! なにそれ!」

 

「陸八魔アルだ」

 

「似すぎ! 怖い! なんで似てんのよ!」

 

「似ていない」

 

ウェッブは姿勢を戻した。

 

「俺は彼女を知らない。……俺が今やったのは、四枚の紙に書いてあることだけを使って喋ることだ」

 

「同じことでしょ!?」

 

「違う」

 

彼は言った。

 

「相手の気持ちになるな。……相手の情報だけを持って考えろ」

 

「なにが違うのよ」

 

「気持ちは想像だ。想像は当たらない。……情報は有限で、数えられる」

 

彼は四枚の紙を指した。

 

「彼女は電卓を二十分叩く。半額の弁当が四人分ある。一番安いものを食う。全員分払う。着手金が入らない。七回訊いた。……この六つだけで喋れる人格は、そう何通りもない」

 

シロコが小さく頷いた。

 

「ん、……射撃と同じ」

 

「言え」

 

「風と距離と弾種が決まってれば、着弾点は一つしかない。……気持ちで撃つと外す」

 

「そうだ」

 

ウェッブはもう一度椅子に座り直した。

 

そして脚を組んだ。

 

「――やる。始めろ」

 

第一回。

 

セリカが正面に座った。

 

彼女は紙束を机に叩きつけた。

 

「あんたたち、騙されてんのよ! カイザーはあんたたちを――」

 

「帰って」

 

ウェッブは紙束を見もせずに言った。

 

「え」

 

「帰って。話はそれだけ?」

 

「ちょっ、まだ何も」

 

「知らない学校の子が来て、私の雇い主の悪口を言った。……以上でしょ」

 

彼は指を一度だけ鳴らす仕草をした。

 

「ムツキ、この子たち送って差し上げて」

 

「……」

 

セリカが固まった。

 

ウェッブは姿勢を戻した。

 

「二十二秒だ」

 

「にじゅう」

 

「開始から追い出されるまで二十二秒。……原因を言え」

 

「……最初に怒った」

 

「そうだ」

 

彼は言った。

 

「怒っている人間は情報を持ってこない。頼み事を持ってくる。……相手は最初の一秒でそれを判定する」

 

第二回。

 

アヤネが座った。

 

彼女は震える手で書類を机の上に広げた。

 

「こ、こちらは御社の雇い主であるカイザーコンストラクションの内部文書です。電子署名の――」

 

「偽造ね」

 

「え」

 

「偽造。次」

 

「い、いえ、これは本物で、決裁欄のタイムスタンプが」

 

「じゃあ本物ね」

 

ウェッブは肩をすくめた。

 

「本物の偽造よ。……よくできてるじゃない」

 

「……」

 

「あなた、私がこれを偽造だと思う理由を一つでも潰した? 一つも潰してないでしょ。『本物です』って十回言っただけ」

 

アヤネの顔が青くなった。

 

ウェッブは姿勢を戻した。

 

「一分四十秒。前回よりましだ」

 

「ぜ、全然ましじゃないです!」

 

「原因を言え」

 

「……私が、本物だって言い張ったからです」

 

「そうだ」

 

彼は言った。

 

「本物だと言えば言うほど、相手は『こいつは本物だと思わせたいんだな』と学習する。……主張の強さは信頼の弱さと読み替えられる」

 

第三回。

 

ノノミが座った。

 

彼女はカップをソーサーに置くように、静かに書類を置いた。

 

そして背筋を伸ばした。

 

「――あら」

 

たった二文字だった。

 

ウェッブの動きが〇・三秒止まった。

 

「その決裁の日付、御社の担当の方はご存じないんですね」

 

穏やかで、ゆっくりで、そして相手に自動的に謝罪をさせる声だった。

 

「……いえ、あの、それは」

 

「あら」

 

「……」

 

「いえ、こちらの申し上げ方が悪かったのでしょうね。申し訳ございません」

 

ウェッブは椅子から立ち上がった。

 

演技を途中で止めたのは、この日初めてだった。

 

「――止めろ」

 

「はぁい」

 

ノノミは即座に元の顔に戻った。

 

「あら。……だめでした?」

 

「有効すぎる」

 

彼は言った。

 

「今の声は、目上の人間を屈服させる声だ。……そして今回の相手は、自分を目上だと思っている」

 

「……あら」

 

「屈服させたら終わりだ。屈服した人間は寝返らない。逃げるか、後で刺すかのどちらかだ」

 

彼は椅子に戻った。

 

「十六夜ノノミ。……その声は今回は使うな」

 

「はぁい」

 

彼女はにこりと笑った。

 

そしてわずかに肩の力を抜いた。

 

「……よかった」

 

「なにがだ」

 

「いえ。なんでもありません」

 

第四回。

 

シロコが座った。

 

彼女は何も言わなかった。

 

紙を一枚だけ机に置き、こちらへ滑らせた。

 

そして黙っていた。

 

三秒。

 

五秒。

 

八秒。

 

ウェッブが眉を上げた。

 

「……なによこれ」

 

シロコは答えなかった。

 

「私、忙しいんだけど」

 

シロコは黙っていた。

 

十二秒後、ウェッブは自分の手が紙のほうへ動いたのを止めた。

 

そして演技を解いた。

 

「――近い」

 

「ん」

 

「なぜ黙った」

 

「先生が言ったから」

 

シロコは言った。

 

「こちらから提案するなって」

 

「そうだ」

 

「あと、たぶん」

 

彼女は自分の耳を軽く動かした。

 

「……人って、黙ってる相手の紙は自分から見に行くと思う」

 

教室が静かになった。

 

セリカがぽかんと口を開けた。

 

「……シロコ、あんたそれ、どこで覚えたの」

 

「覚えてない。ヘルメット団が来るとき、撃たないで待ってると向こうから近づいてくるから」

 

「戦闘の話じゃない!?」

 

「同じだと思った」

 

「そうだ」

 

ウェッブが言った。

 

「同じだ」

 

第五回。

 

ホシノが座った。

 

彼女は書類を持っていなかった。

 

代わりに、机の上に何も置かずに両手を膝に置いた。

 

「――で?」

 

ウェッブがアルの声で言った。

 

「用件を言いなさい。私、忙しいの」

 

「うん、そうだよね」

 

ホシノは頷いた。

 

「忙しいのに来てくれてありがと」

 

「……」

 

「あのね。うち、来月の二十五日にそっちに攻められる予定なんだって」

 

ウェッブの指がわずかに動いた。

 

「……何の話かしら」

 

「知ってる。とぼけるよね。おじさんもとぼけると思う」

 

ホシノはあくびを一つした。

 

「でね、うちはたぶん勝つよ。四十日ぐらい前からずっと準備してるし。四人ならまあ、うん」

 

「――」

 

「だから、勝つ話をしに来たんじゃないの」

 

彼女は言った。

 

「そっちが負けたあとの話をしに来たの」

 

教室が静かになった。

 

ウェッブは長いこと何も言わなかった。

 

やがて彼は演技を解かずに、しかし演技のままではない声でこう言った。

 

「……なんで」

 

「そっちの雇い主がね」

 

ホシノは言った。

 

「そっちが負けたあとの計画を、もう作ってあるんだよ」

 

そこでウェッブは椅子から立ち上がった。

 

「――終わりだ」

 

「え、まだ二分ぐらいしか」

 

「二分十四秒だ」

 

彼は言った。

 

「その二分十四秒で、相手は初めて『続きを聞くしかない状態』になった」

 

彼は黒板の前に立ち、三行書いた。

 

『一.武器を持たない。

二.こちらから提案しない。

三.相手が確かめる手段を、こちらが用意する。』

 

「三つ目が今回の要だ」

 

彼は言った。

 

「一つ目と二つ目は姿勢だ。三つ目は技術だ」

 

「……確かめる手段って何ですか」

 

アヤネが訊いた。

 

ウェッブは答えなかった。

 

代わりにシロコを見た。

 

砂狼シロコは机の上に置いた自分の手をじっと見ていた。

 

そして顔を上げた。

 

「――一個ある」

 

---

 

四.〇三一二時

 

三十九日目 〇三一二時。対策委員会室。

 

奥空アヤネは眠っていなかった。

 

三日前から彼女は二時間ごとに端末の前に座っている。

 

複合機の背面に挟まった黒い箱――ウェッブが『ローグAP』と呼んだもの――は、こちらから呼びかけない限り沈黙している。呼びかけるのは決まった時刻だけだ。〇〇一二、〇三一二、〇六一二。以下同じ。三時間ごとの十二分間。

 

「なんで十二分なんですか」

 

初日にアヤネはそう訊いた。

 

「短すぎると持ち出せない。長すぎると気づかれる」

 

「じゃあなんで十二なんですか。十でも十五でもよくないですか」

 

「十や十五は人間が選ぶ数字だ」

 

ウェッブは言った。

 

「監視する側は、まず十と十五と三十を探す」

 

その〇三一二時。

 

十二分間の接続が始まって四十秒で、アヤネの手が止まった。

 

画面に新しいフォルダが一つ増えていた。

 

『カイザーインダストリー 第七特殊搬送計画(第二次改訂)』

 

彼女はそれを開き、十五秒後に椅子を蹴って立ち上がった。

 

「――先生!」

 

隣の教室のドアが開くまで四秒だった。

 

ウェッブは既に起きていた。ここ数日、彼が寝ている時間帯を誰も特定できていない。

 

「言え」

 

「搬送計画です。積荷、四十八。……単位が『基』です」

 

「読み上げろ」

 

「『品目:K-IND/SW-3型 中距離弾道弾 四十八基。搬送先:第四掘削現場(呼称オアシス)。搬送区分:陸送、夜間、分割十二次。完了予定:翌月十八日』」

 

ウェッブは机の上の地図に手を置いた。

 

「……四十八」

 

「はい」

 

「――続けろ」

 

「『随伴品目』の項があります」

 

アヤネは画面をスクロールした。

 

「『発射機十二両。射撃統制装置四。気象観測装置二。……除染器材一式』」

 

「止めろ」

 

「え」

 

「そこだ」

 

ウェッブの声が変わった。

 

アヤネは自分の背筋が勝手に伸びるのを感じた。彼女はこの一ヶ月で彼のこの声を二度しか聞いていない。

 

「……除染器材、ですか」

 

「その下だ。何が書いてある」

 

「え、ええと……『個人用防護具 二万四千組』」

 

「その下」

 

「『……自動注射器 二万四千本』」

 

沈黙。

 

ウェッブは地図の上の手を動かさなかった。

 

「先生?」

 

「……アヤネ」

 

「はい」

 

「その注射器の薬品名は書いてあるか」

 

「書いてあります。……アトロピンです」

 

彼は目を閉じた。

 

〇・八秒。

 

そして開けた。

 

「――全員起こせ」

 

「え」

 

「今すぐだ」

 

---

 

〇三四〇時。対策委員会室。

 

五人が集まった。

 

セリカは制服の上着を裏返しに着ていた。ノノミは寝癖のまま髪をまとめていた。ホシノだけがなぜかいつもと同じ顔をしていた。

 

ウェッブはホワイトボードの前に立っていた。

 

そしてマーカーで一行だけ書いた。

 

『二万四千本の注射器』

 

「これが何を意味するか、まず俺の側から説明する」

 

彼は言った。

 

「アトロピンという薬品がある。……用途は色々ある。だが二万四千本を軍事作戦の随伴品目として買う理由は、一つしかない」

 

「……なんですか」

 

「兵士に持たせるためだ」

 

彼は言った。

 

「自分たちが運んでいる荷物から、自分たちを守るために」

 

部屋が静かになった。

 

「防護具が二万四千組。注射器が二万四千本。除染器材。……この三点セットは、通常の弾薬には随伴しない」

 

彼はマーカーで『四十八基』と書き、その横に矢印を引いた。

 

そして矢印の先に二文字書いた。

 

『化学』

 

セリカが息を呑んだ。

 

「……化学って」

 

「神経剤だ」

 

ウェッブは言った。

 

「文書には二つの記号がある。『G』と『V』。……いずれも系統の呼称だ。四十八基のうち、三十二基がG、十六基がVと記載されている」

 

「せ、先生」

 

アヤネが震える声で言った。

 

「それ、何をするものなんですか」

 

「説明しない」

 

彼は即答した。

 

「え」

 

「説明する必要がない。……君たちが知る必要があるのは、その先の一行だけだ」

 

彼はマーカーを置いた。

 

「防護具を着ていない人間は、そこにいるだけで死ぬ」

 

部屋の空気が止まった。

 

「撃たれなくてもか」

 

シロコが言った。

 

「撃たれなくてもだ」

 

「隠れてても」

 

「隠れていてもだ」

 

「……盾は」

 

ホシノが言った。

 

彼女の声はいつもと同じ調子だった。

 

「おじさんの盾、けっこう頑丈だよ。五十口径も止めるし」

 

ウェッブは彼女を見た。

 

そして、言いたくないことを言う人間の顔で言った。

 

「――止まらない」

 

「……」

 

「盾は弾を止める。空気は止めない」

 

小鳥遊ホシノは何も言わなかった。

 

そして、奥空アヤネがゆっくりと手を挙げた。

 

「あの、先生。……でも」

 

「言え」

 

「キヴォトスの生徒は、銃弾では死なないんです」

 

彼女は言った。

 

「ヘイローがある限り、私たちは撃たれても倒れるだけです。手当てをすれば起き上がります。……先生も、それを見ましたよね」

 

「見た」

 

「じゃあ、これも――」

 

アヤネの言葉が途中で止まった。

 

彼女自身が、その先を先に理解してしまったからだ。

 

ウェッブは静かに言った。

 

「ヘイローは弾を止める」

 

「……」

 

「呼吸は止めない」

 

奥空アヤネは自分の口元を両手で押さえた。

 

---

 

五.四十八の円

 

三十九日目 〇四一〇時。

 

ウェッブは壁の五万分の一の地図を外した。

 

そして代わりに、四十日目のためにアヤネが用意していたキヴォトス全域図を貼った。

 

縮尺が違う。アビドス自治区がその上では親指の爪ほどの大きさしかない。

 

彼は赤鉛筆を取り、砂漠の中央に小さな点を打った。

 

「――第四掘削現場。呼称オアシス。ここに前線作戦基地を作っている」

 

「前線作戦基地?」

 

「FOBだ。……補給と発進の拠点だ。恒久施設ではないが、一時的な野営地でもない。中間だ」

 

彼は点の周りに小さな四角を描いた。

 

「発電機、水、燃料、弾薬庫、居住区、そして舗装された発射位置。……この四十日で写真の枚数が三倍になっている。作っているのは陣地じゃない。工場に近い」

 

「なんでそんなものを砂漠に」

 

「そこが本題だ」

 

ウェッブはコンパスを取った。

 

そしてオアシスの点に針を刺し、円を一つ描いた。

 

半径が地図の三分の一を覆った。

 

部屋の全員が黙った。

 

「……中距離弾道弾の射程だ。仕様書の値をそのまま取った。誤差は無視している」

 

彼は円の縁を鉛筆でなぞった。

 

「ここから見てみろ。……アビドス高等学校はどこにある」

 

「……ここです」

 

アヤネが指した。オアシスからわずか三十八キロ。円の内側の、ほとんど中心に近い場所。

 

「そうだ」

 

ウェッブは言った。

 

「三十八キロだ。……三十八キロ先の学校を潰すのに、弾道弾は要らない」

 

「……」

 

「トラックで二時間四十分だ。歩兵中隊が四つあれば足りる。実際、附属書Bにはそう書いてある」

 

彼はコンパスを置いた。

 

「四十八基は、アビドスに向いていない」

 

彼は円の中心から、円周に向かって線を四本引いた。

 

一本目の先。

 

「サンクトゥムタワー」

 

二本目。

 

「トリニティ総合学園、本部棟」

 

三本目。

 

「ゲヘナ学園、旧校舎地区」

 

四本目。

 

「ミレニアムサイエンススクール、実験棟群」

 

彼は鉛筆を置いた。

 

「……全部、円の内側だ」

 

誰も動かなかった。

 

「先生」

 

ノノミがゆっくりと言った。

 

「それは、つまり」

 

「エデン条約機構だ」

 

ウェッブは言った。

 

「先月成立したばかりの、この街で初めての『複数の学園が同じ紙に署名した機構』。……その署名者の全員が、この円の中にいる」

 

彼は地図から一歩下がった。

 

「そして連邦生徒会もだ」

 

「……」

 

「この四十八基は、戦争の道具じゃない」

 

彼は言った。

 

「裁かれないための道具だ」

 

セリカが掠れた声で訊いた。

 

「……どういう意味よ」

 

「カイザーは今、二つのものを同時に抱えている」

 

ウェッブは指を二本立てた。

 

「一つ。四千二百八十六件の集金経路と、四年分の地質調査と、他校の土地の権利。……これは全部帳簿に残る。調べれば出る」

 

「はい」

 

「二つ。それを調べる権限を持った機関が、先月生まれた」

 

彼は言った。

 

「エデン条約機構だ。……今までこの街には、複数の学園をまたいで捜査できる仕組みがなかった。だから彼らは安全だった」

 

「……」

 

「もう安全じゃない」

 

彼は地図の円を叩いた。

 

「だから四十八基だ。……配備が完了した瞬間、この街の誰も彼らを調べられなくなる。調べようとした側が、まず自分の生徒の朝礼の時間を思い出すからだ」

 

セリカの唇が動いた。

 

「……朝礼」

 

「そうだ」

 

ウェッブは言った。

 

「この街に軍隊はない。あるのは学校だ。……学校というのは、全員が同じ場所に、同じ時刻に、時間割どおりに集まる」

 

「……」

 

「これ以上に狙いやすい標的を、俺は二十年見たことがない」

 

長い沈黙があった。

 

ホシノがソファの背から顔を上げた。

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「その完了予定日って、いつだっけ」

 

「翌月十八日だ」

 

「……H時より前じゃん」

 

「そうだ」

 

彼は言った。

 

「向こうにとって、アビドスの襲撃はもう本番じゃない。……本番は十八日だ。二十五日は片付けだ」

 

奥空アヤネが記録板を落とした。

 

拾おうとしてもう一度落とした。

 

「先生」

 

彼女は言った。

 

「私たち、間に合いません」

 

「そうだ」

 

「……そうだ、って」

 

「二十五日を待つ計画は、今この瞬間に死んだ」

 

ウェッブは言った。

 

「便利屋68に金が振り込まれないのを確認してから寝返らせる。……その計画は成立しない。二十五日には全部終わっている」

 

彼は五人を見渡した。

 

「予定を繰り上げる」

 

「い、いつにですか」

 

「明後日だ」

 

---

 

六.説明できない一行

 

三十九日目 〇五〇〇時。

 

ウェッブはホワイトボードの左端に縦線を引き、二つの列を作った。

 

左の列に『支出』。右の列に『取得見込』。

 

そして左に書いていった。

 

『地質調査 第一次〜第九次(四年)

土地取得(買収・担保処分)

カイザーPMC 常時一個大隊規模

外部委託先 多数

掘削器材・工兵小隊

FOB建設(進行中)

弾道弾 四十八基および随伴器材一式』

 

右の列に彼は何も書かなかった。

 

しばらく書かなかった。

 

そしてマーカーの尻で右の列を二度叩いた。

 

「――ここに何を書けばいい」

 

誰も答えなかった。

 

「アビドス自治区の土地の評価額はいくらだ、アヤネ」

 

「附属書Aの取得予定価格だと……八億四千万です」

 

「八億四千万」

 

彼は左の列を指した。

 

「弾道弾一基の価格を、俺は知らない。だがこの街でいちばん安く見積もっても、四十八基と発射機十二両で八億四千万を超えないという計算は、俺には作れない」

 

「……」

 

「そしてこれは弾だけの話だ。四年分の調査費もPMCの人件費も入っていない」

 

彼はマーカーを置いた。

 

「――合わない」

 

「合わないって」

 

セリカが言った。

 

「じゃあ、あいつら損してるってこと?」

 

「そうなる」

 

ウェッブは言った。

 

「今の情報の範囲では、カイザーコーポレーションはアビドス自治区に対して、得られる金額の何倍もの金を使っている」

 

「意味わかんない」

 

「そうだ」

 

彼は珍しく同意した。

 

「意味が分からない」

 

彼は五人を見た。

 

「二十年、俺は動機の分からない作戦を見たことがない。金か、政治か、恐怖か、体面か。必ずどれかだった。……どれかを見つければ、必ず相手の次の手が読めた」

 

「今回は?」

 

「どれでもない」

 

彼は言った。

 

「金じゃない。合わないからだ。政治でもない。この街に選挙はない。恐怖でもない。四十八基は恐怖の道具だが、恐怖のために四年間ボーリング調査はしない」

 

「……」

 

「地下三百八十メートルに何かある。それだけは分かっている」

 

彼はホワイトボードの右下に一行書いた。

 

『情報要求 第一号(最優先):カイザーコーポレーションが地下に求めているものは何か。 ――未解明』

 

そしてその下に、さらに一行書いた。

 

『※ 本件について、当方は現時点で仮説を持たない。』

 

アヤネが顔を上げた。

 

「……先生。仮説、書かないんですか」

 

「書かない」

 

「でも、書いておいたほうが」

 

「書いたら、それが本当だと思う人間が出る」

 

彼は言った。

 

「俺が思いつきで書いた一行を、明日誰かが根拠として使う。三日後には、それを前提に誰かが陣地の位置を決める。……十日後に人が死ぬ」

 

「……」

 

「分からないことは、分からないと書け」

 

彼はマーカーのキャップを閉めた。

 

「分からないという情報は、間違った情報より価値がある」

 

シロコが立ち上がった。

 

そして地図の前に行き、砂漠の中央を見ていた。

 

「――先生」

 

「なんだ」

 

「私、たぶん一つだけ言える」

 

「言え」

 

「あそこ、湖だった」

 

彼女は言った。

 

「昔の地図に大オアシスって書いてある。ボート浮かべてお祭りやってたって、委員長が言ってた」

 

「そうだな」

 

「湖の下に何かあるってことは」

 

シロコは自分の言葉を確かめるようにゆっくり言った。

 

「……水の底に沈めたかったってことだと思う」

 

部屋が静かになった。

 

ウェッブは彼女を長いこと見ていた。

 

そして『未解明』の下に、生徒の言葉として一行だけ書き足した。

 

『所見(砂狼):当該構造物は、意図的に水面下に置かれていた可能性がある。根拠:旧地形。』

 

「――シロコ」

 

「ん」

 

「今のは仮説じゃない。観察だ」

 

「違うの?」

 

「違う」

 

彼は言った。

 

「仮説は結論を置く。観察は事実だけを置く。……君は事実だけを置いた」

 

砂狼シロコはしばらく黙って、それから小さく言った。

 

「ん、……なんかうれしい」

 

「そうか」

 

---

 

七.三十七枚

 

四十一日目 一〇〇〇時。

 

対策委員会室の机の上に、書類が三十七枚並べられていた。

 

『附属書B:区域確保計画』本文(八枚)

『損害許容:第一梯団 一〇〇パーセント』の頁(一枚)

『附属書C:外部委託先管理(改訂第二版)』(四枚)

『同 決裁記録および照会回答』(二枚)

『外部委託契約書 別紙第三(着手金支払条件)』(二枚)

『カイザーコンストラクション本社ビル 設備台帳(抜粋)』(一枚)

その他、経理伝票および人事関連(十九枚)

 

アヤネがその中から一枚を持ち上げた。

 

改訂第二版の四枚目。

 

「……先生。私、この行が一番怖いです」

 

「読め」

 

彼女は読んだ。声は震えていなかった。三日前は震えていた。

 

「『五.前記各項の実施が困難と判断される場合、または当該委託先が本計画の内容を認知した場合は、作戦終了後速やかに保安上の措置を執る』」

 

「そうだ」

 

「その下に、決裁の記録があります」

 

彼女は次の紙をめくった。

 

「『照会:「保安上の措置」の語義について、法務より照会あり』」

 

「……」

 

「『回答:残置しないという意味である』」

 

部屋が静かになった。

 

セリカが小さく言った。

 

「……ざんち」

 

「残して置かない、という意味だ」

 

ウェッブが言った。

 

「後に残さない。記録も、物も、人も」

 

「なんでそんな言い方するのよ」

 

「殺すと書くと、その紙を書いた人間が眠れなくなるからだ」

 

彼は言った。

 

「だから語彙を変える。語彙を変えると人は眠れる。……そして眠れる人間は、次の紙も書ける」

 

彼はその一枚を見下ろしていた。

 

そして、誰も予想していなかったことを言った。

 

「――俺は同じ紙を読んだことがある」

 

五人が顔を上げた。

 

「え」

 

「同じ紙だ。同じ構造で、同じ語彙で、同じ決裁欄がついていた」

 

彼の声はいつもと同じ高さだった。

 

「あの紙には、名前が九人分書いてあった。……そのうち一人は記者だった。三十九歳。子供が二人いた」

 

「……」

 

「彼は、自分が紙に載っていることを知らなかった」

 

ウェッブは目を上げなかった。

 

「駅の構内だった。人が二千人くらいいた。……俺は彼に電話で指示を出していた。物陰から出るなと言った。彼は出た。怖かったからだ」

 

長い沈黙があった。

 

「先生」

 

ホシノが言った。

 

「その紙、どこで読んだの」

 

「――俺が働いていた場所だ」

 

彼はようやく顔を上げた。

 

「俺は、その紙を書く側にいた」

 

対策委員会室は静まり返っていた。

 

奥空アヤネが眼鏡を押し上げた。それからゆっくりと言った。

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「その人には、誰も紙を渡さなかったんですね」

 

ウェッブは彼女を見た。

 

「……そうだ」

 

「今度は渡します」

 

彼女は三十七枚の紙を丁寧に揃えて、クリップで留めた。

 

「今日、渡してきます」

 

---

 

一二〇〇時。校庭。

 

ウェッブは五つの机を並べさせた。

 

そして言った。

 

「全部出せ」

 

砂狼シロコがWHITE FANG 465をケースに収めて置いた。予備弾倉を五本。ナイフを一本。無線機を一つ。

 

十六夜ノノミがミニガンを――どうやって運んだのか誰も見ていなかったが――台車ごと置いた。

 

黒見セリカがBonesetterを置いた。それから胸ポケットから小型の煙幕を二つ出した。

 

「……なんでそんなもん持ってんのよ」

 

「セリカちゃんが自分で持ってきたんでしょ」ノノミが言った。

 

「あっ、そうだった」

 

奥空アヤネがCommon Senseを置いた。

 

そして小鳥遊ホシノが盾を置いた。

 

その盾は校庭の砂に半分めり込んだ。

 

「うへ〜。……なんか裸みたい」

 

「そうだ」

 

ウェッブは言った。

 

そして自分のジャケットの内側から、G19を抜いて机に置いた。

 

弾倉を抜き、薬室を確認し、スライドを引いたまま止め、机の上に置いた。

 

さらに予備弾倉を三本。ナイフを一本。それから誰も気づいていなかった場所――ベルトの後ろ、靴の中、袖口――から小さなものをいくつか出した。

 

セリカが目を丸くした。

 

「ちょっと。……先生、そんなに持ってたの」

 

「持っていた」

 

「今まで一回も見えなかったんだけど」

 

「見えないように持っていた」

 

「こわ」

 

彼は最後に腕時計を外そうとして、途中でやめた。

 

そして机の上を一度見渡した。

 

「――今日、これに触るな。誰も」

 

「はい」

 

「一人でも触ったら、この四十一日は全部無駄になる」

 

彼は言った。

 

「相手が一番よく見るのは、こちらが何を言うかじゃない。……こちらが何を持っていないかだ」

 

セリカが手を挙げた。

 

「先生」

 

「なんだ」

 

「もし、あいつらが撃ってきたら」

 

「撃たれる」

 

「……即答しないでよ!」

 

「嘘はつかないと言った」

 

彼は言った。

 

「浅黄ムツキが銃を向ける確率を、俺は三割と見ている。実際に撃つ確率は一割以下だ。……ゼロではない」

 

「一割って結構あるじゃない!」

 

「ある」

 

「じゃあなんで行くのよ!」

 

ウェッブは彼女を見た。

 

「行かない場合の確率を言う」

 

「……」

 

「二十五日、あの四人は全員こちらへ向かって走ってくる。損害許容一〇〇パーセントで。……その日に四人が死ぬ確率を、俺は九割八分と見ている」

 

黒見セリカは何も言えなかった。

 

「一割と九割八分だ」

 

彼は言った。

 

「俺は算数しかしていない」

 

十六夜ノノミが静かにカップを置いた。

 

「……先生」

 

「なんだ」

 

「私、その一割のほうの計算に入りたいです」

 

「はぁい」と彼女は自分で付け加えた。

 

砂狼シロコが頷いた。

 

奥空アヤネがクリップで留めた紙束を胸に抱えた。

 

黒見セリカが「もー!」と言って机を叩き、それから小さく「……行くわよ」と言った。

 

そして小鳥遊ホシノが、盾を置いたままの手をぶらぶらさせて言った。

 

「うへ〜。……丸腰でよその子に会いに行くの、初めてだなあ」

 

「二度目だ」

 

ウェッブが言った。

 

「え?」

 

「四十一日前、俺がやった」

 

ホシノは彼を見た。

 

そして、なぜかとても嬉しそうに笑った。

 

「……そっか」

 

「なんだ」

 

「ううん。なんでもない」

 

彼女は歩き出した。

 

「先生、あのときちゃんと成功したもんね」

 

---

 

一二四〇時。店の裏口。

 

黒見セリカは前掛けを外しながら、犬の大将に頭を下げていた。

 

「大将、あの、今日の午後だけ、店……閉めてもらえませんか」

 

「あ?」

 

「その、ちょっと……面倒な話をするので。……巻き込みたくないんです」

 

大将は寸胴の火を弱めた。

 

そして言った。

 

「断る」

 

「え」

 

「客が来るなら店は開けるもんだ」

 

「いや、でも」

 

「セリカ」

 

彼は玉杓子を置いた。

 

「お前、うちで何やってる」

 

「……バイトです」

 

「違う。客に飯を出してる」

 

彼は言った。

 

「今日来るのは客だろ。四人組の、あのコートの子らだろ」

 

セリカは何も言えなかった。

 

「じゃあ飯を出す。……話は勝手にやれ。俺は麺を茹でる」

 

「……大将」

 

「なんだ」

 

「……危ないかもしれないです」

 

「知ってるよ」

 

彼は寸胴の蓋を戻した。

 

「この店な、去年から数えて四回囲まれてるんだ。ヘルメット団に。……一番多いときで五十人だ」

 

「……知ってます。私、二回目のとき中にいたので」

 

「そうだったな」

 

大将は言った。

 

「あの二回目の夜な。店を閉めたあと、あんたらの先生が一人で来た」

 

セリカの手から前掛けが落ちた。

 

「……え」

 

「なんも言わずに厨房の裏口と、裏の路地と、隣の空き店舗を三十分見て回った。……で、帰り際に紙を一枚置いてった」

 

彼はレジの脇の壁を顎で示した。

 

古い品書きの下に、色の褪せた紙が一枚、画鋲で留めてあった。

 

そこには番号が一つと、二行だけ書いてあった。

 

『何かあれば、鳴らす前にかけろ。

――出なければ二番目にかけろ。』

 

「二番目の番号は、あんたの学校の部室だ」

 

「……」

 

「あんたには言うなって言われてたよ。心配するからって」

 

大将は肩をすくめた。

 

「一回も使ってねえけどな。四回目のときも使わなかった。……お前らが先に来たからだ」

 

「……大将」

 

「助けられてんだよ、俺は」

 

彼は言った。

 

「だから今度は、自分で決める」

 

彼は麺箱を開けた。

 

「今日は五人前多く茹でる。硬めと柔らかめと、その真ん中だ。……あの四人組、注文は毎回同じだが、好みは全員違う」

 

「なんでそんなの分かるんですか」

 

「客商売だからだ」

 

犬の大将は言った。

 

「金の払い方と、麺の残し方を見りゃ分かる」

 

---

 

一二五五時。店の向かいの、潰れた金物屋の日陰。

 

黒い制服の少女が、フルフェイスのヘルメットを膝に抱えて座っていた。

 

その隣に小鳥遊ホシノがしゃがんでいた。

 

「――届けた?」

 

「届けたよ」

 

少女は面倒くさそうに言った。

 

「三階の郵便受けに突っ込んどいた。ちゃんと見てんの確認した。窓から」

 

「なんて言ってた?」

 

「ツインテールのちっこいのが大爆笑してた。『武器不要って書いてある〜』って」

 

「うへ〜。効いたねえ」

 

「コートのやつは十分くらい紙持って突っ立ってたよ」

 

少女は言った。

 

「で、『行くわよ。断ったら怖がってると思われるじゃない』だと」

 

「……そっか」

 

ホシノは笑った。

 

「ありがとね、ヘルメットちゃん」

 

「その呼び方やめろ」

 

「はぁい」

 

「……なあ」

 

「なに?」

 

「あんたら、武器持ってねえの」

 

「うん。全部置いてきた」

 

少女は長い間黙っていた。

 

そしてヘルメットを被った。

 

「……馬鹿だろ」

 

「よく言われる」

 

「うちら、まだ五十八人いるからな」

 

くぐもった声だった。

 

「切られただけで、いなくなったわけじゃねえ」

 

彼女は立ち上がった。

 

「言っとくけど、味方するとは言ってねえぞ。……ただ、いるってだけだ」

 

「うん」

 

「じゃあな」

 

十歩ほど行ってから、彼女は一度だけ振り返った。

 

「――水、まだ一本残ってるって、あのおっさんに言ったか」

 

「言ったよ」

 

「なんて言ってた」

 

小鳥遊ホシノは、正確に伝えた。

 

「『――取りに行く』って」

 

ヘルメットの中で、少女が短く息を吐いた。

 

笑ったのかもしれなかった。

 

---

 

八.一三〇〇時

 

四十一日目 一三〇〇時。

 

――奥空アヤネが今朝の日誌の欄外に書いた一行がある。

 

『四十一日目。私が支援要請書を出してから返事が来るまでと、同じ日数。』

 

砂の舞う舗道の先に、色の褪せた暖簾が揺れていた。

 

『柴関ラーメン』

 

その暖簾を、四つの影がくぐった。

 

先頭に立っていたのは長身の少女だった。

 

肩にロングコートを羽織り、赤い薔薇のようなヘイローを頭上に浮かべ、顎をわずかに上げて歩いてくる。歩幅は大きく、歩調は一定。誰かに見られていることを前提にした歩き方だった。

 

その後ろに白髪ツインテールの小柄な少女。両手を頭の後ろで組み、にやにやと笑っている。

 

その後ろに黒白の髪の少女。無表情。首にヘッドホン。目だけが動いている。店の柱、暖簾の隙間、砂の上の足跡、そして道の両側の建物の二階の窓。

 

最後に、暗い紫の髪の一年生。両肩をすぼめ、両手で自分のスカートの裾を握りしめている。

 

四人は店の中を見た。

 

そして、全員が同時に止まった。

 

カウンターに五人が座っていた。

 

一番手前に猫耳の一年生。その隣に眼鏡の一年生。その隣に狼耳の二年生。その隣に金髪の二年生。一番奥に、ピンク色の髪の三年生。

 

五人とも、ラーメンを食べていた。

 

「……」

 

「……」

 

沈黙が七秒続いた。

 

先に喋ったのは白髪ツインテールだった。

 

「クフフ! ねえアルちゃん、あの人たち食べてるよ」

 

「……見れば分かるわよ」

 

コートの少女――陸八魔アルが低く言った。

 

彼女はカウンターの五人を睨みつけ、それから一歩前に出た。

 

「陸八魔アルよ。……便利屋68の社長」

 

「知ってるよ」

 

一番奥のホシノが顔を上げた。

 

口の端に葱がついていた。

 

「小鳥遊ホシノ。アビドス廃校対策委員会の委員長。……とりあえず座らない? 麺のびるよ」

 

「誰が」

 

アルの声が跳ねた。

 

「敵の学校の子と並んでラーメンを食べる悪党がどこにいるのよ!」

 

「ここにいるじゃん」

 

「ここには――」

 

彼女は指をさそうとして、そこにいるのが自分たちだと気づいて言葉を切った。

 

「……」

 

「クフフ」

 

「ムツキ、笑わないで」

 

その後ろで、黒白の髪の少女――鬼方カヨコが店の中をゆっくりと見渡していた。

 

カウンター。丸椅子。麺箱。寸胴。ざる。壁に貼られた品書き。天井の蛍光灯。

 

そして五人の生徒の足元。

 

彼女の視線が三往復した。

 

四往復目で止まった。

 

「……社長」

 

「なによ、今いいところ――」

 

「武器がない」

 

「え?」

 

「一つもない」

 

カヨコは言った。

 

「あの五人、一人も持ってない。……この店にも置いてない。カウンターの下も見た」

 

店の中の空気が変わった。

 

アルの喉が動いた。

 

「……罠でしょ。奥に置いてあるのよ」

 

「奥は見た」

 

カヨコは言った。

 

「厨房と、便所と、麺の箱だけ」

 

浅黄ムツキが頭の後ろの手を下ろした。

 

彼女の笑顔は消えていなかった。

 

だが、目だけが笑っていなかった。

 

「……ねえ、カヨコ先輩。それって」

 

「そう」

 

カヨコは言った。

 

「向こうは、私たちが撃たない前提で座ってる」

 

伊草ハルカが小さく身を縮めた。

 

「あ、あの……アル社長。私、外に、その、念のため、四箇所ほど置いてきたので、いつでも」

 

「置いてくるなって言ったでしょ!?」

 

「す、すみません! 私のせいで、本当にすみません!」

 

「もう置いてきちゃったんでしょ!? 謝るなら置いてくる前に謝りなさいよ!」

 

「すみません!!」

 

犬の大将が、寸胴の向こうから顔を出した。

 

「――五人前だな。硬めと柔らかめと真ん中と、あと素ラーメン」

 

四人が固まった。

 

アルがぎこちなく振り返った。

 

「……なんで注文する前に分かるの」

 

「三回来てりゃ覚えるよ」

 

大将は玉杓子で寸胴をかき混ぜた。

 

「座れ。汁が冷める」

 

陸八魔アルはしばらくそこに立っていた。

 

それから、コートの襟を直し、顎を上げ、非常にゆっくりとした足取りでカウンターに向かった。

 

「……いいわ。付き合ってあげる」

 

彼女は座った。

 

「悪党にも食事の時間は必要だもの」

 

「クフフ!」

 

「ムツキ!」

 

---

 

九.紙束

 

一三二〇時。

 

素ラーメンの丼が三分の一ほど減った頃、アルが箸を置いた。

 

「――で?」

 

彼女は言った。

 

肘を突き、顎を上げ、面倒くさそうに。

 

四十一日目の午前中に、対策委員会が六回聞いた声だった。

 

「用件を言いなさい。私、忙しいの」

 

セリカの背中が跳ねた。

 

彼女は必死に隣のアヤネの袖を引いた。

 

(ちょっと、ちょっと! 一言一句同じなんだけど!)

 

(落ち着いてくださいセリカちゃん!)

 

(先生こわ! あの人ほんとにこわい!)

 

小鳥遊ホシノがどんぶりを置いた。

 

そして箸を揃えて置いた。

 

「うん、そうだよね。忙しいのに来てくれてありがと」

 

「……」

 

「あのね」

 

ホシノは言った。

 

「うち、来月の二十五日の一二〇〇時に、そっちに攻められる予定なんだって」

 

アルの手が止まった。

 

一〇分の一秒。

 

だが店の中の九人のうち、六人がそれを見た。

 

「……何の話かしら」

 

「知ってる。とぼけるよね。おじさんもとぼけると思う」

 

ホシノはあくびをした。

 

「そっちの契約金、三千万でしょ。理事が直接出向いて契約したんだよね。……で、まだ一円も入ってない」

 

店の中の温度が下がった。

 

「……」

 

ムツキの笑顔が動かなくなった。

 

ハルカがアルの背中を見た。

 

そしてカヨコが――ヘッドホンのコードに触れていた手を、静かに下ろした。

 

「なんでそれを」

 

アルの声が半音上がった。

 

彼女は即座にそれを直した。

 

「……なんでそんな与太話を信じてるのか知らないけど。うちの経理は順調よ」

 

「うん」

 

ホシノは頷いた。

 

「順調じゃないよね、っていうのは言わないよ。おじさん、そういうの趣味じゃないから」

 

「……」

 

「でね」

 

彼女は言った。

 

「うちはたぶん、二十五日に勝つよ」

 

「はぁ?」

 

「ごめんね。自慢じゃなくてね。……四十日ぐらい前からずっと準備してるの。土嚢が二千百個あるし、掩体が六つあるし、あと」

 

彼女は指を折った。

 

「今日で通算百七十三回撃退してるの。四人だと、うん。……たぶん勝つ」

 

アルは何も言わなかった。

 

「だからね」

 

ホシノは言った。

 

「勝つ話をしに来たんじゃないの」

 

「……」

 

「そっちが負けたあとの話をしに来たの」

 

沈黙。

 

寸胴の湯が沸く音だけがした。

 

アルの唇が動いた。

 

「――なによ、それ」

 

その瞬間、奥空アヤネがカウンターの上を滑らせた。

 

クリップで留められた紙束。

 

三十七枚。

 

音を立てずにカヨコの前で止まった。

 

「奥空アヤネです。対策委員会の書記です」

 

彼女は言った。

 

「これは、御社の雇い主であるカイザーコンストラクションの内部文書の写しです」

 

「……」

 

「読んでも読まなくても構いません」

 

彼女は手を引いた。

 

「私からは、それ以上何も言いません」

 

そして黙った。

 

――説得するな。証明するな。

 

――黙って置け。

 

アルは紙束を見た。

 

見て、鼻で笑おうとして、笑えなかった。

 

三十七枚という厚みが、想定していたものより厚すぎた。

 

一枚か二枚なら笑えた。

 

三十七枚は笑えない。

 

「……偽造ね」

 

彼女は言った。

 

「そうかもしれません」

 

アヤネは即座に言った。

 

アルの眉が動いた。

 

「え」

 

「偽造かもしれません。私にも証明できません」

 

奥空アヤネは静かに言った。

 

「証明は、そちらでしてください」

 

店の中の全員が彼女を見た。

 

――五分後、その一言が全部を決めた。

 

鬼方カヨコが紙束に手を伸ばした。

 

「――カヨコ」

 

「読む」

 

彼女は短く言った。

 

「読まないと判断できない」

 

「罠かもしれないでしょ」

 

「罠かどうかも、読まないと分からない」

 

彼女は最初の一枚をめくった。

 

『附属書B:区域確保計画』

 

二枚目。

 

三枚目。

 

四枚目で、彼女の指が止まった。

 

一行を二度読んだ。

 

そして、初めて感情の混じった声を出した。

 

「……社長」

 

「なによ」

 

「『第一梯団:外部委託先「便利屋68」 四名』」

 

「……」

 

「『任務:正面防御火力を吸収し、火点の位置を暴露させる』」

 

アルの箸が丼の縁に当たった。

 

「そんなの、当たり前でしょ。私たちは先鋒で――」

 

「その下」

 

カヨコは言った。

 

「『損害許容:第一梯団 一〇〇パーセント』」

 

店が静まり返った。

 

浅黄ムツキが、初めて笑うのをやめた。

 

「……ひゃく?」

 

「そう」

 

「え、それって、あの」

 

彼女は首を傾げた。

 

いつもの傾げ方だった。

 

だが声だけが違った。

 

「……全滅していいってこと?」

 

「違う」

 

答えたのはシロコだった。

 

彼女は丼の汁を飲み干して、静かに置いた。

 

「全滅するのが仕事」

 

「……」

 

「あなたたちが倒れきったところを見て、うちの陣地の図面を作る」

 

シロコは言った。

 

「私たちも、同じことを二十二日目にされた。……あのときは百二十人で、誰も撃たなかった。四十分立ってた」

 

「……」

 

「今度は、あなたたちを使う」

 

浅黄ムツキの手が動いた。

 

トリック・オア・トリートの銃口が、カウンターの下から上がった。

 

そしてアヤネの額から二十センチのところで止まった。

 

「――ムツキ!」

 

アルが叫んだ。

 

「クフフ」

 

ムツキは笑った。

 

笑ったのに、目が笑っていなかった。

 

「ねえ、書記さん」

 

「……はい」

 

「これ、面白くないんだけど」

 

彼女は言った。

 

「私、面白いことは好きなの。だから騙されるのも別にいいの。……でも、面白くない騙され方は嫌い」

 

「……」

 

「あなたたち、私たちを騙してどうするの」

 

奥空アヤネは動かなかった。

 

眼鏡の奥で瞳孔が開いていた。指先は白くなっていた。呼吸は速かった。

 

だが、動かなかった。

 

(四秒吸って、四秒止めて、四秒吐く)

 

(……三回)

 

彼女は言った。

 

「――騙してません」

 

「証拠は?」

 

「ありません」

 

「じゃあ意味ないよね」

 

「はい」

 

アヤネは頷いた。

 

「だから、確かめてください」

 

その後ろで、伊草ハルカが右手をポケットに入れていた。

 

そして、親指を何かの上に置いていた。

 

「あ、あの……アル社長。……この人たち、社長を、その、騙して」

 

「ハルカ、待ちなさい」

 

「で、でも」

 

「待ちなさい」

 

「……はい」

 

だが親指は離れなかった。

 

その一部始終を、対策委員会の五人は見ていた。

 

そして誰も動かなかった。

 

小鳥遊ホシノは、丼を持ち上げて汁を一口飲んだ。

 

「……のびるよ」

 

「は?」

 

「そっちの。……素ラーメン、のびやすいんだよ」

 

陸八魔アルは自分の丼を見た。

 

麺が汁を吸って膨らんでいた。

 

そして彼女は、この日初めて、自分の手が震えていることに気づいた。

 

---

 

十.岡本さん

 

一三三八時。

 

砂狼シロコが立ち上がった。

 

ムツキの銃口が半分だけ動いた。

 

シロコは両手を上げなかった。

 

代わりに、制服のポケットから一枚の紙を出して、カウンターの上に置いた。

 

「これ」

 

「……なに」

 

「設備台帳」

 

彼女は言った。

 

「カイザーコンストラクション本社ビルの。二十六階分。……各階の複合機、印刷機、空調、給湯設備の型番と製造番号と設置年月日と保守業者と担当者」

 

カヨコがそれを引き寄せた。

 

そして、〇・五秒で顔色を変えた。

 

「……これ」

 

「ん」

 

「これ、社員しか持ってない」

 

「そう」

 

シロコは頷いた。

 

「だから見せてる」

 

アルが横から覗き込んだ。

 

「そんなの作れるでしょ。……適当に数字並べれば」

 

「並べた」

 

シロコは言った。

 

「かもしれない」

 

「……」

 

「だから、確かめて」

 

彼女はカウンターの上の紙をもう一枚出した。

 

これは店の紙ナプキンだった。

 

四つに折られていた。

 

そしてそれを、カヨコの湯呑みの下に差し込んだ。

 

「今から、電話して」

 

「私が?」

 

「そう」

 

「なんで私なの」

 

鬼方カヨコの声には敵意はなかった。純粋な疑問だった。

 

砂狼シロコは彼女を見た。

 

そして言った。

 

「疑ってる人が自分でかけないと、意味がないから」

 

店が静かになった。

 

「そこに番号がある。総務部設備課」

 

シロコは台帳の隅を指した。

 

「名乗るのは『キヴォトス事務機サービス』。……訊くのは三つ」

 

「三つ」

 

「一つ。設備課の岡本さんはいますか」

 

「……」

 

「二つ。十二階の複合機、先月更新したやつの調子はどうですか」

 

「……」

 

「三つ。前回の作業、うちの誰が伺いましたか」

 

カヨコはしばらく動かなかった。

 

そして、湯呑みの下の紙ナプキンを見た。

 

「これは」

 

「答え」

 

シロコは言った。

 

「先に書いてある。……電話が終わってから開けて」

 

「……」

 

「今開けてもいい。でも、そうしたら意味がなくなる」

 

鬼方カヨコは、その言葉の意味を三秒かけて理解した。

 

そして携帯端末を出した。

 

「――待ちなさい」

 

アルが言った。

 

「これ、罠よ。かけたらこっちの番号が向こうに残るじゃない」

 

「残る」

 

シロコが言った。

 

「……なによそれ」

 

「残るから、意味がある」

 

彼女は言った。

 

「番号が残るってことは、私たちが逃げられないってこと。……嘘だったら、私たちが最初に消される」

 

陸八魔アルは何も言えなかった。

 

鬼方カヨコが番号を押した。

 

呼出音が三回鳴った。

 

『はい、カイザーコンストラクション総務部でございます』

 

そして、鬼方カヨコの声が変わった。

 

「――キヴォトス事務機サービスの鬼方と申します。いつもお世話になっております」

 

平坦で、抑揚が薄く、そして完全に事務的だった。

 

浅黄ムツキが口を開けた。

 

(――カヨコ先輩、それどこで覚えたの)

 

『はい、お世話になっております』

 

「恐れ入ります、設備課の岡本様はいらっしゃいますでしょうか」

 

『あ、岡本ですね。すみません、あいにく出張に出ておりまして』

 

「あら、そうでしたか。お戻りは」

 

『明後日の予定です。急ぎでしたらご伝言を』

 

「いえ、大丈夫です。……では確認だけ。十二階の複合機、先月更新した機械ですが、その後の調子はいかがでしょうか」

 

『あー、はい。十四日でしたか、一度紙詰まりで診ていただいて。……それ以降は問題ないです』

 

「ありがとうございます」

 

カヨコの声は変わらなかった。

 

「恐れ入ります、その前回の作業、弊社から誰が伺いましたか。作業報告の控えが手元になくて」

 

『えっと、確か三名でしたね。男性の方が一名と、女の子……あ、失礼、女性の方が二名』

 

「……そうですか」

 

『あ、その節はどうもありがとうございました。丁寧に直していただいて。あの詰まり、うちだと誰も直せなかったんで』

 

「……いえ」

 

『またよろしくお願いします』

 

「――失礼いたします」

 

通話が切れた。

 

店の中で、誰も動かなかった。

 

寸胴の湯が沸いていた。

 

鬼方カヨコは端末を置いた。

 

そして、湯呑みを持ち上げた。

 

その下にあった紙ナプキンを取り、四つ折りを開いた。

 

そこには、丸い字で三行書いてあった。

 

『一.岡本さんはいない。出張。戻りは明後日。

二.十二階の複合機は先月更新。今月十四日に紙詰まりで一度直した。

三.行ったのは三人。男の人一人と、女の子二人。』

 

長い沈黙があった。

 

カヨコは紙ナプキンを持ったまま顔を上げた。

 

そして、砂狼シロコを見た。

 

「……」

 

「ん」

 

「三つ目」

 

カヨコは言った。

 

「『男の人一人と、女の子二人』」

 

「そう」

 

「……その二人って」

 

砂狼シロコは、自分の狼耳を軽く動かした。

 

そして言った。

 

「直したのは、私」

 

黒見セリカが小さく手を挙げた。

 

「……もう一人が、私」

 

浅黄ムツキの銃口が、ゆっくりと下がった。

 

伊草ハルカの親指が、ポケットの中の何かから離れた。

 

鬼方カヨコが長く息を吐いた。

 

「――社長」

 

「……」

 

「本物です」

 

陸八魔アルは、丼の中の伸びきった麺を見ていた。

 

---

 

十一.経営判断

 

一三四九時。

 

「……本物ってどういうことよ」

 

アルの声はまだ社長の声だった。

 

だが半音、上がっていた。

 

「あの子たちがあのビルに入ったってことでしょ。それだけよ。それがなんで書類の本物の証明になるのよ」

 

「なります」

 

答えたのはアヤネだった。

 

「本社ビルの中に、私たちの機械が挟まっているからです」

 

「……挟まってる?」

 

「複合機の裏に、無許可の接続点があります。……ローグAPと言います」

 

彼女は言った。

 

「その機械が、社内の共有領域を三時間おきに十二分間だけ覗いています。私が持っているのは、その中身です」

 

「……」

 

「役員共有領域も含みます」

 

アルは黙った。

 

そして、非常にゆっくりと言った。

 

「……あなたたち、なにやってるの」

 

「犯罪です」

 

奥空アヤネは即答した。

 

店の中の全員が彼女を見た。

 

「常識を大切にする対策委員会です。だから正直に言います。……これは犯罪です」

 

彼女は眼鏡を押し上げた。

 

「でも、うちの学校が無くなるほうが非常識です」

 

浅黄ムツキが吹き出した。

 

「クフフッ! ……ねえ、この子いいね。私、この子好きかも」

 

「な、なんですか急に!」

 

「ねえねえ書記さん、うちに来ない? うち、給料出ないけど」

 

「出ないんですか!?」

 

「クフフ!」

 

「ムツキ、黙りなさい」

 

アルが言った。

 

そして紙束を自分の手元に引き寄せた。

 

彼女はそれを一枚ずつめくった。

 

速くはなかった。指が滑って、二度同じ頁を戻った。

 

『附属書C(改訂第二版)』

 

『五.……作戦終了後速やかに保安上の措置を執る』

 

『照会:「保安上の措置」の語義について』

 

『回答:残置しないという意味である』

 

そこで彼女の指が止まった。

 

長く止まった。

 

「……ねえ」

 

彼女は顔を上げなかった。

 

「はい」

 

「この『残置しない』ってやつ」

 

「はい」

 

「……何人が対象なの」

 

奥空アヤネは、ここで一秒だけ躊躇した。

 

そして、躊躇しなかったふりをやめて言った。

 

「四名です」

 

「四名」

 

「契約書の別紙に、構成員の氏名が四名分載っています。……全員です」

 

陸八魔アルは紙束を閉じた。

 

そして、コートの襟を直した。

 

いつもの動作だった。

 

だが今日は、その手が丼の縁に当たって少し湯を跳ねさせた。

 

「――ムツキ」

 

「なあに、アルちゃん」

 

「あんた、この前ネットで見たとかいう物騒な地雷、いくらだって言ってた?」

 

「んー、四万八千」

 

「買わなくていいわ」

 

「え〜?」

 

「金がないの」

 

アルは言った。

 

「三千万は入らない。……もう分かってるでしょ」

 

浅黄ムツキは何も言わなかった。

 

初めて、何も言わなかった。

 

「ハルカ」

 

「は、はいっ!」

 

「あんた、先月からずっと半額の弁当買ってきてたわよね」

 

「……す、すみません! わ、私が、その、節約になるかと思って、勝手に」

 

「謝らないで」

 

アルは言った。

 

「私が指示したことにしなさい」

 

「え」

 

「社長が指示したの。あんたは指示に従っただけ。……それでいいでしょ」

 

伊草ハルカの目が丸くなった。

 

彼女は口を開けて、何も言えずに、また閉じた。

 

「カヨコ」

 

「なに」

 

「……電話、貸して」

 

鬼方カヨコは端末を差し出さなかった。

 

代わりに言った。

 

「どこにかけるの」

 

「決まってるでしょ」

 

陸八魔アルは言った。

 

「解約よ」

 

「……」

 

「舐められたのよ、私たち」

 

彼女は言った。

 

その声はもう演技ではなかった。

 

演技ではなかったのに、いつもの「悪党の社長」の声と全く同じだった。

 

「私はね、悪党なの。悪党っていうのはね、恨まれてもいいし、追われてもいいし、嫌われてもいいの。……でも舐められたら終わりなのよ」

 

「……」

 

「三千万で四人買ったつもりなら、値札の付け方を間違えてるわ」

 

鬼方カヨコは端末を渡した。

 

アルは番号を押した。

 

三回の呼出音のあと、聞き覚えのある声が出た。

 

『――おお、便利屋の社長さんですか。ハハハ! どうしました、準備は順調ですかな』

 

アルはスピーカーに切り替えた。

 

店の中の九人が同時にそれを聞いた。

 

「順調よ。……ただ、契約の件で確認したいことがあって」

 

『ほう?』

 

「附属書Cの五項について――」

 

その瞬間、鬼方カヨコの手がアルの手首を掴んだ。

 

そして端末を取り上げた。

 

「――失礼、便利屋68の鬼方です」

 

彼女の声は完全に平坦だった。

 

「社長は今、体調を崩しております。契約の件は書面にてお送りします」

 

『……はぁ? 何の話ですかな』

 

「明日中に届きます。失礼します」

 

通話が切れた。

 

店が静まり返った。

 

アルが自分の手首を見た。

 

そしてカヨコを見た。

 

「……カヨコ」

 

「言うつもりだった?」

 

カヨコが言った。

 

「附属書Cの五項について、って。……その先を言ってたら、どうなってた」

 

「……」

 

「向こうは、私たちが知ったって分かる」

 

彼女は言った。

 

「五項に書いてあるでしょう。『当該委託先が本計画の内容を認知した場合は』って」

 

陸八魔アルの顔から、血の気が引いた。

 

「……」

 

「はぁ」

 

鬼方カヨコは深く息を吐いた。

 

「仕方ないか」

 

そしてアルの手首を離した。

 

「社長、契約は破棄でいい。……でも破棄の理由は『経営判断』にして。それ以上は一文字も書かない」

 

「……分かったわよ」

 

「あと、事務所は今日中に移る」

 

「今日中!?」

 

「今日中」

 

カウンターの端で、デイヴィッド・ウェッブがそれを聞いていたなら、と後にアヤネは記録板に書いた。

 

だが彼はまだそこにいなかった。

 

彼が暖簾をくぐったのは、その四十秒後だった。

 

---

 

十二.依頼

 

一三五八時。

 

暖簾が揺れた。

 

砂の匂いを連れて、一人の男が店に入ってきた。

 

黒いジャケット。短く刈った髪。三十半ば。

 

この街では極めて珍しい、大人の顔。

 

浅黄ムツキが真っ先に反応した。

 

「……うわ。噂の」

 

「知ってるの?」

 

アルが言った。

 

「知ってるよ〜。ヘルメット団の子たちが言ってた。『アビドスにおっさんが来た』って」

 

ウェッブは一番端の丸椅子に座った。

 

そして品書きを三秒見た。

 

「――一つ頼む。硬めで」

 

「あいよ」

 

犬の大将が麺を掴んだ。

 

四人が呆気に取られた。

 

「ちょっと」

 

アルが言った。

 

「あんた、誰よ」

 

「デイヴィッド・ウェッブ」

 

彼は言った。

 

「連邦捜査部シャーレ、顧問」

 

「シャーレ?」

 

「聞いたことは」

 

「……あるわよ。生徒会長が作ったっていう、なんでも屋みたいな」

 

「そうだ」

 

「なんでも屋がなんの用よ」

 

ウェッブは丼が来るのを待った。

 

麺が茹で上がるまでの二分間、彼は何も言わなかった。

 

丼が置かれた。

 

彼はそれを一口食べた。

 

そして言った。

 

「――美味い」

 

「でしょ!」

 

セリカが即座に反応して、それから顔を赤くして口を押さえた。

 

ウェッブは箸を置いた。

 

そしてジャケットの内ポケットから、封筒を一つ出してカウンターの上に置いた。

 

「便利屋68に、正式な依頼をしたい」

 

「……はぁ?」

 

「連邦捜査部シャーレからの業務委託だ。……そこに契約書がある」

 

アルが封筒を睨んだ。

 

「今の今、雇い主に切られた会社に仕事くれるっていうの」

 

「今の今、雇い主を切った会社にだ」

 

ウェッブは言った。

 

「順番が逆だと、こちらが君たちを買い叩いたことになる」

 

陸八魔アルの眉が動いた。

 

彼女は封筒を開けた。

 

そして金額欄を見て、しばらく黙った。

 

「……二百万」

 

「そうだ」

 

「三千万の話をしてたのよ、私たち」

 

「知っている」

 

「十五分の一じゃない」

 

「そうだ」

 

ウェッブは言った。

 

「額は少ない。理由は二つある。一つ、シャーレの予算は少ない。二つ、俺はこの依頼を君たちに安く見せたくないから、正直に言う。……この額は、危険に対して安すぎる」

 

「なにそれ」

 

「そのうえで、条件が一つある」

 

彼は言った。

 

「全額前払いだ。契約書に署名した瞬間に振り込む。……作戦の成否に関係なく返還は求めない」

 

店が静まり返った。

 

伊草ハルカが小さな声で言った。

 

「……ぜ、前払い、ですか」

 

「そうだ」

 

「あの、それは、その」

 

彼女は言葉を探した。

 

「……失敗しても、いいんですか」

 

「失敗を前提にはしていない」

 

ウェッブは言った。

 

「だが、金を人質に取る依頼主を俺は信用しない。……だから俺もそれをしない」

 

浅黄ムツキが頬杖をついた。

 

「ふーん。……で、何すればいいの」

 

ウェッブは封筒からもう一枚出した。

 

これは契約書ではなかった。

 

一枚の航空写真だった。

 

砂漠の中央。掘削の跡。そこに広がる、建設中の四角い構造物群。

 

「アビドス砂漠中央部、第四掘削現場。……カイザーPMCがここに前線作戦基地を建設中だ」

 

「基地?」

 

「そうだ。完成予定は翌月十八日」

 

彼は写真の一角を指した。

 

「そしてここに、翌月十八日までに、四十八のものが運び込まれる」

 

「四十八の何よ」

 

「中距離弾道弾だ」

 

アルが眉を寄せた。

 

「……弾道弾って、あの、ミサイル?」

 

「そうだ」

 

「四十八本?」

 

「四十八基だ」

 

「なんでそんなもんが砂漠に――」

 

アルは途中で言葉を止めた。

 

彼女は馬鹿ではなかった。抜けているだけだった。

 

そして抜けている人間でも、この問いには辿り着けた。

 

「……待って。ここから撃って、どこに届くの」

 

ウェッブは写真の下から、もう一枚出した。

 

キヴォトス全域図。

 

砂漠の中央に赤い点。その周りに赤い円。

 

四人が同時に、その円の中を見た。

 

サンクトゥムタワー。

 

トリニティ。

 

ゲヘナ。

 

ミレニアム。

 

そして――

 

「……うちの学校も入ってる」

 

浅黄ムツキが言った。

 

彼女はもう笑っていなかった。

 

「ゲヘナが、真ん中辺に」

 

「そうだ」

 

ウェッブは言った。

 

「エデン条約機構の署名者は全て円の内側にいる。……ゲヘナ学園はその一つだ」

 

鬼方カヨコが写真から目を離さずに言った。

 

「……ミサイルで学校を潰すって、そんなの。生徒は死なない」

 

「……」

 

「私たち、撃たれても死なないから。……ヘイローがある。爆風でも死なない。倒れて、手当てして、起きる」

 

彼女は言った。

 

「だから、この街で誰も本気で大量破壊なんて考えない。無駄だから」

 

「そうだな」

 

ウェッブは言った。

 

「だから、通常の弾頭は積んでいない」

 

店の空気が止まった。

 

「……なにを積んでるの」

 

「化学剤だ」

 

彼は言った。

 

「文書上の記号でGとV。神経系に作用する種類のものだ。……四十八基のうち三十二がG、十六がVと記載されている」

 

「……」

 

「防護具を着ていない人間は、その場にいるだけで死ぬ」

 

「待って」

 

アルの声が掠れた。

 

「ヘイローは」

 

「弾を止める」

 

ウェッブは言った。

 

「呼吸は止めない」

 

丼の湯気だけが、静かに立ち昇っていた。

 

伊草ハルカが両手で口を押さえた。

 

浅黄ムツキが、頬杖を突いた手をゆっくり下ろした。

 

鬼方カヨコが、初めて目を伏せた。

 

そして陸八魔アルは、非常に長い時間、何も言わなかった。

 

やがて彼女は言った。

 

「……なんでそんなことするの」

 

「抑止のためだ」

 

「よくし」

 

「調べられなくなるためだ」

 

ウェッブは言った。

 

「エデン条約機構は先月成立した。この街で初めて、複数の学園をまたいで捜査できる仕組みができた。……カイザーは四千二百八十六件の集金経路を持っている。調べられれば終わる」

 

「……」

 

「だから、調べようとした側が『自分の生徒の朝礼の時間』を思い出す状況を作る」

 

彼は言った。

 

「四十八基が配備を終えた瞬間、この街の誰もカイザーコーポレーションを裁けなくなる」

 

長い沈黙があった。

 

そして、陸八魔アルが小さく――本当に小さく――言った。

 

「……私たち、そんなののお手伝いをしようとしてたの」

 

「していない」

 

ウェッブは言った。

 

「君たちの仕事は、二十五日に正面から走ることだった。……この計画のことは、契約書のどこにも書かれていない」

 

「同じでしょ」

 

「同じじゃない」

 

彼は言った。

 

「知らずに使われるのと、知って使われるのは違う。……そして君たちは今、知った」

 

彼は封筒を指した。

 

「知った人間には、選択肢が生まれる。それだけの話だ」

 

彼はもう一度写真を指した。

 

「依頼の内容を言う」

 

「……」

 

「翌月十八日より前に、この基地に夜間侵入し、弾頭を無力化する」

 

「無力化?」

 

「破壊じゃない」

 

ウェッブは強調した。

 

「爆破すれば中身が出る。中身が出れば、そこにいる全員が死ぬ。……作戦中の君たちも含めてだ」

 

「じゃあどうやって」

 

「それは追って説明する。……今日は、やるかやらないかだけを訊きに来た」

 

アルは黙った。

 

そして訊いた。

 

「――なんで私たちなの」

 

「四人が必要だからだ」

 

ウェッブは即答した。

 

「なんの四人よ」

 

「陸八魔アル。狙撃だ」

 

彼は言った。

 

「あの基地には、夜間の見張り塔が四つ立つ設計になっている。うち二つは千二百メートル以上離れた位置からしか射線が通らない。……一発で灯りを消せる人間が要る」

 

「……」

 

「鬼方カヨコ。侵入と離脱だ」

 

彼はカヨコを見た。

 

「今日、君は三つの質問だけで確認を終えて、余計なことを一言も喋らずに電話を切った。……そして社長の手首を掴んだ」

 

「……」

 

「入って、出る。それだけができる人間は少ない」

 

「浅黄ムツキ。爆発物だ」

 

「え、私爆破していいの?」

 

「よくない」

 

彼は言った。

 

「基地の周囲には対人地雷が敷設される。……それを一つも起爆させずに通す人間が要る。爆発物を一番よく知っている人間は、爆発物を一番よく止められる」

 

浅黄ムツキが、目を丸くした。

 

そして、ゆっくりと、いつもとは違う種類の笑みを浮かべた。

 

「……クフフ。それ、初めて言われた」

 

「そうか」

 

そしてウェッブは、最後の一人を見た。

 

伊草ハルカは、肩をすぼめて自分の膝を見ていた。

 

「伊草ハルカ」

 

「……ひゃ、はい!」

 

「君の役目は、撃たないことだ」

 

店が静まり返った。

 

「……え」

 

「この作戦の成功条件は、一発も撃たず、一つも爆発させず、誰にも気づかれずに終わることだ」

 

彼は言った。

 

「途中で必ず、撃ちたくなる場面が来る。仲間が捕まりかける。灯りがこちらを向く。……そこで撃った瞬間に、四十八基のうちのどれかに穴が空く」

 

「……」

 

「君は、この四人の中で一番覚悟が決まっている。……だから一番早く引き金に指をかける」

 

ハルカの肩が震えた。

 

「す、すみません……私、やっぱりお荷物で」

 

「違う」

 

ウェッブは言った。

 

「一番覚悟が決まっている人間にしか、我慢はできない」

 

伊草ハルカが顔を上げた。

 

「……え」

 

「怖い人間は我慢できない。逃げるからだ。強い人間も我慢できない。撃てるからだ」

 

彼は言った。

 

「覚悟が決まっている人間だけが、何もしないという選択に耐えられる」

 

「……」

 

「君にそれを頼みたい」

 

伊草ハルカは、口を半分開けたまま彼を見ていた。

 

それから、隣に座るアルを見た。

 

「あ、あの……アル社長。私、その」

 

「――ハルカ」

 

アルが言った。

 

「あんたが決めなさい」

 

「え」

 

「私、命令しないわよ。今回だけは」

 

陸八魔アルは前を向いたまま言った。

 

「……あんた、いつも私のためって言うでしょ。あれね、正直けっこう困るのよ」

 

「す、すみません!」

 

「謝らないで」

 

彼女は言った。

 

「困るけど、嬉しいの。……だから、今回はあんたのために決めなさい」

 

伊草ハルカは長いこと黙っていた。

 

そして、消え入りそうな声で、しかしはっきりと言った。

 

「……やります」

 

「よし」

 

ウェッブが言った。

 

「あ、あの、でも私、我慢とか、したことなくて」

 

「知っている」

 

「じゃあ」

 

「訓練する」

 

彼は言った。

 

「七日ある。……全員だ」

 

陸八魔アルが、契約書を手に取った。

 

そして署名欄を見た。

 

長いこと見ていた。

 

「……ねえ、ウェッブさん」

 

「なんだ」

 

「一つだけ、いい?」

 

「言え」

 

「私たち、悪党よ」

 

彼女は言った。

 

「明日にはまた別の悪いことをするわ。あんたたちを騙すかもしれない。……その覚悟はあるの」

 

ウェッブは箸を持ち直した。

 

そして麺を一口食べてから、言った。

 

「ある」

 

「……即答するのね」

 

「する」

 

「なんで」

 

「十五分前まで、君たちは俺の学校を潰しに来る予定の人間だった」

 

彼は言った。

 

「今日から七日間、俺は君たちに背中を預ける。……八日目には、君たちはまた別の場所へ行く。それでいい」

 

「……」

 

「俺が求めているのは忠誠じゃない。七日間だけの契約だ」

 

陸八魔アルは、ペンを取った。

 

そして、署名した。

 

『便利屋68 代表 陸八魔アル』

 

字は、思ったよりずっと丁寧だった。

 

彼女はペンを置いて、コートの襟を直した。

 

「――ふふん」

 

そして顎を上げた。

 

「いいわ。任せなさい。そんなに望むなら、助けてあげてもいいわよ」

 

「クフフ! アルちゃん、それ言いたかっただけでしょ」

 

「うるさいわねムツキ!」

 

「はぁ」

 

鬼方カヨコがため息をついた。

 

「……仕方ないか」

 

伊草ハルカが、袖で目をこすった。

 

そして、犬の大将の声が寸胴の向こうから飛んできた。

 

「――おい! 追加いるか! 麺まだあるぞ!」

 

九人分の丼が、全部冷めていた。

 

誰も、返事をしなかった。

 

---

 

十三.〇一四〇時

 

四十二日目 〇一四〇時。アビドス高等学校、対策委員会室。

 

窓の外は砂だった。星が異常なほど多かった。

 

部屋の中に二人だけがいた。

 

奥空アヤネと、鬼方カヨコ。

 

「……あの」

 

アヤネがおずおずと言った。

 

「本当にいいんですか。カヨコさん、事務所の引っ越し」

 

「終わった」

 

カヨコは端末の画面から目を離さずに言った。

 

「荷物が少ない会社だから」

 

「……」

 

「箱で四つ。あと社長の観葉植物が一つ」

 

「観葉植物」

 

「三年育ててる」

 

「……そうなんですね」

 

アヤネは何と言えばいいのか分からなかった。

 

そして机の上の缶コーヒーを見た。

 

カヨコが持ってきたものだった。二本。無糖と微糖。

 

「あの、これ」

 

「どっちでもいい。好きなほう」

 

「……ありがとうございます」

 

アヤネは微糖を取った。

 

しばらくキーを叩く音だけがした。

 

窓際の机の上には、まだ簡易な透過台が組まれたままだった。割れた窓から外したガラス板と、その下のデスクランプ。ガラスの上には二ミリ幅の短冊が数十本、テープで留められたまま残っている。

 

カヨコがそれを見た。

 

「……あれ」

 

「あ、はい。シュレッダーの屑です。復元してました」

 

「復元」

 

「並べるんです。一本ずつ。……幅が二ミリなので、A4一枚で二千八百本くらいです」

 

鬼方カヨコの手が止まった。

 

「……何時間かかった」

 

「三日です」

 

「三日」

 

「はい」

 

カヨコはしばらく黙っていた。

 

そして言った。

 

「――あんた、頭おかしいでしょ」

 

「そ、そうですか!?」

 

「褒めてる」

 

「褒められてる気がしません!」

 

「褒めてる」

 

その時、窓の桟に何かが乗った。

 

痩せた三毛猫だった。

 

「あ」

 

アヤネが立ち上がりかけた。

 

「いい」

 

カヨコが制した。

 

そして自分の鞄から小さな袋を出し、中身を窓の桟に少し置いた。

 

猫が食べ始めた。

 

「……いつも持ち歩いてるんですか」

 

「別に」

 

カヨコは椅子に戻った。

 

「雨が降ってたら見に行くだけ。……深い意味はない」

 

「今日、雨降ってませんよ」

 

「……」

 

「あ、すみません」

 

「いい」

 

〇二一四時。

 

アヤネの手が止まった。

 

「……あれ」

 

「なに」

 

「今、フォルダを別の軸で並べ替えてたんです」

 

彼女は言った。

 

「今までは『事業名』で探してました。『アビドス自治区総合再開発事業』の下を全部。……でも、それだと事業に紐づく文書しか出ません」

 

「うん」

 

「なので、決裁者で並べ替えました。誰が判子を押したかで」

 

彼女は画面を指した。

 

「……そうしたら、事業名がついてない決裁が出てきました。同じ人が押してるのに」

 

カヨコが椅子を引き寄せた。

 

「開けて」

 

「はい」

 

フォルダの名前は二文字だった。

 

『本船』

 

「……ほんせん?」

 

「船、ですかね」

 

アヤネがそれを開いた。

 

中には文書が三つだけあった。

 

『一.現況報告』

『二.目的の改訂について』

『三.参考:呼称の由来』

 

彼女は一つ目を開いた。

 

そして、画面を見たまま動かなくなった。

 

図面だった。

 

深度三百八十メートル。岩盤の中の空洞。

 

その中に、輪郭があった。

 

八日前の夜に別冊で見た一枚の写真――黒い岩盤の中の「人の手が作った直線」――は、この輪郭の、ごく一部の縁でしかなかった。

 

図面の下に縮尺があった。

 

アヤネはそれを三度読み直した。

 

「……カヨコさん」

 

「なに」

 

「これ、縮尺が間違ってると思うんですけど」

 

「どういうこと」

 

「この線、全長が」

 

彼女の指が震えた。

 

「……二千百メートルあります」

 

鬼方カヨコが画面を見た。

 

そして、静かに言った。

 

「学校より大きい」

 

「……」

 

「アビドス自治区より大きい」

 

図面の右下に、断面の分解図があった。

 

外殻。内殻。その間の空間に、規則的に並ぶ隔壁。

 

一定間隔で、外へ向かって伸びる構造。

 

そして最後尾に、円形の巨大な開口部が四つ。

 

奥空アヤネは、機械が好きだった。

 

ヘリも、ドローンも、無線機も、通信機器も。

 

だから彼女には、この形が何であるか分かってしまった。

 

「……これ、建物じゃないです」

 

「うん」

 

「船体です」

 

彼女は言った。

 

「船首と船尾があります。……そして推進機があります」

 

「船が、なんで地下三百八十メートルにあるの」

 

「分かりません」

 

アヤネは二つ目の文書を開いた。

 

『二.目的の改訂について』

 

短い文書だった。

 

『原案:発掘及び資産化。

改訂案:機能回復及び占有。

理由:現況調査(第九次)の結果、当該物件は損傷が軽微であり、資産としての価値は「素材」ではなく「機能」にあると判断されるため。

決裁:承認。』

 

「……機能回復」

 

カヨコが読み上げた。

 

「掘り出すんじゃないんですね」

 

アヤネは言った。

 

「……動かすつもりです」

 

彼女は三つ目を開いた。

 

『三.参考:呼称の由来』

 

たった四行だった。

 

『当該物件の社内呼称は「本船」とする。

資料上の正式呼称は「ウトナピシュティムの本船」を用いる。

なお当該呼称は連邦生徒会直轄区(D.U./District of Utnapishtim)の名称と同一の語に由来する。

本件について、連邦生徒会側の認識の有無は不明。』

 

部屋の中で、猫が小さく鳴いた。

 

奥空アヤネは椅子に深く沈み込んだ。

 

「……カヨコさん」

 

「なに」

 

「D.U.って」

 

彼女は言った。

 

「連邦生徒会の、直轄区の名前です。シャーレがあるところです。……この街の中心です」

 

「うん」

 

「その名前が」

 

アヤネの声が掠れた。

 

「……砂漠の地下に埋まってる船と、同じなんです」

 

鬼方カヨコは長いこと画面を見ていた。

 

そして言った。

 

「……どっちが先」

 

「え」

 

「街が先か、船が先か」

 

奥空アヤネは答えられなかった。

 

窓の外で風が吹いた。

 

砂が校舎の壁を撫でる音がした。二年間毎日聞いてきた音だった。

 

彼女はその音を、この夜初めて、違うものとして聞いた。

 

――この砂の下に、二千百メートルのものが埋まっている。

 

――四年前から、誰かがそれを掘り当てようとしている。

 

――そして四十八基は、それを掘り出す間、誰にも邪魔をさせないための壁だ。

 

奥空アヤネは立ち上がった。

 

「……先生を、起こしてきます」

 

「うん」

 

「あの、カヨコさん」

 

「なに」

 

「……怖いですか」

 

鬼方カヨコは缶コーヒーを飲み干した。

 

そして、いつもの平坦な声で言った。

 

「怖い」

 

「……」

 

「でも、知らないほうが怖い」

 

彼女は空き缶を机の端に置いた。

 

「行って」

 

奥空アヤネは走り出した。

 

廊下の砂を蹴る音が遠ざかっていった。

 

窓の桟の上で、三毛猫が耳を動かした。

 

そして、東の空をじっと見ていた。

 

まだ何も見えなかった。

 

地平線はただ黒かった。

 

H時まではあと十四日と十時間だった。

 

そして配備完了予定日までは、あと七日だった。

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