『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution)   作:T/A2000

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第8話(アビドス編):転向のチェス盤

昼下がりの柴関ラーメン。

換気扇が吐き出す豚骨と焦がし大蒜の匂いが乾いた砂漠の路地に漂っている。

 

店から二百メートル離れた雑居ビルの屋上。デイヴィッド・ウェッブは焼け付くコンクリートの縁に身を伏せ、ミリタリー仕様の単眼鏡の焦点を合わせていた。

レンズの向こう、脂に汚れたガラス越しに四つの人影が見える。

 

「……ターゲット確認。女性四名。武装あり。警戒レベル、イエロー」

 

ウェッブの喉元の咽頭マイクが微かな振動を拾う。

イヤホンからアビドス対策委員会室でコンソールを監視している奥空アヤネの緊張した声が返ってきた。

 

『こちらコマンド。……先生、本当にやるんですか? 丸腰で接触なんて』

 

「武器を持っていれば相手は『敵』として認識する。武器を持たなければ相手は『獲物』か『異常者』として判断に迷う。その迷いが必要だ」

 

ウェッブの声は冷徹なまでに平坦だった。かつてTreadstone計画で叩き込まれた心理的アプローチによる敵の無力化手順。その冷たい記憶の断片を彼は「元外交官の交渉術」という仮面の下に抑え込む。

 

「フェーズ1、開始。自然に振る舞え。……君たちは普通の女子高生だ」

 

---

 

店内では便利屋68の社長、陸八魔アルが箸を止めていた。

視線の先で古びた引き戸が開き、チリンと間の抜けた鈴の音が響く。

 

「へいらっしゃい!」

「ん~、お腹すいたね~」

 

気だるげな声と共に現れたのは小鳥遊ホシノ、砂狼シロコ、そして十六夜ノノミの三人だ。

彼女たちはカウンターの中で働く黒見セリカに軽く手を振り、奥のテーブル席へと向かう。便利屋68のすぐ隣の席だ。

 

鬼方カヨコがラーメンをすする手を止めずに前髪の隙間から視線だけを動かした。

 

(……アビドス生。制服じゃない。私服?)

 

だがカヨコが僅かに眉をひそめた理由はそこではない。

浅黄ムツキもまたいつも小悪魔のように浮かべている口元の笑みを消していた。

 

(ない。)

 

銃がない。

 

このキヴォトスにおいて銃を携帯せずに外出することは戦場に裸で歩くのに等しい。アサルトライフルも、ハンドガンも、予備弾倉すら持っていない。あまりに無防備。あるいは――。

 

「……相席、いいですかぁ?」

 

ノノミがいつもと変わらないおっとりとした上品な笑顔でアルに話しかける。

 

「え? あ、ええ……構わないけれど」

 

アルはハードボイルドなボスを気取る余裕もなく虚を突かれたように答えた。

隣の席から聞こえてくるのはたわいない日常会話だ。テストの話、スイーツの話、バイトの愚痴。

だがカヨコだけは肌を刺すような違感感を拭えずにいた。

 

(視線が合わない。こちらの武器の位置を確認する素振りもない。……自然すぎる)

 

完全な無視。それは逆に高度な訓練を受けた者が行う「意識的な無視」に見える。

 

雑居ビルの屋上から単眼鏡を覗くウェッブはカヨコの表情筋の強ばりをミリ単位で読み取っていた。

 

「……カヨコが反応している。警戒心が高い。アヤネ、会話データを記録しろ。彼女の声紋とストレス値をベースラインにする」

『分かりました』

 

---

 

襲撃前夜。閉店間際の柴関ラーメン。

換気扇が回る低い音だけが響く店内に客は二組だけ。

入口近くのテーブル席に便利屋68。そして奥の席に対策委員会のメンバー。

 

ふと張り詰めた空気の中で視線が交差した。

再び顔を合わせた瞬間ムツキが目を細め、クスクスと不敵に笑う。

 

「……あれ? また会ったねぇ。くふふ、偶然?」

 

だがその愛らしい笑顔の裏で彼女の目は冷徹に相手を観察していた。

違和感はすぐに確信へ変わる。やはりアビドスの生徒たちの腰にも、背中にも、鞄の中にも、武器がない。全員、完全な丸腰だ。

 

伊草ハルカの手が自虐的な怯えから一転して反射的に自身のバッグの中へ伸びる。指先がショットガンの冷たい金属に触れた。

 

「罠……? 爆弾……? アル様のためなら私が先に……!」

「……どういうこと?」

 

アルが低い声で呟き、手でハルカの暴走を制する。

対策委員会は奥の席から動かない。ただ一人、奥空アヤネだけが眼鏡のブリッジを押し上げ静かに立ち上がった。

 

「まず、名乗ります」

 

アヤネは深く一礼した。その所作には恐怖を押し殺した決意が滲んでいた。

 

「私たちは――アビドス高等学校、廃校対策委員会です」

 

一瞬の静寂。

ガタッと椅子が鳴る。ムツキが即座に銃を抜こうと身構えた。

 

「はぁ!? ちょっと待って、それって――くふふ、標的じゃん!」

「ムツキ。待って」

 

アルが鋭く止める。カヨコの視線がアヤネたちの制服の襟元へ落ちる。――アビドスの校章。

 

「……なるほど」

カヨコの声が低く重くなる。

「で? 自分から的が名乗り出てきて何がしたいの? 自殺志願?」

 

殺気が店内に膨れ上がる。だがホシノが大きな欠伸を一つ噛み殺して言った。

 

「話し合い~。ふぁ~、適当にやろうよ。おじさん争いごとは苦手でさぁ」

「ふざけてる?」

「本気だよ」

 

ホシノのオッドアイが一瞬だけ獰猛な光を宿して鋭く光る。その無言の圧力にハルカの指が震えた。

 

「……罠だったらここで全部……吹き飛ばします……!」

「やめなさい、ハルカ」

 

カヨコの声が鋭く落ちる。彼女は冷静にテーブルの上の割り箸袋を見つめたまま言った。

 

「話を聞く価値があるかどうかはこれから決めるわ」

 

アヤネは鞄を開いた。中から前夜のハッキングと潜入工作で得た分厚い資料の束を取り出し、テーブルの上を滑らせる。

 

「これが皆さんが受けている依頼の“全体像”です」

「……?」

 

アルが眉をひそめ資料を手に取る。次の瞬間、彼女は息を呑んだ。

 

「なっ……これ……」

「なぜ私たちがカイザーから仕事を受けていることを知っている?」

 

カヨコが矢継ぎ早に問い詰める。

「どこから情報を得た? 誰が流した? これは本物か? 偽物じゃない証拠は?」

 

論理の刃。隙を見せれば切り刻まれる。だがアヤネはウェッブから叩き込まれた情報分析論を思い出し淀みなく答えた。

 

「一つ。便利屋68への依頼情報はカイザー・コンストラクションのサーバーから直接抜きました」

「ハッキング? カイザーのセキュリティは堅牢よ」

「外部からはそうですね。……ですが内部に『物理的な裏口』を作れば話は別です」

 

アヤネはシロコの方を見た。シロコが小さく頷く。

「ん。私たちの仲間が夜間にビルへ侵入し、サーバールームに不正なアクセスポイントを設置しました。そこから暗号化される前の通信パケットを傍受したんです」

 

カヨコの目が驚きに見開かれる。

「……ブラックバッグ・ジョブ(秘密潜入工作)……高校生が?」

 

「二つ。極秘資料の入手経路について」

アヤネは次の資料を示す。

「これはカイザーローン支店のゴミ集積所から回収した秘書の書き損じメモから復元したものです。そこにあったパスワードを使い内部ネットワークの最下層から侵入しました」

「……ゴミ漁り(トラッシュ)までやったの?」

「はい。そこから芋づる式に理事が着服した5億クレジットの裏帳簿を見つけました。あなた達への報酬もこの汚れた金から出ています」

 

「三つ。これが決定的な証拠です」

アヤネは最後の一枚、鮮明な写真を差し出した。

「物流倉庫の監視記録です。……アルさん、昨日の昼食は『もやし』と『半額弁当』でしたよね?」

 

「っ!?」

 

アルが顔を真っ赤にして絶句する。

 

「な、ななな、なぜそれを……!?」

 

「私たちの偵察員があなた達のすぐ側で近接監視(ヒューミント)を行っていました。……つまり私たちはあなた達の財政状況から今日の行動パターンまで全て把握しています」

 

「……」

カヨコの指が止まる。

通信傍受、物理潜入、ゴミ漁り、そして近接監視。

これほど多角的かつ徹底的な諜報活動(インテリジェンス・チェーン)を仕掛けていた相手が目の前の女子高生たちだと言うのか。

 

「……信じられないけどデータは本物ね。よく出来てる」

カヨコは降参するように息を吐いたがすぐに鋭い視線を戻した。

「でもそれでも決定打にはならないわ。私たちが依頼を降りる理由には――」

 

---

 

その時。

店の裏口から硬質なブーツの音が響いた。

一歩。二歩。

カツンという音が心臓の鼓動と重なる。

 

「見逃してくれとは頼んでいない」

 

低い声。

現れたのは黒のフライトジャケットを着た男、デイヴィッド・ウェッブ。

その手に武器はない。だが全身から発せられる、あらゆる死線を潜り抜けてきた者だけが持つ威圧感が彼がこの「作戦」の黒幕であることを物語っていた。

 

アルが目を見開く。

「……シャーレの、先生?」

 

ウェッブは無言のまま手元のアナログなタブレットをテーブルに滑らせた。

 

「ここにあるのは、“裏”だ。Take a look」

 

表示されるPDFファイル。タイトルは『Kaiser Black Budget — Project PUPPET』。

カヨコが怪訝そうに画面をスクロールする。そしてその指が凍りついた。

 

そこには無機質なフォントで冷酷極まる一文が記されていた。

 

> ≪SUBJECTS TO BE LIQUIDATED AFTER OPERATION(作戦終了後、対象を処分・排除せよ)≫

 

空気が完全に凍りつく。

アルの手が小刻みに震えた。ムツキが唇を噛み、ハルカの目が潤み焦点が揺れる。

 

「……処分対象?」

アルの声が震えた。

 

ウェッブは感情を完全に削ぎ落としたトーンで事実だけを突きつける。

 

「任務完了後、証拠隠滅だ。カイザーは最初から君たちに違法行為の全責任をなすりつけて口封じに抹殺する算段だった。君たちは報酬を受け取る代わりに砂漠の砂の下に埋められる予定になっている」

 

「……」

沈黙。

換気扇の回る音だけがやけに大きく店内に響く。

やがてカヨコが長く深く息を吐いた。

 

「……理解したわ」

彼女は顔を上げアルを見た。

「このデータの電子署名は本物。潜入工作までして手に入れた情報なら嘘をつく理由がない。……カイザーは最初から私たちを生かして帰す気なんてなかった」

 

「…………」

アルが拳を痛いほど握りしめる。

彼女が何より大切にするもの。それは金ではない。「冷酷非道な悪の組織のボス」としてのプライドだ。騙され利用され用済みとして捨てられる道化。それは彼女が最も忌み嫌う結末だった。

 

アルは静かに、しかし確かな怒りを込めて悪党のボスらしくコートを翻した。

 

「……この仕事、無かったことにするわ」

彼女は低い声で告げた。

「これは完全な契約違反よ」

 

その言葉にムツキもハルカも力強く頷く。

カヨコが試すような視線をアビドス側、そしてウェッブへ投げた。

 

「契約は破棄する。……これで許してくれる?」

 

ウェッブは一歩前に出た。その目は彼女たちを「敵」ではなく「戦力」として見据えていた。

 

「そういう話なら――」

 

一拍。彼は無造作にしかし真っ直ぐに右手を差し出した。

 

「連邦捜査部シャーレを代表して正式に依頼したい」

アルが目を丸くする。

「え?」

「カイザーコーポレーションの不正を暴きアビドスを防衛する。……報酬は弾む。どうだ、社長?」

 

敵は同じだ。

アルは一瞬呆気にとられ、それから――いつもの自信に満ちた不敵な笑みを浮かべてウェッブの手を握り返した。

 

「……フフッ。悪くない話ね。乗ってあげるわ」

 

こうしてアビドスと便利屋68の銃口は一つの巨大な影へと向けられた。情報の非対称性が完璧な転向(デフェクション)を成し遂げた瞬間だった。

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