『ボーン・アブソリューション』 (The Bourne Absolution) 作:T/A2000
一.長机
四十二日目 〇六〇〇時。
アビドス高等学校、対策委員会室。
机が六つ、縦に繋げられていた。
繋げたのは黒見セリカだった。夜のうちに旧一年三組から運んできて、高さの合わない二つの脚の下に教科書を挟んで水平を出した。教科書は『現代キヴォトス経済』だった。誰も借りていかない本だった。
その長机の両側に、九つの椅子が並んでいた。
「――ちょっと」
陸八魔アルが入口で足を止めた。
「上座がないじゃない」
「六個繋げただけなので」
奥空アヤネが記録板から顔を上げた。
「端はありますけど」
「端は上座じゃないのよ。上座っていうのはね、部屋の構造が決めるの。……入口から一番遠くて、窓を背負わない位置」
「……くわしいですね」
「経営者だからよ」
アルはコートの裾を払って部屋を一周し、それから最も入口から遠い椅子に座った。
その二秒後、そこが唯一の隙間風の吹き込む席だと気づいたが、立たなかった。
浅黄ムツキが向かいに座り、机の上に足を乗せようとしてカヨコに叩き落とされた。
「痛ぁい」
「よそ様の学校」
「クフフ。カヨコ先輩、真面目〜」
伊草ハルカは座らなかった。
椅子の後ろに立ち、両手でスカートの裾を握っていた。
「……あの、私は、その、立ってます」
「座りなさい」
アルが言った。
「え」
「今日は全員が同じ紙を見るの。立ってる人間は紙が見えないでしょ」
「……はい」
ハルカは座った。座ってから、椅子を三センチだけアルのほうへ寄せた。
小鳥遊ホシノがあくびをしながら入ってきて、砂狼シロコが無言で窓際の椅子に座り、十六夜ノノミが人数分のマグカップを盆に載せて配り始めた。
「はぁい、どうぞ。ミルクとお砂糖はそちらです」
「え、いいの?」
「あら。うちのお客様ですから」
「……客じゃないでしょ、私たち」
アルが言った。
「今日から七日間、契約してるでしょ」
「はぁい」
ノノミはにこりと笑った。
「じゃあ、お仕事仲間ですね」
陸八魔アルは、湯気の立つマグカップをしばらく見ていた。
そして「……ありがと」と、非常に小さな声で言った。
デイヴィッド・ウェッブが入ってきたのは〇六〇二時だった。
彼は長机の端――上座にも下座にも座らず、机の長い辺の、ちょうど真ん中に座った。
アヤネがそれを見た。
そして記録板の欄外に一行書いた。
『先生は真ん中に座った。』
「――始める」
ウェッブは言った。
「その前に三つ言う」
彼はホワイトボードに三行書いた。
『一.ここに上下はない。全員が同じ紙を見る。
二.分からないことは「分からない」と言う。
三.反対は今言え。始まってからは言うな。』
「三つ目が一番大事だ」
彼は言った。
「今日反対しなかった人間は、明日から反対する権利を失う。……逆に言えば、今日は何を言ってもいい。俺に対してもだ」
浅黄ムツキが手を挙げた。
「はぁい。おじさんの作戦、失敗すると思う」
「根拠は」
「まだ聞いてないから」
「正しい」
ウェッブは言った。
「今から聞いてから、もう一度言え」
「クフフ」
ムツキは頬杖をついた。
「この人、面白いね」
「面白くないわよ」
アルが言った。
「……面白くないから、怖いのよ」
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二.七日前の写真
〇六一五時。
奥空アヤネがホワイトボードに二枚の航空写真を並べて貼った。
左の一枚には日付が書かれていた。『三十五日目』。
右の一枚には『四十一日目』。
六日しか離れていない。
だが同じ場所には見えなかった。
「――撮ったのは私です」
アヤネは言った。
「自作の固定翼機です。高度は取れないので、二十キロ手前から望遠で斜めに撮ってます。……解像度が悪いのは、その、すみません」
「悪くない」
ウェッブが言った。
「悪いのは中身だ」
彼は左の写真を指した。
「六日前。舗装が三本。倉庫が四棟。宿舎。発電機。それと掘削櫓」
そして右へ指を移した。
「六日後。舗装が七本。倉庫が九棟。……そして、これだ」
彼は右の写真の外周をなぞった。
写真の縁に沿って、黒い点が規則的に並んでいた。
「掩体だ。土を掘って、車両を半分埋めてある」
「なにを埋めてるんですか」
「装輪装甲車だ。……数えられるか」
アヤネはルーペを当てた。
「……十四。いえ、十六です。北側の三つは砂で分かりません」
「二十と見ておけ」
ウェッブは言った。
「そしてこれは、一個中隊の数字じゃない」
彼はマーカーを取り、写真の下に書いた。
『機械化歩兵を基幹とする諸兵科連合。推定 一個大隊戦闘団規模。』
「……大隊」
セリカが言った。
「それって、どれくらい」
「附属書Bで学校を潰すのに使う予定だったのが一個中隊だ」
ウェッブは言った。
「その四倍から五倍がそこにいる」
長机の左半分が静かになった。
右半分――便利屋68の四人は、まだ言葉の意味を測っていた。
やがて鬼方カヨコが言った。
「……多すぎる」
「そうだ」
「アビドスを潰すためにしては多すぎる」
彼女は言った。
「じゃあ、あれは誰と戦うために置いてあるの」
ウェッブは答えなかった。
代わりに、写真の中央から少し外れた四つの点を指した。
「――これを見ろ」
四角い車両が四両。
その上に、平たい板のようなものが立っている。
「なにこれ。看板?」
ムツキが首を傾げた。
「レーダーだ」
ウェッブは言った。
「捜索用が二。追跡用が二。……そしてこの隣が発射機だ」
「発射機って」
「地対空だ」
部屋の空気が止まった。
「……ちょっと待って」
アルが身を乗り出した。
「地対空って、空から来るやつを撃つやつでしょ」
「そうだ」
「砂漠のど真ん中に、なんでそんなもんが要るのよ」
「――俺のせいだ」
ウェッブは言った。
長机の全員が彼を見た。
「四十一日前、俺はあの校庭にヘリを降ろした。昼間だ。……その日から向こうは空を数え始めた」
「……」
「彼らは俺の機体が何であるかを知らない。何機あるかも知らない。……知らないから、四両置く」
彼はマーカーのキャップを閉めた。
「敵の数え間違いはこちらの資産だ。だが、その資産の代金は誰かが払う」
奥空アヤネが小さく手を挙げた。
「あの、先生。……先生のせいじゃないです」
「そうだ」
彼は言った。
「そして、俺のせいだ。両方本当だ」
十六夜ノノミが、そこで自分の鞄に手を入れた。
「あら。……先生、少しよろしいですか」
「なんだ」
「この子」
彼女は写真の一角を指した。
四本の脚を持った、犬とも机ともつかない形のものが三両、並んで写っていた。
「うちに、カタログが届いてます」
部屋が静まり返った。
「……カタログ?」
セリカが言った。
「はぁい。株主向けの説明資料に載っていました。父が読まずに捨てるので、私が拾っておきました」
ノノミは鞄から光沢のある冊子を出して、机の上を滑らせた。
見開きに写真があった。砂漠を背景に、四脚の車両が斜めに立っている。
その下に、丸みを帯びた書体で一行。
『――もう、人が判断する必要はありません。』
「……なにこれ」
アルの声が低くなった。
「自律型多脚無人戦車です」
アヤネがページを読み上げた。
「『四肢独立懸架により、車輪車両の進入できない地形を踏破』……『目標の識別から交戦までを機上で完結』……『指揮所との通信が途絶した状態でも任務を継続』」
「――止めろ」
ウェッブが言った。
「え」
「最後の一行だ。もう一度読め」
「『……指揮所との通信が途絶した状態でも任務を継続』」
彼は長いこと黙っていた。
そして言った。
「――これは兵器の広告じゃない」
「え?」
「免責の文書だ」
ウェッブは言った。
「通信が切れても撃つ、と書いてある。……つまり、撃った瞬間に誰も命令していない状態を作れる、と書いてある」
「……」
「命令していない人間は、責任を取らなくていい」
長机の九人のうち、五人が意味を理解するのに三秒かかった。
浅黄ムツキだけが、〇・五秒で笑うのをやめた。
「……クフフ。ひどいね、それ」
「ひどい」
シロコが短く言った。
「機械が決めるのはよくない」
「なぜだ」
「決めた人が謝れないから」
砂狼シロコは、それだけ言って窓の外を見た。
ウェッブは彼女の言葉を、ホワイトボードの隅にそのまま書き写した。
そして『所見(砂狼)』と添えた。
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三.門の四十分
〇九〇〇時。
「――一回だけ行った」
鬼方カヨコが言った。
長机の全員が彼女を見た。
「着手金の話。電話は七回。……七回目で、向こうが『来てくれれば話が早い』って言ったから、行った」
「行ったの!?」
アルが叫んだ。
「あんた、そんなの一言も」
「言ったら社長が行くって言うから」
「……」
「社長が行くと、話が長くなる」
「なによそれ!」
「はぁ」
カヨコは短く息を吐いた。
「二十六日目。バスとトラックを乗り継いで七時間。……門で四十分待たされて、それで『担当が不在』」
ウェッブがマーカーを置いた。
「――その四十分を全部話せ」
「え」
「見たものを、順番に。……解釈は入れるな」
鬼方カヨコは天井を三秒見た。
そして、平坦な声で話し始めた。
「門は二つあった。西に大きいのが一つ。その北に、小さいのが一つ」
アヤネが写真の上にピンを刺した。
「大きいほうは車。小さいほうは人。私は人のほうに並ばされた」
「並んだ人数は」
「私の前に二十人くらい。後ろは、たぶんもっと。……ずっと来てた。トラックで運ばれてきて、降りて、並ぶ」
「服装は」
「作業着。上から防護服を着る人もいた。……着替える場所が門の内側にあった」
「顔は」
「見えない」
カヨコは言った。
「みんなヘルメット被ってたから」
長机の反対側で、小鳥遊ホシノの指が止まった。
「――どういうヘルメット」
彼女が訊いた。
いつもの、けだるい調子の声だった。
だが語尾が伸びていなかった。
「フルフェイス」
カヨコは言った。
「黒い制服の上に作業着。……あれ、うちのゲヘナの制服じゃない。私、あの制服知らない」
「……」
「腕に番号のワッペンが貼ってあった。名前じゃなくて番号。日ごとに配ってるみたいだった」
小鳥遊ホシノは何も言わなかった。
代わりにセリカが言った。
「ちょっと待って。ヘルメットって、それって」
「そうだ」
ウェッブが言った。
彼はすでに写真の一点を指していた。
門の内側。並んだ人影。その頭部の形。
「――カタカタヘルメット団だ」
「な……」
「先月末で警備の契約を切られた。五十八人。……そして翌月から日雇いで雇い直されている。時給で」
「なんでそんなことすんのよ!」
セリカが立ち上がった。
「切っといて雇い直すってなによ! 意味わかんない!」
「安いからだ」
ウェッブは言った。
「警備として雇うと、装備と保険と単価がつく。作業員として雇うと、つかない」
「……」
「同じ人間だ。値札だけを付け替えた」
黒見セリカはゆっくり椅子に座った。
そして小さく「最低」と言った。
浅黄ムツキが、初めて真面目な顔で言った。
「……ねえ、それ、うちらもだよね」
「え?」
「三千万で四人。……損害許容一〇〇パーセント。同じでしょ」
長机の全員が黙った。
その沈黙を破ったのは、鬼方カヨコの平坦な声だった。
「――続けていい?」
「言え」
「門に機械があった。腰の高さの、白い箱。上に丸い窪みがついてる」
「窪み」
「手を入れる。手の甲を下にして、置く。……そうすると緑のランプが点いて、通れる」
ウェッブの目が動いた。
「カードは」
「なかった」
「証明書は」
「なかった」
「じゃあ、何を読んでいる」
鬼方カヨコは自分の左手の甲を見せた。
そして親指と人差し指で、手首の少し上あたりをつまんだ。
「ここ」
「……」
「入ってるらしい。中に」
セリカが顔を引きつらせた。
「な、中って、体の中!?」
「そう」
「なんで!?」
「落とさないから」
答えたのは奥空アヤネだった。
彼女は端末を叩いていた。
「カイザーコーポレーションの市販品です。……『社員証カプセル』。ドラッグストアでも売ってます。系列企業の社員は入社時に配布されて、飲むんです」
「の、飲むの!?」
「飲みます。定着するまで三日かかるって書いてあります」
「うわぁ」
ムツキが両手で頬を押さえた。
「うわぁ! それ最高じゃない! 自分の会社の商品飲んで自分の会社に入るの、めちゃくちゃ面白いんだけど!」
「面白がるところじゃないでしょ!」
「面白いよ〜」
「――待て」
ウェッブが言った。
彼の声が半音下がっていた。
長机の全員が、この一ヶ月でその音を聞き分けられるようになっていた。
「鬼方カヨコ」
「なに」
「四十分の間に、その機械は何回失敗した」
「……え」
「緑が点かなかった回数だ」
鬼方カヨコは天井を見た。
そしてゆっくり言った。
「三回」
「そのとき何が起きた」
「監督が来て、端末を叩いて、手で通した」
「――もう一度言え」
「監督が来て」
彼女は言った。
「端末を叩いて、手で通した」
対策委員会室が静まり返った。
デイヴィッド・ウェッブは立ち上がり、ホワイトボードの空白に一行だけ書いた。
『機械が読めないとき、人間が通す。』
そしてその下に、もう一行。
『――それが、この基地で唯一決まっていない手順だ。』
彼は振り返った。
「二十六日目のその四十分が、今日この部屋にある情報の中で一番高い」
「……」
「鬼方カヨコ。君はあの日、七時間かけて行って、四十分待たされて、何も貰わずに帰ってきた」
彼は言った。
「持って帰っていた」
鬼方カヨコは何も言わなかった。
ただ、缶コーヒーのプルタブを一度だけ、意味もなく回した。
その隣で、陸八魔アルが自分の膝の上で拳を握っていた。
そして誰にも聞こえない声で言った。
「……七時間もかけて行かせて、私、なんて言った」
(『で、金は?』)
彼女は目を閉じた。
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四.二種類の倉庫
一〇三〇時。
「――先生。搬送計画に、おかしなところがあります」
奥空アヤネが端末を長机の中央に置いた。
三時間ごとの十二分間で吸い上げた文書の束。その中の一つ。
「弾頭が四十八基なのに、搬送の便が九十六回に分かれてます」
「二倍か」
「はい。しかも、片方の便と、もう片方の便で、書いてあることが全部違うんです」
彼女は画面を二分割した。
「積載区分が違う。温度の指定が違う。……除染手順の番号も違います。同じ弾頭なのに」
「保管は」
「別棟です。倉庫が二つ指定されてます。……間に距離を空けろって書いてあります」
ウェッブは画面を見なかった。
彼はもう見る必要がなかった。
「――バイナリーだ」
「ばい」
「二液式だ」
彼は言った。
「弾頭の中身は、二つに分かれている。運ぶときも、置くときも、別々だ」
「別々に置いて、どうするんですか」
「撃つときに混ぜる」
長机の空気が変わった。
「発射の瞬間か、飛んでいる途中で、中の仕切りが壊れて二つが混ざる。……混ざったときに初めて、あれになる」
ウェッブはマーカーで丸を二つ描き、その間に線を引いた。
そして線を消した。
丸が一つになった。
「なんでそんな面倒なことするんですか」
セリカが言った。
「運べるからだ」
彼は言った。
「別々のうちは、そこまで危険じゃない。……人を乗せたトラックで、砂漠を、夜に、十二回に分けて運べる」
「……」
「危険なものは運べない。だから運べる形にしてから運ぶ」
伊草ハルカが小さく手を挙げた。
「あ、あの……じゃあ、今は」
「今は、まだ二つだ」
「じゃ、じゃあ、安全なんですか」
「――低毒は、無毒じゃない」
ウェッブは言った。
「片方は、それ単体でも人を殺せる。……防護具二万四千組と注射器二万四千本は、混ざる前の状態を扱うための数字だ」
伊草ハルカの肩が下がった。
そこで、鬼方カヨコが顔を上げた。
彼女の顔から表情が消えていた。
「……ちょっと待って」
「言え」
「二つが混ざると、あれになるんだよね」
「そうだ」
「混ぜるのは、仕切りを壊すことだよね」
「そうだ」
鬼方カヨコは、ゆっくりと言った。
「――じゃあ、爆破したら、こっちが混ぜることになる」
長机が凍りついた。
浅黄ムツキの頬杖が落ちた。
伊草ハルカが両手で口を押さえた。
黒見セリカが「え」と言った。それだけ言って、続きが出てこなかった。
「そうだ」
ウェッブは言った。
「爆薬を仕掛けて起爆すれば、仕切りは全部壊れる。四十八基分だ。……向こうが撃つ瞬間にやることを、こちらが倉庫の中で、まとめてやることになる」
「……」
「そして俺たちは、そこにいる」
奥空アヤネが眼鏡を外した。
そしてかけ直した。
「先生」
「なんだ」
「私、昨日の夜、爆破するんだと思ってました」
彼女は言った。
「先生が『無力化であって破壊じゃない』って言った意味、分かってませんでした。……分かった気になってました」
「そうだ」
「……すみません」
「謝るな」
ウェッブは言った。
「今日分かった。それでいい。……分かった気のまま七日目を迎えるほうが、はるかに悪い」
彼はホワイトボードの前に立った。
そして、この日初めて、質問の形で書いた。
『問:二つを混ぜずに、四十八基を無くすには、どうすればいいか。』
「――ここからは俺は喋らない」
彼はマーカーを机の真ん中に置いた。
「一時間やる」
---
五.千度
一一三〇時。
一時間が三時間になった。
長机の上には、砂で汚れた紙が四十枚以上散らばっていた。
『一.運び出す』
――却下。四十八基。夜は九時間。トラックは向こうのものしかない。
『二.通報する』
――却下。エデン条約機構は先月できたばかりで、事務局の職員は十一人。文書の受理から現地調査の決定まで、規定上の最短で十九日。
「十八日には終わってるじゃない」
アルが言った。
「そうだ」
「……こういうのって、正しい手続きが一番遅いのね」
「そうだ」
ウェッブは言った。
「だから正しい手続きを作った人間は、いつも間に合わなかった側だ」
『三.発射機を壊す』
――却下。発射機は十二両。買い直せる。弾は残る。
『四.爆破する』
――却下。混ざる。
『五.中和する』
――却下。中和剤の必要量が、キヴォトス中の在庫を集めても足りない。
一四一〇時。
紙が尽きた。
黒見セリカが机に突っ伏した。
「もう無理〜〜〜」
「セリカちゃん、お茶入れますね」
「ノノミの茶はうまいのよ……そこだけが救いよ……」
「あら」
そのとき、浅黄ムツキが天井を見たまま、どうでもよさそうに言った。
「――燃やせばいいんじゃない?」
長机の全員が彼女を見た。
「え、なに。私なんか変なこと言った?」
「ムツキ」
鬼方カヨコが言った。
「もう一回言って」
「え〜。だから、燃やせば。……お鍋とか、焦がすと味しなくなるじゃん」
「……」
「あれって、要は壊れてるんでしょ。中身が」
対策委員会室が静まり返った。
鬼方カヨコが立ち上がった。
そして、机の上の紙を一枚引き寄せ、そこに丸を二つ描いた。
「――分解」
彼女は言った。
「混ぜるんじゃなくて、二つとも壊す。……分子ごと」
「壊れるんですか、そんなの」
アヤネが言った。
「壊れる」
答えたのはカヨコではなく、ウェッブだった。
彼はこの三時間、一言も喋っていなかった。
「温度を上げれば壊れる。……有機物である以上、必ず壊れる温度がある」
「じゃあ火をつければ」
「足りない」
彼は言った。
「普通の火では足りない。焚き火の温度では、壊れるものと、そのまま煙になって飛んでいくものが混ざる。……飛んでいったほうは、そのまま風下へ行く」
「じゃあ、どれくらい要るんですか」
「数千度だ」
彼は言った。
「そして、それを『長く』ではなく、『一瞬で、密閉に近い状態で』作る必要がある」
長机の右半分――便利屋68のほうから、乾いた声が上がった。
「……あるわよ」
陸八魔アルだった。
彼女はコートの襟を直した。
いつもの動作だった。
だが指が震えていた。
「そういう爆薬。ムツキが前に言ってた。……熱と圧力で焼き払うやつ」
「クフフ。アルちゃん、よく覚えてたね」
「あんたが三十分喋ったからでしょ!」
「あれ楽しかったもん」
浅黄ムツキは机の上に肘をついた。
そして、初めて、笑わない顔で言った。
「――でもね、あれ、"吹き飛ばす"のは苦手だよ」
「え?」
「壁とか鉄とか、そういうのを壊すのは下手なの。……あれは"空間を焼く"やつだから」
彼女は言った。
「今回、それでいいんだよね? 壊さなくていいんだよね?」
「そうだ」
ウェッブが言った。
「今回、破片は要らない。……要るのは温度だけだ」
「じゃあ、できるよ」
浅黄ムツキは言った。
「私、それ得意」
長机の九人が、そのとき初めて、便利屋68の一年生と二年生を「爆発物の専門家」として見た。
一五〇〇時。
黒見セリカが机の端で、紙に数字を書いていた。
倉庫の容積。天井高。開口部の数と面積。一基あたりの間隔。
彼女は同じ計算を三回やった。
三回とも同じ数字が出るまで、誰にも見せなかった。
そして四十分後、紙をカヨコとムツキの前に滑らせた。
「……これ。合ってる?」
鬼方カヨコが読んだ。
浅黄ムツキが覗き込んだ。
二人は顔を見合わせた。
「……ねえカヨコ先輩」
「うん」
「この子、うちに来ない?」
「来ないわよ! なんで勧誘されてんのよ私!」
「クフフ!」
「黒見セリカ」
ウェッブが言った。
「何分でやった」
「……四十分」
「上出来だ」
「べ、別に、当たり前のこと計算しただけだし!」
彼女は乱暴に紙を引き戻し、それから小さく「……もー」と言った。
一五四〇時。
ウェッブがホワイトボードの前に立った。
そして書いた。
『採用案:超高温熱分解。』
その下に、二行。
『前提一:作戦目的は「弾頭の破壊」ではなく「中身の分解」である。
前提二:本案は完全ではない。』
「――完全じゃない?」
アルが言った。
「そうだ」
「何パーセントよ」
「分からない」
ウェッブは即答した。
「え」
「分からない」
彼はもう一度言った。
「向こうの弾頭の内部構造も、装填量も、正確には分からない。……壊れずに外へ出る分がある。ゼロにはならない」
「……どのくらい」
「分からないと言った」
彼は言った。
「分からないことを数字で言うと、その数字を信じた人間が死ぬ」
長机が静かになった。
「だから条件をつける」
彼はマーカーで三行足した。
『条件一:実施は、風が基地から無人域へ抜ける夜に限る。
条件二:実施前に、基地内の非戦闘員を全員退避させる。
条件三:作業に入る全員が化学防護を着装する。装着不良は一件も許容しない。』
「――風待ちですか」
アヤネが言った。
「そうだ」
「じゃあ、日にちが決められません」
「決めない」
ウェッブは言った。
「向こうのH時は二十五日だ。向こうの配備完了は十八日だ。……どちらも向こうが決めた日付だ」
彼はマーカーを置いた。
「俺たちのH時は、風が決める」
奥空アヤネは記録板を開いた。
そして、その日から六日間、彼女は一日四回、屋上の風速計を読みに上がることになる。
---
六.急いで作った陣地
一七〇〇時。
「――陣地には二種類ある」
ウェッブは新しい紙をホワイトボードに貼った。
「時間をかけて作った陣地と、間に合わせた陣地だ」
彼は写真の右――四十一日目のものを指した。
「六日で倉庫が五棟増えている。舗装が四本増えている。人が三倍になっている。……これは間に合わせだ」
「急いでるんですね」
「そうだ。急いでいる」
彼は言った。
「そして急いで作った陣地は、必ず同じ場所に同じ穴が空く。……二十年で一度も例外を見ていない」
「なんでですか」
「守りを外に向けるからだ」
彼は言った。
「時間がないとき、人は外周に人を出す。柵を立てる。灯りを増やす。……内側は後回しにする。『内側にいる人間は味方だから』だ」
彼はマーカーで写真の外周をなぞり、次に内側を指した。
「外に向いた守りは、外から見ると壁だ。中から見ると、何もない」
長机の九人が、その日の残りの四時間を使って、その「何もない」を数え上げていった。
『一.日雇いが毎日入れ替わる。顔で人を確認する仕組みが存在しない。』
――出所:鬼方カヨコ(門の観察)。補強:ヘルメット団の雇用形態。
『二.読取機が故障する。故障時は監督が端末操作で通す。』
――出所:同上。四十分で三回。
『三.交代時刻が固定されている。』
――出所:搬送計画の便の時刻表。深夜〇時前後に集中。
『四.兵器廠区画は内部に別の入口を持つ。』
――出所:施設配置図。ここだけ二重。
『五.捜索レーダーは高いところを見る。東の涸れ谷は地形の影に入る。』
――出所:五万分の一地図の等高線。奥空アヤネ算出。
『六.多連装ロケットは測量済みの定位置から動かない。』
――出所:舗装の形。ウェッブ。
そして七つ目を、ウェッブ自身が書いた。
『七.化学警報が鳴れば、全員が必ず逃げる。』
「……なんでですか」
セリカが訊いた。
「怖いからだ」
彼は言った。
「あの基地で働いている人間が世界で一番怖がっているのは、俺たちじゃない。……自分たちが今日運んだ荷物だ」
「……」
「向こうの一番強い恐怖を、こちらの退避命令に使う」
長机が静かになった。
小鳥遊ホシノが、ソファ代わりの跳び箱――ではなく、今日は椅子――の上で脚を組み替えた。
「……ねえ、先生」
「なんだ」
「その警報って、ちゃんと鳴らないと駄目だよね」
「そうだ」
「鳴らして、全員が外に出るまで待つんだよね」
「そうだ」
「その間、うちらは中にいるんだよね」
「そうだ」
小鳥遊ホシノは天井を見上げた。
そして「うへ〜」と言った。
いつもと同じ発音だった。
だが誰も笑わなかった。
二〇一〇時。
最後の問題が残った。
どうやって基地の中へ入るのか。
門は二つ。どちらも読取機がある。
「――穴があります」
奥空アヤネが言った。
彼女は別冊――地質調査報告(第九次)を開いていた。
「地質調査の第四項に、脚注が一行だけあります。……『空洞。旧導水路と推定。崩落。調査対象外』」
「導水路」
「はい。……昔、大オアシスから水を引いていた坑道です。アビドス水道局の記録は、砂漠化のときに全部無くなってます」
「崩落と書いてあるぞ」
「はい」
アヤネは眼鏡を押し上げた。
「でも、書いた人はたぶん入ってません。……だって『調査対象外』なので」
そのとき、小鳥遊ホシノが立ち上がった。
彼女は地図の前に行き、しばらく黙って砂漠の中央を見ていた。
そして、非常に静かに言った。
「――知ってる」
長机の全員が振り返った。
「一年生のとき、先輩と入った」
彼女は地図の一点に指を置いた。
「宝探しって言われてさ。……水筒二本持って、懐中電灯一本で。三時間くらい歩いた」
「……何があったんですか」
アヤネが訊いた。
「コウモリ」
「コウモリ!?」
「あとね、ずーっと涼しいの」
ホシノは言った。
「あそこだけ、砂漠じゃないんだよ」
砂狼シロコが顔を上げた。
「東の口、開いてる」
「……シロコ?」
「三回入った。巡回のとき」
彼女は言った。
「暑い日に涼むから」
「なんで言わないのよ!?」
「訊かれなかった」
「訊くわけないでしょ坑道で涼んでるなんて!」
デイヴィッド・ウェッブは、その三人を順に見た。
一年生が記録を見つけ、三年生が記憶を出し、二年生が現物を確認した。
彼はホワイトボードに『進入路』と書き、その下に三行書いた。
『出所一:別冊脚注(奥空)。
出所二:本人の踏破経験、四年前(小鳥遊)。
出所三:直近の現況確認、三回(砂狼)。
――以上三点をもって、当該坑道は「使える」と判断する。』
「……先生」
セリカが言った。
「なによこれ。名前ばっかり書いてあるじゃない」
「そうだ」
ウェッブは言った。
「情報には出所が要る。出所には名前が要る。……名前のない情報で人を送るのを、俺は二度としない」
---
七.赤い側
二一二〇時。
「――陸八魔アル」
「なによ」
「今から一時間、君はカイザーだ」
長机が静まり返った。
「……はぁ?」
「向こうの側で考えろ。この計画を全部潰せ」
ウェッブは言った。
「一つ潰すごとに、こちらの死者が減る」
陸八魔アルは五秒動かなかった。
それから、非常にゆっくりと、コートの襟を直した。
そして顎を上げた。
「――ふふん」
椅子の背に体を預け、脚を組み、片手を肘掛けに垂らした。
「いいわ。……私、悪党だもの」
浅黄ムツキが小さく拍手した。
「クフフ! アルちゃん、今日一番いい顔してる」
「黙りなさい」
一つ目。
「まず、一時間で数十基は無理よ」
アルは言った。
「三人でしょ? 兵器廠って倉庫二棟でしょ? 走っても足りないわ」
「……」
「私だったら、四十分目に交代の点呼を入れるわね。人数が合わなかったら終わり」
鬼方カヨコが即座に応じた。
「じゃあ、六人にする」
「六人?」
「強襲班も設置に入る」
彼女は言った。
「掩護だけさせるのは無駄。……坑口さえ押さえたら、三人のうち二人は手が空く」
「装薬は?」
「外で組む」
浅黄ムツキが言った。
「中では"置く"だけ。組み立ては全部こっち側で終わらせておく。……中でやることが増えるほど、下手になるから」
陸八魔アルは黙った。
そして「……いいわ、それは通す」と言った。
二つ目。
「次。警報を鳴らしたら、あなたたちも走ることになるわ」
彼女は言った。
「作業員と一緒に門から出るの? 逆走するの? どっち」
「逆走する」
カヨコが言った。
「坑道から出る。来た道」
「じゃあ、最後の一人はどうなるの」
「……」
「信管を起こすのは、退避が終わってからでしょ」
アルは言った。
「つまり、誰か一人は、全員が逃げたのを見届けてから作業するのよね。……それ、誰?」
長机が静まり返った。
十秒。
「――私」
鬼方カヨコが言った。
「カヨコ!?」
アルが素の声を出した。
そして即座に社長の声に戻した。
「……何を根拠に。あんた、そういうの向いてないでしょ」
「向いてる」
カヨコは言った。
「入って、出る。それだけができる人間は少ないって、この人が言った」
彼女は湯呑みを置いた。
「言われた仕事はやる」
「……」
「社長。私、給料もらってないから」
「なっ」
「もらってないから、辞めない」
鬼方カヨコは平坦に言った。
「そういうものでしょ」
陸八魔アルは何も言えなかった。
長机の反対側で、十六夜ノノミが小さく「あら」と言った。
三つ目。
「じゃあ次。……私だったら、作業員の中に社員を一人混ぜるわ」
アルは言った。
「顔を知ってる人間を一人。それだけで潜入は全部終わり」
「終わらない」
カヨコが言った。
「なんでよ」
「監督は名簿を見ない。端末を見る」
彼女は言った。
「四十分で三回、機械が読めなかった。そのたびに監督は名簿じゃなくて端末を叩いた。……あの人たちは、人を見てない」
「……」
「機械が緑を出せば、人は通る」
四つ目。
陸八魔アルは、そこで初めて長机の一点――奥空アヤネを見た。
「じゃあ、その緑をどうやって出すの」
奥空アヤネが背筋を伸ばした。
「……社員データベースを書き換えます」
「書き換える?」
「はい。私たちの持っているカプセルは、市販品です。番号は書き込めます。……でも、番号を書いても、向こうの名簿にその番号がなければ緑は出ません」
「じゃあ名簿に足すの」
「足します」
「……どうやって」
「複合機の裏の、あれを使います」
長机の空気が変わった。
ウェッブが初めて口を挟んだ。
「――アヤネ」
「はい」
「今まで何をしていた」
「……見ていました」
「今度は何をする」
「……書きます」
「違いを言え」
奥空アヤネは唇を噛んだ。
そして言った。
「見るのは、痕が残りません。……書くのは、残ります」
「そうだ」
「一回書いたら、たぶん、あの機械は使えなくなります」
彼女は言った。
「気づかれたら、その日のうちに全部閉じられます。……三十六キロ分の紙も、二千八百本の短冊も、全部、そこで終わります」
対策委員会室が静まり返った。
「――やらない選択肢がある」
ウェッブが言った。
「え」
「機械を残す。情報を取り続ける。……四十八基は止められない。だが、その先の五年分の証拠は残る」
彼は言った。
「これは君の機械だ。君が決めろ」
奥空アヤネは眼鏡を外した。
そして、丁寧に拭いた。
三十秒かかった。
かけ直して、彼女は言った。
「……使い切ります」
「理由を言え」
「情報は、渡した瞬間に武器になるって、先生が言いました」
彼女は言った。
「渡さないで持ってるだけなら、それはただの重さです」
「そうだ」
「あと」
奥空アヤネは記録板を胸に抱えた。
「五年後に、この街に読む人が残ってないと、意味がないので」
デイヴィッド・ウェッブは長いこと彼女を見ていた。
そして、ホワイトボードにこう書いた。
『情報源の運用終了:作戦当日 二〇〇〇時。決定者:奥空アヤネ。』
五つ目。
「――最後」
陸八魔アルが言った。
彼女はもう演技をしていなかった。
「あの防空。ヘリ、絶対落とされるわよ」
「そうだ」
ウェッブが言った。
「じゃあ先に潰せば」
「潰せない」
「なんで」
「レーダーを潰した瞬間に、基地が起きるからだ」
彼は言った。
「そして基地が起きた瞬間に、兵器廠の内側に人が集まる。……そこには、まだ弾頭がある」
「……」
「順番は変えられない。弾頭が消えるまで、空は来ない」
彼はマーカーで、写真の右下――地平線の外側を指した。
「ホルスは地平線の向こうで待つ。……鳴らすのは、こっちだ」
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八.コールサイン
二三四〇時。
「――班を四つに分ける」
ウェッブは言った。
「編成は君たちが決めろ。俺は二つだけ否定する権利を持つ」
長机の九人は、そこから一時間十二分議論した。
〇〇五二時、四つの紙が壁に貼られた。
『ABYDOS(強襲班)
小鳥遊ホシノ/砂狼シロコ/黒見セリカ
坑口確保、坑道先行、工作隊の掩護、離脱時の後衛。装薬設置に参加。』
『SOLVER(工作班)
鬼方カヨコ/伊草ハルカ/浅黄ムツキ
装薬の設置と起爆。爆薬に関する一切の技術判断。』
『HIGHGROUND(偵察狙撃・火力統制班)
デイヴィッド・ウェッブ(統制)/陸八魔アル(偵察・狙撃)
狙撃、レーザー目標指示、火力統制、非戦闘員退避の熱線確認。』
『HORUS 1-1(MH-60M)
奥空アヤネ(操縦)/十六夜ノノミ(射手兼副操縦)
空輸、精密火力、離脱時の火力掩護、人員後送。』
「――ちょっと待ちなさい」
陸八魔アルが二枚目を指した。
「なによSOLVERって」
「便利屋だからだ」
ウェッブが言った。
「そのまんまじゃない! ダサいわ!」
「クフフ! 私は好きだよ〜」
「あんたの趣味は当てにならないのよムツキ!」
「では『便利屋68』のままで」
ノノミが微笑んだ。
「無線で日本語の固有名詞を使うと、傍受したときに一発で誰か分かるわね」
「……分かってるわよ、そんなこと」
アルはコートの襟を直した。
「……いいわ。SOLVERで。……ふん、まあ、悪くはないわね。困った人の問題を解決するって意味だし」
「クフフ、アルちゃん今ちょっと嬉しそう」
「うるさい!」
奥空アヤネが四枚目を指した。
「あの、この『HORUS』って」
「君がつけろ」
ウェッブが言った。
「え、私ですか」
「乗るのは君だ」
奥空アヤネは端末を三分叩いた。
そして顔を上げた。
「……ホルスにします」
「理由は」
「アビドスって、地上のどこかにある古い街の名前なんです」
彼女は言った。
「その街の神様の、息子の名前です。……たしか、隼の頭をしてます」
「なぜそれを選んだ」
「隼だからです」
彼女は言った。
「あと、その神様は、目を取られて、それでも戦ったって書いてあります」
デイヴィッド・ウェッブは何も言わなかった。
そして紙の隅に『HORUS 1-1』と書き足した。
「――そこで一つ目を否定する」
彼は言った。
「え」
「操縦は君だ。俺じゃない」
奥空アヤネの顔から血の気が引いた。
「せ、先生が乗らないんですか!?」
「乗らない」
「でも、あれ、先生の――」
「四十時間だ」
彼は言った。
「君の飛行時間だ。うち夜間が十九時間。四眼での着陸が十一回」
「……」
「二十日目の夜、君は一人で夜間に無灯火で四百メートル手前に降ろした。三回跳ねた」
「跳ねました!」
「今度は二回にしろ」
「先生!!」
「奥空アヤネ」
彼は言った。
「あの夜、俺を拾ったのは君だ。……今度は八人を拾いに来い」
奥空アヤネは何か言おうとした。
三回失敗した。
四回目に「……はい」と言った。
そして眼鏡の下を袖で拭いて「泣いてません」と言った。
「まだ何も言っていない」
「泣いてません!!」
十六夜ノノミが静かに手を挙げた。
「あら。先生、一つよろしいですか」
「なんだ」
「基地にいる人は、みなさん、人ですか」
長机が静かになった。
「作業員は人だ」
ウェッブは言った。
「戦うほうは違う。……あの四脚と、外周を歩いている歩兵は、機械だ。カイザーインダストリー製だ」
「……全部ですか」
「大隊の戦闘要員は、全部そうだと文書にある」
彼は言った。
「人件費の欄がない。……代わりに『稼働率』の欄がある」
十六夜ノノミは長いこと黙っていた。
そして、いつもの穏やかな声で言った。
「あら。……よかった」
「……」
「よくないですね」
彼女は言った。
「あの子たちも、誰かが作ったんですよね」
誰も答えなかった。
「――二つ目を否定する」
ウェッブが言った。
彼は三枚目を指した。
「HIGHGROUNDの配置。俺は撃たない」
「え?」
アルが眉を寄せた。
「あんた、撃たないの?」
「今日は数える係だ」
彼は言った。
「見張り塔は四つ。うち二つは千二百メートル以上ある。……そこで撃つのは君だ」
「私が?」
「君だ」
「……なんで」
「三十日前、ヘルメット団の隊長がこう言っていた」
彼は紙の一枚をめくった。
「『便利屋の社長は、千メートル以上でしか撃たない。近いと外す』」
「……なっ、なんで知ってんのよそんなこと!」
「悪口だと思って言っていた」
ウェッブは言った。
「悪口じゃない。……あれは仕様書だ」
陸八魔アルは口を開け、閉じ、それからそっぽを向いた。
「……ふ、ふふん。まあ、当然の評価ね」
「クフフ、耳赤いよアルちゃん」
「うるさい!」
そのとき、伊草ハルカが小さく手を挙げた。
「あ、あの……」
「なんだ」
「……アル社長は、その、遠くに行くんですか」
長机が静かになった。
「千二百メートルだ」
ウェッブは言った。
「……そんなに」
「そうだ」
伊草ハルカの手が震え始めた。
「あ、あの、私、社長のそばに」
「――ハルカ」
陸八魔アルが言った。
「あんた、カヨコの言うことを聞きなさい」
「え」
「今回、あんたの上司はカヨコよ。……私じゃない」
「そ、そんな」
「聞きなさい」
アルは言った。
彼女は前を向いたまま言った。
「私はね、千二百メートル先で、あんたの頭の上を見てるの。……その距離は、あんたが見えなくなる距離じゃない。あんたしか見えなくなる距離よ」
伊草ハルカは口を半分開けたまま彼女を見た。
そして、袖で目をこすった。
「……はい」
「よし」
ウェッブが言った。
「――最後に、作戦名が要る」
「作戦名?」
「無線で使う。……条件は二つだ。一つ、外の人間には何の意味もない言葉であること。二つ、怖いときに言える言葉であること」
「怖いときに?」
「舌が回らなくなる。三音か四音がいい」
長机の九人が黙り込んだ。
アルが真っ先に手を挙げた。
「『オペレーション・ダークネス・エンペラー』」
「長い」
「まだ最後まで言ってない!」
「まだあるのか」
「『――・オブ・ザ・デザート』!」
「却下」
「なんでよ!!」
「クフフ! 却下だって!」
そのとき、黒見セリカがぼそりと言った。
「……『かたやき』」
全員が彼女を見た。
「な、なによ!」
彼女は真っ赤になった。
「だ、だって、あの人、注文いっつも『硬めで』じゃない。あんた」
「……」
「大将、三種類覚えてるのよ。硬めと柔らかめと真ん中。……四人分、全部違うんだって」
長机が静かになった。
浅黄ムツキが、机に突っ伏して笑い出した。
「クフフフッ! 最高! 最高だよそれ! カタヤキ!」
「ちょっ、笑わないでよ!」
「笑ってないよ〜。私、それにする」
「あんたが決めることじゃないでしょ!」
デイヴィッド・ウェッブは、しばらくその紙を見ていた。
そして言った。
「――採用する」
「え」
「外の人間には何の意味もない。……そして、この部屋の九人には意味がある」
彼はホワイトボードの一番上に書いた。
『作戦名:カタヤキ』
「せ、先生、真面目に書かないでよ! 恥ずかしいでしょ!」
「無線で言え」
「言えるわけないでしょ!!」
---
九.〇二三〇時
四十二日目 ――ではなく、正確には四十三日目 〇二三〇時。
議論は二十時間三十分続いた。
対策委員会室のホワイトボードには、最後に、一枚の紙が貼られた。
奥空アヤネが清書した。字は丁寧だった。
『作戦カタヤキ 実施要領(暫定第一版)
一.状況
第四掘削現場(呼称オアシス)に化学弾頭四十八基が集積中。配備完了予定は翌月十八日。基地には日雇い作業員多数(推定百五十〜二百、大半がカタカタヘルメット団構成員)が就労している。戦闘要員は無人系統。
二.任務
配備完了前の夜間、当該弾頭を分解・無力化し、非戦闘員に死傷を出さず、全員が帰投する。
三.実施
(1)事前準備
・ウェッブによる化学防護の教育及び訓練を実施し、以下の全工程を反復リハーサルする。
※奥空アヤネ及び十六夜ノノミは飛行訓練を優先する。
・装薬は全て学校側で組み立て、完成状態で搬入する。
(2)進入
・作戦当日二〇〇〇時、ローグAPを経由して社員データベースを書き換える。以後、当該情報源は放棄する。
・偽造した社員IDカプセルを事前に服用。化学防護服を着装し、現地作業員として潜入する。
・ABYDOSが東側坑口を確保、坑道を先行。SOLVERを掩護しつつ兵器廠区画へ進出。
(3)設置
・現地作業員に混ざり、兵器廠の化学弾頭に装薬を設置する。
・制限時間は一時間。〇時前後の交代時刻に合わせる。
(4)退避及び起爆
・設置完了後、化学警報を作動させ、作業員を全員退避させる。
・HIGHGROUNDが熱線により非戦闘員の退避完了を確認し、これを宣告する。
・宣告後、SOLVERが信管を起動。SOLVERは坑道を逆進して離脱する。
(5)航空火力
・弾頭処理後、HIGHGROUNDがHORUS 1-1に近接航空支援を要請。
・目標優先順位は、①防空システムの捜索・追跡レーダー、②自律型多脚無人戦車、③多連装ロケット。
・HORUS 1-1はESSSの四ハードポイントにAGM-114Kを各四発、計十六発を搭載する。
(6)離脱
・傭兵部隊(無人)を掃討後、リカバリーポイント(基地南東 四・二キロ)にて全班を回収。
・明け方までに離脱を完了する。
四.後方支援
水・防護具・注射器・予備電源は学校側で確保。医療は帰投後。
五.指揮通信
統制:HIGHGROUND。
実施の可否判断:風向。作戦当日一八〇〇時の観測をもって決定する。
六.中止条件
・非戦闘員の退避が確認できない場合。
・防護の装着不良が一件でも発生した場合。
・風向が条件を満たさない場合。
――以上のいずれか一つで、全体を中止する。』
その紙の一番下に、ウェッブが一行だけ書き足した。
『※ 中止は失敗ではない。』
〇三一〇時。
屋上。
小鳥遊ホシノが給水塔の陰に座っていた。
隣にデイヴィッド・ウェッブが立っていた。
星が異常なほど多かった。
「――ねえ、先生」
「なんだ」
「おじさんの盾さ」
彼女は言った。
「あれ、今回、いらないんだよね」
「……」
「持ってっても意味ないでしょ。空気止めないんだから」
ウェッブは答えなかった。
「うへ〜」
小鳥遊ホシノは膝を抱えた。
「困っちゃうなあ。おじさん、あれしか取り柄ないのに」
「――委員長」
「なぁに」
「君の取り柄は盾じゃない」
ウェッブは言った。
「二十日目の夜、君は先頭に出なかった。……それが取り柄だ」
小鳥遊ホシノは長いこと黙っていた。
そして言った。
「……あのさ」
「なんだ」
「ヘルメットちゃん、あそこにいるの?」
「分からない」
「五十八人でしょ」
「そうだ」
「作業員、何人いるって書いた?」
「多い日で二百だ」
ホシノは膝の間に顔を埋めた。
「……二百かあ」
「そうだ」
「二百人にさ」
彼女は言った。
「うちら、警報鳴らすんだね」
「そうだ」
「ちゃんと鳴らそうね」
小鳥遊ホシノは顔を上げた。
その顔から、けだるさが消えていた。
一年生だった頃の、鋭くて余裕のない少女の顔だった。
「――絶対に、先に鳴らそう」
「そうする」
デイヴィッド・ウェッブは言った。
「退避は作戦の一部じゃない」
彼は言った。
「作戦の目的の一部だ」
---
十.まず自分。次に隣。
四十三日目 〇五〇〇時。
昇降口の掲示板に、五枚目の紙が貼られた。
一枚目も二枚目も三枚目も四枚目も、剥がされないまま並んでいた。五枚並ぶと掲示板の幅からはみ出したので、五枚目は少し下にずれて貼られた。
『アビドス高等学校 廃校対策委員会 訓練計画表(第五次)』
その下に一行。
『まず自分。次に隣。』
「……順番、逆じゃない?」
黒見セリカが言った。
「逆じゃない」
ウェッブは画鋲を押し込みながら言った。
「先に隣を助けた人間は、二人分倒れる」
「……」
「そして残った人間が、二人分背負う」
〇五一二時。校庭。
九人が横一列に並んでいた。
その足元に、灰色の袋が九つ置かれている。
袋の中身は、この街の誰も見たことのない形をしていた。
「――今から九秒を測る」
ウェッブは言った。
「袋から出して、装着して、密着を確認して、呼吸を再開するまでだ」
「きゅ、九秒!?」
「九秒だ。……最初は誰もできない」
彼は言った。
「六日後にはできる」
「無理よ!」
「無理じゃない」
彼は言った。
「これは才能の問題じゃない。手順の問題だ。手順は覚えられる」
彼は自分の袋に手を伸ばした。
そして、誰にも見えない速さで何かをした。
袋が開き、灰色のものが顔を覆い、両手が首の後ろに回り、二度何かを引き、掌が正面の弁を塞いだ。
そして、彼は息を吐いた。
灰色の面体が一瞬だけ内側に吸いついた。
彼はそれを外した。
「――四秒二だ」
長い沈黙があった。
浅黄ムツキが、初めて心の底から驚いた顔をした。
「……ねえ、おじさん」
「なんだ」
「それ、何回やったの」
デイヴィッド・ウェッブは面体を袋に戻した。
そして言った。
「数えていない」
「……」
「数えなくなった回数からが、本当の訓練だ」
〇五四〇時。
一回目。
九人の記録は以下の通りだった。
砂狼シロコ 十四秒。
鬼方カヨコ 十六秒。
浅黄ムツキ 十七秒。
小鳥遊ホシノ 十九秒。
陸八魔アル 二十二秒(コートを脱ぐのに三秒使った)。
十六夜ノノミ 二十三秒。
奥空アヤネ 二十六秒(眼鏡)。
黒見セリカ 三十一秒(二回落とした)。
伊草ハルカ 四十四秒(手が震えて締め紐が持てなかった)。
「――もう一度」
ウェッブは言った。
「せ、先生、ハルカちゃんが」
「もう一度だ」
「でも」
「伊草ハルカ」
「は、はい!」
「四十四秒だ」
彼は言った。
「四十四秒でも、君は最後までやめなかった。……途中でやめた人間は一人もいなかったが、四十四秒やめなかったのは君だけだ」
「……」
「もう一度」
「……はい!」
〇七〇〇時。
校庭の端に、ヘリコプターのローターが回り始めた。
奥空アヤネが操縦席に座り、十六夜ノノミが右席でチェックリストを膝に広げていた。
「あの、ノノミ先輩」
「はぁい」
「私、その、手が震えてます」
「あら」
十六夜ノノミは、彼女の手をそっと上から握った。
「私もです」
「……え」
「震えてます。ずっと」
彼女は微笑んだ。
「でも、この子が浮くのを見たいので」
奥空アヤネは前を向いた。
そしてコレクティブを引いた。
砂が舞い上がった。
校庭の反対側では、六人が同じ動作を三十七回目に繰り返していた。
袋を開ける。被る。締める。塞ぐ。吐く。
そのたびにセリカが「もー!」と叫び、ムツキが笑い、ハルカが謝り、カヨコがため息をつき、シロコが黙って手袋を直し、ホシノが「うへ〜」と言った。
そしてその全部を、デイヴィッド・ウェッブが秒針つきの時計で測っていた。
四十三日目 〇七一二時。
配備完了予定日まで、あと六日。
風は――まだ、南から吹いていた。