宝鐘マリンになったホロリス、カルデアで人理を航海する 作:ホロリスのホロリスによるホロリスのたm
カルデアの医療区画は、管制室よりもさらに白かった。
清潔な壁、無機質な照明、透明な隔離ガラス。そこに並ぶベッドの上で、マスター候補たちが眠っている。爆発は起きなかった。炎に呑まれた者はいない。けれど、全員が無傷で済んだわけではなかった。
霊子筐体から逆流した汚染。管制系に残された術式の残滓。人理焼却が発動した瞬間にカルデア全体を叩いた、目に見えない衝撃。その全部が、彼らの身体と精神を内側から揺さぶっている。
私はガラス越しに、その光景を見ていた。
「……生きてるだけ、マシなんでしょうけどね」
口にした瞬間、その言い方が嫌になった。生きているだけでいい、なんて簡単に言えるはずがない。彼らには彼らの人生があって、誇りがあって、役割があった。全員が人理修復のために集められたマスター候補だ。とくにAチームは、カルデアの切り札になるはずだった。
その切り札たちは今、ベッドの上で眠っている。
「マシ、ではないわ」
隣に立つオルガマリーが言った。
白衣を羽織った医療スタッフたちが慌ただしく行き来する中で、彼女はまっすぐガラスの向こうを見ていた。顔色はまだ悪い。レフの裏切りを目の前で知ったばかりだ。それでも、所長として立つ姿勢だけは崩していない。
「これは、私の失態よ。カルデアの所長として、私はレフを信用していた。施設内に仕掛けられた術式にも気づけなかった。あなたがいなければ、全員死んでいた」
「所長」
「慰めはいらないわ」
「慰めじゃないです」
私は腕を組み、できるだけ軽い声を作った。
「今の発言、自己採点が厳しすぎます。船長基準だと減点対象ですね」
オルガマリーがこちらを睨む。
「この状況で採点?」
「大事ですよ。落ち込んでる時ほど、雑な自己評価って危険なんです。所長、自分を責める時だけ計算が雑になりますから」
「あなたに言われたくないわ。普段から全部ふざけて誤魔化しているくせに」
「船長、誤魔化しのプロなので」
「誇るところじゃない」
いつものように返してくる声は鋭かった。けれど、その奥にある震えは消えていない。オルガマリーは強い。強くあろうとしている。だが、強くあろうとする人間ほど、自分の傷を無視する。
私は、それを昔から知っていた。
遠い昔ではない。神代の話でも、王の話でもない。もっと近い時代の、霧の深い街の記憶だ。
時計塔の廊下は、今の医療区画とは違う白さをしていた。磨かれた石の床、古い魔術礼装の匂い、血筋と派閥と成果で人間の価値が決まる空気。その隅で、小さな少女が一人、泣かないように唇を噛んでいた。
泣けば負けだと思っている顔だった。
私はその時も、今と同じ姿をしていた。赤い外套に、海賊帽。時計塔の厳かな空気からは笑えるくらい浮いていた。いや、実際かなり浮いていたと思う。廊下を通る魔術師たちの視線が痛かった。
それでも、私は少女の前にしゃがみ込んだ。
『泣かないんですか?』
少女は、きっと私を睨んだ。
『泣いてないわ』
『まだ何も言ってませんよ?』
『今、言ったでしょう』
『あっ、たしかに』
その時の彼女は、今よりずっと小さかった。けれど、目だけは同じだった。誰にも弱さを見せまいとする目。自分が傷ついていることを認めたら、その場で何かが終わってしまうと思い込んでいる目。
私は、そういう目に弱い。
だから、その少女の前で笑った。
『じゃあ、泣いてない記念に飴いります?』
『いらないわ。子ども扱いしないで』
『いやぁ、船長も十七歳なので、子ども扱いされる側なんですけど』
『嘘つき』
『バレたかぁ』
少女は、ほんの少しだけ呆れた顔をした。泣きそうな顔より、ずっとよかった。
その子の名前が、オルガマリー・アニムスフィアだった。
「マリン?」
呼ばれて、意識が現在へ戻る。
オルガマリーが眉を寄せて私を見ていた。
「何をぼうっとしているの」
「いえ、所長の昔を思い出してました」
「忘れなさい」
「早い」
「あなた、ろくなことを覚えていないもの」
「失礼な。船長、結構いい思い出も大事にしてますよ。たとえば、所長が昔、飴を受け取らないと言いながら結局ポケットに入れて――」
「忘れろと言ったでしょう!」
勢いよく遮られた。耳まで少し赤くなっている。よかった。怒れるなら、まだ大丈夫だ。
医療スタッフが数名、こちらをちらりと見てすぐに目を逸らした。所長とロード・ホウショウの口喧嘩は、カルデアではそれなりに見慣れた光景なのだろう。私としては、これくらい日常の音が戻ってくる方がありがたい。
その時、背後から軽い足音が近づいてきた。
「おやおや、雰囲気が少しだけ戻ってきたね。いいことだ」
ロマニ・アーキマンが端末を抱えて立っていた。顔には疲れが見える。さっきから管制、医療、解析を行き来しているのだから当然だ。軽い口調を保っているが、目の下には濃い影が落ちていた。
「ドクター、状況は?」
オルガマリーが問うと、ロマンは表情を引き締めた。
「マスター候補たちの生命維持は安定している。ただし、レイシフトは全員しばらく無理だ。Aチームも同じ。カドックくんは近いうちに意識が戻る可能性があるけど、前線に出すのは危険だね。キリシュタリアくんは封印治療が必要になる」
「……そう」
オルガマリーの指先が、わずかに震えた。
「全員、生きてはいるのね」
「うん。マリンのおかげでね」
ロマンの言葉に、私は肩をすくめた。
「いやぁ、船長、爆弾処理配信は初だったんですけどね。意外となんとかなりました」
「初めてで全爆弾処理するんじゃないわよ」
「所長、そこ怒るところなんです?」
「怒るところよ。なぜ事前に相談しなかったの」
「相談したら止められるか、レフに漏れるか、所長が無茶するかの三択だったので」
「三つ目は何よ」
「心当たりありません?」
オルガマリーは黙った。
あったらしい。
ロマンが困ったように笑う。
「まあ、その件は後でしっかり事情聴取するとして、今は特異点Fだ。レフはそこへ逃げた。シバの観測によれば、冬木市は異常な炎上状態にある。人理焼却の起点か、少なくとも重要な楔である可能性が高い」
「追うしかないわね」
オルガマリーが即答した。
ロマンの顔が曇る。
「所長、本当に行くつもりなのかい?」
「行くわ」
「君はカルデアに残るべきだ。指揮系統も、施設の復旧も、マスター候補の管理もある。君が現場へ出るのは危険すぎる」
「危険なのは分かっている。でも、私だけここに残って安全な場所から命令するなんてできない」
「それは感情論だよ」
「そうよ」
オルガマリーはロマンを見た。
「でも、感情のない所長に、今のカルデアがついてくると思う?」
ロマンは言葉に詰まった。
私も、何も言えなかった。
彼女は分かっている。自分が行くことの危険を。所長が現場へ出る愚かさを。レイシフト適性の問題も、特異点の危険も、全部分かっている。その上で、ここに残って震えている自分を許せないのだ。
それは正しい判断ではない。
けれど、人間としては分かってしまう。
ドレイクなら、たぶん笑って背中を押すだろう。海に出たいやつを港に縛りつけても、ろくなことにならないと言うはずだ。実際、さっき似たようなことを言っていた。
私は額に手を当てた。
「所長、ひとつ確認です」
「何」
「行きたい理由は、レフを追うため? 責任を取るため? それとも、自分がここに残るのが許せないから?」
オルガマリーは少しだけ目を伏せた。
「全部よ」
「欲張りですねぇ」
「あなたほどじゃないわ」
「それはそう」
即答すると、オルガマリーが呆れた顔をした。ロマンも微妙な顔をしている。いい。空気が重くなりすぎるよりはましだ。
私はガラスの向こうを見る。
眠るマスター候補たち。まだ目覚めないAチーム。彼らを置いて、特異点へ向かう。その事実は変わらない。彼らを守るためにも、今動ける人間が動くしかない。
そして、今動ける人間の中に、オルガマリーは含まれている。
含めたくないのに、含まれてしまっている。
「……分かりました」
私が言うと、ロマンが目を見開いた。
「マリン?」
「所長は連れて行きます」
「本気かい」
「本気です。ただし条件付き」
オルガマリーが腕を組む。
「言ってみなさい」
「前線に出ない。単独行動しない。私かドレイクさんの指示に従う。藤丸さんとマシュさんを責めない。怖い時は怖いと言う。あと、無茶したら船長が全力で回収します」
「多いわね」
「所長、前科ありそうなので」
「ないわよ」
「これから作りそうなので」
「失礼すぎない?」
「愛です」
「その言葉で誤魔化せると思わないで」
オルガマリーは眉を吊り上げたが、否定はしなかった。条件を飲む気はあるのだろう。ロマンはまだ渋い顔をしていたが、彼女を止める言葉を探しきれずにいる。
私は声の調子を少し落とした。
「ドクター。所長をここに残しても、たぶん心だけ特異点へ行きます。そうなると、管制にも治療にも集中できない。なら、目の届く場所にいてもらった方がいい」
「君は……どうしてそこまで所長を分かっているんだい」
ロマンの問いに、オルガマリーがこちらを見る。
私も彼女を見る。
一瞬、時計塔の廊下が頭をよぎった。泣かない少女。飴を受け取らないと言いながら、結局ポケットに入れた小さな手。大人たちの期待と評価に押し潰されそうになりながら、それでも顔を上げていた子ども。
それを、ここで言うつもりはなかった。
「船長なので」
私は笑った。
「船員の顔色を見るのは得意なんです」
「私はあなたの船員になった覚えはないわ」
「えー? じゃあ所長枠のゲスト乗船ということで」
「何なのよ、その枠」
「特別待遇ですよ。チケット代は高めです」
「請求したら減給するわよ」
「カルデア顧問って減給あるんですか?」
「作るわ」
「職権乱用!」
ロマンが小さく笑った。
その笑いに、少しだけ救われる。誰も笑えない状況で、無理にでも笑う。その行為が意味を持つことを、私は長い時間の中で学んでいた。笑いは現実を変えない。でも、次の一歩を踏み出すための息継ぎにはなる。
医療区画の扉が開き、マシュと藤丸が入ってきた。
マシュはまだ少し顔色が悪い。藤丸も緊張している。けれど、二人とも立っていた。逃げずに、ここへ来た。
「マリンさん、所長、ドクター」
マシュが頭を下げる。
「特異点Fへの準備について、指示を受けに来ました」
藤丸も続いて頭を下げた。
「自分も、お願いします。分からないことだらけですけど……行くと決めました」
オルガマリーが藤丸を見る。
その目は厳しかった。だが、そこに見下しはなかった。藤丸が一般人であることも、未熟であることも理解している。それでも、今のカルデアに必要な前線マスターであることを認めようとしている。
「藤丸立香」
「はい」
「あなたは魔術師として未熟どころか、ほぼ素人よ。戦闘経験もない。特異点へ出れば、死ぬ可能性がある」
「はい」
「それでも行くのね」
藤丸は一度、拳を握った。
「怖いです。でも、行きます。自分にできることがあるなら」
オルガマリーはしばらく彼を見つめた。
そして、短く息を吐いた。
「いいわ。なら、私はあなたを正式に前線マスターとして認めます。ただし、勝手に死ぬことは許さない。カルデアの命令として、生きて帰りなさい」
藤丸の表情が変わる。
不安は消えていない。それでも、彼は背筋を伸ばした。
「はい。必ず戻ります」
その横で、マシュが静かに微笑んだ。
私はその姿を見て、胸の奥が少し痛んだ。マシュの中にある霊基反応は、さっきよりも落ち着いている。けれど、消えたわけではない。むしろ、藤丸の言葉に反応するように、奥で何かが静かに揺れている。
誰かを守りたいという意思。
それが、彼女の中に眠るものを呼び起こしている。
「マシュさん」
「はい」
「違和感があったらすぐ言ってください。胸の奥が熱いとか、視界が変だとか、知らない声が聞こえるとか」
マシュは少し驚いたように目を瞬かせた。
「知らない声、ですか?」
「例えです。例え。船長、心配性なので」
嘘ではない。だが、全部でもない。
マシュは真面目に頷いた。
「分かりました。異常があれば、すぐに報告します」
「お願いします。あと、藤丸さんを守ろうとして無茶しすぎるのも禁止です」
「それは……努力します」
「今ちょっと間がありましたね?」
「努力、します」
藤丸が苦笑した。
「自分も、マシュに守られてばかりにならないようにします」
「はい、いい返事です。船長ポイント加算です」
「そのポイント、何に使えるんですか?」
「今のところ何にも使えません」
「ないんですね」
「これから作ります」
ドレイクが扉にもたれて笑っていた。
「楽しそうじゃないか。出航前にしては上出来だ」
「ドレイクさん、準備は?」
「いつでも。あたしは海がなくても出られる女だよ」
「ライダーの説得力すごいですね」
「マスターも見習いな」
「船長、陸酔いするタイプなんですけど」
「それはただの運動不足だね」
「急に現実的な指摘やめてください」
いつもの調子で返しながら、私は内心で準備を整えていた。
短銃の弾倉。短剣の位置。煙幕弾。ロープ付きフック。礼装の予備。カルデア側のレイシフト補助。オルガマリーの保護術式。藤丸の生存優先。マシュの霊基異常の監視。ドレイクの火力運用。
そして、絶対に開けてはいけない奥の箱。
王の財宝は使わない。まだ早い。ウルクの記憶も、王の名も、ここで出すべきではない。初代ハサンの歩法も、できる限り抑える。今の私は、宝鐘マリンを演じるホロリスで、カルデアの顧問で、ドレイクのマスターだ。
それでいい。
それで、今は十分だ。
ロマンが端末を操作しながら言った。
「レイシフト準備にはもう少し時間がかかる。特異点Fの座標は冬木市。観測上は炎上汚染都市と呼ぶべき状態だ。通常の冬木ではない。何が起きるか分からない」
「分からないことだらけですねぇ」
私は笑った。
「でもまあ、航海ってだいたいそういうものらしいので」
ドレイクが満足そうに頷く。
「分かってきたじゃないか、マリン」
「本物に褒められると照れますね」
「照れてる暇があるなら、舵を握りな」
「はいはい」
私は一歩前に出た。
オルガマリー、藤丸、マシュ、ドレイク。ロマンの通信。医療区画に眠るマスター候補たち。まだ目覚めないAチーム。全員の視線が、ほんの少しだけこちらに集まる。
偽物でも、演技でも、今だけはその視線に応えなければならない。
「それでは、出航前の確認です」
私は指を一本立てた。
「藤丸さんは死なない。マシュさんは無茶しすぎない。所長は勝手に前に出ない。ドレイクさんはカルデアを壊しすぎない。船長は……まあ、いい感じに頑張ります」
「最後だけ雑ね」
「自分のことになると雑になるタイプなので」
オルガマリーが呆れたようにため息をつく。
「そこは直しなさい」
「前向きに検討します」
「直す気ないでしょう」
「バレたかぁ」
そのやり取りに、藤丸が少し笑った。マシュも、ほんの少し表情を和らげた。オルガマリーは怒った顔をしているが、その目の奥の震えは、さっきより小さくなっている。
よかった。
このくらいの空気なら、まだ出航できる。
ロマンの声が入る。
「レイシフト準備、最終段階へ移行する。みんな、管制室へ戻ってくれ」
「了解」
オルガマリーが先に歩き出す。藤丸とマシュが続き、ドレイクが私の横に並んだ。
「マスター」
「何ですか?」
「あんた、所長に甘いねぇ」
「そうですか?」
「ああ。かなり」
私は少しだけ黙った。
否定することはできた。いつものように、船長は誰にでも優しいんですぅ、とでも言えばよかった。けれど、何となくそれは違う気がした。
「昔、泣かない子だったんですよ」
気づけば、そんなことを言っていた。
ドレイクは何も言わず、ただ聞いていた。
「泣かないようにしてる子って、見てると心臓に悪いんです。だから、まあ……放っておけないだけです」
「そうかい」
「それだけです」
「そういうことにしておくよ」
ドレイクはそれ以上聞かなかった。
ありがたかった。
管制室へ戻る通路は、警報灯の赤に染まっていた。世界は燃えている。レフは逃げた。未来は消えた。それでも、カルデアにはまだ人がいる。笑う声も、怒鳴る声も、震えながら立つ足も残っている。
なら、まだ終わっていない。
私は赤い通路の先を見た。
「人理修復、出航前夜ってやつですね」
「まだ夜明け前だよ、マスター」
ドレイクが笑う。
「だからこそ、面白い」
私は苦笑して、帽子の位置を直した。
怖い。だけど、逃げない。
オルガマリーを死なせない。藤丸を潰させない。マシュを兵器にしない。眠る候補者たちを、数字にしない。
全部守れるなんて思っていない。
それでも、舵を握るふりくらいはしてみせる。
宝鐘マリンとして。
「さあ」
私は、管制室へ向かう扉の前で笑った。
「17歳船長、出航準備に戻りますか」