アクアとして死んだ俺、今度は星野アイとして嘘をつく   作:推しになっちゃった笑

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死んだ俺は、推しになった

 

 

 冷たい、と思った。

 

 最初に残った感覚は、それだけだった。水が肌にまとわりついて、肺の奥へ入り込んでくる。息をしようとしても、喉が引きつるだけで、空気はどこにもなかった。痛みはあった。苦しさもあった。けれど、それよりも先に、妙に静かな納得が胸の底に沈んでいた。

 

 ああ、終わるのか。

 

 そう思った瞬間、いくつかの顔が脳裏をかすめた。泣きそうなルビー。怒ったようにこちらを見る有馬かな。何もかも見透かしたような黒川あかね。いつも通り明るく振る舞おうとして、きっと最後には泣くMEMちょ。母親のように、俺たちを見守ってくれたミヤコさん。

 

 そして、星野アイ。

 

 俺の母で、推しで、人生を狂わせた女。嘘つきで、誰よりも眩しくて、誰よりも不器用だった人。

 

 彼女の死から始まった人生が、ようやく終わる。復讐の果てに何が残ったのか、最後まで分からなかった。正しかったのか、間違っていたのかも分からない。ただ、もう考える時間はないのだと、沈んでいく意識の中で理解していた。

 

 ごめん、ルビー。

 

 そう思ったのを最後に、俺の意識は暗闇に沈んだ。

 

 次に目を覚ました時、天井が見えた。

 

 薄く黄ばんだ天井だった。病院ではない。実家でもない。苺プロの寮でも、五反田監督の家でもなかった。見覚えのない天井を見上げながら、俺は数秒だけ呼吸を忘れた。

 

 死んだはずだ。

 

 喉に水が入り、体温が奪われていく感覚を覚えている。あれは夢ではない。アクアとしての俺は、確かに死んだ。そう結論づけるのに、時間はかからなかった。

 

 問題は、死んだ後に意識があることだった。

 

 俺はゆっくりと指を動かした。小さい。指が細く、短い。手のひらも見慣れないほど柔らかい。関節の感覚も軽く、腕を持ち上げるだけで、身体全体が頼りなく揺れる。

 

 子どもの身体だ。

 

 その事実に気づいても、驚きは思ったほど来なかった。一度目があったからだ。雨宮吾郎として死に、星野アクアとして生まれた。常識では説明できないことを、俺はすでに経験している。だから、二度目の転生という現象そのものには、奇妙な納得すらあった。

 

 またか。

 

 そんな乾いた言葉が、頭の中に浮かぶ。

 

 ただし、今度は状況が悪い。ここがどこで、いつで、誰の身体なのか分からない。見知らぬ子どもに生まれ変わっただけなら、まだいい。最悪なのは、前の人生に関わる誰かの近くにいる場合だった。神だの運命だのを信じる気はないが、俺の人生はそういう悪趣味な巡り合わせに慣れすぎている。

 

 身体を起こそうとして、違和感に眉を寄せた。

 

 いや、眉を寄せたつもりだった。けれど、顔の筋肉の動きが軽すぎる。まるで表情を作るために最初から調整されているみたいに、頬も唇もよく動いた。子どもの身体だから、というだけではない。自分の顔がどう動けば人の目を惹くか、身体が勝手に知っているような気持ち悪さがあった。

 

 嫌な予感がした。

 

 部屋は狭かった。畳の上に薄い布団が敷かれ、壁際には衣類が雑に積まれている。子どもの持ち物らしいものは少ない。ぬいぐるみも、絵本も、目に入る範囲にはなかった。生活感はあるが、温度がない部屋だった。

 

 俺は布団から足を出した。足も小さい。床に降りると、膝が頼りなく震えた。身体年齢は、おそらく幼児から小学校低学年くらい。視線の高さが低いだけで、世界がひどく大きく見える。

 

 ふと、喉の奥が渇いていることに気づいた。

 

「……水」

 

 出た声に、俺は固まった。

 

 高い。幼い。しかも女の子の声だった。

 

 性別が変わっている可能性は、手の小ささで薄々察していた。それでも実際に声を聞くと、脳が一瞬だけ処理を拒否する。雨宮吾郎として男に生まれ、星野アクアとしても男だった。二度目の転生で女の子になるという可能性を、考えなかったわけではない。

 

 けれど、身体の違い以上に、声の響きが耳に残った。

 

 どこかで聞いたことがある。

 

 幼いから分かりにくい。記憶の中にある声とは年齢も高さも違う。それでも、声の奥にある甘さと、妙に人の意識を引っかける響きが、俺の記憶をざらりと撫でた。

 

 まさか。

 

 そう思った時、襖の向こうから足音がした。軽くも重くもない、疲れた大人の足音。襖が開き、女が顔を出す。

 

「起きたの」

 

 その声には、心配より面倒くささが混じっていた。母親らしき女だった。顔立ちは整っているが、目元に疲れが沈んでいる。こちらを見ても、抱きしめようとはしない。熱を測るような仕草もない。ただ、面倒なものが動き出したのを確認するように、俺を見下ろしていた。

 

 俺は反射的に周囲を観察した。年齢、服装、部屋の荒れ方、女の表情。育児に疲れている。金銭的にも余裕はなさそうだ。子どもに関心がない、というより、関心を向けるだけの余裕が削られているタイプに見えた。

 

 医者だった頃なら、そう分析しただろう。

 

 だが、その分析とは別に、胸の奥がぎゅっと痛んだ。

 

 俺自身の感情ではない。少なくとも、雨宮吾郎や星野アクアとしての感情ではなかった。小さな身体の奥に染みついた痛みが、女の声を聞いただけで震えている。期待して、諦めて、また期待しそうになって、それを自分で押し殺すような痛み。

 

 この身体は、この女に傷つけられている。

 

 そう理解した瞬間、気分が悪くなった。

 

「水、飲みたい」

 

 できるだけ子どもらしく言ったつもりだった。今の自分がどういう立場なのか分からない以上、下手なことはできない。幼い子どもが大人びた態度を取れば、不審に思われる。

 

 女は小さくため息をついた。

 

「台所にあるでしょ。自分で飲める?」

 

「……うん」

 

「こぼさないでよ。あと、勝手に外出ないで。面倒だから」

 

 それだけ言って、女は襖を閉めた。

 

 母親として最低か、と聞かれれば、即答はできない。世の中にはもっと露骨に壊れた親もいる。殴られたわけでも、怒鳴られたわけでもない。ただ、そこに愛情がない。子どもは、自分が大切にされていないことを、言葉より先に空気で覚える。

 

 星野アイは、愛を知らなかった。

 

 その言葉が、頭の中に浮かんだ。

 

 俺は立ち尽くしたまま、ゆっくり息を吐いた。嫌な予感が、形を持ち始めていた。女の態度。部屋の空気。身体に残る痛み。聞き覚えのある声。そして、さっきから妙に気になっている、自分の目元の感覚。

 

 確かめる必要がある。

 

 台所へ向かう途中、壁にかかった古いカレンダーが目に入った。年号を見て、俺はさらに息を詰めた。俺が星野アクアとして生きていた時代より、かなり前だ。まだアイが旧B小町として有名になる前。俺たちが生まれるよりも、ずっと前。

 

 足元が冷える。

 

 台所の流し台の上に、プラスチックのコップが伏せられていた。背が足りず、少し爪先立ちになる。蛇口をひねり、水を入れる。手の力が弱くて、コップがわずかに震えた。

 

 水を飲むと、喉が少し落ち着いた。

 

 そこで、テーブルの端に置かれた紙に気づいた。保育園か施設か、何かの手続きに関する書類らしい。子どもの名前を書く欄に、母親の雑な字があった。

 

 星野アイ。

 

 喉が鳴った。

 

 アイ。

 

 その名前だけなら、偶然だと思えた。どこにでもある名前ではないが、絶対にあり得ないほど珍しいわけでもない。けれど、姓まで同じなら話は違う。

 

 星野。

 

 星野アイ。

 

 俺の母。俺の推し。俺とルビーを産み、俺たちの目の前で死んだ女。

 

 紙から目を離せなかった。胸の奥で、別々の記憶がぶつかり合う。雨宮吾郎として、病室のテレビ越しに彼女を見ていた記憶。星野アクアとして、彼女の膝の上で眠った記憶。血に濡れた玄関で、彼女が最後に「愛してる」と言った記憶。

 

 その全部が、今の小さな身体に流れ込んでくる。

 

 俺は、ゆっくりと後ずさった。

 

 違う。まだ決まったわけじゃない。同姓同名かもしれない。年齢も時代も条件が合っているからといって、必ず本人だとは限らない。そんな言い訳をいくつも並べながら、俺は洗面所を探した。

 

 歩くたびに、身体の軽さが気持ち悪かった。足音が小さい。視界が低い。髪が頬に触れる。長い髪。柔らかく、少し癖のある髪だった。指で触れると、ひどく現実味がある。

 

 洗面所の鏡は、少し曇っていた。背が足りない。俺は近くにあった踏み台に乗り、両手を洗面台についた。

 

 顔を上げる。

 

 鏡の中に、幼い少女がいた。

 

 大きな瞳。整った顔立ち。まだ幼さが残っているのに、人の目を奪う輪郭。髪は乱れていて、服もくたびれている。それでも、その少女には、汚れた部屋の中で浮き上がるような妙な華があった。

 

 そして、瞳の奥に星があった。

 

 俺は息を止めた。

 

 見間違えるはずがない。何度も見た。テレビ越しに、ステージの上で。家の中で、母として。死の間際に、血に濡れながら。

 

 星野アイの瞳だった。

 

 鏡の中の少女が、俺と同じように青ざめた顔でこちらを見ている。口元は震えているのに、目だけが妙に強い。そのアンバランスさすら、記憶の中の彼女に似ていた。

 

「……嘘だろ」

 

 声は小さく震えた。

 

 俺は一度、星野アイの子どもとして生まれた。星野アクアとして、彼女に愛され、彼女を失い、彼女の死に人生を縛られた。そして復讐の果てに死んだはずだった。

 

 なのに、今度は俺が星野アイになっている。

 

 推しだった女。母だった女。救えなかった女。俺の人生の始まりで、終わりまで呪いのように残った女。

 

 その全部を背負った顔が、鏡の中で俺を見返している。

 

 吐き気がした。

 

 死んだ後に女の子として生まれ変わったことが問題なのではない。星野アイになったことが問題だった。俺は彼女の人生を知っている。どんなふうに芸能界へ入り、どんな嘘を身につけ、どんな愛を知らないまま母になったのかを知っている。

 

 そして、どんなふうに死ぬのかも。

 

 俺がこの身体で生きるということは、星野アイの運命を奪うことなのか。それとも、星野アイという少女そのものが、最初から俺に上書きされているのか。考えても答えは出ない。だが、身体の奥に残る痛みは確かにある。母親の声に怯え、愛されないことに慣れようとしている少女の傷が、この身体には残っている。

 

 俺は星野アイを救えなかった。

 

 いや、救う対象ですらなくなった。

 

 俺自身が、星野アイになってしまった。

 

 鏡に映る幼い顔が歪む。泣きそうになっているのは俺なのか、この身体なのか分からなかった。けれど涙は出なかった。星野アクアとして何度もそうしてきたように、感情の出口を塞ぐ癖だけは残っている。

 

 まず、状況を整理しろ。

 

 ここはアイが有名になる前の時代。俺は幼い星野アイ。母親との関係はすでに冷えている。おそらく、この先に施設があり、苺プロとの出会いがあり、旧B小町がある。

 

 その先に、神木ヒカルがいる。

 

 その名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥が冷たくなった。アクアとしての記憶が、殺意に近い感情を連れてくる。けれど、まだ早い。今の神木ヒカルは、俺の知る怪物になる前の少年かもしれない。何もしていない可能性がある。

 

 医者だった自分が、まだ罪を犯していない人間を裁けるのか。

 

 アクアだった自分が、母を殺す未来に繋がる男を許せるのか。

 

 答えは出なかった。

 

 その代わり、別の顔が浮かんだ。

 

 天童寺さりな。

 

 病室のベッドで、弱った身体を抱えながら、星野アイの映像を見るたびに笑っていた少女。俺が医者として救えなかった患者。星野ルビーとして生まれ変わり、それでも最後には俺を失った妹。

 

 この時代なら、さりなはまだ生きている。

 

 その事実に気づいた瞬間、心臓が強く鳴った。今の俺には医者としての知識がある。アクアとしての記憶もある。この先に起こるはずだった出来事を、ある程度は覚えている。

 

 救えるかもしれない。

 

 いや、救わなければならない。

 

 けれど、そのために芸能界へ近づくのは危険だ。星野アイとして表舞台に立てば、あの時と同じ流れに引きずられるかもしれない。人の目を集めれば集めるほど、厄介な縁も引き寄せる。アイドルになれば、神木ヒカルへ繋がる道を辿る可能性も高くなる。

 

 だから、避けるべきだ。

 

 芸能界には近づかない。アイドルにはならない。星野アイとしての才能も、魅力も、全部隠して生きる。そうすれば、少なくとも俺が一度見た悲劇のいくつかは避けられる。

 

 鏡の中の少女を睨む。

 

 星の瞳が、こちらを見返していた。幼いのに、妙に人を惹きつける目。泣きそうなのに、笑えばきっと誰かを騙せる顔。嘘を覚える前から、嘘に向いている少女。

 

 俺はその顔に向かって、小さく呟いた。

 

「絶対に、目立たない」

 

 言葉にした瞬間、洗面所の外から母親の声がした。

 

「アイ、いるの? 早くして。出かけるから」

 

 その声に、身体がわずかに跳ねた。俺の意思とは別に、口元が動く。怒らせないように。嫌われないように。面倒だと思われないように。小さな身体に染みついた反応が、勝手に表情を作る。

 

「うん、今行く」

 

 鏡の中の星野アイが、ほんの少しだけ笑っていた。

 

 それは子どもの作り笑いだった。未熟で、ぎこちなくて、痛々しいほど下手な嘘だった。

 

 けれど俺は、その笑い方を知っている。

 

 この嘘が、いつか人を惹きつける笑顔になることを知っている。

 

 俺は洗面台から手を離し、踏み台を降りた。胸の奥では、まだ冷たい恐怖が残っている。それでも足は動いた。二度目の転生。推しの子として生まれ、推し本人として目を覚ました俺に、逃げ道など最初からないのかもしれない。

 

 だからこそ、俺はもう一度心に決めた。

 

 芸能界には近づかない。

 

 アイドルになんて、絶対にならない。

 

 その決意がどれほど脆いものかを、この時の俺はまだ知らなかった。

 

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