アクアとして死んだ俺、今度は星野アイとして嘘をつく   作:推しになっちゃった笑

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愛を知らない少女の身体

 

 目を覚ました瞬間、俺はまず自分の手を見た。

 

 小さい。細い。頼りない。昨日、鏡の中に映っていた幼い星野アイの手だった。夢なら覚めてくれ、という期待はなかった。そんな都合のいい現実を、俺はもう信じていない。

 

 俺は星野アイになっている。

 

 その事実を頭の中で繰り返しても、まだ胸のどこかが拒んでいた。雨宮吾郎として死に、星野アクアとして生き、そしてまた死んだ。その先で目を覚ました身体が、よりにもよって母だった女のものだなんて、どんな悪趣味な冗談だと思う。

 

 布団の中は少し冷えていた。薄い掛け布団では、子どもの身体には足りない。寒さを感じるたびに、体が小さく丸まろうとする。俺の意思とは別に、守られたいと訴えるような反応が出るのが気持ち悪かった。

 

 いや、違う。

 

 気持ち悪いと思っているのは俺で、この身体はただ寒がっているだけだ。子どもの身体として当然の反応を、俺が勝手に異物扱いしているだけなのかもしれない。

 

 襖の向こうで物音がした。

 

 その瞬間、肩が跳ねた。心臓が小さく縮む。誰かが近づいてくる。それだけで、身体が勝手に緊張した。俺はその反応を押さえ込もうとして、失敗する。

 

 母親だ。

 

 昨日の女。星野アイの母。俺にとっては初対面に等しい相手なのに、この身体は彼女の足音を知っていた。怒っている時の歩き方。面倒そうな時の足音。何かを諦めている時の沈黙。

 

 知っているはずのないものを、身体が先に知っている。

 

 襖が開いた。

 

「起きてるなら、さっさと顔洗って」

 

 母は部屋の中を見ずに言った。こちらを見たのは一瞬だけだった。俺が布団の中で身を起こしているのを確認すると、それ以上は何も言わない。

 

「今日は出かけるから。変な格好で来ないでよ」

 

「……どこに?」

 

 聞いた瞬間、母は少しだけ眉を寄せた。子どもが余計なことを聞いた、という顔だった。

 

「大人の用事。あんたは黙ってついてくればいいの」

 

「分かった」

 

 子どもらしい返事を選んだつもりだった。余計な疑問をぶつけるべきではない。今の俺はこの家でどんな扱いを受けているのか、まだ完全には把握できていない。下手に動けば、かえって状況を悪くする。

 

 母は俺の返事に興味を示さず、台所へ戻っていった。

 

 俺はゆっくり布団から出た。畳に足を下ろすと、冷たさが足裏から上がってくる。洗面所に向かい、昨日と同じ踏み台に乗って鏡を見た。

 

 幼い星野アイが、そこにいた。

 

 寝癖で少し髪が跳ねている。目元には眠気が残っている。顔色も良くはない。それでも、鏡の中の少女は妙に目を引いた。何もしていないのに、視線を逸らしにくい顔をしている。

 

「……目立つなよ」

 

 小さく呟く。

 

 鏡の中の少女が、同じ口の動きをした。星の入った瞳が、こちらを見返している。その目が嫌だった。綺麗だからではない。これから人を惹きつける目だと知っているからだ。

 

 顔を洗うと、冷たい水で少しだけ頭が冴えた。台所に行くと、テーブルには食パンが一枚置かれていた。皿はない。焼かれてもいない。ただ袋から出されたパンが、そのまま置かれている。

 

「食べて」

 

 母は立ったまま自分の支度をしていた。化粧道具を雑に広げ、時々こちらを見る。見ているというより、俺が余計なことをしていないか確認しているだけだった。

 

 俺は椅子に座り、食パンを手に取った。小さな手では、一枚のパンすら少し大きい。噛むと、口の中の水分を持っていかれた。台所の隅にあるコップに水を入れたいと思ったが、昨日の母の言葉を思い出す。

 

 こぼさないでよ。

 

 それだけの言葉が、身体を躊躇させた。

 

 俺は自嘲しそうになって、やめた。今の俺は子どもだ。コップ一つ取るにも、失敗すれば叱られるかもしれない。そんな小さな恐怖を積み重ねて、この身体は生きてきたのだろう。

 

「遅い」

 

 母の声で、指先がまた跳ねた。

 

「ごめん」

 

 反射で謝っていた。

 

 俺の言葉ではない気がした。謝れば早く終わる。謝れば声が荒くならない。謝れば、これ以上面倒が増えない。そんな身体の記憶が、俺より先に口を動かした。

 

 母はそれに気づかなかった。ただバッグを肩にかけ、玄関へ向かう。

 

「行くよ」

 

「うん」

 

 俺は残りのパンを無理やり飲み込み、椅子から降りた。

 

 外へ出ると、朝の空気が思ったより冷たかった。母は俺の手を引かない。俺も手を伸ばさなかった。伸ばしたところで、握り返されるとは思えなかったからだ。

 

 道を歩きながら、俺は周囲を観察した。建物の古さ、車の形、看板、通り過ぎる人たちの服装。やはり、俺がアクアとして生きていた時代より前だ。大きなずれはないが、空気が少し違う。

 

 そして、もう一つ分かったことがある。

 

 見られている。

 

 母と並んで歩いているだけなのに、通りすがりの大人が俺をちらりと見る。商店の前で掃除をしていた年配の女が、箒を動かす手を止めた。自転車で通り過ぎた男が、一度だけ振り返った。

 

 俺は何もしていない。

 

 顔を上げてもいない。笑ってもいない。ただ母の後ろを歩いているだけだ。それなのに、視線が引っかかる。子どもが可愛いから見る、という程度ではなかった。何か、目に残るものを見つけた時の反応だった。

 

 背筋が冷えた。

 

 目立たないと決めたばかりなのに、身体そのものが人の目を奪う。星野アイという少女は、何かを始める前からそういう存在だったのかもしれない。

 

「あんまりきょろきょろしないで」

 

 母が振り返らずに言った。

 

「……うん」

 

「愛想振りまかなくていいから。面倒になるでしょ」

 

 愛想なんて振りまいていない。

 

 そう言いかけて、飲み込んだ。言ったところで意味はない。母にとっては、俺が周囲の視線を集めること自体が面倒なのだろう。自分の子どもが褒められることより、その後の対応が煩わしい。そういう種類の疲れ方だった。

 

 しばらく歩いた先に、古い建物があった。役所の出張所か、福祉関係の窓口か。入り口の掲示板には、子育て支援や相談案内の紙が貼られている。

 

 嫌な予感がした。

 

 母は受付で名前を告げた。俺はその隣に立つ。受付の女性がこちらを見た瞬間、少しだけ目を丸くした。

 

「まあ、可愛らしいお嬢さんですね」

 

 母の肩がわずかにこわばった。

 

「そうですか」

 

 返事はそっけなかった。女性は失言に気づいたように、すぐ事務的な顔に戻る。俺は俯いた。褒められて嬉しいと思うより先に、母の機嫌を気にしている自分に気づいて、胸の奥が重くなる。

 

 案内された部屋には、机と椅子がいくつか並んでいた。母は職員らしい女性と向き合って座る。俺は少し離れた椅子に座らされた。子ども用に置かれた絵本が何冊かあったが、手を伸ばす気にはなれなかった。

 

「最近、どうですか」

 

 職員の声は柔らかかった。

 

 母はしばらく黙っていた。指先でバッグの持ち手をいじっている。その仕草には苛立ちよりも疲労が滲んでいた。

 

「無理なんです」

 

 その一言で、身体の奥が固まった。

 

「私一人じゃ、もう無理なんです。仕事もあるし、家のこともあるし、この子のことまでずっと見るなんて……」

 

 職員は静かに頷いた。

 

「一時的な保護や、施設での生活を含めて考えることはできます。すぐに決める必要はありません。ただ、お母さんが限界を感じているなら、早めに相談していただくのは大事です」

 

「捨てたいわけじゃないんです」

 

 母の声が、少しだけ尖った。

 

「でも、どうしたらいいか分からないんです。私だって、ちゃんとしなきゃって思ってます。でも、この子を見ると……」

 

 そこで言葉が途切れた。

 

 俺は顔を上げられなかった。

 

 大人の事情としては、理解できる。母にも人生がある。支えがなく、余裕がなく、子どもを育てる力が尽きかけているのだろう。医者だった頃の俺なら、彼女を一方的には責めなかったかもしれない。

 

 けれど、それを子どもの前で言うな。

 

 そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。

 

 いや、違う。俺が怒っているのか、この身体が泣きたがっているのか、分からなかった。母の「無理」という言葉に、幼い星野アイの身体が反応している。自分は無理な存在なのだと、邪魔なのだと、愛される前に理解してしまう痛みが胸を締めつける。

 

 俺は膝の上で拳を握った。

 

 泣くな。

 

 そう命じても、目の奥が熱い。子どもの身体は、感情の制御が下手だった。アクアとして散々押し殺してきたものが、今は細い喉と小さな胸を通って溢れそうになる。

 

 職員がこちらを見た。

 

「アイちゃん、少し待っていてね。大丈夫?」

 

 大丈夫なわけがない。

 

 だが、そう言える子どもなら、きっと星野アイにはならなかった。

 

 俺は顔を上げた。職員と目が合う。母もこちらを見る。面倒をかけるな。そう言われたわけではないのに、身体が勝手にそう受け取っていた。

 

 口元が動く。

 

「大丈夫」

 

 声は思ったより明るかった。

 

「ちゃんとするから」

 

 言った瞬間、空気が少し緩んだ。

 

 職員の表情が痛ましげに揺れる。母は一瞬だけ目を逸らした。責められるよりも、泣かれるよりも、笑って大丈夫と言われる方が都合が良かったのかもしれない。

 

 俺は自分の頬が笑っていることに気づいて、背筋が寒くなった。

 

 嘘だ。

 

 大丈夫なんかじゃない。ちゃんとする、という言葉の意味も分かっていない。子どもが親に向かって言うには重すぎる。けれど、その嘘は確かに機能した。職員も母も、少しだけ安心した顔をした。

 

 星野アイは、こうやって嘘を覚えたのか。

 

 愛されるために。捨てられないために。面倒だと思われないために。自分が傷ついていないふりをすることで、大人たちの顔色を整える。

 

 吐き気がした。

 

 俺は嘘を武器として使ってきた。アクアとして、人を遠ざけるために。利用するために。復讐のために。けれど、この身体の嘘はもっと幼い。誰かを騙すためではなく、自分がこれ以上壊れないための嘘だった。

 

 相談はそれからもしばらく続いた。俺は内容を聞き取っていたが、頭にはあまり入ってこなかった。施設、一時保護、親族、生活環境。言葉の一つ一つが、俺をどこかへ移すための選択肢として並べられていく。

 

 母は最後まで決断しなかった。

 

 それでも、遠くないうちに何かが変わるのは分かった。帰り際、職員は母に書類を渡した。母はそれをバッグに押し込み、俺には何も言わなかった。

 

 建物を出ると、昼に近い光が目に刺さった。

 

 母は無言で歩き出した。俺もその後を追う。手は繋がない。さっきの相談がなかったみたいに、母はいつもの顔に戻っていた。ただ、時々こちらを見ようとして、やめる。その仕草だけが、少しだけ彼女の迷いを見せていた。

 

 道の途中、小さな電器店の前を通った。

 

 店頭のテレビに、若いアイドルたちが映っていた。明るい衣装を着て、笑顔で歌っている。まだ画質の粗い画面の中で、彼女たちは眩しいくらいに笑っていた。

 

 俺は足を止めかけた。

 

 止めるつもりはなかった。むしろ見ないようにするべきだった。それなのに、身体がほんの一瞬だけ反応した。画面の中の光に、目が引き寄せられる。音楽に合わせて揺れる衣装。歓声。嘘みたいに明るい笑顔。

 

 星野アイの身体が、そこに何かを見つけている。

 

「アイ?」

 

 母の声で我に返った。

 

「何してるの」

 

「……何でもない」

 

 俺は視線を逸らし、母の後を追った。テレビの中の歌声が背中に残る。見たくないのに、耳が拾ってしまう。知っている。俺はその世界の行き着く先を知っている。

 

 笑顔の裏に、どれだけの嘘が積み上がるのかも。

 

 だから近づくべきではない。

 

 そう思った時、電器店の店主らしき男がぽつりと言った。

 

「あの子、映える顔してるな」

 

 聞こえないふりをした。

 

 母も聞こえなかったふりをした。

 

 けれど、その言葉は俺の中に嫌な形で残った。何もしていない。歌ってもいない。笑ってもいない。ただ通り過ぎただけで、人は星野アイを見る。

 

 俺は拳を握った。

 

 目立たない。芸能界には近づかない。アイドルにはならない。昨日決めたことを、もう一度心の中で繰り返す。

 

 けれど、その決意とは別に、この身体は人の視線を集めていた。

 

 愛されるために嘘を覚えようとしている身体。

 

 見つけられるために生まれてきたような顔。

 

 星野アイという少女が、どれほど逃げても星野アイになってしまう理由を、俺は少しだけ理解し始めていた。

 

 それから数日、母はいつもより黙る時間が増えた。

 

 食パンはさらに薄くなり、夕飯の品数も減った。俺に何かを言う回数も、逆に少なくなった。怒鳴られないのは楽なはずなのに、家の空気は前より重い。何かが切れる寸前の糸みたいに、台所にも、畳の部屋にも、母の背中にも張りついていた。

 

 俺は何度か口を開きかけて、やめた。

 

 大丈夫かと聞いたところで、子どもの言葉だ。今の俺に稼ぐ手段はない。医療知識も、未来の記憶も、この狭い部屋で今日の食費を増やすことには役立たない。

 

 そして、その日が来た。

 

 母は俺を連れて、いつもより少し遠い店へ向かった。大きな店ではない。生活用品と食料品が雑多に並んだ、どこにでもある店だった。母はかごを持たず、ただ棚の間を歩いていく。

 

 俺はその後ろ姿を見ていた。

 

 足取りがいつもより遅い。目線が落ち着かない。必要なものを探している人間の動きではない。逃げ道を探している人間の動きだった。

 

 棚の前で、母の手が止まった。

 

 それはほんの一瞬だった。けれど俺には、妙に長く見えた。

 

 値札のついた小さな品物。母の指先。バッグの口。周囲に店員がいないことを確認するような、わずかな視線の動き。

 

 俺は息を止めた。

 

 やめろ。

 

 声には出せなかった。

 

 子どもの身体は固まったまま動かない。大人だった頭だけが、これから何が起こるのかを理解していた。

 

 母の手が、ゆっくりと棚へ伸びる。

 

 俺はその瞬間、星野アイという少女の日常が、もう元には戻らないことを知った。

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