アクアとして死んだ俺、今度は星野アイとして嘘をつく   作:推しになっちゃった笑

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母の手を止めた日

 

 

 

 

 母の手が、棚の商品へ伸びた。

 

 それは、ほんの小さな動きだった。必要なものを取る動きに見えなくもない。けれど、俺には分かった。母の視線は商品ではなく、周囲の人間を見ていた。店員の位置、他の客の背中、棚の影。買う人間の目ではない。

 

 やめろ。

 

 そう思った瞬間、身体は動いていた。

 

 俺は母の袖を掴んだ。小さな手では、止めるというより縋るような形にしかならない。それでも、今動かなければ駄目だと分かっていた。雨宮吾郎としても、星野アクアとしても、目の前で誰かが壊れるのをただ見ているだけなんて、できるはずがなかった。

 

「……なに」

 

 母が振り返った。目に浮かんだのは、苛立ちと怯えだった。自分の行動を邪魔された怒りだけではない。見られた、という恐怖がそこにあった。

 

 俺は母の手元を見た。まだ商品は棚にある。間に合った。そう判断して、喉の奥から声を押し出す。

 

「それ、だめ」

 

 母の顔が強張った。

 

 店内の空気が、やけに遠く感じられた。レジの機械音。客の足音。陳列棚の蛍光灯が小さく鳴る音。全部がはっきり聞こえるのに、目の前の母だけが、切り取られたみたいに見えていた。

 

「何言ってるの」

 

 母は笑おうとした。

 

 下手な笑いだった。俺が鏡の前で作った、あのぎこちない笑顔よりもずっと下手だった。母は俺の袖を振り払わず、ただ指先を引っ込めた。それから何事もなかったように、隣の棚へ目を向ける。

 

「変なこと言わないで。行くよ」

 

 その声は低かった。

 

 俺は頷いた。ここで言い返すべきではない。店の中で母を追い詰めれば、かえって状況が悪くなる。窃盗は止めた。今はそれでいい。そう判断するしかなかった。

 

 だが、母の背中は明らかに揺れていた。

 

 何かが終わった音がした気がした。

 

 店員が近くを通った。俺と母を一瞬だけ見る。母はその視線に気づいていないふりをした。俺も何も言わなかった。ここで騒げば、母は本当に戻れなくなるかもしれない。犯罪を止めたいという理性と、母を壊したくないという子どもの身体の恐怖が、胸の中で絡まった。

 

 俺は母について店を出た。

 

 買ったものは少なかった。安い食パンと、見切り品の惣菜が一つ。母は袋を持ち、早足で歩いた。俺は小さな足でついていく。手は繋がれない。繋ぎたいとも思わない。けれど、母がこのままどこかへ行ってしまうのではないかという不安が、足元にまとわりついた。

 

 家までの道で、母は一度も俺を見なかった。

 

 それなのに、周囲の視線だけは変わらず刺さった。通りすがりの大人が、俺の顔を見る。子どもがこちらを指差しかけて、親に止められる。俺は俯いた。目立ちたくない。見られたくない。そう思えば思うほど、星野アイの身体は人の目を引き寄せる。

 

 母の肩が、わずかに震えた。

 

 怒っているのか、泣きそうなのか分からなかった。

 

 家に着くと、母は乱暴に買い物袋を台所へ置いた。薄い惣菜のパックが傾き、中の汁が少し漏れる。母はそれを見ても拭かなかった。ただ、流し台に手をつき、背中を丸める。

 

 俺は玄関の近くに立ったまま、動けなかった。

 

「……見てたの」

 

 母が言った。

 

 声は小さい。けれど、その小ささがかえって怖かった。

 

「何を?」

 

 子どもらしい逃げ方を選んだ。けれど、母は笑わなかった。

 

「分かってるくせに」

 

 その言葉に、俺は黙るしかなかった。

 

 分かっている。母が何をしようとしていたかも、なぜあの手を伸ばしたのかも、完全ではないにせよ理解している。生活は限界に近い。母の心も同じだ。仕事、金、育児、孤独。そこに、星野アイという異様に人の目を引く子どもがいる。

 

 母は悪魔ではない。

 

 けれど、壊れかけている。

 

「怒らないの」

 

 俺がそう言うと、母はようやく振り返った。目の下に濃い影があった。化粧で隠しきれない疲れが、顔全体に浮いている。

 

「怒ってほしいの?」

 

「……違う」

 

「じゃあ何。いい子のつもり? 私を止めて、偉かったって褒めてほしい?」

 

 棘のある声だった。

 

 胸が痛む。俺自身が傷ついたのか、この身体が傷ついたのか分からない。おそらく両方だった。俺は母を責めたかったわけではない。犯罪を止めたかっただけだ。けれど、母にとってそれは、自分の惨めさを娘に見られたことと同じだったのだろう。

 

「捕まったら、困ると思った」

 

 言ってから、子どもの言葉ではないと気づいた。

 

 母の目が細くなる。

 

「……あんた、時々気持ち悪い」

 

 その一言は、思ったより深く刺さった。

 

 知っている。自分でもそう思う。幼い子どもの身体に、大人の思考が入っている。今の俺はどう見ても不自然だ。だから普段はできるだけ子どもらしく振る舞っている。それでも、こういう瞬間に中身が漏れる。

 

 母は俺の中身を知らない。

 

 知らないからこそ、目の前の娘が得体の知れないものに見えるのかもしれない。

 

「子どもなら、子どもらしくしてなさいよ」

 

 母は笑った。自分でもひどいことを言っていると分かっている顔だった。

 

「なのに、あんたはいつもそう。何でも分かってるみたいな顔して。黙ってるくせに、私のこと見てる。責めてるみたいに」

 

「責めてない」

 

「嘘」

 

 母の声が震えた。

 

「みんな、あんたを見るのよ。道でも、店でも、どこでも。可愛いねって。綺麗な子ねって。私には何も言わないくせに。私がどれだけ疲れてても、どれだけ必死でも、誰も見ない。あんただけ見る」

 

 言葉が止まらなくなっていた。

 

 俺は何も言えなかった。

 

「最初はね、少しは嬉しかったのよ。自分の子が可愛いって言われるのは、悪い気はしなかった。でも、だんだん嫌になった。男も、女も、店の人も、近所の人も、みんなあんたを見る。私じゃなくて、あんたを見る」

 

 母の目が、俺の顔に向いた。

 

「その目が嫌い」

 

 星の瞳。

 

 俺が昨日からずっと嫌だと思っていたものを、母も嫌っていた。綺麗だからではない。人を惹きつけるからだ。自分の意思と関係なく、周囲の視線を奪うからだ。

 

「あんたは何もしてない顔で、全部持っていく」

 

 母はそう言って、すぐに口を閉じた。

 

 言いすぎたと思ったのかもしれない。けれど、一度出た言葉は戻らない。俺は母の言葉を聞きながら、星野アイという少女がなぜ愛を知らなかったのかを、少しだけ理解した。

 

 アイはただ、愛されなかったわけではない。

 

 見られていた。

 

 見られすぎていた。

 

 そして母は、その視線に耐えられなかった。

 

「……ごめん」

 

 気づいたら、俺は謝っていた。

 

 何に対して謝っているのか分からない。母を追い詰めたことか。生まれてきたことか。見られる顔をしていることか。窃盗を止めたことか。全部違うはずなのに、身体は謝罪を選んだ。

 

 母が息を呑む。

 

「そういうの、やめて」

 

 怒鳴るでもなく、泣くでもなく、母は言った。

 

「そういう顔しないでよ。私が悪いみたいじゃない」

 

 悪い。

 

 そう言えるほど、俺は子どもではなかった。だが、悪くないとも言えなかった。母が壊れかけていることは分かる。分かるからといって、幼い娘にぶつけていい理由にはならない。

 

 俺は、星野アイの母を許せない。

 

 それでも、目の前の女を完全に憎むこともできなかった。

 

 母は台所の床にしゃがみ込んだ。力が抜けたように、壁に背を預ける。買ってきた食パンの袋が、流し台の上で潰れていた。俺はそれを見て、夕飯を作るべきか考えた。

 

 子どもの身体で、どこまでできる。

 

 そんなことを考える自分が嫌だった。

 

「お腹、空いてる?」

 

 母がぽつりと聞いた。

 

 俺は一瞬、答えに迷った。空腹はある。けれど、ここで空いていると言えば、母がまた苦しそうな顔をする気がした。

 

「少し」

 

 嘘はつかなかった。

 

 母はしばらく黙ったあと、立ち上がった。惣菜のパックを開け、食パンと一緒に皿へ置く。皿は欠けていた。母は箸を出しかけて、俺には小さなフォークを渡す。

 

「食べなさい」

 

「お母さんは?」

 

「いらない」

 

 嘘だ。

 

 そう思ったが、言わなかった。

 

 食卓は静かだった。俺が食べる音だけが聞こえる。母は向かいに座り、ぼんやりと窓の外を見ていた。怒りが消えたわけではない。けれど、燃える力もなくなったようだった。

 

 俺は口の中のパンを飲み込みながら、考える。

 

 窃盗は止めた。少なくとも今日、母が捕まることはなかった。けれど、それで何が変わった。金はない。母の孤独は消えない。俺への感情も、家の空気も、何一つ良くなっていない。

 

 破滅の形が少し変わっただけだ。

 

 夜になっても、母はほとんど話さなかった。

 

 風呂はなかった。顔と手足だけを洗い、布団に入る。母は台所の明かりを消さず、しばらく座っていた。俺は襖の隙間から、その背中を見ていた。

 

 細い背中だった。

 

 俺が知っている星野アイの背中とは違う。舞台で光を浴びる背中ではない。誰にも見られず、誰にも褒められず、ただ生活に削られていく背中だった。

 

 それでも、あの人は俺の母ではない。

 

 いや、星野アイの母ではある。

 

 俺にとっては、母だった人の母だ。そんな奇妙な関係を、どう扱えばいいのか分からなかった。怒りも、同情も、嫌悪も、哀れみも、全部が中途半端に絡み合う。

 

 やがて、母が立ち上がった。

 

 俺は目を閉じる。寝たふりをした。

 

 足音が近づいてくる。襖の前で止まった。しばらく沈黙が落ちる。母がこちらを見ているのが分かった。視線を感じる。けれど、その視線は店や道端で向けられるものとは違った。

 

 怖がっている。

 

 母は、俺を見ることを怖がっている。

 

「……アイ」

 

 小さな声だった。

 

 俺は返事をしなかった。寝ているふりを続ける。

 

「ちょっと、出てくるから」

 

 胸の奥が冷えた。

 

 身体が動きかける。起き上がれ。止めろ。今度こそ、本当に止めろ。頭の中で声がする。けれど、俺は動けなかった。いや、動かなかった。

 

 ここで起き上がって母を止めたら、何が変わる。

 

 彼女の金が増えるのか。孤独が消えるのか。俺への恐怖や嫉妬がなくなるのか。違う。俺が母を家に縛りつけても、この家の中でまた何かが腐っていくだけだ。

 

 それでも、子どもの身体は母を引き止めたがっていた。

 

 行かないで。

 

 その言葉が喉まで上がってきて、俺は奥歯を噛みしめる。

 

 母は襖の前に立ったまま、しばらく動かなかった。俺が寝ていると思ったのだろう。やがて、足音が遠ざかる。玄関で靴を履く音がした。

 

 扉が開く。

 

 冷たい外気が、部屋の奥まで流れ込んだ気がした。

 

「すぐ戻るから」

 

 母はそう言った。

 

 それが俺に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのかは分からなかった。

 

 扉が閉まる。

 

 静けさが戻った。

 

 俺は目を開けた。薄暗い天井を見上げる。さっき止めたはずの母の手が、まだ目に焼きついている。商品へ伸びる指。止まった指。震えた肩。俺を責めるような、縋るような、壊れかけた目。

 

 窃盗は止めた。

 

 でも、母は止まらなかった。

 

 俺は布団の中で小さな手を握った。大人の頭は分かっている。母はすぐには戻らないかもしれない。戻ってきても、この家はもう限界だ。誰かに助けを求めるべきだ。明日になったら、何らかの手を打つべきだ。

 

 分かっている。

 

 それなのに、この身体は玄関の方へ耳を澄ませていた。

 

 母の足音を、待っていた。

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