アクアとして死んだ俺、今度は星野アイとして嘘をつく 作:推しになっちゃった笑
母の足音を、待っていた。
待つ必要なんてない。大人の頭では、そう分かっていた。あの背中は戻るためのものではなかった。逃げるための背中だった。けれど、子どもの身体はそんな理屈を理解しない。
玄関の向こうで足音がすれば、母が帰ってくる。鍵が回れば、いつものように不機嫌な声が聞こえる。そう思いたがっている身体が、布団の中で小さく丸まっていた。
俺は目を閉じたまま、耳を澄ませる。
台所の明かりはついたままだった。母が消さずに出ていったからだ。襖の隙間から細い光が差し込み、畳の上に薄い線を作っている。その光があるせいで、部屋は完全な夜になりきれなかった。
冷めた惣菜の匂いが、まだ少し残っていた。
母は「すぐ戻る」と言った。
その言葉が嘘だと、俺はほとんど分かっている。分かっているのに、完全には捨てきれない。星野アイの身体に残っている幼い期待が、何度も玄関へ意識を向けさせる。
雨宮吾郎だった頃なら、こういう家庭をいくつか見たことがある。救急で運ばれてくる子ども。診察室で妙に大人しくしている親子。傷の理由を聞いても、親の顔色ばかり見て答えない子ども。
あの時の俺は、医者として観察していた。
けれど今は違う。観察される側でも、保護する側でもない。薄い布団の中で、帰らない母親の足音を待っている子どもだった。
俺はゆっくり起き上がった。
部屋は静かだ。静かすぎる。母がいる時も決して温かい家ではなかったが、それでも人の気配はあった。今はその気配すら抜け落ちている。
台所へ向かう。踏み台を使って流し台を確認し、蛇口をひねった。水を飲む。手が小さいせいで、コップを持つだけでも少し気を使う。こぼしたら怒られる、という反射がまだ身体に残っていた。
怒る人間は、今ここにいないのに。
俺は流し台にコップを置き、玄関を見た。鍵は閉まっている。母が外から鍵をかけたわけではない。出ていく時に俺が寝ていると思い、いつもの癖で閉めただけだろう。
外に出ることはできる。
けれど、夜の街に幼い子どもが一人で出るのは危険すぎる。誰かに助けを求めるべきだとは分かっているが、今すぐ近所の家を叩くのも危うい。母のことをどう説明するのか。母が戻ってきた時、俺が大人に話したと知ったらどうなるのか。
考えている時点で、俺はまだ母の機嫌を気にしている。
それに気づいて、胸の奥が冷えた。
「……馬鹿か、俺は」
小さく呟いても、返事はない。
玄関の向こうで、車の音がした。反射的に身体が跳ねる。足音ではない。車はそのまま通り過ぎていった。俺はしばらく玄関を見つめ、何も起きないと分かってから部屋へ戻った。
布団に入っても、眠気は来なかった。
時間だけが過ぎていく。壁の時計の針が、夜を細かく切っていく。母が戻らない時間が積み重なるたびに、頭の中では結論が固まっていった。
これは、ただの外出ではない。
少なくとも、子どもを一人置いて出ていっていい時間はとっくに過ぎている。戻るつもりがあるなら、もう戻っている。戻れない事情があるのか、戻る気がなくなったのかは分からない。
それでも、この家に残された俺は放置された子どもだ。
そう判断した瞬間、喉の奥がきつくなった。
アクアとしての俺なら、その事実を淡々と受け入れただろう。必要な行動を考え、証拠を整理し、誰に連絡すべきかを決める。感情は後回しにできた。
でも、今の身体は違う。
母に置いていかれた。
その単純な事実が、理屈より先に胸を締めつける。ひどい母親だと分かっている。あの家にいたままでは、俺も母ももっと壊れていくと分かっている。それでも、子どもの身体は母を探してしまう。
夜が明ける少し前、俺はようやく浅く眠った。
夢は見なかった。
目を開けると、部屋の光が変わっていた。襖の隙間から入る明かりが白い。朝だ。俺は跳ね起きるようにして玄関を見た。
靴は、増えていなかった。
母の靴はない。昨日履いて出ていったものが、そのまま消えている。台所にも、洗面所にも、母の気配はなかった。化粧道具の一部がなくなっている。財布も、普段持ち歩いていた小さなポーチもない。
短い外出ではない。
俺はその場に立ち尽くした。
分かっていた。頭では分かっていた。けれど、朝になっても帰っていない現実を見せつけられると、胸の中に残っていた最後の期待が折れる音がした。
いや、折れたのは俺の期待ではない。
星野アイの身体が、母を待つことを諦めかけている。
台所に戻ると、食パンの袋があった。昨日買ったばかりなのに、もうあまり残っていない。俺は一枚取り出して、そのままかじった。味はしなかった。水で流し込む。
何か行動しなければならない。
まず近所に助けを求める。昨日、福祉の相談窓口にも行っている。職員は母の状況をある程度知っているはずだ。俺が一人でいると分かれば、介入は早い。安全を考えれば、それが最適だ。
だが、玄関の前に立つと、身体が動かなかった。
外に出たら、母が帰ってきた時にすれ違うかもしれない。
そんな馬鹿げた考えが浮かぶ。
俺は歯を食いしばった。分かっている。母はすぐ戻らない。仮に戻ってきたとしても、この状況を放置していい理由にはならない。今の俺は子どもだ。大人に助けを求めるべきだ。
それでも、玄関の前から動けなかった。
その時、外から声がした。
「……アイちゃん?」
近所の女の声だった。たぶん、昨日か一昨日に道で見かけた人だ。母とよく話していたわけではないが、俺たちの家の様子を多少は気にしていたのだろう。
俺は息を止めた。
「いるの? お母さんは?」
扉の向こうで、ためらうような間があった。それから、軽く扉を叩く音がする。
ここで黙っている選択肢もあった。けれど、それは最悪だ。異変を感じた大人がいるなら、利用するべきだ。そう判断する頭と、母を裏切っているような感覚が同時に湧く。
俺は扉に近づき、鍵を開けた。
扉を少しだけ開くと、年配の女性が立っていた。手には小さな袋を持っている。俺の顔を見ると、女性は一瞬だけ目を見開いた。驚きと、心配と、見惚れたような反応が混じった顔だった。
まただ。
こんな時ですら、星野アイの顔は人の意識を引っかける。
「アイちゃん、一人?」
「……お母さん、出かけてる」
「いつから?」
答えるまで、少し間が空いた。
「昨日の夜」
女性の顔色が変わった。
「昨日の夜から? ご飯は?」
「大丈夫」
反射でそう言っていた。
女性は眉を寄せる。俺の手元を見る。昨日からきちんと眠れていない顔。乱れた髪。薄い服。食事をした形跡のない台所。大人なら、十分すぎるほど状況を察せる。
「大丈夫じゃないでしょ」
その言葉で、喉が詰まった。
大丈夫ではない。そんなことは分かっている。けれど、大丈夫と言えば今までは少しだけ場が収まった。母も職員も、俺が笑ってそう言えば、少しだけ安心した顔をした。
なのに、この人には通じなかった。
「中、入ってもいい?」
俺は少し迷ってから、頷いた。
女性は家の中を見て、さらに表情を曇らせた。散らかった部屋、台所の明かり、減った食料。彼女は何かを言いかけて、飲み込む。俺を怖がらせないようにしているのが分かった。
「お母さん、どこに行ったか分かる?」
「分からない」
「連絡先は?」
「……分からない」
答えながら、情けなさが込み上げる。大人の記憶があるのに、今の俺は母の行き先一つ知らない。財布の中身も、勤務先も、頼れる親戚も、はっきりとは分からない。子どもの立場では、知れる情報に限界がある。
女性はしばらく考えたあと、玄関の方へ戻った。
「ちょっと待ってて。すぐ人を呼ぶから。怖いことはしないからね」
「……うん」
すぐ人を呼ぶ。
その言葉を聞いた瞬間、心臓が小さく鳴った。これで外部の大人が来る。母の不在が記録される。俺はこの家にいられなくなるかもしれない。
それが安全だ。
分かっている。
けれど、家を離れたら、母が戻ってきた時に俺はいない。母が俺を探すかもしれない。探さないかもしれない。どちらの想像も、胸を嫌な形で締めつけた。
女性はしばらくして戻ってきた。今度は別の大人も一緒だった。役所か福祉関係の職員らしい女性。昨日の相談窓口で会った人とは違うが、どこか同じ種類の柔らかさを持っている。
「アイちゃん、こんにちは」
職員はしゃがんで目線を合わせた。
「昨日、お母さんとお話したところから連絡を受けて来ました。少しだけ、お話してもいいかな」
俺は頷いた。
昨日ではない。数日前だ。そう訂正しようとして、やめた。今は細かいことを言う場面ではない。
職員は家の中を確認し、近所の女性から話を聞いた。母が夜に出ていったこと。朝になっても戻っていないこと。俺が一人でいたこと。食事や生活の状態が悪いこと。
全部、淡々と事実として積まれていく。
俺はその場に座り、膝の上で手を握った。
「お母さんから、何か言われた?」
職員に聞かれた。
頭の中では、答えるべき内容が分かっていた。夜に出ていった。戻っていない。行き先は知らない。これだけを言えばいい。余計な感情を混ぜる必要はない。
けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「すぐ戻るって言った」
職員の表情が、はっきり変わった。
俺は自分の声が思ったより幼かったことに気づく。冷静に説明するつもりだった。なのに、その一言だけは、星野アイの身体が選んだように出てきた。
母はすぐ戻ると言った。
だから、待っていた。
それだけのことなのに、言葉にすると胸の奥がひどく痛んだ。
「そっか」
職員はゆっくり頷いた。
「待ってたんだね」
その言い方が優しすぎて、俺は目を逸らした。
待っていない。俺は分かっていた。母が戻らない可能性を考えていた。家の状況を確認して、近所に助けを求めるべきだと判断していた。だから、ただ待っていた子どもではない。
そう言い返したかった。
でも、言えなかった。
この身体は確かに待っていた。玄関の音を。母の靴音を。不機嫌でもいいから帰ってきてくれることを。
職員はしばらく俺を見てから、静かに言った。
「アイちゃん、少しだけ別の場所で待とうか」
「別の場所?」
「うん。ここで一人で待つのは危ないから。安全なところで、お母さんのことも確認しよう」
言葉は柔らかい。けれど意味は分かった。
一時保護。
もしくは、それに近い場所。俺はこの家から離される。母が戻ってくるかどうかを待つ場所は、ここではなくなる。
頭では、それが正しいと分かっていた。むしろ遅いくらいだ。幼い子どもが夜から朝まで一人で放置されている時点で、保護されるべき状態だった。
それでも、身体は玄関を見た。
母が帰ってくるなら、あの扉からだ。鍵を開ける音がして、靴を脱ぐ音がして、面倒そうに「あんた、何してるの」と言う。そんなありもしない未来を、身体がまだ探している。
「……お母さんが戻ってきたら」
声が勝手に出た。
職員は少しだけ目を細めた。
「戻ってきたら、ちゃんと分かるようにするよ。アイちゃんが安全なところにいるって、伝えられるようにする」
それは答えになっているようで、なっていなかった。
母が俺を探す前提の言葉だった。探さなかった場合の答えではない。けれど、職員はそこまで言わなかった。俺も聞かなかった。
近所の女性が、小さな袋を差し出した。
「これ、少しだけど。寒いから、羽織るものも持っていきなさいね」
袋の中には小さな菓子と、薄いタオルが入っていた。優しさなのだろう。俺はそれを受け取り、礼を言う。
「ありがとう」
自然に笑っていた。
女性が一瞬、息を呑んだ。
その反応で、俺は自分がどんな顔をしたのか分かった。疲れて、眠れていなくて、母に置いていかれた子どもが、それでも相手を安心させるために笑う顔。
星野アイの嘘の笑顔は、こうして少しずつ形になる。
俺はそのことに気づいて、笑みを消した。
職員に促され、最低限の荷物をまとめることになった。
荷物と呼べるものは少なかった。替えの服が数枚。使い古したヘアゴム。名前の書かれた書類。絵本も、ぬいぐるみも、写真もほとんどない。持っていきたいものを選ぶほど、星野アイには何も与えられていなかった。
小さな鞄に詰めても、まだ隙間が残った。
その軽さが、胸に重かった。
玄関に立つ。
俺は一度だけ、家の中を振り返った。薄い布団。黄ばんだ天井。台所の明かり。昨日まで母がいた場所。温かくはなかった。安全でもなかった。愛されていたとも言えない。
それでも、ここは星野アイが母を待っていた家だった。
扉の外へ出ると、朝の光が眩しかった。職員が隣に立ち、ゆっくり歩き出す。近所の女性が心配そうに見送っている。
俺は歩きながら、何度も背後の音を聞いた。
母の足音はしなかった。
分かっている。
もう分かっている。
それでも俺は、母のいない家を出た。母を待つ身体だけを連れて。