美玖の一日の始まりは、人形への挨拶から始まる。
きっちりとしたスーツのような服を着た、男の子の人形。
まだまだ眠い目を必死に開けて、目の前の人形に「おはよ~」と声をかけた。
その人形は、美玖が一番大好きな子と遊ぶ時にいつも使っている人形だった。
抱きしめて匂いを嗅ぐと、あの優しくて安心する彼の匂いがする気がして、彼といない時はこの人形を彼だと思って抱きしめている。
そしてまた安心して、一度は起きたのにまた夢の中に落ちていく。
その数十分後に母に起こされるまで、幸せな夢を見ているような、安心した顔で眠り続けた。
顔を洗い、ご飯を食べ、出発の準備をすると、母と共に幼稚園へ向かう。
幼稚園に近づけば近づくほど、周りの警備も厳重になる。
なぜなら、美玖の通う幼稚園は著名人達の子供達が通う幼稚園で、もし何かがあったら大問題だからだ。
同じく通う女の子達も有名な家や良家の子達が多く、ただの一般の家庭で生まれた子はほとんどいなかった。
そんな美玖がなぜこの幼稚園に通っているのかというと、賢い頭脳、周りを見る洞察力、そしてその可愛さを評価されたからだ。
この幼稚園は、将来の結婚相手を見繕う場所としても有名である。
有名な家同士で繋がりを作ると言う目的もあるし、美玖のように可愛い子と結婚させたいという親の希望もある。
そんなこの場所でとても注目されている存在ということを、本人は知らない。
「……ゆうとくん、なにしてるのかな~」
そんな事は露知らず。
美玖の頭の中はいつも一人の少年の事でいっぱいである。
小林優斗。
生まれた頃からの幼馴染で、美玖が一番大好きな人。
小さな頃から同い年とは思えないほど賢い優斗から可愛がられ、そして同じ目線で成長してきた美玖にとって、優斗という存在は劇薬だった。
彼の隣にいるのは当たり前。
一緒に遊ぶのも当たり前。
ひしっとくっ付いても、嫌がるどころか頭を撫でて可愛がってくれる同世代の男の子。
そんな子を嫌いになる訳もなく、幼稚園が終わった時の事ばかり考えていた。
幼稚園では文字の練習や軽い運動など、既に教育が始まっていた。
そのおかげで美玖はどんどんと成長している。
読み書きは問題ないし、考えて行動する事を知っている。
その事を教えてくれたのもまた優斗ではあるのだが。
幼稚園で休みの時間、美玖は様々な子から話かけられる。
優斗と一緒にいる時はよく笑いよく甘える子の美玖だが、それ以外の場ではあまり笑ったり楽しそうにはしていない。
日頃の美玖を知っている優斗が見たらとても驚く事だろう。
誰かに話しかけられたとしても、知らない人にはまったく興味がなかった。
それよりも優斗の人形で遊びたい、という気持ちの方が大きく、近づいてきた子には適当な返事を返すだけだった。
そんなある日、一人マイペースに人形で遊んでいた時。
それは起きた。
一人の男の子が美玖に近づき、人形を取り上げたのだ。
それは彼なりのアプローチだったのだろう。
男の子とはいえまだ三歳児だ。
恋愛感情はないとしても、気になる程度の子は出来る時期で、彼も美玖と話したかった。
「へんなにんぎょう!」
「!! かえしてよ~!」
人形と取り返そうとする美玖と、男子との取っ組み合いはすぐに止められた。
先生達が駆けつけてきて、二人を落ち着かせようと話しかけた。
「どうしたの? 何があったのかな?」
「あいつがっ、あいつがぁ!!!」
男の子は美玖を指さした。
涙を流し、必死に悪いのはアイツだと訴えた。
美玖は人形を胸に抱えながら涙を流した。
人形を抱きしめ、匂いを嗅ぐ。
彼が「大丈夫」って言ってくれている気がして、少し落ち着いた。
「美玖ちゃん、男の子に乱暴しちゃダメでしょ」
「……わたし、らんぼうしてないもん~。おにんぎょうとられたから、かえしてっていっただけ~」
「それでもね、泣いちゃってるでしょ? 女の子なんだから、男の子には優しく、ね?」
不満げな顔を見せ、美玖は先生達と男の子を無視して歩き出した。
なんであんないじわるするんだろう。
ゆうとくんなら、やさしくあそんでくれるのに。
わたしだって、かなしかったのに。
なんでみんなおとこのこのみかたばかりするの?
色々な思いが、幼い彼女の中に渦巻く。
大好きだったお人形遊びの時間がなくなり、その日はずっともやもやとした気分で過ごした。
「ゆうとくーーーーーーーん!!!!!」
「ぐえっ」
休日が美玖にとってとても楽しみな日だった。
なぜなら、彼とずっと一緒にいられるから。
抱きしめて好きだと伝えると、優しく抱きしめ返してくれる。
彼の肩に顔を置いて、首元の匂いを嗅ぐ。
優しくて安心するいつもの匂い。
そうしているだけで幼稚園の疲れが全部なくなったみたいだった。
「ゆうとくんゆうとくんゆうとくんゆうとくん……」
「こ、怖いよみくちゃん……」
何回名前を呼んでも足りない。
こうしないとどこかに行ってしまうような、そんな予感が美玖にはあった。
前に一回だけ、優斗が寝ている時に、美玖が起きた事があった。
その時、優斗は苦しそうな表情で何かを呟いていた。
そんな優斗を見ていられなくて、いつもみたいに笑って欲しくて、いつも優斗がしてくれているみたいに、優しく髪を撫でた。
苦しそうな寝顔が、段々といつもの顔に戻っていった。
その時、美玖はいつも明るい優斗が、何かに苦しんでいるという事を幼いながらに気づいたのだ。
あの出来事は、いつも美玖の心の中にあった。
彼が私に向ける優しい笑顔の裏で、優斗が苦しんでいる。
まだそれが何かわからないし、苦しんでいるというのもよく分からない幼い彼女。
ただ思うのは、彼に幸せになって欲しいという願いだけ。
心から彼に笑ってほしい。
嬉しいって思ってほしい。
ただそう思って、いつも彼が言うみたいに、寝て起きた彼に「大丈夫」って言って抱きしめてあげた。
泣いていた彼を見て、美玖は「わたしがゆうとくんを、しあわせにしてあげる」と強く思った。
いつも貰っている幸せ以上の幸せを、彼にプレゼントするのだ、と。
「ずっと、ずっといっしょにいようね。ゆうとくん」
美玖は、優斗から離れる気など一切なかった。
何があろうと、どんな事が起ころうと。
たとえ彼が、自分から離れていったとしても。
その純粋な気持ちは、大人になっても変わらないのだろう。