破典聖杯戦争 ~黒髭エドワード・ティーチがオタ落ちした日~ 作:若槻 風亜
頭上から降ってきた声は穏やかなそれであったが、耳に入った瞬間、先程覚えたばかりの恐怖など些細なことに思えるほどに全身が凍えた。
呼吸が早く浅くなり、体が震え、ほんの少しの間に嫌な汗が次から次に浮かんでは落ちて木の色を変えていく。
上手く動かない両手足を必死に動かし、健人は体を小さく小さくしながら、土下座の姿勢で床に額をこすりつけた。
「……ごっ、ご、ごめ、ごめ、ん、なさ……っ!!」
歯の根が合わない。それでも何とか謝罪を口にすると、正面に立っていた男はしゃがみ込み、ぽん、と健人の背中を叩く。痛みなどない優しい叩き方。けれどそれが、余計に健人の恐怖を煽った。
「よかったぜ健人」
穏やかなままの声。本来であれば安堵するべき声が、今はただただ恐ろしくて仕方ない。
そしてその恐怖の感覚が正しかったことを、健人はこの直後に知ることになる。
「お前が開口一番に『助けてくれてありがとう』なんて言う馬鹿じゃなくて。
声が変わった。低く唸るような、恐ろしい海賊の声。同時にミシリと背中に置かれたままの手に力が込められる。土下座の姿勢のまま押しつぶされそうな感覚に、健人の口からは必要以上の息が漏れ出た。
幸い圧し潰す気はなかったらしく、すぐにティーチは立ち上がり、同時に健人の服の背中部分を掴んで立ち上がらせる。
「まあとはいえ、油断したのは俺のミスだ。そこは悪かったなマスター」
声がまた変わった。今度はいつもの声だ。背中をまた叩かれるが、穏やかなそれでも傷付ける意図のあるそれでもない、いつも通りの力加減をした乱暴な叩き方。
恐ろしすぎて出てこなかった涙が、途端に溢れてくる。まさか、いつも怖いと思っていた様子の方がずっとマシだった、と思う日が来るとは思わなかった。
「泣くな、戦闘中だ。……当たったのは悪かったっつの。キャスターの野郎に裏ぁかかれたのとみすみす攫われたのと、この俺がガキひとり必死に取り戻しに来なくちゃならねぇ現状にムカついてたんだよ。――この上助けてくれて~なんて言われたら『
本当に良かった。黒髭が会話中いきなり部下の足を撃ち抜いたという話を調べておいて。それを元に、彼が「海賊・黒髭」であることにどれほど誇りを持っているのかをあらかじめ推測しておいて。
それらが意識に合ったおかげで、「マスターだろうとティーチは気に食わなければ自分を殺す」ということはずっと頭にこびりついていた。だから余計に恐怖が勝って口からは謝罪しか出てこなかったのだが、逆にそれが健人の命を救ったのだ。
両袖で涙を拭いどうにか落ち着こうと頑張るのだが、「早く泣き止まなくては」と思うほどに涙が止まらなくなる。その様子を見下ろし、ティーチは面倒そうな顔で天を仰ぎ、頭をガシガシと掻いた。
「だーーーめんどくせぇ! あの猫のギャグマンガでも思い出しとけ!」
猫のギャグマンガ、というのは「クロとゆるい村」というゆる系の絵柄で2足歩行の動物たちの村での日常を描くシュールコメディな漫画だ。タイトル通り猫のクロが主人公で、可愛い顔に似合わない鋭いツッコミが評判である。健人はとても好きな漫画で、ティーチはそれほど刺さらなかったようだが「ふっ」程度には笑いをこぼしていた。
この状況で唐突に漫画の話を差し込まれ、作品を思い出すと同時にそれらを楽しんでいるティーチの姿が思い浮かび、健人の涙は徐々に落ち着き始める。
そう、怖くて怖くて仕方ない男だが、それだけの男でないことも健人は知っていた。
「ははは、なるほど恐ろしい。海が選ばれるわけだ!」
カツン、と堂々たる靴音と共に勢いのある声が場を割る。
はっとしてそちらを見れば、多少の切り傷と服の乱れがある程度で、ほぼ無傷のメスメルがマスターを引きつれそこに立っていた。
目の前にはアルモニカが浮かび、背後では倒れ伏した男たちがゆらりと煙が消えるように消え続けている。以前「部下の霊体のようなものを召喚出来る」と聞いたことがあるので、彼らはそういう存在なのだろうと健人はこっそり納得した。
「あん? 海が選ばれる? 何のことだ」
健人の少し前に出た状態でティーチがメスメルたちを睨む。メスメルは特段恐怖を感じた様子もなく立てた指先を空中でくるくる回した。
「はははっは。先の中原少年の質問の答えにもなるのだがね、私たちは少しでも有利に話を進めるため、本当は君の得意ではないフィールドに誘い出したかったのだよ、ライダー。だから催眠状態の中原少年にこう訊いたのだ。『サーヴァントに襲われている。君ならどこに逃げる?』とね。通常のマスターであれば、ここで自身のサーヴァントの得意なフィールドに逃げようとするはずだ。だから、『山』と答えられた私たちは海に来た。――だというのに!」
メスメルは勢いよく両腕を広げる。何かしらの攻撃かとティーチは即座に銃を放った。
だが、飛び出した銃弾はメスメルの前で不可視の何かに阻まれる。不可思議な軌道を描いて空に曲がると、ややああって、小さな音を立てて床に落下した。
そんな眼前の事態などどこ吹く風か、お喋りなキャスターは会話を続ける。
「現れたのは海賊のサーヴァント! 何故海に逃げなかった? 中原少年に騙されたか? 実は彼は優秀な魔術師だった!? ――などと戦闘中考えていたのだが、蓋を開ければなんということはない。単純に中原少年が一番怖いサーヴァントが君だったから、君から逃げたかっただけだった、というだけのようだ。――黒髭 エドワード・ティーチ殿」
何故、とはティーチも健人も聞かない。ティーチ本人が先程口にしたのだ。健人がティーチに怯えている事実に気付いたのであれば、様子だけではなくやり取りが聞こえていても不思議なことはない。
「はん、当り前よ。この俺がそこらのサーヴァントより恐れられてねぇなんざありえねぇよ」
あるいはマスターとサーヴァントの関係に陰りを差すようなメスメルの発言だが、恐怖されることを良しとするティーチにはまるで堪えていない。
「ふむ、相手を恐縮させるばかりの関係が健全とは言えないが……今は中原少年は落ち着いているように見える。君たちなりの信頼関係、というものがあるようだ。そんな君たちに提案があるんだが」
「いらねぇよ」
メスメルの提案というのは、恐らく先に健人が聞いていたこの聖杯戦争の実態に関連する何かだろう。健人はそれを何となく察したが、話を遮ったティーチは聞く姿勢すら見せずに自身の周りに次の部下達を召喚した。味方だと分かっていても、大柄で凶暴そうな男たちが所狭しと現れたことに健人は少しばかり怯える。
一方、分かりやすく動揺したのはシャーロットだ。
「いくら個別の能力がない霊体とはいえ、この数を一気に召喚した――!? 世界的に有名な海賊なのに異論はないけれど、何故西洋の英霊が極東の島国でこんなに力が発揮されるの……?」
「ワン……世界レベルで有名な日本の海賊漫画に敵として出てきているから、ですかね……」
恐らく娯楽文化に触れないタイプのシャーロットが声に出した疑問に思わず答えてしまうが、健人の声が小さいので聞こえてはいないようだ。
これも以前ティーチに聞いた話だが、サーヴァントの知名度は信仰とも捉えられ、それが強いほどサーヴァントの出力も上がるという。
某有名海賊漫画に限らず数多の創作物に登場し、さらには本人には関係ないかもしれないがその名を関する遊具も存在する『黒髭』エドワード・ティーチの知名度は、日本では本場・西洋に負けず劣らず高いことだろう。
「待ってちょうだい、ライダー! 私たちに争う意思はない。先程あなたのマスターにした説明をするから話を聞いて欲しい」
「落ち着いて聞き給えよライダー君。君も私と同じタイミングで召喚されたサーヴァントなら、
人垣の向こうからシャーロットとメスメルの声がした。最早姿も見えないほどに海賊たちが甲板に溢れ返っている。
「騙そうったってそうはいかねぇ」と唇を引き延ばすティーチ。一触即発の空気が流れだし、慌てたのは健人だ。
「まっ、待ってくださいライダーさん! あの、本当に、もし本当だったらヤバい感じの、あの、話で」
「あん? ったく世間知らずが。敵の語る話なんざ頭から信じるもんじゃねぇんだよ。どんな話だろうが、少なくともお前を攫うっつー手を取った時点で信じるに値しねぇ」
それは、そうかもしれない。もしかしたら先程までの話は全て嘘で、信じたところを騙し討ちしようとしているのかもしれない。人付き合いのレベル的にも魔術のレベル的にも、健人にはシャーロットの話が本当かウソか判断するための経験値が足りていない。けれど
「マスターを攫ったのは悪かったわ! けれど、本当に私たちが戦えばその分危険が増えてしまうの! お願い話を!」
メスメルに留められながら、しかし必死に前に出て説明しようとしているシャーロット。ここまで感情の起伏があまり見られなかった少女が、自分の命を脅かそうとする数多の人垣の向こうにいるティーチに全力で声を届けようとしているのが、騙すためだとはとても思えない。
シャーロットを、ティーチを、メスメルを、続々出現してくる海賊たちを、繰り返し繰り返し視線を回して見続け、ついに健人はぎゅっと目をつぶり震えながら決意する。
「――た」
ぽつりと呟いた言葉に、唯一聞こえたティーチだけがちらりと視線を下げた。
俯く健人の頭に思い浮かぶのは、たった一人の友人の
そして、どうしてそんなに構ってくれるのか、と初めて聞いた時に
「『対話なくして理解なし、ですぞ』ーーーっ」
大きく大きく息を吸い込んだ息と共に吐きだした言葉は、場を支配し、健人に勇気を与えてくれる。
「たっ、確かにっ、嘘かもしれませんけどっ、本当に本当だったら、メス……キャスターさん達を倒したら取り返しのつかないことになるんです! だからせめてっ、警戒しててもいいから話くらいは聞いてあげてくださいっ」
言葉の途中で光り出した令呪にティーチが慌てて止めようとしたが、始まってしまえばその強制力にサーヴァントは逆らえない。話を聞いて欲しい、という健人の願いは、令呪による命令として消費されティーチに刻まれた。
しん、とする船上。消費されてしまった令呪に気付いた健人は、今更ながら涙目になって震えてティーチを見上げる。見上げられたティーチはあからさまに怒りを双眸に灯しているが、消費してしまったものはこの際どうしようもない。
ごめんなさい、と何度も何度も謝って来る健人に舌打ちをひとつ投げてから、腹立たしげにキャスター組に視線を向けなおした。
「キャスター野郎は両手を上に上げて一歩下がれ。マスターの女が話せ!」
やや自棄気味に、海賊たちを消さないままティーチが不機嫌に言葉を投げかける。思わぬ事態に笑いそうになっているメスメルがちらりとシャーロットに視線を向けた。シャーロットは一度そちらを見てから、改めてティーチに視線を向けなおす。
「キャスター、私は彼ら――いえ、彼に完全に戦意がないことを見せるべきだと思うわ」
「同感だマスター。だが、せめて殺されない程度に収めてくれたまえ?」
海賊達がただの置物のように一声も発せず呼吸もしないため、普通の声量で行われたその会話は当然にティーチの耳にも健人の耳にも入る。
「何の話だ? 俺は事情とやらを話せと言ったんだが」
指示通りに動かないキャスター組にティーチは怒りを隠さない。シャーロットは右手をすっと挙げ、つけていた手袋を外した。彼女が示したいのは、恐らく一画も欠けていない令呪だろう。
「ライダー。私は今からする話にあなたの信頼を得るために令呪を使うわ。――令呪をもって命じる。キャスター、自衛以外の理由でライダー組への攻撃を禁止します」
あまりに自分達に不利な命令は、確かにシャーロットの令呪一画を消費した。メスメルは反論するでもなく、先のティーチの指示通り両手を挙げ一歩下がる。
魔術師らしからぬ誠意を見せられ逆に警戒を強めたティーチであったが、シャーロットが健人にした説明と同じ――多少魔術事態に関する説明を省き、サーヴァントなら知っていて当然レベルの魔術の話を加えた――ものを聞き終わる頃には少しばかり警戒を解いた。
ぱちりと指を鳴らせばあれほどいた海賊たちが半分以下にごっそり減る。