遺産で引き継いだSPメイドたちがヤバ過ぎる 作:最高司祭アドミニストレータ
先日、透明オリジナル日間ランキング17位に載っておりました。載るとは思っていなかったので、驚いております。
拙作をご覧いただき、ありがとうございます。
皆様の感想、評価をお待ちしております。
麗らかな春の陽気が、四十万家の広大な庭園を淡い黄金色に染め上げていた。
風に揺れる木々の葉がサラサラと心地よい音を立て、手入れの行き届いた花壇からは、色とりどりの花々が甘い香りを漂わせている。
雲一つない青空の下、俺は日本家屋風に設えられた離れの縁側に深々と腰掛け、湯気を立てる極上の緑茶の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「…平和だ」
思わず、そんな独り言が口を突いて出る。
先日、この狂った大豪邸における唯一の常識人・結衣さんが発動した『破壊工作を行った場合、給料から全額天引き』という絶対的な資本主義のルール。
そのおかげで、我が家のSPメイドたちは目に見える暴走をピタリと止めていた。
俺の横の座布団には、厚みのあるミステリー小説。
縁側のぽかぽかとした日差しに当てられ、俺の足元ではいつの間にか庭に居着いていた野良猫が一匹、丸くなってスースーと寝息を立てている。
これだ。これこそが、俺が思い描いていた『大富豪の当主としての、ささやかで優雅な日常』の完全なる姿である。
俺は満足げに目を細め、庭で「普通」のメイドとしての業務をこなしている三人の少女たちに視線を巡らせた。
広大な芝生の向こう側では、ハニーブロンドの髪を春風に揺らすひまりが、花壇の手入れをしている。
「うふふ。お花さんたち、綺麗に咲いてくださいね〜」
彼女は満面の笑みで、銀色のジョウロから水を撒いていた。
ただし、彼女が片手で軽々と持ち上げているそのジョウロが、どう見ても業者用の『大容量ドラム缶』に無数の穴を開けた手作り品であることを除けば、実に牧歌的で微笑ましい光景だ。
あの重さを片手で微細にコントロールする彼女の体幹は、もはや物理法則への冒涜である。
庭の入り口付近、高くそびえる生垣の前に立っているのは、赤いポニーテールの瑠璃だ。
どういう訳か、彼女は別の仕事をしていた。
「ふんっ! はっ! しぃぃっ!」
両手に持った剪定バサミを、まるで二刀流の剣士のような目にも留まらぬ速度で振り回し、伸びた枝葉を空中で塵レベルまで粉砕している。
刃が交差するたびに「シュガァッ!」という風切り音が響き、風圧だけで枝が切り落とされていく。
特注の門扉を素手でへし折り、配達員に関節技を極めていた頃に比べれば、はるかに『庭師』らしい有意義な行動と言えた。今すぐやめて欲しい。
そして、俺のすぐ斜め後ろ、縁側の柱の影。木目の模様と完全に同化している漆黒のボブヘア、セツナ。
彼女は先ほどから、風に乗って飛んでくる微小なチリのようなものを、ピンセットと試験管を用いて空中で片っ端から捕獲し、何らかの成分分析を行っている。
彼女の足元にはすでに『スギ・ヒノキ・ブタクサ』と几帳面なラベルが貼られた小瓶が並んでおり、もはや気象庁の観測データより正確な局地データを抽出していた。
(…まあ、それぞれツッコミどころは多々あるが、物理的な被害や流血沙汰が出ていないだけマシか)
俺は温かい湯呑みに口をつけ、ほんの少しだけ緩んだ胃壁の感覚を味わった。
彼女たちなりに、給料天引きというペナルティに怯えつつ、「普通」を模索してくれているのだ。そう思えば、少しだけ愛嬌すら感じられるというものだ。
このまま平和な昼下がりが終わってくれればいい。そんな甘い期待を抱きながら、俺が緑茶を飲み干し、横に置いたミステリー小説のページをめくろうとした──その時だった。
ふわり、と。
春の生温かい風が庭園を吹き抜け、俺の顔面を撫でた。
その瞬間、鼻腔の奥に強烈な違和感が走った。粘膜を微小な針でチクチクと刺されるような、抗いがたいムズムズとした感覚。
俺の意志とは無関係に、気道がキュッと収縮する。
「っ、へっ、ヘックション!!」
静かな縁側に、俺の盛大なくしゃみが響き渡った。
一度では収まらない。二度、三度と連続して激しいくしゃみが込み上げ、目からはツンとした刺激とともにツーッと涙がこぼれ落ちる。
鼻の奥は完全に詰まり、喉の奥がイガイガと焼けつくように痒い。
「ズズッ…マジか。ついに俺も、花粉症デビューしてしまったか…」
俺はティッシュの箱に手を伸ばし、情けない音を立てて鼻をかみながら、深々と肩を落とした。
これまで二十二年間、アレルギーとは無縁の健康体だったのに。大富豪になった途端、こんな庶民的な現代病に悩まされることになるとは。
一人で勝手に落ち込み、ティッシュをゴミ箱に捨てようとした俺の視界の端で。
庭の空気が、唐突に凍りついた。
ドラム缶で水を撒いていたひまりの動きがピタリと止まり、その瞳孔がスッと細くなる。
生垣を切り刻んでいた瑠璃が、空中でバサミを反転させ、完全に殺意を込めた逆手持ちへと構え直す。
俺の背後にいたセツナに至っては、すでに気配すら完全に消失し、足元の影だけが異様に濃くなっていた。
「だ、旦那様が、謎の発作を…っ!」
ひまりの悲痛な叫び声が、春の空気を切り裂いた。
「目から涙が!? 呼吸器系がやられているの? 瑠璃、周囲の警戒を! 旦那様、しっかりしてください!!」
「チッ、姿なき暗殺部隊の奇襲ね! 防衛陣形展開!」
三人の異常者たちの『センサー』が、俺のただのくしゃみに対してバリバリと最高レベルの警戒音を鳴らしているのが、肌を刺すようなプレッシャーとして伝わってくる。
ち、違う! お前ら、これはただの──俺が声を上げるより早く、背後の柱の影からスッと青白い手が伸びてきた。
「…大気中の成分分析、完了」
セツナの絶対零度の声が、耳元で囁かれる。
彼女は手元の簡易キットのディスプレイを無機質な目で見つめ、戦慄すべき宣告を下した。
「…空気中に、未知の微粒子が大量に飛散しています。濃度は致死レベル。これは自然現象ではありません。広範囲型の『生物兵器テロ』です」
「なっ…なんだとっ!?」
「バカな!? これだけ広範囲に、無色無臭の神経ガスを撒ける組織なんて…っ!」
「いいえ、違う! ただのスギ花粉だ! ニュースでやってたろ、今日は飛散量がヤバいって!」
俺の必死のツッコミは、臨戦態勢に入った彼女たちの耳には一切届いていなかった。
次の瞬間、俺の顔面に強烈なゴムの匂いが押し付けられた。
「旦那様、息を止めて! 防毒ガスマスクの装着を!」
背後からセツナによって、軍用の重々しいガスマスクを無理やり顔面に被せられる。
視界が厚いガラス越しになり、呼吸をするたびに「コーッ、ホーッ」という某卿のような重低音が縁側に響く。息苦しいし、ゴムの締め付けで顔が痛い。
「おのれぇ、旦那様を苦しめる謎の微粒子めっ! 発生源はこの庭の隅にある杉の木ですね! 私がチェーンソーで根こそぎ伐採してきます!!」
ガスマスク越しに、庭で激怒するひまりの姿が見えた。
彼女はどこから取り出したのか、身の丈ほどもある巨大なエンジン式チェーンソーを片手で軽々と振り回し、庭の奥にある見事な杉の巨木へと突進していく。
「やめなさいひまりさん!! また庭の修繕費と植林代が飛ぶでしょうがああああ!!」
そこに、エプロン姿のメイド長・結衣さんが涙を流しながら猛ダッシュで飛び込んできた。
彼女はチェーンソーを振り上げるひまりの足首に文字通りしがみつき、ズルズルと芝生を引きずられながらも必死に伐採を阻止しようとしている。
阿鼻叫喚。
俺のたった一回のくしゃみが引き金となり、四十万家の庭園はあっという間にパニック映画のクライマックスのような地獄絵図と化していた。
(外せ…っ、このマスク、俺が喋れないのをいいことに…!)
俺は両手で顔面のガスマスクのバックルを引きちぎるように外し、「これは花粉症という国民病のアレルギーだ!」と絶叫しようと息を大きく吸い込んだ。
──ピンポーン。
その矢先、場違いなほど呑気なインターホンの電子音が鳴り響いた。
俺とメイドたちの動きが、ピタリと止まる。瑠璃が縁側のモニターパネルを素早く操作し、エントランスの外の映像を映し出した。
そこには白衣のような白い作業着を着て、背中に銀色の怪しげな液体タンクを背負った、ひょろりとした猫背の男が立っていた。
首にはタオルを巻き、片手にはタンクから伸びる黒いホースとノズルを握りしめている。
男はインターホンを押した後、閉ざされた門扉の奥──庭の植物を見つめながら、ひどく興奮したように目をギラギラと輝かせ、ブツブツと不気味な独り言を呟き始めた。
『フフフ…素晴らしい。最高の実験場だ。これをこの庭に撒き散らせば、一晩で生態系は激変する…!』
モニター越しに聞こえてくる、男のねっとりとした声。
『すべては駆逐され、残った生命は私の思い通りに爆発的に増殖するのだ…! アハハハッ!』
男のヤバすぎる独り言を聞いた瞬間、俺の背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走った。
待て。よせ。
この軍事思考の狂人たちが集う屋敷の前で、その手の怪しいワードを声に出すのは完全な自殺行為だ。
「…対象の目的を探ります。ゲート、解放」
セツナが無表情のまま、モニターの開錠ボタンを押す。重厚なアイアンゲートが、モーターの低い駆動音とともにゆっくりと左右に開いていく。
「おっ! おおっ! す、すごいぞ、大豪邸の門が自動で開いた! これぞ飛び込み営業大成功、大口顧客ゲットのチャンス!」
門の向こう側から、男の歓喜に満ちた声が聞こえてきた。
白衣を羽織り、背中に鈍く光る銀色のタンクを背負った猫背の男が、意気揚々と庭の敷地内へと足を踏み入れる。
男の目は完全に『金づるを見つけた営業マン』のそれで、口元はだらしなく緩みきっていた。
男は気づいていない。この美しく手入れされた春の庭園が、すでに完璧な『処刑場』へと変貌していることに。
庭の中央では、赤いポニーテールの瑠璃が、腰を深く落とした完全な武術の歩法で立っている。
その両手には、鈍い光を放つ巨大な剪定バサミが逆手に握られ、いつでも男の頸動脈を刈り取れるよう極限まで筋肉が収縮していた。
その隣では、メイド長の結衣さんに足首を掴まれたままのひまりが、満面の笑みの裏に純度百パーセントの殺意を隠し、芝生を踏みしめて地面をミシミシと陥没させている。
俺の背後には、気配を完全に消したセツナが潜み、いつでも致命的な一撃を放てるよう沈黙を保っている。
そして俺自身は、顔面のガスマスクを半ば引き剥がした無様な姿で、青ざめた顔をしてへたり込んでいた。
(逃げろ…っ。振り返らずに、今すぐ走って逃げろお前!)
俺は声にならない悲鳴を上げながら、男を睨みつけた。普通の人間なら、この異常な殺気と防護服姿の女たちを見れば、悲鳴を上げて逃げ出すはずだ。
しかし、セールスマンの脳内には強烈な『ポジティブ・フィルター』がかかっていたらしい。
「いやぁ、素晴らしい! 奥様方、春のお庭のお手入れ中ですか! そしてそちらのご主人も完全防備で作業の指示とは、実にお庭を愛していらっしゃる!」
男は白衣の裾をバサリと翻し、俺たちを「熱心なガーデニング愛好家」と都合よく誤認したまま、不自然なほどの満面の笑顔で流暢なトークを開始した。
「ですが奥様方、そしてそこのご主人! 今のままの『貧弱な生態系』で満足されていますか!?」
男の放った『生態系』という単語に、瑠璃の肩が微かに跳ねた。
「私が背負っているこのタンクの中の『特殊な液体』…こいつをですね、この美しいお庭の隅に、ほんの少しシュシュッと撒き散らすだけでいいんです!」
男は背負った銀色のタンクを誇らしげにポンポンと叩き、黒いホースの先にあるノズルを、まるで機関銃のように構えてみせた。
「あとは何もしなくて結構! 放っておいても、地中に染み込んだ成分がバクテリアを爆発的に増殖させ、周囲の不要なものを完全に駆逐してくれます!」
「…っ!」
バクテリアの増殖。周囲の完全な駆逐。
まずい。メイドたちの脳内で男のその言葉が、もはや決定的すぎる『犯行声明』へと翻訳されてしまっていないよう、祈るしか…っ。
「バクテリアの異常増殖による、他種の完全駆逐。やはり、未知の生物兵器ね」
瑠璃が、氷のように冷酷な声で呟いた。彼女の持っていた剪定バサミの刃が、ギリッと不吉な音を立てて擦れ合う。
セールスマンの男は瑠璃の呟きを『商品への驚きの声』と致命的に勘違いしたようだ。
「その通り! 驚くべき威力ですよ、お嬢さん!」
「なっ…!?」
男はテンションをさらに一段階引き上げ、タンクのノズルを大きく振りかざす。
やめろ。もう喋るな。それ以上口を開けば、お前の命の保証はない。
俺は震える手で男を制止しようと手を伸ばしたが、喉の奥がヒュッと鳴るだけで声が出ない。
花粉症のダメージと極度のストレスで、声帯が完全に機能不全に陥っていた。
「私のこの特製リキッドがあれば、翌朝にはもう、この一帯は完全に『私の液体の支配下』になります!」
「し、支配下だと…!?」
ひまりの瞳から、普段の柔和な光が完全に消失した。彼女の足元から「ドゴッ」と嫌な音が鳴り、芝生の地盤ごと土塊が浮き上がり始める。
「ええ! しぶとい雑草などの抵抗勢力は完全に息絶え、あなたの望むものだけが生き残る! 根絶やしにして、究極の環境が完成するというわけです!」
「…土壌汚染による抵抗勢力の抹殺、および一帯の支配宣言。極めて危険な思想を持つテロリストです」
背後から、セツナの無機質な声が響いた。
振り返ると、彼女の手にはいつの間にか漆黒のナイフではなく、分厚い耐熱グローブと、重々しい金属のシリンダーを備えた無骨な重火器──軍用グレードの『火炎放射器』が握られていた。
「対象は交渉の余地なし。生化学テロの現行犯と認定します。旦那様、息を止めてください。これより、対象を完全に焼却します」
「しょ、焼却…?」
ここでようやく、男の営業スマイルが引き攣った。
目の前のメイドが、剪定バサミやチェーンソーではなく、火を噴く兵器を自分に向けて構えたことに、セールスマンの鈍い脳髄もついに生命の危機を悟ったらしい。
「えっ? いやいや、肥料の散布に焼却は…ちょっ、お嬢さん? なんで火炎放射器なんか持ってるんですか!? え、マジなやつ!? ひぃぃぃぃっ!!」
男はノズルを取り落とし、腰を抜かして無様な姿勢で地面にへたり込んだ。
遅い。遅すぎる。
男の営業トーク特有の「大げさな表現」は、すでに三人のSPメイドたちの軍事フィルターを通過し、取り返しのつかない殺意の臨界点を突破してしまっていた。
カチャリ。
セツナの持つ火炎放射器の安全装置が、冷たい金属音を立てて外される。瑠璃が地面を蹴るためのタメを作り、ひまりが持ち上げた土塊を男の頭上へと振りかぶる。
(──間に合えええぇぇぇっ!!)
俺は残された全身の力を振り絞り、顔面に引っかかっていたガスマスクを乱暴にむしり取ると、縁側から春の庭へと向かって全力で飛び出した。
「待てセツナ、撃つな! そいつはただの肥料売りだ!!」
肺に溜め込んだ空気をすべて吐き出すほどの絶叫とともに、俺は顔面を覆っていた重苦しいガスマスクを芝生へと投げ捨て、春の庭園を猛ダッシュで駆け抜けた。
無防備に晒された鼻腔にスギ花粉が大量に侵入してくるが、今は構っていられない。俺はチロチロと噴き出しかけていた火炎放射器の銃口と、腰を抜かしてへたり込んでいる白衣の男との間に、泥まみれになりながら滑り込んだ。
「チッ」
およそメイドらしからぬ、冷酷で鋭い舌打ちの音が背後から聞こえた。
セツナが射線の前に飛び出した俺を視界に入れ、極めて不満げに火炎放射器の引き金から指を外した音だった。
その舌打ちを背中に浴び、ゾクゾクと粟立つ悪寒を無視しながら、俺は両手を大きく広げて白衣の男を庇うように立ち塞がった。
「ひぃぃぃっ!? な、なんなんですかあなたたち!? 俺はただ、春の新作キャンペーンの飛び込み営業で回っていただけで…っ」
俺の足元で、白衣のセールスマンは背負っていた重たい液状肥料のタンクごと地面にへばりつき、ガチガチと歯を鳴らして震え上がっていた。
無理もない。ただの閑静な高級住宅街での営業中、大豪邸の門が開いたと思ったら、防護服やエプロン姿の暗殺者三人に包囲され、あわや火ダルマの丸焼きにされかけたのだ。
彼の一生消えないトラウマになってしまったかもしれない。
俺はみぞおちの辺りにキリキリとした激しい胃痛を感じながら、ゆっくりと男に手を差し伸べた。
「本当に申し訳ない。うちのメイドたちは、少しばかり…いや、かなり防衛意識が過剰でして」
「ほ、防衛意識ってレベルじゃないですよ! 今、完全に殺意の波動が出てましたよ!? 俺、生まれて初めて走馬灯を見ましたよ!?」
「仰る通りです。全面的にこちらが悪い」
俺が深々と頭を下げると、男は涙目で震える手を白衣のポケットに突っ込み、くしゃくしゃになった一枚のカラーチラシを取り出した。
「こ、これ…! 見てくださいよ! 『春の超・栄養満点オーガニック肥料・爆増くん』! 土壌の善玉菌を増やして、お庭のトマトやバラを元気に育てる、とっても地球に優しいエコな商品なんですっ…! 生態系を破壊するなんて、ちょっと大げさに言ってみただけで…っ!」
「ええ、分かっています。『爆増くん』ですね。素晴らしいネーミングだ」
俺はひったくるようにそのチラシを受け取ると、後ろでまだ濃密な殺気を放っている三人の猛獣たちに向かって、バシィッと突きつけた。
「見ろ、お前たち! このポップな字体を! 丸っこいトマトのキャラクターを! 『トマトが甘くなる』『バラが綺麗に咲く』と書いてあるだろうが! どこが生物兵器だ! 善玉菌だぞ!!」
俺の必死の説得と、チラシに印刷された『爆増くん』の間の抜けたイラストを受け、セツナはわずかに目を細めた。
数秒間の、刺すような沈黙。やがて彼女は、火炎放射器の安全装置をカチャリと戻し、無骨な銃身をゆっくりと下ろした。
「沈黙。成分表記を確認。どうやら、本当にただの農業用成長促進剤のようです。早とちりをしました」
「紛らわしい言い回しをするからよ。アンタ、次やったら、そのタンクの中身をアンタの胃袋に直接流し込んであげるから」
「ヒィッ…!」
瑠璃が腕を組み底冷えするような声で凄むと、セールスマンの男は再び短い悲鳴を上げて首をすくめた。
ひまりに至っては、まだ拳を強く握りしめたまま「本当に無害ですか? 私がタンクごと一口飲んで、旦那様の代わりに毒見しましょうか?」と、別の意味で致死率の高い物騒な提案をしている。
「頼むから、お前たちは少し黙っていなさい」
俺がズキズキと痛む頭を抱えていると、セールスマンの男が恐る恐る、地面に座り込んだまま俺の顔を覗き込んできた。
「あ、あの…ご主人。さっきから目が真っ赤ですし、鼻水もひどいようですが…もしかして、本当にうちの肥料の匂いで、アレルギー反応でも…?」
男の言葉に、俺はハッとした。
そうだ。このドタバタですっかり忘れていたが、俺は絶賛花粉症の発作の真っ最中だったのだ。
ガスマスクを外した無防備な顔面に、春風に乗った大量の微粒子が容赦なく降り注いでいる。鼻の奥が再びムズムズと暴れ出し、俺はたまらずポケットからティッシュを引き抜いた。
「ズズッ…へっくしょん! ああ、いや、これは違うんです。ただの『花粉症』ですよ。今日から急に飛び始めたみたいで…ズルッ」
俺が情けない音を立てて鼻をかむと、男は憑き物が落ちたように表情を和らげた。
「なんだ、花粉症ですか! いやぁ、今年の春はスギ花粉がキツいですからねぇ。実は私も重度の花粉症でしてね、ご主人のお辛い気持ち、痛いほど分かりますよ。あっ、でもうちの肥料は無農薬なんで、アレルギー体質の方でも安心してお使いいただけますよ!」
「ははは、それは助かる」
死の恐怖から解放され、いつもの見事な営業スマイルを取り戻したセールスマン。ただの善良な市民同士の、何気ない世間話。
俺たちの間には、同じ花粉症に苦しむ者同士の、なんとも言えない奇妙な連帯感が生まれかけていた。
──その時だった。
「…なるほど。完全に理解しました」
背後で、ひまりがポンッと大きな音を立てて手を打った。
嫌な予感がして振り返ると、彼女の庇護欲をそそるような可愛らしい顔が、この世の悪を根絶やしにする聖騎士のような、異様な使命感に満ちた表情へと変わっていた。
「この白衣の男はシロでした。しかし、旦那様をこれほどまでに苦しめている発生源は、やはり植物そのものだったということですね!」
「ぇっ?」
「自然界からの、無差別な宣戦布告と受け取ります。旦那様の安らかな呼吸を守るため…これより半径五キロ圏内のすべての杉の木を、根こそぎ伐採して焼却処分してまいります!!」
「賛成。アタシは西の山から刈り取っていくわ。セツナ、燃やす準備をしておいて」
「…了解しました。山火事にならないよう、対象のみをピンポイントで炭化させます」
男との誤解が解け、ターゲットを見失っていた猛獣たちの殺意が、今度は「スギ花粉」という自然現象そのもの──すなわち山林一帯の生態系へと向けられた。
三人のメイドたちが、チェーンソーと剪定バサミと火炎放射器を構え直したまま、屋敷の壁を蹴って外の世界へと出撃しようとしている。
「待て馬鹿野郎!! 花粉症の治療のために山の生態系を物理的に破壊するな!!」
俺の悲痛なツッコミが、雲一つない春の空に虚しく響き渡る。
だが止まらない。彼女たちのエンジンは完全に火を噴いている。誰か、誰かこの暴走を止められる権力者はいないのか──。
「ああもう! またご近所迷惑なことを! ストップです!!」
その時、屋敷の奥から救世主の声が響いた。
純白のクラシカルなエプロンをなびかせ、メイド長の結衣さんが猛ダッシュで玄関から飛び出してきたのだ。
彼女のお盆の上には、冷たい麦茶の入ったグラスと、分厚い革製の『経費用の財布』が乗っている。
「旦那様、ここは私がお茶をお出しして、その怪しい肥料を一本買い取って丸く収めますから! 早くその子たちを屋敷の中へ入れてください! 近所の方が窓から見てます!」
「頼んだ、お前だけが命綱だ…!」
結衣さんの素早いお買い上げと、有無を言わさぬ常識人としての圧力。
給料天引きの恐怖を思い出した三人のSPメイドたちは、渋々と武器を下ろし、屋敷の奥へと引き下がっていった。
「毎度ありがとうございますっ! 失礼しましたぁぁっ!」
財布から支払われた現金を受け取ったセールスマンの男は、出された麦茶を一気飲みするや否や、背中のタンクをガシャンガシャンと揺らしながら、脱兎のごとく屋敷の敷地から逃げ去っていった。
二度とこの辺りに営業に来ることはないだろう。
嵐は去った。ポカポカとした春の陽気の下、緑豊かな芝生の真ん中には、男が置いていった『爆増くん』のボトルが一本、ポツンと残されている。
「ズズッ…へっくしょん!」
広大な庭に取り残された俺は、大量に舞い散るスギ花粉を吸い込みながら、一人鼻水をすすった。
目のかゆみと、胃壁を削り取るようなストレス性の胃痛。
どうやら今年の春は、例年以上に俺の心と体を苦しめる季節になりそうだ。
次回は「セールスマン視点」をお届けします。
金曜日に投稿予定です。