その日、町の片隅にうづくまる、あの薄汚れた蕎麦屋の暖簾が、音もなく、しかし、何か不吉な質量を孕んで揺れたのである。夕闇が、まるで濃厚な黒汁を流したかのように路地を侵食していく時刻であった。ガラリ。引き戸を開けて這い入ってきたのは、一人の、異様な、じつに異様な威圧感をまとった老人であった。片目に黒い眼帯をあてがい、青々と剃り上げたその頭(づ)からは、目に見えぬ妖気が陽炎のごとく立ち上っているではないか。これこそが「武神」愚地独歩という名の怪物。
そのすぐ後ろを、まるで生き霊のように従うのは、地上最強の血を引く少年、範馬刃牙。二人は、薄暗い店内の、一番奥の、壁際に腰を下ろした。狭い卓を挟んで、二つの怪物が向かい合う。それはあたかも、精巧に作られた生ける生首の蝋人形と、血を吸う機会をうかがう小悪魔が対峙したかのような、じりじりと肌を焼く沈黙なのだ。
「……独歩さん」刃牙が、その沈黙を破って、低く呟いた。独歩は答えぬ。ただ、眼帯のない右目を、じっと品書きの、色褪せた文字へと注いでいるのである。その指先。幾万の瓦を粉砕し、人体を内側から引き裂いたであろう、あの象皮のごとき異形の拳が、トントン、と、頼りない木の卓を叩く。トントン。トントン。その音が、狭い店内に、まるで骸骨が歯を鳴らすような不気味さで響き渡る。やがて、独歩の、常人より遥かに厚い唇が、静かに開かれた。
「……これだ」独歩が太い指で指ししめしたのは、品書きの端にある、ごく平凡な一品。
「天ぷらそば。五百八十円」
五百八十円。格闘の深淵に身を置き、巨万の富をも超越したはずの武神が、場違いなほどに、あまりに俗悪な、安価な数字を口にしたのだ。
「ねえ、おやじさん。これを、二つ」
独歩が、店の奥へ声をかける。まもなくして、湯気を立てる二つの丼が、運ばれてまいった。じっと見つめる、二組の、人間離れした眼球。琥珀色の汁の海に、横たわる一本の海老の天ぷら。衣は汁を吸って、じくじくと、まるで腐肉が呼吸するかのように、あぶくを立てて膨らんでいる。
「喰え、刃牙」
独歩は短く促すと、自ら箸を取った。ズ、ズズ……。独歩が蕎麦を ── あの、人間の骨をも噛み砕く兇器のごとき顎(あぎと)で、蕎麦を ── 啜る(すする)音が、店内に異様に大きく響き渡る。刃牙もまた、無言で箸を進めた。そこには会話など、一切存在せぬ。ただ、ズル、ズルという、咀嚼と嚥下の音だけが、奇妙な二重奏(デュエット)を奏でて、暗い空間を支配しているのである。しかし、読者諸君。ここで、じつに奇妙な、奇怪極まる光景が、この緊迫した闇の中で繰り広げられていたことを、私は白状せねばならない。独歩の箸使いである。
あの、世界に並ぶ者なき正拳突きを放ち、猛虎の耳をも毟り取る神の如き五指が、いま、実につつましやかに、割り箸を握りしめているのだ。それだけではない。独歩のあの太い人差し指が、どういうわけか、お上品極まる形に「ピン」と美しく跳ね上がっているではないか。お分かりいただけるだろうか。五百八十円の天ぷらそばを啜るたび、猛毒のサソリの尾のように、あるいは英国の貴婦人が紅茶を嗜むかのように、独歩の人差し指だけが、天に向かってピンと直立しているのである。その指先の角度、じつに完璧な垂直。何たる不条理。何たるシュールなミスマッチ。地上最強の武を極めた怪物の指が、安蕎麦の湯気の中で、乙女のような可憐さで、ピンと撥ねているのだ。刃牙は、その指先から、片時も目を離すことができなかった。
(……何なんだ、あの指は。何かの構え(フォーム)か……? いや、まさか……ただのクセか……!?)冷や汗が、刃牙の額をねっとりと伝い落ちる。闘技場(アリーナ)での死闘すら凌駕する、言語を絶した精神的重圧が、その「ピン」と立った一本の指から放たれていたのである。
ふう、と、独歩が深く、長い息を吐き出した。人差し指が、ようやく静かに着地する。その息は、まるで熱い蒸気のように、白く、重く、卓の上に広がっていく。「……闘うかね」独歩が、ぽつりと言った。
「……え?」「戦うということ、命を削るということだ。だがな、刃牙。我々がどれほど血を流そうとも、どれほど世界の頂点を極めようとも、この、五百八十円の温かさの前には、皆、等しく、ただの飢えた人間にすぎん」独歩の眼帯の奥の、失われた左眼の肉が、怪しくうごめいたように見えた。「今日のところは、俺の、奢りだ」独歩は、懐から古びた革の財布を取り出すと、そこから、実にあっさりと、紙幣一枚と、いくつかの硬貨を取り出した。カラン、カラン、と、白銀色や青銅色の、いかにも世俗的な硬貨が、卓の上へ這い寄るように並べられる。きっちりと、千百六十円。二人分の、五百八十円。
「……ごちそうさま、独歩さん」
刃牙がそう言ったときには、独歩はすでに立ち上がり、暖簾の向こう、再び深くなった大正の闇のごとき夜陰の中へと、その巨大な背中を消し去ろうとしていた。
後には、ただ、あの「ピン」と立った人差し指の、おぞましくも奇妙な残像だけが、刃牙の脳裏に、ぽつんと焼き付けられていたのである。