夕暮の薄闇が、街を包み込もうとしていた。俺の前に歩む宮本武蔵の背中は、まるで動かぬ巨岩のようでありながら、その実、あらゆる方向への殺気を孕んだ剃刀の刃のようでもあった。奴の左腰には、世の不条理を具現したかのような玩具、デラックス日輪刀が不釣り合いに、しかし厳然と鎮座している。プラスチックの軽薄な色彩が、奴の放つ、数百年の血臭を帯びた「気」と衝突し、奇妙な調和を生んでいた。暖簾をくぐろうとするその刹那、俺は足を止め、奴の腰元を顎でしゃくった。
「……武蔵さん。そいつはねぇだろ。回転寿司(ここ)にそれを持ってくるなよ、おい。天下の剣聖が、よりによってそんな子供のオモチャぶら下げて歩くなんざ、冗談がキツすぎるぜ」独歩の言葉は、自らの血の巡りを確かめるかのように、低く律動していた。武蔵は足を止め、ゆっくりと振り返った。奴の眼は、世界の不条理を観察する哲学者のそれであった。「独歩殿。刀とは、武士の魂。本来であれば、我が腰には天下の名刀が帯びて然るべきもの」武蔵の声は、低く、湿り気を帯びていた。奴は腰のプラスチックの柄に、そっと手をかける。
「なれど、あの徳川の老いぼれが宣うのだ。『現代の街を本物の日本刀(ハガネ)を持って歩けば、即座に警察(役人)に捕縛され、飯を喰うどころではなくなる』とな。老いぼれは微笑みながら、この奇妙な造形(かたち)をした偽物を私に握らせた。『これならば法には触れぬ。現代の形代(かたしろ)だ』と。……誇りを汚されたと思うたが、この時代の『法』という名の不可視の檻に従わねば、貴殿とこうして対峙することも叶わぬ。不本意ながら、これを持っておるのだ」俺は無言で、その滑稽な玩具を凝視した。ただの玩具。ボタンを押せば「全集中」と電子音が鳴り響く、子供の慰みもの。しかし、天下無双の剣聖がそれを握るとき、プラスチックの刀身は、名刀「和泉守兼定」をも凌駕する、絶対的な「断絶」の象徴へと変貌するのだ。徳川の老人による奇妙な知恵と、現代の法、そして四百年前の怪物の執念が、その一本に凝縮されていた。
「……へっ、あのジジイらしい。なら、中へ入ろうじゃねぇか」暖簾をくぐると、酢飯の匂いと、プラスチックの皿が擦れ合う微かな、しかし規則正しい音が、俺たちの鼓膜を打った。世界が、一定の速度で旋回している。二人はカウンターの端に腰を下ろした。眼の前を、死せる魚の肉片が、冷徹な機械仕掛けの秩序に従って通過していく。「……独歩殿」武蔵が、静かに、しかし冷徹な真理を告げるように口を開いた。「この『回転寿司』という兵站(ロジスティクス)……実に見事なもの。飢えた兵が座して待てば、糧食が自ずから眼前を通過する。戦国の世、兵糧の輸送にどれほどの血と汗が流れたか。泥をすすり、干し飯をかじり、時には塩なき握り飯を兵が奪い合うのが戦場(いくさば)の現実。それに比べ、この処の食事はあまりにも極められている。完璧な衛生、滞りなき供給、一分の隙もない秩序。まことに美しい」武蔵はそこまで言い、ふっと隻眼の俺の全身を、頭のてっぺんから足の先まで舐めるように見つめた。その視線は、俺の骨密度、筋肉の繊維、そして纏う構えの「深さ」をすべて見透かしている。「しかし……独歩殿。これは、戦場の技(『喰う』ための営み)ではない」武蔵の呼吸が、金閣の佇まいのように、精緻で、一分の乱れもないまま続く。「これは、現代における『舞踊(おどり)』の一種である。貴殿の鍛え上げられたその体、洗練されたその佇まいは、この不条理なほどに安全な『回る世界』という舞台のうえでしか成立せぬ、極上の芸術に過ぎん。飢えも、腐敗も、敵の毒殺の恐怖もない。そのような『無菌室』で洗練された技は、真の生死を賭けた喰い合いではない。ただの……見事な踊りだ」その瞬間、店内の空気が凍りついた。
命がけの実戦空手を、血と汗と硝煙のなかから築き上げてきた愚地独歩にとって、「舞踊」呼ばわりは、我が魂のすべてを、神心会の歴史そのものを無に帰される最大の侮辱に他ならなかった。俺の顔面から、あらゆる人間の情愛が消え失せた。血管が怒張し、顔が、鬼神のごとき凄まじい凶相へと変貌していく。隻眼の奥の、暗黒の情念が、金閣を焼き尽くす烈火のごとく燃え上がった。俺は、この世で最も低い、しかし地響きのような律動を孕んだ声で、武蔵を凝視した。「なんだァ? てめェ……」武蔵の前に、完璧な「菩薩の拳」が、いつでもこの剣聖の脳漿をその一撃で揺るがす準備を終えて突き出された。格闘家としての本能が、武蔵のこの滑稽なデラックス日輪刀の裏にある、絶対的な死の気配を察知しながらも、俺の誇りは奴の肉体を粉砕することを命じていた。武蔵は、玩具の刀から手を離すと、ふっと微笑んだ。その笑顔は、純真な童のようでありながら、悪鬼の凄味を宿している。「なるほど。ならば……その『踊り』、見せてみよ。まずは其方の『兵站』、しかと見届けん」刹那、俺の右手が閃いた。武蔵の予測を、あるいは機械の回転速度すらも凌駕する速度で、俺が掴み取ったのは、レーンの上で最も安価な、百円均一の象徴たる「黄肌鮪(キハダマグロ)」の薄い赤身であった。皿の色は、剥げかけたプラスチックの黄色。高級感など微塵もない。俺はそれを一口で口中に放り込み、猛然と咀嚼した。――咀嚼、わずかに二太刀(ふたたち)。刹那、独歩の口腔内で、安価な赤身魚の細胞が『爆発』した。鉄分を帯びた赤身の清涼な血肉が、炊き立ての酢飯の酸味と絡み合い、怒濤の濁流となって喉奥へと流れ込む。高級な脂などない。しかし、だからこそ際立つ「純粋な筋肉(プロテイン)」の原始的な躍動。独歩の全身の細胞が、その安価な栄養素を飢えた狼のように貪り喰らい、瞬時に血へと変換していく。その顔面は、あまりの美味さと強烈な咀嚼圧により、さらに凶悪な笑みへと歪んでいた。「安かろうが何だろうがよ、喰って血肉に変えりゃあ同じこと。この『回る世界』を侮るんじゃねぇぞ、武蔵さん。安価な皿の一枚にまで、職人の魂が、そしてこの現代の『力』が詰まってんだ」
武蔵はその様子をじっと見つめていたが、やがて、その太い眉をわずかに動かした。「ふむ……。ならば、私はこれを受けよう」武蔵の手が動いた。その速度は、独歩の菩薩の拳をすら置き去りにする、空間そのものを切り取るような手取り。奴が引き寄せたのは、レーンの中でも異彩を放つ、一皿千円を超える最高級の「本鮪大トロ・金箔乗せ」であった。その皿は、漆黒の漆器を模した、重厚極まる漆黒と金の二色。武蔵は、その脂の滴る肉片を、デラックス日輪刀の柄にある小さな突起を親指で的確に圧しながら、口へと運んだ。『水の呼吸、壱ノ型! 水面斬り!』電子音声が、場違いな高音で店内に響き渡る。玩具から放たれる人工的な音声が、逆に武蔵の「存在」という圧倒的な現実を際立たせる。――それは「味覚」という名の、あまりにも過酷な暴力であった。武蔵が前歯で大トロを断ち切った瞬間、現世のものとは思えぬ濃厚な牛脂にも似た「脂の奔流」が、舌の味蕾を総がかりで蹂躙した。咀嚼を必要としない。魚肉でありながら、それは武蔵の口内の体温だけで瞬時に溶けていく。数百年分の歴史の乾きを癒すかのように、金箔の散った濃厚な脂が脳髄へと直撃する。美味い。あまりの美味さに、剣聖の巨体がわずかに震え、その皮膚から、まるで極上の湯に浸かったかのような濃密な「闘気の汗」が蒸気となって立ち上った。「美味。これほどの贅を尽くした肉が、ただ流れてくるとはな。これぞ、天下を統べた者が喰らうべき『誉れ』の味。しかし独歩殿、貴殿が選んだその安い魚肉……。それこそが貴殿の言う『現代』の底知れぬ兵站の不気味さよ。これほどの贅沢(大トロ)を上に戴きながら、その底辺(キハダマグロ)すらも、かつての戦場ならば命を賭して奪い合う極上の糧食。貴殿のその安い皿には、この時代の『傲慢』が詰まっておる」回転する皿の円運動。二つの異なる思想が、黄色と漆黒の皿となって交互に積み上がっていく。
やがて、一通りの喰い合いを終えた武蔵は、懐から一枚の小さな板を取り出した。それは、漆黒の夜空を切り取ったかのように滑らかで、怪しい光沢を放つ謎の四角い硬質金属――徳川の老人から手渡された、現代の魔法の切符、アメリカン・エキスプレスのセンチュリオン・カードであった。武蔵はそれを、神仏の加護を誇示するかのように二本指で挟み、独歩の眼前に提示した。「此度の馳走、会計の儀は私が執り行おう。老いぼれが『これを出せば、いかなる兵站の対価も無限に支払われる黒き御札(みふだ)だ』と申しておった。無限の富……。これさえあれば、この城の魚をすべて我が物とすることも容易い。独歩殿、現代の富とは、斯くも形無きものよ」
その瞬間。愚地独歩のたった一つの眼が、漆黒の闇に射し込む旭日のごとく、ギラリと怪しく、そして強烈に輝いた。(ジジイのブラックカード……!!)「……ッッ!!」突如として、独歩の全身から殺気が消え失せ、代わりに底なしの「飢餓」と「歓喜」のオーラが爆発した。――流れる赤のレーン。その最上流から、この店における至高の限界突破メニュー、一貫三千円の『超希少部位・天然本鮪カマトロ裏・大瀑布仕立て』の皿が、厳然たる威容をもって接近しつつあった。誰もが、その美しさに目を奪われた瞬間――。
ナレーション「いきなり独歩取ったァァァァッッッ!!!」
ガシィッッ!!!常人の反射神経はおろか、剣聖・宮本武蔵の「先(せん)」の先すらも完全に看破した、音速を越える菩薩の手取り!独歩の右腕はすでに残像すら残さず、カマトロの乗った最高級の皿を自らの懐へと引き込んでいた。「ハハッ、武蔵さん! 無限に支払える御札なんだろ!? ならば遠慮はいらねぇや! 板前さん、ここにあるカマトロ全部、こっちに回しちゃってくれ!!」百円の黄肌鮪で「兵站の力」を説いていた漢(おとこ)のプライドは、徳川のブラックカードという絶対的な財力の前に霧散していた。回転する皿の円運動。それは、始まりもなく終わりもない、ただ貪り喰うという人間の尽きぬ欲望の、あまりにもシュールな相似形に他ならなかった。デラックス日輪刀は、静かに武蔵の腰で、次の「全集中」の時を待つように、怪しく光を反射していた。