潮の香が、ねっとりと、しかしどこか凄惨な湿り気を帯びて、真昼の釣堀の、澱んだ水面から立ち昇るのであった。
武神、と人は云う。愚地独歩の、岩を削り出したかのような、あの奇怪なまでに大きな、また、あらゆる打撃を撥ね返して来た無骨な掌が、今はただ一本の、心細いほどにしなる竹竿を握っている。その、節くれ立った指先が、ぴくり、と微かな震えを見せた。それは、魚の、水底で蠢く生命の、ほんのわずかな「気配」を、掌の皮一枚隔てて、敏感に、また愉しげに感受しているのに他ならなかった。
「……ほう」
独歩の、隻眼の奥の、あの漆黒の瞳が、ふと、怪しい光を帯びて細められる。 彼の視線の先、隣の釣り座には、古流武術の、云わば「陰」の体現者であるところの本部以蔵が、まるで一本の古木の如く、気配を殺して、蹲るように座していた。本部の前髪の、その白髪の混じった一房が、海からの生暖かい風に揺れている。彼は、浮きの、水面に描く微小な同心円を、ただじっと、凝視しているのであった。
「独歩どの、来ますな」 「うむ……」
二人の間に流れる時間は、あたかも、決闘の直前の、あの息詰まるような、濃密な、それでいて不思議に静謐な、あの独特の「間」そのものであった。 刹那。 本部の浮きが、吸い込まれるように、一気に見えなくなった。
――ッシャア!!
掛け声は、しかし、声にはならぬ、喉の奥での、激しい呼気としてのみ放たれた。本部の腕が、閃光のようにしなる。それは、およそ釣竿を操る者のそれではなく、暗闇から、不意に、獲物の喉笛を突き刺す暗器の、あの、冷酷無比な速度と正確さを持っていた。 水面が、激しく割れた。 現れたのは、美しくも、同時にどこか禍々しいほどに、鱗をギラつかせた、一尾の大鯛であった。その、荒々しく跳ねる生命の、何という力強さ。しかし、本部の、あの、あらゆる武器を我が手足の如く操る掌の前にあっては、大鯛の抵抗も、ただの、哀れな、あがきに過ぎぬのであった。
「見事な……」
独歩が、感嘆の息を、ふう、と漏らす。 戦いは、釣るだけで終わるものではない。彼らにとって、これからが、本当の、肉体と肉体、あるいは、鉄と肉との、淫靡なまでの交歓の始まりなのであった。
調理場、と称する、板張りの、薄暗い小屋の片隅。 そこに、一枚の、どっしりとした、使い込まれたまな板が据えられている。 本部は、懐から、一振りの小刀を抜いた。それは、包丁などという生易しいものではなく、あるいは、戦国期の武士が、敵の首を掻き切るために用いた、あの、研ぎ澄まされた、恐ろしいまでに薄い、しかし強靭な、鋼の刃であった。
「……始めます」
本部の、その、息づかいが、変わる。 深く、長く、そして、冷たい。
ゴッ、と。本部の左手が、跳ね回る大鯛の脳天を、慈悲なく、しかし正確無比な点突で押さえつけた。硬質な鱗が、本部の掌の皮にめり込む。刃先が、まず、その硬いエラ蓋の隙間へと、滑り込んだ。
サク、と。
それは、焼けた鉄箸を、冷えたバターに突き立てるが如き――。 妖しいまでの、抵抗のなきなめらかさであった。刃を骨に沿わせ、一気に背骨の根元へ。 バチッ!!! と、鯛の尾が、まな板を激しく叩く。神経を断たれた、断末魔の跳躍。 しかし、本部の右腕は、いささかも揺るがない。流れるような連続の妙。逆刃を立て、尾から頭へと向かって、鱗を、削ぎ、落とす。
バリバリバリバリッ!!!
小屋の中に、凄まじいまでの、乾いた金属音が響き渡る。まるで、鎧の札を一枚一枚、強引に引き剥がすかのような、荒々しくも、極めて洗練された破壊の音。
――通常、鯛の鱗を剥ぐには「鱗取り」という専用の器具、あるいは包丁の刃元を用いる。それが料理における「常識(ルール)」だからだ。 しかし、本部のそれは違った。 後に、銀座に店を構えるある一流割烹の料理長は、この本部の手並みを聞かされ、驚愕のあまり数秒間、言葉を失ったという。 「信じられない……。小刀の『逆刃(みね)』だけで、あの強固な鯛の鱗を、身を傷つけずに剥ぎ落とすなど……。それは刃物の技術ではない。対象の分子の隙間に、正確に金属を滑り込ませる、一種の『超能力』だ」
間髪入れず、刃は、鯛の、腹へ。 すう、と皮一枚を残して、内臓を傷つけることなく、肛門から顎の下までが、一文字に裂かれた。現れる、どろりとした、暗紫色の内臓。本部はそれを、指先で、あるいは、戦場において敵兵の眼球を素手で引き抜く――あの、躊躇なき指使いで、一息に引きずり出した。 背骨にへばりつく、黒い、血の塊――血合い。そこへ、刃先が、コン、と。 細く、鋭い溝を刻む。真水が、そこへ、激しく注がれた。
ザーッ。
血が、瞬く間に洗い流され、そこには、白磁の如き、美しい、しかし冷徹な骨格が、むき出しとなった。 ここからが、真の「暗殺」であった。 本部の手首の、その、微細な回転。刃先は、鯛の、骨の、その、一番の「弱点」を、まるで見透かしているかのように、正確に、音もなく、通り抜けてゆく。 中骨の、その、一節目、二節目。カリ、カリ、と、鋼の刃が、骨の突起を軽やかに乗り越えてゆく、その微小な振動が、本部の指先を通じて、彼自身の脳へと、直接、快感となって伝わる。 サク……ッ。 右の身が、離れた。 ひっくり返し、左の身も、同様に。 まな板の上には、透き通るような、ほんのりと桃色を帯びた、美しい、鯛の、三枚に下ろされた身が、横たわっていた。それは、あたかも、剥ぎ取られた、極上の、絹織物のようでもあった。
「ほう、さすがは本部どの。骨の隙間を、まるで見えているかのように往く」
独歩は、その、本部の、無駄のない、あまりにも洗練された、暗殺者のような手並みを、恍惚とした、しかし、どこか油断のない、武芸者の眼差しで見つめていた。
「さあ、独歩どの。これを」
皿に盛られた、その、まだ、微かにピクリ、と動いているような、生命の残滓を宿した刺身。 独歩は、太い箸を、がし、と掴んだ。 一切れ、ではない。 三切れ、四切れと、その、まだ硬直すらしていない、瑞々しい、生命の塊を、惜しげもなく、まとめて、がば、と、挟み上げた。
醤油を、ほんの、わずか。
滴る。
白身の、その繊細な脂肪の筋に、じわ、と染み込んでゆく。
運ぶ。
躊躇いなど、あるはずもない。
独歩の、あの巨大な口腔へと――
――吸い込まれた。
――ッッッ!!!
独歩の、その、頑強な、顎の、骨が、肉が、一瞬、凍りついたかのように、硬直した。
モニュ……。
それは、およそ魚を噛む音ではなかった。 圧倒的な、弾力。 歯が、鯛の身の、その、強靭な、一本一本の、筋繊維を、断ち切ってゆく。 プチ、プチ、と、細胞が、口の中で、爆発するように、弾ける。 何という、歯応え。 何という、抵抗。
「おいおいおいおい……ッッ!!」
独歩の顔が、引きつった。両の口角が耳の近くまで裂け、まるで憤怒とも歓喜ともつかぬ、あの「菩薩の拳」を繰り出す直前のような、奇怪な笑顔が浮かび上がる。
「本部どの……ッッ! こいつは『魚(ウオ)』じゃねェ……。こいつは……『海』そのものだッッッ!!!」
――ッガッ!!! ――ゴキュウウッ!!!
独歩の、太い首筋の、筋肉が、波打つように、動く。 噛めば噛むほどに、鯛の、その、冷たい、しかし、濃厚な、脂の、甘みが、独歩の、舌の、その、無数の味蕾を、蹂躙するように、広がってゆく。
――美味い。 ――あまりにも美味すぎる。
それは、洗練という言葉の極致。冷徹なまでの鮮度がもたらす、至高の「暴力」であった。 噛み締めるほどにあふれ出る、生命の純粋なエッセンスが、脳の血管を、心地よく、しかし烈しく、内側から押し広げてゆくのがわかる。 この上なく濃厚でありながら、同時に、一滴の淀みもない、驚異的なまでの、キレ。 これほどまでに暴力的な快楽を、この男の肉体が、拒絶できるはずもなかった。
独歩の、その、頑強な、顎が、まるで、獲物を噛み砕く、猛獣の、それのように、規則正しく、そして、凄まじい速度で、動き続ける。
「ッ~ッッ!! 冷てェ……ッッ、冷てェのに熱いッッ!!」
バチバチバチッと、独歩の脳内でニューロンが極限速度でスパークする。 白飯が欲しい? 酒が欲しい? 冗談(ギャグ)じゃねェッッ。 この純度、この密度を前に、不純物(まじりもの)など断じて不要ッッ! ただこの圧倒的な『肉』と、己の『肉』が、口中という名のリングで真っ向からぶつかり合う、その事実だけで、男の闘争本能は完全に満たされていた。 彼の、その、隻眼から、一滴の、涙に似た、しかし、それは純粋な、悦楽の、汗が、頬を伝って、顎へと、落ちてゆく。
それを見た本部も、我慢がならぬとばかりに、箸を、がし、と動かした。 口へ、放り込む。
「フンッッ!!」
――ムシャァッ!!!
本部の、あの、厳格な、老武者のような顔が、一瞬にして、至福の、恍惚の、表情へと、歪んだ。 二人の、その、顎の、動く音だけが、薄暗い小屋の中に、響き渡る。 コキュ、コキュ、と、強靭な胃袋へと、その、大鯛の、肉が、吸い込まれてゆく。 それは、およそ、洗練された「食事」などというものではなく、生命が、生命を、文字通り、喰らい、尽くす、あの、原初の、最も純粋な、暴虐の姿に他ならなかった。
「ふぅ……」
やがて、あれほど巨大だった大鯛は、見る影もなく、ただの、白く乾いた骨格へと、その姿を変えていた。 独歩は、お茶を、ずず、と一口啜り、どこか遠い目をしながら、ぽつり、と呟いた。
「本部どの」 「はて、何でしょうな」 「一日に、地球に降り注ぐ太陽の光の量ってなァ、どれくらいだと思う」 「さあ……天文学的な数字、としか」 「一秒間に、およそ、原子爆弾十億個分だそうだ」
独歩は、自身の、あの、戦車をも凹ませる肉厚な掌を、じっと、見つめた。
「それだけの、莫大な熱量が、何億年も、この地球の『海』に降り注ぎ続けている。その、熱の、光の、すべてのエネルギーを、真っ向から受け止め、育み、濃縮したのが……さっきの、あの鯛の一片(ひときれ)だ」 「…………」 「つまりだ。俺たちはさっき、鯛を喰ったんじゃねェ」 「ほう」 「『太陽』を、喰ったんだ。この、五臓六腑でな」
本部は、少しだけ意外そうな顔をしたが、やがて、深く、深く、得心のいったように、小さく頷いた。
「なるほど。……道理で、胃の腑が、妙に暖かいわけだ」
生命(いのち)を喰らうとは、エネルギーの転換に他ならない。 宇宙が始まってから十四億年。 その、気の遠くなるような時間の果てに、今日、この真昼の釣堀で、二人の武芸者が、一尾の魚と出会った。 それは、あるいは、初めから決まっていた「約束」だったのかもしれない。 格闘技がどうだとか、武術がどうだとか、そんなことは、この「美味」の前には、およそ些事(小さなこと)に過ぎなかった。
ただ、生命がそこにあって。 ただ、それを、美味(うま)そうに喰らう男たちがいる。 ただ、それだけの、しかし、およそ地球上で最も完成された、美しい「調和」が、そこにはあった。
二人は、それ以上、言葉を交わさなかった。 ただ、薄暗い、潮の香のする小屋のなかで、静かに、湯呑みを置く。 その、わずかな、しかし、確かな、陶器の響きだけが、海の、寄せては返す、あの、悠久の、波の音と、見事に、調和して、消えてゆくのであった。