煤けたベニヤ板。行き場を失った湯気がじっとりと滴に変わり、独歩の脳天へとまっすぐに落下した。
ピチャ……ッ。
水滴は、禿げ上がった頭皮に触れた瞬間にジュッと音を立てて消えた。ただ、それだけだ。そこには感情も、武術的な意味もない。ただの物理的な蒸発だった。
冬のおでん屋──。
四半世紀は使い込まれたアルミの角鍋の中で、琥珀色の汁がグラグラと煮えくり返っている。
すでに、二人の前にはいくつかの空皿が重ねられていた。
大将は、自らの手元の手垢のついた伝票をじっと見つめている。先ほどからこの二人の老人は、大根、ちくわぶ、牛筋、それらをただ無言で、機械のように胃袋へ放り込み続けている。大将には、彼らが何を考えているのか全く分からない。ただ、この寒さの中で、彼らの座るカウンターの周囲だけ、妙に空気が乾燥していることだけが不気味だった。自分の指先が、なぜかさっきから冷や汗で滑る。気のせいだと思いたかった。
「あの最凶死刑囚のドリアンって男に、左手首を爆破・切断された時な……」 独歩が、残された左目で隣の老人をねめつけた。
「周囲のドクターどもは、もう空手家としては終わりだとぬかしやがった。だがな、繋がっちまえばこっちのもんだ。人間の肉体の神秘、近代医学の進歩、それらをすべて統括するのが、この俺の『武』よ。手首が繋がるなら、胃袋に叩き込んだエネルギーが、コンマ数秒で拳の破壊力へ変換されるのも、これまた当然の理(ことわり)よ」
「フフ……相変わらず景気がいいねえ、愚地さんは」
隣で、小さな影が動いた。
渋川剛気。 眼鏡の奥の細い目をさらに細め、ちくわぶを喉の奥へと滑り落とす。その細い首の皮の下を、強烈なカロリーがゴキュリと胃の腑へ収まった。「しかしねえ。武術なんてもんは、そうやって肩肘張って力(りき)むもんじゃありゃせんよ。どれほど頑丈な胃袋を持っていようが、どれほど強靭な肉体を持っていようがね……」 カツン。
渋川が箸を置いた。
その瞬間、屋台の空気が、キリキリと音を立てるほどの緊張感で満たされる。 大将の手が完全に止まった。
アルミの角鍋の中。
グラグラと煮えくり返る琥珀色の海の中心に、それは佇んでいた。
最後の一つ。 これ以上ないほどに出汁を吸い尽くし、漆黒に近い琥珀色に染まりきった、極上の大根。
「最後のこればかりは、譲れんねえ」
「奇遇だな、旦那。俺も、今ちょうどそれを注文しようと思ってたところだ」
二人の間にある一尺二寸の空白。
かつて地下闘技場の最大トーナメント準決勝、あの「伝説の達人対決」で互いの顎を粉砕し合った、因縁の距離。
動いたのは、同時──ッッ!!!
独歩の分厚い右手が、鍋の中の大根へとまっすぐに突き出される。箸ではない。肉を裂き、骨を砕く「菩薩の拳」の型、そのままの貫手ッッ! 対する渋川の右手。それは、ただの箸。
刹那。 独歩の指先が大根の表面に触れる、そのわずかコンマ数ミリ手前。 渋川の箸の先が、独歩の「手首の腱」を、ほんのわずかに、しかし完璧な角度で横から突いたッッ!
──合気。 それは、相手の放ったベクトルの力を、そのまま相手に返す技術。
独歩が放った、大根を掴み取ろうとする前進のエネルギー。それが渋川の箸という最小の支点によって、一瞬にして「独歩自身の右手首を外側へ跳ね上げる力」へと変換(シフト)される!
ガガッ……ッ!!!
独歩の巨躯が、自らの放った推進力によって、カウンターの上でわずかに右へとよろめいた。
勝負あり──ッッ! 誰もがそう確信した瞬間。
「甘いな、旦那」
独歩の左手が、よろめいた身体の回転をそのまま利用し、凄まじい遠心力を伴って鍋の中へと、鞭のようにしなって滑り込んだッッ!
合気によって崩された姿勢そのものを、次の攻撃の予備動作へと変えてみせる。これぞ、闘争の修羅場をくぐり抜けてきた武神の、本能的なまでの対応力!
バシャアッッ!!! 沸騰する出汁が派手に飛び散る。
大根を掴み、口腔へと放り込んだのは──愚地独歩ッッ!!!
ガブッッッ!!!! ゴニュッ、ジュブ、ゴキュウッッッ!!! 100度の出汁を限界まで孕んだ大根が、独歩の獰猛な咀嚼によって一瞬で圧壊され、胃袋へと叩き落とされる。
「……ふう」
独歩は、短く、しかし地鳴りのような呼気を吐き出した。
「悪ィな旦那。この大根(ハナシ)は、俺の勝ちだ」
独歩はニヤリと下品に笑い、親指で自分の胸を指した。
「次は神心会の道場でな、この大根の代わりに、アンタのひょろ長い骨を一本ずつ極上に味付けして、へし折ってやるぜ」
「いやはや。元気だねえ」
渋川は、やれやれと肩をすくめ、残った汁をごくりと飲み干した。先ほどまでの刺すような殺気は、霧が晴れるように消え失せている。そこにあるのは、ただの老人の乾いた呼吸だけだ。
「あいよ、お勘定」
独歩が札をカウンターに叩きつけ、二人の老人が主席を立つ。
暖簾をくぐり、冬の暗闇へと消えていく二人の背中は、屋台に入る前よりも明らかに一回り巨大化し、皮膚には瑞々しいまでの張りが戻っていた。
冬の夜風が激しく吹き荒れる。しかし、二人の歩みを止めるには、今夜の東京はあまりにも寒さが足りなかった──ッッ!!!