刃牙偽外伝 愚地独歩と奇天烈格闘家の食べ道楽   作:夏目陽光

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愚地独歩とノムラが秋葉原コラボカフェでコラボメニューを食う話。

看板には、ただ『戦記美少女・鉄と硝子園』とだけ、いささか無機質な明朝体で書かれていた。地下へ続く階段は、湿ったコンクリートの匂いと、どこか安直な、しかし執拗な甘ったるいバニラ・エッセンスの匂いで満ちていた。

階段を降りていく二つの影の対比は、それ自体が一種の奇妙な幾何学を形成している。

 

一人は、首という器官を画布から削ぎ落としたかのような巨漢、愚地独歩である。彼の存在は、その空間の容積を物理的に圧迫していた。着古した作務衣の隙間から覗く首筋の傷痕は、古い漆器のひび割れに似て、光を鈍く跳ね返している。

もう一人は、軍用外套の襟を立て、自らの輪郭を世界から隠蔽しようとしている男――ノムラ。彼は何かに怯えるように、あるいは内なる別の「何か」を宥めるように、一枚の印刷物を握りしめていた。それは、限定特典の『光学迷彩仕様・特製アクリルキーホルダー』の写真が印刷された、コラボカフェの宣伝チラシだった。

 

「本当に、よろしいのですか。独歩殿」

 

ノムラは、上目遣いに巨漢を仰ぎ見た。その声は、地下への階段の闇に吸い込まれそうなほどに細い。

 

「何がよ。奢りだってんだろ」

 

独歩は、隻眼を小刻みに動かしながら、豪快に笑った。

 

「その、なんとかいうプラスチックの玩具は、お前さんが全部持って帰ればいい。ワシに必要なのは、腹を満たすという厳然たる事実だけだ。パフェだか泥水だか知らんが、タダで食えるという誘い(オファー)を、この愚地が断る理由(わけ)がなかろう。……それに、お前さんのような『戦場の専門家』が、一体どんな場所へワシを案内するのか、いささか興味もあった」

 

自動ドアが、乾いた、錆びついたような音を立てて左右に開いた。

 

「いらっしゃいませ、指揮官サマ!」

 

「……正確には、前線のパロディ、あるいはその幽霊です。でも、僕にはこれが必要なんです。この『記号』を持っておかないと……僕の中の彼が、暴れだしてしまう」

 

ノムラが弄ぶポケットの底には、すでに『グッズ引換券』が準備されていた。彼の網膜は、ピンク色に塗られた突撃銃の銃口が、完全に塞がったプラスチックの一体成型であることを瞬時に見抜いている。ここには硝煙も、恐怖によって収縮する括約筋の震えもない。あるのはただ、「戦場」という記号の、安価な大量消費だけだった。

 

二人が通されたのは、ベニヤ板に迷彩柄の塩化ビニールシートを貼った、簡便な机だ。

そこには『重巡洋艦・天城の対空炸裂パフェ』や『第101空挺部隊・泥濘のMRE風特製カレー』といった、奇怪な名前の並ぶ食物の目録(作戦指令書)が並んでいる。

 

「これだ。この、天城とかいう、頭に鉄の皿を載せた娘の菓子をもらおう。ノムラ、お前さんはその泥のカレーだな」

 

独歩の太い指が、パフェの写真をなぞった。その指先は、かつて数多の野生の猛獣の肉を引き裂き、頑強な石壁を粉砕してきたものだ。

注文を受けた給仕の少女は、一瞬、独歩の「武神」としての圧倒的な質量に気圧され、言葉を失った。しかし、マニュアルという名の、内務班の規則よりも厳格なプログラムが、彼女の唇を動かした。

 

「……かしこまりました、指揮官サマ。天城のパフェには、美味しくなる『弾幕の呪文』が必要となりますが、よろしいでしょうか」

 

「呪文?」

 

独歩は可笑しそうに、その傷だらけの顔を歪めた。

 

「構わん。撃ってみろ」

 

少女は、自らの指でハートの形を作り、震える声で叫んだ。「きゅんきゅん、テーーーッ(撃て)!」

 

その瞬間、独歩の身体が、微かに、しかし確実に数ミリメートルほど沈み込んだ。三戦(サンチン)の構え。彼の皮膚は、少女の放った「言葉の弾丸」を、本能的に致死性の飛び道具と誤認したのだ。だが、何も起こらなかった。空気の振動が、ただ甘ったるい空間に霧散しただけだった。

 

「なるほど」独歩は小さく息を吐き、構えを解いた。「目に見えん気功の類かと思ったが……ただの空気の玩具だな。いや、悪くない」

 

その傍らで、ノムラは恭しく、少女から手渡されたアクリルキーホルダーを受け取っていた。その透明なプラスチックの片面に刷られた、銃を構えるデフォルメされた少女の絵を、ノムラはまるで砂漠で発見した不発弾の信管でも扱うかのように、慎重にポケットへと収めた。

 

やがて運ばれてきた『対空炸裂パフェ』は、一種の悪夢のような造形をしていた。

青色一号で着色された夥しい量の生クリームの塔。その頂点には、軍艦の煙突を模したと思しき、黒く焦げたウエハースが突き刺さっている。そして、周囲には、パチパチと音を立てて弾ける炭酸キャンディの破片が散りばめられていた。

 

独歩は、金属製の、いささか華奢すぎるスプーンを手に取った。

 

独歩は、生クリームの塊を掬い取り、口内へと運んだ。

その瞬間、彼の表情から一切の感情が消えた。

 

――甘い。

しかし、それは栄養としての甘味ではない。舌頭の味蕾を、直接、化学物質の暴力で麻痺させるような、純粋な「糖」の恐怖。口の中で、炭酸キャンディが小さな、しかし連続的な爆発を起こす。パチ, パチ, パチ, と。

 

「……ほう」

 

独歩の内部で、何かが駆動し始めた。

彼は目を閉じ、自らの口腔という名の戦場に意識を集中させた。

これは、かつて戦時中に味わった、配給の粗悪なサッカリンの記憶ではない。あるいは、空腹の極みで舐めた、泥水に混じる鉄の味でもない。これは「平和」という名の、過剰に保護された無菌室の中で精製された、悪意のない毒物(ドラッグ)だ。

 

「ノムラよ。これは……戦いだぞ」

 

独歩の声は、低く、地鳴りのように響いた。

 

「このパフェという奴はな、容赦がない。職人のこだわりも、素材の吟味もねえ。ただ『可愛い』という、実体のねえ幻影(まぼろし)の押し売りだ。この愚地の胃袋に、砂糖の散弾を撃ち込んできやがる。見てみろ、この炭酸の弾ける様を。これは、ワシの細胞ひとつひとつに、不意打ちを食らわせているんだ。なるほど、お前さんが身銭を切ってまでワシにこれを食わせたかった理由が分かった。これは一種の『試練』だな」

 

ノムラは、自らの前に置かれた『泥濘のカレー』を見つめていた。それは、あえて不整形に盛られた玄米の上に、どす黒いルーがかけられ、プラスチックのシャベル型スプーンが突き刺さっているものだった。

ノムラは、そのスプーンを握った。彼の指先が、微かに変化する。ノムラから、ガイアへ。内なる戦士が、その「泥」を検分する。

 

「……15グラム。この皿に盛られたガラムマサラの過剰な含有量です。これを一気に摂取すれば、人間の交感神経は強制的に過呼吸(ハイ)のコンディションへと叩き込まれる。独歩殿……このまやかしは、本物の硝煙(リアル)よりよっぽどエグい。これは単なる欺瞞(マヤカシ)ではない。合法的に兵士の戦闘スイッチを入れるための……一種の『配給(ドラッグ)』ですッッ!」

 

ガツッ!!! ガガツッッッ!!!

 

独歩の持つ金属スプーンが、まるで重機のようにパフェの山へと突き立てられた。

一掬いで、優にソフトクリーム二個分はあろうかという青い生クリームの塊が、独歩の巨大な口腔へと強引に拉致される。

 

ジュブツッ……シィィィィィィッッッ!!!

 

「ぬううううっっ隔!!!」

 

独歩の強靭な顎が、一気呵成に咀嚼(カム)!!!

植物性脂肪のねっとりとした過剰なコクと、香料の強烈なアタック。

麻薬(ヘロイン)の密売人が、純度を確かめるために白い粉を舌頭(ベロ)に乗せるあの瞬間(とき)――。

脳を直接マヒさせる電撃的な刺激が、独歩の全身の神経を駆け抜けた。

 

直後、口内全域で無数の炭酸キャンディが地雷原の如く一斉に爆破する。パチパチパチパチパチッッッ!!!

だが、武神の咀嚼は止まらない。

バリッ! ボリィィッッ! と、炭化したウエハースを前歯で容赦なく叩き潰し、冷え切った缶詰のミカンを奥歯の圧倒的な圧力で圧搾(プレス)するッッ! 溢れ出す暴力的なまでの果汁と、劇薬じみた糖分の奔流!!!

 

「美味(うめ)え……ッッ!!! 五臓六腑が……叫んでやがるッッ!!!」

 

独歩の首筋の血管が、ミミズのようにドクドクとのたうった。粗悪で、安価で、過剰。だからこそ、人間の原始的な生存本能をダイレクトに直撃する、これぞ紛れもない「美味(ちそう)」!!!

 

その対面では、ガイアがシャベル型スプーンを猛烈な速度で往復させていた。

 

バハッッ!!! ガツガツガツガツッッッ!!!

 

どす黒いルーを纏った玄米の塊が、吸い込まれるように彼の喉奥へと消えていく。

過剰なガラムマサラの粒子が、口腔の粘膜から直接毛細血管へと浸透し、交感神経を強制駆動させる。ハァッ! ハァッ! と、激しい呼気とともに、ガイアの全身から滝のような汗が吹き出した。

 

「これだ……この、脳髄を強打(ジャブ)してくるかのようなスパイスの暴力……ッッ!! たまらない……ッッ!! 五感が、戦場の最前線(リアル)へと引き戻される……ッッ!!!」

 

二人の怪物は、一言も交わさず、ただひたすらに喰らい続けた。

クチャクチャといった不快な音ではない。ゴキュッ、バリッ、ズズズッッ、という、肉体という名の極上のエンジンが、燃料を限界まで燃焼させているかのような、心地よくも凄まじい駆動音。

 

――そして、さらに数十分が経過した。

すでに皿は空である。とっくに空である。

にもかかわらず、愚地独歩のスプーンは、いまだに硝子(ガラス)の器の底を、ガリッ、ガリッ、と狂ったように削り続けていた。

一滴の生クリーム、一粒のキャンディの残滓すら逃さぬ、恐るべき執念(しがみつき)ッッ!

対面のガイアもまた、完全にルーの消え失せた皿の表面を、シャベル型スプーンで削り、火花が散るほどの摩擦音を響かせている。

二人とも、完全に「入って(トリップして)」いた。

周囲のアルバイト店員たちは、その異常な引き延ばし(ロング・ラン)の光景に、恐怖を通り越してただ硬直するしかなかった。

 

……ガチ。

ようやく、独歩の手が止まった。

備え付けの、美少女の顔が印刷された紙ナプキンで、豪快に口元を拭う。ナプキンには、青いクリームの残滓が、まるで闇討ちされた夜盗の体液のように付着していた。

 

「ごちそうさん」

 

独歩が立ち上がると、その風圧だけで、隣の席に飾られていたアクリルスタンドが、カタカタと震えた。ノムラは伝票を手に取り、財布から手際よく紙幣を出して会計を済ませた。

 

店を出て、再び湿った地下の階段を登り、初夏の、べたついたアスファルトの街へと戻ったとき、独歩は大きく息を吐いた。彼の呼気からは、まだ微かに、人工的なバニラの匂いが漂っていた。

 

「どうだった、ガイア。あの空間は」

 

外套の襟を掴んだノムラは、すでに元の、気弱そうな少年の視線に戻っていた。彼は、ポケットのプラスチックの輪郭を指先で確かめながら、困ったように笑った。

 

……胸が焼けます。でも、不思議ですね。あの偽物の戦場を出た今の方が、僕たちが出会ったこの現実が、より奇妙な、実体のないものに思えてくる。まるで、僕たち自身が、誰かの描いた劇画(ホン)の登場人物にすぎないかのような。

 

「ワハハハ!」

 

独歩は、ノムラの肩を、骨が軋むほどの力で叩いた。

 

「そいつはいい。もしワシらが誰かの描き文字(オノマトペ)の中に生きているんだとしたら、その作者の肝臓を、この正拳で一突きにしてやるまでよ。だがなノムラ……たまには、こういう変てこな前線へ付き合うのも悪くない。次があるなら、また別の玩具を狙うといい。ワシの胃袋は、いつでも空けておくからよ」

 

――なるほど。

 

独歩の隻眼が、獰猛に細められた。

アクリル製のプラスチック片。ただのゴミだ。

だが、あの最凶死刑囚・スペックが「無敗の神話」という幻想(まぼろし)に縋り、あの海王たち(カイオウ)が「歴史」という看板を後背に背負ったように、この戦場帰りの若者もまた、この『戦記美少女』というあまりにもチープな偶像(レプリカ)に自らの闘争心を繋ぎ止めている。

戦うための「錨(アンカー)」として。

 

それがいかに滑稽で、いかに安価な玩具であろうとも、執着するその一点において、この男の「飢え」は本物(リアル)だ。

 

「……合格(いい)じゃねえか」

 

独歩の唇が、凶悪な歓喜に歪む。

いた。ここにも、まぎれもない「狂人」が一人。

かつて地下闘技場で、己の拳骨だけを信じて殺し合ったあの怪物たちと、全く同じ熱量(ワット)を持った生命体。それが、この現代の、バニラの匂い漂う秋葉原の片隅に、確かに息づいている。

 

感動ではない。

共感でもない。

あるのはただ、同類を見出したことへの、五臓六腑を震わせる「闘争の肯定」のみ。

 

独歩は、自らの分厚い拳を握り締め、茜色に染まる誰もいない空に向けて、爆音(ノイズ)の塊を叩き込んだ。

 

ボッッッッッッッッッッッッッ!!!

 

空気が、肉厚な肉塊の衝突によって、凄まじい衝撃波(ソニックブーム)を撒き散らした。

周囲のビルの窓ガラスが一斉に不穏な悲鳴を上げ、通行人たちが何事かと耳を押さえてうずくまる。

 

だから何だと言うのか。

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