刃牙偽外伝 愚地独歩と奇天烈格闘家の食べ道楽   作:夏目陽光

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愚地独歩と範馬勇次郎が焼肉屋で焼肉を食べる話。

ガブシャァッッッッ!!!

 

肉の脂が炭火に爆ぜる、その金属の弾けるような、しかしその実、鼓膜ではなく脳を直接揺らす決定的な音が、静寂という名の「重圧」に支配された空間を震わせていた。一人は「武神」・愚地独歩。もう一人は「地上最強の生物」・範馬勇次郎。赤坂の路地裏。看板すら出さぬ会員制最高級焼肉店『〇〇』の店長・佐藤(仮名・勤続20年)は、後に前額部の冷や汗を何度も何度も無呼吸で拭いながら、こう語った。「あの夜のことは、今でも夢に見ます。お部屋の前に立った瞬間、サウナでもないのに全身から汗が噴き出し、膝がガクガクと震えて……。お肉をお持ちした時、私はお二人の『影』を見たんです。畳の上に、巨大なオーガと、獰猛な虎の影が、確かにのたうい、噛み合っていました。生きた心地がしなかった……」独歩は、皺の刻まれた無骨な手で、ゆっくりと生ビールの大ジョッキを持ち上げた。かつて数多の猛獣を屠り、巨大なコンクリートを紙細工のように粉砕してきた、傷だらけの拳。それが今は、黄金色の液体を湛えたガラスの器を包み込んでいる。「……しかし、驚いたねェ。あの『オーガ』が、わざわざ俺みたいな老いぼれを焼肉に誘うとは。明日は槍でも降るんじゃねェか?」独歩の声音は、一見すると気のいい近所のご隠居のそれだ。だが、その眼帯に覆われていないもう一方の目は、獰猛な光を完全に消し去ってなどいない。胡坐をかいた両足の角度、膝の置き方、背筋の微細な伸び。それらすべてが、相手がどの角度から、どんな速度で襲いかかってこようとも、一瞬で「正拳突き」へと移行できる完璧な虚実を孕む。半世紀以上の歳月を武に捧げた漢の「無意識の構え」がそこにあった。アニメの画面越しに聞こえてくるかのような、あえてねっとりと、しかし一音一音に狂気的な重量感を孕んだあの独特の間(ま)。言葉の終わりに向けて、空気を押し出すような独特の抑揚。対する範馬勇次郎は、背もたれもない座椅子に、その巨体を深く預けていた。異常なまでに発達した広背筋が、特注のシルクのシャツを内側から張り裂けんばかりに押し広げている。勇次郎は鼻でフンと笑うと、目の前に置かれた最高級の黒毛和牛、その美しくサシの入ったサーロインの塊を見下ろした。その声は、低い。低音の振動が、部屋の空気を物理的に震わせ、コンマ数秒の絶対的な空白(ディレイ)を強制する。アニメの音響監督が「これ以上セリフの間を開けるな」と悲鳴をあげる限界を超え、キャラクターが己の意思で時間の流れを支配するかの如き、傲慢なリズム。「老いぼれだと? 笑わせるな、独歩。貴様のその腐りかけた五体から放たれる、その『枯れたフリをした』悪臭が、ここまでプンプンと匂ってきているぞ。老醜を晒す前に、その貧弱な牙を少しは研ぎ直したらどうだッッ」勇次郎の喋り方は、常に傲岸不遜。他者との対話を目的とせず、ただ一方的にねじ伏せるための絶対的な言語だ。「……フン、どこまでも『型』にこだわる男だ。敗北の痛みを忘れ、それを『糧』などと綺麗にパッケージする。貴様ら武芸者のその『女々しいポジティブさ』には……反吐が出るほど、退屈せんッッ」勇次郎の指が、太いトングを掴んだ。その動きには、一切の躊躇がない。彼は肉を網の上へと、叩きつけるように置く。

ドシュゥッッッッ!!!

肉が焼ける香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広げる。勇次郎は、まだ表面にうっすらと血が浮き出ている段階で、肉を豪快にひっくり返した。網の上に、鮮やかな焦げ目がつく。だが、内側はまだ完全に生だ。レア、などという生ぬるい言葉では表現できない。それは、屠殺されたばかりの獲物の生命力を、そのまま残した状態。「喰うぞ」勇次郎が短く言い放つと同時に、タレにも、塩にもつけず、その巨大な肉の塊を箸で掴み、そのまま口へと放り込んだ。ボッゴォッッッ!!!強靭な咀嚼筋と、ダイヤモンドすら砕く歯列が、肉の繊維を瞬時に「破壊」する音。勇次郎の顎が、凄まじい速度と圧力で動く。彼の頬の筋肉が、まるで独立した生き物のように躍動していた。生物学的限界――?現代医学の常識――?一蹴ッッッ!!!範馬勇次郎という『枠外(アウトサイド)』の前に、現生人類のデータなど一切が無意味ッッッ!通常、現生人類が動物性タンパク質を摂取した際、胃腺から分泌されるペプシノーゲンが塩酸によってペプシンへと活性化し、主たる消化を担う。測定を試みた最新鋭のpHメーターは、その胃液に触れたコンマ数秒後、ガラス電極ごとドロドロに融解(と)けた。マイナス領域――!科学が算出したその数値は、データではなく、機械がオーガの五体に恐怖した『悲鳴』に過ぎないッッッ!!ワニ、あるいはハイエナのそれを遥かに凌駕する超高濃度酸性液体。それは口腔内での超高速咀嚼によって細胞壁を破砕された肉を、胃袋に到達したコンマ数秒でアミノ酸レベルへと「炭素結合の崩壊」を引き起こさせる。要するにッッッ! 溶けるのであるッッッ!!文字通り、喰った瞬間に血肉へと変換する。ゴキュッ。一瞬でその塊を胃袋へと送り込んだ勇次郎は、さらに肉を網へ叩きつける。ドシュううぅッッ!ハラミ、カルビ、リブロース。一切の秩序を排し、猛烈な勢いで網の上が肉で埋め尽くされていく。ガブシャッ! ボッゴォッッッ!引き裂かれ、粉砕される肉塊。タレを弾き、脂を撒き散らし、ただ純粋な「質量」として勇次郎の口腔へと吸い込まれていく。その様は食事ではない。まさに暴風。あるいは漆黒のブラックホール。独歩は肉を焼く手すら止められ、ただ冷や汗を流しながら、その圧倒的な捕食の光景に圧倒されていた。手にしたビールジョッキが、勇次郎の顎が鳴らす重低音の振動で微かに共鳴している。「……悪くない。血の味が肉の甘みを引き立てている。独歩、貴様もチンタラしてると、俺がすべて平らげるぞ」その言葉に、独歩は苦笑しながらも、自分の分の肉を網に載せた。独歩の焼き方は、じっくりと、だが確実に、肉の中心部まで熱が伝わるを見極める。彼の目は、網の上の肉の一瞬一瞬の変化を見逃さない。「いやいや、慌てなさんな。牛(こいつ)だってね、天下の範馬勇次郎と愚地独歩の血肉になれるんだ。冥土の土産にゃ、これ以上ねェだろ? だからこそ……完璧に(ベストに)美味く喰ってやらなきゃあ、嘘だろ……」独歩の喋り方は、柔らかい。だが、その言葉の節々には、確固たる「個」の哲学、ベースにある「強者が喰ってやるのだから光栄だろ」という圧倒的な傲慢さが詰まっている。彼は肉が完璧なミディアムレアになった瞬間を見計らい、サッと箸で持ち上げた。そして、自家製のタレに軽く潜らせ、口に運ぶ。ハフ、と。ガチュッ……ジュウゥッッ。独歩が肉を噛み締めた瞬間、口腔内で弾けたのは、ただの脂ではない。熱を帯びることでゼラチン質へと変貌したコラーゲン、そして特製ダレの醤油成分が加熱され、焦げる寸前で固定された「香気の爆弾」だ。「――ほう」脳漿が薄まるほどの美味ッッ!五臓六腑が完全に平伏する圧倒的肉圧!咀嚼の度に、緻密に計算された肉の繊維が一本ずつ解け、濃厚な肉汁が舌の味蕾をダイレクトに蹂躙していく。鼻腔を突き抜けるのは、炭火特有の燻煙香。独歩の脳内に、溢れんばかりの幸福物質(エンドルフィン)が分泌される。美味い――。それはグルメの領域を超えた、細胞が歓喜の悲鳴を上げる美味。独歩は食べた後に、一度だけゴクリと大きく喉を鳴らす。そして、間髪入れずに生ビールをグイと煽る。「プハァッ! これだ。このために生きてると言っても過言じゃねェ」独歩のその姿は、実に生々しい泥臭さに溢れていた。彼は「武神」として神格化されながらも、同時にヤクザの組長すら震え上がらせる裏社会のドンとしての凄みを、その無駄のない捕食行動の中に潜ませている。それを見ていた勇次郎は、どこか不愉快そうに目を細めた。「相変わらず、ちまちまとした喰い方をする。独歩、貴様のその『丁寧さ』が、時に貴様の武を小さくまとめているとは思わんか?」独歩はビールジョッキをテーブルに置くと、その隻眼で勇次郎を真っ直ぐに見据えた。「小さくまとめる、かねェ。そいつは心外だな。俺の空手はね、勇次郎さん。万物を、この両拳の中に収めるためにあるんだ。丁寧ってのは、それだけ対象を隅々までコントロールできているってことの証左さ。肉の焼き加減一つ、自分の思い通りにできなくて、どうして他人の五体をコントロールできようかね?」「ほう……」勇次郎の口元が、歪な笑みの形に釣り上がった。勇次郎の全身の毛穴が開き、濃厚な闘争のフェロモンが室内に充満していく。だが、ここは戦場ではない。焼肉屋だ。勇次郎はその昂ぶりを、次の肉を喰らうことでねじ伏せた。今度は、特上のタン塩だ。彼はそれを数枚まとめてトングで掴むと、網の上に乱暴に放り投げた。タン塩が、瞬時に縮み、反り返る。勇次郎はそれを、レモン汁に浸すこともなく、そのまま口に放り込んだ。「フン、歯ごたえが足りん。だが、悪くはない」勇次郎は喰いながらも、その視線を独歩から外さない。独歩もまた、勇次郎の視線を受け止めながら、自分のペースを崩さずにタンを焼いていた。「タンってのはね、このサクサクとした食感が命なんだ。勇次郎さん、あんたみたいに丸呑みしちゃあ、その最高の瞬間をドブに捨てるようなもんだぜ」独歩はタンに軽くレモンを絞り、口にする。「……ん、素晴らしい。この歯ごたえ、これこそがタンの醍醐味だ」部屋の温度が、じりじりと上昇していく。二人の漢が放つ、目に見えないエネルギーの衝突が、空気の分子を激しく振動させているのだ。その時、網の中央で、一際見事なサシの入った極上のシャトーブリアンが、完璧な狐色へと焼き上がった。滴る脂が炭を叩き、パチィィンと鋭い音を立てる。その瞬間、二人の動きが完全に静止した。時間は流れている。しかし、流れていない。会話は継続している。だが、網の上の「一点」を巡る、眼に見えぬ攻防。「独歩……」勇次郎が、箸を持った手を微動だにさせず、視線だけで独歩の顔面を射抜く。「貴様、その箸先。俺の領域にコンマ数ミリ喰い込んでいるぞ」「おいおい、そいつは気のせいだ、勇次郎さん」独歩の隻眼が、にやりと細められる。彼の右手は、箸を信じられぬほど脱力させて保持していた。いつでも「三戦」の構えから、音速を超える速度で突き出せる弛緩状態。「肉ってのはね、一番美味いタイミングで行くのが『礼儀』ってやつさァ。そこに誰の領域だなんて能書きは……無用だろ?」「フン……面白い。通してみろ、貴様の『空手』を」勇次郎の箸が、肉を囲む大気の分子ごと固定するように、絶対の圧を放ち始める。ほんの数十センチの空間。もし素人がこの中に手を突っ込めば、両者の放つ風圧だけで肉が引き裂かれるほどの超高密度。言葉を交わしながらも、二人の無意識はすでに、網の上の肉を巡る「打撃の交差」を数千手先までシミュレートしていた。動けば、終わる――。ではないッッッ。すでに始まっているのだ。網の上の熱気、上昇する煙の揺らぎ、そのすべてを互いの網膜が、毛穴が、1秒に数千回の高精度で演算(シミュレート)し尽くしている。箸を伸ばす――。その極小の一動に、いかなる理由(能書き)が必要か。勇次郎は、手元にある高級な芋焼酎のロックグラスを傾けた。カラン、と氷が鳴る。「独歩。貴様はかつて、俺との戦いで片目を失った。そのことについて、今でも俺を怨んでいるか?」唐突な、しかし極めて直球の問いであった。だが、独歩は微塵も動揺しなかった。彼はビールを一口飲み、ふう、と息を吐き出すと、自分の眼帯に触れた。「怨む? まさか。そいつは買い被りってやつだ、勇次郎さん」独歩の喋り方は、一切の虚飾がなかった。「あの戦いは、俺の人生の中でも最高の瞬間の一つだった。あんたという『本物』を相手に、自分の空手がどこまで通じるか、あの時はただそれだけで頭がいっぱいだった。片目を失ったのは、俺の技術が足りなかった、ただそれだけのことさ。むしろ、あの戦いのおかげで、俺の空手はもう一段階、深いところへ行けた。感謝してるくらいさね」独歩の無意識の思考は、過去の敗北を「負の遺産」としては捉えていない。すべては、自らの「武」を完成させるためのプロセス。独歩の言葉を聞いた勇次郎は、しばらくの間、無言で独歩を見つめていた。代わりに浮かんでいたのは、一人の武を志す者としての、極めて冷徹で真摯な表情であった。「……フン、どこまでも『型』にこだわる男だ」勇次郎の声は、低く、部屋の床を微かに震わせた。「敗北の痛みを忘れ、それを『糧』などと綺麗にパッケージする。貴様ら武芸者のその『女々しいポジティブさ』には……反吐が出るほど、退屈せんッッ」「おい、店員。一番良い肉を、あるだけ持ってこい」勇次郎が部屋の外に向けて、地響きのような声で命じた。すぐに、先ほどの料理長・佐藤が、霜降りの見事なリブロースや、深紅に輝くハラミが山盛りにされた大皿を運んできた。その指先は、恐怖で小刻みに震えている。「置いていけ」勇次郎の一言で、佐藤は脱兎のごとく部屋を去った。「さあ、独歩。ここからは、どちらがより多くの『命』を、己の肉体に取り込めるかの勝負だ。技術も、能書きも、すべてその胃袋の底に沈めてみせろ」勇次郎が、再び肉を網の上に敷き詰めていく。独歩はそれを見て、豪快に笑った。「ハハハ! 望むところだ、勇次郎さん。大食いじゃあ、流石の俺もあんたには敵わんかもしれんが……この老いぼれの意地、見せてやるよ!」独歩もまた、トングを握り締め、肉を掴んだ。ここからは、言葉による会話は不要だった。二人の漢は、ただひたすらに、目の前の肉を焼き、喰らい、互いの「存在」を確かめ合っていた。

ドシュゥッッッッ! ドバチチチッッ!

肉の焼ける音が絶え間なく響く。独歩は、肉を喰らいながら、脳内でかつての勇次郎との死闘を、無意識にリプレイしていた。あの時の、あの拳の重さ……あれは、ただの筋肉の質量じゃねェ。この世のすべての『暴力』を、一点に凝縮したような……。独歩の指先が、無意識にピクリと動く。それは、勇次郎の突きを受け流すための「廻し受け」の軌道を、極小の動きでなぞっていた。それを見逃す勇次郎ではない。「独歩、肉を喰いながら、俺を殺す算段か?」勇次郎が、ハラミを噛みちぎりながら、獰猛な笑みを浮かべて言った。「まさか。ただの、老人の昔話さァ」独歩は飄々と答え、ビールを飲み干した。「……しかし、美味いねェ。こうして、あんたとサシで肉を突っつける日が来るとは、夢にも思わんかったよ」食事は、終盤に差し掛かっていた。テーブルの上には、数十枚の空になった皿が積み上がっている。普通の人間であれば、とっくに胃袋が破裂している量だ。だが、二人の漢の顔には、満腹感による疲労など微塵もなかった。勇次郎は、最後の肉――一際巨大な、骨付きのカルビを網の上に載せた。「これが最後だ、独歩」勇次郎の声は、どこか厳かであった。肉がじっくりと焼けていく。その様子を、二人は無言で見つめていた。この部屋に流れる「気」は、すでに食事の域を超え、一種の聖域のような洗練さを帯びていた。勇次郎は、焼き上がったその巨大な肉を、自らの手で二つに引き裂いた。骨ごと、素手で、まるで柔らかいパンでも引き裂くかのように。バキサクッッ!!!「喰え」短く、重い一言。独歩は、その肉を見つめ、そして勇次郎を見た。「……ありがたく、いただくよ」独歩は箸を使わず、その肉を素手で掴んだ。肉の熱さが、手のひらに伝ってくる。だが、彼の皮下組織は、その程度の熱ではびくともしない。独歩は、その肉にガブリと噛みついた。肉汁が、口いっぱいに広がる。骨の周りの、最も旨味が凝縮された部分。独歩はそれを、一切の無駄なく、自らの体へと取り込んでいった。勇次郎もまた、自らの分の肉を、豪快に噛み砕いていた。ゴキィッッ、バキッ。二人の漢は、同時に肉を飲み込んだ。そして、深い、深い息を吐き出した。ロースターの火が、消された。部屋には、微かな脂の匂いと、二人の漢の静かな呼吸だけが残されていた。勇次郎は、手元に残った焼酎を最後の一滴まで飲み干すと、ドサリと座椅子に背中を預けた。その顔には、完全なる「充足」が浮かんでいた。「……満足したか、独歩」勇次郎の問いに、独歩は満面の笑みで答えた。「ああ、これ以上の御馳走は、生涯そうそうお目にかかれんねェ。勇次郎さん、今日は本当に、ごちそうさんだった」独歩は、ポンと自分の腹を叩いた。その仕草は、やはり近所の気のいい親父のそれだ。勇次郎は立ち上がった。その巨体が、部屋の明かりを遮り、巨大な影を落とす。「帰るぞ。独歩、貴様はもう少し、その五体を長持ちさせろ。俺が、その『武』を完全に噛み砕く、その日までな」独歩は胡坐をかいたまま、その勇次郎の背中を見上げた。「ハハハ、そいつはうかうか死ねんねェ。精々、摂生して、あんたの暇つぶし相手を務めさせてもらうよ」勇次郎は、振り返ることなく、部屋の襖を開けて去っていった。その歩みは、足音が一切しない、完全なる無音。地響きを鳴らすような巨体でありながら、その動きは陽炎のように静かであった。残された独歩は、しばらくの間、空になった網を見つめていた。そして、無意識のうちに、自らの右拳を、静かに握り締めた。グ、と。肉を喰らい、血の巡りが極限まで高まった彼の拳は、先ほどよりも明らかに、その硬度と密度を増していた。「……さて、明日からの稽古が、また楽しくなりそうだねェ」独歩は独りごちると、残ったビールをゆっくりと飲み干した。赤坂の夜は、まだ始まったばかりであった。

だが――。この夜、奇妙な現象が、赤坂の地下深くで観測されていた。気象庁の精密地震計が、二人が店を去ったのとほぼ同時刻、局所的な「微振動」を記録していたのである。震源地は、二人が食事をしていたまさにその座敷の直下、深さ数十メートル。断層のズレではない。マグニチュードでは測定不能の、あまりにも純度の高い「エネルギーの残滓」。それは、地球のプレートすらも狂わせる二つの「個」が、ただ飯を喰い、ただ呼吸をしただけで残していった、文字通りの『爪痕』であった。生物が喰らうのではない。世界が、彼らに喰らわれているのだ。その事実を証明するかのように、翌朝、その個室の畳は、二人が座っていた場所だけが、まるで数十年もの歳月が流れたかのように真っ白に、完全に灰化していたという。現代科学がどれほど進歩しようとも、この地上には未だ、解明不可能な領域が存在する。超高熱のプラズマか、あるいは地殻の変動か。否。生物学者・柳瀬博士は、後に提出された極秘レポートの末尾に、震える手でこう書き残している。「……我々は『美味』という現象を、過小評価していたのかもしれない。真に強大な生命体が、真に極上の栄養を細胞レベルで完全に肯定したとき、その肉体から放出される熱量(エネルギー)は、理論上、局所的な空間そのものを変質させ得る。彼らが喰らったのは牛の肉ではない。彼らはあの夜、赤坂の時空そのものを『美味しく』咀嚼していたのだ」信じがたいハッタリ。しかし、現に灰と化した畳の上には、焦げ跡すらなく、ただただ神聖なまでの純白が広がっていた。世界は広い。我々の知る「食事」など、彼らの領域においては、ほんの手遊びに過ぎないのかもしれない。生命活動の根源たる「摂食」。その極限がもたらす物理的変質は、なにもミクロの細胞内だけに留まるものではない。数日後、その焼肉店からほど近い赤坂の交差点において、奇妙な都市伝説が囁かれ始めた。深夜二時を回る頃、特定の信号待ちの瞬間にだけ、通りに濃厚な「最上級の肉香」が漂うというのだ。排気ガスでも、夜食の残り香でもない。嗅いだ者の脳髄を、一瞬で飢餓の狂気へと叩き落す、圧倒的なまでに純化された脂の芳香。その匂いに触れた瞬間、深夜の赤坂を歩いていた一流企業のサラリーマンや、深夜労働帰りの肉体労働者、路地裏に身を潜める浮浪者に至るまで、全ての者が一様に、奇妙な行動をとり始めた。一人がピクリと耳の裏の筋肉を動かす。次の瞬間、まるで集団催眠にでもかかったかのように、誰もが存在しない「何か」を求めて虚空を睨みつけ、ごくり、と喉を鳴らした。「肉だ……最高の、肉が、そこにある……」ある者は自らの手を、肉塊と錯覚したかのように激しく噛みちぎろうとし、またある者は、アスファルトの上に這いつくばって、ただ大気中に漂う「美味の粒子」を必死に貪ろうと貪欲に顎を動かす。精神医学的な集団ヒステリー? あるいは未知の神経ガスの散布? 一蹴ッッッ!!! 彼らの脳は、ただ純粋に、あの夜の二人の漢が放出した「極限の美味の記憶」に、細胞レベルで拉致(ジャック)されていたのだ。一度は彼らの口腔に破壊され、その圧倒的な生命の熱量によって時空へと焼き付けられた「美味」の記憶が、赤坂の街を今も静かに、そして暴力的に侵食し続けている。漢(おとこ)が喰らう。ただそれだけの行為が、都市の生態系(システム)を、そして人間の精神の根底を永劫に書き換えてしまう。その事実に気づく者など、この喧騒の中に一人として存在し得ない。それもまた――必然。だが、物語はここで終わらない。さらに奇妙な報告が、数か月後、ある国際的な「分子生物学・味覚認知研究所」の年次報告書に匿名で掲載された。赤坂のその交差点周辺で採取された大気の成分から、既存のどの有機化合物にも該当しない、極めて特異な「炭素・窒素・水素の超高密度結合体」が検出されたというのだ。その構造は、加熱された牛肉の旨味成分が、大気中の窒素と分子レベルで「融合」し、そのまま固定化されたかのような歪な形状。専門家は言う。「これは自然界では絶対に発生し得ない。まるで……超高圧の爆縮によって、味の記憶そのものが空間の原子配列を無理やり組み替えてしまったかのような……」科学が突き止めた、あまりにも馬鹿げた、しかし冷徹な事実。彼らの『美味』の肯定は、単なる熱量を超え、大気の構造すらも物質的にリライトしていたのだ。我々が呼吸しているこの空気すらも、あるいはすでに、あの夜の『ごちそう』の一部に変貌を遂げているのかもしれない。世界を喰らう。その言葉の真意を理解する者は、この星にただ二人しかいないのだから。そして、その不可解な現象の波紋は、さらに生々しい形で「現場」へと還元される。あの夜、二人が座していた座敷。灰化し、純白の虚無と化した畳のその中心。数日後、店長・佐藤が恐る恐るその部屋の清掃に入った際、彼はある「物質」を発見し、そのままその場に卒倒したという。灰の真ん中に、ぽつんと残されていたもの。それは、二人が激しい牽制の末に、結局どちらも箸をつけぬまま、網の上で炭化を通り越して「未知の結晶」へと変貌を遂げた、あのシャトーブリアンの成れの果てであった。高熱によって有機物は全て揮発したはずである。結晶――? 否、そんな生ぬるい硝子細工ではない。二人の巨頭が放った「欲」と「闘気」ッッ! その狂気的なエネルギーが、網の上のコンマ数ミリという極小のセクターに、数万気圧の超高圧を強制した結果だ。炭化すら嫌われ、大気の分子ごと圧着されたそれは……ただの『肉の塊』。しかし、地球上で最も硬く、最も濃厚な、オーガと武神の「喰い残し」であった。佐藤は、後にその結晶を家宝として極秘裏に保管したが、その部屋からは、何年経っても、どれほど換気をしようとも、あの焦げた肉の香ばしい匂いだけが、決して消えることはなかったという。大気が、畳が、そして人間の脳が、あの夜の食事を今なお咀嚼し続けている。彼らが箸を動かす。彼らが顎を鳴らす。その極小の日常こそが、我々の住まうこの平穏な世界の均衡を、内側からじわじわと溶解させていく最も凶悪な「暴力」であることに、人類が気づく日は――来ない。

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